ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

決意から行動へ

2023-08-21 08:02:53 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「目的は何か」8月16日
 『平和学習「困難」7割 小学校アンケート』という見出しの記事が掲載されました。『戦争体験者の講話を聞いたり、地域の戦跡を巡ったりする学校での「平和学習」について、毎日新聞が全国47都道府県の小学校130校にアンケートしたところ、担当教諭の約7割が「困難に感じる」と回答した』という結果を報じ、「平和学習」の在り方について論じる記事です。
 私はこのブログで、我が国の伝統的な平和教育について、批判してきました。毎年8月になると、平和教育についての記事が増えるため、私がブログで取り上げる回数も増えていきます。今年もまた…、という思いもしますが、やはり取り上げざるを得ません。
 まず最初に感じた疑問は、上記の『戦争体験者の講話を聞いたり、地域の戦跡を巡ったりする学校での「平和学習」』という記述についてです。もし、「平和学習」の定義がこのようなものであるならば、そもそも「平和学習」を全国の小学校で行うことは不可能です。子供が歩いて行ける範囲に学びを成立させるだけの情報を引き出すことができる戦跡がある地域はそう多くはありませんし、体験者についても、80代後半で記憶が鮮明で子供相手に語れる方はめったにいません。「平和学習」をこう定義すること自体、「平和学習」の衰退につながる行為だと考えます。
 記事の中で、広島大大学院教授草原和博氏が、『戦争体験者の聞き取りという授業にこだわってきたことの限界があらわになっている』と語っていらっしゃいますが、その通りです。草原氏が『既にある資料館の展示物や漫画などを使って~』とおっしゃっているように、新たなアプローチを考えるべきでしょう。
  また、『困難な理由はこのほか、「自分自身が戦争体験者でないため、子供に聞かれて答えるのが難しい」(32人)、「郷土の戦火や原爆に関する知識が乏しい」(31人)が多かった』という記述にも落胆させられました。自分が経験したことしか教えられないというのであれば、歴史の99%は教えられないことになってしまいます。我が国の産業についても、教員の大部分は、農業・漁業・林業を経験したことがないはずです。やったことがないから教えられないというつもりなのでしょうか。こうした回答は、教員の授業を構築する能力不足を露呈しているだけです。
 少し角度は違うのですが、上述の草原氏が、授業時間の確保についてコメントしている内容についても、強い違和感を覚えました。草原氏は、『仮に平和学習を学習指導要領に組み入れてしまえば、一定の授業時間は確保されるだろう。一方で、それは国家の統制下に入ることになり、教育内容への鑑賞が厳しくなる。明記がなく定義がグレーゾーンにあるがゆえにできていたことが、明確に位置付けられてしまうと、自立的にできなくなる恐れがある』と述べていらっしゃいます。
 国家性悪説とでもいうような主張です。確かにそうした危惧がまったくないとは言い切れません。しかし、授業時間数確保というメリットがある以上、学習指導要領の内容についての議論を仕掛け、世論を味方に歴史修正主義的な主張を論破するくらいの気概をもつべきだと考えるのは、楽観的過ぎるでしょうか。私には、草原氏の姿勢は、初めから敗北主義に陥っているように思えてなりません。国民の理性を信じてもよいのではないでしょうか。
 最後に、毎年の繰り返しになりますが、「平和学習」の狙いは何なのか、という問題です。戦争の痛みを知る、それはそれで理解できます。それが最終目的でよいのか、ということです。
 私は、「平和学習」にしろ、「平和教育」にしろ、最終的な目的は、一人一人の子供に、我が国が再び戦争の悲劇に直面することがないように戦争を防ぐために具体的に行動する能力と意欲をもたせること、であるべきだと考えています。
 そのためには、どのような経緯で戦争への道を歩み始めたのか、戦争への道のどの時点で、どういう行動をとれば戦争に突入することを防げたのか、一人一人は平和を望んでいるはずなのに、平和を望む国民の集合体である民主主義国家が戦争をしてしまうメカニズムはどのようなものか、などの視点で、過去100年間の世界で起こった戦争を分析し、考えて議論する、そんな学習こそが平和学習、平和教育という名にふさわしいと考えます。
 「過ちは繰り返しません」と決意するだけではなく、過ちを繰り返さないための具体的なノウハウを学ばせる、そんな発想の転換が必要だと考えます。

 

