龍の声

龍の声は、天の声

「ウエツフミ(上記)②」

2020-11-30 09:33:27 | 日本

◎ウエツフミ、上記、ウガヤフキアエズ王朝

1837年(天保8年)に豊後国(現在の大分県)で発見された。『上紀』、『上津文』、『上つ文』、『ウエツフミ』とも書き、『大友文献』、『大友文書』などともいう。神代文字の一種である豊国文字で記されている。
『上記』の序文には、1223年(貞応2年)に源頼朝の落胤とも伝えられている豊後国守護の大友能直が、『新はりの記』や『高千穂宮司家文』等の古文書をもとに編纂したとあるが、一般に史実とはみなされていない。
現存する『上記』の写本には、宗像本系と大友本系との2つの系列がある。

1.宗像本とは、豊後国大野郡土師村(現在の大分県豊後大野市大野地区)の宗像家に伝えられていた古文書を、国学者幸松葉枝尺(さちまつ はえさか)が筆写したものである。

2.大友本とは、豊後国海部郡臼杵福良村(現在の大分県臼杵市福良)の旧家大友家に伝わっていた写本である
大分県には『上つ記』(大分県立図書館蔵)という神代文字で書かれた古文書が存在している。『上つ記』というのは、天保2年(1831年)、豊後国大分郡大分町に住む国学者である幸松葉枝尺(さきまつはえさか)により、旧家から発見された古文書で、全文記号のような奇妙な文字、いわゆる「神代文字」というもので綴られていた。時代は鎌倉、編纂者は豊後大友家初代能直となっている。「神代文字」で書かれた古文書の「新治の記」、「高千穂の大宮司の伝書」、「日向国主元雄の伝書」を基本に各地の古文書を総合したものである。「山人族」の研究で著名な三角寛博士の研究によると、『上つ記』の神代文字は「豊国文字」といわれるもので、古来よりサンカと呼ばれる独特の社会を形成し山々を渡り歩く民、山人族のあいだで用いられていたものであるということが判明した。また、さらに驚くべきことに、ウエツフミの編纂者である大友能直が「豊国文字」でかかれた古文書を奪うべく1600人もの山人族を虐殺したという言い伝えを得ることもできたのだ。つまり、元々は山人族の伝承であるということなのである。この古文書に書かれている内容と巨石の文字を照らし合わせてみると、実に驚くべき一致を見た。『古事記』では、神武天皇が初代天皇ということになっているが、『上つ記』によると神武天皇以前に72代にものぼるウガヤフキアエズ朝というものが存在したとのこと


◎竹内文献・ウエツフミ

55代から68代までは『ウエツフミ』では原本が散逸してしまい本文が存在していない。

1代 武鵜草葺不合身光天津日嗣天日天皇
2代 日高日子身光天日天皇軽島彦尊(カルシマヒコ)
3代 真白玉輝彦天日天皇(マシラタママカガヒコ)
4代 玉噛尊天津日嗣天日天皇(タマカミヒコ)
5代 天地明成赤珠彦天日身光天皇(アメツチアカリナスアカタマヒコ)
6代 石鉾歯並執楯天皇天日天皇身光天皇(イワホコハナメトリタチ)
7代 櫛豊媛尊天日身光媛天皇(クシトヨヒメ)
8代 光徹笑勢媛天皇天日身光媛天皇(ヒカリトオルワラワセヒメ)
9代 千種媛天皇天日身光媛天皇(チグサヒメ)
10代 千足媛天皇天日身光万国棟梁天皇(チタラシヒメ)
11代 禍斬剱彦天皇天日身光万国棟梁天皇(マガキルツルギヒコ)
12代 弥広殿作天皇天日身光天皇(ヤヒロトノツクリヒコ)
13代 豊明圀押彦天皇天日身光天皇(トヨアカリクニオシヒコ)
14代 火之進奇猿媛天皇天日身光天皇(ホノスセリクシマシラヒメ)
15代 臼杵天皇天日身光天皇(ウスキネヒコ)
16代 産門真幸天皇天日身光天皇(ウブドマサキ)
17代 表照明媛天皇天日身光天皇(ウワテルアカリヒメ)
18代 依細里媛天皇天日身光天皇(ヨザミサトヒメ)
19代 少名形男彦天皇天日身光天皇(スクナガタオ)
20代 天津明少名大汝彦天皇天日身光天皇(アマツミノリスクナオオナヒコ)
21代 天饒明立天皇天日身光天皇(アメニギシアカリタチ)
22代 天押開神魂彦天皇天日身光天皇(アメオシヒラキカムタマヒコ)
23代 天饒国饒狭真都国足天皇天日身光天皇(アメニギシクニニギシサマツクニタラシ)
24代 天饒国饒黒浜彦天皇天日身光天皇(クロハマヒコ)
25代 富秋足中置天皇天日身光天皇(トミアキタラシナカオキ)
26代 種浙彦天皇天日身光天皇(タネカシヒコ)
27代 建玉天皇天日身光天皇(タケタマヒコ)
28代 天之海童楽之雄天皇天日身光天皇(アメノイソリヱラギノオ)
29代 神豊実媛天皇天日身光天皇(カムトヨミヒメ)
30代 円脊之男天皇天日身光天皇(マロセノオ)
31代 橘媛天皇天日身光天皇(タチバナヒメ)
32代 花撰媛天皇天日身光天皇(ハナヨリヒメ)
33代 清之宮媛天皇天日身光天皇(スガノミヤヒメ)
34代 八千尾亀之男天皇天日身光天皇(ヤチオカメオノオ)
35代 花媛天皇天日身光天皇(ハナヒメ)
36代 若照彦天皇天日身光天皇(ワカテルヒコ)
37代 松照彦天皇 天日身光天皇(マツテルヒコ)
38代 天津太詞子天皇天日身光天皇(アマツフトノリトヒコ)
39代 神足伊足彦天皇天日身光天皇(カムタラシイタラシヒコ)
40代 神楯媛天皇天日身光天皇(カムタテヒメ)
41代 神楯広幡八十足彦天皇天日身光天皇(カムタテヒロハタヤソタラシヒコ)
42代 鶴舞媛天皇天日身光天皇(ツルマヰヒメ)
43代 豊足大御中天皇天日身光天皇(トヨタラシオオミナカ)
44代 大炊気吹天皇天日身光天皇(オオカシキイブキ)
45代 空津争鳥天皇天日嗣天皇(ソラツアラソヰカラスタケ)
46代 鳥言足清男天皇天日嗣天皇(カラスコトタリスガオ)
47代 大庭足媛天皇天日嗣天皇(オオニワタラシヒメ)
48代 豊津神足別天皇天日嗣天皇(トヨツカムタラシワケ)
49代 豊足彦天皇天日嗣天皇(トヨタラシヒコ)
50代 神足別国押之女天皇天日嗣天皇(カムタラシワケクニオシヒメ)
51代 国押別神足日天皇天日嗣天皇(クニオシワケカムタラシ)
52代 天津紅之枝玉天皇天日嗣天皇(アマツホノヱタマヒコ)
53代 天開明知国束天皇天日嗣天皇(アメヒラキアカリシリクニツカ)
54代 高天原輝徹国知天皇天日嗣天皇(タカマノハラカカリトオルクニシリ)
55代 天津玉柏彦天皇天日嗣天皇(【欠落】アマツタマカシハヒコ?)
56代 天津成瀬男天皇天日嗣天皇(【欠落】アマツナルセノヲ?)
57代 天津照雄之男天皇天日嗣天皇(【欠落】アマツテルヲノヲ?)
58代 御中主幸玉天皇天日嗣天皇(【欠落】ミナカヌシサキタマ?)
59代 天地明玉主照天皇 天日嗣天皇(【欠落】アメツチアカルタマヌシテル?)
60代 天照櫛豊媛天皇天日嗣天皇(【欠落】アマテラスクシトヨヒメ?)
61代 豊足日明媛天皇天日嗣天皇(【欠落】トヨタラシヒノアカルヒメ?)
62代 天豊足別彦天皇天日嗣天皇(【欠落】アマツトヨタラシワケヒコ?)
63代 事代国守高彦尊天皇天日嗣天皇(【欠落】コトシロクニモリタカヒコ?)
64代 豊日豊足彦天皇天日嗣天皇(【欠落】トヨヒトヨタラシヒコ?)
65代 勝勝雄之男天皇天日嗣天皇(【欠落】カチカツヲノヲ?)
66代 豊柏木幸手男彦天皇天日嗣天皇(【欠落】トヨカシハギサチテヲヒコ?)
67代 春建日媛天皇天日嗣天皇(【欠落】ハルタケヒヒメ?)
68代 天津日高日子宗像彦天皇天日嗣天皇(【欠落】ムナカタヒコ?)
69代 神足別豊耡天皇天日嗣天皇(カムタラシワケトヨスキ)
70代 神心伝物部建天皇天日嗣天皇(カムコロヅテモノベタケ)
71代 天照国照日子百日臼杵天皇天日嗣天皇(アマテルクニテルヒコモモカヒウスキ)
72代 彦五瀬天皇天日嗣天皇(オオワダツヒコイツセ)
神倭朝・1代 狭野尊天日嗣天皇(73代 カムヤマトイワレヒコ、幼名ヒタカサヌ)
74代 神大倭大磐余彦火々出見命 (『ウエツフミ』にだけ記述がある、幼名カムヌナガワミミ)










