つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

なぜ?

2010-07-10 | Weblog
人生ほとんど7,80年というところ。
皆死ぬんだから、死を大事に考えないと、
生きて人生無駄となる。

生命が自分である。生命はエネルギー。生命には死がない。つまり、本来
自分には死がないのである。自分という生命は、
円い容で光っている。その生命は想いを持って様々な姿となって現れてくる。
それが肉体であり、この世を生きていく一時の形である。

はじまりはそのエネルギーの持つ性質によるもので、
なぜ‘そのような'という理由は無い。そのような性質だったからという存在から始まる。
生命がその性質上もって現れた(生じた)姿で、人生経験をする中での思い(記憶)が
生命エネルギーを完成させていく。完全に完成されたものとなれば、肉体を持って生じてくることは無い。それが悟りである。生命そのものが自分である。だから、生きて人生悟りを得られない限り、何度も生死を繰り返す。さまざまに母胎に宿り、苦しみの生を受ける。
あの人生この人生と、名を違え、姿を変えて生きていく。
肉体を持って生きていくのは、死そのものが無い生命の世界を幸せな世界とするためである。生命が永遠の安住を得るためにである。そこはエネルギーの法則そのものの世界である。それが生命の完成された世界である。完成となるまでは何度も苦しみの生を受けて人生を歩む。
生の絶対条件である死に向ってである。
今生、悟ることができず、なぜ生きるのか知らないまま人生を終え、死を迎えれば、
輪廻転生する。輪廻するまでの間、一時あの世で生きる。人生経験の記憶はそのままあの世で現象となるために、あの世は記憶の現象の世界となっている。今生の記憶はあの世で現象されていくために残らず、生まれた時は、
何も知らない子供の動作となっている。
人生経験の記憶がそのままあの世の世界となっていくために、今生の行いの縁によって
あの世は決まってくる。
来世に生じる間の空白の世界である。その空白の世界(あの世)は記憶の現象の世界である為に、記憶の中に恐怖が刻まれていれば、あの世は恐怖の現象される世界となって、地獄となってしまう。ここがとても重要なところで、般若心経の説くところの要である。

まだ生命が完成されたものでなければ、輪廻転生するが、あの世がそのワンクッションおいた世界となっているのである。あの世は、時間も無ければ空間も無い為に、変わることの無い世界となっている。どれだけ長い間いたとしても飽きることも無く、時間ゼロとなっている。一年でも何千何万年でも、そこにいた時間はゼロである。
そのために、縁あっていつの世にか生まれたとしても、今生と来世は瞬時となっている。

あるときの人生に、幾多乗り越えた生命の記憶を統一できて、省み、悟ることができたなれば、人としての行為を離れ、輪廻を離れることができ、時間ゼロの永遠の変わらない世界へと赴くことができる。それが生命の極楽であり、涅槃である。自分が主の自由の世界である。四苦八苦の無い生命の完成された世界、安住の地である。
そのために、人は滅びる肉体を持って死ぬ為に生きる。
その方便が正しい行いに尽きる。

生命を悟れば死を悟り生を悟る。
生命は法で作られたものであるために、法を悟ればすべてがわかる。
死後が生命の本当の世界である。


生命には死がない。
コメント
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