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喧嘩するほど仲がいい

2023-08-20 08:58:01 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「お国柄」8月14日
 勝田友巳氏が、『文化に依存 表現の許容範囲』という表題でコラムを書かれていました。その中に米国映画インディ・ジョーンズのある場面の描写についての記述がありました。『インディは爆発寸前の核実験場に迷い込み、冷蔵庫に隠れて核爆発を生き延びる。爆心地近くでキノコ雲を見上げて一息つき、救助後に全身を洗浄されて事なきを得た。そんなバカな』。
 日本映画では考えられないシーンです。核に絶対反対の立場であろうが、中国や北朝鮮の核に対抗するためには核武装も考えるべきという立場であろうが、こうしたシーンを描こうとする日本人は皆無に近いでしょう。放射能の恐ろしさを、平和教育や原爆報道などで、たたき込まれていますから。
 米国では受け入れられ、我が国では受け入れられない、それが「文化」の違いだというわけです。勝田氏は公平を期すためか、我が国の映画の描写についても触れています。「亜人」です。『亜人の一人が、旅客機を乗っ取ってビルに突入する。その場面、まさに9・11テロの再現だった』。これも、日本人は気にしないが、米国人にとっては不快なシーンでしょう。
 世界には様々な国があり、民族があり、歴史と文化をもっている、当たり前のことですが、つい忘れてしまいがちです。国連のウクライナ侵攻非難決議、私から見れば反対や棄権はあり得ないと思うのですが、ロシアを支持する国は少なくありません。欧米に植民地にされたアフリカの国々の間では、欧米に対して「俺たちの国を侵略し、搾取したお前たちが偉そうに何を言っているんだ」という反感の声の方が高いと言われています。世界は、私たちのような感覚や価値観で動いているのではないということを知っておく必要があります。
 そうした、私たちにとって「不快な現実」をしることこそ、真の国際理解であり、国際協調なのです。我が国の国際理解教育では、その点が欠けています。もちろん、小学校の低学年の子供に、「○○国の人は、日本人が嫌いな人が多いんだよ」と教える必要はありません。
 以前、英語教育について触れたときに述べたように、小学校段階では、興味・関心をもつことが重要になります。世界にはいろいろな国があり、様々な人が住んで、日本とは違う生活や文化をもっている、という事実を発見させ、もっと知りたいという意欲をもたせればよいのです。
 でも、中高ではもっと掘り下げる必要があります。戦争、核、宗教、ジェンダー、人権など、一つのテーマを絞って深掘りし、リモートで議論するような学びが必要だと思うのです。IT環境の拡充がそれを可能にしています。みんな仲良くではなく、ぶつかり、非難し合い、その果てに理解が芽生える、そんな国際理解教育が求められているのではないでしょうか。

 

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常識は一つではない

2023-08-19 08:21:08 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「もっと知ろう」8月10日
 『ヘルシンキ大講師・朴沙羅さんが感じた戦争 みんなの国家、だから「守る」』という見出しの特集記事が掲載されました。とても興味深い内容でした。フィンランド在住、京都生まれの社会学者朴沙羅氏へのインタビュー記事です。朴氏は、『父は在日コリアン2世で、教員をしながら民族運動に関わった(略)日本人の母は学生時代からさまざまな運動に参加し、母方の祖父母は反戦活動家』という「左派」な環境で育った方です。
 朴氏は、『「国家権力は民衆を抑圧する」「あらゆる戦争を拒否すべきだ」が常識の環境で育った』と自らについて述べていらっしゃいます。そんな朴氏ですが、『フィンランドで考え方が変わりました。特に国家と戦争について』とおっしゃっています。
 朴氏曰く、フィンランドは、『第二次大戦期に「旧ソ連と戦い、自分たちで国を守った」が国民的誇りだ。徴兵制は当然視され、軍事への忌避感も薄い。以前見た軍事博物館の展示は「戦争は悪」との前提が皆無で衝撃を受けた』と。
 そして、『国家との関係がシンプルですよね。国家はみんなのためのもの。だから誰もが積極的に参画し、みんなで防衛する』と述べ、『マイノリティーの権利擁護も軍事も、等しく人々の大切な安全保障』という見方を示されています。さらに、『日本で生まれ育った私は、身近に戦争が起きることを、心底は想像できていませんでした。でも、起きた。今後もその可能性があるなら、どうするか考えておくべきです』と述べてもいます。
 述懐はさらに続きます。『私も、以前は戦争全般と侵略戦争をちゃんと区別できていなかった』『ウクライナのような、侵略に対する軍事的抵抗は否定できない』と。また、『フィンランド人に「日本では修学旅行で広島や長崎に行き、原爆の恐ろしさを習う」と話し仰天された。「そんなショックを子どもに与えるの」と』という体験も話されています。
 朴氏がフィンランドで見聞したことは、全て我が国の学校教育と反対のことばかりです。日本=原爆の悲惨さを教える、フィンランド=子供にショックは与えない。日本=戦争は悪、フィンランド=侵略戦争と抵抗のための戦争は違う。日本=我が国はアジアを侵略した、フィンランド=ソ連と戦い国を守った。
 中国や北朝鮮、ロシアなどの専制国家、アフガニスタンやシリア、イランのような人権抑圧国家、こうした国が核兵器を持とうが、近隣国に軍事行動を仕掛けようが、私は驚きません。あいつらはそんな奴らさ、という感じです。しかし、フィンランドは、マイノリティーの人権が尊重され、民主主義が根付いた「ちゃんとした国」というのが私たちの多くの認識ではないでしょうか。そうした「ちゃんとした国」において、戦争は悪でもなく、軍事が肯定されているということに驚くのです。それも、歴史修正主義者とか極右とか言われる人たちではない、良識的な一般の人が、ということに。
 どちらが正しいかという問いは無意味です。ただ、世界の常識というものについて知る必要があります。世界の常識を鏡として、我が国の「戦争」と「軍事」を考えることが必要だからです。
 我が国の平和・反戦教育に、世界の民主主義の国の戦争観を学ぶ、という内容を加えることを提案します。

