快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

自然災害 仕組みとアプローチ -  内陸型大地震の空白期間をどう見るか

2016-09-30 00:24:11 | 地震 津波
 最近は地震が多発しているようで実は案外、内陸型のM6以上の地震はあの熊本地震の後には発生していません。

引用開始(一部抜粋)

http://www.emsc-csem.org/Earthquake/?filter=yes&min_mag=6&min_intens=0&max_intens=8&view=1
http://www.emsc-csem.org/Earthquake/?filter=yes&min_mag=6&min_intens=0&max_intens=8&view=2
http://www.emsc-csem.org/Earthquake/?filter=yes&min_mag=6&min_intens=0&max_intens=8&view=3
http://www.emsc-csem.org/Earthquake/?filter=yes&min_mag=6&min_intens=0&max_intens=8&view=4

2016-09-23 00:14:34.0 34.48 N 141.65 E 10 6.3 OFF EAST COAST OF HONSHU, JAPAN
2016-09-20 16:21:16.3 30.49 N 142.13 E 10 6.1 IZU ISLANDS, JAPAN REGION

2016-08-20 15:58:04.4 40.39 N 143.67 E 10 6.0 OFF EAST COAST OF HONSHU, JAPAN
2016-08-20 09:01:26.2 40.39 N 143.67 E 10 6.0 OFF EAST COAST OF HONSHU, JAPAN

2016-08-04 16:24:34.3 24.98 N 141.99 E 524 6.3 VOLCANO ISLANDS, JAPAN REGION

2016-04-15 16:25:07.3 32.85 N 130.57 E 10 7.0 KYUSHU, JAPAN

引用終了

 外国のデータではやや小さめである事が多い、と言う面もありますがM6以上は熊本地震の後、海洋型地震だけです。
 内陸型地震のこの空白期をどう見るべきか? M6以上の内陸型地震はそう頻繫に発生するものではありませんが、現時点では約5ヶ月の空白期です。
 備えあれば憂い無し。

自然災害 仕組みとアプローチ -  関ヶ原の戦いと島津氏

2016-09-29 12:52:50 | 地震 津波
 関ヶ原の戦いと自然災害がどう関係するのか、については一見見た目にはわかりにくいのですが、間接的には大きく関係していると筆者は考えていますので、更に記事にして行きたいと思います
 今回のサブタイトルは「関ヶ原の戦いと島津氏」で直接的に自然災害と関係しているわけではないのですが、以前の記事、サブタイトル「関ヶ原の戦い 二度死にかけた島津義弘」で少し書きましたのでその周辺状況を記事にしたいと思います。
 島津義弘が家康との合意で東軍に参加すべく、伏見城に入城しようとした時に断られた、との説については様々な見方が有り、元々西軍として戦おうかと考えていたとする説も多いようです、
 これについて筆者が追跡して調べて行くと、こんな話に辿り着きました。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E5%BF%A0%E5%85%84
川上忠兄
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいても従軍し、奮戦して「小返しの五本鑓」の一人に数えられた。また、敵中突破して逃げる際に忠兄の被官である柏木源藤は、井伊直政を銃撃し落馬させている。その後は義弘の命で、薩摩国へ帰還する島津勢と別れて徳川家康の元へ使者として赴き、島津が西軍に味方した経緯を堂々と話した。その際に、自分の甲冑を残して退去したため、徳川氏の家臣は「慌てる余りに甲冑を忘れていった」と罵り笑ったが、家康はこれを制して「戦陣騒忙危難の間情偽弁じ難く、果たして使命を全うしたか否か疑われぬよう、証拠として甲冑を残したのだ。天晴れ軍事に練達の者である」と述べたという。任務を果たした後は、島津勢の一行には遅れたため近衛家を頼って薩摩国に帰還する。忠兄はこの後に義弘の家老に昇進する。