「古文書ウエツフミ(上記)①」

2020-11-29 09:10:09 | 日本

◎首都=二上の大宮のあった場所について

ウエツフミには、王朝の首都は「二上(ふたのぼり)の大宮」であると書かれています。
通説では、これは現在の高千穂町であろうと解釈しています。
 
ただし、ひとつ不思議なのは、王族が船を使って旅をするときは、必ず臼杵から出航しており、逆に旅先から高千穂に帰るときは、臼杵に上陸⇒大野の宮(現在の豊後大野市)⇒直入の宮(現在の竹田市)を経由して、「二上(ふたのぼり)の大宮」に入っていることです。
つまり現在の国道57号線沿いに、高千穂に向かっているのです。 (下記の地図参照)
 
地元の人ならほぼ全員が納得するはずですが、竹田と高千穂の間には祖母山という険しい山が横たわり、ケモノミチのような登山道しかありません。
大名行列が越えられるような広くて平坦な道路は、現在でも存在しないのです。
にもかかわらず、なぜ、船を延岡あたりに着けなかったのでしょうか?
 
このことから、「二上(ふたのぼり)の大宮」とは、高千穂のことではなく、「祖母山の北側にあったのではないか?」と考えるようになりました。
 
高千穂町には、三田井一族という人たちが住んでおり、現在も「三田井」という地名で残っていますが、この人たちは大分県側の緒方町から出た大神氏=緒方一族の末裔なのです。しかもこの人たちが「岩戸神楽」を伝える中心勢力でした。お神楽も大分県側で創られた可能性が高いのです。
(ちなみに、812年大神惟基が高千穂の天岩戸神社を再興しています。)
 
さて、ニニギの命はここ大分の地から全国に巡幸して、日本列島をほぼ勢力範囲に治めました。
といっても、実際に書かれているのは「○○地方を訪れて盛大なもてなしを受けた」という程度で、そこにどんな交渉があったのか?あるいは戦闘があったのか?は、全く分かりません。
 
ただし、ニニギの孫の初代・ウガヤフキアエズが即位したときには、全国を統治する体制がほぼ固まったようで、各地に建(タケル)と呼ばれる領主が置かれました。
 
この配置を見る限り、九州を中心に西日本はほぼ現在の都道府県の単位と一致します。
近畿から東については、とびとびでしか国が存在していませんが、これは実際にそうだったようです。
つまり、まだこの時代には人口がそこまで多くなかったと考えられます。
 
そして、ウガヤ王朝は、北海道と沖縄を除く、ほぼ日本全国を掌握していたことが分かります。(後代になって北海道と沖縄も王国に組み込まれてゆきます)










「謡曲 三輪」

2020-11-28 07:22:14 | 日本

大和国三輪の里(今の奈良県桜井市付近)に玄賓(げんぴん)という僧がすんでいました。玄賓の庵に、樒(しきみ)を持ち、閼伽の水を汲んで毎日訪ねる女の人がいました。玄賓が不審に思い、名前を尋ねようと待っているところへ、今日もその女性がやってきました。折しも秋の寂しい日のことでした。女の人は玄賓に対して、夜も寒くなってきたので、衣を一枚くださいと頼みます。玄賓はたやすいことですと、衣を与えました。女の人が喜び、帰ろうとするので、玄賓はどこに住んでいるのかと尋ねました。女性は、三輪の麓に住んでいる、杉立てる門を目印においでください、と言い残し姿を消しました。

その日、三輪明神にお参りした里の男が、ご神木の杉に玄賓の衣が掛かっているのを見つけ、玄賓に知らせます。男の知らせを受けた玄賓が杉の立つところに来ると、自分の衣が掛かっており、歌が縫い付けてあるのを見つけます。そのとき、杉の木陰から美しい声がして、女体の三輪の神が現れました。三輪の神は玄賓に神も衆生を救うために迷い、人と同じような苦しみを持つので、罪を救ってほしいと頼みます。そして、三輪の里に残る、神と人との夫婦の昔語を語り、天の岩戸の神話を語りつつ神楽を舞い、やがて夜明けを迎えると、僧は今まで見た夢から覚め、神は消えていきました。

この能の舞台となったのは、奈良県の三輪の里です。古代神話の故郷であり、また現在の能楽の諸流儀の母体となった大和猿楽の諸座も、この里の近隣を発祥の源としています。三輪山全体をご神体に戴く三輪の里は、独特の神秘性をたたえた、非常に魅力的な土地です。能の三輪もまた、この地にふさわしく、神秘性と詩情に満ちた物語となっており、どこか懐かしく、幻想的な雰囲気がゆったりと漂っています。

観客は、玄賓僧都とともに、三輪山の麓の杉木立のなか、現実の世界から、魔法にかけられるかのように、だんだんと、不思議なあちら側の世界へ足を踏み入れていきます。気づけば、気高く美しい女体の姿を取った三輪明神に相対し、三輪の神の遠い昔の神話を聞き、夢のような神楽に浸っています。さらには、天の岩戸の神話を目撃することになります。

地謡は「覚むるや名残なるらん」と結びますが、本当に、夢から覚めるのが名残惜しくなる、そんな能です。


◆登場人物
前シテ 女  じつは三輪明神の化身
後シテ 三輪明神
ワキ 玄賓(げんぴん)僧都
アイ 土地の男

◆場所
・大和国 三輪山中 玄賓僧都の庵  〈現在の奈良県桜井市茅原 玄賓庵〉
・大和国 三輪山麓 三輪明神の神前  〈現在の奈良県桜井市三輪 大神神社〉


◎大神神社(奈良県桜井市三輪)

平成元年5月、教授嘱託会の謡曲名所めぐり大和路の旅に参加し大神神社を参詣する機会を得た。
日本最古の神社で、三輪山そのものを神体としてまつるため、神殿はなく拝殿しかない。拝殿の前には衣掛けの杉があり、謡曲三輪に知られる玄賓僧都の衣を掛けられた神木であると記されている。周囲十メートルもある大木であるが、現在は根の部分のみが残され、屋根をかけられて保存されている。この杉はもともと拝殿右にあったが、安政4年7月24日夜、落雷にあって途中でボキリと折れ、高さ一丈の幹と根は残ったという。それも明治37年に腐朽して倒れた。神木とあって根株を堀り、現在の形で保存しているとのこと。















