龍の声

龍の声は、天の声

「関東御成敗式目の制定に習い日本国憲法体制を克服しよう!」

2018-10-31 06:12:22 | 日本

西村真悟さんか、「関東御成敗式目の制定に習い日本国憲法体制を克服しよう!」と題し掲載している。
以下、要約し記す。



そもそも、我が国の「日本国憲法」と題する文書は、それを書いた本人(GHQのチャールズ・ケーディス大佐)が、日本を永遠に武装解除されたままにしておくために書いた、つまり、改正できない改正規定を置いたと言っているのだから、「改正」を唱えるだけでは無責任で無為に過ごすここと何ら変わらない。

肝心なことは、危機の本質を知ってその克服の決断を練っておくことだ。
そもそも危機とは、通常時の法制で対処し得ない、想定外の事態のことである。
従って、古くから「緊急時は法を知らない」という格言がある。
よって、我が国において必要な覚悟は、危機(緊急事態)が勃発した時に、直ちに、「日本国憲法」と題する文書を基礎とした通常法制から脱却して、その上で危機克服に全力を挙げることだ。

この危機勃発の時、我が国の現状では、「では、憲法を改正しましょう」と言うだけで済ます輩
さらに北朝鮮による日本人拉致のように、憲法の想定外のことは見て見ぬふりをして無視し隠蔽する輩が、政界・マスコミ界・学会に必ずいるので特に強調しておく。
危機において、こういう輩は、明らかに「利敵行為者」である。

それ故、危機に際しては、「最高指揮官である総理大臣が、自衛隊に出動を命じる。これだけで充分である」と書いたし、アレキサンダー大王が、何世紀も解けない結び目を切断して解いた「難題を一挙に解決する」西洋の伝説、
「コルディアスの結び目のを斬る」「To Cut The Gordian Knot」を度々紹介してきた。

そこで本日は、危機に克服して国家の存続を確保しえる「本来の我が国家の姿」に、ほど遠い「日本国憲法」=「戦後体制」という法と体制、時代に合わなくなった法と体制を、改正の手間と時間を要することなく、一挙に越える!日本の法文化の伝統を記しておきたい。

つまり、日本において、コルディアスの結び目を斬った男、鎌倉幕府執権、武蔵守、北条泰時が、何を言い、何をしたか、をご紹介し彼に習えとお伝えしたい。

学校で習う我が国の法は、ざっと次の通りである。

聖徳太子の「十七条の憲法」(六〇四年)、
飛鳥浄御原令(六八九年)、
大宝律令(七〇一年)、
養老律令(七一八年)、
貞観式目(八六九年)、
延喜格式(九二七年)、
関東御成敗式目(一二三二年)。

このうち、聖徳太子の十七条の憲法を除いて、飛鳥浄御原令から延喜式目までは、全て飛鳥や奈良そして京都という都の貴族を中心とする体制の法(律令)であった。
しかし、時代は、この律令の想定していない、つまり令外の武士が、天下の権を握る鎌倉時代に入った。
その時、承久の乱(一二二一年)に勝利して全土を完全に制圧した北条泰時は、旧来の律令を改正するのではなく、そんなものを知っている者は、「田舎には、その道をうかがい知りたるもの、千人万人のなかに一人だにもありがたく候」と説明し、従って、そのような律令に律せられれば、「鹿穴ほりたる山に入りて、知らずしておちいらんがごとく候はんか」と言い放ち、だから、「大将殿(源頼朝)の御時、この法令(律令)を求めて御成敗など候はず、代々将軍の御時も、又、その儀なく候へば、いまもかの御例をまねばれ候なり」と宣言して、源頼朝が、自分たちが知らない貴族の律令を無視して自分たち武士の習慣に基づいて物事を決定していった例と、聖徳太子の十七条の憲法の精神を基本にした関東御成敗式目を、武蔵守、今で言うなら、東京都知事の名で制定したのだ。

つまり、関東御成敗式目は、慣例を成文化した慣例法である。
それ故、この関東御成敗式目は、女子の相続権を認め、時効制度を記した、世界法制史からみても画期的な我が国社会の姿を反映した慣例法となり、江戸時代が終わっても、我が国の庶民に至るまで教えられ続けた。
従って、十六世紀に我が国に来たキリスト教宣教師たちは、我が国がヨーロッパと違って男女平等の国であることに驚いたのだ。

