龍の声

龍の声は、天の声

「アメリカ大統領話題の3ヶ月を振り返る」

2016-10-31 07:25:04 | 日本

「アメリカ大統領話題の3ヶ月を振り返る」
について掲載されていた。
以下、要約し記す。


アメリカ大統領候補による3回のディベート討論会も終わり、いよいよ大統領選間近といったところです。
ここから11月の決選投票に向けて、両候補は一層「自分がいかに大統領にふさわしいか」を競っていくことになります。
日本でも日に日に報道が増えていますが、「いつの間に話題になっていたの?」「え、もうすぐ大統領選なの?」と、話題に付いていけていなかった人も多いのではないでしょうか? そこで今回の記事では、何かと話題の多かった直近3ヶ月を簡単にまとめてみました。
7月まとめ 大統領選の陣容が固まる。トランプ氏は相変わらず暴言

◎共和党大統領候補がトランプ氏に決定 言いたい放題のセレブ

まず7月に、2名の大統領候補が正式に決まりました。トランプ氏は実業家・テレビタレント・言いたい放題のセレブとして人気を誇っていました。今回の大統領選が、初の政界への挑戦です。そのため、政治に染まっていない素人という点が有権者にウケて、大統領候補に選ばれました。

◎民主党候補がクリントン氏に決定 典型的なエリート政治家

一方、クリントン氏は、弁護士・大統領夫人・上院議員・国務長官(日本の外務大臣)を歴任した典型的なエリート政治家です。こちらもやはり昔から国民的な知名度を誇り、大統領らしさを強調して、大統領候補に選ばれました。

◎有権者から嫌われる大統領候補

しかし、この時点でトランプ氏もクリントン氏も多くの有権者から嫌われていました。有権者の20%が両候補を支持しないとしています。トランプ氏は暴言が酷いこと、クリントン氏は(公務に私的なメールアカウントを使っていた問題で)信用できないというのが主たる理由なようです。

◎副大統領候補も決定 どちらもマイナーな政治家

大統領候補決定に先立ち、両候補は副大統領候補を指名しました。共和党トランプ氏はマイク・ペンス氏、民主党クリントン氏はティム・ケーン氏を指名しました。ペンス氏は現在インディアナ州知事を務め、キリスト教を強く信仰する共和党員に支持される政策を行ってきました。一方、ケーン氏は現在上院議員を務め、民主党の中でバランスのとれた政策を主張してきました。

二人は日本で言えば地方の県知事と一国会議員に過ぎず、有権者にとっては「誰?」というのが最初の感想だったでしょう。

◎トランプ氏がイラク戦争戦没者遺族に暴言、共和党陣営からもブーイングの嵐

7月28日に民主党のイベントでイラク戦争で戦死した兵士の遺族がトランプ氏を批判した後、トランプ氏はその遺族に対して宗教差別的な発言をしました。暴言で有名なトランプ氏ですが、この時ばかりは強い批判を浴びました。その後、トランプ氏は大きく支持率を低下させます。
8月まとめ スキャンダルで伸び悩むクリントン氏。反省して支持を伸ばすトランプ氏

◎クリントンにスキャンダルが相次ぐ 業務メール隠しと癒着

トランプ氏の暴言への批判により支持を伸ばしたクリントン氏でしたが、その後は支持に伸び悩みます。その原因が自身の数々のスキャンダルでした。

まず、クリントン氏が国務長官時代にプライベートのメールアドレスを用いて公務をしていたことが再び問題になりました。アメリカでは公務で用いるメールは全て公開されるため、「何か隠したい不正があったのでは?」と疑われる原因になってしまいました。

さらに、「隠したい不正」として、国務長官時代の癒着疑惑が持ち上がります。クリントン氏が運営する財団にたくさん寄付を行った人に対して、国務省内のポストを用意したという疑惑が持ち上がったのです。直接的な証拠があったわけではないのですが、私的なメールを公開していないこともあり、有権者の疑念を強めてしまいます。

◎ 一方、トランプ氏は暴言を反省し支持拡大

クリントン氏がスキャンダルに苦しむ一方、トランプ氏は選挙戦略の修正を図っていました。
8月中旬には他人を中傷してきたことについて「後悔している」と発言しました。他にも、人種問題に苦しむ黒人に同情を示して支持を呼びかけることもしています。これまで暴言をアピールしてきましたが、その路線を修正したと言えます。
クリントン氏がスキャンダルで苦しんだこともあり、8月後半からジワジワと支持を拡大していきました。
9月まとめ クリントン氏が倒れて支持急落! しかし、ディベートで回復

◎クリントン氏が9.11テロの式典中に倒れる

9.11テロの犠牲者を追悼する式典の最中に、クリントン氏が突然倒れて退席してしまいました。その模様が全米に映像で流れてしまい、健康問題が争点として浮上してしまいます。一方、トランプ氏は自身の健康ぶりをわざわざ診断書を公表してアピールしました。その結果、クリントン氏の支持率は一部の調査でトランプ氏に抜かれました。

◎ディベートで再びクリントンの支持率上昇!

9月26日にはクリントン氏とトランプ氏によるディベート(討論会)が開かれました。このディベートは好き勝手に言い合うというものではなく、司会者が前バラシなしに出した質問に対して、制限時間内に答えあって行くというもの。
クリントン氏は大統領らしく毅然として質問に的確に答えていきましたが、一方トランプ氏はクリントン氏や司会者の話に割って入ってしまい、ディベートのルールを無視するような場面が目立ちました。直後の世論調査によれば、ディベートではクリントン氏が勝利しました。そしてクリントン氏は支持率も伸ばし、トランプを引き離しました。
10月前半まとめ トランプにスキャンダルが続出して支持低下!

◎トランプが自身の事件をめぐって司法長官に怪しい献金

トランプ氏の経営する大学が詐欺の疑いで訴えられています。そのタイミングで、トランプ氏は刑事事件を担当する部署のトップである各州の司法長官に対して寄付を行ってきたことが分かりました。
これもまた、寄付と裁判との間に直接的な関係があるかはわかりませんが、「不適切」ということで疑念が湧いています。

◎トランプの過去の暴言が暴露

10月8日には、トランプ氏が2005年に女性差別発言を行っていた様子がビデオで暴露されました。「スターなら女性に(性的なことを)なんでもできる」といった発言を含む今回の一連の発言は、これまでの暴言の中で最も酷いレベルのもので、支持率を大きく下げました。その後トランプ氏は珍しく速やかに謝罪しました。

しかし、この件についての批判はしばらく続くでしょう。これまで態度を曖昧にしてきた共和党議員も続々とトランプ氏を支持しないことを表明しました。トランプ氏を支持しない連邦議員、州知事は150人を超えます。
今後の流れと勝敗を決めるポイントは?
今後は10月に2回ディベートが開かれ、11月8日の決戦投票で勝敗が決まります。
2回ディベートが残りますが、そこでトランプ氏が支持率で逆転することは難しいでしょう。9月のディベートではやはりクリントン氏の卓越したディベート能力が証明されました。このまま行けば投票を決めていない人の信頼を獲得して勝利するでしょう。

しかし、クリントン氏にまたスキャンダルが発覚するようなことがあれば分かりません。クリントン氏はスキャンダルが発覚する度に支持率を落としており、そのタイミング次第では、トランプ氏に支持率を抜かれたまま決選投票に持ち込むということも十分考えられます。その場合投票結果は歴史に残る大接戦になるでしょう。











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「心」

2016-10-30 08:13:37 | 日本

松本守正さんのブログ「心」について記す。



心は 天国を作り出すことも

地獄を作り出すこともできる

同じ出来事が起きても 心の持ち用だけで

あなたの世界は 天国にも地獄にもなりうる

私は楽しいことが多い天国を選びます

どちらを選ぶかはあなた次第なのです









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「できることから」

2016-10-30 08:12:43 | 日本

松本守正さんのブログ「できることから」について記す。



出来ることから始めなさい

第一歩から始めなさい

いつも必ずこれ以上できないという限界がある

あまり多くやろうとすると 何事もなし得ない

焦らず 一つ一つ本気でやってみよう!











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「すぐ動く」

2016-10-30 08:11:47 | 日本

悩むときこそ まず動こう

自信が無いときこそ まずスタートだ!!

やる気が起きない時

スランプに陥った時

そんなときこそ 頭を空っぽにして まず動き始めること!!

くよくよ悩んでも始まらない!!

考えるより 行動しよう!!