「鬼道とは、」

2020-11-27 07:56:29 | 日本

鬼道(きどう)とは、邪馬台国の女王卑弥呼が国の統治に用いたとされる。『三国志』魏書東夷伝倭人条に記述がある。鬼道が何であるかについては、諸説ある。


◎『三国志』魏書東夷伝倭人条における記述

『三国志』における「魏志倭人伝」(『三国志』魏書東夷伝倭人条)では、親魏倭王卑弥呼はこの国の女王であり、約30の国からなる倭国の都としてここに住居していたとしている。

其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛

倭国には元々は男王が置かれていたが、国家成立から70〜80年を経たころ(漢の霊帝の光和年間)倭国乱れ、歴年におよぶ戦乱の後、女子を共立し王とした。その名は卑弥呼である。女王は鬼道によって人心を掌握し、既に高齢で夫は持たず、弟が国の支配を補佐した。1,000人の侍女を持ち、宮室や楼観で起居し、王位に就いて以来、人と会うことはなく、一人の男子が飲食の世話や取次ぎをし、巡らされた城や柵、多数の兵士に守られていた。
この戦乱は、中国の史書に書かれたいわゆる「倭国大乱」と考えられている。
卑弥呼に関する「魏志倭人伝」のこの「鬼道」の記述から、卑弥呼は呪術を司る巫女(シャーマン)のような人物であり、邪馬台国は原始的な呪術国家とする見方がある。一方で、弟が政治を補佐したという記述から、巫女の卑弥呼が神事を司り、実際の統治は男子が行う二元政治とする見方もある。


◎「鬼道」についての諸説

卑弥呼の「鬼道」については幾つかの解釈がある。

①卑弥呼はシャーマンであり、男子の政治を卑弥呼が霊媒者として助ける形態とする説(井上光貞『日本の歴史』〈1〉 中公文庫 2005年等)。

②『魏志』張魯伝、『蜀志』劉焉伝に五斗米道の張魯と「鬼道」についての記述があり、卑弥呼の鬼道も道教と関係があるとする説(重松明久『邪馬台国の研究』 白陵社 1969年等)。

③上記の説について慎重さを求める意見もある(佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下 吉川弘文館 2000年)。

④卑弥呼の鬼道は後漢時代の初期道教と関係があるとする説(黒岩重吾『鬼道の女王 卑弥呼』 文藝春秋 1999年等)。

⑤道教説を否定し、鬼道は道教ではなく「邪術」であるとする説(謝銘仁『邪馬台国 中国人はこう読む』 徳間書店 1990年)。

⑥神道であるとする説。神道の起源はとても古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念であることから、縄文時代を起点に弥生時代から古墳時代にかけてその原型が形成されたと考えられている。大島宏之 『この一冊で「宗教」がわかる!』 三笠書房

⑦その他、「鬼道」についてシャーマニズム的な呪術という解釈以外に、当時の中国の文献では儒教にそぐわない体制を「鬼道」と表現している用法がある(神道#由来と教義も参照)ことから、呪術ではなく、単に儒教的価値観にそぐわない政治体制であることを意味するという解釈がある。









「第10代 崇神天皇」

2020-11-26 08:54:15 | 日本

崇神天皇(すじんてんのう)は、『古事記』『日本書紀』などの皇室系譜では第十代の天皇。開化天皇の皇子。『日本書紀』によれば母は伊香色謎(いかがしこめ)命(『古事記』では伊迦賀色許売(いかがしこめ)命)と伝える。御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)天皇(御真木入日子印恵(みまきいりひこいにえ)命)、御真木(みまき)天皇、美万貴(みまき)天皇などともよぶ。『古事記』に「所知初国」天皇、『日本書紀』に「御肇国天皇」と称していることが注目される。記紀では師木水垣(磯城瑞籬、しきのみずがき)宮に宮居したと所伝する。疫病が流行したので三輪山の神を祭祀し、また墨坂神・大坂神に奉幣し、さらに四道(記は三道)に将軍を派遣したり、武埴安彦(たけはにやすひこ、建波邇安(たけはにやす)王)の叛乱を鎮定したり、あるいは男女の調(みつぎ、貢物)を定めたことなどが記紀にみえる。紀には天照大神と倭(やまと、大和)の大国魂神の二神を殿内に祭るのをやめ、天照大神を倭の笠縫邑(かさぬいのむら)に遷したことや三輪君(みわのきみ)の始祖とする大田田根子(おおたたねこ)に三輪の大物主神を祭らせ、倭直(やまとのあたえ)の祖とする長尾市(ながおち)に大和の大国魂神を祭らせたことなどを記載する。













「古代の日中外交で活躍した卑弥呼の記載が『記紀』にない謎」

2020-11-25 06:44:22 | 日本

中国の史書である『魏志』東夷伝倭人の条に登場する卑弥呼は実名ではなく、恐らく称号であろう。倭の女王に共立されたのが西暦180年代後半期と推測され、魏の正始8年(247)頃に死去しているから、2世紀後半から3世紀中頃に活躍していた人物であろう。

これほど2、3世紀の古代東アジアの中で、日中外交で活躍していた倭女王卑弥呼のことが、『古事記』、『日本書紀』の本文中に全く触れられていないとはまことに不思議なことである。例外として前述の通り、『日本書紀』の編者が『魏志倭人伝』の存在を知って、年代の合う神功皇后紀に「註」として引用しただけであった。したがって江戸時代から現代まで卑弥呼は神功皇后か、垂仁天皇の後宮、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の第四子の倭姫命(やまとひめのみこと)とする考え方が提起されてきたが、無理な結論といわねばならない。

大正年代に続けられた邪馬台国論や卑弥呼論争は文献史料が主体であったが、一部に考古学資料に基づいた論調が現われていた。すでに中国古鏡とか前方後円墳の問題を取りあげて、東京帝室博物館の高橋健自(けんじ)や京都帝国大学の梅原末治(うめはらすえじ)らによって論陣が張られていたが、相変らず邪馬台国の九州・大和存在説の応酬が中心テーマであった。

しかし、笠井新也は考古学雑誌上で邪馬台国大和説に立って熊襲(くまそ)の女酋説を否定し、「大和朝廷に関係ある婦人であるべき」として倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)こそ卑弥呼であるとした。

笠井は那珂通世(なかみちよ)の年代観によって、古事記による崇神(すじん)天皇の崩年(ほうねん)168歳(書紀では120歳)が、258年で3世紀中頃となり、卑弥呼の死が魏(ぎ)の正始8年(247)頃であって年代差はわずか10年ほどしかないので、崇神天皇の時代と卑弥呼の時代はほぼ合致すると説明。そして倭迹迹日百襲姫命は崇神天皇の姑(おば)でもあり、「姫命」の語は卑弥呼の名前とも共通しているというものであった。また倭迹迹日百襲姫命の人物像・性格が『日本書紀』にも記されているように、神憑かりして巫女的な行動を示す点からも、彼女が卑弥呼であるとするものであった。

倭迹迹日百襲姫命は大物主(おおものぬし)神と結婚したが、神は昼は現れず夜だけ出現したという。約束通り翌朝、姫命の櫛笥(くしげ)に入っている大物主神を見ると美しい小蛇になっていたのに驚いた姫命が、急居(突然座ること)したので、箸が陰部に突き刺さって亡くなってしまった。遺骸は大市(おおいち)(奈良県桜井市)に埋葬し、その頃の人びとは「箸墓(はしのみはか)」といったという。崇神紀10年9月条には「昼は人が作り、夜は神が作り、大坂山(二上山北側の山)の石を運ぶのに、人びとが並んで山から墓まで手渡しで運んだ」と記されている。

