山梨県富士吉田市明見周辺にて発見された古文書群である。なかでも宮下源兵衛氏の保管するものが最も多く、よって『宮下文書』ともいう。
数多い古文書のうち神代から太古史に至る部分は、不老不死の秘薬を求めて富士に渡来・定着した徐福一行が子孫七代に渡って編纂したものであるという。古文書は小室浅間神宮(阿祖山太神宮)の宝物として保管され、大宮司宮下氏が代々これを守ったという。
時間が経つとともに文書は逸散したという。時間とともに腐朽するか、または時の権力者(足利尊氏も名を連ねている)の迫害に遭って焼却されたと伝える。第六十七代大宮司宮下宗忠のとき、領主である秋元喬知の苛政を責めたため、大宮司職を剥奪され古文書の多くも失われたという。以後、一族は残片を保護のみに徹したが、徳川幕府が消滅し文明開化を目の当たりにするに及び、明治十六年二月二十二日に再び公開したという。
小生が確認したのは富士古文書そのものではなく、これらをまとめた『神皇記』『富士史』『長慶天皇紀略』である。ここでは、南北朝時代関連の記事のみ扱う。
有名な記事としては、
護良親王及び雛鶴姫に関する伝説
富士南朝に関する伝説
がある。戦後に出現した自称天皇のうち、三浦天皇は富士南朝・三河南朝の末裔を称している。
最初に注記しておく。史実を期待してはいけない。宮下文書著者の空想と民間伝承と軍記物語の結合体と見るべきである。
◎概要
1,後醍醐天皇時代
北条高時が執権となった当時、鎌倉幕府に往時の活力は無かった。
後醍醐天皇はこれを察知した。倒幕の好機であると考えた天皇は、計画を実行するに十分な軍事力を得る為、各地の有力者に密使を派遣した。富士十二郷には万里小路藤房が派遣され、大宮司宮下義高(三浦氏を称したという)に綸旨をもたらした。義高は天皇の御志に賛同し、嫡男六左衛門義勝を藤房につけて楠木正成の館へと向かった。これ以外にも、忠義の心篤き者が各地にて次々と名乗りを挙げた。すなわち、楠木正成・三浦義勝・井伊道政・児島範長・名和長重・河野道長・菊池武時・北畠親房である。
かくして天皇の帷幕に集った八人を、「二心なき八将」という。八将は各自の分担を決め、己が意志を血判状に込めた。分担の内訳は以下の通り。なお、秘密中央裏大将の役割は、諜報活動にある。軍勢を動かさず、諸国の状況を天皇方に知らしめ、場合によっては謀略を用いる。
元帥:後醍醐天皇
副元帥:尊雲法親王
副帥:万里小路藤房
西表大将:楠木左衛門尉正成
東表大将:北畠陸奥守親房
中央秘密裏大将:三浦六左衛門義勝
副将:井伊遠江介道政・児島備後守範長(高徳の父)・名和小太郎長重(長年の弟)・河野伊予介道長・菊池肥後守武時
また、表根拠地を河内金剛山に、裏根拠地を富士谷(宮下氏の根拠地)に定め、それぞれ軍事活動の中心・諜報活動の中心とした。
義勝らは更に味方を募り、二十七士がこれに応じた。
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宮方は幾度とない敗北に耐え、ついに鎌倉幕府を滅ぼした。新田義貞が分倍河原合戦に敗れた際、味方に加わって反撃の契機を与えた「三浦義勝」は、かの宮下義勝のことであるという。また、義勝は義貞に献策した。
「請う、義貞自ら二万の精鋭を率いて稲村ケ崎に向かい、海岸の防塁を攻撃せよ。予は干潮を見計らって裏山から奇襲をかけ、以て幕府軍を牽制す。」
義貞は策を採用し、鎌倉占領に成功したという。
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天下は定まり、年号は建武と改められた。天皇親政が進むなか、護良親王と足利尊氏の対立が表面化した。親王は政争に敗れて捕らえられ、鎌倉にいる足利直義の監視下におかれた。楠木正成は、親王の皇子である万寿王を保護し、義勝に依頼して富士谷宇津峰南城に潜伏させた。万寿王は「皇国を再興すべし」という意を込めて興良親王と名乗り、常陸国平定にあたって陸良親王と改名したという。
