龍の声

龍の声は、天の声

「福岡 筥崎宮『敵国降伏』という文字」

2018-01-21 08:49:00 | 日本

神門の扁額に「敵国降伏」という文字が書かれている福岡県福岡市の「筥崎宮」。ここは「日本三大八幡宮」の1つとされ、鎌倉時代の蒙古襲来を退けたという伝承が残されているスポットです。今回は筑前国一宮、「筥崎宮」を巡り、この地に残される伝承や歴史を知ろう。
 

◎玄界灘を睨んで鎮座する筥崎宮は外敵退散、武運長久を祈願するという社
 
博多湾の箱崎浜に鎮座する「筥崎宮(はこざきぐう、筥崎八幡宮)」は筑前国一宮。ここは大分の宇佐神宮、京都の石清水八幡宮とともに「日本三大八幡宮」の1つとされます。
 
古伝によると、延喜21年(921年)に八幡大神の託宣があり、応神天皇を主祭神として筑前、穂波の大分宮より遷座し、外敵退散、武運長久の神として、玄界灘を睨む博多湾岸に鎮座したと伝えられています。鎌倉時代の元寇(蒙古襲来)の折には、亀山上皇が外敵退散を祈願し、神門に敵国降伏の扁額が掲げられたと言います。後世になってからは足利尊氏、大内義隆、豊臣秀吉、小早川隆景などの名だたる武将が武運長久を祈願し、筥崎宮は隆盛を誇っています。


◎蒙古襲来を退けたと伝えられる、八幡大神の神威とは?
 
鎌倉時代中期の文永11年(1274年)10月。軍船900隻で押し寄せた4万の元軍は、対馬、壱岐、松浦を経て博多湾へと襲来、百道浜に上陸します。そして迎え撃つ日本軍の側は鎮西奉行、少弐氏率いる九州の御家人たち。両軍は赤坂や鳥飼潟周辺で激しい戦闘を展開したとされます。この時は筥崎宮周辺でも戦闘が行われ、兵火に罹った筥崎宮の社殿は炎上。そして戦闘が行われた翌朝、元軍は博多湾から忽然と姿を消したと言います。戦闘の際に筥崎宮を焼失させたことで八幡大神の怒りをかい、夜半に神風が吹き、元軍を波間に沈めたとも伝えられています。
 
八幡神縁起「八幡愚童訓」によると、元軍が博多や箱崎まで攻めてきたため、日本軍は水城へと後退します。そしてその夕暮れ、八幡大神の化身とされる白装束の30人ほどが筥崎宮より出て、元軍に激しく矢を射かけます。矢を避けようと元軍が海に逃げ出したところ、八幡大神を顕現した兵船が現れて元軍を討ちとり、沖に逃れた軍船は神風に吹きつけられて悉く沈んだとされます。
 
文永の役の後、鎌倉幕府は博多湾沿岸に石築地を築造し、元の再襲来に備えました。元寇防塁は高さが約2m、総延長は約20kmにも及ぶとされ、国の史跡になっています。弘安4年(1281年)の弘安の役では、元軍はこの石築地のために博多湾岸への上陸を断念したと言います。
 

◎蒙古襲来の伝承が今も残る、筥崎宮の歩き方
 
筥崎宮の本殿、拝殿は元寇や戦国期の戦乱によって荒廃。その後、大宰大弐、大内義隆によって天文15年(1546年)に再建されています。現在の楼門(神門)は文禄3年(1594年)に筑前国守、小早川隆景が建立したもの。本殿、拝殿、楼門は国の重要文化財になっています。
 
境内にはご神木の「筥松」もあり、応神天皇が生まれた時の御胞衣(えな)を筥に入れ、この地に納めたしるしの松と言われ、社名の由来にもなっています。さらに傍には2個の「蒙古碇石」があります。これは全長2~3mの角柱状の石で、元の軍船の碇(いかり)の部材であるとされていて、県の有形文化財になっています。博多湾を中心とした海底から発見されていて、今までに40個ほどが見つかっています。
 
ここ箱崎浜は、博多祇園山笠で清めの真砂(まさご)を取るお汐井とりの浜。博多っ子にも馴染みの海岸です。また、締め込み姿の男たちが宝珠を奪い合うという奇祭、正月3日の「玉せせり」や、9月の「放生会(ほうじょうや)」など、博多の風物詩ともなっている祭事が今も行われています。
 
 
 








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「憲法改正発議:野党は建設的な提案を」

2018-01-20 07:25:42 | 日本

早川忠孝さんが「憲法改正発議:野党は建設的な提案を」について掲載している。
以下、要約し記す。



憲法改正発議の機会は、今年が最初で最後だろうというのが、現時点での私の見立てである。
憲法改正発議の条件が整っているのに手を拱いて何もしないでいる、というのは勿体ない。

とにかく、現在の日本の憲法の在り方について現在の日本の国民の意見を聞く、というのはそれなりに意義があることだ。

国権の最高機関とされる立法府の国会が、憲法改正の発議権をようやくにして行使する、というのもよく考えれば大したことである。

国の政治が乱れた状態でバタバタとトンデモナイ憲法改正が行われるよりも、国の政治が比較的安定し、民心が乱れていない時に、熟議を重ねて立派な憲法改正をやればいいじゃないか、というのが私の考えである。

憲法改正のための国民投票は、改正項目ごとになされるはずだから、他の改正項目については国民の過半数が賛成しても、憲法9条の改正については否決されることも十分あるだろうと予測しているが、それでもいいんじゃないか。国民の主権発動の最高のチャンスが目の前にぶら下がっているのだから、やれるものならやった方がいい。

なお、私は、現時点での憲法改正論議のゴールが憲法9条の改正論議になるだろうと思っている。

初めから難しい問題に手を付けてしまうと、他の大事な論点についての議論が疎かになるから、憲法9条以外の論点についても十分議論を尽くしてもらいたいものである。

ちなみに、憲法改正の発議だけは何としても阻止する、などと勢い込んでおられる方も結構おられるが、結局は多勢に無勢で、何らかの発議がなされてしまうことは必至だろうと思っている。

そういう政治状況の下では、国民の多数の共感を得られるような憲法改正案の提案を急いだ方が遥かに有益だろうと思っているのだが、さて、立憲民主党の皆さんやその他の政党の皆さんはどうお考えなんだろうか。








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「憲法改正国民投票の日をいつにすべきか?」

2018-01-19 07:01:11 | 日本

早川忠孝さんが「憲法改正国民投票の日をいつにすべきか?」について掲載している。
以下、要約し記す。



まだ憲法改正発議の中身が決まっていないのになんてまあ気が早いことを、と言われるだろうが、私は憲法改正の発議は必ずなされると思っている。

現在の憲法は基本的にはGHQから与えられた憲法、ないし借り物の憲法だから、一度は国民の平場の議論で見直され、国民の投票でその可否が問われるべきものであった。

憲法の施行から70年が過ぎる現在まで憲法そのものについてその可否ないし当否を問う投票はなされてこなかったのだが、国民投票制度が整備され、衆議院、参議院の両院で憲法改正に積極的な政治勢力が3分の2を超える状況に立ち至っているのだから、この機を逃す手はない。

安倍政権が漫然とこのまま政権の座に就き続けることには多少の異論ないし不満があるが、私は、自民党が国民の大多数が容認する方向での憲法改正に踏み切ることには賛成である。
今の自民党なら決して無茶なことはやらないはずだ、という基本的な信頼感がある。

安倍総理の周辺の人たちだけでどんどん進められてしまうと、国民の大多数が容認しないような内容の憲法改正案の発議になりかねないぞ、という懸念を免れないが、自民党や公明党のみならず、希望の党や維新、その他一般国民の声に十分耳を傾けて、大方の国民が容認・納得できるような憲法改正案にして発議してくれればいい。