『魏志倭人伝』には卑弥呼が死去したので「大作冢、径百餘歩、徇葬者百餘人」と記されている。魏の時代の一歩は四尺七寸四分であるから、前方後円形の箸墓の後円部径150mと合致するという見解がある。箸墓古墳は墳丘長約280mを測り、宮内庁陵墓要覧によれば「第七代 孝霊(こうれい)天皇皇女 倭迹迹日百襲姫命大市墓 奈良県桜井市大字箸中」と記されている。

さてこの箸墓(箸中山)古墳が卑弥呼の墓だとする見解が最近強調されつつあるが、考古学的観点からは確実なことは言えない。実証できないからである。

1998年秋の台風によって箸墓古墳の立木が倒れ根起きして、墳丘から多量の葬送用供献土器と埴輪(はにわ)片が発見され、岡山県・島根県の弥生時代終末期の葬送用土器と同一型式であることが判明。箸墓古墳の年代が3世紀中頃の前後と考えられるようになってきた。

奈良県桜井市の纏向(まきむく)古墳群の研究が進んで古墳群の年代序列や構成が判明しつつあるが、現在のところ箸墓古墳が卑弥呼の墳墓であると断定はしがたい。ただし年代論や箸墓古墳の土木工学上の隔絶した巨大性を考えると、それが大和政権成立を物語る歴史的人物の登場を示していると考えることはできる。













「倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼か?」

2020-11-24 07:24:48 | 日本

倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。第7代孝霊天皇と、妃の意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おほやまとくにあれひめのみこと)との間に生まれた皇女である。霊能力があり、「鬼道」につうじている。
同母兄弟として、『日本書紀』によると彦五十狭芹彦命(比古伊佐勢理毘古命/吉備津彦命/大吉備津日子命)、倭迹迹稚屋姫命(倭飛羽矢若屋比売)があり、『古事記』では2人に加えて日子刺肩別命(日本書紀なし)の名を記載する。
『日本書紀』では、倭迹迹日百襲姫は大物主神(三輪山の神、大神神社祭神)の妻となったという。

倭迹迹日百襲姫命の宮内庁治定墓(奈良県桜井市の箸墓古墳)。

第7代孝霊天皇皇女で、大物主神(三輪山の神)との神婚譚や箸墓古墳伝承で知られる、巫女的な女性である。
『日本書紀』では「倭迹迹日百襲姫命」、『古事記』では「夜麻登登母母曽毘売(やまととももそびめ)」と表記される。名称のうち「トトビ」は「鳥飛」、「モモ」は「百」、「ソ」は「十」の意味と見られ、「鳥飛」から脱魂型の巫女を表すという説がある。
なお、『日本書紀』崇神天皇7年8月7日条に見える倭迹速神浅茅原目妙姫(やまととはやかんあさじはらまくわしひめ)は諸説で百襲姫と同一視される。また本居宣長は『古事記伝』において、『日本書紀』に第8代孝元天皇の皇女として見える倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)を百襲姫と同一視する説を挙げる。

『日本書紀』崇神天皇7年2月15日条では、国中で災害が多いので天皇が八百万の神々を神浅茅原(かんあさじはら)に集めて占うと、大物主神が倭迹迹日百襲姫に神憑り、大物主神を敬い祀るように告げたという。
同書崇神天皇7年8月7日条では、倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の3人はともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にするよう告げられたといい、同年11月13日条ではその通りにしたところ果たして国内は鎮まったという。この「倭迹速神浅茅原目妙姫」は倭迹迹日百襲姫と同一視される。三輪山(奈良県桜井市)の大物主神は三輪山の神とされる。

続けて、同書では倭迹迹日百襲姫による三輪山伝説・箸墓伝説が記される。これによると、倭迹迹日百襲姫は大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。倭迹迹日百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、倭迹迹日百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山(三輪山)に登ってしまった。倭迹迹日百襲姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたため倭迹迹日百襲姫は死んでしまい、大市に葬られた。時の人はこの墓を「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝え、また墓には大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が築造のため運ばれたという。
『古事記』では母母曽毘売(百襲姫)の事績に関する記載はない。
なお、『多氏古事記』逸文においても「倭迹迹媛皇女」と大三輪大神との神婚譚が記されている。


◎墓

倭迹迹日百襲姫命(大市墓)(奈良県桜井市)
墓は、宮内庁により奈良県桜井市箸中にある大市墓(おおいちのはか、位置)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「箸墓古墳(箸中山古墳)」で、墳丘長278メートルの前方後円墳である。
前述のように『日本書紀』では百襲姫は「大市」に葬られ、人々はこれを「箸墓」と称したと記されている。墓は同書天武天皇元年(672年)7月23日条において「箸陵」とも見えるが、『延喜式』諸陵寮(諸陵式)では記載を欠いている。上記古墳を箸墓に比定する伝承は幕末まであり、慶応元年(1865年)4月には営築とともに長役・守戸の付置があった。また明治8年(1875年)に墓域が国有地として買収され、明治19年(1886年)に拝所・参道用地も買収、明治21年(1888年)に修営された。

この箸墓古墳は、全国の古墳で最古級の3世紀中頃の築造とすれば、邪馬台国畿内説の立場から、『魏志』倭人伝に見える「径百余歩」という卑弥呼の冢に比定できるとする説があるものの、巨大な前方後円墳を4世紀のものとみなす意見も多い。しかし『日本書紀』・『古事記』およびその原史料の『帝紀』・『旧辞』の編纂段階では、すでにヤマト王権の初期王陵とする伝承が失われ、新たな意味付けがなされている点が注目されている。その中で、王族の墓は大宝令以後に「陵」から「墓」と称されるようになった点、箸は7世紀以降から支配層で一般的に使用されるようになった点、および『播磨国風土記』揖保郡立野条において箸墓伝承と同様の説話が見える点などから、元々は土師氏の伝承であったのが新たに三輪山伝承に付加されたとする説があり、加えて「はしはか」の墓名も「土師墓(はじはか)」に由来すると指摘される。


◎考証

『日本書紀』の記す伝承は、人と蛇神との三輪山型(苧環型)の神婚を表すとともに、妻問婚の習俗を表すとされる。また、『古事記』での活玉依媛伝承のように神・人が結ばれて子が産まれる型(神人交流型)ではなく、別離し死去する(神人隔絶型)であるという特徴を持っている。
また倭迹迹日百襲姫の地位・巫女的性格から、『魏志』倭人伝に見える卑弥呼を倭迹迹日百襲姫に、卑弥呼の男弟を崇神天皇にあてる説や、前述のように箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説がある。














「ノロ(祝女)とは、②」

2020-11-23 07:55:43 | 日本

◎沖縄や奄美の伝統的な巫女・神人とはどんな人か?

沖縄諸島や奄美諸島には、「神人(かみんちゅ)」と呼ばれる公的な女性の祭祀者がいる。神人とは「神に近しい存在」という意味で、村落の祭祀を司る存在である。

神人たちの中でも上位の者を「ノロ(祝女、ヌル)」といいます。彼女たちは海の彼方にあるニライカナイなど琉球神話の異界に住む神々と交信し、祭司の間は自身の体に神を憑依し、神そのものになった。


◎ノロや神人になるのはどんな人か?