引用終了

 島津の退き口の生き残りの家来が堂々と家康に説明して、それがまた記録に残っている、と言う点で、やはり島津義弘は東軍として参戦するつもりで伏見城に来たのではないか、と考えています。
 この事は西軍内部での島津義弘に対する疑いの姿勢にも現れています。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%98
島津義弘
慶長5年(1600年)、徳川家康が上杉景勝を討つために軍を起こすと(会津征伐)、義弘は家康から援軍要請を受けて1,000の軍勢を率い、家康の家臣である鳥居元忠が籠城する伏見城の援軍に馳せ参じた。しかし元忠が家康から義弘に援軍要請したことを聞いていないとして入城を拒否したため、西軍総勢4万人の中で孤立した義弘は当初の意志を翻して西軍への参戦を決意した[8]。
(中略)
だが石田三成ら西軍首脳は、わずかな手勢であったことからか義弘の存在を軽視。美濃墨俣での撤退において前線に展開していた島津隊を見捨てたり、9月14日(10月20日)の作戦会議で義弘が主張した夜襲策[9]が採用されなかったりするなど、義弘が戦意を失うようなことが続いたと言われているが、これは後世に書かれた『落穂集』という二次的な編纂物にしか記載されておらず、また島津方の史料にも夜討ちに関する記事がほとんど見えないことから、この逸話は史実だと断じることはできない[10]。

引用終了

 つまり、石田三成らは西軍の入る事を事前通告していないかった島津義弘を、東軍の手先と考え、東軍の思惑通りの戦法を採っては危ない、と考えていたように見えます。
 家康は当初こうした事情がわからずに島津義弘の「寝返り」と思い、関ヶ原の戦いで退却する島津氏を当初は執念深く追跡したのかも知れません。
 では何故島津義弘が西軍に組する事になったか? それは長宗我部盛親もやはり西軍に組する事に「強制された」経緯と似ています。

引用開始(一部抜粋) 2件

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
本戦までの動き
三成挙兵
伏見城

7月1日、宇喜多秀家が豊国社で出陣式を行いこれに高台院は側近の東殿局(大谷吉継の生母)を代参させている。 7月11日、三成は東軍に加わる予定の大谷吉継に「家康打倒」を打ち明け、吉継を己の陣営に引き込んだ[注釈 11]。7月12日、佐和山城で三成は吉継、増田長盛、安国寺恵瓊と秘密会議を行い、毛利輝元への西軍総大将就任要請などを決定した。同日、愛知川に東軍に参加予定の諸将を食い止める関所が設けられ、 長宗我部盛親、鍋島勝茂、前田茂勝(玄以の子)らが足止めを食らい、結果的に西軍への参加を余儀なくされた。また島津義弘は家康との約束に従い伏見城に入城しようとしたが、鳥居元忠に断られ[22]西軍に身を投じている。

http://historivia.com/cat4/chosokabe-morichika/3509/
本当は東軍につきたかった関ヶ原の戦い
盛親は、家康の重臣で徳川四天王である井伊直政と懇意にしていたという記録が残っています。
それもあり盛親は、関ヶ原の戦いの前に家臣たちと計って家康に荷担することを決めていました。

この決定を認めた密書を持った盛親の密使が捕えられたという説や西軍の長束正家に進路を阻まれたという説がありますが、東軍へ荷担したかったにもかかわらず、西軍陣営の妨害工作によって、盛親は仕方なく西軍として関ヶ原に参戦することとなってしまいます。

引用終了

 長宗我部盛親は最初、東軍に参戦するつもりで兵を連れて赴いたようです。
 ところが三成が先手を打って多くの関所を設け、兵を連れている長宗我部盛親を検問したらしく、筆者の考える所では、この「検問」と言う部分がミソで、単純に言えばこうです。
 検問所の西軍が「そんなに兵を連れて何処へ何の用事で行くのですか?」と問うただけでなく、実際は関所にいる西軍の軍勢が長宗我部氏の軍勢を囲い込んで睨みを効かしながら暗黙のコトバ、つまり「何の目的で大勢の兵を引き連れてるの?まさか東軍に参加するつもりじゃあ無いでしょうね。」と、言わば「脅し」で言えば、当然のごとく長宗我部盛親は「あのですね、そりゃあ当然西軍に参加する為に決まってるじゃ有りませんか」と冷や汗タラタラで強制的に「言わされた」と考えるべきではないでしょうか。
 こんな感じですから、仮に島津義弘が伏見城の入城を断られた場合も同様で、既にもうその辺には西軍の大部隊がウロウロしているわけですから、「やあ、島津さん、結構な兵をつれて何処へ行くの?」と言われれた場合、島津義弘が「東軍に参加しようと思ってますよ」となどと言ったものならそれは即、死を意味します。
 ですからこれも冷や汗タラタラで「当然そりゃあ西軍で戦う為ですよ」と言わなければならない状況に追い込まれた、と見るのが自然かと思われます。
 石田三成と大谷吉継の策略により、このようなパターンで島津氏の他にも長宗我部盛親、鍋島勝茂、前田茂勝(玄以の子)が「西軍に強制参加」させられた可能性が高いと判断できます。
 筆者の考える所では、同じ例がこれ以外にも相当数有ったと見ています。

