新しいカテゴリーで、道徳教育、人権教育について考えていきたい。
このカテゴリーをおこした契機には、二つある。
①今年度の校内研究が道徳になったことと、市の委嘱として人権教育推進委員となったこと。やるからには、少しでも自分なりの知識、見識を持ち合わせていきたいと思ったこと。
人権推進の最初の会合で、担当指導主事から、いきなり、このメンバーから、12月、1月に公開授業を行ってほしいと依頼された。年に五回しか集まらず、どう責任をもって、授業を行えばいいのだろう。市の教科研究会、校内研究会、経験年数による年次研、管理職に見せる授業観察など、網の目のように、私たちは「授業」を迫られている。市教委は、私たちの教育条件を整備することが本務だと思うのに、まったく反対の提案を次々と行ってくるのだ。しかたなく、私が世話人になり、この提案については次回の持ち越しにしてもらった。
「あっ、都から出ている冊子に掲載されている実践例を、そのままやればいいことですから」「そんなに重く考えなくていいですから」そんな問題ではないだろう。指導案は、目の前にいる子供たちの実態に合わせて作成しなければならない創造的なものである。しかも、下書きをすれば、市に、講師に事前に提出し、「手直し」を何度もされることは必至である。事前にメンバーとの意見交換も必要だろう。テーマ自体重いのに、いくらなんでも、これでは、丸投げ同然ではないのか。
委員を受けたからには、内容をじゅうぶんに吟味して授業に臨みたい。そんな願いもむなしくなる提案である。
勤務時間内では、とうてい終わらない私たちの仕事を、市教委は、どう考えているのだろうか。
そうした一方で、個々に道徳、人権について、あらためて考えを深めていきたい。(書いていて、そういえば私たちの人権はどうなっているのだろうと、素朴な疑問がわいてきた)
②道徳については、教員になったときから、推奨される指導内容、指導方法について違和感があったこと。さかのぼって、私の受けた道徳の授業について、驚くほど記憶に残っていないこと。(ただひとつの思い出は、中学生のときに、道徳の授業で、私の書いた授業の感想が、担任から「べた褒め」され、それがもとで、しばらく私は同級生から「いい子ぶりやがって」的ないじめを受けたことぐらいである。当時「優等生」だった私は、本音ではなく「こんな感じで書けば、担任も満足してくれるにちがいない」と思って書いたのである)
かつて三鷹で、道徳の研究発表をしている小学校の研究発表を見に行ったことがある。
高学年では、研究主任の教員が、「手品師」の授業を行っていた。
内容は次回に書くことにするが、この授業は、担任の「一方的な価値の押し付け」と、児童の「担任思いの意見・感想」の合体した「すばらしい」授業であった。
アンケートに、私は「この授業は、児童が思考停止に陥っている」「指導の方法・方向が、子供たちに見抜かれていて、担任の思いに寄り添った感想を、子供たちは本音とは別の次元で書いているにすぎない」と書いた。
後日、その教員から「反論」のお手紙をもらい、何度かやり取りをするのだが、こんな授業を推進している限りは、子供たちの本来の道徳性など育つはずはないと感じた。
この一年間。私の考えるテーマである。
このカテゴリーをおこした契機には、二つある。
①今年度の校内研究が道徳になったことと、市の委嘱として人権教育推進委員となったこと。やるからには、少しでも自分なりの知識、見識を持ち合わせていきたいと思ったこと。
人権推進の最初の会合で、担当指導主事から、いきなり、このメンバーから、12月、1月に公開授業を行ってほしいと依頼された。年に五回しか集まらず、どう責任をもって、授業を行えばいいのだろう。市の教科研究会、校内研究会、経験年数による年次研、管理職に見せる授業観察など、網の目のように、私たちは「授業」を迫られている。市教委は、私たちの教育条件を整備することが本務だと思うのに、まったく反対の提案を次々と行ってくるのだ。しかたなく、私が世話人になり、この提案については次回の持ち越しにしてもらった。
「あっ、都から出ている冊子に掲載されている実践例を、そのままやればいいことですから」「そんなに重く考えなくていいですから」そんな問題ではないだろう。指導案は、目の前にいる子供たちの実態に合わせて作成しなければならない創造的なものである。しかも、下書きをすれば、市に、講師に事前に提出し、「手直し」を何度もされることは必至である。事前にメンバーとの意見交換も必要だろう。テーマ自体重いのに、いくらなんでも、これでは、丸投げ同然ではないのか。
委員を受けたからには、内容をじゅうぶんに吟味して授業に臨みたい。そんな願いもむなしくなる提案である。
勤務時間内では、とうてい終わらない私たちの仕事を、市教委は、どう考えているのだろうか。
そうした一方で、個々に道徳、人権について、あらためて考えを深めていきたい。(書いていて、そういえば私たちの人権はどうなっているのだろうと、素朴な疑問がわいてきた)
②道徳については、教員になったときから、推奨される指導内容、指導方法について違和感があったこと。さかのぼって、私の受けた道徳の授業について、驚くほど記憶に残っていないこと。(ただひとつの思い出は、中学生のときに、道徳の授業で、私の書いた授業の感想が、担任から「べた褒め」され、それがもとで、しばらく私は同級生から「いい子ぶりやがって」的ないじめを受けたことぐらいである。当時「優等生」だった私は、本音ではなく「こんな感じで書けば、担任も満足してくれるにちがいない」と思って書いたのである)
かつて三鷹で、道徳の研究発表をしている小学校の研究発表を見に行ったことがある。
高学年では、研究主任の教員が、「手品師」の授業を行っていた。
内容は次回に書くことにするが、この授業は、担任の「一方的な価値の押し付け」と、児童の「担任思いの意見・感想」の合体した「すばらしい」授業であった。
アンケートに、私は「この授業は、児童が思考停止に陥っている」「指導の方法・方向が、子供たちに見抜かれていて、担任の思いに寄り添った感想を、子供たちは本音とは別の次元で書いているにすぎない」と書いた。
後日、その教員から「反論」のお手紙をもらい、何度かやり取りをするのだが、こんな授業を推進している限りは、子供たちの本来の道徳性など育つはずはないと感じた。
この一年間。私の考えるテーマである。