一般的にノロは世襲制で、祝女殿地(のろどぅんち)と呼ばれる家系の出身者である。元々は各地域の有力な按司(あじ=王族)の肉親だったと考えられている。

彼女たちは成巫式(せいふしき)という儀式を経て神女となる。久高島ではこの儀式のことをイザイホーと呼んでいるが、近年は島の過疎化が進んでいることなどが原因でイザイホーは行われておらず、新しいノロは誕生していない。


◎琉球王国で制度化された 神人たちの歴史

神人たちの長・ノロは15世紀、琉球王国の尚真王(しょうしんおう)によって制度化された。尚真王は祭政一致をはかることで、琉球王国の支配を強固なものにしようと考えた。

沖縄諸島・奄美諸島の各地に暮らすノロの中で、最も地位の高い者を「聞得大君(ちふぃじん、きこえおおぎみ)」といいう。1470年以降、琉球王府の王女や王妃、王母がこの聞得大君に就任した。

聞得大君は王の霊的な保護者であり、様々な神託を行ったり、時には国王即位の宣託も行うなど、強力な力を持っていた。


聞得大君は3人の大阿母志良礼(うふあむしられ)を従えている。その下には上級神官というべき上級の神女がおり、三十三君(さんじゅうさんくん)などと呼ばれていた。三十三は多数という意味である。

大阿母志良礼や三十三君、各地のノロたちは全て琉球王府から任命される。神職の女性というと、未婚の女性をイメージする方も多いと思うが、琉球王府では既婚か未婚かは無関係だった。
このように、神女たちは尚真王のもとに制度化され、強大な力を持つこととなったが、後の時代になると政祭分離がすすめられるようになり、その力は徐々に弱体化していく。

1879年に琉球王国が解体されると、ノロは公的な地位ではなくなった。しかし現在でもノロや神人は村落の祭祀を率いる立場として、地元の人々から尊敬を受けている。


◎琉球を支えた神女『ノロ』について紹介!ユタとの違いは?

沖縄の古代信仰である、御嶽信仰と火の神信仰を支えていたのが『ノロ』という神女たち。いわゆる巫女さん的な存在にあたるのだが、ユタとの職種は公務員・条件は血筋や家柄で任命・交信する対象は守護神やニライカナイの神々である。の祭祀を執り行ってきた神女たちが、琉球王府の神女組織に組み込まれ、『ノロ』と呼ばれるようになった。給料は月6~10万円くらいだが、これは当時の行政のトップとかわらない額である。明治前期頃まで、ノロの給料は租税米の一部を差し引くという形で給与された。琉球王府の統治下で、神女らは極めて手厚い待遇を受けていた。仲里間切のノロたちにも1000坪近い土地を与えらていた。
ほかにも『ユタ』という超自然的な力を司る女性がいる。ユタとは個人事業主・条件は能力があれば(一応)誰でも可能・交信する対象は祖先の霊や人間の魂である。


◎ノロの祭祀とは、

沖縄の祭祀を司る女性のことを言いう。農耕社会を生きてきた人たちにとって、農作物は天の恵み。 その豊穣を願うときに、ノロたちが祈祷を行ってきた。
 ◎アブシバレ(虫払い)
4月に行われる稲の虫払いのための行事。稲から害虫が退散するように祈祷を行う。
◎ウマチー(稲大祭)
6月に催される祭事で、夏の収穫が終わったその感謝を示す祭りだと考えられている。ノロや根神(ノロ以下の神女のこと)は前々日からノロの家に集まって精進潔斎し、祭りの当日は朝神・夕神と2回に渡って嶽々拝所を巡拝して豊作を感謝し、また来年の豊穣を祈ったのである。
「ユタとは、」

ユタとは、超自然的な能力を用いて占いや治療、その他のあらゆる人生相談を行う者たちを指します。


◎ユタ

神がかりなどの状態で神霊や死霊など超自然的存在と直接に接触・交流し、この課程で霊的能力を得て託宣、卜占、病気治療などを行う呪術・宗教的職能者。大部分が女性。
ユタは人々の私的な呪術信仰的領域に関与し、神霊との直接交流状態においてその呪術・宗教的機能をはたす。このことからユタは、東北地方のイタコ、カミサン、その他の巫女とならんでシャーマン的職能者に位置づけられる。(沖縄大百科事典より)
『ノロ』は主にニライカナイの神々やその地域の守護神と交信するのに対し、『ユタ』はいわゆる霊、神霊や死霊と交信する。


◎ユタの起源

ユタの起源について、沖縄民俗学の父、伊波普猷(いは ふゆう)氏は以下のように述べています。
古くは神秘的な力を持っていて神託を宣伝するものであると信じられていたのでありますが、中にはそういう力を持っていない名義ばかりの神人もいたのでありますから、代わって神託を宣伝する連中が民間に出て、そうしてこれを以て職業とするようになったのであります。これがすなわちトキまたはユタと称するものであります。(伊波普猷全集第9巻民俗論考より)
要するに、根神やノロといった公職の神官の中には霊力があまり高くないのもいて、そういった神官は人々の信用を失った。その代わりに民間の霊能者が支持を得て、彼女らが『ユタ』となった。琉球王朝はユタが力を得ることを恐れてしばしば弾圧を行ってきたが、彼女らが民衆からの支持を失うことはなかった。

ユタは民衆からクライアントを得て、彼らから相談料をもらいう。公務員であるノロに対して、いわば個人事業主といえる。相談料は特に決まっていない。中には全財産を投入してしまう方もいた。
◎ユタになるには?
超自然的な力があり修行をすれば誰でもなることが出来る。誰にでも当てはまるわけではないが、ユタとなった人の多くは、幼少期に病弱だったり、神霊から直接告知を受けたり、そんな不思議な体験をしてきたそうである。ユタになる人は、生まれながらに運命づけられていると考えられている。

世襲制で決まる『ノロ』とは大きな違いがある。










「ノロ(祝女)とは、①」

2020-11-22 08:59:32 | 日本

琉球神道における女性の祭司。神官。巫(かんなぎ)。


◎昭和初期のノロ

地域の祭祀を取りしきり、御嶽の祭祀を司る。ヌール・ヌルとも発音される。琉球王国の祭政一致による宗教支配の手段として、古琉球由来の信仰を元に整備されて王国各地に配置された。
民間の巫女である「ユタ」とは異なる。


◎概略・宗教上の概念

琉球王国の第二尚氏王朝の第三代国王、尚真王時代に制定された神職。琉球神道はアニミズムと祖霊信仰を基本とするもので、海の彼方のニライカナイと天空のオボツカグラの他界概念を想定する。これらの他界に太陽神(ティダと呼ばれる)をはじめとする多数の神がおり、また生者の魂も死後にニライカナイに渡って肉親の守護神になるとされる。こうした神々は、時を定めて現世を訪れて豊穣をもたらし、人々を災難から守護すると考えられている。宗教概念上、ノロはこれら琉球の神々と交信することのできる存在であり、また祭祀の間はその身に神を憑依し、神そのものになる存在とされている。そのため、ノロは神人(かみんちゅ)とも呼ばれる。
ノロは、しばしば「巫女」と訳されることがあるが、ノロは現在、本土でみられる神道の巫女にイメージされる神主の補佐役や雑務役ではなく、祭司そのものである(本土の巫女も元々はノロと同様の存在であったと考えられている)。民俗学では「祝女」の当て字がされるが、これは男の巫を意味する「祝」の女という表意になる。これはノロの性格が本土でいう巫女よりも男性神職に近いためであろう。なお神と交信し、神を憑依させることができるのは女性に限定されているため、神官であるノロはすべて女性である。現在、ノロのほとんどすべてが年配の女性もしくは老女であるが、王国時代にはノロの婚礼といった記録もある。


◎任命と成巫儀礼

ノロは原則として世襲制で、ノロ殿地(どぅんち)と呼ばれる家系から出る。これらの多くは、琉球王国時代に王府より任命されたもので、元々は各地域の有力按司(あじ)の肉親(姉、妹、妻など)と考えられている。これは、琉球神道の背景にある、おなり神信仰に由来すると考えられる。新たなノロの就任に当たっては、久高島のイザイホーに代表されるように、それぞれの地域で認証儀礼が設けられているケースが確認できる。また、ユタのように、カンダーリィ(神垂れ)と呼ばれる原因不明の体調不良といった巫病、夢の啓示などにより、ノロに選ばれる例もみられる。王国時代には、ノロの任命継承が不予などにより順当に行われなかった場合に、そうした形で近親者から後継者が選ばれた例がある。また、現在の久高島では、こうした霊感の強い人物(サーダカ、サーダカウマリ)を断絶したノロの後継者として選ぶということが行われている。ノロは原則として終生職であるが、現在の久高島では、久高ノロと外間ノロ以外の神人には引退儀礼がある。また、三代後(祖母から孫娘)に霊格である霊威(セジ)が引き継がれると考えられている。


