快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -  徳川秀忠も土岐一族の縁戚にあたるなら徳川家光、その嫡子の家綱も土岐一族の縁戚なのでした

2018-11-30 13:55:38 | 明智光秀
 前回に記事で書いた通り、徳川秀忠も明智光秀と同様に土岐一族の縁戚にあたるのですが、ならば秀忠の嫡子徳川家光、更にその嫡子の家綱も土岐の血を引いていると言う事になります。
 ですが家綱は次の通りでした。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E7%B6%B1

側室のお振、お満流は家綱の子を懐妊したが、死産または流産であった。加えて家綱自身は生まれつき体が弱く病弱で、30半ばに至っても男子がなかったため将軍継嗣問題が憂慮されていたが、延宝8年(1680年)5月初旬に病に倒れ、危篤状態に陥った家綱は、堀田正俊の勧めを受けて末弟の館林藩主松平綱吉を養子に迎えて将軍後嗣とし、直後の5月8日に死去した。享年40。死因は未詳だが、急性の病気(心臓発作など)と言われている[5]。家綱の死により、徳川将軍家の直系の子が将軍職を世襲する形は崩れた。

引用終了

 仮に家光の実弟である忠長が生存していれば土岐一族は徳川家の中枢として残っていたのでしょうが、忠長は次の通りでした。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E9%95%B7

父の秀忠や母の江は、病弱で吃音があった兄・竹千代(家光)よりも容姿端麗・才気煥発な国千代(国松)を寵愛していたといい、大伯父である織田信長に容姿が似ていたのも理由の一つとされている。それらに起因する竹千代擁立派と国千代擁立派による次期将軍の座を巡る争いがあったが、この争いはのち、春日局による家康への直訴により、竹千代の後継指名で決着したという。
(中略)
寛永3年(1626年)に権大納言となり、後水尾天皇の二条城行幸の上洛にも随行する。これと前後して忠長は弟の保科正之に葵紋の入った家康の遺品を与えたり、正之に松平への復姓を薦めたりしたと「会津松平家譜」には記されている。しかし、自らの最大の庇護者と言える存在であった母・江が死去したのを機に、忠長は過度な飲酒に耽るなど、問題的な行動が目立っていく事になり、忠長自身も気付かぬ内に、家光との確執を深めていく事になる。

寛永3年(1626年)7月に、家光の上洛が決まった際に、大井川に船橋を掛けるが、幕府の防衛線において重要拠点の場所である大井川に無許可でやった事が問題視され、逆に不興を買ってしまう事になり、更に駿府では武家屋敷造成の為に寺社を郊外に移そうとして反対され、家光との関係に大きな摩擦を生じた。

寛永7年(1630年)11月、浅間神社付近にある賎機山で猿狩りを行うも、殺生を禁止されている神社付近でやった上に、そもそも賎機山では野猿が神獣として崇められ殺す事自体が禁止されており、更にはこの浅間神社は祖父である徳川家康が14歳の時に元服した徳川将軍家にとっても神聖な場所であった。そんな場所で将軍家の血を引く忠長が猿狩りを行うのは以ての外であったのだが、猿狩りを止めるよう懇願する神主に対し、忠長は自らが駿河の領主である事と田畑を荒らす猿を駆除するのを理由に反対を押し切って狩りを続け、この一件で忠長は1240匹もの猿を殺したとされている。そしてその帰途の際には、乗っていた駕籠の担ぎ手の尻を脇差で刺し、驚いて逃げ出した担ぎ手を殺害してしまっており、これらを聞いた家光を激怒させ、咎められている。

寛永8年(1631年)12月、家臣の小浜七之助と共に鷹狩りに出かけた際に雪が降り、忠長は寺で休息していたが、火を焚くよう命じられていた七之助が、薪が雪で濡れていて火が付けられなかった事に癇癪を起こし、七之助を手打ちにしてしまう。事態を知って泣き叫ぶ父親が幕府に訴え出た結果、これまでの乱行の数々もあって遂に家光の堪忍袋の尾が切れてしまう事になり、それを理由として甲府への蟄居を命じられる。その際、秀忠側近の崇伝らを介して赦免を乞うが、許されなかった。