中先代の乱が勃発するに及び、直義は淵辺伊賀守に命じて親王を暗殺した。雛鶴姫は親王の首級を発見し、松木宗忠らがこれを捧持して富士谷に向かった。残った二人の家来は、身重の姫を守護しつつ、富士谷を目指した。津久井郡青山村で供養塔を建て、更に秋山嶺の麓に至ったが、無情野にて民家に泊まろうとして断られ、秋山嶺で皇子を出産して死亡した。皇子は綴連王といい、大事に養育されたが、十二歳で亡くなった。親王の首級は富士神宮に納められた。
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湊川の合戦において正成は戦死した。このとき足利尊氏に届けられた首級は偽物で、本物は富士神宮にて秘匿されたという。
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2,後村上天皇
正平七年閏二月十三日、義勝は関東八州に動員をかけ、新田義宗らとともに鎌倉を攻撃させた。しかし、合戦は南軍の敗北に終わった。正平十年六月二十八日、義勝は新田義宗・脇屋義治・宗良親王とともに兵を挙げ、再び鎌倉目指して進軍した。尊氏は上野国にて敗れて武蔵国石濱に追い詰められ、基氏もまた鎌倉を放棄して上総に逃れた。が、宮方に裏切り者相次ぎ、戦況は逆転した。義勝は親王らを逃がした後、殿軍をつとめて踏みとどまり、自ら死地を求めるように戦死した。義勝の首級は縁者の手によって密かに回収され、富士谷に送られた。
義勝の戦死とともに、尊氏は陰大将の存在を感知し、仁木頼章らに富士谷を捜索させた。松木宗忠は護良親王の首級を朝日山(石船神社)に隠し、楠木正成の首級もまた上野国新田郷花見塚に移されたという。宮下義高は幕府の追求を受けたが、義勝病死を噂として流布させてこれを逃れた。
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3,長慶天皇
文中三年正月、長慶天皇は皇太弟に譲位した。後亀山天皇である。
(この章では、脇屋義隆・新田貞方らが霊山城に拠り奥州に転戦したことを記す。内容は『底倉之記』にほぼ同じ。)
天授三年、脇屋義治は富士谷にあったが、足利幕府の天下いよいよ定まり追求が厳しくなるに及び、伊予にいた新田義宗に救援を求めた。義宗は義治ともども伊予で病死したかのように見せかけ、富士谷に向かった。
天授五年九月五日、長慶院は富士谷に遷幸した。八月十五日、楠木正興・正光、和田正久らに警護されて出発し、摂津から伊勢、駿河まで海路をとった。(この後、三浦義利に賜ったという院宣が引用されているのだが、言葉遣い・書式に疑問あり)
天授六年二月二十日、富士勝山谷東沢深山に御所を造営した。長慶院はかつて紀伊国玉川宮に住んでいたことがあったので、御所も玉川宮と命名された。この地を宮原と称するようになり、その前を流れる川を玉川と呼ぶようになった。
北条時行は、宗良親王が薨ぜられると、出家して法鏡禅師と名乗り、諸国を放浪した後、富士谷に落ち着いた。元中九年、七十四歳にて死去。
元中七年、後亀山天皇は長慶院に対し、兄弟で皇統迭立することを提案した。
元中九年、両朝は合一したが、尹良親王など、幕府に屈せず吉野に残る者もいた。
応永十七年、長慶院崩御。
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以下略。
考証
一、史実との対比
◎鎌倉攻めについて