いつもありがとう









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「ねずさんの建武の中興とは、」

2016-10-29 07:13:12 | 日本

「太平記」は、室町時代に書かれたとされる本で、現存するものが全40巻もある長編で、後醍醐天皇の即位から鎌倉幕府の滅亡、建武の中興の失敗と南北朝分裂、南朝の怨霊の跋扈による足利幕府の混乱までを描いた物語です。

原典があるわけですから、源氏物語や義経記のように、現代版の小説になりやすそうに思えるのですが、にもかかわらず、なぜ太平記を扱うと「頭がおかしくなる」のかというと、その時代が権謀術数渦巻く時代であった(もしそうなら逆に小説のおもしろい題材になります)ということ(表面上の理由)ではなく、実は、太平記の時代を扱うと、どうしても触れなくてはならないこと(隠れた理由)があるからだといわれています。

では、それが何かというと、実は、日本における天皇とは何か、という問題なのです。


この時代、鎌倉幕府が崩壊し、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が建武の中興(けんむのちゅうこう)を興しました。そして、これが崩壊し、足利幕府が誕生する。

「建武の中興」は、最近の学校の歴史教科書では「建武の新政」と教えているそうですが、左前の日教組に汚染された教科書が、あえて表記を「中興」から「新政」に変えているところなども、なにやらキナくささを感じます。

この太平記について申し上げる前に、すこしこの時代の背景を述べてみたいと思います。

建武の中興があった時代の前の時代といえば、鎌倉幕府の時代です。
鎌倉幕府は、源頼朝の開幕(1192年)から幕府滅亡(1333年)まで、141年続いた政権です。

開幕から82年経ったところで起きたのが、元寇(文永の役1274年)です。
教科書によっては、鎌倉幕府はこの元寇のときに活躍した武士たちに恩賞を払えずに倒産した(笑)と書いているものもあるようですが、これは違います。
なぜなら元寇以降も半世紀も幕府はその権威を保っているからです。

ではなぜ鎌倉幕府が崩壊したかというと、それには別な理由があります。
相続制度です。

鎌倉武士たちの相続制度は、いまの日本と同じで、子供達全員への財産の均等配分方式です。
実はこれはたいへんな問題をはらんでいます。

鎌倉武士というのは、もともとは平安時代に生まれた私有地(新田)の領主たちで、それぞれが広大な領地を保有していました。

彼らはその領地で、一族郎党を養い、その領土を武家の棟梁(とうりょう)である幕府に安堵してもらうという御恩を受け、その御恩に対するお礼として、一朝、ことあれば、いざ鎌倉へと出陣する、つまり「御恩と奉公」の関係にあったわけです。

そしてその領地は、それぞれの武家の「家」を単位にまとまっていました。
ですから子がいなくて「家」がなくなってしまっては、安堵してもらう領地があっても、安堵してもらう人がいなくなるわけですから、一族郎党が土地を失い、みんなが飢えてしまいます。
つまり、彼らにとって、子を残すということは、たいへん重要なことだったわけです。

ところが、昔は、子供というのは、たいへんよく死んだものです。いまでこそ、一人っ子でも、その多くは成人を迎えることができますが、一むかし前までは、子が成人できるということ自体が、めずらしいことといってもいいくらい、たいへんなことだったのです。

ウチの祖母の時代でも、戦前のことですが、祖母は4人の男子を産んだのですが、そのうち2人が幼くして病没しています。昭和のはじめですらそうなのです。

江戸時代の後期、桜田門外の変で殺害された大老・井伊直弼は、井伊家の14男坊です。長男が家督を継ぐ時代に、なぜ14番目の男の子が家督を継いだかといえば、別に彼がとびきり優秀だったからということではなくて、1番めから13番めまでの井伊家の男の子たちが、みんな病没してしまったからです。

それくらい、子を大人にまで育てるというのは、実はたいへんなことだったのです。

ましてや井伊直弼の時代より600年以上も昔の鎌倉時代です。子が成人するだけでも困難な時代に、御家人たちが家を残そうとすれば、それなりに子をたくさんもうけなければなりません。

当然、子だくさんになり、そのうち幾人かが家督を相続します。
ところが、ここでの相続が、均等配分方式だったわけです。

するとどうなるかというと、仮に100人を養えるだけの土地があり、子が二人だったとすると、最初の相続では、50、50に土地が分割されます。これが二代目です。

次の世代になると、25になります。これが三代目。
四代目になると、12.5です。
五代目になると、6.25
六代目になると、3
七代目になると、1.5
八代目になると、0.75

つまり、七代目にはもう夫婦で食べて行くことすらできず、八代目になると家が崩壊してしまうわけです。

この時代、元服も結婚も早かった時代ですから、一世代はおよそ20年で交替しています。つまり20年×7代=140年で、見事財産が崩壊し、幕府も崩壊してしまうわけです。
実際、鎌倉幕府は数式通り141年目に崩壊しています。

こうして田を分けてしまうことで、国を滅ぼし、家を滅ぼすことを、後年の人は嗤って「田分け(たわけ)」と呼びました。
よく時代劇などに出て来る「たわけものめがっ!」の「たわけ」です。

鎌倉幕府は、こうした相続制度の欠陥による御家人たちの窮乏から、開幕から105年目の1297年(相続四世代目)には「徳政令」といって、御家人たちの借金帳消し令などを発布しているのですが、これは要するに破産宣告です。

現代社会でもそうなのですが、破産宣告を受けたら、もう借金はできません。
借金しなければ生活できないのに、借金ができないとなれば、これはもたいへんなことになります。

こうして鎌倉幕府は、政権運営主体としての信用を落とし、結果として1333年に崩壊してしまうわけでです。

こうした世間の混乱に対して、これをなんとかおさめようとして立ち上がったのが、後醍醐天皇でした。建武の中興です。

鎌倉政権というのは、天皇が認証を与えることによって成立している政権なのです。
その鎌倉政権が、事実上崩壊してしまったというなら、誰かが幕府にかわって政治の指揮をとらなければなりません。

私は、個人的には、後醍醐天皇というのは、とっても責任感がお強く、また男気の強い(ということはある意味、お人好し)な、人間味豊かな天皇であったろうと想像しています。

というのは、後醍醐天皇は、鎌倉幕府崩壊にともなう社会の混乱に、これを「権力に認証を与える存在」としての天皇自らが、親政(しんせい)というカタチで政治の指揮を執ろうとされたからです。

「親政」というのは、たいへんわかりやすい言葉です。
権力に認証を与えた「親」が、「子」にかわって直接政治の指揮を執るという言葉だからです。

後醍醐天皇は、政治の指揮を執り、全国で分割されてしまったすべての農地を、いったん、古代律令国家の体制に戻すことを宣言されました。

古代律令国家の体制というのは、公地公民制です。
つまり、すべの田畑を「公」のものとする、と宣言されたのです。

後醍醐天皇は、これを建武年間に行いました。
「建武」というのは、「武士の世を建てる」という意味です。

おそらくは、後醍醐天皇の意識の中にあったのは、いったんは日本の姿を7世紀、つまり聖徳太子の時代の古代律令体制の姿に戻すけれど、そのうえであらためて「武を建てる」つまり武家に政権を委ねるという方向をイメージされていたのでしょう。だからこその「建武」です。
後醍醐天皇の御心の内には、民の窮状を放置できないという、強いお気持ちがあったであろうと想像できます。

そうした後醍醐天皇のもとには、楠正成や児島高徳などの心のきれいな数多くの忠臣が集ったのですが、ところが思わぬところで、後醍醐天皇には障害があらわれます。
同じ朝廷内で、後醍醐天皇の行動に、疑念を持つ人たちが出てきたのです。

どういうことかというと、まさにそのことが、わが国の天皇という存在の本質であり、また太平記の要(かなめ)となるところなのですが、要するに「天皇親政」つまり、天皇が直接政治の指揮を執るということは、天皇が政治権力者、もっというなら「大王」の位にまで降りてきてしまうということを意味するということなのです。

わが国における天皇という存在は、世俗にまみれた「政治」というものよりも、もっとずっと高位な位置にある存在です。

天皇は、わが国の最高神である天照大神から綿々と続く神の直系の子孫です。
その神の血統が、民衆の親となり、その親が政治を行う者に認証を与えます。

だから、どんな政権下においても、天皇は神聖だし、民は天皇の民、公民(皇民)となることで、権力者による支配と、それへの隷従という奴隷的支配関係から解放されているのです。

ところが、後醍醐天皇が親政を行うということは、天皇が、その政治権力者の地位にまで降りてしまうということです。

するとどうなるかというと、支那の皇帝みたいなもので、天皇=絶対権力者となり、民衆は天皇の支配に隷属する奴隷という国のカタチとなります。

聖徳太子の十七条憲法においても、第一条は「和をもって尊しとなす」です。つまり民の幸せ、民の安定、民の和が、第一条にうたわれています。
仁徳天皇も、かまどの煙の逸話にあるように、念頭にあったのは、常に民の安寧です。

そしてそのためにこそ、古来わが国では天皇は、政治的権力と切り離した、もっと上位の存在となっているし、わが国の民が私有民として奴隷的支配をされないでいる民の幸福の源泉です。

そういう社会構造を大事にしたからこそ、古来、天皇みずから政治を行おうとするときは、天皇はその位を子に譲り、子から上皇の位を授かって院政(いんせい)をひくなどといった、やっかいなことをしているわけです。

ですからもし、後醍醐天皇が、子の成良親王(なりよししんのう)に皇位を譲って院政をひくか、あるいは成良親王を、鎌倉幕府の将軍に任命して、成良将軍のもとに政治を行おうとしたのなら、建武の中興は、多くの臣官の賛同を得て成功し、その後の長い治世を築く土台となったかもしれません。

結局、後醍醐天皇の建武の中興は、それが天皇親政というカタチをとったがゆえに、これを拒否する多くの人たちの反対によって、持明院統の別な天皇(北朝)が生まれ、明徳3(1392)年の明徳の和約(めいとくのわやく)によって、後小松天皇に皇位が譲られ、もとの日本古来の天皇の認証による権力者という社会形態に戻るわけです。

つまり、太平記を小説化しようとすると、どうしても、なぜ朝廷が南北に分裂したか、そもそも天皇とはなんぞや、という議論にどうしてもいたらざるを得ない。
なぜなら、そこを明確にしなければ、朝廷が南北に分裂した理由の説明がまったくつかなくなるからです。

だからこそ、太平記をそういう視点から扱うと、戦後左翼からの猛烈な反発や潰しが行われた。とんでもない非難中傷が行われた。

つまり、作家生命を絶たれるまで、激しい「追い込み」が行われ、全人格的な非難中傷によって、これを書こうとする作家自体が、作家生命を失うどころか、それこそ自殺にまで追い込まれかねないくらいの非道な名誉毀損、信用毀損被害に遭った。
だからこそ、朝日に近かった司馬遼太郎は、それをわかって、友人の作家に、「太平記はやめとけよ」と語ったということではないかと思います。