自然災害 仕組みとアプローチ -  次の新月 10月1日をどう見るか

2016-09-28 12:29:11 | 地震 津波
 前回の記事で書いた「世界的な地殻のバランス変化なのか」と見えてしまうような世界的な状況がまだ暫く続のか? はわかりません。
 世界でやはり少し変わった場所で地震が発生しています。

引用開始(一部抜粋)

http://www.emsc-csem.org/Earthquake/?filter=yes
2016-09-27 20:57:08.2
6hr 09min ago
36.36 N 27.64 E 90 5.5 DODECANESE IS.-TURKEY BORDER REG

引用終了

 ここについての過去を調べると、2004年からのデータでは過去にM4以上は多くあるようですが、M4.5以上のものは無く、最大のマグニチュードのようです。

引用開始(一部抜粋)

http://www.emsc-csem.org/Earthquake/?filter=yes
2016-09-27 20:57:08.2
6hr 13min ago
36.36 N 27.64 E 90 5.5 DODECANESE IS.-TURKEY BORDER REG
2016-09-06 05:27:27.4 36.28 N 28.25 E 49 4.3 DODECANESE IS.-TURKEY BORDER REG
2015-07-09 10:41:36.4 36.87 N 27.02 E 10 4.3 DODECANESE IS.-TURKEY BORDER REG
2015-03-28 13:26:23.0 36.58 N 27.20 E 126 4.4 DODECANESE IS.-TURKEY BORDER REG
2014-11-26 05:05:33.8 36.95 N 27.74 E 5 4.3 DODECANESE IS.-TURKEY BORDER REG
2014-10-02 15:51:58.1 36.01 N 27.05 E 8 4.4 DODECANESE IS.-TURKEY BORDER REG
2014-10-02 12:06:29.2 36.01 N 27.05 E 10 4.4 DODECANESE IS.-TURKEY BORDER REG
2014-07-10 18:31:33.0 36.42 N 27.15 E 10 4.4 DODECANESE IS.-TURKEY BORDER REG
2014-06-20 13:59:43.5 36.32 N 28.57 E 60 4.3 DODECANESE IS.-TURKEY BORDER REG
2013-10-18 01:26:48.0 36.61 N 27.33 E 125 4.4 DODECANESE IS.-TURKEY BORDER REG
2013-10-12 17:16:17.0 36.20 N 28.32 E 40 4.4 DODECANESE IS.-TURKEY BORDER REG

引用終了

 先日は長潮。そして10/1は新月です。
 今日は、
2016年9月28日 10時31分ごろ 鳥取県中部 M4.1 最大震度3
の地震がありました。
 ところで新月と満月のどちらが月齢による地震トリガーが大きいか?と言うと、筆者は「11月14日のスーパームーン後数日までは、今年は新月よりは満月の方が影響が大きい」と考えています。
 理由は「11月14日のスーパームーンに向けて、満月は前回の満月よりも大きくなって行くから」です。
 従って10/16の満月も11/14に準じて大きいため、月の引力変化やそれによる潮汐などの地震トリガーも通常より大きいと考えています。
 但し地震発生は月齢以外のトリガーも有れば、地殻の固着の限界状況、宇宙からの影響、地殻やプレートの動きの変化など多々あるので、月齢だけが影響して地震が対応するように発生となるとは限りません。
 

自然災害 仕組みとアプローチ -  世界的な地殻のバランス変化なのか

2016-09-25 10:11:25 | 地震 津波
 最近のイタリア、タンザニア、朝鮮半島南部の地震だけでなく、更にはマケドニア、先日はルーマニアでも目立つ地震がありました。
 過去に全く地震がなかったエリアでもないようですが、通常はあまり無いような場所での地震が多発しているようです。
 M5.0以上だけでも次のような状況です。

引用開始(一部抜粋)