 

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「好き」の推移

2023-08-18 08:25:28 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「英語だけ?」8月10日
 『子どもの英語教育 「好き」広げる環境作りを』というタイトルの社説が掲載されました。全国学力テスト中3英語の『「聞く、読む、書く、話す」の4技能のうち、とりわけ平均正答率が低かったのは「話す」で、12.4%にとどまった。6割超の生徒が一問も正答できなかった』という結果に注目し、その原因について、『英語が好きな生徒の正答率は「話す」を含めて高い。そうすれば子どもが英語嫌いにならないのかを考える必要がある』と述べているものです。
 お粗末な分析です。好きな生徒はできる、できるから好きになる、どちらが結果で原因かは定かではありませんが、当然のことです。したり顔で言うようなことではありません。しかし、私が言いたいのは別のことです。
 なぜ、英語、それも「話す」の技能についてだけ取り上げて、『「好き」を広げる』などと言うのかということです。社説では、『「英語の勉強が好き」は中3は約半数にとどまり、国語や数学よりも少なかった。小6では約7割が好きと答えており、文法学習などが本格化する中学で嫌いになる例が多いことを示している』と述べられています。
 こうした傾向は英語だけのものではありません。小中高と進むにつれ、教科の学習を嫌いだと回答する者が多くなるのは、どの教科に置いても見られる傾向です。私はこのことについて2つの問題意識をもっています。まず、小学校における教科指導の役割です。私が専門としてきた社会科で言うと、例えば6年生の歴史的な内容について言うと、一番重要なことは、我が国の歴史に興味・関心をもたせ、学ぼうとする意欲を掻き立てることだと言われています。
 私は教員時代に、全歴研という研究団体で、小中高の連携についての研究発表に携わったことがあります。そのとき、高校の歴史教員から、「小学校の社会科の教科書の記述は、最新の歴史研究の成果を十分に反映していない」という趣旨の批判をされたことがあります。おそらく正しい指摘だったのだろうと思います。私はその指摘に対し、「小学校の歴史の授業は、歴史って面白い、歴史の勉強が好き、もっと歴史のことを知りたい、という気持ちにさせ、中学校での歴史の授業に期待をもって臨ませることを使命としています。もちろん、歴史的な事実は正確であることが望ましいですが、そのことよりも学ぶ楽しさ、発見する楽しさを重視しています」という趣旨の反論をしたものです。
 社会科に限らず、小学校の授業は、学ぶことへの基本的な姿勢を形作ることに主眼を置くべきだと考えています。ですから、まともな教員が授業をしているのであれば、小学校での英語の授業は楽しいと答える子供が多いのは当たり前で、正常なことなのです。中学校で嫌いが増えるということを「過剰」に問題視することは必要ありません。
 もう一つは、中学校では、小学校で培った学びへの興味・関心を追い風に、必要な知識と技能を定着させることを使命とすべきということです。おかしな例えですが、それ自体は推進力をもたないグライダーが、風に乗ってしばらくの間飛んでいるイメージです。
 小学校の教員は英語を好きにさせ、中学校の教員はその「好き」が継続しているうちに必要な知識や技能を獲得させる、そうした分業が現実的なのです。もう少し言えば、小学校では全員をある程度「好き」にさせ、中学校では、平均的な「好き」の水準は下がるけれど、何割かの生徒は、英語の神髄に触れた上での「好き」に好きの質が深化する、ということでもあります。
 その先の高校では、選択肢が分かれ、深化した「好き」の生徒は、英語の特化したコースや課程を選択し、英語使いとして活躍する道を進み、外交官や通訳、諸外国企業と渡り合うビジネスマン、外国の研究機関と共同研究する研究者として活動する、という形こそが我が国が目指す英語立国の姿だと考えます。その他は、アプリの翻訳機能を使い、買い物ができればそれで満足しましょう。