案ずるより産むは易し、という成語があるが、今の政治状況だったら何とかなりそうである。
立憲民主党の枝野氏は、如何にも共産党や過激派労働組合と同調しやすそうな言動をすることがあるが、基本的には改憲派に分類されるはずである。
ご本人が保守を自認されるのだから、保守的な価値観も持ち合わせておられるはずだ。

教条主義の護憲派だ、などと言われてしまうとまず絶対に折り合うことはないだろうが、枝野氏は教条主義者でも護憲派でもないということになると、憲法改正案の内容次第では折り合う余地が出てくるということだ。

選挙を目前にすると、普通であれば適当に折り合いを付けれるようなものでもあえて争点化させ、折り合いが付けられないような難しい問題にしてしまう可能性があるので、出来れば選挙の時期は避けておいた方がいい。

今朝の東京新聞が、今年の10月の臨時国会で憲法改正の発議をして、来年の2月頃に憲法改正国民投票をするという大まかなスケジュールを描いていたが、多分このスケジュール感が一番いいはずだ。

安倍総理の総裁3選がどうなるかは今の段階では何とも言えないが、どなたが自民党の総裁になっても、憲法改正の発議のスケジュールは大体こんなものだろうと私も思っている。











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「改憲 多くの党の賛同を 首相、早期発議へ呼びかけ」

2018-01-18 06:33:58 | 日本

◎公明慎重、野党は9条改正否定的

安倍晋三首相(自民党総裁)は7日放送のNHK番組で、憲法改正について「できるだけ多くの党の賛同を得るような形で発議していただきたい」と述べ、与野党に幅広く協力を求める考えを示した。一方、野党は首相が提唱した9条1、2項を維持したまま自衛隊を明記する案に否定的な姿勢を改めて示した。

首相は改憲について「まずは国会で議論を進め、その中で国民の理解が進むことを期待したい」と強調した。自民党が改憲案をまとめる時期は「全て党にお任せする」と述べるにとどめた。

首相は4日の年頭の記者会見で、早期の国会発議を目指す考えを示している。番組では「国民の半数(の賛同)を得なければ憲法改正できない」とも指摘。幅広い合意形成を優先する姿勢を強調したといえる。

ただ、公明党の山口那津男代表は同じ番組で「まだ国会で議論が十分に深まっている状況ではない」と指摘した。公明党は月内にも自民党が示した「改憲4項目」に関する議論を始めるが、山口氏は「どこが優先順位かも含め、まだ党内で議論が深まっていない。議論を深めるところから始めたい」と述べ、慎重に対応する方針を強調した。

一方、立憲民主党の枝野幸男代表は、9条改正に関し「安保法制による集団的自衛権行使の一部容認は憲法違反で立憲主義にも反する。本来の解釈に戻すことなしに9条の議論はできるはずがない」と強調。民進党の大塚耕平代表も「違憲の疑いのある安保法制がもう運用されている。それと連動する形での9条改正は認められない」と語った。

希望の党の玉木雄一郎代表は「自衛権の範囲について議論がなく、ただ自衛隊を書き込む議論のあり方は不誠実に映る」と述べ、慎重に議論を重ねる考えを示した。

共産党の志位和夫委員長は「9条改憲の発議は許さないという国民的多数派をつくる」と主張。日本維新の会の片山虎之助共同代表は「自衛隊の機能や評価を考えると、憲法に入れることはあってもいい」と語った。










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「改正国家戦略特区法とは、」

2018-01-17 06:37:44 | 日本

外国人の就農を可能とする「改正国家戦略特区法」が2017年6月16日に参院本会議で可決した。三橋貴明氏が解説する。
以下、要約し記す。



この法律が成立したことで、我が国は初めて外国人を「労働者」として受け入れることになった。農業特区において、外国人を「技能実習生」ではなく雇用契約に基づき受け入れる。より正確に書くと、外国人労働者に対し、国家戦略特別区域「農業支援」外国人受入事業として在留許可を出すことが可能になったのだ。

特区限定とはいえ、我が国が「移民国家化」する第一歩が踏み出されたのである。

もっとも、ご存じのように、すでに全国各地の農地では、外国人が働いている。とはいえ、彼らは「技能実習生」であり、外国人「労働者」ではない。先進国である日本が、アジア諸国から「実習生」を受け入れ、現場で働くことで技能を身に着けてもらう。通常3年、最長5年間の「実習」の終了後は帰国させ、祖国に貢献してもらう。これが技能実習生の考え方だ(建前ではあるが)。

日本はこれまで、外国人労働者、特に単純労働者の受け入れを認めてこなかった。理由は、日本の移民国家化を回避するためだ。「国民国家」である我が国が移民国家に転換する。これは「国の形」の根底にかかわる問題であり、最低でも長期の国民的議論を経る必要があるはずだ。

少なくとも日本は単純労働については「期間限定」という条件を付けてきた。厚生労働省の外国人雇用の届出状況によると、16年10月末時点で、日本で働く外国人は108万3769人。内訳をみると、技能実習生が21万1108人、留学生が20万9657人などとなっている。

留学生も、資格外活動許可を受けることで、週28時間以内を限度とし、アルバイトとして働くことが可能だ。コンビニや飲食産業で見かける外国人店員は、実は留学生なのである。


◎国民的議論なしに成立
 
また、17年3月から東京、大阪、神奈川の国家戦略特区で解禁となった「外国人の家事代行」の場合、外国人メイドの日本における滞在期間は最長3年だ。3年が過ぎると、彼女らは帰国せねばならず、同じ在留資格での再入国はできない。ちなみに、彼女らは外国人労働者ではなく「外国人家事支援人材」と呼ばれている。

さらに、我が国は「国内の資本・労働とは補完関係にあり、代替することが出来ない良質な人材」について「高度外国人材」として受け入れている。高度外国人材にしても、在留期間は5年と設定されているのだ(註・更新はできる)。

かくの如く、我が国は様々な制限をかけることで、「国民国家」と外国人雇用を両立させようとしてきたのである。それが、国家戦略特区に限定されるとはいえ、外国人を本格的に雇用可能な法律が、一切の国民的議論なしで通ってしまった。

農業特区における外国人雇用について、政府は以下の通り説明している。

〈農作業や農業に付随する業務を行う一定の要件を満たす外国人を「特定機関」が雇用契約に基づき受け入れる場合に、在留資格を付与する〉

将来の歴史書には、17年6月16日が「移民国家日本」の始まりであったと記されることだろう。

安倍総理は、保守派の政治家と思われている。普通、国民や国家を重要視する「保守派」の政治家は、移民受け入れに反対するはずなのだが、とんでもない。日本の憲政史上、安倍内閣ほど移民を受け入れた政権は存在しない。12年と比較し、日本の外国人雇用者数はおよそ1・6倍にまで増えたのだ。

ちなみに、「移民と外国人労働者は違う」といった主張は国際的には通用しない。国連は、出生地あるいは市民権のある国の外に12カ月以上いる人を「移民」と定義している。1年以上、我が国に滞在する外国人は、全てが「移民」なのである。

また、山本幸三地方創生担当大臣は17年3月の時点ですでに、農業特区における外国人雇用について、特区以外でも認める規制改革を検討すると表明している。いずれは、全国の農業の生産現場で外国人が雇用されていくことになるわけだ。これが「移民政策」でなければ、一体何だというのか。

なぜ、このような事態になってしまったのか。

それは、安倍政権が本来の「政府の目的」を忘れ、一部の「政商」のビジネスに手を貸してしまったということに尽きる。「政府の目的」とは、ビジネスでも利益でもない。「経世済民」である。国民が豊かに、安全に暮らせる国を作るという精神だ。









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「中国の海洋浸出を食い止めるために日米がすべきこと」

2018-01-16 06:09:56 | 日本

北村 淳さんが「中国の海洋浸出を食い止めるために日米がすべきこと」について掲載している。
以下、要約し記す。



昨年(2017年)は、東アジア海域、とりわけ南シナ海において、中国が東アジア諸国はもとよりアメリカに対しても優勢的立場を着実に築き上げ、それに対してアメリカの東アジア方面海洋戦力が目に見えて凋落し始めた年であった。

2018年にはいよいよトランプ政権の海軍力増強政策がスタートするが、南シナ海や東シナ海における中国の膨張主義的海洋侵出に、アメリカは待ったをかけることができるのであろうか?