2016-09-24 23:52:03.2
1hr 08min ago
32.35 S 178.05 W 105.1 SOUTH OF KERMADEC ISLANDS
2016-09-24 23:35:25.7
1hr 25min ago
32.04 N 138.05 E 105.0 IZU ISLANDS, JAPAN REGION
2016-09-24 23:27:19.4
1hr 33min ago
32.44 S 178.20 W 105.2 SOUTH OF KERMADEC ISLANDS
2016-09-24 21:55:07.0
3hr 05min ago
19.84 S 178.26 W 5995.0 FIJI REGION
2016-09-24 21:28:40.9
3hr 32min ago
19.82 S 178.25 W 5876.7 FIJI REGION
2016-09-24 21:07:12.4
3hr 53min ago
18.17 S 175.09 W 1736.4 TONGA
2016-09-24 20:27:17.6
4hr 33min ago
21.53 S 68.28 W 1005.1 ANTOFAGASTA, CHILE
2016-09-24 11:27:45.76.68 S 128.97 E 2565.1 BANDA SEA
2016-09-24 11:09:42.71.84 S 140.63 E 105.6 PAPUA REGION, INDONESIA
2016-09-24 11:04:29.31.91 S 140.70 E 105.6 PAPUA REGION, INDONESIA
2016-09-24 10:20:45.034.47 N 141.79 E 105.0 OFF EAST COAST OF HONSHU, JAPAN
2016-09-24 09:41:58.01.94 S 140.62 E 105.1 PAPUA REGION, INDONESIA
2016-09-24 07:50:20.154.84 S 30.60 W 25.0 SOUTH SANDWICH ISLANDS REGION
2016-09-24 04:02:15.232.57 S 177.64 W 105.6 SOUTH OF KERMADEC ISLANDS
2016-09-24 01:32:54.654.95 S 30.74 W 105.0 SOUTH SANDWICH ISLANDS REGION
2016-09-23 23:45:37.86.56 N 126.60 E 825.0 MINDANAO, PHILIPPINES
2016-09-23 23:11:20.045.76 N 26.63 E 945.6 ROMANIA
2016-09-23 22:53:09.06.62 N 126.57 E 526.4 MINDANAO, PHILIPPINES

引用終了

 関東東方沖地震で発生している地震も過去に全く無かったわけでもないのでしょうが、やはりこれだけ頻発したのはブログを開始してからでは記憶に有りません。
 M6.0以上では有りませんがここの所はケルマディックエリアでもM5以上の地震が多くなって来ているのがわかります。
 一目瞭然で、太平洋の西側(東経のエリア)の比率が断然多くなっているのがわかり、更には北半球で通常よりは比率が高くなっています。
 フィリピンでのM6.4の地震も気になります。
 これは世界的なプレートバラスの変化なのでしょうか?
 だとしたらこれが今後続くのか? それとも今がピークで次第に今後は通常に戻って行くのか? と言うのは注目です。 

2016.9.25 10:15 追記
 引用例は

http://www.emsc-csem.org/Earthquake/?filter=yes&min_mag=5&min_intens=0&max_intens=8&view=1

からでした。
 

自然災害 仕組みとアプローチ -  関ヶ原の戦い後に見る家康の強運

2016-09-24 00:30:55 | 地震 津波
 1600年の関ヶ原の戦いは天下分け目の戦いであった年ですが、同時に世界的寒冷化への移行の始まりでもありました。
 これについては最近の記事でも触れた通りですが、日本への寒冷化の影響は多少遅れたようです。
 これだけならばまだ16世紀前半までは別にどうと言う話でもないのですが、