 

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権威に頼らず

2023-08-17 08:23:32 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「何をもって指導するのか」8月9日
 『論点欄』のテーマは、『「有害図書」規制』でした。今回は「上」ということで漫画家2氏が論じていました。私は有害図書の規制については、深く考えたことがなく、時論を展開するだけの知見はありません。ただ、マンガ家里中満智子氏が語られていることがとても気になりました。
 里中氏は、『読者の親からよく言われたのは「子供に見せたくないから、お上に取り締まったもらわないと困る」ということだ。「こういう漫画は読んでほしくない」と子供に直接言うことができない親が多かった。親が注意できないから漫画を取り締まってもらいたい、という親子関係はどうなのか』とおっしゃられています。
 確かにこういう保護者は少なくありません。しかし、同じような教員や校長も少なくないのではないか、と考えたのです。「校則に決められてないと、子供の注意できないから、校則に明記してほしい」という教員がいます。自分の考えや価値観、人生観をもち、それに基づいて子供と向き合って話す、そんな教員としての基本的なことができないと公言出来てしまう教員、問題でしょう。
 また、教員から「何で卒業式で君が代を歌わなければならないのですか」と訊かれ、自分では応えることができず、「教委として公式見解を示してほしい」と要求してくる校長、これも同じ仲間ではないでしょうか。
 いずれも、自分で考え、相手の反論を受け止め、自分の言葉で再度語りかける、ということを避け、外部の「権威」に頼り、それを振りかざすことで相手を屈服させることが「指導」だと思い込んでいるのです。そこには、保護者として、教員として、校長としての矜持はありません。
 日頃から、様々な場面を想定し、自分ならどうするだろう、このことについて自分はどう考えているのだろう、と自問自答を繰り返し、自分の考えを確立しておくという取り組みを放棄しているとしか考えられません。
 考えたけれども、自分でも分からない、というのであればそれでもよいのです。私的な立場である保護者とは違い、教員や校長には公的な立場という制約があり、最終的には「お上」の言うことに従って説得しなければならないという場面もあるでしょう。それも仕方がありません。
 ただ、面倒臭いから「お上」に依存する、というのでは、子供からの信頼を得ることも、良好な関係を築くこともできません。当然、保護者として、教員として、校長としての責任を果たすこともできません。「権威」に頼らず、自分で考える、こうした習慣は教員にとって不可欠です。私がこのブログを書き続けているのも教員時代からのそんな習慣が今も抜けないからかもしれません。自分なりも「考えメモ」を作るのもよい方法だと思います。

 

