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4.長男は、第3回から参加しつづけている。したがって、これから訪れようとしている作品についての解説も板についていて、まだ2回目、初心者同様の私にとってはありがたい。
4日間で、とにかく長男の指示通りに、車を走らせ、降りて歩き、見学し、また車に・・・の連続。正月のタレントのような移動である。
スタンプカードには、79個ものスタンプが押されていた。1日20か所平均になる。スマホの万歩計アプリでは、1日平均して1万歩くらい。よく走らせ、よく歩いたものだ。記録的猛暑の続く日本列島では、新潟も例外ではなく暑くはあったものの、風の乾燥度が違う。熱波がないだけ、過ごしやすい。ずっと雨が降っていないので、農作物が心配だとのこと。最終日に関越自動車道を走っていたときに、赤城や高崎あたりで、前が見えなくなるほどの激しい雷雨に遭遇したが、新潟ではどうだったのだろう。
5.心に残った作品をいくつか。
① アトラスの哀歌 これはすでに書いた通り。作品に、というよりも、作家との同時代性に共感、共鳴しているものだから、鑑賞の態度としては邪道なのか。
② イダキ オーストラリアの先住民族、アボリジニの伝統楽器。木をくりぬいて、太い響きのある木管楽器。これも私の体験との関連から印象に残ったものだ。東京都の教員海外派遣研修で訪れたオーストラリア、ダーウィンで、アボリジニの案内人の方が話してくれた楽器である。オーストラリアは、2008年にアボリジニに対し、ケビン・ラッド首相が、公式に謝罪をしている。かたや日本では、「北海道150年」と銘打った、浮ついた「祝い事」が計画されている。アイヌの人々への謝罪の観点は、さらさら感じることはない。情けない国だ。
③ 光の館 これは光がもたらす幻想的な感覚を堪能。芸術と言えば、それはそうなのだろうが、私には「素晴らしいアイデア」といった感想。アイデア、工夫も、私の稚拙なアートの定義「人間の創造性の無限の広がりを表現したもの」には間違いなく含まれると思うのだが。私の見方が、いじわるなのか。
④ 絵本と木の実の美術館 廃校になった校舎、そして周りの校庭、田んぼ、ヤギの飼育小屋、そして絵本の中身が飛び出した作品群。それらが一体化して、全体としてひとつの作品であるように感じた。田島征三という1人の作家よりも、この会場を創り上げたたくさんの人たちの思いは重い。
⑤ 大地の恵みー土・圭・ギョウ(漢字の土の下に左右とも土の字) 香港の、障害を持つ作家のグループによる作品群。ポテトマンという名称の陶器の人形がずらりと並んでいる。ひとつひとつの表情が、じつに楽しい。きっと楽しみながら創っていたのだろうなと、その工程のワイワイ感が感じられる作品。
⑥ カサバラタ ムニール・ファトゥミ。モロッコの作家。小さな家の中に、5つのストーブ。その暖気が、パイプを通して外に出されているといった構造。貧しかったという作家の幼少期の思い出と、家が少なくなっていく妻有の家の様子とを重ね合わせて「町全体が暖かくなるように」と願って創られたとある。
⑦ 里山アートどうぶつ園 いま東京で「縄文」の博物展が行われているが、その展示作品の中で、豚の土偶があった。今から数千年も前の人間が、これほど写実的に創ることができるのだと驚き、その豚を思い出しながら、アートどうぶつ園を見て回った。どれも可愛い、つまり表情が豊かだ。
⑧ Kiss & Goodbye 思い出ポスト ジミー・リャオ 台湾の絵本作家。とにかく癒される色彩、男の子と犬の可愛さ。物語としてではなく、1枚の絵としても、ずっと見続けていたいほど引き込まれる世界の絵だ。
⑨ 脱皮する家 これは複雑な思い。何年もかけて、柱、床などに、刀を入れて、細かい模様に囲まれた、壮観な家に生まれ変わった。その根気や、作業には圧倒されるものがある。一方で、「作品」として生まれ変わった家は、すでに居住空間としては存在していないことを意味するものであって、「宿泊できます」とはいえ、もはや「家」ではなくなったことには、残念で複雑な思いもしている。
⑩ 夢の家 どんな思いで制作されたのか分からないので、評価のしようがないが、私にはどうもしっくりとしなかった作品。色のついた部屋の棺桶で眠って、夢をメモする
行動に、価値を見出すことができないでいる。みなさん、教えてほしい。