以上、このような法的伝統が我が国に厳然としてあることを指摘した。
問題は、危機に際して、安倍総理大臣が、現在の、北条泰時になるか!である。
なれ、なってくれ、ならなければ、貴殿は、国を滅ぼす。

私が、北条泰時流にざっくばらんに言えば、つまり、泉州河内弁で言えば、次の如くだ。

我が国に「日本国憲法」ちゅうのがあるのは知っとる。
そやけど、書いた奴はアメリカ人やないか、俺ら日本のことなど何も知らんアメリカの奴が、天皇陛下や我らの政府を、えらそうに支配下においたうえで、勝手に書きよったものを、何で、
俺ら誇りある日本人が、いつまでも後生大事にせなあかんねん。
何でや、あほらしいやないか。
それに、なんやあの内容は、わけ分からんで。
そんなもんに従っとったら、山に入って猟師の仕掛けた穴に墜ちるみたいになるやないか。
あほな首相や閣僚と、あほな評論家や憲法学者が墜ちるのは勝手や、ざまあみろ、めでたい話や、おまえら勝手に憲法と心中せえや。
しかし、俺らの誇りある国が墜るのは断じて許せん。
そやから、そんな毛唐が書いた訳の分からんもんはどうでもええやないか、それよりも、思えば、我らのご先祖が、元寇の時、日清戦争、日露戦争そして大東亜戦争の時、全力を挙げて、七生報国、我、護国の鬼にならんと、天皇陛下のおられる尊い国を守りぬき我らの家族を守るために立ち上がったように、これからも、我ら、お国を守りぬこうや!









「医療の研究を阻む壁? 生命システムの複雑さ」

2018-10-30 07:34:40 | 日本

町田 誠さんが、AI時代の創薬研究の問題点と打開策について掲載している。
以下、要約し記す。



AIやビッグデータ全盛の時代、生命科学や医学の研究はどのように進んでいくのか。
 
人工知能やビッグデータの活用が社会のさまざまな場所で叫ばれる中、医療や生命科学の研究においても、大きな影響を与えると期待されている。たとえば、新薬の開発にかかる時間やコストが大幅に削減され、これまで薬を届けることのできなかった患者へ、新たな医療を提供できるようになるだろう。
 
しかし、そのための研究は、既存の分析の延長で進めてよいのだろうか。膨大なデータを扱い、詳細な分析ができるようになってきた現在だからこそ、生命現象をどう捉え、生命科学や医療の研究をどのように進めていくべきなのか、根本から見直し新たなパラダイムを導入することが必要なのかもしれない。
 
2018年8月に、IQVIAジャパン(東京都・高輪)で開かれたメディア向けセミナーで、理化学研究所医科学イノベーションハブ推進プログラム 副プログラムディレクター 桜田一洋(さくらだ・かずひろ)氏は、現状の生命科学の課題と、新たな研究スタイルの姿を語った。


◎論文の結果が再現しない?
 
まず、桜田氏は、現在の創薬や生命科学を巡る問題点を指摘する。
「創薬の問題をあえて乱暴にまとめると、標準治療の効かない割合が高いということです」
 
桜田氏によると、その背景として、創薬に関する論文の再現性が低いという問題が10年前くらいから続いているという。
 
2011年に、ドイツの製薬会社バイエルが、創薬ターゲットに関する論文を社内で追試すると、3分の2は再現性がないという結果を発表した*1。また、2012年にされた別の報告では、1000回を超えて引用されたがんに関する主要な論文53報を追試すると、再現性があったのはたったの6本だった*2。
 
さらに、2016年に学術雑誌『Nature』が行った「再現性に危機はあるか」という調査では、1576人の研究者のうち52%が「大いに危機的」と答え、38%が「やや危機的」と答えた。それらを合わせると90%の研究者が、再現性に危機を抱いていることになる*3。

「いろいろなものが相互作用している複雑な病気や生命現象、また多様な生命現象は、間違って理解してしまう可能性があります。再現しないという問題は、個別性の問題や複雑性の問題とすごく関係しています。ですから、その問題が解ければ、再現性はよくなっていきます」
 
