演奏曲 「高松城」 解説 奥 正水 先生
時は天正10年(1582年)、天下統一を急ぐ織田信長の命を受け、西の覇者、毛利を打つべ く羽柴秀吉を総大将として8万の軍勢を率い中国地方、山陽道に破竹の勢いで攻め込んできます。 遂には4月、備中高松城主、清水宗治との戦いとなります。秀吉側の時の名軍師、黒田官兵衛らが 説得し、降伏すれば備中・備後 2 カ国を与えるという条件を出しましたが、宗治は応じず、信長か らの書状をそのまま主君・毛利輝元のもとに届けて忠義を示しました。
そうなるともはや織田軍の総攻撃体制に突入していきますが膠着状態となり、そこで官兵衛の策 により、高松城近くを流れる足守川の流れを堰き止めて、水攻めを敢行します。折から梅雨どきと いうこともあり、高松城は瞬く間に水中に没しはじめ、周りは湖のようになり、城は孤立。 毛利側総大将の、毛利輝元や、小早川隆景、吉川元春(きっかわもとはる)らが、4万の軍を率い て着陣したときには既に、時遅し。手が出せない状況で、傍観するしかなかったのであります。
その様な時に、秀吉側は、光秀から毛利方に送られた使者を捕らえ、6月2日、本能寺、信長死 す、の報を掴んだのであります。秀吉はその事実を隠したまま、毛利側の、安国寺恵瓊(あんこく じ えけい)に講和を急がせ、宗治を切腹させることで城兵五千人を助命する和議を結んだのであり ます。 宗治は、信長の死を知らぬまま、その 2 日後(1582 年 6 月 4 日)巳の刻(午前10時)に、水浸 しになった高松城から小舟で、秀吉勢の近くまで行き、両軍、総勢約10万の兵が見守るなか、能 の「誓願寺」を舞い、毛利への義理を貫き、城内五千人の命と引き替えに、潔く切腹し介錯人に首 を落とさせたのであります。
秀吉は、潔いばかりではなく、美しく命を差し出した、名将、清水宗治に対し、後に「宗治は武 士の鑑であった」と絶賛したと言います。
このときの宗治の切腹作法がその後の切腹の基本、名誉ある死として定着する事になりました。 秀吉は、この後、即、京への 230km を 10 日間で大移動、「山崎の戦い」で、明智光秀を打ち、天 下人への道をかけ上がっていったのであります。 奇しくも、秀吉と同年の、清水宗治、享年 47、壮絶な人生でありました。
辞世の句、 「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」