快気分析

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仕組みとアプローチ -  能登半島と前田利家 家康が前田利家を恐れた理由

2024-02-03 12:08:57 | 前田利家
 前田利家が信長から最初に与えられ、そして江戸時代末期まで前田家が守り続けられた能登地方ですが、ここは江戸時代まで海路の大動脈だったんですね。
 今では太平洋ベルト地帯と海路では太平洋側の航路が日本の海路の主流ですが、その前提となるのは「エンジンを備えた機関船」の存在が有るからこそです。
 江戸時代以前は帆船か手漕ぎ船。
 とてもじゃないですが、そんな船なんかでは偏西風が主流の日本に於いて、多少の風向予想の誤り、多少の不運が有れば太平洋側だと簡単に太平洋の真ん中の方に流されてしまいます。
 そして流されたら最後、稀に幸運にも伊豆、小笠原諸島などに流れつかなければハワイなどへ流されるはずで、とても生きていられないのが普通なのです。
 となると安全性を考えれば日本海航路が主流となり、更に主流の偏西風で西に流されても日本海側の沿岸のどこかに辿り着く可能性が高いわけで、そうした時代では西航路と言う日本海側の航路が海路の大動脈なのでした。
 その拠点の一つが能登地方。
 北前船や北前航路などでネット検索すれば多々のデータが有るのがわかりますが、江戸時代より前の安土桃山時代、或いはその前の時代からでも同様に海路の大動脈で有り、能登地方が重要なエリアだった事に変わりはありません。
 そんな能登地方を治めていた前田利家に対し、ほぼ太平洋側しか勢力圏にできていなかった家康では力の差が歴然であり、仮に前田利家、毛利輝元、小早川隆景(没後は宇喜多秀家)、上杉景勝らが連合を組んで大船団の水軍とそれを後ろ盾にする陸上部隊で日本海側から徳川方の勢力圏に攻め入った場合には、石高の合計比較だけで考えてもとても徳川勢に勝ち目は無かったはずです。
 実際にそうした動きの兆候が全く無かったわけではありません。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%AE%B6

前田利家
(中略)
しかし、間もなく家康は亡き秀吉の法度を破り、伊達政宗・蜂須賀家政・福島正則と無断で婚姻政策を進めた。利家はこれに反発し、諸大名が家康・利家の両屋敷に集結する騒ぎとなった。利家には、毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家の三大老や五奉行の石田三成、また後に関ヶ原の戦いで家康方につくこととなる武断派の細川忠興・浅野幸長・加藤清正・加藤嘉明らが味方したが、2月2日に利家を含む四大老・五奉行の9人と家康とが誓紙を交換、さらに利家が家康のもとを訪問し、家康は利家の勧めで三成の屋敷がある伏見城治部少輔曲輪直下にある自身の屋敷から、対岸の向島城へ移ること等で和解した。

引用終了

 結果として前田利家の体調が既に悪かったせいか、そうした「家康討伐」の中核になる事はありませんでした。
 やはり前田利家の体調と寿命が日本の歴史を変えたのかも知れません。
 

仕組みとアプローチ -  五大老 一兵卒からのし上がったのは前田利家だけ

2024-02-03 08:10:25 | 前田利家
 能登半島地震で被災した能登地方が少しでも早く復興してくれれば、と多くの分野について調べてみると、特にその歴史について奥深い所が有るのがわかります。
 その歴史については前田利家を抜きに語れないと思ったので記事にしてみます。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A4%A7%E8%80%81

五大老(ごたいろう)とは、末期の豊臣政権の政務にあたった徳川家康・前田利家(後に前田利長)・毛利輝元・宇喜多秀家・小早川隆景(後に上杉景勝)の五大名を指す。

引用終了

 これを見ると簡単にわかるのですが、前田利家以外である、徳川家康・・毛利輝元・宇喜多秀家・小早川隆景(後に上杉景勝)共に国人領主の後継者ばかりなのですね。
 要するに前田利家以外は父親や親族の代で既にその国のトップであったわけで、戦闘の危険な最前線で、家来の戦闘員もなく一兵卒として戦う、と言う事は無かったのです。
 人質時代が長く、また今川氏や織田氏のなど勢力下で絶えず顔色を窺っていなければいけない期間が多く不遇だった家康でさえも国人領主の跡取りだった事は変わりません。
 一方で前田利家は次の通りです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%AE%B6

赤母衣衆
青年時代の利家は血気盛んで槍の又左衞門、槍の又左などの異名をもって呼ばれていた。

弘治2年(1556年)、信長と、その弟の織田信勝による織田家の家督争いである稲生の戦いでは、宮井勘兵衛なる小姓頭に右目下を矢で射抜かれながらも討ち取るという功績を上げる。

永禄元年(1558年)、尾張上四郡を支配していた守護代岩倉城主・織田信安(岩倉織田氏)の息子・織田信賢との争いである浮野の戦いにも従軍し功積を挙げた。前述の異名で呼ばれ始めたのも、この戦いのころからという[4]。また、この戦いの後、永禄初年ごろに新設された赤と黒の母衣衆(ほろしゅう:信長の親衛隊的存在の直属精鋭部隊)の赤母衣衆(あかほろしゅう)筆頭に抜擢され多くの与力を添えられた上に、100貫の加増を受ける。同年、従妹であるまつ(芳春院)を室に迎えて、すぐに長女・幸を儲ける。

