快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -  徳川慶喜と明智光秀

2024-02-22 08:44:54 | 明智光秀
 徳川幕府最後の第十五代将軍となった徳川慶喜。
 その名には「慶」の名が有ります。
 徳川家康の後継となった徳川秀忠には秀吉から賜った「秀」の字が有り、その後は徳川幕府将軍に「秀」の字が入っている例はありません。
 秀吉から賜った秀の字など、徳川家にとっては屈辱なわけでそんな字をその後の将軍の名にいれるはずは無かったのでしょう。
 そして秀吉から始まる豊臣家が大坂の陣で滅亡し、豊臣家の影響が無くなった後の1620年に竹千代の名から改めたのが、第三代将軍の家光なのですが明智光秀の「光」の字を敢えて入れたのは何故か?
 そして徳川幕府最後の将軍となる徳川慶喜には何故か明智光慶の「慶」の字が入っているのも何故か?

 明智光秀 ― 明智光慶
 徳川家光 ― 何代かの将軍 ― 徳川慶喜

 天海と明智光秀、そして明智光慶の関係を明示する史料は今も見つかっていません。
 ですが秀吉らから勝手に「謀反者」のレッテルを貼られてしまった明智光秀、その嫡男の明智光慶の字をわざわざ徳川家が将軍の名に、しかも豊臣家から完全独立後の最初の将軍と最後の将軍の名に入れると言うのはそれなりの意味が込められていたのではないでしょうか。
 


仕組みとアプローチ -  明智光秀と鉄砲三段撃ち そして家康

2023-05-07 12:23:06 | 明智光秀
 長篠の戦いで採用された「鉄砲三段撃ち」については当ブログで既に記事にしていますが、時折このテーマに関してアクセスが増える事が有るので、わかりやすいようにここで過去の記事について新しい記事から順にリストしておきます。