◎米国民は東アジア海域に関心を示すのか?
 
しかし、アメリカが南シナ海や東シナ海での中国の膨張主義的海洋侵出を食い止めるのは容易ではない。まず、トランプ政権が中国の動きを、アメリカの国益という観点からどの程度深刻な軍事的脅威と受け止めるのか? という問題がある。
もちろん、かねてより米海軍関係者たちを中心とする人々は、南シナ海や東シナ海が「中国の海」と化することをアメリカの国益にとって最高度の脅威と考え、絶対に阻止すべきであると唱えてきた。

なぜならば、戦時(そして準戦時)に際して、それらの海域に横たわる海上航路帯(SLOC、シーレーン)を中国がコントロールすることになると、日本や韓国そしてフィリピンといったアメリカの同盟国の経済活動のみならず、アメリカ海軍の軍事行動にとっても致命的な影響が確実に生ずるからである。
 
しかしながら、海上航路帯の妨害という軍事作戦は、ミサイルや魚雷が飛び交う戦闘行為が繰り広げられることなしに──すなわち、人々の目に何が起きているのかが映し出される以前に、決着がついてしまう。そうした“目に見えないせめぎ合い”は、海軍戦略家以外の人々にはなかなか理解されがたいものである。
 
そのため、アメリカから遠く離れた「アメリカ国民にとって全く馴染みのない」南シナ海や東シナ海で中国が軍事的優勢を手にすることがアメリカの国防にとって極めて重大な脅威となる、との説明が、トランプ政権や連邦議会、またアメリカの主要メディアや世論などに幅広く受け入れられる見込みは高くはない。
 
まして、北朝鮮がアメリカ本土に到達するICBMを完成させ、アメリカを直接核攻撃できる能力を手に入れそうな状況下においては、「中・長期的に考えれば、中国海軍戦略の伸展こそが、金正恩のICBM恫喝などとは比べものにならないほどアメリカに対する最大の軍事的脅威となる」との主張が、トランプ政権や連邦議会そして米主要メディアを説得する可能性は低いものと考えざるを得ない。


◎海軍戦略を欠くアメリカ
 
もしトランプ政権が、北朝鮮問題に対する中国の役割に期待する無益さを真摯に受け止めて、中国の膨張主義的海洋侵出政策に対して本腰を入れて妨害する決断をなしたとしよう。この場合、マティス長官率いるペンタゴンが南シナ海や東シナ海で中国海洋戦力に対峙する動きを開始させることになる。

とはいっても、現在の米海軍の態勢では、とても中国の海洋侵出の勢いを大きく減速させたり食い止めたりすることはできそうにもない。
 
なぜならば、中国は確固たる長期的海軍戦略を手にしているが、アメリカ側にはそれに対抗し得る海軍戦略が存在しないからだ。中国の南シナ海(そして東シナ海)での軍事的優勢の確保は、「積極防衛戦略」(米軍ではしばしば「接近阻止・領域拒否(A2/AD)戦略」と呼ばれている)と呼称される国防戦略に立脚して着々と推し進められている。一方、アメリカ側は中国側の動きに応じて対処療法的な方針を繰り出しているに過ぎない。
 
中国は「よく練られ、適宜に修正を加えられつつある」海軍戦略を基に、南シナ海や東シナ海において次から次へと様々な手を打ち、主導権を手にしつつある。それに対してアメリカ側は海軍戦略といえるものを手にしていないため、押っ取り刀で対応し、結局は中国に振り回されているのが現在の構図である。そうした現状では、中国海軍・空軍・ロケット軍が睨みを効かせる南シナ海や東シナ海において、アメリカ海軍がかつてのように軍事的優勢を手中に収めることはもはやはなはだ困難であると言わざるを得ない。

たしかに、トランプ大統領は、355隻海軍建設のための法的根拠を実現させた。しかし、その355隻の主要戦闘艦が造り出され、アメリカ海軍がかつての大海軍の座を手にするまでには、10年以上もの年月がかかるとも言われている。その間、中国が待っていてくれはしない。

それどころか、数隻の空母や多数の潜水艦を含む500隻大海軍が南シナ海、東シナ海、西太平洋、インド洋に展開し、東シナ海や南シナ海沿岸部からは無数の対艦ミサイルや対空ミサイルが中国大陸に接近する敵勢力に備えているという、積極防衛戦略が描いている状況が実現してしまうことになる。


◎日米共に効果的な海軍戦略が必要
 
トランプ政権が打ち出したアメリカ海軍の大増強政策は長期的には必要不可欠な方針である。しかしながら、軍艦という「モノ作り」の前に、中国の積極防衛戦略に効果的に対抗するだけの海軍戦略を生み出さなければ、中国の極めて強力な膨張主義的海洋侵出の勢いを減衰させることはできない。
 
もちろん、アメリカ以上に海軍戦略(そして国防戦略そのものも)不在状態が続いている日本が可及的速やかに「国防戦略」や「海軍戦略」といえるだけの戦略を策定しなければ、未来永劫アメリカの軍事的属国、そしていずれは中国の属国の地位から脱却できないことは言を俟たない。









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「日本はいつまで核の傘にただ乗りできるのか」

2018-01-15 06:04:24 | 日本

池田信夫さんが「日本はいつまで核の傘にただ乗りできるのか」について掲載している。
以下、要約し記す。



今年(2018年)は憲法改正が議論される年になるだろう。自民党は通常国会で憲法審査会に改正案を示し、改正の発議をめざす方針だが、公明党は難色を示しており、衆参両院の3分の2を得る見通しは立たない。発議しても国民投票で否決されると二度と改正できなくなるので、自民党内にも慎重論が強い。

最大の争点は第9条だが、安全保障の議論が憲法論議に終始するのは危険である。むしろ今は、戦後の日米関係が大きく変わる時期に来ており、日米同盟を見直す必要がある。


◎護憲を言い換えた「なんちゃって立憲主義」
 
憲法論議で最近いわれるようになったのは「立憲主義」という言葉である。これは数年前までほとんど聞かなかった。朝日新聞データベースで調べると、立憲主義という言葉が使われた記事は1985年以降で2221件出てくるが、そのうち1931件が2014年以降だ。つまり安保法制についての閣議決定が国会で問題になったときから、急に増えたことが分かる。
 
こうなったのは、野党の掲げてきた「憲法を守れ」という統一スローガンが、国際情勢の緊迫で現実性を失ったからだ。立憲民主党などの唱える立憲主義は「護憲」を言い換えた「なんちゃって立憲主義」に過ぎない。

55年体制では、自民党が憲法を改正しようとし、社会党をはじめとする野党は「憲法を守れ」と主張した。第9条1項は1928年のパリ不戦条約と実質的に同じなので、自民党も改正しようとしていないが、問題は第2項である。

「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という規定は素直に読むと、あらゆる軍事力をもたないと解釈するしかない。国に自衛権があるとしても、交戦権がないと自衛できない。
 
この条文には多くの解釈があるが、憲法学者の多数は「自衛隊は憲法違反だ」と考えている。それは当然だが、奇妙なことに彼らの多数は「憲法を改正するな」という。これは三段論法で考えると「憲法違反の自衛隊を認める」ということだ。これは憲法学の自己否定に等しい。


