快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -  ギリシャのドデカネス諸島でMw7の地震発生

2020-10-31 07:43:23 | 地震 津波
 10時間と少々前、ギリシャのドデカネス諸島でMw7の地震が発生したようです。
 EMSCデータでは次の通りです。

引用開始(一部抜粋)

https://www.emsc-csem.org/Earthquake/?filter=yes

                        Depth  Mw
2020-10-30 15:14:56.3
             37.80 N 26.80 E 5 5.2 DODECANESE ISLANDS, GREECE

2020-10-30 11:51:25.7
             37.91 N 26.84 E 10 7.0 DODECANESE ISLANDS, GREECE

引用終了

 建物の損壊、倒壊や死傷者も出ている上、津波も有ったようです。
 「ギリシャ、トルコ、地震、津波」などで検索すれば多くのデータが出て来るのでわかると思います。
 今日は満月ですから、この地震発生当時は満月の前日だったと言う事になります。
 この満月は年間最小満月でしたがどうもやはり影響が有ったのか、結果としてこの地震が発生してしました。
 やはり予測は難しいものです。
 これをどう考えれば良いか?ですが、「地殻やプレート境界部などのストレス貯まりは日々まして行くので、そのストレス発散限界点に近付いた時と、地震トリガーの大きさとのタイミング」と言う事あたりなのでしょうね。
 

仕組みとアプローチ -  黒潮大蛇行の終焉が明らかになりつつある現在の状況 そして地震との関連

2020-10-30 07:18:23 | 地震 津波
 黒潮蛇行の終焉がどうも明らかになりつつあるようです。

引用開始(一部抜粋)

http://www.jamstec.go.jp/aplinfo/kowatch/?p=10496

予測
図1は2020年10月23日の状態の推測値、図2・3は12月6日・来年1月1日の予測です。

黒潮大蛇行の期間は約3年2か月を越え、記録が確かな1960年代後半以降の史上2番目の長さの黒潮大蛇行になっていましたが(最長は1975-80年の4年8か月。「黒潮大蛇行の歴史」参照。)、大蛇行から大きく渦がちぎれ(A)、現在は大蛇行が終わっていると言える状況です(図1)。コラム「黒潮大蛇行が終わる!?」もご覧ください。

黒潮は潮岬で接岸ています(図1B)。

大蛇行からちぎれた渦が再びくっついたり、小蛇行(D)が発達して次の大きな蛇行になると、大蛇行の終了ではなく、大蛇行の一時的な中断ということになる可能性もあります。現在、小蛇行(D)は以前よりやや東に移動しています(図1)。その一部が12月にかけて通過すると潮岬の南を予測していますが(図2)、大蛇行には発達せず、残りの小蛇行(D’)は九州東に残ると予測しています(図3)。ちぎれた渦Aは遠ざかると予測しています(図1~3)。

引用終了

 と言う事で、これによる変化は多々有るかと思えます。
 一つは海水温度の分布変化や湧昇流の分布や強弱変化であり、それが海底地盤に作用する強さ(静圧、動圧)やその分布も変化するわけで、だとすると「2017年以来、ストレス発散が無かった地殻やプレート境界域でストレスが発散しやすくなる状況が想定され、ここ数年に無い地震パターンの可能性は高くなる」とも思えます。
 ただこれが大地震になるのかどうか、と言うのは今の所わかりません。
 少なくとも言える事は、特に海底地下での震源による地震についてはここ数年とは異なるパターンの目立つ地震を想定しても良いかとは考えています。
 