たとえば「アトピー性皮膚炎」という言葉はひとつだが、その裏には膨大な多様性があるという。桜田氏によると、「アトピー性皮膚炎の薬を作る」といういい方は「すごく野蛮なこと」だそうだ。これまで扱えなかった疾患形質の多様性を、データを通じてどう扱っていくのか。
「もうひとつ、我々が考えているのは、『ディープ・クリニカル・フェノタイピング』という考え方です」
 
これは、大規模医療データから患者集団の細分化を行い、最適な治療戦略を特定するものだ。症状などの特徴から集団を分類していくが、細かく分ければいいというものでもない。問題解決に適した分類の程度(粒度)を考えていく必要がある。
 
だが、それを難しくしている生命医科学の問題は、生物の特徴を表現する方法に決まった規則がないことだという。たとえば、ショウジョウバエの研究者はショウジョウバエ特有の表現を用いたり、また糖尿病の研究者は血糖値に注目したりと、表現の仕方は着目する対象や問題ごとに異なっている。

「研究者それぞれが自分の着目する症状などの特徴で記述しており、そこに共通する表現の仕方がありません。また、データベースが大きくなってくると、記述の方法がそろっていないと統合できません。言葉というものの限界が、生物の研究の中にどうしても出てきます。これまでは、対象が複雑すぎて分からなかったのですが、それを統合するような方法を作ろうとしています」


◎「記述」と「説明」で生じるバイアス
 
さらに、生命現象を表現していく上で問題になるのが、「記述バイアス」と「説明バイアス」だ。桜田氏は、世界を表現する方法に、「記述」と「説明」があるという。
「たとえば、ある人の履歴書を見れば、その人がどういう転職をしてきたか分かりますが、それは情報としてその人を『記述』していることになります。しかし、その人が“なぜ”転職をして、そのような経歴をたどったのかという『説明』は、履歴書には書いていません」
もちろん、医学においても記述と説明の問題はついて回る。
「そもそも医療というのは複雑なので、記述はできず、だいたい説明から入ります。ただ、説明から入ると、その説明の影響を受けてしまいます」

また、その記述と説明それぞれにバイアスがあるのが問題だという。
「記述バイアスの例として、たとえば、東京タワーとは何かを理解しようとしましょう。東京中のあらゆるところからその姿を撮れば、いろいろな面からの東京タワーを知ることができます。しかし、たくさん知ったとしても、『東京タワーとは何か』は分からない。これが今のビッグデータ時代の難しいところなんです」
 
一方の説明バイアスについては、こう説明する。
「アルツハイマー病の治療薬の開発については、20年前から、脳に蓄積されるアミロイドというタンパク質を抑えればいいと説明されてきました。しかし今では、何の意味もないという証拠が積み上がってきています。長い間、たくさんの研究者が命がけで作ってきた薬を研究する仮説が、どうも怪しいとなってきています。悪気があるわけではなく、ものすごく複雑なものを見てしまうと、人間はバイアスを持ってしまうだろうことを示しているのです」
 
現在では、認知症の初期症状が出始める20~30年前には、アミロイドβの蓄積が始まることが分かっている。このような長期間の変化を捉え、時間変化を含めてモデル化していくのは容易ではない。


◎「機械論」から「オープンシステムサイエンス」へ
 
では、これらの生命科学を取り巻く問題にどう立ち向かい、生命現象をどう理解していくべきか。桜田氏は「機械論」的に語られる現在の生命科学に警鐘を鳴らす。
「生命科学に関係するものは、ほとんどが機械のアナロジーで説明されています。細胞分裂のメカニズム、認知症のメカニズム。みんなメカニズムと言っています。しかし、単純な機械論では説明できない側面もいっぱいあります。一方、複雑系の科学は50年くらい前からありますが、複雑系の科学と機械論は合わさっていません。英語と日本語を話す人がいて、お互いにわかり合えないような状態が続いているわけです。だから、ここを融合するようなものを作りたいと思って研究していました」
 