◎与野党のなれ合いで続いてきた憲法論争
 
第9条の奇妙な条文は、不毛な憲法論争を生んできた。1946年に憲法制定議会で、吉田茂首相は「今日までの戦争の多くは自衛権の名によって始められたので、自衛権による戦争と侵略による交戦権を区別することは有害無益だ」と答弁した。

多くの戦争は自衛を理由に行われるので、自衛戦争も含めてすべての戦争を禁止するというのは筋が通っているが、その後は吉田の答弁も変遷し、政府は自衛権を認めるようになった。
 
今では自衛隊は「戦力」ではなく「自衛のための必要最小限度の実力を保持する」組織と定義されている。これは日本語として奇妙で、「必要最小限度とはどの程度なのか」とか「実力と戦力はどう違うのか」などの神学論争が国会で果てしなく続く原因になってきた。
 
在日米軍基地も「戦力」だと考えると、それを国内に「保持」することは違憲の疑いが強いので、「自衛隊を解散し、安保条約も破棄して米軍基地を撤去すべきだ」という憲法解釈が自然である。これは社会党の石橋政嗣が1960年代に非武装中立として社会党の政策とし、土井たか子委員長の時代まで続いた。
 
それは万年野党としては、合理的な政策だったともいえる。1960年代以降の社会党には政権交替の可能性がなくなり、過半数の候補者も立てなくなった。「正しい憲法解釈」を主張した結果として野党に甘んじることはそれなりに潔く見え、中選挙区では1議席ぐらい取れた。
 
他方、自民党は結党した当初から、保守勢力が「反共」で野合した理念なき党だった。岸信介は日米安保条約の改正に殉じて退陣したが、その後の首相は(安倍首相まで)改正案さえ出さなかった。多数を取るために小選挙区制にしようという案も、党内ハト派の反対で実現しなかった。
 
それも当時としては合理的だった。1951年に吉田首相は、アメリカのダレス国務長官が要求した再軍備(憲法改正)を拒否した。吉田は第2次大戦の経験から、ロシアや中国の経済力でアメリカと戦争することはありえないと考えていたからだ。1960年ごろのソ連のGDP(国内総生産)はアメリカの3割、中国は2割ぐらいだったので、従来の総力戦の発想では、両方の合計の2倍の戦力をもつアメリカに戦争を挑むことは考えられない。
 
吉田の判断は、アメリカの核の傘に「ただ乗り」する結果になった。彼はのちに「占領統治を離脱してから日本国民が決めればよいと思った」と語っているが、自民党にはその後、一度も改正を発議するチャンスがなかった。


◎「核の共有」も日本のオプション
 
他方、1955年にNATO(北大西洋条約機構)は西ドイツの加盟と再軍備を認め、ヨーロッパにアメリカの核兵器が配備された。このときNATOもアメリカと核兵器を共有し、その使用について拒否権をもつ二重の鍵(dual key)という原則が決まった。

アメリカは日本にも核兵器の配備を行う予定だったが、憲法が障害になってできなかった。むしろ日本では「反核」の世論が強かったため、1960年の安保条約改正では、核兵器の日本国内への持ち込みに「事前協議」を行うことが定められた(実際には協議は一度も行われていない)。
 
1960年代後半にアメリカはベトナム戦争の軍事負担を日本に求めたが、佐藤栄作は拒否した。日本を懐柔するためにアメリカは沖縄を返還したが、1972年の返還のとき佐藤内閣は「沖縄への有事の核持ち込みは黙認する」という密約を交わした。
 
このとき自衛隊の海外派兵を拒否するために「集団的自衛権」の行使を違憲とする法制局見解を出し、これがその後も日本の外交を拘束した。アメリカは常に日本の軍備増強を求めたが、日本は「憲法の制約」を理由にしてそれを逃れてきた。安保法制をめぐる騒ぎは、安倍政権がこういうアメリカの圧力をかわすための八百長のようなものだった。
 
しかし東アジアの地政学的なバランスは、冷戦期から大きく変わった。北朝鮮のような最貧国まで核武装する現代は、軍事力が経済力に比例しない非対称戦争の時代に入ったのだ。北朝鮮のGDPは日本の400分の1だが、その弾道ミサイルは大きな脅威である。
 
このように核の傘でも抑止できない脅威が高まっている現代では、安全保障を憲法問題に矮小化しないで、日米同盟を見直す必要がある。冷戦時代には米ソの核の均衡が保たれていればよかったが、今は北朝鮮の核攻撃に即応する「核の共有」が必要かも知れない。









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「剛友・伊藤允孝氏から届いた貴重なメール」

2018-01-14 06:26:23 | 日本

「剛友・伊藤允孝氏から届いた貴重なメール」について掲載されている。
以下、要約しきす。



◎天皇陛下新年の御製

敷島の大和心を人問はば 朝日ににおふ 山桜花(本居宣長)。日本は天皇を国家最高権威とし、民を「おほみたから」とする「シラス国」です。

もったいないことですが、今年もまた元日御発表の天皇陛下の新年の御製の解説をしたいと思います。
本来であれば識者の方々がメディアを通じて臣民にしっかりと御製の示す意味を解説すべきことです。
残念ながら、そうしたものがまったくありません。
不肖私ごときが行うようなことではないのですが、ご不敬を承知で、解説させていただこうと思います。

ちなみに和歌は、五七五七七の31文字で表された言葉から、詠み人の心を察する文化です。
近年、メディアに登場して和歌を教えるような人などの中に、テニヲハや表現方法ばかりを声高に叫ぶ人がいるようですが、それは全然違います。
歌の巧拙ではなく、その歌に読み込まれた心を察する。
だから和歌は、あらゆる日本文化の原点とさえ言われます。

天皇の歌のことだけを、御製(ぎょせい)と言います。
皇后・皇太后・皇太子などの詠まれた和歌は御歌(おうた)です。
それ以外の人の詠んだ歌は、単に歌と言います。

天皇の新年の御製は、昨年中に陛下が詠まれたたくさんの御製のなかから、新年にあたり五首を選歌して宮内庁を通じて毎年発表されるものです。
有名なものとしては、昭和天皇が終戦の翌年に詠まれた、

『降り積もる 深雪に耐えて 色変えぬ  松そ雄々しき 人もかくあれ』

があります。
焦土と化した都市、人々の敗戦の重圧、そこに新たに登場したGHQがいるなかにあって、陛下が臣民に向けて発せられたこの御製は、政治という枠組みを超えて、皇国臣民に力と勇気を与えました。

昨今では、法や政治が世の中を変えると思っている人が多いのですが、実はそうではなく、本来法は慣習の上に成り立っているものですし、政治も世間の上に成り立っているものです。
つまり民度が向上しなければ、何をやってもうまくいかないし、戦後の復興など、夢のまた夢であったのです。
だからこそ、先帝陛下は「松そ雄々しき 人もかくあれ」と臣民を励まされたのです。
そしてこの歌は、人々に力を与え、国土の復興の槌音が鳴り響き、法が歪められ、政治が反日左傾化していくなかにあって、皇国臣民はわずかな期間に国土を復活させ、わずか19年後には東洋で開催される最初のオリンピックが東京で開かれるまでになったのです。


<天皇陛下御製五首(平姓30年一月一日>


◎第六十八回全国植樹祭
『無花粉(むかふん)のたてやますぎを植ゑにけり   患ふ人のなきを願ひて』


◎第七十二回国民体育大会開会式
『会場の緑の芝生色映えて   えひめ国体の選手入り来る』


◎第三十七回全国豊かな海づくり大会
『くろあはびあさりの稚貝(ちがひ)手渡しぬ   漁(すなど)る人の上思ひつつちがひすなど』


◎ベトナム国訪問
『戦(いくさ)の日々人らはいかに過ごせしか   思ひつつ訪(と)ふベトナムの国』


◎タイ国前国王弔問
『亡き君のみたまの前に座りつつ   睦(むつ)びし日々を思ひ出でけり』


◎六十八回全国植樹祭
『無花粉(むかふん)のたてやますぎを植ゑにけり   患ふ人のなきを願ひて」

※無花粉杉というのは、1992年に初めて発見された杉です。
富山県の神社にあるスギが、全く花粉が出ないことが観測され、それがタマネギやトウモロコシなどで見られる「雄性不稔(ゆうせいふねん)」であることがわかり、富山県林業試験場が研究を続けて、2012年から品種としての実用化が始まりました。
その杉を、昨年の全国植樹祭で陛下が御手植えされたときの模様を詠んだ御製です。