いまでもこうした「潰し」活動はさかんに行われていて、保守系である程度名前が知られた人たちは、全員がそうした中傷被害に遭っています。

ところがおもしろいもので、そうした中傷被害の手口があまりにも、どの人に対しても同じ展開なものだから、ネット社会の中で情報の共有化がいちじるしくなり、結果として、多くの保守で中傷を受けている人たちは、「なんだ君もか」となってきて、かえって保守系活動家の人たちの結束を強めるという、最近ではまったく逆の効果を生むようになってきています。

しかも、そういう中傷活動の火付け役が、ほんの一握りの人たちであり、しかもそれらがほぼ在日外国人であること、さらには、その在日外国人たちにすっかり騙され、踊らされて、彼らの保守分断工作に結果として加担してしまった人物まで、ほぼ特定されてしまうという状況になってきています。
まさに情報化社会の賜物です。

古事記には、天の岩戸にアマテラスがお隠れになっていた間、この世は闇に閉ざされ、魑魅魍魎が跋扈した、と書かれています。
そして、それら魑魅魍魎は、天の岩戸が開かれ、アマテラスが再登場してこの世に光が戻ったとき、すっかり正体を晒して、すべてが暴かれたとなっています。

古事記が書かれたのはいまから1300年もの昔ですが、同じことがいままた起ころうとしています。

戦後閉じられた天の岩戸は、いま再び開かれたのです。












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「建武の中興とは、」

2016-10-28 07:23:28 | 日本

建武の中興(けんむのちゅうこう)は、鎌倉幕府滅亡後の1333年(元弘3年/正慶2年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始した事により成立した政権及びその新政策である。
名は、翌1334年に定められた「建武」の元号に由来する。近年の歴史学では「建武政権」という表現もある。 後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、1336年(建武3年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。


◎鎌倉幕府の滅亡

鎌倉時代後期には、鎌倉幕府は北条得宗家による執政体制にあり、内管領の長崎氏が勢力を持っていた。元寇以来の政局不安などにより、諸国では悪党が活動する。幕府は次第に武士層からの支持を失っていった。その一方で、朝廷では大覚寺統と持明院統が対立しており、相互に皇位を交代する両統迭立が行われており、1318年(文保2年)に大覚寺統の後醍醐天皇が即位して、平安時代の醍醐天皇、村上天皇の治世である延喜・天暦の治を理想としていた。だが、皇位継承を巡って大覚寺統嫡流派と持明院統派の双方と対立していた後醍醐天皇は自己の政策を安定して進めかつ皇統の自己への一本化を図るために、両派の排除及びこれを支持する鎌倉幕府の打倒をひそかに目指していた。

後醍醐天皇の討幕計画は、1324年(正中元年)の正中の変、1331年(元弘元年)の元弘の乱(元弘の変)と二度までも発覚する。元弘の乱で後醍醐天皇は捕らわれて隠岐島に配流され、鎌倉幕府に擁立された持明院統の光厳天皇が即位した。後醍醐天皇の討幕運動に呼応した河内の楠木正成や後醍醐天皇の皇子で天台座主から還俗した護良親王、護良を支援した播磨の赤松則村(円心)らが幕府軍に抵抗した。これを奉じる形で幕府側の御家人である上野国の新田義貞や下野国の足利尊氏(高氏)らが幕府から朝廷へ寝返り、諸国の反幕府勢力を集める。

1333年(元弘3年/正慶2年)に後醍醐天皇は隠岐を脱出。伯耆国で名和長年に迎えられ船上山で倒幕の兵を挙げる。この時いちはやく馳せ参じた武士は安芸国の在庁官人、石井末忠。足利高氏は、京都で赤松則村や千種忠顕、石井末忠らと六波羅探題を滅ぼした後、新田義貞は、稲村ヶ崎から鎌倉を攻め、北条高時ら北条氏一族を滅ぼして鎌倉幕府が滅亡した。後醍醐は赤松氏や楠木氏に迎えられて京都へ帰還する。


◎中興の開始

後醍醐天皇は光厳天皇の即位と正慶の元号を廃止、光厳が署名した詔書や光厳が与えた官位の無効を宣言。さらに関白の鷹司冬教を解任した。

帰京した後醍醐は富小路坂の里内裏に入り、光厳天皇の皇位を否定し親政を開始(自らの重祚<復位>を否定して文保2年から継続しての在位を主張)するが、京都では護良親王とともに六波羅攻撃を主導した足利高氏が諸国へ軍勢を催促した。上洛した武士を収めて京都支配を指揮していた。6月5日、高氏が鎮守府将軍に任命され、天皇の諱「尊治」から一字を与えられ「尊氏」と改めた。尊氏ら足利氏の勢力を警戒した護良親王は奈良の信貴山に拠り尊氏を牽制する動きに出たため、後醍醐天皇は妥協策として6月23日に護良親王を征夷大将軍に任命する。

6月15日には旧領回復令が発布され、続いて寺領没収令、朝敵所領没収令、誤判再審令などが発布された。これらは、従来の土地所有権(例えば、武士社会の慣習で、御成敗式目でも認められていた知行年紀法など)は一旦無効とし新たに土地所有権や訴訟の申請などに関しては天皇の裁断である綸旨を必要とすることとしたものである。ところが、土地所有権の認可を申請する者が都に殺到して、物理的に裁ききれなくなったため、早々7月には諸国平均安堵令が発せられた。これは、朝敵を北条氏一族のみと定め、知行の安堵を諸国の国司に任せたもので、事実上前令の撤回であった。

記録所、恩賞方、9月には雑訴決断所がそれぞれ設置される。関東地方から東北地方にかけて支配を行き渡らせるため、10月には側近の北畠親房、親房の子で鎮守府将軍・陸奥守に任命された北畠顕家が義良親王(後村上天皇)を奉じて陸奥国へ派遣されて陸奥将軍府が成立。12月には尊氏の弟の足利直義が後醍醐皇子の成良親王を奉じて鎌倉へ派遣され、鎌倉将軍府が成立。

1334年正月には立太子の儀が行われ、恒良親王(母:阿野廉子)が皇太子に定められる。また、年号が「建武」と定められる。1月には天皇の皇居にあたる大内裏の造営のための二十分の一税などの新税が計画され、土地調査が行われる。『楮幣』とよばれる新紙幣、貨幣の発行も計画され、3月には「乾坤通宝」発行詔書が発行されているが、乾坤通宝の存在は確認されていない。この頃には新令により発生した所領問題、訴訟や恩賞請求の殺到、記録所などの新設された機関における権限の衝突などの混乱が起こり始め、新政の問題が早くも露呈する。

5月には諸国の本家、領家職が廃される。徳政令が発布され、寺社を支配下に置くための官社解放令が出される。また、雑訴決断所の訴訟手続法10ヶ条が定められた。8月には新政下の混乱した世相を風刺する二条河原落書が現れた。将軍職を解任され、建武政権における発言力をも失っていた護良親王は武力による尊氏打倒を考えていたとされ、10月には拘束を受け、鎌倉へ配流される。12月には八省卿が新たに任命され、実力を重視し家格の伝統を軽視した人事が行われる。


◎中興の瓦解

1335年(建武2年)5月には内裏造営のための造内裏行事所が開設される。6月、関東申次を務め北条氏と縁のあった公家の西園寺公宗らが北条高時の弟泰家(時興)を匿い、持明院統の後伏見法皇を奉じて政権転覆を企てる陰謀が発覚する。公宗は後醍醐天皇の暗殺に失敗し誅殺されたが、泰家は逃れ、各地の北条残党に挙兵を呼びかける。

鎌倉幕府の滅亡後も、旧北条氏の守護国を中心に各地で反乱が起こっており、7月には信濃国で高時の遺児である北条時行と、その叔父北条泰家が挙兵して鎌倉を占領し直義らが追われる中先代の乱が起こる。この新政権の危機に直面後、足利尊氏は後醍醐天皇に時行討伐のための征夷大将軍、総追捕使の任命を求めるが、基本的には武士を嫌っている後醍醐天皇は要求を退け、成良親王を征夷大将軍に任命した。仕方なく尊氏は勅状を得ないまま北条軍の討伐に向かうが、後醍醐天皇は追って尊氏を(征夷大将軍ではなく)征東将軍に任じる。時行軍を駆逐した尊氏は後醍醐天皇の帰京命令を拒否してそのまま鎌倉に居を据え、乱の鎮圧に付き従った将士に独自に恩賞を与えたり、関東にあった新田氏の領地を勝手に没収するなど新政から離反する。尊氏は、天皇から離反しなかった武士のうちでは最大の軍事力を持っていた武者所所司(長官)の新田義貞を君側の奸であると主張。討伐を後醍醐天皇に対して要請する。

後醍醐天皇は尊氏のこの要請を受けず、11月に義貞に尊氏追討を命じて出陣させるが、新田軍は敗北する。1336年(建武3年)1月に足利軍は入京する。後醍醐天皇は比叡山へ逃れるが、奥州から下向した北畠顕家や義貞らが合流して一旦は足利軍を駆逐する。同年、九州から再び東上した足利軍は、持明院統の光厳上皇の院宣を得て、5月に湊川の戦いにおいて楠木正成ら宮方を撃破し、光厳上皇を奉じて入京した。このため新政は2年半で瓦解した。