このような、さまざまな方法論や体系の間で、対応付けがうまく行われない状態を「共約不能性」と呼ぶ。桜田氏は、この共約不能な状態にけりを付けたいのだ。
「もうひとつ、生命現象は単純な入出力で理解できないという問題がありますが、その理由は、非線形・非平衡・開放系だからです。エネルギーが入ってエントロピーが出るというシステムで、境界が開かれているのです。たとえばパソコンの半導体のネットワークは決まっていますが、肝臓の分子ネットワークなどとは違います。しかも、お酒を飲む前と飲んだ後では、肝臓の状態も異なります。このダイナミズムが生物の特徴で、一定の状態に決まっているわけではありません。これを入力と出力が対応した閉鎖系のメカニズムで見てしまうと、大きな間違いになります」
 
このようなネットワークの動的な変化を「オープンシステム」と呼び、そのシステム間の同期による秩序の発見が、新しい創薬や予防医学のターゲットになるのではと、桜田氏は構想を語った。


◎データの活用で臨床試験を効率化
 
桜田氏が挙げたディープ・クリニカル・フェノタイピングのような、大規模医療データによる患者集団の適切な細分化は、生命現象の理解だけではなく、より幅広く創薬や医療の現場への適用の可能性がある。
 
IQVIAジャパン 臨床開発事業本部長の品川丈太郎(しながわ・じょうたろう)氏は、臨床試験の現場が抱える問題と、その解決への大規模医療データの活用の可能性を語る。

「臨床試験は、どんどん時間とお金がかかるようになっています。なぜかというと、集められる一施設あたりの患者さんの数が減っているということです。すなわち、効率はどんどん落ちています」
 
たとえば、必要な被験者を以前は10施設で集められたところを、現在では50施設が必要になっているという。当然だが、それに伴い臨床試験にかかるコストは高騰する。
 
また、臨床試験のプロセスもどんどん複雑化しているという。
「私が医師免許を取得したときには、たとえば肺がんというのは、小細胞肺がんと、非小細胞肺がんしかありませんでした。ところが今は、遺伝子情報が考慮され、ポイントミューテーションがあるなど、さまざまな要素が臨床試験のプロトコルに反映されてきました。臨床試験はますます複雑化しており、お金や時間がかかるのは当然の流れです」
 
臨床試験が複雑化し、難易度が上がれば、新薬を必要としている患者にも影響が及ぶ。そこで、IQVIAは、データを活用することで、臨床試験のスピードアップを後押ししようとする。
「臨床試験でも、AIの活用においては、ますますより多くのデータセット、一方で個別化、分析評価が大事になってきます。我々はこの臨床試験を早くいかに効率的にということに、データを最大限に活用しようとしています」
 
IQVIAは、医療情報や医療データを扱うIMS Healthと、医薬品開発受託のクインタイルズが統合して誕生した。その両者の知見や長所を生かして、臨床試験の入り口となる医療機関の選定や被験者の募集戦略の最適化を図る。

「まず、IMSの持っていた医薬品の流通データと臨床試験の経験を掛け合わせて、施設を選ぶようにしました。従来、クインタイルズは自社で施設を選定していましたが、この掛け合わせをすることによって、臨床試験を立ち上げるときの精度を高めることができます。それを我々は『次世代型臨床開発アプローチ』と呼んでいます。このように、IMSのデータとクインタイルズの経験を掛け合わせることで、施設を正確に選べるようになります」
 
臨床試験では、おおむね20%前後、最初に選定した患者組み入れが進まないという。その結果、施設を選び直すプロセスが必要になる。それが臨床試験のコストの約10%を占めており、最初に選ぶ施設を高い精度で選べれば、そのコストは自動的に下がるはずだ。
「海外での結果ですが、施設選定の確度が上がり、それによって臨床試験のスピードも上がってきているというデータが出始めています」
 