御製はその杉を御手植えされたことにくわえて、陛下が「患ふ人のなきを願ひて」と、花粉症に悩む人々がなくなることを願われた御様子が描かれています。
常に臣民の健康を願われる陛下の御製です。

新年にあたり、陛下はこの御製を年頭の一番歌とされました。
そこには、国も臣民も常に健康であれ、という陛下のもったいなくもありがたい強い願いと、国と人の健康によって得られる、人々の平穏な暮らしや、喜びあふれる笑顔と活力ある暮らしを象徴しています。

また、無花粉杉は、神社で発見されているということは、神々からのプレゼントであると受け止めることもできます。
そしてそうした品種を改良して定着させる技術大国日本、森林大国日本を象徴した御製にもなっています。

逆にいえば、日本が技術立国として、あらためて世界に冠たる存在感を示していくこと、また農林水産業を大切にしなければならないこと、それは事業従事者や開発者だけを指すのではなく、神々の恵みとしての農林水産業を、国家として大切に育んでいかなければならないということの象徴でもあります。


◎第七十二回国民体育大会開会式
『会場の緑の芝生色映えて   えひめ国体の選手入り来る』

※第七十二回国民体育大会開会式での陛下の御製です。
「会場の緑の芝生に色映えて」と、まるで目に浮かぶような清々しい風景に、凛々しい選手団の爽快な姿を重ねています。
この御製のポイントは、愛媛を「えひめ」と意図してひらかなで書いてあるところです。

昨年行われた愛媛国体のキャッチフレーズは、
「笑顔(えがお)つなぐえひめ国体」です。
えひめの「え」を、笑顔の「え」としたのです。
陛下の御製は、これを受けています。

日本書紀以来、我が国立国の根幹は、「豈国(あにくに)」にあります。
イザナキ、イザナミは、そもそも「豈国(あにくに)」を求めて、オノコロ島を築き、降り立ったのです。
この「豈(あに)」という字は祝い太鼓の象形です。
そこから「よろこび、楽しみ」を表します。
つまり、我が国における皇臣民の関係も、我が国の政治も経済も経営も日々の仕事も子育ても、すべては「よろこびあふれる楽しい国」を目指して、はるか上古の昔から構築されてきたのです。

もちろん戦国時代など、国が荒れた時代もありました。
しかし、その戦国を終わらせたのは、信長の底知れない明るさであり、秀吉の奇妙なまでの愛らしさです。
つまり、よろこびと底抜けの明るい楽しさが、まさに戦国を終わりにしたのです。

明治維新の立役者の西郷隆盛も、底抜けに明るい人であったと聞きます。
笑いと笑顔、底抜けの明るさ、そして明るい太陽、緑の芝生、凛とした出場選手たち。
そのなかに、意図して「えひめ」とひらがなを入れることで、陛下は、明るい我が国を望まれたのではないでしょうか。
だからこそ、この歌が、すでに終わった愛媛国体の際の御製でありながら、新年の御製とされたのではないかと思います。


◎第三十七回全国豊かな海づくり大会
『くろあはびあさりの稚貝(ちがひ)手渡しぬ   漁(すなど)る人の上思ひつつ』

※第三十七回全国豊かな海づくり大会は、福岡で開催されました。
開催趣旨は、ホームページには次のように書かれています。

魚食国である日本人の食卓に、
 安全で美味しい水産食料を届けるために、水産資源の保護・管理と海や湖沼・河川の環境保全の大切さを広く国民に訴えるとともにつくり育てる漁業の推進を通じて、 明日のわが国漁業の振興と発展を図ることを目的として開催されています。

このことを、詰めてひとことで言い表すなら、それは、「海や河川、水源地域の環境保全」
ということになります。

陛下は、その環境保全に際して、何よりも「漁をする人の身の上を思う」と詠まれています。
戦後の使い捨て時代の到来により、何よりも汚れたのが河川や沿岸の海です。
陛下がお生まれになられたのは昭和8年ですが、青春時代をすごされた昭和20年代、30年代には、全国どこの河川でも、夏には普通に人が泳げたし、海も透明な青い海だったのです。

ところがその河川や海が、昭和40年代ころから目に見えて汚くなりました。
加えて開催地の福岡は日本海に面していますが、その日本海側の一体は、隣国の糞尿やゴミの海洋への不法投棄によって、沿岸部の汚れが極めて著しくなっています。

つまり陛下の御製にある「漁(すなど)る人の上思ひつつ」は、単に漁をする人のことだけを述べているのではなく、我が国の環境保全そのものが、そこで生活する人々のためになされなければならないこと、および、それを属する我が国臣民の健康被害までをも按じておられることを意味しているものと思います。

我が国の文化は、聖徳太子の十七条憲法第11条にある「明察功過」によって、人々の生活が守られるよう、先手をとって、先に積極的な環境保全を図るべきものです。
残念なから、戦後の日本は、察して動くのではなく、被害が起きても動かない政治になってしまっています。

本来であれば、陛下のこの御製を眼にした政府や議員たち政治に携わる者は、襟をただして環境保全に取り組んでいかなければならないのです。


◎ベトナム国訪問
『戦(いくさ)の日々人らはいかに過ごせしか  思ひつつ訪(と)ふベトナムの国」

※御存知の通り、ベトナムは、ベトナム戦争によって、国土が焦土と化した国です。
それでも彼らは戦い、国を護り、いま、新たな成長を遂げんとしています。
そのベトナムを訪問された陛下が、あらためて、「戦いの日々に、ベトナムの人々はいかに過ごしたのであろうか」と問うたのがこの御製です。

そしてこの御製は、新年の御製として、我が国臣民に提示されたのです。
ベトナム戦争は、表向きは南北のベトナムの内戦ですが、実態は、米ソの代理戦争でした。
要するに、大国の思惑によって、ベトナムの人々は、自分たちの意思とは別に、戦争の悲惨をとことん味わされたのです。
二度と戦争の悲惨を繰り返してはならない。
そしてそのためには、大国に負けない勁(つよ)さを持った国であらねばならない。
その強い意志が、この御製には込められていると拝します。


◎タイ国前国王弔問
『亡き君のみたまの前に座りつつ   睦(むつ)びし日々を思ひ出でけり』

※昨年10月13日に、タイのプーミポン国王が逝去されたことを受けて、秋篠宮ご夫妻殿下が、ご葬儀ご参列につき、陛下が御所でご挨拶された際の御製です。
私たちは、この御製が新年の御製とされたことを、重大に受け止める必要があります。
と申しますのは、現在国連に加盟している国は197カ国ですが、このうち30カ国が君主国です。
そのうちのいくつかを申し上げると、英国、ブルネイ、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、ヨルダン、モロッコ、カンボジア、アラブ首長国連邦、モナコ、クウェート、ブータン、ベルギー、バチカン、スペイン、サウジ、マレーシアなどです。
そしてそのなかのひとつが、タイです。

各国の王室の多くは、かつては王権の中に権威と政治権力を同居させていましたが、いまでは我が国に倣って、王室から政治権力を取り払っています。
そして王室は、伝統的国家最高権威となっているわけです。
タイも同じです。

ただし、すべての法案の公布に際しては国王の承認が必要ですし、国王は勅令を発する権限を持ちます。
我が国の参議院にあたる上院の議員は、国王によって任命されます。
また国王は、戒厳令を敷き、宣戦布告をし、大臣を解任する権限を持ちます。
また裁判所は、すべての判決において、国王の名において判決を行います。