寛永9年(1632年)の秀忠の危篤に際して江戸入りを乞うたが、これも許されず、一説では忠長の横暴な振る舞いを知った秀忠本人からも面会を拒絶されたとされている。

改易とその後

秀忠死後、甲府に台徳院殿(秀忠)供養の寺院建立や、加藤忠広改易の際に風説を流布したとして改易となり、領国全てを没収され、10月20日に安藤重長に預けられる形で上野国高崎へ逼塞の処分が下される。また、その際に朝倉宣正、鳥居成次も連座して改易されている。

寛永10年12月6日(1634年1月5日)、幕命により高崎の大信寺において自刃した[8]。享年28。

引用終了
 
 忠長の容姿や気性は織田信長に似ていたのではないかと思う面も有り、時代が戦国ならば信長のようにそれなりの結果を出していたのかも知れません。
 ただ既に戦国時代は既に終わり、家臣達も気性が荒い主君を好まなかったという面も有るかと思います。
 そしてもう一つ。
 跡目争いも関連していると考えられる徳川幕府の内部抗争もまた激しく、「徳川幕府内部の戦国時代」となっていたのではないでしょうか。
 いずれにしてもこれで土岐一族の縁戚となる男子系の血筋はここでほぼ途絶えたのですが、女子系の血筋は継続したようです。

仕組みとアプローチ -  徳川秀忠も明智光秀と同様に土岐一族の縁戚にあたります

2018-11-29 12:09:42 | 明智光秀
 明智光秀や土岐一族について調べているうちに次のような事がわかりました。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%A7%80%E5%BF%A0

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。

(中略)

血筋
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この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2011年9月)

西三河の土豪から伸し上がった徳川家(松平家)は、三河での覇権が確立して後も、かつて同格であった旧同輩の豪族による反乱に悩まされ続けていた。そのような中で、秀忠の母は土岐氏一門の三河西郷氏の出であり、土岐頼忠の子の西郷頼音を祖とする。三河西郷氏が三河の旧守護代家として、下克上の戦国時代では家格は高かったという。

なお、『寛政重修諸家譜』には以下の記載がある(西郷氏 巻第369)。

西郷正勝 母は吉良上総介義富が女

西郷正勝は西郷局の外祖父であり、秀忠の曽祖父に当たる。よって、秀忠は足利氏の傍流である吉良氏の血を引くことになる。

引用終了

 徳川家(松平家)と土岐一族の繋がり、それも血縁でした。


仕組みとアプローチ -  北海道西部沖の地震と雲仙岳の火山活動 過去のパターンは繰り返されるのか

2018-11-28 19:59:01 | 地震 津波
 雌阿寒岳の火山性活動について最近記事にしていた事も有り、過去の北海道について地震や火山活動について何気なく関連情報を見ていたのですが、案外離れた場所での連動性(?)について気になった点が有りました。
 それが何かと言うと雲仙岳の火砕流です。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)#19%E4%B8%96%E7%B4%80%E5%89%8D%E5%8D%8A

1792年
5月21日(寛政4年4月1日) 島原大変肥後迷惑 - 長崎県島原半島で雲仙普賢岳の噴火が起こり、眉山の山体崩壊による対岸の肥後国(熊本県)大津波。M 6.4±0.2、死者約15,000人。
6月13日(寛政4年4月24日) 北海道後志神威岬沖合で地震 - M ≒ 7.1又はM 7.3[104]。小樽から積丹(しゃこたん)岬にかけての地域で揺れを感じ、津波が発生したとされている[105]。日付を5月24日とする文献もある(『北海道史』)

(中略)

1834年2月9日(天保5年1月1日) 石狩地震 - M 6.4、旧暦の1月1日に発生、イシカリ場所を中心に81戸全半壊。JR札幌駅以北の複数個所で液状化の跡が見つかっているため、M 6.5〜6.6という説もある。

(中略)