膨大なデータや分析の活用が、これからの創薬や医療の現場にどのような変化を起こしていくのか。取り組みはまだ始まったばかりだ。














「ペンス副大統領の中国政策に関するコメント③」

2018-10-29 08:44:33 | 日本

中国当局はまた、台湾を明確な地理的実体として描いたり、中国のチベット政策から外れていたりする米国企業を脅しています。中国政府はデルタ航空に対し、同社のウェブサイトで台湾を「中華人民共和国の省」と呼んでいないことを公式に謝罪するよう強要しました。そして、チベットに関するツイートを単に好んでいただけの米国人従業員を解雇するようマリオットに圧力をかけました。
そして中国政府は、ハリウッドが中国を絶対的に肯定的に描くよう、いつも要求しています。応じないスタジオやプロデューサーは罰せられます。中国政府の検閲は、中国を批判する映画をすぐに編集したり違法としたりします。映画「World War Z」では、中国原産のウイルスという部分についての台本をカットしなければなりませんでした。映画「レッド・ドーン」は、悪党を中国人ではなく北朝鮮人にするためにデジタル編集されました。
しかし、ビジネスやエンターテイメントだけでなく、中国共産党はまた、米国率直に言って世界中のプロパガンダ機関にも数十億ドルを費やしていいます。
China Radio Internationalは現在、米国の主要都市を中心に30以上の店舗で北京向け番組を放送しています。China Global Television Networkは7500万人以上のアメリカ人にリーチしており、その進軍命令を共産党の指導者から直接受けています。中国の最高指導者がネットワークの本部を訪問した際に述べたことを引用します。
「党と政府が運営するメディアはプロパガンダの前線であり、党の名前を持たなければならない」
このような理由と、先月司法省がそのネットワークを外国の工作機関として登録するよう命じたという事実があります。
共産党はまた、深く詮索しすぎた米国人ジャーナリストの中国人家族を脅し、拘禁しました。また、米国のメディア機関のウェブサイトを遮断し、ジャーナリストビザを取得するのを困難にしました。これは、ニューヨーク・タイムズ紙が一部の中国指導部の富に関する調査レポートを掲載した後に起きました。
しかし、中国共産党が検閲文化を助長しようとしているのはメディアだけではありません。同じことが学界全体にも当てはまります。
アメリカのキャンパスに150以上の支部がある中国人の学生と学者協会を見てください。これらの団体は、米国に留学している43万人以上の中国人の一部のために、社会的なイベントの開催を支援しています。彼らはまた、中国人の学生や米国の学校が共産党の路線から外れた場合、中国の領事館や大使館に警告します。
メリーランド大学で最近、中国人学生が、自分の卒業式でこう言ったのです。アメリカの「言論の自由の新鮮な空気」と。
共産党機関紙は、すぐに彼女を非難しました。彼女は、中国の厳格に管理されたソーシャルメディアで猛烈な批判の犠牲者となり、故郷の家族は嫌がらせを受けました。大学自体は、中国との交流プログラムが大量にあったものがわずかなものに急激に変化しました。
中国は他の方法で研究機関への圧力をかけています。中国政府は、大学、シンクタンク、学者に寛大な資金を提供しており、共産党が危険だと感じたり、不快だと感じたりするような考えを避けることを理解しています。特に、中国の専門家たちは、彼らの研究結果が中国政府の主張と矛盾している場合、ビザ発給が遅れたり拒否されたりすることを知っています。
また、ハドソン研究所が直接発見したように、中国からの資金提供を避けている学者やグループでさえ、中国の標的にされています。中国政府が好まない講演者を招待すると申し出た後、みなさんのウェブサイトは上海からの大規模なサイバー攻撃を受けました。ハドソン研究所は、中国共産党が今日の米国での学問の自由と言論の自由を破壊しようとしていることを、多くの人より良く知っています。
これらの行動やその他の行動は、全体として、米国の世論や政策をドナルド・トランプ大統領主導の「アメリカファースト」から切り離そうとしているものです。
しかし、中国の支配者に対する我々のメッセージはこうです:この大統領は引き下がることはありません。(拍手)アメリカ国民は惑わされません。我々は、中国との関係改善を期待しつつも、我々の安全保障と経済のために引き続き強い態度を維持します。