そしてこれらの制度は、タイが我が国のあり方を研究して実施したものです。

つまり、陛下は「そうだ」とはおっしゃられませんが、本来日本の皇室もかくあるべし、というお考えであることを、新年の御製にこの御製を添えることで、婉曲に意思表示しておいでなのだと思います。
私も皇室こそ、そうあるべきだと思っています。


以上、生意気なことですが、不肖、ご紹介をさせていただきました。
もしかすると、私の解釈は間違っているかもしれません。
しかし、言えない思い、万感の思いを31字で伝えるのが、我が国の和歌という文化です。

我々臣民は、陛下のお気持ちをお察し申し上げ、明るく楽しい日本の未来を築いていかなければならないのだと思います。

お読みいただき、ありがとうございました。








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歴代天皇&三輪族⑥」

2018-01-13 06:10:10 | 日本

「第106代 正親町天皇&三輪三人衆」


◎三輪三人衆入国

室町幕府末期、すなわち正親町(おおぎまち)天皇の時、天皇の女御が病気になられたのを、大和国三輪社家(神主)の三人が祈祷によって全快させたので、その褒美として美濃国 時、多良郷(現在の岐阜県大垣市上石津町)を賜い、永禄六年(1563年)に、三輪三人衆として、この地へ入国した。その後、三輪筑後は小山瀬、三輪佐渡は樫原、三輪豊前は名及に居住し、頗る村民を愛撫せしがば、良領主の名、今に伝わる。
この小領主、三輪三人衆は、一向宗の信仰厚く、浄徳寺、稲荷社などの建立、住民の信望も厚かった。

特に、三輪三人衆は、その支配下にあった名持百姓(頭百姓)二十一名による合議制により行政を推進した。「多良古郷禄」に「天正元年(1572年)之歳より名頭人あり、万事多良山中の儀は此名頭弐拾壱人寄合、談合相定り申候」と記している。そして政治向きの事は、城山前の辻堂に、仏事、神事向きの事は禰宜村の念仏堂に寄り合い協議して決定するという。すなわち、村落共同体(三輪氏を中心に惣村を結成し、百姓たちによる自治)が行われていた。

政治向きの事は城山前の辻堂に、仏事・神事向きのことは禰宜(ねぎ)村の念仏堂に寄り合って何事も相談の上決めていた。三人衆は仏法を深く信仰し上原に浄徳寺を建立し、仏像名号を寄進した。また、堂場を取り立て、貧しい人に衣食を施し、鳥類虫類をあわれみ、時多良と共に三輪の行く末長く続けと願っていた。しかし、織田信長の計略によって討たれてしまった。三輪の屋敷に押し入った丹羽金吾を大将とする兵は、屋敷の家財を残らず壊し、上原に入り稲荷堂まで打ち壊し、浄徳寺で酒食を調え休憩した。その時に、丹羽金吾は「この門は田舎に似ず立派である。山中よりの土産にする」と、山門を解体して大垣へ持ち帰ったといい伝わっている。三人衆が切腹の後、百姓の代表が辻堂に集まり寄り合いをしているところに、三人衆の奥方と若様姫君がこられ、今までの皆の厚情に感謝を述べ、三殿の辞世の短冊を見せられた。

「身輪行けど残る輪人にかた見なり  いづれにきに輪破られはせぬ」 三輪筑後

「名残とて露も結ばぬ前ぞかし ちりては花も色のなきもの」 三輪豊前

「何をかも形見とやせん此の里の  思うぞ名残りなき後の人」 三輪佐渡


以来この地には代々、三輪の一族が住んでいる。



                                                     <了>












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「歴代天皇&三輪族⑤」

2018-01-12 07:01:36 | 日本

「第96代 後醍醐天皇&南朝忠臣 三輪勝房・子息信房」

大神(三輪)信房(おおみわ のぶふさ) 延元3年/建武5年5月22日(1338年6月10日)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の神官・武将。大神神社の神主の大神勝房(三輪西阿)の次男。通称は神二郎(しんじろう)。大神神社(奈良県桜井市三輪)の神官。三輪高市麻呂を祖とする代々、大神神社の神主を世襲した社家の人物でありながら、南北朝の内乱の際には一族ともに南朝に属して武将として活躍した。

大神神社の神主勝房の次男信房として生まれた神官であるが、1338年の北畠顕家の上洛軍に従軍したとも考えられる。顕家は前年より奥州の霊山城から西へ進軍し、同年2月に奈良に入り、般若坂の戦いで人生初の敗戦を経験している。顕家は同じく南朝側の大神氏に援軍を要請し、信房はその前後に合流し武将として戦い、天王寺の戦いや石津の戦いにも従軍していた可能性が指摘される。同年5月22日に阿倍野で戦没したという記録に鑑みた経緯である。顕家の軍は和泉国の坂本郷・観音寺城(大阪府和泉市)を拠点にして、高師直と細川顕氏ら率いる北朝・室町幕府軍らと戦った。顕家は石津の戦いで戦死したが、なぜか信房は同日に約10km離れた阿倍野で戦死している。

信房は阿倍野で戦死、信房の子の三輪為房も南朝に属し、孫の三輪信重は吉野の後醍醐天皇に仕え、子孫は伊勢の北畠氏に属した。

父の大神勝房の曾孫である高宮保房は吉野の北山で自害、保房の子の神山冬房も南朝に属し後醍醐天皇に仕え、冬房の孫の神山徳房は伊勢南朝方の北畠氏に属し、伊勢で討死した。


◎四條畷神社と三輪勝房、信房

四條畷神社(しじょうなわてじんじゃ)は、大阪府四條畷市にある神社。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社である。

南朝の将として戦い、四條畷の戦いで敗死した楠木正行を主祭神としている。父の楠木正成が大楠公(だいなんこう)と呼ばれるのに対して、嫡男の楠木正行は小楠公(しょうなんこう)と呼ばれるが、地元四條畷市民や近接地に住む大東市民の間で単に「楠公さん」と言えば正行や当社を指す場合が多い。1975年(昭和50年)には「楠公」という町名まで誕生し、他にも周辺に楠公と付く地名が複数誕生している。


<四條畷神社祭神>

楠木正行(主祭神)
他、楠木一族の将士24柱を配祀している。

楠木正時、楠木正家、楠木正家子息
和田賢秀、和田正朝、和田紀六左衛門、和田紀六左衛門子息、和田紀六左衛門子息、大塚惟久、畠山與三職俊、畠山六郎、野田四郎、野田四郎子息、野田四郎子、金岸(某)、金岸(某)弟、関住良円、関住良円子息、三輪西阿(勝房)、三輪子息(信房)、河邊石掬丸、譽田(某)、阿間了願、青屋刑部










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「歴代天皇&三輪族④」

2018-01-11 06:28:55 | 日本

「第41代 持統天皇&三輪高市麻呂の時代」


わが輩の故郷、岐阜県上石津町の旧伊勢街道 多良(多羅)宮(みや)には、692年に三輪高市麻呂が持統天皇の命を受け、奈良県の大神(三輪)神社より、この地に分霊した大神神社が創建されている。
後述するが、その後1533年には、時の帝(第106代 正親町天皇)の命を受け、この地に三輪三人衆が天領を拝領し、今日に至っている。


持統天皇(じとうてんのう、大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日))は、天武天皇の皇后で、日本の第41代天皇である。実際に治世を遂行した女帝である。


◎勘請、奉遷の経緯

〔持統六年弐月〕
三月三月に、伊勢行幸を予定する詔(みことのり)が数日前にあったが、中納言直大弐三輪朝臣高市麿(たけちまろ)は、行幸が野事の妨げになると上表する。