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
17世紀
江戸時代(1603年頃 - 1868年頃)
17世紀前半・・津波堆積物の分析から、この時期に千島海溝南部(十勝沖から根室沖まで)を震源とするM 8.6クラスの地震が発生したと推定されている。1611年または1635年説あり[69]。
1605年2月3日(慶長9年12月16日) 慶長地震(南海トラフ連動型地震説、東海はるか沖地震説、または房総沖と南海沖の二元地震説、伊豆・小笠原海溝地震説あり) - M 7.9〜8、関東から九州までの太平洋岸に津波、紀伊・阿波・土佐などで大きな被害。八丈島でも津波による死者数十人。死者1万〜2万人と推定されるが、津波以外の被害はほとんどなかった。
1608年12月30日(慶長13年11月23日)仙台で地震 - 津波で50人死亡[70][注 11]。
1611年
9月27日(慶長16年8月21日) 会津地震 - M 6.9、死者3,700人。
12月2日(慶長16年10月28日) 慶長三陸地震 - M 8.1(Mw >8.5)。十勝・根室沖のM 9クラスとする説がある。一方、東北地方太平洋側[注 12]で繰り返し発生していると推定されるM 9クラスの地震の候補ともされる[43][注 13][71]。伊達領で大津波による死者約2,000〜5,000人。
1614年11月26日 (慶長19年10月25日) 高田領大地震 - M 7.7。震源は直江津沖。震域は会津、伊豆、紀伊、山城、松山諸国まで及んだ。越後高田藩では地震と津波により死者多数とする記録もあるが疑わしい[72]、京都で寺社・民家が多数壊れ[注 14]死者も出たことから、震源が京都沖の局所的な地震とする見解もある[73]。同日に、伊豆と小田原と広い範囲で有感。津波が発生し千葉県銚子市の飯沼観音の境内まで到達したとの記録がある[注 15]。池上本門寺五重塔が傾く[注 16]。
1615年6月26日(慶長20年6月1日) 相模・江戸で地震 - M 6 1⁄4〜3⁄4、小田原、江戸で被害。
1616年9月9日(元和2年7月28日) 宮城県沖地震 - M 7.0、仙台城が破損。三陸地方大津波。
1619年5月1日(元和5年3月17日) 肥後(熊本)八代で地震 - M 6.0。卯の刻と牛刻の2回の地震で旧八代城(麦島城)が倒壊、竹田城(大分県)が破損。
1625年7月21日(寛永2年6月17日) 熊本で地震 - M 5〜6、死者約50人。地震動により火薬庫爆発し、熊本城が破損。
1627年10月22日(寛永4年9月14日) 松代地震 ※ - M 6.0±1⁄2、死者多数。ただし、宝永地震を転記した際に生じた誤り[74]との説がある。
1628年8月10日(寛永5年7月11日) 江戸で大きな地震があり、江戸城の石垣が壊れた - M 6.0。
1633年3月1日(寛永10年1月21日) 寛永小田原地震(相模・駿河・伊豆地震) - M 7.1あるいはM 7.0±1⁄4、小田原で大きな被害を出し死者110〜150人。駿河・熱海に津波。
1635年3月12日(寛永12年1月23日) 江戸で地震 - M 6.0前後、大きな被害。
同日に 蝦夷で強震(『福山秘府』)。上記17世紀前半の津波堆積物を1611年とする説がある一方で、1635年とする説もある[69][75]。
1640年11月23日(寛永17年10月10日) 加賀大聖寺地震(石川県加賀市) - M 6 1⁄4〜3⁄4、死者多数[注 17]。
1644年10月18日(寛永21年9月18日) 羽後本荘 - M 6.5±1/4、象潟で津波死者117名。本荘城廊大破。
1646年6月9日(正保3年4月26日)M7.6,仙台城の石壁100m以上崩れ、3階の陣櫓3基倒れ。白石城の石壁・櫓破損[76]
1647年6月16日(正保4年5月14日) 丹沢で地震 - M 6.5±1⁄4、江戸城の石垣や大名屋敷など破損。小田原城に大きな被害。
1648年6月13日(慶安元年4月22日)相模・江戸で地震 - M 7.0程度。小田原城破損、箱根で落石、死者1名。ただし、江戸での被害疑問とする見解もある[77]。
1649年

引用終了

 と言う事で、17世紀に入ると、西日本、特に毛利氏や島津氏、立花氏などの所領などに比べ東日本で急に大地震やそれに伴う津波が増えて来ます。
 家康が島津氏討伐を諦めず、泥沼化していた場合、関ヶ原の戦いでは殆ど無傷だった毛利氏他の多くの旧西軍大名、或いは旧西軍の残党武士や浪人などがこうした自然災害を契機に総決起する可能性は或いは有ったのかも知れません。
 しかし家康は既に島津氏と妥協して天下統一を果たした後でした。
 「ツキも実力の内」とは言いますが、17世紀から始まる寒冷化と言い、大地震の東日本での多発化と言い、まるでそれがわかっていたか、或いはそう言うリスクを想定していたかのように事前に島津氏と妥協する判断は、筆者にはまさに「神がかり」かとも思える事があります。
 家康の強運は他にも有る、と筆者は分析しています。