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敬意が無ければ

2023-08-16 09:06:29 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「お互い様」8月9日
 『暴言の副区長辞職へ』という見出しの記事が掲載されました。『渋谷区の沢田伸・副区長が、区幹部らが閲覧できる職場のチャットで、国民民主党の桑水流弓紀子区議に対して暴言を書き込んでいた問題で、区は8日、沢田副区長の辞職願を受理した』ことを報じる記事です。
 なお、暴言の内容は、『桑ブタ』『(桑水流区議は)早めに封じておかないとね』などであり、その他にも『桑水流区議の所属する区民環境委員会について「ばかのあつまりになってますな」』とも書きこんでいたそうです。
 辞職は当然、本来ならば免職処分にすべきところです。区は、『再発防止策として全職員に情報モラルの指導を行っていく』そうですが、まったく的外れの対策です。そうした指導で、同じような書き込み事件はなくなるかもしれませんが、それは表面的な解決に過ぎません。
 敢えて言ってしまいますが、行政の職員は、その職員が優秀であればあるほど、議員に対して「このバカ!」という思いを抱きがちなものなのです。それは、国か都道府県か区市町村かといった規模を問わず、同じです。
 私は指導室長として、都教委の研修センターから小さな市の教委に赴任しました。それまでに、指導主事として、100校以上を訪問し、その学校の管理職と懇談し、数百の授業を見、優秀な教員、問題を起こした教員とも面談をしてきました。文科省の説明会に参加したり、都教委の事業に委員として参加したこともありました。私は、学校教育のプロである、という自負をもっていました。
 一方、市議会議員の皆さんは、その議員活動の中で、様々な問題について、陳情を受けたり、党本部からの指示を受けたり、友党と連携役割分担したりしながら、質問や提案といった活動をなさっています。私のような行政側が狭く深く知見を広げているとすれば、議員の方々は、広いが浅いのです。
 ですから、議員が質問したり、要求したりすることの中には、「もっと勉強してよ。それは制度によって市ではできないことになってるの」とか、「質問の前提が間違ってるのに。よくそんな間違いを堂々と口にできるな」などということが少なくないのです。ですから、議会の最中、関係者の控室では、「○○先生。またこの話だよ。よく飽きないね」「それは○○省の局長通知で禁止されているの。前の定例会でもそう言ったはずなのに」というような会話がなされているのです。
 今回の沢田氏の暴言は、そうした内輪の会話が表面化したに過ぎないのです。しかし、行政職員が議員の無知を軽蔑するのは間違いなのです。選挙目当てという側面もあるでしょうが、多くの市民と接しその声を聞き、党などの組織を通じて他地域や省庁の動向を耳にしている議員の方々は、行政職員にはない視点をもっているのです。そこに敬意を払い、お互いの長所を生かし合う、欠点を補い合う関係を作ってこそ、地方の行政は充実していくのです。
 地方教育行政は、議員との良きパートナーシップなしには、実り多いものにはならないのです。

 

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期待外れ

2023-08-15 07:34:02 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「我が身に置き換えて」8月9日
 『日大 不可解説明に終始』『日大 違法薬物、確証なく 通報遅れ 隠蔽否定』という2つの記事が掲載されました。社会面トップとスポーツ面です。いずれも『日本大学アメリカンフットボール部員が覚醒剤取締法違反と大麻取締法違反の疑いで逮捕されたことを受け、日大の林真理子理事長らが8日、東京都内で記者会見』を開いたことを報じる記事です。林真理子新理事長によって体質転換が図られたのかと思っていただけに、期待外れの残念な内容でした。
 教育組織の長として考えさせられることの多い内容でしたので、いくつかの点を取り上げてみたいと思います。まず、林氏の『遠慮があった。私はスポーツの組織が分からないし、そちらに手が付けられなかった』『文系の方々とは、親しくお話しできても、スポーツ関係の方々とは距離を置く。そういう私の心理が影響している』という発言です。
 リーダーとして決して口にしてはいけないことです。誰しも得意分野と苦手な分野があります。私が指導室長になったときにもそれはありました。小学校と中学校では、小学校の方が詳しかったですし、英語やIT関係には疎く、人権問題や歴史問題ではそれなりの経験を積んできた自負がありました。
 私は部下の英語とITについては詳しい指導主事に任せる一方、こまめに報告を求めると同時に、初歩的なことも「少し教えてくれる?」と積極的に声を掛けて、訊くようにしていました。苦手は苦手で仕方がありません。ただ、部下に「室長は素人だけど、この分野にも関心は持ってくれているみたいだ」と思わせることが重要なのです。
 また、得意不得意、相性の問題ということを除外しても、この発言は問題でした。それは、逃げの姿勢を印象付けてしまうからです。そもそも日大にとってアメフト部は、問題の発生現場であり、一番の修羅場であるはずです。その対応を期待されて理事長に就任したにもかかわらず、困難な現場から逃げている、やる気も責任感もないリーダーだと思われてしまっても仕方がありません。
 例えば、教委の管轄下に、いじめ自殺問題でメディアに叩かれ、保護者の不信が渦巻き、生徒間でも人間関係がぎくしゃくしている学校があったとします。新たに着任した指導室長は真っ先にその学校を訪問し、校長や副校長と話し合い、職員の声を聞き、生徒の様子を直接見て実情を把握するはずです。そして、一定の落ち着きが見られるまで、様々なかかわりをもち続けるのです。
 もし、大変そうな学校だから君たちよろしくね、と部下の指導主事に言い、自分は近づかないようにしている室長がいたとしたら、誰からも信頼されません。そんな簡単な理屈がどうして分からなかったのでしょう。
  次は沢田副学長の『我々は捜査機関ではなく、教育機関だから学生に対する配慮が必要。自首させたいと考えた』という答弁です。私も、室長時代に教員の不祥事などの際、この「(教委は)捜査機関ではない」ということを常に意識していました。ただしそれは、沢田氏が使ったニュアンスとは違います。捜査機関ではないから=捜査する能力が乏しいからこそ、捜査の専門家である警察に委ね、連携して情報を得ることが大切だということです。
 警察に連絡することは、大切な教え子を売る行為ではありません。もし、その学生が本当に大麻取締法に違反する行為をしていたのであれば、正しい裁きを受けることは更生に不可欠なことですし、違反行為をしていないとすれば、そのことを権威ある捜査機関である警察の証明してもらうことは、その学生を守ることにつながるからです。真偽が曖昧なまま見過ごせば、「アイツ、学生時代大麻やってたんだぜ」というような噂がついて回り、本人の人生を傷つけることになってしまうのですから。
 最後は、『林理事長も会見中、一貫して「隠蔽と言われることは遺憾」』と発言していたことについてです。隠蔽かどうか、それは本人が決めることが出来るわけではありません。あくまで、第三者が様々な状況から判断するものです。組織を管理するトップは、常に外部の目を意識することが必要です。自分たちはこう考えているという判断とは別に、この状況を外部の人はどう判断するだろうか、という視点で自分たちの言動、組織の在り方を見つめる習慣を身につけなくてはなりません。
 学長や副学長の心の中は、林氏にも分からなかったはずです。当然です。ただ、学長はこう言っているけど、世間の人はどう感じるだろう、と考える習慣が身に付いていれば、こんなみっともない会見にはならなかったはずです。