入京した尊氏は光厳上皇の弟光明天皇を即位させ北朝が成立する。9月に後醍醐天皇は皇子の懐良親王を征西大将軍に任じて九州へ派遣。義貞に恒良・尊良親王を奉じさせて北陸へ下らせる。後醍醐天皇は11月には比叡山を降りて足利方と和睦する。光明天皇に三種の神器を渡すが、12月に京都を脱出して吉野へ逃れて吉野朝廷(南朝)を成立させ、先に光明天皇に渡した神器は偽器であり自分が正統な天皇であると宣言する。ここに、吉野朝廷と京都の朝廷(北朝)が対立する南北朝時代が到来。1392年(元中9年/明徳3年)の南北朝合一まで約60年間にわたって南北朝の抗争が続いた。


◎中興の機構

◎中央

・太政官

・八省
後醍醐は八省の長官である卿を、前関白左大臣二条道平や右大臣鷹司冬教といった高位の上級貴族に兼任させた。これは、八省の管轄事項が上級貴族の合議体を通じて天皇に伝えられる律令制以来の体制を解体して、後醍醐が八省の長官となった上級貴族を通じて八省を統括することで天皇親政の強化に繋げる目的であったが、位階の伝統を無視した動きに公卿達は反発した。

・諸官司

・記録所
記録所は、平安時代に藤原摂関家から権力を取り戻そうとした後三条天皇が1069年(延久元年)に記録荘園券契所を設置したことに由来する。建武政権における中央官庁の最高機関として設置された。記録所は後醍醐の親政時代に再興した。建武政権では荘園文書の調査に加えて一般の訴訟も担当。構成員は楠木正成、名和長年、伊賀兼光など。

・恩賞方
恩賞方は鎌倉幕府の討幕運動に参加したものに対する論功行賞を処理。記録所や恩賞方は調査機関であり、個々の政務に関する判断を下すための先例や意見が答申され、それらが後醍醐の決裁を経て「綸旨」の形で発せられた。

・雑訴決断所
所領関係を管轄、鎌倉幕府の引付衆に相当。地域別に担当する4~8番編成で設置され、偶数日、奇数日にそれぞれ開廷された。成員は公家のほか足利家家臣の上杉氏や足利尊氏の執事高師直、旧幕府の官僚二階堂氏など公家・武家双方から多くの人材が登用された。

・武者所
天皇の親衛隊。長には新田義貞を任じ、尊氏に対抗させた。ただし、近年では義貞を長にしたのは尊氏の意向とする説もある。

・窪所


地方

・陸奥将軍府
義良親王を将軍として、北畠親房・北畠顕家父子に補佐させた。陸奥国府多賀に置かれた。

・鎌倉将軍府
成良親王を将軍として、足利直義(尊氏の弟)に補佐させた。

・守護・国司
これまで中下級貴族が就いており、知行国制度などに見られるように単なる権益と化していた国司制度を地方支配の柱と位置づけた。側近や有力者が国司に任じられ、権能の強化が図られた。守護は軍事指揮権を扱う役職として残った。(平置)


◎恩賞・人事

足利高氏は功第一級とされ、従四位下鎮守府将軍・左兵衛督・武蔵守の官位と武蔵・上総の両守護職、29ヶ所の地頭職が与えられた。そして、後醍醐天皇の諱「尊治」の一字を賜った。これ以降高氏は「尊氏」となる。尊氏の弟である直義も左馬頭に任官され、14ヶ所の地頭職を得た。護良親王は征夷大将軍の職を望み、一時は補任するものの、1334年(建武元年)に護良親王が失脚して鎌倉に幽閉されると将軍職も剥奪される。

公家では吉田定房・万里小路宣房・北畠親房の「後の三房」と千種忠顕・坊門清忠らを重用、後伏見院政の人材も能力に応じて採用した。武家では楠木正成・名和長年(伯耆守)・結城親光(3名と千種忠顕とを合わせて「三木一草」という)。さらに真言密教の僧である文観や円観などの非・公家の人材も積極的に登用する人事であったが、家格を無視した任用は公家達の反感を強めた。
後醍醐天皇によって勲功第一と賞された尊氏は、新政の役職には就かなかった。これは、尊氏が新政とは一線を画そうとしていたためであるとも、政権側が尊氏を警戒したとも言われる。この状態は「尊氏なし」と呼ばれた。


◎後醍醐天皇の政治

後醍醐天皇が政治理念を標榜した言葉として『梅松論』にある「現在の例もかつては新儀であった。朕の新儀は未来の先例たるべし」という発言が知られる。

新政の当初は院政を行わず、摂政・関白や征夷大将軍などを設置せずに政治権力の一元化を目指しており、表面的には復古王政を装いつつ、内実は先例主義を否定する革新的な政治路線であった。後醍醐天皇やその近臣らは中国への関心や朱子学(宋学)的な君臣名分論の影響を受けていたとされ、宋代の官制との比較などから、君主独裁制を目指していたとも考えられている。征夷大将軍については前述のように護良親王を任命することになったが、摂政・関白は建武の新政期にはついに任命しなかった。ただし二条道平と近衛経忠を内覧に任命した。

1334年正月に定められた「建武」の年号は、中国の後漢王朝の25年に劉秀(光武帝)が王莽を滅ぼし漢王朝を復興した際に定めた元号であり、先例とは打って変わって、辛酉革命説により「武」の一字が不吉であると断固反対した公家衆の反対を押し切って定めたものであった。

後醍醐天皇は朝廷内部に有力な基盤を有しなかったことも弱点であった。天皇は大覚寺統傍流の出身であり、「中継ぎ」を前提とした即位であったために治天の君になる資格を有しておらず、退位後も院政を行うことが出来なかった。そのため後醍醐天皇が自己の子孫の皇位継承権を確立するためには、大覚寺統嫡流(兄・後二条天皇の系統、後の木寺宮家)や持明院統及びこれを支持する公家社会主流派との争いに勝利しなければならず、討幕運動自体も鎌倉幕府が皇位継承の複雑化を恐れて後醍醐のこうした動きを認めなかったことに端を発している。更に建武の新政開始後も先の光厳朝時代の官位否定などによってこの時期に官位の昇進を得ていた公家社会主流派を反対派に追いやった上、先の討幕運動の過程で日野資朝・花山院師賢・北畠具行らの天皇派の公卿が命を落としたために、後醍醐天皇は公家社会全体の掌握に困難をきたしていた(近衛経忠ら少数の例外を除いた摂関家のほとんどをはじめとした公家社会主流派は後に北朝を支持することになる)。

新政を批判したものとして、1334年(建武元年)8月には新政を風刺した『二条河原の落書』が書かれる。1338年(延元3年/建武5年)には北畠顕家が出陣前に新政の失敗を諌める諫奏を行い、北畠親房の『職原抄』や公家の日記などにも新政への批判や不満を述べる文章があるなど、武家や庶民のみならず、後に後醍醐天皇方について北朝と対立した北畠父子のような公家でさえ、新政を支持していなかったことが示唆される。後に三条公忠は「後醍醐院の措置は物狂の沙汰が多く、先例にならない」と非難している。
もっとも、後醍醐天皇が始めたものの中でも先例になったものもある。代表的なものは公家領の分割を制限して家督・家記・邸宅などからなる「家門」と所領である「家領」を一括安堵して嫡男に継承させる方針を打ち出したことである。これは足利尊氏によって治天の君に立てられた北朝の光厳上皇のもとでも引き継がれて、公家の家督及び所領を治天の君あるいは天皇の安堵を経て嫡男が単独継承する原則が定着することになる。


◎中興の矛盾

建武の新政は、性急であったことと、複雑化した土地訴訟事案への対応ができなかったことで混乱した。その様子は『二条河原の落書』にも記されている。

実質的に全国の土地を支配していた武士を天皇が直接支配することは前例のないことである上、性急な政策であったため武士たちの支持を得ることはできなかった。倒幕の功に応じて十分な恩賞を与えられた武士は、足利尊氏、新田義貞、楠木正成ら一部に過ぎず、最初から倒幕運動に加わって六波羅攻略に功を立てた赤松則村(円心)は播磨の守護職を没収されているなど、倒幕の功に対する恩賞が不公平であった。さらに地方の実情や慣例を無視して恩賞が宛がわれたため、1つの土地に何人もの領主が現れて混乱し、恩賞の裁定をやり直さなくてはならないこともしばしばであった。このため「綸言汗の如し」といわれる天皇の無謬性が揺らぎ、朝廷の権威が低下した。

後醍醐の近臣である吉田定房や千種忠顕が詰め腹を切らされる形で出家させられたが、武家の反感は収まらなかった。また万里小路藤房のように政権に失望して出家してしまう者も現れた。

公家・武家の別や能力の有無に関わりなく人材を登用したため、行政は混乱を極めた。地方においても、形骸化していた律令制の官の復権である国司と、鎌倉幕府以来の武家による統治機構である守護・地頭の並立は、当初から新政の矛盾を示すものであった。
また、大内裏の造営のための二十分の一税などの新税や、新貨幣鋳造、新紙幣発行などの唐突な経済政策は倒幕戦争直後の疲弊した経済の混乱に拍車をかけた。










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「シラスとウシハクについて」

2016-10-27 07:05:48 | 日本

日本国及び日本民族(国体)というものが、よくわかる論文があった。
以下、要約し記す。


シラスとウシハクのことについて、詳しくみる。

日本は、民衆が「おおみたから」とされた国である。
それがはっきりと成文化されたのが大化の改新。
けれどそれよりももっと古く、国の建国よりも、もっとはるかな昔から、それはわたしたちの国の根幹の統治手法、つまり日本の常識であった。

そのことは「国譲り神話」に明確に出てくる。
「国譲り神話」というのは、出雲地方を治めていた大国主神が、大和朝廷(高天原勢力)に国を譲り渡したという日本神話である。