仕組みとアプローチ -  鉄砲三段撃ちと明智光秀は関連性が有った、と筆者が見る理由  その13
2020/01/05 08:58:42

仕組みとアプローチ -  鉄砲三段撃ちと明智光秀は関連性が有った、と筆者が見る理由  その12
2020/01/03 08:58:55

仕組みとアプローチ -  鉄砲三段撃ちと明智光秀は関連性が有った、と筆者が見る理由  その11
2019/12/29 21:52:39

仕組みとアプローチ -  鉄砲三段撃ちと明智光秀は関連性が有った、と筆者が見る理由  その10
2019/12/26 12:53:00

仕組みとアプローチ -  鉄砲三段撃ちと明智光秀は関連性が有った、と筆者が見る理由  その9
2019/12/26 11:53:44

仕組みとアプローチ -  鉄砲三段撃ちと明智光秀は関連性が有った、と筆者が見る理由  その8
2019/12/25 12:22:24

仕組みとアプローチ -  鉄砲三段撃ちと明智光秀は関連性が有った、と筆者が見る理由  その7
2019/12/25 08:40:29

仕組みとアプローチ -  鉄砲三段撃ちと明智光秀は関連性が有った、と筆者が見る理由  その6
2019/12/24 17:44:14

仕組みとアプローチ -  鉄砲三段撃ちと明智光秀は関連性が有った、と筆者が見る理由  その5
2019/12/24 12:50:16

仕組みとアプローチ -  鉄砲三段撃ちと明智光秀は関連性が有った、と筆者が見る理由  その4
2019/12/24 08:37:49

仕組みとアプローチ -  鉄砲三段撃ちと明智光秀は関連性が有った、と筆者が見る理由  その3
2019/12/24 01:33:48

仕組みとアプローチ -  鉄砲三段撃ちと明智光秀は関連性が有った、と筆者が見る理由  その2
2019/12/23 22:17:07

仕組みとアプローチ -  鉄砲三段撃ちと明智光秀は関連性が有った、と筆者が見る理由  その1
2019/12/23 17:43:42


 この件についての真相を家康が知っているはずなのは言うまでもありません。


仕組みとアプローチ -  信長はなぜ上総介を名乗ったのか 上総介広常は平氏系の「平広常」

2022-06-05 20:00:17 | 明智光秀
 その理由の一つはやはり信長の織田氏が平家系で、上総介広常が「平広常」と言う通り平家系だった事も有るのでしょう。
 平氏が源氏系に滅ぼされた事を信長が強く意識していたのかどうか、そして明智光秀の土岐一族は源氏系、家康の松平(後の徳川)も源氏系だった事も信長は意識していたのでしょうか。
 信長の時代になるまでも果たして「平氏系と源氏系の暗闘が有ったのかどうか」と言うのは今となってはわかりません。
 ですが用心深い信長は源氏系である明智光秀と松平(徳川)家康について強く警戒していた可能性と言うのはゼロでは無かったと思っています。
 桶狭間の戦いで信長に首を取られた今川義元は源氏系、長篠の戦いで信長に惨敗しその後滅亡した武田氏もまた源氏系です。

仕組みとアプローチ -  茨城県は「イバラキケン」と読む

2021-11-03 18:22:17 | 明智光秀
 災害とは関係ない話になるのですが、茨城県民の方が茨城県を「イバラキケン」と読んでもらえず、
「イバラギケン」と読まれるのを悲しむ事が有るとかの話を時々聞きます。
 何でこうなるのか?ですが、それは単純な理由かも知れません。
 宮城県は「ミヤギ」なので同じ「城」の字が有ればやはり「茨城」も「イバラギ」と読まないといけないナ、となるのと、もう一つは大阪府に「茨木市(イバラキシ)」と言うのが有って、もし「茨城」を「イバラキ」と読んでしまうと「茨木市(イバラキシ)」と区別がつきにくくなるから、と言うのが有るのではないでしょうか?
 そもそもこの地域は常陸土岐氏の拠点であり、その後は水戸徳川家、そして現代では常陸宮様の名にも有る由緒ある地域なのに何で茨城県と言う県名がつけられたのか、と言うのは謎です。
 常陸県とかにすれば良かったのかな?

仕組みとアプローチ -  家康にとっては明智光秀が(仮に冤罪だったとしても)仇討をしてくれた形になった恩人だと言う面は有るのではないか

2021-06-01 19:30:30 | 明智光秀
 当ブログでこれまでの明智光秀関連の記事を閲覧して頂いた方ならおそらく納得できると思うのですが、仮に明智光秀が信長襲撃の主犯と仕立て上げられたとしても、名目上は信長を討ち取った首謀者となったわけですが、この名目であっても実は家康にとって「親族の仇討を明智光秀が代行してくれた」と言う事になる面も有ったのか考えられなくな無いと思っています。
 その根拠ですが、まずは正室の築山殿と嫡男の信康の暗殺を命じたのが信長であると言うのが通説である事。
 そして家康にとって桶狭間の戦いで何とか三河に逃げ延びる事が出来たのは、叔父である水野信元による工作であり、その命の恩人を信長の命令で暗殺しなければならなかった事、そしてもう一つは水野信元の兄弟で水野信近がやはり桶狭間の戦いの後に信長の意図とみられる「未必の故意」で桶狭間の戦いの後、今川家臣の岡部元信により落命した事が有ります。
 正室と嫡男と叔父二人が信長の命により落命し、しかもこの内3名はあたかも家康が実行したかのような形にさせられてます。
 家康が武人としての立場を正当化するには、信長を討った(のか、或いは信長を討ったとされてしまった明智光秀)に「自分に代わって仇討してくれた」と言う事で恩人としなければならない立場だったのではないでしょうか。
 日光東照宮の近くに有るエリアを明智平と命名したのはその意思表明で有ったと思えるし、そして更には家康が築山殿の死後、正室を(迎えようとすればいくらでもできたのに)決して迎える事は無かった、と言うのも同様に「家康の武人としての立場の表現だった」のではないかと思っています。