現政権は、米国の利益、米国の雇用、米国の安全保障を守るため、断固とした行動をとり続けていきます。
米軍の再建に伴い、インド太平洋全域で米国の利益を主張し続けます。
我々は、中国の貿易慣行に対応しつつ、自由で公正かつ互恵的な中国との経済関係を引き続き要求していきます。我々は、我が国の経済を開放したのと同様に、中国が貿易障壁を撤廃し、その義務を果たし、経済を完全に開放することを要求します。
我々は、米国の知的財産の窃盗が完全に終了するまで、中国政府に対して行動を続けるつもりです。そして、中国政府が強制的な技術移転という略奪的な慣行を止めるまで、引き続き断固とした態度をとるでしょう。我々は米国企業の私有財産権を保護します。(拍手)
そして、自由で開かれたインド太平洋というビジョンを前進させるために、インドからサモアに至るまで、地域全体で価値観を共有する国々との間に、新たなより強固な絆を築いています。我々の関係は支配ではなく、パートナーシップの上に築かれた尊敬の精神から生まれています。
先週トランプ大統領が韓国との貿易協定の改善に署名したように、我々は二国間ベースで新たな貿易協定を締結しています。日本との自由貿易協定の歴史的な交渉をまもなく開始します。(拍手)
また、国際開発・金融プログラムの合理化を進めていることを報告します。我々は、中国の借金漬け外交に代わる公正で透明な選択肢を外国に与えるでしょう。実際、トランプ大統領は今週、BUILD Act (建設法) に署名する予定です。
来月、シンガポールとASEANとAPECのパプアニューギニアで米国を代表することを名誉に思います。そこで私たちは、インド太平洋地域を支援するための自由でオープンな新しい対策とプログラムを発表する予定です。そして大統領の代理として、インド太平洋へのアメリカのコミットメントがこれまでにないくらい強いものであったというメッセージを伝えます。(拍手)
より身近なところでは、つい最近、我が国の利益を守るために、我々は外国投資委員会であるCFIUSを強化し、国家安全保障を中国の略奪行為から守るために、米国への中国の投資に対する我々の監視を強化しました。
そして、米国の政治・政策に対する中国政府の悪意ある影響力と干渉については、それがどのような形であろうと、引き続き暴露していくつもりです。我々は、社会のあらゆるレベルの指導者と協力して、国益と最も大切にされている理想を守ります。米国国民が決定的な役割を果たすでしょう。
我々がここに集まっているように、アメリカ中に新しいコンセンサスが生まれています。知的所有権を放棄したり、中国の抑圧を助長したりすることを意味するのであれば、さらに多くの企業家たちが、次の四半期以降を考え、中国市場に参入することについてためらっています。しかし、もっと多くの人がこの後に続かなくてはなりません。例えば、Googleは、共産党による検閲を強化し、中国の顧客のプライバシーを侵害する「Dragonfly」アプリの開発を直ちに終了すべきです。(拍手)
さらに多くのジャーナリストが、我々の社会の中で、中国がどこで干渉しているのか、またその理由を深く掘り下げ、恐怖や好意を持たずに真実を報道することは素晴らしいことです。そして、米国や世界の報道機関がこの取り組みにより一層加わることを期待しています。
また、より多くの学者が強硬に発言し、学問の自由を守り、より多くの大学やシンクタンクが全ての金には要求が伴うことを認識し、楽に手に入る中国の金を拒絶する勇気を奮い起こしています。そして、彼らの地位が向上することを確信しています。
そして米国全土で、米国国民は警戒心を強めており、米国政府の行動と、中国との経済・戦略的関係をリセットする大統領のリーダーシップに対する新たな感謝の意を表しています。アメリカ人は、アメリカファーストを掲げる大統領を強く支持しています。
そして、トランプ大統領のリーダーシップの下、アメリカは最後までやり遂げると断言します。中国は、米国民と両党に選出された当局が解決されたことを知るべきです。


米国の国家安全保障戦略は次のように述べています。
「競争は必ずしも敵意を意味するものではない」ということを忘れてはならないし、そうする必要もないと。
大統領は、我々の繁栄と安全が共に成長する中国との建設的な関係を望んでいることを明確にしました。中国はこのビジョンからさらに遠ざかっていますが、中国の支配者たちが、方針を変更し、数十年前のこの関係の始まりを特徴づけた改革と開放の精神にまだ戻ることはできます。アメリカ人はこれ以上何も望みません:中国国民には計り知れない価値があります。
中国の偉大な作家である魯迅は、自分の国を嘆いて「外国人を卑下するか聖人としてみなすか」と書きましたが、「同等だ」とは決して書きませんでした。今日、米国は中国に手を差し伸べています。そして、中国政府がすぐに、米国に対する新たな敬意で言葉ではなく行動してくれることを望んでいます。しかし、安心してください。中国との関係が公平、相互、そして主権の尊重が基礎となるまで、我々は態度を弱めません。(拍手)
「人間は現在しか見ないが、天は未来を見る」という古代中国の諺があります。将来に向け、我々は決意と信仰を持って平和と繁栄の未来を追求しましょう。トランプ大統領のリーダーシップとビジョン、そして彼が中国の最高指導者と築いた関係への信頼、アメリカ人と中国人と変わらぬ友情への信頼、そして、天が未来を見るという信仰、そして神のお恵みによって、アメリカと中国はともにその未来を満たすでしょう。
ありがとう。神のご加護がありますように。アメリカ合衆国に神のご加護がありますように。