このとき国を譲り渡したのが大国主神(おおくにぬしのみこと)。
大国主は、譲渡の条件として、「私の住処(すみか)として、大地の底まで宮柱が届き、高天原まで千木が高くそびえ立つほどの、大きく立派な神殿を建ててください。そうすれば私はそこに隠れましょう」と言い、そうしてご創建されたのが出雲大社である。

「国譲り神話」は、わたしたちの国が、戦(いくさ)よりも話し合いで解決する精神や、敗れた側を皆殺しにしたりするのではなく、その名誉を讃え尊重するという日本的心の教えとして紹介されることが多いのだが、実はもうひとつ、大切な教えがある。
それが、昨日、ちょっとご紹介しました、「シラス」と「ウシハク」である。

大国主神というのは、若い頃は大穴牟遲神(オオナムチノミコト)という名だった。
有名なエピソードとしては、因幡の白ウサギの物語がある。

オオナムチは、80人もいる兄貴たちから、ひどいイジメを受けるパシリ君だった。
けれど、一生懸命努力して自分を鍛え、また母や仲間たちの助けも借りることで、最後に「大いなる国の主(ぬし)」になった偉大な主(ぬし)である。
「大いなる国の主(ぬし)」だから、「大国主神」(おおくにぬしのかみ)というわけである。

そしてこの名が明らかなように、実は大国主の治政のやり方は、国の主人となる、すなわち領土領民を私的に支配してその上に君臨する、という統治形態であったとわかる。
この統治手法、すなわち「領土領民を私的に支配する」という方法を、「ウシハク」という。
「主人(うし)」が「履く(はく=所有する)」つまり、主人が自分のものにする、という統治手法である。

だからこの「ウシハク」は、「国の主人となって領土領民を私的に支配すること」、すなわち西洋や大陸のかつての王国で行われたことや、国家による他民族の奴隷的支配構造などにおける統治手法を示す言葉である。

そして大国主が、この統治手法の神であったことから、天照大神(あまてらすおおみかみ)様を筆頭とする高天原の八百万の神々は、これを否定する。
天上の神々は天の安河(あめのやすのかわら)で会議を開き、地上の統治を天上に委ねさせることに決定したのである。

そして天照大神(あまてらすおおみかみ)の使いは、次のように大国主神に述べて、国譲りを迫った。
天照大御神の命もちての使せり。汝(な)が領(うしは)ける葦原の中つ国に、我(あ)が御子の知らさむ国と言よさしたまへり。かれ汝が心いかに。(古事記)

使いとなられたのが武門の神様である建御雷神(タケミカヅチノカミ)である。
古事記には、建御雷神が出雲の国の伊耶佐(いざさ)小浜(おはま)に降りたたれ、そこで剣をいて、波の上に逆さに刺(さ)し立てて、その剣の切っ先に大あぐらをかいて、大国主神に国譲りを迫ったとある。

そしてこのときの言葉の中に、
1 大国主が領(うしは)ける国
2 我(あ)が御子の知らさむ国
という、明確な対比が出てきます。

この「知らさむ国」の「知らさむ」が、「シラス」である。
「シラス」は、古い日本の言葉で、「シラス、シロシメス」などと活用されている。
「シラス」は、「シメラフ」とも活用され、これを漢字で書くと「統(し)めらふ」、つまり「統(す)めらみこと、いやさか」の「統(す)める」となる。

どういう意味かというと、これは「知らしめる」で、いま風にいうと、何かをやろうとするときの情報の共有化である。
つまり「知らせ」を聞いたみんなが情報を共有化し、互いに必要な役割を定め、みんなで一致団結、協力して国造りをする。
そのときの中心核が「シメラフ」御存在となる。

情報は、共有化しただけでは、何も生まない。
そこに協力と共同があって、はじめて、具体的な動きとなる。
つまり特定の権威のもとに、みんなが集い、そこで情報を共有化して、みんなで、何事かを行う。
これが「シラス」における統治手法である。

この二つがどのように違うかというと、たとえば新田の開墾工事を行うとする。
そのとき、主君の命令によって、民衆を強制的に使役して田を開き、開いた田は主君のものとする。
ひとりひとりの民衆は、自分が何のために狩り出され、そこで労働をしているのか、まったくわからない。
ただ、剣を突きつけられ、ムチでしばかれるから、そこで働いている
これが「ウシハク」による統治である。

これに対して「シラス」は、まずはみんなで「新田を開墾しよう」という問題意識を共有化する。
そのために、それぞれがどこを担当するかみんなで話し合って決め、決まった事をみんなで一致団結し、協力し共同して、これを実現する。
ブータン国で、西岡京治さんが行った手法が、まさにこれでである。

要するに大国主神は、若い頃からさんざん苦労して、やっと大いなる国の主となったのであるが、大国主が行った統治手法は、結果として、大陸の手法と同じ「王が国民を私有物として支配する」という構図だったわけである。
それでも国は富み栄えた。
だからこそ、天孫の使いも二度までも、大国主の国の虜(とりこ)になってしまい、帰らなくなってしまっている。

けれど、天照大神(あまてらすおおみかみ)の御心は、この地上の統治は、そのような「ウシハク」ではなかった。
あくまでも君民一体、あくまでも「シラス」国つくりだったわけである。

大国主神は、この違いの意味を悟ったからこそ、なるほどと納得し、国譲りを行った。
そして、理解を示した大国主神を、高天原の人々は尊び、大国主のために天にも届く壮大な神殿を建てて、その功績を讃えたのである。
その神殿が、冒頭の絵にあるかつての出雲大社の復元図である。

いまの出雲大社は、図のような壮大な建物ではないが、平成12(2000)年に出雲大社の境内から宮柱の跡が出土した。
それは直径1メートルくらいの木を三本、金属で結んで大きな柱とし、それを合計9本建てるという壮大なものであった。
この発見によって、その上に建てられた大国主の宮殿は、なんと高さ48メートルにものぼる、巨大神殿であることがわかったのである。

平成15(2003)年に出雲大社を訪問された皇后陛下は、次の御歌を詠まれた。

 国譲り
 祀(まつ)られましし
 大神(おおかみ)の
 奇(く)しき御業(みわざ)を
 偲びて止まず

この歌にある「奇しき御業」というのは、「たぐいまれな業績」ということである。
めずらしい、めったにない御業であったと、皇后陛下は詠まれている。
そして、この「奇しき御業」とは、まさに大国主命が、国を譲ったことが、その後、大和朝廷が日本国を統一し、国を建て、その皇室が万世一系となり、国が栄えてきたことの歴史の起点にあたっての、大きな仕事であったことを指している。

要するに、世界中が19世紀までずっと「うしはく」という統治形態しか知らなかった世界にあって、唯一日本では、はるか太古の昔から「シラス」国を築いて来たし、それが天照大神(あまてらすおおみかみ)様の御心であるということなのである。

その「シラス」は、漢字で書いたら「統らす」である。
この統治の中心にあるのが、万世一系の天皇の御存在である。
天皇の御存在がなければ、「シラス」国つくりができないからである。

なぜかは、考えなくてもわかる。
選挙によって選ばれる政治権力者や、力や武力によって国を切り取る大王のような存在では、伝統的権威となりえないからである。
短期間の存在であり、政変が起きれば、政治の方向は、真逆に変わることもあるし、いまの正義は未来の悪、いまの悪は未来の正義となることもあるからである。
それが政治である。

そのような絶えず変化する存在を中心においたら、「シラス」ことはできない。
せっかくみんなで共同し、協力しあっても、その共同や協力が政権交替によって、突然、悪と断定されてしょっぴかれるなどという状況では、民衆が長く結束して、和と絆と結いを安定的に構築することができないからである。

なぜなら、民族というものは、歴史伝統文化によって育まれた価値観を共有する人たちの集団である。
ということは「シラス」ためには、その歴史的な伝統文化の中心核として、歴史伝統文化の中心核となりえる存在が必要だからである。

その中心核が、わたしたちの国では、天皇の御存在である。
万民が天皇の民となるということは、政治権力者も、その天皇の民のひとりである。
その政治権力者が統治する民は、天皇の民である。

したがって、誰もが権力者の私有民にはなりえない。
誰もが、あくまで天皇の民であることによって、権力者の私有民であることを否定される。

そして私有民でないということは、民衆のひとりひとりが自立した民であるということである。
ひとりひとりが、人間として扱われる。
人としての尊厳が守られる。
それが「すめらみこと」のおわす、日本のカタチである。

先般、支那の奥地で、14年間衣類を身につけることを許されず、両手を縛られたまま裸ですごすことを強要され続けた女性が保護された。
この女性は、幼女の頃に日本円にしてわずか3万円で男性に売られ、以後、ずっとこのようなモノや家畜、あるいは道具としての生活を余儀なくされてきた。
このような非道が、平気でまかり通ってしまう。
そのような民度の低さも、結局は、国そのもののカタチが、「ウシハク」であることによる。
大国主神が国譲りをした時代というのは、はるか太古の昔のことである。
日本を建国された神武天皇よりも昔の時代である。
そんな太古の昔から、わたしたちの国、日本は、「しらす」国を目指してきたわけである。

そしてこのことを、統治のために明確に様式化されたのが、7世紀の大化の改新である。
依頼、わたしたちの国は、ずっと、天皇という権威(その権威のことを「国体」という)と、統治のための政治組織(これを「政体」という)という、二本立ての国づくりをしてきた。

繰り替えしになるが、世界中、どこの国でも、すべての王朝は、国王が私的に領地領民を所有する体制である。
政治組織は、その所有という統治手法のためにこそ、成り立っている。