◎戒律

ノロは豊穣を願い、災厄を払い、祖先を迎え、豊穣を祝うといった時期ごとにある数多くの祭祀を行うことと、その祭祀において神を憑依させる依代となることが存在意義であるため、これといった戒律や教典はなく、他の宗教のように大衆に啓蒙すべき神の教えといったものもない。また、偶像崇拝はしない。御嶽にあるイビ石などが神体として崇拝される例が多く見られるが、これはあくまで、いわゆる「依代」に対する尊崇である。特に処女性は問われないが、既婚か独身か、年齢要件などは現在も確認される。王国最高位のノロである聞得大君の2代目までが生涯独身であったことや、聞得大君以前からの由緒あるノロである阿応理屋恵職が生涯独身だったという記録もあり、原始的には処女性が要求されたと考える説もある。


◎装束

ノロに決まった服装はないが、琉装もしくは和装の着流しの白装束であることが多い。また、草の冠(神カムリ)などの草装も見られ、そうした異形の装束は神が憑依していることを意味している。これは世界の各地のアニミズムで共通してみられる特徴である。また、装身具として勾玉を身に着けることも多い。


◎琉球王国の神女体制

琉球王国は、第一尚氏王統のときにすでに、首里の佐司笠/差笠(さすかさ)という祭司と国頭地方由来の阿応理屋恵(煽りやへ/オーレー)という祭司を最高位とする祭政一致を行ってはいたが、当時はまだ各地域の神女体制は階層化されていなかったとされる。第二尚氏王朝の尚真王の治世に、全国の神女体制を整理し、琉球神道と統治機構を一体化した全国的な祭政一致体制を確立した。「ノロ」という呼称はそのときに神職の正式名称として制定されたものだが、祭祀制度そのものはそのとき初めて制定されたものではなく、以前から各地域に女性の祭司がおり、各地域の祭祀を司っていたと考えられている。尚真王はすでにあったこれらを整備し、中央集権的に階層化したのである。なお、ノロにあたる女性の祭司を八重山では「ツカサ(司:「神」と同義)」と呼称する。また、これら神職者は総称として便宜上「神女」と通称される。
これは尚真王代に全国のノロの頂点として制定されたのが「とよむせだかこ」(名高き霊力溢れる君)の異名を持つ聞得大君だった(聞得大君は「最も名高い君」という意味)。聞得大君は琉球国王を守護する国王のおなり神であり、王国を守護し豊穣をもたらす神とされた。事実、初代の聞得大君は尚真王の妹である。それまで、国王に仕える神女の権威は国王を上回るようになっており、尚真王の即位についても、母オギヤカが高級神女と結託して謀略を巡らしただめだったという逸話も残っている。(この伝説ではしばしば「聞得大君が関与した」という言説が出てくるが、それは誤りで、尚真王以前に聞得大君職は存在していない。おそらく佐司笠か阿応理屋恵ではないか)。こうした国王と神官の権力関係も尚真王の時代に改められ、聞得大君職は権力として国王の下位に置かれている。

聞得大君は王家の女性(先代王の妻であることが多かった)から選ばれ、首里城内の10の御嶽と斎場御嶽を掌管し全国のノロたちを支配していたが、ノロへの任命辞令は国王から発せられていた。これは制度的にはあくまで国王が神女組織を支配していたことを示すものと考えられている。聞得大君の下には、それ以前からの有力な神女である(首里)阿応理屋恵、佐司笠などの「君」や、首里の三間切(三平等:みふぃらと呼ばれた)をそれぞれ掌管する3人の「大阿母志良礼(おおあもしられ)」がおり、その下に各地方を統括する「大阿母」たち、さらにその下に各地域の祭祀を管轄する「祝女」を配するヒエラルキーを形成していた。なお、高級神女たちを総じて「三十三君」と呼んでいた(三十三君については、33人ではなく「三十三」は「百」のように「大勢」ほどの意味とする説が有力)。そのほとんどは首里に在住し、王家となんらかの血縁関係にあったと考えられている。

当時のノロは領地を認められた一種の地方大名だった。また、犯罪などの問題があった場合に、一種の神聖裁判を行った記録もあり、信仰を背景に地域自治にも大きな権能を有していたことが推察される。

この神女体制は17世紀中ごろ形骸化し、ほとんどの高級神女職は1600年間に廃職された(ちなみに、この時期に残った三十三君は今帰仁の阿応理屋恵(一度廃職後18世紀に復活。現在廃職)、伊平屋の大阿母(昭和6年廃職)、久米島の君南風の三職のみで、いずれも首里に上がらない地方在住のノロである)。しかしその後も各地域のノロ職は存続を続け、多くが現在まで各地域に残っている。現在、三十三君にあたる高級神女では、久米島の君南風(チンペー)職が久米島最高位の祝女として存続している。

聞得大君職は王国滅亡後も長く存続し、太平洋戦争中の1944年に就任した第18代・思戸金翁主を最後に、大戦後に廃職となった。その後、神人の中に「聞得大君」を自称する者が何人か現れるようになったため、尚家の第23代当主尚衛は「地元の要請を受け」、「自称の混乱を避けるため」、東京で尚家の祭祀に携わってきた旧王族女性を第19代(衛の大伯母)、第20代(野津圭子,衛の姉)と位置付け、野津圭子を沖縄で行われる祭儀に「聞得大君」として派遣することとした。野津圭子の没(2019)後は娘の尚満喜が役割を引継ぎ、「第21代聞得大君」としての「就任の挨拶」を行ない、「正式には就任式を経て拝命となりますので、それまでの間、臨時聞得大君として祭祀を勉強させて頂いております」と述べている。





















「超はっ水と超親水」

2020-11-20 08:32:13 | 日本

フッ素樹脂加工したフライパンに水滴を落とすと、水滴は表面張力で丸く盛り上がります。このように水をはじく性質を撥水(はっすい)性といいます。一方、きれいなガラス板に水滴を落とすと、水滴はあまり盛り上がらず平に広がります。このように水にぬれる性質を親水性といいます。
 
この展示では、その性質を高めた超撥水加工した材料と超親水加工した材料に、実際に水滴を落として、その様子を観察することができます。また実験の拡大映像(あらかじめ撮影したもの)もご覧いただけます。
 
なお、この展示で紹介している技術は、どちらも生物のしくみに学び研究開発されたものです。


◎水をはじく表面と水にぬれる表面
 
水をはじく表面と水にぬれる表面、この違いは、水と材料とが仲が良いか悪いかで決まります。フッ素樹脂は水と仲が悪く、水をはじきます。一方、ガラスは水と仲が良く、水にぬれます。
 ところで、水のはじきやすさや水にぬれやすさの度合いは、材料の表面と水滴の接触する角度(接触角)で表されます。明確な定義はありませんが、だいだい接触角が90度より大きい場合を撥水性(水をはじく、水にぬれにくい)、40度より小さい場合を親水性(水にぬれる)(図2)とよんでいます。


◎超撥水
 
一般的に材料の表面と水滴との接触角が150度以上の場合を超撥水とよんでいます。
 
雨上がりに、ハスやサトイモの葉の上でコロコロと転がる水玉を見たことがあると思います。フッ素樹脂加工したものと水滴との接触角は約120度ですが、ハスの葉の接触角は約160度で超撥水です。ハスの葉はなぜそれほど水をはじくのでしょう。
 