1993年(平成5年)
1月15日 釧路沖地震 - Mj 7.5(旧Mj 7.8)(Mw 7.6)、北海道釧路市で最大震度 6、死者2人。
7月12日 北海道南西沖地震 - Mj 7.8(Mt 8.1)(Mw 7.7)、奥尻島で推定震度 6、北海道江差町・小樽市・寿都町、青森県深浦町で最大震度 5。死者・行方不明者230人。奥尻島などへの巨大津波で甚大な被害。
10月12日 東海道南方沖で地震 - Mj 6.9(旧Mj 7.1)、栃木県、東京都、神奈川県で最大震度 4。死者1人。

(中略)

2013年(平成25年)
2月2日 北海道十勝地方南部で地震 - Mj 6.5(Mw 6.9[199]〜Mw 7.0[200])、深さ102km。北海道浦幌町・釧路市・根室市で最大震度 5強[注 22]。

(中略)

2018年(平成30年)

6月18日 大阪府北部で地震 - Mj 6.1 (Mw 5.6)[232]、深さ13km[233]。大阪府大阪市北区、高槻市、枚方市、茨木市、箕面市で最大震度 6弱。 死者5人。
9月6日 北海道胆振東部地震 - Mj 6.7 (Mw 6.6)[234]、深さ37km[235]。北海道厚真町で最大震度 7。死者41人。

引用終了

 1792年に島原大変肥後迷惑と北海道後志神威岬沖合で地震 - M ≒ 7.1又はM 7.3 が発生していました。
 対応するのかどうかは未だサンプル数が少ないので定かでは有りませんが、雲仙岳は1990年に噴火が起き始め1991年に火砕流が発生して犠牲者が出ました。
 その後1993年に北海道南西沖地震 - Mj 7.8(Mt 8.1)(Mw 7.7)が発生したと言う点が僅かな年数の差は有るもののやや似ているような気がします。
 そして1792年の北海道後志神威岬沖合で地震が有った後、42年後と後にはなりますが、1834年2月9日(天保5年1月1日) 石狩地震 - M 6.4が発生しました。
 今年9月に発生した北海道胆振東部地震 - Mj 6.7 は1993年の北海道南西沖地震からまだ25年ですが、発生しています。
 1993年の北海道南西沖地震が Mj 7.8 と大きかった事、そして2016年に発生した内浦湾地震も加えて考えると、25年と短くなるのは有り得る事かとも思えます。
 では1793年から1834年あたりにどのような地震が発生していたのかを見て見ると次の通りです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)#19%E4%B8%96%E7%B4%80%E5%89%8D%E5%8D%8A

1793年
2月8日(寛政4年12月28日) 西津軽地震(鯵ヶ沢地震) - M 6.9〜7.1。西津軽・鰺ヶ沢で強震、津軽山地西縁断層帯が震源で、地震発生よりも前に海水が引く前兆現象があった。津波による死者3人。
2月17日(寛政5年1月7日) 寛政地震(連動型宮城県沖地震) - M 8.0〜8.4、死者100人程度、陸中から常陸にかけて津波。
1799年6月29日(寛政11年5月26日) 金沢地震 - M 6.0±1⁄4又はM 6.7[104]。金沢などで地震。640人死亡、その他の地域でも死傷者あり。

19世紀前半
1801年5月27日(享和元年4月15日) 上総地震 - 久留里城が破損。
1802年12月9日(享和2年11月15日) 佐渡小木地震 - M 6.5〜7.0、死者37人。
1804年7月10日(文化元年6月4日) 象潟地震 - M 7.0±0.1、死者500〜550人。象潟で2mの地盤隆起と3〜4mの津波。
1808年12月4日(文化5年10月17日) 紀伊半島沖で地震 - M 7.6、深夜に2度の強い揺れ。紀伊半島から四国にかけて弱い津波。2004年の地震に類似[106]。
1810年9月25日(文化7年8月27日) 男鹿半島で地震 - M 6.5±1⁄4、死者60人
1812年12月7日(文化9年11月4日) 文化神奈川地震 - M 6 1⁄4±1⁄4又はM 6.4、震源は東京湾[107]、神奈川宿を中心に死者多数[108]。
1819年8月2日(文政2年6月12日) 文政近江地震 - M 7 1⁄4±1⁄4又はM 6.9[93]、伊勢・美濃・近江で地震、死者多数。
1823年9月29日(文政6年8月25日) 陸中岩手山で地震 - M 5.8〜6.0、山崩れあり、死者 69人、不明4人。
1826年1月(文政8年12月) 小笠原諸島近海で地震 父島二見湾で津波の高さ推定6m[109]。
1828年12月18日(文政11年11月12日) 三条地震(越後三条地震) - M 6.9、死者1,681人。
1830年8月19日(文政13年7月2日) 京都地震 - M 6.5±0.2、死者280人。二条城など損壊。
1833年