宮下六郎左衛門義勝を三浦大多和義勝に附会し、倒幕計画の秘密陰大将(東表大将は北畠氏、西表大将は楠木氏だそうだ)として暗躍したとするが、どう考えても無理がある。『太平記』分倍河原にて新田義貞を勝利に導いたとする「三浦大多和六左衛門義勝」は、他の記録に見えない。『大多和家譜』によると「三浦大多和平六左衛門義行」または「彦六左衛門義勝」であり、新田勢に加わったとするが、『宮下文書』と符合する事跡も記されておらず他の記録にも見えない。 『大塚文書』では、五月二十二日葛西ヶ谷合戦に関連して「相模国御家人大多和太郎遠明」という名前が見えるので、これの同族かもしれない。
『天野文書』によると、新田軍が「稲村ケ崎の陣を駆け破って」鎌倉内部に進入したのは五月十八日で、一旦は撃退された。『和田文書』三木俊連の書状では、五月二十一日、新田氏義配下にあった三木勢が峰から駆け降り、霊山寺大門に拠る敵を追い落としたとする。『大塚文書』によると、同日鎌倉内部にて大館幸氏率いる軍勢が前浜付近浜鳥居脇にて合戦。義貞は、当初からこの攻略に力点を置いていた可能性もある。現在の稲村ケ崎は、地形が変化して道が消滅している。
◎雛鶴姫の伝説について
雛鶴姫は親王の首級を抱いていたとする伝承もある。『長慶天皇紀略』のこの部分には、何故か地元の正月の風習まで記されており、やたらと詳しい。
また、山梨県都留市秋山村付近一帯に伝えられる伝説と、護良親王首級および雛鶴姫の末路に関する記述がほぼ一致する。他所で述べた通り、同一人物に関する全く異なる伝説が各地にあるので、これは伝承と考えるべきである。
正平年間の鎌倉攻めについて
『長慶天皇紀略』『富士史』は、正平七年閏二月の南軍による鎌倉侵攻(『太平記』武蔵野合戦事)の後、正平十年六月二十八日にも再攻撃の敢行を記す。正平七年閏二月は前哨戦として扱われ、本格的な記述があるのは正平十年六月の合戦である。
ここでは『太平記』武蔵野合戦事と類似の記述(『長慶天皇紀略』では上野国合戦)が見られ、したがって原書と同じ間違いをおかしている。『太平記』では「南軍は武蔵野合戦にて北軍に勝利した後、鎌倉を占領した」という。が、『園太暦』三月四日条にあるように、まず尊氏は鎌倉を脱出して南軍の鋭鋒を避け、味方の集結を待ってから金井原・人見原で敵を破ったのである。
第一、正平十年六月二十八日の時点で宗良親王が鎌倉への進攻を企画していたのか。むしろ、越後・信濃の確保に重点を置いており、そのような余力は無かったものと見られる。
『三浦和田文書』(正平九年九月二十三日・翌十年四月七日付)によって中越で転戦していることが知られ、『園太暦』同年八月十七日条に「宗良親王が信濃で挙兵したため国中が騒動し、「駒牽」のための馬が献上できなくなったという記録がある。駒牽というのは諸国(南北朝当時は信濃望月牧の馬のみ)の牧場から献上された馬を天皇にお披露目する儀式で、八月十五日頃に行われた。信濃方面で決着がついたのは八月二十日の大合戦であり、南軍が大敗したことが『矢島文書』によって知られる。
第二、いや、そもそも尊氏が鎌倉にいたのか。正平八年七月二十九日(『鶴岡社務録』)尊氏は鎌倉を出発し、九月に京都へ戻った。その後は正平十年三月十三日まで、南朝及びそれに与同する旧直義党と延々二年弱にわたる京都争奪戦を繰り広げたことは『太平記』にも記されている。
第三、では、なぜ『宮下文書』は幻の正平十年六月の攻勢を記さなければならなかったのか。
それは、『太平記』鎌倉攻めにおける分倍河原合戦では義勝が活躍するものの(陰大将にあるまじきことだが)、正平七年の鎌倉侵攻には義勝が登場すらしないからであろう。読者が『太平記』を見たとき、不審に思うのは十分予想できる。これを避けるには、合戦そのものを創作するよりほかは無い。それも、正平十年三月まで尊氏が京都で合戦しているのは『太平記』にも記されていることなので、それ以降でなければならない。