 

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講話をさせれば分る

2023-08-14 07:53:29 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教えてみると分かる」8月7日
 『防衛大・等松春夫教授の告発 優秀な者ほど辞めていく』という見出しの記事が掲載されました。『集英社オンライン上で論考「危機に瀕する防衛大学校の教育」を公表』した等松氏へのインタビュー記事です。
 その中に次のような記述がありました。『教官40人のうち専任は10人で、残り30人は自衛隊のローテーション人事で制服自衛官が務めます。優秀で熱心な教官もいますが、そうでない人も少なくない。防衛学は本来、科学的に安全保障や軍事を考える学問です。でも実際は、例えば、「リーダーシップ教育」と称して旧日本軍の将軍や提督を持ち出し、彼らがどう部下を統率したか、あるいはいかに勇敢に戦って玉砕したか、といった精神論のような話を聞かせるものもあります』。
 ひどいですね。無責任な歴史小説のような内容を話してお茶を濁すなんて、専門家としての見識が疑われます。私はこの記事を読んで、20年前のあることを思い出しました。当時私が指導室長として勤務していた市は、市内にある大学と協定を結び、教員志望者を対象に、市内の公立小中学校の管理職が、現場感覚を生かして教育課題について講義するという事業を行っていました。似ていますよね。制服自衛官が防大生を指導するのと。
 当初、私は、良い試みだと考えていました。しかし、年度途中で行われた大学関係者との懇談では、学生から不評だと聞かされたのです。その理由を訊いてみると、とにかくつまらないというのです。
 大学側の担当者の「推測」では、講師役を務める校長や副校長は、都教委や市教委の公式見解とは異なることを話して注意や指導を受けることを恐れており、その結果、公式的なことしか話さないというのです。中には、都教委や市教委の掲げる教育目標を延々と読み上げる副校長や校長研修の内容をそのまま伝達する校長などもいるということでした。
 私としては、校長らに対し、強くプレッシャーを与えているという自覚はなかっただけに、唖然とすると同時に、反省もしました。しかし、それ以上に感じたのは、多くの校長や副校長は、自分の問題意識と現状分析に基づいて、自分の言葉で90分間話をするだけの知見や能力がなかったのではないかということでした。
 酷な言い方をすれば、日々の業務、教委や保護者・市民への対応、学校事務、教員への助言や相談、事故やトラブルへの対応、諸会議への出席、校長会・副校長会・都や市の教育研究会の事務などに追われ、自分なりの勉強や研究をする余裕がなく、「忙しい、大変だ」という愚痴をこぼすだけで、教育者としての自己研鑽が疎かになってしまわざるを得ないのが現状だということです。
 もちろん、全ての管理職がそうだというわけではありませんが、何割かは、そうした状況に危機感を抱きながらも、多忙さを言い訳に流されていってしまいつつある者がいたというのは争えない事実だと思ったのです。
 校長や副校長は、大学の教育学者ではありません。マクロな視点で、我が国の教育行政について語る必要もありません。ただ、最も子供に密着し、教員や保護者の悩みにも対応し、学校現場を体感で知る者として、自分なりの問題意識と処方箋をもつことは、我が国の学校教育の実践的な改革のために必須なことだと思います。
 もちろん、教育行政側が、その見識を吸い上げ生かす姿勢をもつことが前提になりますが。今はどうなのでしょうか。