5月27日(天保4年4月9日) 美濃西部で地震 - M 6 1⁄4 死者11人。余震は8月まで、震源は根尾谷断層付近。
12月7日(天保4年10月26日) 庄内沖地震(出羽・越後・佐渡地震、天保4年羽前沖地震) - M 7 1⁄2±1⁄4(Mw 8、Mt 8.1)、死者40〜130人。能登半島・東北・北陸の日本海沿岸に津波。1964年新潟地震の津波よりも規模が大きい[110]。

1834年2月9日(天保5年1月1日) 石狩地震 - M 6.4、旧暦の1月1日に発生、イシカリ場所を中心に81戸全半壊。JR札幌駅以北の複数個所で液状化の跡が見つかっているため、M 6.5〜6.6という説もある。

引用終了

 確かに過去には大地震が発生しているにもかかわらず、最近数十年は妙に静穏なエリアが含まれているようにも思えます。
 これと似たパターンが今後当時と同様に繰り返されるのかどうか、と言うのはわかりません。
 ただ「備え有れば憂い無し」です。

仕組みとアプローチ -  家康の影響力拡大と明智光秀の土岐一族

2018-11-27 17:37:13 | 明智光秀
 前回の記事では常陸土岐氏と上総土岐氏について書きましたが、実はその前から土岐氏の一族が徳川方に組み込まれていた事実が有ります。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E5%AE%9A%E6%94%BF

土岐 定政(とき さだまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。土岐氏流明智氏の系統であり、祖父頼明の兄で大伯父・頼典を明智光秀の祖父とされる光継と同一人物とする説もある。また明智光秀を伯父(定明の兄)とする説もあり、真偽の程は定かではない。
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永禄7年(1564年)に徳川家康に招聘されてその家臣となり、永禄8年(1565年)の初陣を皮切りにして姉川の戦いをはじめ、徳川家の主要な合戦の多くに参戦して武功を挙げ、家康から武勇に優れた武将として賞賛された。それらの功績から天正10年(1582年)に、甲斐巨摩郡切石に1万石を与えられて大名となり、亡父の後を継ぐ形で明智定政と改称した。

引用終了

 家康が甲斐の国に僅かであれ土岐氏を送り込んだ1564年は本能寺の変のかなり前になるわけです。
 これで土岐氏が徳川氏の関東移封の時に必要な存在だった事が更に裏付けられるかと思います。
 それにしても「明智定政と改称した」と言うのが果たして豊臣の時代だったのかどうか、と言う点には興味が持たれます。
 仮に秀吉が支配していた時代に明智定政に堂々と改称したと言うのならすごい話ですね。
 秀吉といえども、既に家康の配下が明智に改名する事に手出し出来なかったと言う事になるわけでそれだけ当時の徳川勢が力を持っていた事になります。
 果たして実際はどうだったのでしょうか。

仕組みとアプローチ -  明智光秀の土岐一族と家康の関東移封

2018-11-27 08:21:13 | 明智光秀
 今月21日の記事で書いた通り、家康の徳川家が後に水戸、尾張、紀伊を徳川御三家とした事、そしてその御三家が何故か土岐氏の旧勢力圏に一致している部分が有ります。
 それで土岐氏の旧勢力圏のうち、常陸と上総について見ると次の通りです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E6%B0%8F#%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9C%9F%E5%B2%90%E6%B0%8F