永禄2年(1559年)、利家は信長の寵愛を受けた同朋衆の拾阿弥と諍いを起こし、拾阿弥を斬殺したまま出奔した。この事件は俗に、「笄(こうがい)斬り」と呼ばれている。当初、この罪での成敗は避けられなかったが、柴田勝家や森可成らの信長への取り成しにより、出仕停止処分に減罰され、浪人暮らしをする。この間、熱田神宮社家松岡家の庇護を受ける[5]。

永禄3年(1560年)、利家は出仕停止を受けていたのにも関わらず、信長に無断で桶狭間の戦いに参加して朝の合戦で首一つ、本戦で二つの計三つの首を挙げる功を立てるも、帰参は許されなかった。

永禄4年(1561年)、利家は森部の戦いでも無断参戦する。ここで斎藤家重臣・日比野清実の家来で、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛なる怪力の豪傑を討ち取る功績を挙げた。この時、足立以外にも首級1つを挙げている。2つの首級を持参して信長の面前に出ると、今回は戦功が認められ、信長から300貫が加増されて450貫文となり[5]、ようやく帰参を許された(『信長公記』)。

利家の浪人中に父・利春は死去し、前田家の家督は長兄・利久が継いでいたが、永禄12年(1569年)に信長から突如、兄に代わって前田家の家督を継ぐように命じられる。理由は利久に実子がなく(養子は利益が居た)、病弱のため「武者道少御無沙汰」の状態にあったからだという(『村井重頼覚書』)。

引用終了

 自分を守ってくれる兵隊も持たずに単独の戦闘員として危険な最前線で戦った経験が有るのは前田利家だけなんです。
 なので戦闘で前田利家が負った傷と言うのも接近戦での刀傷や鉄砲よりも近距離からの攻撃による弓でのものです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%AE%B6

長篠の合戦では撤退する武田軍を追撃している際に、弓削左衛門なる者に右足を深く切り込まれる重傷を負い、危うく命を獲られそうになった所を家臣の村井長頼に助けられ一命を得た。

引用終了

 つまり一兵卒の戦闘員として最前線の泥臭い事から、信長の家臣としての指揮官としてのノウハウから広く習得していたわけです。
 なのでこんな話もある事になります。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%AE%B6

加藤清正は利家からあまり兵法や軍略の話を聞かないと言った嫡子・利長に対し、「あれ程武略に通じた父上がおられるのに勿体ない」と言って羨ましがったという。利家は生涯38の戦に参戦し、その戦い方は織田信長の下で得たものであった。普段から合戦については「合戦の際は、必ず敵の領内に踏み込んで戦うべきだ、わずかでも自分の領国へ踏み込まれてはならない。信長公がそうであった。」と説いていた。またある時、女婿の宇喜多秀家が利家の戦法を質したところ、「先手にいくさ上手な者を一団、二団と配備し、大将は本陣にこだわらず馬を乗り回し、先手に奮戦させて思いのままに兵を動かす」という信長流の戦い方を語ったという。

引用終了

 秀吉が大出世する前から仲が良く、その後も秀吉から最も信頼されていた為、大坂城で秀頼の傳役となる前田利家はおそらく家康(正二位で前田利家の従二位より上)を差し置いて裏では実質的に五大老のトップであったはずで、家康が最も恐れていたのは前田利家だったのだと個人的には考えているのですが、その前田利家の健康状態が悪化して来るのを見逃さず、家康による勢力拡大は露骨になって行くのでした。
 それとこの中で見逃してはいけない事は「危険を伴う現場で得たノウハウや信長の戦闘手法や謀略手法など、せっかく前田利家が実践で得る事ができたノウハウも嫡男にはあまり伝わらなかった」、つまり「前田利長が有る程度有能であったとしても百戦錬磨の家康にとっては相手じゃなかった」、と言う事なのかも知れません。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%AE%B6

最期
しかし、間もなく家康は亡き秀吉の法度を破り、伊達政宗・蜂須賀家政・福島正則と無断で婚姻政策を進めた。利家はこれに反発し、諸大名が家康・利家の両屋敷に集結する騒ぎとなった。利家には、毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家の三大老や五奉行の石田三成、また後に関ヶ原の戦いで家康方につくこととなる武断派の細川忠興・浅野幸長・加藤清正・加藤嘉明らが味方したが、2月2日に利家を含む四大老・五奉行の9人と家康とが誓紙を交換、さらに利家が家康のもとを訪問し、家康は利家の勧めで三成の屋敷がある伏見城治部少輔曲輪直下にある自身の屋敷から、対岸の向島城へ移ること等で和解した。

この直後、利家の病状が悪化し、家康が病気見舞いのため利家邸を訪問した。この時、利家は抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていたというエピソードが残っている(『浅川聞書』)[22][23]。

慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)、利家は大坂の自邸で病没した。享年62[24](満60歳没)。 法名は高徳院殿桃雲浄見大居士[24]。

利家の死後、家康により加賀征伐が検討される。利長は母の芳春院(まつ)が人質になる条件を受け入れ、加賀征伐は撤回された[25]。

引用終了

 前田利家が家康かそれ以上に長生きしていたら日本の歴史は違っていたかも知れません。