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贅沢は敵、ではないけれど

2023-08-13 08:56:12 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「そうなのかなぁ」8月7日
 『広がる子供の「体験格差」』という見出しの記事が掲載されました。『近年、保護者の経済力によって子供の学校外での体験活動に差が生じてしまうことが問題視され始めている』という問題意識の下で書かれた記事です。
 記事によると、『世帯年収300万円未満の家庭にいる子供の3人に1人が直近1年を通じ、「習い事」「旅行」「動物園・博物館へ訪問など」といった学校外の体験活動をしていなかったことが判明した』そうで、『貧困の世代間連鎖や再生産をなくす意味でも、子供の体験機会を支えることは重要』という「専門家」の見解が示されています。
 また、文科省の調査においても、『小学生の頃に自然・社会・文化体験をする機会が多いと、高校生になって自尊感情や外向性などに良い影響を及ぼしていることが分かっている』という結果が出ていることの報告もありました。そして、子供の「体験格差」をなくすために、公的支援を拡充させていくことの必要性が強調され、それにもかかわらずその合意が得られていない現状を憂える内容となっています。
 記事の中で最も印象に残っているのは、『子供の体験は果たして「贅沢品」なのか』という問いかけの言葉でした。正直に言って現時点では、私の中では、「贅沢品」なのです。
 贅沢品ではなく、必需品だとした場合、様々な問題が生じます。どの体験が必需品なのか。英語塾に通うことは必需品だとして、英語圏の国に短期留学するのは必需品なのか贅沢品なのか、その線引きはどのようにするのか、限られた予算の中、議論は紛糾するでしょう。支援は、世帯年収何万円以下を基準にするのか、裕福な家庭の子供にも支援するのか、この線引きも紛糾しそうです。政策の効果の検証はどのように行うのでしょうか。多額の予算を投入しその効果は不明です、というのでは問題です。
 しかし、そうした「些末」な問題は、実はどうでもいいのです。私がこだわるのは、「体験格差」に限らず、そもそも「~格差」はあってはならないもの、全てを均一にしなければならないものなのか、という根本的な問題です。
 私の家は、私が生まれた時点で、祖父は寝たきり、叔母はまだ高校生、両親と姉、祖母の7人が父親の稼ぎで暮らすという貧乏世帯でした。2歳のときに祖父が亡くなり、小1のときに叔母が嫁ぎ、祖母と母が内職をするようになり、経済的には少し好転しましたが、貧しい方でした。
 自転車を買うことができなかったので、みんなで少し遠くに遊びに行くとき、友達は自転車で、私はその後を走ってついて行く、というのが常態でした。台風が来ると、板塀を紐で縁側に括り付け飛ばされないようにしました。翌日の朝、友達が「○○の家、ボロボロ。風に飛ばされなくなるぞ」と言ってからかいながら登校していきました。風邪をひいて初めて学校を休んだ日、担任のN先生が心配して見舞いに来てくれましたが、破れたパジャマを捨てずに着ていて、上下が異なるパジャマで寝ていた私は、出ていきませんでした。母が恥ずかしがったのです。
 私は、家が豊かでないことを感じていましたが、それを恥ずかしいことだとは思っていませんでした。一度もひもじい思いをしたことはなく、両親には感謝していました。父も母も真面目に一生懸命に働いているので、立派な人だと思っていました。N先生が見舞いに来てくれたときも、先生に会えなかったことよりも、母が切ない思いをしているだろうなと感じ、「お母さんを更に切なくさせるようなことはしてはいけない」と思いました。ケーキやお寿司を食べたいとは思いましたが、食べられないからといって、一時的に友人を羨ましく思ったことはありましたが、すぐ忘れました。両親を不甲斐ないと思ったりしたこともありませんでした。ある程度(どの程度なのかが難しいのですが)の格差は現実として受容し、その中で精一杯前向きに努力する、そんな姿勢が尊いものだと思います。
 子供が放置され、ガリガリにやせてしまうような貧困は根絶しなければなりません。でも、どんな手立てを講じても、「格差」はゼロにはなりません。あくまでもゼロを求めていけば、未来永劫実現されない格差ゼロを理想とし、現状に不満を抱き、他者や社会にその不満を転化させ、攻撃的な子供を多く生み出す結果に陥ってしまうような気がしてならないのです。
 まだ「必需品」が手に入らず苦しんでいる子供がいます。まずはすべての子供に「必需品」をいきわたらせることに全力を尽くすべきだと思います。その上で、社会や経済の進展に伴い、少しずつ「必需品」の種類は増えていくはずですから、そうした動きに沿っていけばいいのではないでしょうか。