常陸土岐氏

土岐光定の六男土岐定親の子、師親が美濃国恵那郡遠山荘の原郷に居住し原氏を称したことから「土岐原氏(ときはらし)」とも呼ばれている。南北朝期に原秀成は山内上杉家の惣政所職の重臣となり常陸国に下って信太荘の管理を行った。後に東条荘、伊南荘に領域を広げ江戸崎土岐氏、竜ヶ崎土岐氏の二氏に分かれ栄えた。後に江戸崎土岐氏が統一して宗家より土岐治頼を迎える。戦国時代には後北条氏に服属を余儀なくされる。そして、江戸崎城の後を継いだ治綱と竜ヶ崎城の胤倫との兄弟の不和対立が顕在化し、小田原征伐においてともに滅亡した。竜ヶ崎城主であった土岐胤倫は幼子頼房、重臣と共に城を脱出して諸国を流浪したが、胤倫は流浪の果ての慶長4年(1599年)に没したといわれている。頼房はその後徳川家康に拝謁し、駿河国内で知行を与えられ、名字を母方の豊島に改めた。その後紀州徳川家の家臣として大坂の陣にて活躍する。後に土岐朝治の時に徳川吉宗に召し出され土岐氏に復姓し江戸幕府旗本となる。

傍流には、武田氏に仕え陣馬奉行として活躍した原昌俊・昌胤父子や豊臣秀吉に仕えて関ヶ原の戦いでは西軍についた美濃太田山藩主原長頼などがいる。

(中略)

上総土岐氏

万喜城に拠ったため万喜土岐氏とも呼ばれる。上杉氏の惣政所職として常陸に下った土岐原秀成は伊南荘を時政に任せ万喜城城主とした。原頼元は土岐宗家より9代守護土岐政房の弟、土岐頼房を迎えた。頼房の孫、土岐為頼は、房総の覇権をめぐって里見氏と後北条氏とが対立するなかでたくみに身を処し勢力を維持したが、為頼の死後、土岐頼春(義成)の代に小田原征伐が勃発、頼春(義成)は後北条氏方に与したために滅亡し城は消滅した。

土岐頼春から大垣藩万喜氏、畑中氏、茂木氏、太海氏が立家した。

引用終了

 常陸土岐氏の土岐頼房は「その後徳川家康に拝謁し、駿河国内で知行を与えられ」と有るのが果たして秀吉の豊臣政権時代からだったのか?それとも秀吉の時代にはそれを秀吉に知られてはまずいので少なくとも一時期は内々に召抱えられていた状態だったのか?と言うの定かでは有りません。
 そして上総土岐氏の土岐頼春も、三河に落ちのびたとする言い伝えも有るようなのは以前の記事で書いた通りです。
 そしてこれを更に考え直すと、実際は秀吉には知られぬように家康が召抱えていた状態だったのではないか?と思えても来るのです。
 だとすれば常陸と上総を合わせるとかなり広いエリアを支配して領国支配の情報の人脈や利権を握っていたトップ二人を家康は早々と取り込んで行った事になり、1590年に家康が関東移封がされた頃には既に下準備が十分に成されていた事になります。
 このように準備万端だったからこそ家康は関東移封を簡単に受け入れた、と言うロジックにもなります。
 言い換えれば、家康の関東移封は土岐一族やその家臣団らの存在無しにはあのように円滑には行かなかった可能性が高いと考えられるのではないでしょうか。
 そして常陸土岐氏も上総土岐氏も後北条氏方の勢力で有った事、家康も後北条氏方の勢力であったにもかかわらず秀吉からの圧力で渋々と小田原征伐に参加せざるを得なかったが、なるべく家臣や兵などの力を温存するよう秀吉をなだめるよう誘導していた事から、かなりの有力指揮官クラスや熟練兵らが温存され、家康の徳川氏へ組み込まれて行ったものと考えられるのです。
 これは滅亡した武田氏の有能な遺臣達がやはり家康の徳川氏に召抱えられて赤備えとなったのと似ているように思えます。
 秀吉はこうした家康の動きを薄々わかって容認していたのでしょうか? それとも秀吉にはわからないように当時は名前などを変えさせて召抱えていたのでしょうか? 
 おそらく様々なケースが有ったのでしょうが、「自害」「行方不明」「諸国流浪」「隠居」「剃髪」などとしてしか今は記録として残っていないものでもおそらくは当時家康の徳川方の有能参謀として重用されていたケースも多かったのではないか、と見ています。
 家康の徳川氏はこうしたこうした「旧敵方の家臣や兵などを取り込むのが突出して上手かった」ように思えます。