第四、期日の辻褄は合っている。しかし、正平十年以降、尊氏が関東に下向したという記録は『宮下文書』以外に無い。
二、種本について
『太平記』などの軍記物語であると思われる。公家・僧侶による記録を参考にした形跡はない。
奥州における脇屋義隆の戦いについて
応永三年六月三日、足利氏満が十万騎を率いて奥州新田軍を攻めた旨を記す。『底倉之記』と比較するに、兵数は全く同じ、人名もほぼ同じ、表現も酷似している。
『底倉之記』:「射違ふる矢は夕雨の軒端を過るより尚繁く、打ち違ふる太刀の鍔音矢叫びの音は百千の雷の一度に鳴り落ちるかと夥しく」
『長慶天皇紀略』:「流れ矢雨のごとく飛び下り、戦闘の声、百雷の一時に堕つるがごとし」
但し、戦の経過は異なる。例によって富士谷が絡むから。
◎南北朝統一以後の記述について
『十津川之記』を参考にした形跡あり。登場人物も、『十津川之記』に特有の(他文献に見えず、よって想像上のものと思われる)名前が見られる。戦況の描写までも酷似している。湯浅城の合戦など、最後まで生き残って戦うのが楠木正秀であることが異なる以外、『十津川之記』にほぼ同じ。 長禄の変の期日も『十津川之記』に同じで、やはり間違いを継承している。
本稿でいう「長禄の変」は、「南朝遺臣によって持ち去られた神器を、赤松遺臣が二回にわたる襲撃で奪回するまで」の一連の事件とする。
『上月記(上月文書)』 『経覚私要抄』『大乗院寺社雑事記』など当時の記録は、長禄元年十二月に南朝皇胤二人を討ち取り、翌二年四月に悪党を入れて盗み出し神器奪還に成功した旨を記す。『上月文書』は、実際に襲撃を行った人物が、二十年後に当時を思い出して記したものである。
が、問題は後年に成立した質の悪い文献で、『南方紀伝(長禄二年六月二十七日、一回のみ)』『十津川之記(長禄二年七月二十五日)』『桜雲記(長禄三年六月二十七日)』は期日を間違えている上に、二度にわたる襲撃を混同している。新井白石の『読史余論』も『南方紀伝』準拠のため同じく間違えている。
もし『宮下文書』が当事者によって記され室町時代から保存されているものであれば、主と仰ぐ南帝が暗殺された日と神器を奪還された日を混同して記述することはあり得ない。書写を経ているとしても、そう間違えるものでも無いだろう。それとも、「書写に際して他文献を参照した」と強弁するのであろうか。ならば、もっと信頼できる史料を選択すべきである。
以上、『底倉之記』『十津川之記』との類似及び間違いの継承を指摘した。両書の成立年代及び作者は不明であるが、文化六年成立の『南山巡狩録』に参考文献として挙げられている。少なくとも、文体から察して江戸時代のものと思われる。
問題は、これら江戸時代に作られた軍記物が先か、それとも『宮下文書』が先かということだ。これについては、『宮下文書』を引用した歴史書を見たことが無いので、不明であると言わねばならない。
確かに、私は原書を見たわけではない。しかし、三輪氏が『宮下文書』を要約するにあたって、信頼性に劣る他文献(『底倉之記』『十津川之記』)を混入させることは無いものと信じている。
『宮下文書』の南北朝関連記事に信頼性は期待できないが、現地の伝承を調べる際には有益な情報もあるだろう。 伝承が先か、『宮下文書』が先か、という問題は残るが。
当サイトは、「たとえ信頼性の低い史料といえど、少しでも史実が含まれているかもしれない」という立場にある。が、『宮下文書』については、ここに要約を載せただけでも、かなりご都合主義が目立つ。「噂を流したところ、世の人はすぐに信じた」「死んだというのは実は身代わりで、本人は生きている」などという辻褄合わせがあちこちに出てくる。流石に辛い。
機会があれば、三河南朝、というよりは長慶天皇にまつわる各地の伝説についても、ごく簡単に触れたい。伝承間に連続性が無いため、深く追求するつもりは無い。