けれどもわたしたちの国では、天皇は政治を行わず、つねに政治に統治をするための権威を授けるという、政治より上位のお立場であらせられた。
そしてわたしたちは、天皇の民であることによって、政治権力者から理不尽な収奪や簒奪や暴力的支配をされずにすごすことができるという、国に生まれた。
これは、まさに人類理想の究極の民主主義といえるものである。

昨今では、多くの日本人が、漠然と、民主国家と君主国とは、なにやらかけはなれた概念で、君主国家はまるで民主主義国家とはほど遠い存在のようなイメージを持っている。

けれど、ヨーロッパを見たらわかるが、ヨーロッパは民主主義だが、その中の多くの国は君主国である。
君主国と民主主義は、何も対立概念ではなく、共存するものである。

そしてわたしたち日本人は、その民主主義の中の最高の民主主義を、歴史的伝統的文化的にはるか古代から築き上げてきた民族なのである。











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「東條英機元首相ら7人のA級戦犯の処刑 謎を解く米文書」

2016-10-26 06:33:34 | 日本

67年前、東京裁判の末に処刑された7人のA級戦犯。家族にすら遺骨の引き渡しを拒んだ理由は何だったのか。そして今も国内外で論議を呼ぶ「A級戦犯」処刑の“謎”とは──。ジャーナリストの徳本栄一郎氏が機密解除されたGHQ(連合国軍総司令部)文書で真相に迫る。

答えはGHQ参謀二部(G2)の文書にあった。講和条約調印後、A級戦犯の遺骨返還の要請が来た。その時のG2会議録を見てみる。

「(遺骨返還は)以下の3点から極めて不適当である。a. 事実上、われわれの戦犯に対する長期的方針を逆転させてしまう。b. 急進的ナショナリズムの復活に格好の結集点と根拠を与える。c. 日本人の多くは東條(英機)や他の戦犯を英雄でなく背信者と見ており、われわれとの間に距離を生んでしまう。従ってこの要請には、遺骨は返還できないよう破棄されたと回答すべきである」(1951年11月29日、G2内部メモ)

ここで重要なのは「戦犯に対する長期的方針」「背信者」という言葉だ。そもそも東京裁判はこれまで多くの批判に晒された。ポツダム宣言にない「平和に対する罪」で裁いたこと、不明確な被告人選定の基準は一方的な“勝者の裁き”と言われた。なぜGHQはそこまで無理をしたのか。

敗戦直後、米国民の天皇への見方は厳しかった。真珠湾攻撃の記憶も生々しく天皇処刑の声すらあった程だ。だがGHQは天皇を裁かず円滑な占領に利用したかった。しかし開戦詔書が天皇の名で出た以上、理論武装が必要だ。そこで考えられたのが全責任を東條元首相らに押しつける戦略だった。それはマッカーサーの軍事秘書ボナー・フェラーズが米内光政元首相に語った言葉で分かる。敗戦後、東京裁判対策に関わった元海軍大佐の豊田隈雄が紹介した。

「対策としては天皇が何等の罪のないことを日本人側から立証して呉れることが最も好都合である。其の為には近々開始される裁判が最善の機会と思ふ。殊に其の裁判に於いて東條に全責任を負担せしめる様にすることだ。即ち東條に次のことを言はせて貰い度い。『開戦前の御前会議に於て仮令陛下が対米戦争に反対せられても自分は強引に戦争迄持って行く腹を既に決めて居た』と」(『戦争裁判余録』)

米内はこう応じた。

「全く同感です。東條(元首相)と嶋田(元海相)に全責任をとらすことが陛下を無罪にする為の最善の方法と思ひます」(同)

これを裏付ける文書を米バージニア州のマッカーサー記念館が保管している。フェラーズの部下がマッカーサーに提出した覚書で、開戦詔書が作成された際、「(天皇への)詐欺、威嚇または強迫が行われていたと証明する事実を全て収集する」と勧告した。要は、天皇は東條に威嚇され詔書に署名した。自らの意志ではなかったと証明せよというアドバイスだった。

その後、GHQの民間情報教育局(CIE)は軍国主義者の糾弾キャンペーンを始めた。国民は東條らに騙され無謀な戦争に導かれたと宣伝された。A級戦犯すなわち背信者のイメージが確立する。強引な裁判の裏には日米共通の思惑があり、遺骨返還はこの戦略を揺るがす恐れがあったのだった。

6年8カ月続いた占領は、ある意味で大いなる矛盾の時代であった。日本の民主化を唱えつつ、GHQは絶対権力者として君臨した。国際正義の名で開いた東京裁判は“勝者の裁き”と呼ばれた。そしてカバーストーリー(真実を隠すための物語)が広がっていった。

闇に消えたA級戦犯の遺骨、それはあの矛盾に満ちた時代の象徴だと言える。













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「保阪正康の田中角栄が生きていたら言う②]

2016-10-25 08:14:36 | 日本

天皇と田中角栄が国民の関心事となっている。その背景を考察するため、「昭和」という時代を三つに分けて整理してみよう。

まず、昭和元年から昭和20年9月2日まで。太平洋戦争を進めてきた日本は同年8月15日、ポツダム宣言を受諾する意思表示をして敗戦を受け入れた。だが、国際法的には9月2日が敗戦となる。ここまでを「昭和前期」とする。

敗戦の結果、米国を中心とする連合国の占領支配を受ける。サンフランシスコ講和会議で講和条約が結ばれ、日本が国際社会へ復帰するまでが「昭和中期」。敗戦から講和条約が発効された昭和27年4月28日までの6年8カ月だ。

それ以後、昭和64年1月7日までを「昭和後期」としたい。

この三つの時代には、総勢32人の首相がいた。昭和前期に15人。中期に5人。後期に12人。それぞれの時代を代表する総理大臣は誰だろうか。

昭和前期の中心は太平洋戦争だったのだから、やはり東條英機ということになる。軍人首相と言っていい。

昭和中期は占領期で、米国を中心とする連合国との間にどういう関係をつくるかが最大の課題だった。その点では、外交官出身の吉田茂が代表的な総理大臣と言っていいだろう。

昭和後期は誰か。「沖縄を返してもらった佐藤栄作だろう」「高度経済成長政策を採った池田勇人じゃないか」など、いろいろな考えがあるだろう。私は、もっとも妥当性のあるのは田中角栄だと考える。戦後民主主義を具体的に体現した首相だったからである。

昭和中期に新憲法が施行され、女性が選挙権を得た。ほかの様々な市民的権利も実ってくる。GHQの占領支配が終わって昭和後期になると、本格的なデモクラシーの時代を迎える(戦後民主主義あるいはアメリカンデモクラシーと呼ぶ)。田中角栄はその時代を代表する存在だった。
票を集めて多数派を形成するのが、政治的権力である。大衆的な「集票の個性」をもっていないと、首相の座に就けない。田中にはそれがあった。戦争に負けて散々な目に遭った日本は、この時期に復興していく。高度経済成長を突き詰めていく田中の存在は、復興のシンボルたり得た。

田中は、「便利だ」「おいしいものを食べたい」「いい暮らしがしたい」という私たちの欲望を政策化した初めての政治家だった。きれいごとは言わない。国民の欲望をそのまま、正直に政策化した。

東條英機、吉田茂と田中角栄を並べてみると、すぐにその違いに気づく。

東條は陸軍大学校、吉田は東大法学部を出たエリート。田中は学歴に頼らず、自分の力でのし上がった。昭和前期、中期であれば、官僚制の底辺にいるような存在だっただろう。それが、戦後民主主義の中では首相になることが可能だ。

首相になると、天皇としばしば会う。官僚出身者、あるいは長く政治家をしてきた人たちは、天皇に会ううえでのルールについて、ごく自然に覚える。

例えば、東條英機の時代であれば、天皇のところに上奏に赴いたとき、天皇の目を見ないというのがルールだった。目を見ると天皇の考え方が分かるから、決して見ない。戦後であれば、政治と距離をおいた天皇からの質問にも、詳しい話はできない。政治的判断を天皇に求めることになってしまうからだ。

田中角栄は、そうしたルールを見事に破った。

田中が首相だったときの宮内庁長官・宇佐美毅によると、天皇に内奏をした田中の退出後、天皇は驚いた表情をしていたという。

ふつう、内奏は5~10分程度だが、田中は30分ぐらい使っていた。天皇が「経済はうまくいっていますか、どうですか」と聞く。佐藤栄作や池田勇人なら「景気は一時的に悪いですけど、大丈夫です」などと抽象的に答える。

ところが田中は、次の国家予算や貿易収支の額から赤字国債の発行予定まで延々と説明し、「私の内閣において、このことを実行します」みたいなことまで言っていたという。天皇はびっくりしたわけだ。
様々な関係者の話を聞いた私の結論だと、田中は天皇への尊崇の念を他の首相よりは持っていない。持たないことが彼の強みでもあった。

天皇は自分の前に上奏に来る人物は、官僚出身者、あるいは練達な政治家ばかりだったから、どういう態度をとるかを知っている。だから、田中角栄を初めて見たときには愕然としたに違いない。「この男は、私を陥れるのではないか。私に敵対しているのではないか」と。

昭和中期には社会党の片山哲が首相になっている。社会主義、共産主義というのは、天皇制にとって最大の敵。天皇は「大丈夫だろうか」と不安に思ったはずだ。でも、片山はクリスチャンで社会民主主義者であり、共産主義とは一線を画していた。話をしているうちに、天皇は片山を大好きになったらしい。片山の首相退陣後も、事あるごとに片山が宮中へ来られるような行事を考えるよう、侍従たちに言っている。

