つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

法則は非常識にある、人間が間違っているだけである

2019-04-19 | Weblog
超越した現象というのはない。
なぜなら、エネルギーの法則を超えてしまうということは存在にならないためである。
超というのはそういうことである。

存在にならないことを考えてみたところで何の意味もない。
たとえば、
死後の世界は、人の経験とならない世界である。
経験にならないということは、死んだ瞬間人ではないものとなるからである。
この世の存在でなくなるためである。
そのために、死後の世界を考え見ても想像でしかなく、想像は架空のことである。
だからもし、その想像が誤っていたとしても、正すことができなくなる。
そのために、釈迦は死後の世界を尋ねられても、一切答えることはしなかった。

死ぬということは、人ではなくなるということであるから。
人が死ぬということは、人でなくなるために、
人ではないものの世界を人が語ることはできないのである。
あくまでも生きている人の想像で語られているだけである。
誰も証明はできないものとなっている。人である限り。
死というものは、そういうことである。
死んで初めてこうであったかと思ったところで、この世に返ることはできないために、
真実を伝えることはできない。これが道理である。
道理はどんな力に於いても変えることはできないのである。

人が眠る時の姿は、死んでいる姿と同じである。
その眠っている時に見るのが夢の世界。
眠っている本人は、その夢が夢の世界であることに気づかずに見ている。
現実の世界と同じように現象しているが、空を飛んでいたり、子供のころに戻っていたり、
或いは、瞬時違ったところへ場面が移っていても、なんら夢とは思わず見ている。
瞬時場面が入れ替わっても不思議と思わないのは、夢の世界には時間空間が無いためである。
記憶の現象世界というのは時空が無いのである。当然記憶の現象世界であるあの世も同じである。
時空は存在しない。
朝になり目覚めたときに、はじめて夢を見ていたと思うが、見ているときは夢とは思わないで見ているのである。
この夢が、脳による記憶の現象映像である。
つまり、記憶がエネルギーだからである。
私達は日々生きている間、いろいろなことを体験して、この体験が記憶のエネルギーとなって、心、つまり魂となっている。
精神であり気である。その気の持ち方が、気持ちとなり心、心根となり根性となっていく。
心は意と言い、意思であり意志となっていく。
この意の世界が、エネルギーの記憶の世界、現象世界、だから、夢の世界は死後の世界と同じである。
あの世は、夢の世界と同じ記憶の現象世界となっているのである。そのために、
悪魔たる記憶を作らず、正しい経験の記憶として生きていきなさいよと先人たちは訓えているのである。

正しい経験が正しい心(記憶)を作り、正しい人生となって死後の世界となっていく。
人は必ず死んでいくのは、生が死の絶対条件であり、つまり、死後の世界を幸せとするための記憶を作るために、
肉体を持って生きていく。肉体が無くなった時(死)、エネルギーである心は、記憶の現象として世界を表す。
これがあの世である。生前の記憶が死後の世界となっていくのである。心はエネルギーであるために、
無くなることが無い。つまり、死が無いのである。それは、エネルギーが円運動の法則となっていて、
無くなることのない運動となっているためである。だから、繰り返す。
一日が終わり明日に繋がっていくように。これが法則であり道理である。自然という。
このありのままを見て、一事が万事として、法則は訓えているのだが、
ありのままを見ていながら、死んだらおしまい、何もかも無くなってしまうと間違って思い込む。
法則は無くならないものである為に、世界も無くならないものとなっている。
ただの一度として、明日が地上に来なかったことがなかったように、これからもそうである。
ただ変化していくだけである。
その無常は常住の中での無常であるのは、エネルギーの法則には変化が無いためである。

最終的に心であるエネルギーは、無常の中に生き、
この変化のない常住なる世界の幸せに生じるために、何度も生まれ変わりをしているものである。





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