⑪ 棚田 これはアートではないかもしれないが、どんなところにも生きる場を作ってしまうのだという、人間のしたたかさ、強さを感じさせてくれる。
4日間で、とにかく長男の指示通りに、車を走らせ、降りて歩き、見学し、また車に・・・の連続。正月のタレントのような移動である。
スタンプカードには、79個ものスタンプが押されていた。1日20か所平均になる。スマホの万歩計アプリでは、1日平均して1万歩くらい。よく走らせ、よく歩いたものだ。記録的猛暑の続く日本列島では、新潟も例外ではなく暑くはあったものの、風の乾燥度が違う。熱波がないだけ、過ごしやすい。ずっと雨が降っていないので、農作物が心配だとのこと。最終日に関越自動車道を走っていたときに、赤城や高崎あたりで、前が見えなくなるほどの激しい雷雨に遭遇したが、新潟ではどうだったのだろう。
5.心に残った作品をいくつか。
① アトラスの哀歌 これはすでに書いた通り。作品に、というよりも、作家との同時代性に共感、共鳴しているものだから、鑑賞の態度としては邪道なのか。
② イダキ オーストラリアの先住民族、アボリジニの伝統楽器。木をくりぬいて、太い響きのある木管楽器。これも私の体験との関連から印象に残ったものだ。東京都の教員海外派遣研修で訪れたオーストラリア、ダーウィンで、アボリジニの案内人の方が話してくれた楽器である。オーストラリアは、2008年にアボリジニに対し、ケビン・ラッド首相が、公式に謝罪をしている。かたや日本では、「北海道150年」と銘打った、浮ついた「祝い事」が計画されている。アイヌの人々への謝罪の観点は、さらさら感じることはない。情けない国だ。
③ 光の館 これは光がもたらす幻想的な感覚を堪能。芸術と言えば、それはそうなのだろうが、私には「素晴らしいアイデア」といった感想。アイデア、工夫も、私の稚拙なアートの定義「人間の創造性の無限の広がりを表現したもの」には間違いなく含まれると思うのだが。私の見方が、いじわるなのか。
④ 絵本と木の実の美術館 廃校になった校舎、そして周りの校庭、田んぼ、ヤギの飼育小屋、そして絵本の中身が飛び出した作品群。それらが一体化して、全体としてひとつの作品であるように感じた。田島征三という1人の作家よりも、この会場を創り上げたたくさんの人たちの思いは重い。
⑤ 大地の恵みー土・圭・ギョウ(漢字の土の下に左右とも土の字) 香港の、障害を持つ作家のグループによる作品群。ポテトマンという名称の陶器の人形がずらりと並んでいる。ひとつひとつの表情が、じつに楽しい。きっと楽しみながら創っていたのだろうなと、その工程のワイワイ感が感じられる作品。
⑥ カサバラタ ムニール・ファトゥミ。モロッコの作家。小さな家の中に、5つのストーブ。その暖気が、パイプを通して外に出されているといった構造。貧しかったという作家の幼少期の思い出と、家が少なくなっていく妻有の家の様子とを重ね合わせて「町全体が暖かくなるように」と願って創られたとある。
⑦ 里山アートどうぶつ園 いま東京で「縄文」の博物展が行われているが、その展示作品の中で、豚の土偶があった。今から数千年も前の人間が、これほど写実的に創ることができるのだと驚き、その豚を思い出しながら、アートどうぶつ園を見て回った。どれも可愛い、つまり表情が豊かだ。
⑧ Kiss & Goodbye 思い出ポスト ジミー・リャオ 台湾の絵本作家。とにかく癒される色彩、男の子と犬の可愛さ。物語としてではなく、1枚の絵としても、ずっと見続けていたいほど引き込まれる世界の絵だ。
⑨ 脱皮する家 これは複雑な思い。何年もかけて、柱、床などに、刀を入れて、細かい模様に囲まれた、壮観な家に生まれ変わった。その根気や、作業には圧倒されるものがある。一方で、「作品」として生まれ変わった家は、すでに居住空間としては存在していないことを意味するものであって、「宿泊できます」とはいえ、もはや「家」ではなくなったことには、残念で複雑な思いもしている。
⑩ 夢の家 どんな思いで制作されたのか分からないので、評価のしようがないが、私にはどうもしっくりとしなかった作品。色のついた部屋の棺桶で眠って、夢をメモする
行動に、価値を見出すことができないでいる。みなさん、教えてほしい。
⑪ 棚田 これはアートではないかもしれないが、どんなところにも生きる場を作ってしまうのだという、人間のしたたかさ、強さを感じさせてくれる。