〔持統六年三月〕
浄広肆(じょうこうし)広瀬王らを行幸の際の留守官に任じた。このとき中納言朝臣高市麿は、冠位を脱いで朝廷にささげ、重ねて農作時の行幸を中止するよう奏上する。
持統天皇伊勢国へ行幸。行幸の際、右大臣朝臣高市麿、車駕を奉じて伊勢国三重郡に至れる時、大物主神、高市麿に託宣(神の御告げ)あり、「わが住む社を美濃国多芸山の川上に建てよ」と。この御神託により、当地を選定して創建す。地名を「宮」と名付けて、奈良の大神神社より勘請、奉遷が行われた。(『上石津史』)


◎三輪朝臣高市麻呂の解職事件

三輪の川辺の「大神大夫」は、三輪朝臣高市麻呂である。
壬申の乱の天武方の功臣で、持統六年(692年)三月、中納言であった高市麻呂は、天皇の伊勢行幸を農事の妨げになると職を賭して諫言し、容れられず職を解かれた。
それから十年、高市麻呂は歴史の上に顔を出さなかったが、大宝二年(702年)正月、従四位上で長門守を拝命する。題史の「大夫」は四位・五位の官人の称で、マヘツキミとも、タイフとも読む。

長門国は今の山口県の西北部である。「延喜式」によると、諸国を大・中・小の四等級に分けた上国で、守は従五位下相当の官である。高市麻呂はこの時、従四位上だから、位にして五段階も低い官職に就いたわけだが、持統天皇の勘気がまだ解けておらず、何かの事情による復権だったのである。何故ならば、この後、持統天皇の崩御(大宝二年(七〇二年)十二月)後、まもなくの大宝三年(703年)、六月、高市麻呂は左京大夫に任ぜられて帰京している。左京大夫は正五位上相当の官である。
(「かぎろい」菅野雅雄著)


◎三輪朝臣高市麿、等の活躍

三輪一族の中でも、とくに華々しい生涯を送ったのは高市麿(たけちまろ)である。有名な壬申の乱(672年)に際しては、急進派にくみせず、大海人皇子(おおあまのおうじ・天武天皇)方につき、近江軍の別将、慮井造鯉(いほりいのみやつこくじら)の大軍を三輪の箸墓(はしはか)のもとで撃滅し、この功績によって天武天皇八年(680年),三輪君を改め大神朝臣の姓を賜り、同十年九月には氏上(うじのかみ)となり、持統天皇六年(692年)六月、直大弐中納言、大宝元年(701年)、従四位上、同2年正月、長門守、同三年六月、左京大夫に任ぜられ、慶雲三年(706年)弐月逝去、従三位を贈られている。

その弟の三輪安麿は、慶雲四年九月の氏上となり、和同七年(714年)正月には従四位上を贈られ、兵部卿に任ぜられており、つぎの弟、狛麿(こままろ)は霊亀元年(715年)正月に正五位上に叙せられ、同五月には武蔵守に任ぜられている。妹の豊島売(としまめ)は命婦(みょうぶ)として元明、元正両朝に仕え、天平八年(738年)正月には従四位上に叙せられているというように、以上の期間は、一門の栄えた時でもあった。
また高市麿の孫、大神朝臣末足(すえたり)は、宝亀七年(776年)に遣唐副使に任ぜられ、同十年三月帰国して正五位上、左中弁となっている。

有名な「三輪そうめん」の始祖といわれる穀主(たねぬし)は、天長弐年(825年)四月、従五位上、天長四年正月に大神氏上となった三支(佐韋久佐)の次男にあたる。

その後、三輪一族は新興勢力の藤原一門に次第に中央の座を追われ、もっぱら地方に落ちつき、一族の奉ずる三輪の神の御神威発揚につとめたものと思われる。(『大神神社(第三版)』)
































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歴代天皇&三輪族③」

2018-01-10 06:41:37 | 日本

「山背大兄王&三輪文屋君」


三輪文屋(みわのふみや)。姓は君。敏達天皇に仕えた三輪君逆の孫。父は三輪小鷦鷯、子に三輪利金がいた。
聖徳太子の子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)に仕えた。

蘇我入鹿(そがのいるか)と山背大兄王の対立が決定的になった、皇極天皇2(643)年11月1日、入鹿は100名の兵に山背大兄王の斑鳩宮を襲撃させる。『日本書紀』によると、この時、大兄王とともに三輪文屋もおり、馬の骨を残して生駒山に逃亡する。蘇我側は斑鳩宮を焼き、灰の中に骨があったので、大兄王が死んだと誤解し、兵を解き退去する。

大兄王たちは4、5日間、山に留まったが食料がなかった。そこで文屋は「深草の屯倉に移りましょう。そこから馬に乗って東国に行き、乳部(みぶ、壬生部、上宮王家のいわば所領)を本拠とし、兵を起こして戻り戦えば勝つことができましょう。」と提案するが、大兄王が、言う通りにすれば必ず勝つだろうが、私一人のために万民を煩わせ労することになるとして、結局斑鳩寺に戻った。すぐに兵が寺を取り囲まれた。それに対して、大兄王は文屋を使いとして軍将等へ「私が兵を起こして入鹿を打てば、その勝利は定まっている。しかしながら、一身のことであるから、百姓を傷つけ損なうことを欲しない。このため、私の一身を入鹿に賜う。」と言い、子弟や妃妾たちとともに、一時に自害しました。その時、五色の幡蓋(はたきぬがさ)、種々の伎楽(おもしろきこえ)が空に照り光り、寺に臨み垂れたとある。聖徳太子の嫡男という、エリート中のエリートだった。文屋もこの時に自害あるいは戦死したとされている。

このように大化前代でも、三輪氏一族は政治的にかなり活躍をしてきた。


第36代 孝徳天皇、大化元年(645年)七月には、三輪栗隈君東人(くりくまのきみあずまびと)が任那(みまな)の国境検分に派遣され、同五年五月には、三輪君色夫(しこを)が新羅(しらぎ)の国へ使いしている。

また第38代天智天皇弐年(663年)参月には、三輪根麿が、2万5千の兵を率いて新羅遠征をしており、第40代 天武天皇十三年(685年)五月には、三輪引田君難波麿(ひきたのきみなんばまろ)が、大使に任ぜられ高麗(こま)の国へおもむいている。

このように、海外へ重任を帯びて出かけてる者が多いのは、やはり三輪の地が早くから、外来文化の影響が強かった土地がらの故である。(『大神神社(第三版)』)













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「歴代天皇&三輪族②」

2018-01-09 05:59:55 | 日本

「第33代 推古天皇&三輪君逆の時代」


推古天皇(すいこてんのう)は、第33代天皇。歴代天皇の中では最初の女帝(女性天皇)である。また、女性君主は当時の東アジアではまだみられなかった。諱は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。炊屋姫尊とも称される。『古事記』ではこの天皇までを記している。
在位期間 593年1月15日~628年4月15日


◎即位以前の動向

第29代欽明天皇の皇女で、母は大臣・蘇我稲目の女・堅塩媛。第30代敏達天皇は異母兄で夫でもある。第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟。蘇我馬子は母方の叔父。

敏達天皇との間に菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)、竹田皇子、小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)、尾張皇子(聖徳太子の妃橘大郎女の父)、田眼皇女(田村皇子(後の舒明天皇)妃)、桜井弓張皇女(押坂彦人大兄皇子の妃・来目皇子の妃)ら2男5女を儲けた。

敏達天皇が崩御(ほうぎょ)し、皇后(炊屋皇女・後の推古天皇)が殯宮(もがりのみや・天皇の棺を葬儀のときまで安置しておく仮の御殿)で喪に服しているときのことであった。炊屋皇女(後の推古天皇)は先帝の皇后であり、しかも母が異なるとはいえ穴穂部にとっては姉なのである。炊屋皇女が穴穂部皇子を避けて殯宮のなかに逃れようとすると、彼は執拗に皇后のあとを追い、大声を発して「門を開け」と呼ばわった。
そのような破廉恥な行為をしでかしたあとも、いっこうに恥じ入る様子もなく、別の夜、皇后の寝所の門を叩いて強引に押し入ろうとした。そのとき門を固く閉ざして皇后を守った人物がいる。三輪君逆(みわのきみさかふ)である。ところが、穴穂部は己れの所業を顧(かえり)みず、穴穂部はみずから皇位に即くべく、さまざまな画策をした。