仕組みとアプローチ -  織田信長が上総守(後に上総介に変更)を名乗ったのは何故か

2020-10-27 13:01:27 | 明智光秀
 前々回の記事の中で書いた織田信長が上総守信長(後に上総介信長に変更)と名乗っていた件ですが、大体思いつく範囲で書いてみたいと思います。
 通説では信長の家系が平氏の流れと言われているようですが、ただこれも実際にはよくわからないとかの見方も有るようです。
 しかし当時は由緒ある家系を名乗って家の格式を高める事はよく行われていたようなので、別に織田信長が実際に平氏の流れであろうがなかろうがあまり関係ないのかも知れません。
 少なくとも信長は平氏の流れを汲んでいると言う事を強調したかったのだと思えます。
 では何故それが上総介と結びつくのか?と言うと、それは平広常と言う上総で力を持っていた武将こそが「上総介広常」と名乗っていたからです。
 平(上総介)広常はその武力をもって挙兵したからこそ源頼朝の軍勢が勢いに乗り、次々と他の武将を取り込んで強大化し、戦いに勝利したのは史実であり、源氏の源頼朝が鎌倉幕府を開けたのもこの上総介広常の挙兵がなければ成し得なかった事と言うのが通説となっています。
 そして上総介広常のプライドの高さと軍勢の強大さがアダになり源頼朝に警戒され、謀反の疑いをかけられて梶原景時に暗殺されてしまいました。
 こうした点から考えると織田信長は、甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家に対する対抗意識から「源氏の政権である鎌倉幕府は平氏である平(上総介)広常の挙兵と戦力がなければもともと存在しなかった」と強調したかったのではないでしょうか。
 もう一つは、「信長と言う名前が上総武田氏の祖である武田信長と同じであったのでその向こうを張った」、と言うようにも見えますが果たしてどうでしょう。
 そして当時の上総、安房では上総武田家(庁南武田氏と真里谷武田氏)がどのような立ち位置と力関係だったのかについても信長は有る程度観察していたのかも知れません。
 当時は里見氏に敵対すると言う点で、真里谷武田氏の一部と庁南武田氏、そして上総土岐氏が同じ立場でした。
 なので織田信長が里見氏と敵対して上総で覇権争いをしていた後北条氏に対してもあまり接近しなかった(つまりは間接的にはやや敵対関係)と言うのは理解できるような気がします。
 

仕組みとアプローチ -  家康ら一行が安土城に招かれて移動する段階で最初から伊賀衆に護衛を頼んでいた、と考えられる理由

2020-10-26 17:52:38 | 明智光秀
 1582年、本能寺の変が発生し、家康ら一行は三河へ急遽帰還する事となります。
 そして家康ら一行は無事に三河に辿りつくのですが、この時の伊賀越えに際しては伊賀衆(伊賀忍者ら)が家康らを護衛、案内したので無事に帰還できたと言うのが通説です。
 確かにその逃避行のルートもまた伊賀衆の勢力圏である伊賀なのでした。
 これについては本能寺の変が発生してから、急遽、家康らが伊賀衆に護衛と道案内を頼んだとする見方も有るようですが、考えて見るとそれは普通有り得ないと考えています。
 信長に接待を受けている以上、家康も信長の配下に見えるので有り、ならば「伊賀衆の残党が本能の変の直後に簡単に家康の所に現れ、そして護衛や道案内を自ら買って出る」、などと言う事など有り得るでしょうか? それは普通は有り得ないと思えます。
 当時の状況は既に家康が伊賀衆の残党を匿い、そしてうまく利用して信頼関係が出来つつ有ったはずと思え、家康とその重臣ら一行が信長の不可解な招きに応じて安土や京都、堺に行った際には、既に伊賀衆らが商人や僧、その他などに偽装して家康ら一行の護衛をしていたものと考えられます。
 なので本能寺の変が発生したその直後には伊賀衆が護衛と道案内をスムーズに実行出来た、と言う事なのではないでしょうか。
 

仕組みとアプローチ -  御殿場と言う地名 やはり家康と天海の考えた江戸防衛システムの軍事拠点と思う理由

2020-10-26 13:03:01 | 明智光秀
 静岡県に有る御殿場市の御殿場と言う地名は、江戸時代の初期に命名されたとの事で、それは家康が江戸と駿府を行き来する時に宿泊所として使用するのに1616年から造営されたものとの事です。
 また「御殿」と名の付くものの実際は軍事拠点へすぐに転用できるようにする目的だったのではないか?と言う気もします。
 と言うのはこの御殿場は以前に記事にした「藤沢御殿」とほぼ同じ緯度にあるからです。
 この点では御殿場、藤沢御殿、万木城がほぼ同じ緯度に有って直線上に位置します。
 更に房総半島でほぼこの直線上に位置するものとして、久留里城が有ります。
 最近記事で多く書いている上総武田氏が築いた城でもあり、家康が武田氏の軍事力をうまく利用したと考えられる一例でもあり、更に天海が描いた江戸防衛システムがイメージされるように思えます。
 ところで上総武田氏の祖は武田信長と言う名だそうで、何だか織田信長を連想してしまいます。
 その織田信長が上総守信長(後に上総介信長に変更)と言う官職名を使ったのは興味深い事です。