田中角栄は無論、共産主義者ではない。しかし、天皇を前にした田中の態度は、他の首相とは違った。田中ほど、天皇に明確な立場をとった人はいない。











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「保阪正康の田中角栄が生きていたら言う①]

2016-10-24 09:12:05 | 日本

天皇陛下の生前退位問題で皇室への注目度が一段と高まっている。また、今年は空前の「角栄ブーム」も続いている。両者が同時に脚光を浴びているのはなぜか。ノンフィクション作家の保阪正康さんが掲載している。
以下、要約し記す。


昭和史を検証するとき、例えば、昭和前期の太平洋戦争に至る昭和16年の4月から12月に至る日米交渉、御前会議、大本営政府連絡会議など記録を見ると、天皇に対する尊崇の念と、天皇が間接的に言った内容がいずれもきれいな表現で残されている。

だが、本質はそうではない。天皇が存在する目的は、皇統(天皇の血統)を守ること。その手段として、戦争も選ぶし、平和も選ぶ。多くの人はそこを誤解し、昭和天皇は抗戦主義者だ、和平主義者だと言うけれど、どちらでもない。皇統を守るのが天皇の本来の役目であり、そこに強い使命感を持っているというべきである。今の天皇もそうである。

昭和16年の各種の会議録を丹念に読むと、きれいな言葉で綴られているにせよ、軍事指導者たちが言わんとすることは明確だった。「戦争しないと、この国はつぶれます。あなた、決断して下さい。我々はいつでもやりますよ。このまま石油も入らず、三等国、四等国になっていいんですか。皇祖皇宗にどう申し開きをされますか」という話だ。

天皇は「私はあまりやりたくない」と考える。しかし、軍部は「そんなこと言っている場合じゃない。やったら勝つか? 勝つと思う」と。「じゃあ、やろう」となって、真珠湾をたたいて戦争に入った。

天皇はその後1年もしないうちに「しまった。戦争はやるべきではなかった」と思い直している。戦争に勝っても負けても、皇統を守る保証にならないと気づいた。自らも認めた戦争だが、もはや天皇には抑えが利かない。しかも、軍事指導者たちは戦果について嘘八百を報告する。

昭和天皇は昭和17年12月、伊勢神宮へ参拝し、神武天皇からの皇祖皇宗に「私は戦争を選択しました」と報告する。前日に京都の御所に泊まった際、天皇の心理状態は困惑の中にある。ふだん話もしたことはない侍従に対し、「どうしてこんなふうになったんだ。誰が悪いんだ。戦争なんかしたくなかったのに」と、つぶやき続ける。
天皇は、3年8カ月の太平洋戦争の間、精神的に相当疲れていたと思われる。各種資料を吟味していくと、昭和20年2月ごろがピークだったとみられる。戦争が終わったときは、信じるものすべてを失ったような心理状態だったはずだ。

それをうかがわせる言葉はいくつも残っている。例えば、敗戦後の昭和20年の秋には、ある侍従に対し、「(戦時中は)短波を聞いていた」と語っている。米国の短波放送で戦況報告を聞いていたわけだ。

天皇は大本営の戦況発表をまったく信用しなくなっていた。そういう昭和史の本当の姿をきちんと押さえておかないと、政治指導者、軍事指導者たちの姿も浮かんでこない。東條が「陛下、この道を選択する以外にないかと思います」ともっともらしく言ったのは、とりもなおさず、「あなた、戦争するしかないよ」という意味だったのだ。

田中角栄は、そんなオブラートに包んだ表現をしなかった。例えば、園遊会に首相が特権として関係者を呼ぶ場合、ふつうはせいぜい10~20人だが、田中は300人ぐらい呼んだ。越山会の人間がぞろぞろ来た。実家のある新潟・西山町で家を建てるとなれば、御料地の材木を譲ってくれと言ったとの説もある。実に庶民的な発想でモノを言っていた。

大本営政府連絡会議、御前会議、最高戦争指導会議などの公式記録は、決まり切った文言で語られているけれども、それをかみ砕いて私たちの日常の言葉に直せば、天皇の意思をないがしろにしていることがよくわかる。それに比べ、田中角栄は正直だった。国家の本音の部分、官僚の手による各種資料の行間ににじむ「庶民の言葉」を代弁していた。田中は、天皇制国家には偽善・欺瞞があると受け止めていたのではないだろうか。

死後20余年たった、今の「角栄ブーム」をどう見るべきか。

田中角栄という人物は、人間的にも面白い。彼が総選挙に初めて立候補したのが昭和21年。27、28歳だった。この選挙では落ちるが、彼の選挙運動はユニークだった。早稲田大学の雄弁会の学生を何人か雇い、新潟の自分の選挙区に解き放つ。そして、彼らに「俺の名前を連呼して演説してくれ」と言う。そんなことをやった人はいない。発想がじつに庶民的だ。
中は、昭和の偽善を見事なほどひっくり返して見せた。あらゆる権威をひっくり返した。彼のそうした言動に今の私たちが何かを感じるからこそ、ブームが起きているのではないか。

「おい、アメリカをあまり信用してはいかん。ロシアもひどいけど、アメリカもひどいぞ」と言ったと思う。

田中はロッキード事件で、その地位を米国に追われたと言えるが、それだけが理由ではない。彼は、「物量的な幸せ」というものを日本人に定着させようとした。だが、物量がどれほど満たされても、新幹線がいくら速く走っても、私たちが家を何軒持っても、背広を何着持っても、幸せとは限らない。幸福とは、もっと精神的なものである──ということに、政治家を離れてから気づいたと思う。その意味からも米国を語るのではないかと思う。

さらに、大事なことを指摘しておきたい。日本のエスタブリッシュメントは、田中にかなり非礼な態度をとっていると思う。

例えば、日中平和条約締結関連の記録集を読むと……1972年、田中が訪中して周恩来首相と対談するくだりで、田中が「日ソ中立条約」と言うべきところを「日ソ不可侵条約」と言い間違え、品のない表現でソ連の違約を責めている。そういう議事録を公表するなら、「中立条約」と直せばよい。田中があまりにもかわいそうだと私は思う。

まるで田中は無知なんだ、教養がないんだと笑っているかのようだ。そういう目に見えない形の“田中いじめ”は、資料の中から浮かびあがる。







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「世間様・御馳走様・あらゆるものに『さん』、『様』の敬称をつけるのは、日本だけ」

2016-10-23 08:12:07 | 日本

日本人は戦後いかに変わり、そして大事なものを失ってしまったのか。また日本人が本来もつ美徳とは何なのかについて、加瀬英明さんが掲載している。
以下、要約し記す。



伝統文化は表皮的で、二次的な力しか持っていないイデオロギーよりも、人間存在の鋳型として、はるかに強い力を備えている。

 文化には、大きな力が籠っている。私たちは明治以来、日本文化を遅れたものとみてきたために、精神が混乱をきたすようになった。
そろそろ、私たちは内なる日本人と、和解するべきではないだろうか。
伝統を培うのには、長い時間がかかるが、伝統を壊すのは、数年もあればよい。簡単なことだ。

宮沢賢治の童話のなかに、素晴しい場面がある。登場人物の百姓に、「農作物はわたしたちが作っているのではありません。太陽が育てているのです。わたしたちは太陽を手助けしているだけです」と、いわせている。私たちにとって、伝統が太陽である。
人は伝統という縦糸と、その時々の時代性という横糸が交わるところで、生きている。 伝統という縦糸が弱まってしまっても、現代性という横糸が弱いものであっても、活き活きと生きられない。
私たちは空気や、水や、食糧から、力を取り込んでいるのと同じように、伝統から力を吸収している。
伝統文化は、貴重な遺産なのだ。私たちは大いなる遺産を、相続してきたのだ。
今日の日本を築いた功績は、私たちだけにない。多分に先人によるものである。
日本的なものを、大切にせねばなるまい。

私は海外と折衝することを、仕事としてきた。
日本語のなかに、外国語にひとことで訳せない言葉が、沢山ある。外国語にならない日本語が多いと思うたびに、日本人として生まれてよかったと、深く満足する。

私たちは食事をはじめる時に、「いただきます」というが、中国語、韓国語、英語などのヨーロッパ諸語に、このような表現がない。

英語であれば、食卓を囲んでから、主なる神に感謝する、短い祈祷文を唱えたものだった。
いまでは、多くの英語国民の信仰心が薄くなったために、食前に祈祷文を唱える家族や、人が少ない。そこで、ほかにきまった言葉がないので、フランス語を借りて「ボナペティ」(よい食欲を)という。 

お隣の韓国では、「チャルモッケスムニダ」(これからよく食べます)、「チャルモゴスムニダ」(よく食べました)だし、中国語では「開始吃飯(クアイスツーファン)」(これから食べます)、満腹になったら「好吃飯了(ハオツーファンラ)」(よく食べました)という。

私たちが「いただきます」「御馳走さま」という時には、天地(あめつち)の万象に感謝する。だから、だされた食事を残してはならない。

世界諸語のなかで、「お猫さん」「お猿さん」「トンボさん」「お寺さん」「新聞屋さん」「飲み屋さん」「御馳走様」「世間様」といったように、あらゆるものに「さん」「様」の敬称をつけるのは、日本だけである。人間様だといって、威張ることがない。
私はよく祖母から、「そんなことをしたら、世間様に顔向けできません」「世間様に感謝しなさい」と、たしなめられたものだった。