 

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それこそが多様性

2023-08-12 08:18:43 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「押し付けでは?」8月3日
 『リスク取って 成長の糧に』という見出しの記事が掲載されました。『伊達公子さんが「女性と社会」をテーマに、各界で活躍するプロフェッショナルと対談』するという企画です。初回は、『欧米の金融機関などビジネスの世界で活躍してきた村上由美子さん』がゲストでした。
 2人の対談には、ポジティブな言葉が再三登場します。『「あなたたちには可能性がある」と若者の背中を押していきたい』『リスクを取らないと、それに見合ったリターンしかない。要はリスクが取れない人は伸びない』『ダメだったらその時に考えたらいい』『自分の選択した道で、「ああしておけばよかった」と思うことがそれまでなかった』『自分の意思で突き進んでいるから、「ほれ見たことか」と言われないように必死になります』『保証がなくても自分がエネルギーを注ぎ込んだ先に、何か生きることがあると思えれば全然違う』などです。
 どうしても違和感をぬぐえませんでした。私は、現代は多様な価値観を認めよう、という社会だと考えています。Aという考え方も認められるべきだし、Bという価値観も尊重されるべきだということです。
 しかし、この対談では、失敗を恐れずリスクを取って挑戦するという行き方が素晴らしいという考え方が、繰り返し強調されるのです。また、それと同時に、『今の日本の若者は自信をもちにくい』『安全な道を考えるという話をよく聞きます』『今は親の言うとおりにする』など、安全志向を徹底的に否定し続けます。 
 自分の能力資質を冷静に見つめ、取り返しのつかない失敗や破綻を避け、コツコツとまじめに努力して、誰にも迷惑をかけずに、家族や大切な人を守って生きていく、そんな人生を完全否定する、それは正しいことなのか、という違和感です。
 伊達氏も村上氏も、いわゆる成功者、それも多くの人から注目を集める特別な成功者です。努力ができる、決断ができるという才能も含めて、常人を上回る才能に恵まれた人です。そして、おそらく幸運にも。その人生を、歩んでこられた道を否定するつもりは全くありません。それでもなお、彼女らのようではない人生も認めていくという姿勢こそが多様性の尊重ということなのではないでしょうか。
 我が国の発展ということを考えたとき、伊達氏や村上氏のような生き方を選択する若者が増えるのはプラスに作用すると思います。しかし、だからといってそうした生き方を選択せよとプレッシャーをかけるのは間違っています。
 少し飛躍するかもしれませんが、それは我が国の少子化対策に通ずるものがあるように思えます。若者が結婚し複数の子供を産む、それは我が国の維持発展の上では好ましいことです。だからといって、全ての若者に結婚せよ、子供をつくれ、とプレッシャーをかけるのは望ましいことではないという認識はあるはずです。未婚の自由、生まない権利は認められるべきだという認識が。
 全体の発展のために、ある価値観を全ての人に強要するというのは問題なのです。学校で行われているキャリア教育に、リスクを取って挑戦せよという発想が色濃く含まれていることに不安を覚えます。全体の利益を個人の価値観に優先させる発想ですから。

 

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