物部守屋は穴穂部と結託し、皇位簒奪(さんだつ)をくわだてた。皇后の宮殿にいる三輪君逆を攻め殺した。炊屋皇后にかしずき、忠義顔の三輪逆がなにかと目障りなので除いたのである。
物部守屋が三輪君逆をうとうとしたら、三輪君逆は額田部皇女の後宮に逃げ込んだ。三輪君逆の一族の白堤と横山が密告して所在が分かり、物部守屋は三輪君逆を殺した。
主君に過ちがあれば、それを諌(いさ)めるのが臣の道である。しかるに守屋は大連(おおむらじ)という朝廷を束ねる最高位の重臣であるにもかかわらず、穴穂部をそそのかして大和朝廷の平和を乱した。

穴穂部皇子が物部守屋の報告を受けたことから、穴穂部皇子が殺された。

三輪君逆の行動を考察する前に、血筋を推定する。三輪君の祖は、大物主神(大年神)とされる。大年神は須佐之男命の御子である。穴穂部皇子も須佐之男命の血を受継いでいる。蘇我氏の祖は、建内宿禰。蘇我氏には、倭建命の血が流れています。血筋からいうと三輪君逆は穴穂部皇子の味方をして、蘇我馬子に敵対するのが普通の姿である。それの逆をやってしまったので、日本書紀で「三輪君逆」という名前にされてしまった。








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「歴代天皇&三輪族①」

2018-01-08 07:51:40 | 日本

「歴代天皇&三輪族の源流」

三輪氏系統に伝えられた古代文献「ホツマツタエ」には、宇宙創成から第12代景行天皇までのことが記されてある。「古事記」より六百年も古い西暦126年に完成した。
前半部分の「神々の時代」の編纂は、神武天皇御即位より八年前(紀元前668年)に、三輪の臣(とみ)の先祖クシミカタマによってなされている。
後半部分は「天皇の時代」であり、最終的に三輪の臣オオタタネコによって景行五十六年(126年)に編纂された。

全編五七調の長歌体で顕され、宇宙のはじまりは、始原神のアメミオヤノ神が「初の一息(ういのひといき)」を発して、この宇宙が出現したこと。人間は、空・風・火・水・埴(はに)の五つのエレメントが交わって誕生したこと。宇宙と人の連動した関係。人の生き方、祭政のあり方、等々。また現代の最先端科学であるDNAやナノテクはもちろんのこと、量子力学をはるかにこえた宇宙の構造そのものを明確に記してある。この様な宇宙観、人間観は他の国々にはみられない。将に神が記したものであると言わざるをえない。(『ホツマツタエ』鳥居 礼著)


奈良県大和の三輪山麓の考古学的出土品からみて、大和の平野部に人間が住み着いた始まりが、このあたり一帯であったと想像される。それは縄文時代の前期、つまり4、5千年から7千年前にさかのぼる大昔からのことである。
その人たちこそ、三輪山に鎮まる大神を氏の神と信奉する三輪族(大神族)であったといわれ、血族集団として強大な勢力をもち、後に神武天皇の大和入りにさいしては、当然大きく前面にあらわれた存在であっただろうし、また信仰面においても、新しい日の神信仰に対して三輪信仰は、それ以前からの根強いものがあったであろうことも考えられる。

世に大神族(おおみわぞく)あるいは、三輪族とよばれる人たちは、三輪の神の神孫と信ずる同族意識、血族意識によって結ばれた集団である。そして古代大和においては、もっとも高度な文化をもっていたと考えられるが、その中心はやはり祭祀に仕える大神主家に帰するといえる。(『大神神社(第三版)』)


日本の歴史は、やがて部族の群雄割拠時代から統一国家形成に向かう。この時、各地の豪族別信仰が維持されながら、且つ、統一王朝的な諸機構をも生み出していくこととなった。ここに日本史の特徴が認められる。すなわち、共同体を維持し、部族を束ね治める政道の手法でもある「祭政一致」を特徴としている。留意すべきは、絶対主義的圧制のものではなく、三輪族をはじめとする角地の豪族との合議的な政体であったことである。年に一度、諸神が審出雲の地に参り祭政一致政治を行っていたと伝えられている。この折の、宗教的祭祀、合議的政治、神楽、お国自慢こそ仁保政治の原型として、今に伝わっている。この御世に於いては、神道が政治に溶け込み混然一体となっていたと思われる。(『日本人の財産って何だと思う』藤原直哉著)

スサノオの命とクシイナダヒメが結婚し、その子孫(6代目)として大国主神が生まれた。大国主神ははじめ、ひ弱で、兄弟達に迫害されていた。ところが、根の堅州国でスサノオの命から試練をあたえられ、みごとに成長する。大国主神は、兄弟を追っ払い、地上の葦原の中つ国で国造りを進める。天照大神は、中つ国を治めさせるために、大国主神から国をゆずり受け、孫のニニギの命を天上からくだした。ニニギの命は、三種の神器(曲玉、鏡、剣)をたずさえ、天空にたなびく雲をおし分け、日向の高千穂の峰に降り立った。天孫降臨である。このニニギの命のひ孫が、初代天皇と伝えられている神武天皇である。(『大神神社(第三版)』)


初代神武天皇が大和の橿原宮で即位した。「日本書記」によれば辛酉(かのととり)年の春正月庚辰(かのえたつ)朔日である。それが西暦紀元前660年のこととし、天保暦「一月一日」を太陽暦に換算して二月十一日を紀元節としたのは明治六年(1873年)十月十四日の太政官布告だった。

「ハツクニシラススメラミコト」とたたえ申す初代神武天皇が、皇后として三輪の五十鈴媛(いすずひめ)を迎えられ、同じく「ハツクニシラススメラミコト」とたたえ申す第十代崇神天皇もまた、三輪を本貫とする大彦命の娘、御間城媛(みまきひめ)を皇后とされていることは、いずれも地方豪族との融和政策上からのこととみられる。いい換えれば、天津神系(天孫族)と国津神系(地祇族)の婚姻による統合である。それは政治的な支配権の統一と同時に、大三輪の神にたいする祭祀権をも合せて掌握されたことを意味するのである。


天皇親政の初期、神武天皇につづく、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、考安、孝霊天皇まで代々の天皇は、三輪系の磯城県主(しきあがたぬし)あるいは、これと並ぶ十市県主(といちあがたぬし)等の地元豪族より妃を迎えられている。(『大神神社(第三版)』)


大和に入った後は、先進文明を支えてきた国津神の子孫たち三輪族と融和を重んじたことが特筆される。『先代旧事本紀』には、少彦名神と協力して、この国土をご経営になられたが、終始、物部(もののべ)氏、忌部(いんべ)氏、卜部(うらべ)氏、出雲(いずも)氏、三輪氏の名家に残る歴史の記録を集め、聖徳太子自らが編纂し、集大成したのが記されている。(『先代旧事本紀』)

少なくとも崇神天皇の御代には、大三輪の神にたいして、従来、三輪族が仕えてきた私祭の形から、天皇が祭祀をされる官祭にかわったと見る史家が多い。






















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憲法改正の年&自立ある国創りへ

2018-01-07 07:32:49 | 日本

古(いにし)より 
代々に護りつ皇国(すめくに)を  
初日に輝く 
三輪の君らは


古代(ふるしろ)より 
神すまわりし三輪山を
遥かおろがむ 
年の初めに















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