<了>









「ペンス副大統領の中国政策に関するコメント②」

2018-10-28 07:14:00 | 日本

宗教の自由に関して言えば、中国のキリスト教徒、仏教徒、イスラム教徒に対する新たな迫害の波が押し寄せています。
中国政府は先月、中国最大級の地下教会を閉鎖しました。全国的に、当局は十字架を取り壊し、聖書を燃やし、信者を投獄していています。そして、中国政府は、明白な無神論者である共産党がカトリック司教任命という直接的な関与についてバチカンと合意に達しました。中国のクリスチャンにとって、これらは絶望的な時代です。
中国はまた、仏教も厳しく取り締まっています。過去10年間で、150人以上のチベットの僧侶が、中国による信仰と文化への弾圧に抗議するために焼身自殺しました。そして新疆ウイグル自治区では、共産党が政府の収容所に100万人ものイスラム教徒のウイグル人を投獄し、24時間体制で思想改造を行っています。その収容所の生存者たちは自らの体験を、中国政府がウイグル文化を破壊し、イスラム教徒の信仰を根絶しようとする意図的な試みだったと説明しています。
しかし、歴史が証明するように、自国民を抑圧する国がそこにとどまることはほとんどありません。そして、中国政府もまた、より広い世界に範囲を広げることを目指しています。ハドソンのマイケル・ピルスベリー博士が書いたように、 「中国は米国政府の行動と目標に反対してきました。確かに、中国は米国の同盟国や敵と独自の関係を築きつつあり、それは中国のいかなる平和的、生産的意図とも矛盾しています」。
実際、中国はいわゆる「借金漬け外交」を利用してその影響を拡大しています。今日、中国は、アジアからアフリカ、ヨーロッパ、さらにはラテンアメリカ政府へのインフラローンに何十億ドルもの資金を提供しています。しかし、これらの融資条件は良くても不透明であり、常にその利益は中国に圧倒的に流れています。
スリランカに聞いてみてください。同国は、商業的価値があるかどうか疑問の余地のある港を中国の国営企業が建設するために巨額の負債を負いました。2年前、その国はもはや支払いの余裕がなく、中国政府はスリランカに新しい港を中国の手に直接引き渡すよう圧力をかけました。それはまもなく、中国の成長する遠洋海軍の将来的な軍事基地になるかもしれません。