じつはハスの葉の表面は平に見えますが、数㎛の細かいデコボコ(凹凸)状になっています。さらにそれぞれの突起の表面に数百分の1㎛の微細な突起があります。この二重のデコボコ構造によって球体の水玉がささえられているのです。
 
有機シリコン化合物を原料とし、非常に細かい微粒子を雪のように降り積もらせて微細なデコボコ構造がつくられています。
 
従来の防水スプレーは、超撥水ではなく、材料に吸着している(くっついている)だけなので耐久性もありません。この超撥水加工は、材料と化学結合しているので耐久性が向上し、また透明なので窓などのガラスにも使用可能です。車のフロントガラスへの応用はまだ研究中ですが、将来ワイパーのない車が走るようになるかもしれません。


◎超親水

材料の表面と水滴との接触角が非常に小さい場合を超親水といいます。
 
ここで展示している材料の表面にはシリカ成分が塗られています。シリカ成分は水と仲が良く超親水です。そして空気中の水分を強く吸着して薄い水のまくをつくります。その上に汚れ(油汚れ)がついたとしても水をかけると一緒に洗い流されてしまいます。光を必要としない方法なので、日の当たらない場所でも性能を発揮することができます。この技術は掃除が困難なビルや住宅の外壁材に使われています。雨が降ると汚れが簡単に落ちて、きれいな外壁を保つことができます。
 
この汚れを防ぐしくみは、カタツムリの殻がいつもきれいである謎を研究して開発されました。カタツムリの殻を電子顕微鏡で観察すると、殻の表面に細かい溝が広がり、常に溝に水がたまるしくみになっていました。つまり殻全体がいつも薄い水のまくにおおわれた状態で、汚れは雨とともに洗い流されて、いつもきれいだったのです。生物ってすごいですね。自然に学ぶことはいっぱいありそうです。


◎超親水とは、

限りなくゼロに近い接触角をもつ表面の性質を超親水・超親水性とよぶ。
親水性は「塗膜表面の水の角度=接触角」であらわすことができ、接触角が小さいほど親水性は高くなります。
また、一般的に、水との接触角が40度以下の親水性、水接触角が10度以下である場合、超親水性と呼ばれ、水滴は平らに張り付いたような形となり傾斜が有る場合は、水膜を作らず、流れ落ちる。

<フラクタル理論>
表面の微細な凹凸によって親水の効果がより強くなる理論をいう。凹凸がきれいに均一に並ぶと超撥水になり、不均一に並ぶと超親水になります。
水と面との界面張力差を極力下げ、超撥水表面と同様に、凹凸を増やすことによって実現できる。二酸化チタン(TiO2)によるものが著名であるが、光触媒効果によって超親水性を発揮するものであり、光を必要とする。
最近になって、数種類のシリカやシングルナノの材料を使って 50 ナノ以下に凹凸を作ることににより光触媒とは関係なく常時超親水膜を形成するものもある。
超親水性の表面は水が均等に付着し、水滴が分散しない。濡れたあとの乾燥後に汚れが水滴状に残らないといった性質をもつ。 二酸化チタンにおける超親水性は、二酸化チタンが半導体であることに由来することが解明されている。紫外線を受けた二酸化チタンは励起され、結晶中の酸素を酸化して酸素分子とチタン分子に分離させる。結果として二酸化チタン中に酸素痕跡の欠陥を形成し、この欠陥に水分子が吸着されることによって超親水性を発現する。またこの過程では表面が不均一化し、水との接触表面積は拡大される。この過程では水が二酸化チタンに吸着されることでラジカルが発生し、光触媒効果を発生させる。そのため、自己洗浄効果、脱臭分解作用などが得られる。この効果は接触表面積を大きくすることで拡大が可能であるものの、その手段の一つである超微粒子化(ナノ粒子化)については、生体に取り込まれた際の危険性があるとも無いともいわれ、カーボンナノチューブの危険性の有無と並んでナノテクノロジーのリスク評価の大きな関心事の一つとなっている。

超親水表面は広範に実用化され、また耐久性もある程度は確保されている。これは自己洗浄効果をもつ物質を表面に採用でき、表面構造が多少損傷を受けても、性質を保つからである。

曇ったり濡れても機能を果たす鏡、住宅の外壁に採用して雨に伴って汚れを落とすことを狙ったもの、窓に採用して汚れを落とすことを狙ったもの(有名な例ではセントレア空港で採用されている)などが存在する。














「日本人の中の西洋の水を浄化する」

2020-11-19 07:20:59 | 日本

菅家一比古唆から言霊の華の声が届いた。
以下、要約しきす。


先の大戦後、アメリカの総司令長官・マッカーサーは、時の総理大臣・吉田茂に質問しました。「私はまだ少年の頃、父アーサーに連れられ日露戦争に観戦に行きました。その時に出会った将軍達は軍神と言っても良い程、威厳があり神々しかった。しかし、この度の戦争後に出会う将軍達にそれが見えなかった。一体それは何故だろう」と。
 
吉田茂は、それに答えられなかったのでした。そして当時、碩学で有名な哲学者・和辻哲郎博士にそのことを伝え、回答を求めました。
 
和辻先生は答えます。
「日露戦争当時の将軍達のほとんどは、江戸期の生まれであり、したがってその母達は江戸期に生まれ、江戸期に教育を受けた女性達です。それにより西洋の水が一滴も入っておらなかったのです。しかしこの度の戦争(大東亜戦争)の将軍達は明治に入り、西洋の水が入った教育を受けた母達から生まれ、西洋の水が入った教育を受け続けたこと。それが原因でありましょう」と。
 
「西洋の水」とは何か。それは個人主義であり、人権主義、合理主義、唯物論的思考の啓蒙主義とも言えます。日本は西洋化を急ぐあまり、その背景にあるキリスト教の伝統精神、プロテスタンティズムを抜きにして表舞台に踊り出て行ったのです。
 
当然日本の伝統的精神でもある「和のこころ」「清らと潔さ」「公益無私」「滅私奉公」「則天去私」の共同体精神などは希薄になります。唯物的、拝金主義的、利己的なエゴイズムが目覚め始めたのです。
 
現代はまるで西洋の水で出来上がった細胞の塊のような人間達の社会となってしまいました。我らは西洋の水を洗い流し、せめて心と魂は日本の伝統精神が生き続けられるよう
努力しなければなりません。その為にも「禊」を励行し、日本の神々に頭を垂れるのです。















「我が国土尖閣は、我が国が守る!」

2020-11-18 07:14:22 | 日本

西村真悟さんが「我が国土尖閣は、我が国が守る!」と題して掲載している。
以下、要約し記す。


現在のアメリカの大統領はトランプ氏であり、その任期は来年一月二十日までだ。
現在のバイデン氏は、アメリカメディア界のほとんどを占める左翼メディアのキャンペーンに乗って、選挙管理委員会の正式発表を待たずに「勝利宣言」をして、各国首脳との電話会談などの「当選」の越権的既成事実を積み上げているに過ぎない。
つまり、焦っているのだ。何故、焦っているのか。
大統領選挙に大規模な世紀の不正があったことが明らかだからである。

従って、この度の菅総理側(日本側)からのバイデンに対する電話会談の申し入れは、極めて不適切であり危険な火遊びである。
我が日本が、アメリカの左翼メディアとリベラルのキャンペーンに乗ってバイデンの越権的既成事実積み上げの手伝いをする必要がどこにある!
現在、トランプ現大統領が、一月の「大統領を決める下院議員選挙」で大統領に再選される道がまだ閉ざされてはいない。

バイデンが、「尖閣に日米安保適用」と言ったことを喜んでいる菅内閣よ、中共(中国人)は、相手の「虚を突いて目的を達する」ことを常とするのだ。
明日、中国軍が、我が国の海上保安庁の巡視船を撃沈してから、上陸用舟艇で陸兵を魚釣島に上陸させてきたらどうする。
トランプ現大統領に、「日米安保適用?あれは、バイデンという野郎(爺)が言ったことで、俺が言ったことではねえ」と言われたらどうする。