世間が神になっているのは、日本だけだ。和の心から、発するものである。和が神なのだ。










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「100億円のF-35が数万円のドローンに負ける日」

2016-10-22 08:39:16 | 日本

部谷直亮さんが「ISの自爆ドローン戦術に自衛隊が学ぶべきこと」について掲載している。
以下、要約し記す。



◎自爆ドローン兵器に対して無防備な自衛隊

自爆ドローン兵器の脅威は日本にも及びかねない。具体的には、もしも日中戦争が起きた場合、1機100億円のF-35戦闘機が、中国軍の特殊部隊が操る数万円のドローンで無力化されてしまうおそれがある。

航空自衛隊基地は広大な滑走路等の敷地を持つ一方で、警備用の機材も人員も極度に不足しており、無防備に等しい。対ドローン用装備も、ほとんど自衛隊に導入されていない。しかも基地の多くが住宅地の近隣にある。こうした状況で、中国軍の特殊部隊が小型ドローンを滑走路に侵入させて積載したパチンコ玉をばら撒かせるなり、自爆させることは極めて容易である。

その場合、空自は滑走路が使用不可能になり、航空機を飛ばせなくなる。というのは、そのままの状態で戦闘機を発進させれば機体前方の空気吸入口からパチンコ玉なり破片が入り、エンジンが爆発・故障する恐れがあるからだ。もし発進直前、それも感知されずに突入すれば、滑走路上で戦闘機が炎上し、より悲惨なことになるだろう。

さらには、自爆ドローンを管制塔やパイロットの待機所、整備員、格納庫、レーダー施設に突入させても、空自の戦力を減少・無力化させることができる。

海自の基地(例えば横須賀や呉)も無防備である。自爆ドローンで、イージス艦等のフェイズドアレイレーダーやイルミネーターを破壊し、動く鉄屑にすることはきわめて容易だろう。

陸自も同様の危険が特にPKO活動で予想される。民生ドローンの軍事転用は今や武装勢力でブームになりつつあるが、治安悪化著しい南スーダンでもこうした戦術を現地勢力が採用し、自衛隊に攻撃を仕掛けてくる可能性はある。

空自はX-2「心神」のような実験航空機の開発を進めているが、防衛省・自衛隊内部ですら「無意味な玩具遊び」との批判がある。仮に、いつか強力な戦闘機が誕生する日が来るとしても、今日や明日に小型ドローン兵器の攻撃を受けて、滑走路を無力化され、パイロットや整備員が死傷し、管制塔もレーダーも使えなくされるのでは何の意味もない。それよりも、空・海自の基地警備の改善や「ドローンディフェンダー」のような対ドローン銃の大量配備が急務だろう。

一方で、自衛隊はISの戦法に学ぶべき点もある。安価な民生品の活用である。特に陸自のような近距離の偵察を前提とする組織にとっては、高額な何千万円もの―内部で役立たずという批判のある―陸自専用のドローンをほんの少し購入するよりも、民生品の10~100万円単位の安価なドローンを大量に購入する方がよほど効果的なはずだ。








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「隅田川浪五郎とは、」

2016-10-21 09:21:42 | 日本

旅券(印章)第1号は、慶應2年10月17日(1866年11月23日)付で江戸幕府の日本外国事務(外国奉行)が手品師・隅田川浪五郎に発給したもの。

隅田川 浪五郎(すみだがわ なみごろう、天保元年(1830年) - 没年不詳)は、幕末明治期の手品師、曲芸師である。江戸生まれ。日本で初めてパスポートを取得した人物である。
 

◎生涯
 
アメリカ人のサーカス曲芸師リズリー(1864年に来日し、西洋式曲芸を日本で初めて披露した)の帰国に合わせて、浜碇定吉らと伴にアメリカ合衆国に渡米させ、その際、慶應2年10月17日(1866年11月23日)付で、江戸幕府の外国奉行(日本外国事務)からパスポート(印章)を取得した。
 
これが日本の旅券発行第1号である。なおパスポートには、神田相生町に住み年齢三七歳、身長五尺と記載されていた。リズリーをマネージャーに「帝国日本一座(英語: Imperial Japanese Troupe)」として巡業させた。
 
一行は、慶應3年1月からサンフランシスコを始めに全米各地を巡業し絶賛され、4月にはジョンソン大統領にまで謁見し、その後ニューヨーク市で6週間滞在、1867年にはパリ万国博覧会にも出演で3か月フランスのパリに滞在、イギリスのロンドンで11週間の滞在を始め、オランダ・スペイン・ポルトガルなど、ヨーロッパ各地を回り、ジャパニーズ・アクロバット・ブームを引き起こした。
 
明治2年(1869年)に帰国、明治8年(1875年)にフランス人に誘われ再び出国、帰国後は「三遊亭遊成」の名で寄席に出演した。
 
紙で作った蝶を扇子で仰ぎ、自由に舞い遊ばせる奇術「胡蝶の舞」を得意としていた。慶応3年(1867年)1月9日、サンフランシスコのアカデミー・オブ・ミュージックにて「胡蝶の舞」を演じたことが記録に残っている。また、ル・モンド紙の慶応3年(1867年)11月23日号にイラスト入りで紹介されるなど、パリでも賞賛された。














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「選挙ごとに拡大する財政赤字の悪循環」

2016-10-20 07:01:14 | 日本

中村 仁さんが「選挙ごとに拡大する財政赤字の悪循環」について掲載している。
以下、要約し記す。



◎景気対策を選挙の手土産にするな!

国家予算は政治が自由に使えるものという錯覚が定着してしまっている。政権は何の痛みも感じないので、好きなように景気対策や補正予算を組んで、選挙を有利に運ぼうと考えるのである。夏の参院選が終わったと思ったら、来年1月には衆院の解散?があり、もう第3次補正の準備とか。選挙が年中行事になり、そのたびに景気対策や補正予算が手土産になっている。

誤解のないように言うが、財政を守るために選挙をやるなということではない。選挙は政権樹立、政権維持のための最大の手段だから、必要な時は選挙に打ってでて、国政の基盤を確立していくのは大切なことである。問題は選挙のたびに政治が国家予算のふところに手を突っ込むことをやめよ、ということ。そんな無理を続けていると、「政権が安定すれば、経済も安定する」とは、逆の結果を招きかねない。

安倍1強政権になったのだから、少なくとも経済・財政政策については、筋を通したらどうなのか。経済・景気が芳しくなくなってから、さらに増税延期(消費税など)も選挙カードに使われ、財政は先進国最悪という悲惨な状態である。最大野党の民進党は蓮舫・野田路線への党内からの反発も強く、追い打ちをかけるチャンスと考える政治戦術はある。その際、これ以上、財政を痛めたり、史上空前の金融緩和の冒険に踏み込んでいる日銀を道連れにしてはいけない。


◎ただで済む経済・景気政策はない

ただでできる経済・景気政策はない。財政政策の主な財源は国債だから、返済義務(償還)は今の若い世代に降りかかってくる。財政再建の柱である年金・医療制度の改革のために、若い世代ほど年金を減らされたり、医療保険の支払いが増えてくる。

第2次補正予算(事業規模28兆円、国費5兆円)が11日の参院本会議で成立した。と思ったら、来年1月に解散・総選挙があることを前提に、早くも第3次補正予算を待望する声が上がっているそうである。第2次は7月の参院選対策、第3次は衆院選対策の選挙対策費か。いくらなんでも、それはない。自分のカネだったら、財布の紐は締めてかる。

形はデフレ脱却が大義名分になっている。第2次の中身をみると、訪日外人の拡大に向け、大型クルーズ船を受け入れる港を全国、まんべんなく整備するなんて聞くと、選挙目当ての便乗予算がいかに多いことか。税制改正のために、専業主婦世帯を優遇する配偶者控除の廃止・見直しは選挙に不利と考え、急転、見送りとなった。

消費税の10%への引き上げも選挙対策のために、2度も見送ることになっている。この後、当分、現れないだろう強力政権だからこそ、財政再建(社会保障財源)のために実施すべきだったのに。選挙のために回避された。ポピュリズムに乗って政権はますます強く、国民経済・財政は逆に痛むという道を歩んでいく。そういうことが積り積もって国債が1000兆円に達してしまったのである。選挙は財政赤字拡大の大きな要因である。


◎総裁任期は延び、選挙の間隔は短縮

最近の衆院選は、14年12月・12年12月・09年8月・05年9月・03年11月だった。これに17年1月が加わると、2年に1度の選挙。その間に、参院選(3年に1度)は16年7月・13年7月・10年7月などだから、国政選挙はほぼ毎年である。経済・景気が低迷していから、そのたびに選挙対策として大型の対策が組まれているということである。

せっかく自民党総裁の任期を連続3期(1期3年)まで延長するという流れが固まってきた。総理・総裁の就任期間が長くなる一方で、国政選挙の間隔は短くなっているというのは、変である。政権が安定し、経済は不安定さを増す。強力政権で無理な経済政策を重ねていくと、そうした矛盾に陥りかねない。











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「娘がつくるピクルスの作り方」

2016-10-19 08:14:53 | 日本

野菜のピクルスを作りました。
お母さんの同級生につくりかた教えてもらいました。

パプリカ赤、黄・キュウリ・大根・人参です。
お酢のきいた漬物みたいで美味しいよ。
お酢はダイエットにいいらしい。

野菜をきって、あさ漬の素で野菜を揉んで少しおいて馴染んできたら、すし酢をかけてつけるだけ。
水が、沢山上がると薄くなるので、その時々に捨てて、すし酢の調整をします。
1日漬けたらちょうどいい感じです。

お酢はタッパーに野菜をいれて野菜の半分以下の量でオッケーです。少なめで。
お酢が染み込むと水が出るからよくふってね。
タッパーでお酢が全体に絡まるように横振りして混ぜるといいよ。
だんだん野菜がしおれてきて、お酢に浸かるようになるから。
水が増えたら少しすてるといいよ。













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