ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

自己犠牲は美談ではない

2023-08-22 09:07:36 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「それが間違い」8月17日
 読者投稿欄に、和歌山県高校教員M氏による、『生徒のために働くのが教師』と題する投稿が掲載されました。その中でM氏は、『教師に夏休みがないわけではない(略)大抵はサラリーマン並みに取れていると思う。年次有給休暇も結構あり、1日フルで取ることは少ないが、時間単位で取得している。教師は夏休みがあっていいとうらやましがられるのも困るが、休みがなくてかわいそうと同情されるのも考えもの。どんな環境であろうと、我々教師は生徒のために働くのが本意だ』と書かれています。
 昔は、教員は夏季休業日は子供と同じようにお休みと誤解され、今は教員の働きすぎが注目され同情される、という状況は指摘の通りです。誤解はもちろん問題ですし、多忙についての理解が深まるのは望ましいことですが、過剰に注目されるのは、教職志望者減などの負の影響をもたらします。これもまた、問題だということです。
 そこまではよいのです。ただ、最後の「どんな環境であろうと、我々教師は生徒のために働くのが本意だ」という記述は危険です。こうした言い方は、様々な職について使われます。「どんな環境であろうと、我々医師は患者のために働くのが本意だ」「どんな環境であろうと、我々警察官は市民の安心のために働くのが本意だ」「どんな環境であろうと、我々介護士は施設を利用する高齢者のために働くのが本意だ」等々。
 そして、こうした覚悟は美談にされ、社会はその美談を讃え、自己犠牲の精神に甘え、必要な改革の痛みを避け、問題の状況は改善されぬまま、だらだらと続いていくのです。そして、いつか臨界点を迎え、自己犠牲の美談では覆い隠すことが出来なくなって、ようやく改革が始まるのですが、そのときには既に制度疲労は手が付けられないところまで深く、回復には長い時間を要するようになってしまい、社会全体が大きなダメージを背負うことになるのです。
 我が国は特に、こうした「カエルがぬるま湯で煮えてしまう」病が横行する国民性があるようです。ですから、「どんな環境であろうと、我々教師は生徒のために働くのが本意だ」は間違いであり、「我々教員が、余裕をもって子供と接することができることこそ、教育の充実のために不可欠である」と、教員の働きすぎを強制するような現行制度の改革を求めることこそ、教員の良心であるべきなのです。
 教員を巡る労働環境の整備は、教員の自己利益のためではなく、子供のため、ひいては我が国全体のためであるという考え方をまず教員自身がもってほしいものです。 

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