そこで、もう一つ、苦々しく思ったことを記しておく。

我が国の総理大臣たる者、まだ、大統領になっていない男と、何と情けない会話をしてくれたのか!
そもそも、我が国土は、我が国が守るんだ。
即ち、総理大臣たる者は、断固として、つまり命を懸けて、尖閣を守る責務を国家から付与されている。
その我が国の総理大臣が、たった十五分の電話会談で、大統領になっていない、会ったこともない他国の男に「尖閣を守ってやる」と言われてホッと安心するなよ!
マスコミも、菅氏と外務省の手柄みたいな報道をするな。
この状態を中共に晒していたら、本当に中共がくるぞ。

今朝の「尖閣、日米安保適用」の大見出しをみて、菅内閣も、安倍内閣までの従来通り、尖閣防衛を、アメリカさんが来てくれると信じて、海上保安庁の巡視船に任せたままの体制でいけると安堵したのかと苦々しく思った次第だ。
そこで、再び、言っておく。

菅総理大臣、この年末から年始にかけてが、一番危ない。
海保の巡視船に任せる従来の惰性、即ち、中国海警局の公船(つまり軍艦)が連日、我が国の領海と接続海域に遊弋し続けているのに、それを断固として阻止することが出来ない体制から脱却し、陸海空自衛隊を以て国土である尖閣防衛体制に入られよ。
尖閣領空に侵入する中国軍機、領海に侵入する中国軍艦艇に対する交戦規定(ROE)を現場の自衛隊各部隊に徹底させられよ。

アメリカが大統領選挙の混乱の渦中にある今こそ、決断する時だ。
断ずるに当たって断じざれば、却ってその乱を受く!
平和を望むならば、戦に備えよ!











「先祖の数の不可思議と教え」

2020-11-17 07:06:51 | 日本

我々がこの世に生命を授かるためには必ず父親と母親がいる。さらに父親と母親にもそれぞれ父親(自分からすると祖父)と母親(自分からすると祖母)が存在する。自分から見て、両親が1代前、祖父母が2代前、曾祖父母が3代前。単純計算で、1代前には2人、2代前には4人、3代前には8人と倍々になっていく。


◎平均30歳で子供を産むと仮定し、年代を遡ってご先祖が何人いらっしゃるのかを計算した。

0代 1980年 1人 自分
1代 1950年 2人 両親
2代 1920年 4人 祖父母
3代 1890年 8人 
4代 1860年 16人
5代 1830年 32人
6代 1800年 64人
7代 1770年 128人
8代 1740年 256人
9代 1710年 512人
10代 1680年 1024人

11代 1650年 2048人
12代 1620年 4096人
13代 1590年 8192人
14代 1560年 16384人
15代 1530年 32768人
16代 1500年 65536人
17代 1470年 131072人
18代 1440年 262144人
19代 1410年 524288人
20代 1380年 1048576人

21代 1350年 2097152人
22代 1320年 4194304人
23代 1290年 8388608人
24代 1260年 16777216人
25代 1230年 33554432人
26代 1200年 67108864人
27代 1170年 1億3421万7728人 ・・・・この時点で現在の日本の全人口超える。
28代 1140年 268435456人
29代 1130年 536870912人
30代 1100年 1073741824人

31代 1070年 2147483648人
32代 1040年 4294967296人
33代 1010年 85億8993万4592人・・・・この時点で現在の世界の全人口超える。

約1000年遡ると一人当たりの先祖の数は現代の地球の人口になる。それが一人一人に当てはまる。


大事なことは、何代さかのぼっても、この中のご先祖様が一人でもいなかったならば、一人でも存在しなかったならば、自分自身は、今、この世にいないという事実である。この先祖代々の生命の流れには霊霊妙妙、誠に不可思議なご縁があり、代々のたくさんの思いが詰まっているのである。
同時にまた、この先、自分の子供、孫・・・・、子孫が無限大に続いていくことを考えるとき、今生かされている自分は一体どのように生きていけばよいのか!を強く考えさせられるはずれある。

無限の流れを持つ、代々のご先祖様から自分をみたら、一体どう見えてるのだろうか?
そこから自然と出てくる生き方こそが、大切なことだと思える。
以下を参考にしてよりよい生き方を歩みたいものである。

◎三か条
一、真面目に生きること
一、等身大に生きること
一、親切に生きること

◎七か条
一、すなおに生きること
一、まことに生きること
一、あわれみをもつこと
一、清く生きること
一、先祖や自分や宇宙の根源である全ての神々をうやまうこと
一、日々勤勉につとめること
一、強く生きること

◎十か条
一、気をながくすること
一、悪口をいわぬこと
一、心を丸くすること
一、迷惑をかけぬこと
一、腹を立てぬこと
一、ヒトを大きくすること
一、我を小さくすること
一、愚痴を忘れること
一、真の道を求め病苦を忘れること
一、共々笑って暮らすこと















「現在は、真の意味のルネッサンス期だ」

2020-11-16 08:54:04 | 日本

西村真悟さんが掲載している。
以下、要約し記す。


我が国の國體の淵源である一万四千年間の縄文時代を見つめ、さらに旧石器の時代に、
ユーラシアの西から日本に辿り着くまで、何世代にもわたって太陽の昇る旭日の東に向かって移動し続けた先祖のことに思いを巡らせてきた。
まことに呆然たる思いがする。
そのうえで、その途方もない長い年月の中で生まれてきて現在に至る我が国の國體を思う。
それは、長い縄文時代を母体にした天照大御神の「天壌無窮の神勅」と神武天皇の「橿原建都の令・八紘一宇の詔」に鮮明に示されている。
即ち、日本は「天皇のしらす国」であり、その理念は「八紘一宇」である。
「しらす」とは、人が外物と接する場合、即ち、見るも、聞くも、嗅ぐも、飲むも、知るも、みな、自分以外にある他の物を、我が身にうけ入れて、他の物と我とが一つになること、即ち、自他の区別がなくなって、一つに溶け込んでしまうこと(木下道雄著「宮中見聞録」)。
「八紘一宇」とは、地球は一つの家、諸民族は一つの家族ということだ。

遙か昔、ユーラシアのどこかで共通の先祖をもつ人々がいたのに、共通の記憶は失われ、我が国だけがその記憶を今に伝えている。
神話の世界に始まる我が国の國體は、そのまま現在に至っている。
諸民族のなかで神話の理念を今も維持しているのは日本だけだ。
その理由は、日本だけが一神教のキリスト教に征服されなかった唯一の文明国であるからだ。

今まさに、我が国が幕末から明治維新以来直面してきたこの「キリスト教圏」即ち「欧米列強による世界秩序」が地殻変動を起こしている状況の中で、我が国が神武創業以来維持してきた理念が、二十一世紀の人類の理念にならねばならない時が来ている。
つまり、現在は、真の意味のルネッサンス期だ。

従って、我々は、これからも、「天皇のしらす国」がもつ理念が、人類の未来を明るくする理念であると自覚したうえで、覚悟を決めて現在の国際社会の激動に主体的に対処しなければならない。

何故なら、我々が、我が国の神武創業以来の理念を自覚すれば、当然、一衣帯水の西にある中華帝国主義によって覇権を拡張する邪悪な中国共産党独裁国家は不倶戴天の敵であり、我が日本は、人類の未来のために、この邪悪な敵を崩壊させねばならないからだ。
地理的に見ても理念的に見ても、これが我が国の宿命だ。

記憶にある通り、「危険なところに自衛隊を出さない」我が国は、「危険なところだから軍隊をだした」国際社会から軽蔑されたのだ。
これが「日本国憲法と題する文書」に縛られた戦後体制というものだ。