西半球で、中国政府は、自国の人々を抑圧してきたベネズエラの腐敗した無能なマドゥロ政権の生命線を拡張しました。彼らは、石油で返済するという疑問の残るローンに50億ドルを約束しました。中国はまた、同国最大の債権国でもあり、同国の民主主義が消滅しても、500億ドル以上の債務を抱えるベネズエラ国民を苦しめています。中国はまた、中国の戦略目標に対応することを約束する政党や候補者を直接的に支援することによって、一部の国の政治に影響を与えています。
中国共産党は昨年から、中南米3カ国に対し、台湾との関係を断ち切り、中国を承認するよう説得しています。これらの行動は台湾海峡の安定を脅かすものであり、米国はこれを非難します。米国政府は、3つの共同声明や台湾関係法に反映されているように、 「一つの中国政策」 を尊重し続ける一方で、台湾の民主主義への支持は、全中国人にとってより良い道であると常に信じています。(拍手)
現在では、中国が世界中で戦略的利益を推進しようとしている方法のほんの一部にすぎず、その勢いと洗練度は増しています。しかし、歴代政権は中国の行動をほとんど無視してきました。そして、多くの場合、中国に有利に導いてきました。しかし、そうした日々は終わりです。
トランプ大統領のリーダーシップの下、米国は新たな国力で我が国の利益守ってきました。
我々は世界史上最強の軍隊をさらに強化してきました。今年初め、トランプ大統領は、ロナルド・レーガン以来最大の国防費の増額する法案に署名し、716億ドルを投じて米軍の兵力をすべての領域に拡大しました。
我々は核兵器の近代化を進めています。我々は、新たに最先端の戦闘機や爆撃機を配備し、開発しています。新世代の航空母艦と軍艦を建造中です。我々はかつてないほど我々軍隊に投資しています。これには、宇宙における米国の優位性を維持するために米国宇宙軍を設立するプロセスを開始することも含まれています。また、敵に対する抑止力を構築するために、サイバー世界における能力を向上させるための措置を講じています。
トランプ大統領の指示により、我々は中国製品への2500億ドルの関税も実施していますが、最も高い関税は、特に中国政府がキャプチャーし、コントロールしようとしている先進産業を対象としています。また、大統領も明らかにしているように、公正かつ互恵的な合意がなされない限り、我々はさらに多くの関税を課し、その数を実質的に2倍以上増やす可能性があります。(拍手)
これらの行動―米国の強さの行使―は大きな影響を与えました。中国最大の証券取引所は今年の最初の9カ月で25%減少しましたが、これは主に我々の政権が中国の貿易慣行に強く立ち向かったためです。


トランプ大統領が明らかにしたように、我々は中国の市場が苦しむことを望んでいません。実際、我々は彼らが繁栄してほしいです。しかし米国は、中国が自由で公正かつ互恵的な貿易政策を追求することを望んでいます。そして我々は彼らがそうすることを要求し続けるでしょう。(拍手)
悲しいことに、中国の支配者たちはこれまでその道を踏み出すことを拒否してきました。中国政府は、トランプ大統領の強硬な姿勢を受けて、包括的かつ組織的なキャンペーンを展開し、大統領への支持、米国のアジェンダ、米国の最も大切な理想を損ねているということを米国国民は知っておくべきです。
本日は、中国の国内での行動について、我々が知っていることをお伝えしたいと思います。そのうちのいくつかは諜報活動の評価から得たもので、一部は公開されています。しかし、これらはすべて事実であります。先ほど話したように、中国は影響力を高め、利益を得るために政府全体へのアプローチを採用しています。米国の国内政策と米国の政治に干渉するために、より積極的かつ強制的な方法でこの権力を活用しています。
中国共産党は、米国企業、映画会社、大学、シンクタンク、学者、ジャーナリスト、地方、州、連邦当局者に見返りの報酬を与えたり、支配したりしています。
最悪なことに、中国はアメリカの世論、2018年の選挙、そして2020年の大統領選挙につながる情勢に影響を与えようとする前例のない取り組みを始めました。率直に言って、トランプ大統領のリーダーシップは機能しています。中国は別のアメリカ大統領を望んでいます。
中国が米国の民主主義に干渉していることは間違いありません。トランプ大統領が先週述べたように、我々は大統領の言葉を借りれば、「中国が今度の[中間]選挙に介入しようとしていることがわかった」ということです。
我が国の情報機関は、「中国は米国の州や地方政府、政府関係者を標的にして、連邦政府と地方政府の間のあらゆるレベルの政策を利用しようとしている。中国の政治的影響力を高めるために、貿易関税のような分裂させる問題を利用している」と述べています。
6月には、中国自身が「プロパガンダと検閲通知」と題する機密文書を回覧しました。戦略を示したのです。それには、彼らの言葉で、中国はアメリカ合衆国で「正確かつ慎重にストライキを行い、異なる国内グループを分裂させなければならない」と述べていました。
そのために、中国政府は、米国人の対中政策認識を変えるために、秘密工作やフロントグループを動員し、プロパガンダ放送を流しました。我が国の情報機関の上級職員が今週私に語ったところによると、中国が米国内でやっていることに比べればロシア人が行っていることはたいしたことではないとしています。そして、アメリカ人はそのことを知っておくべきです。


中国政府高官もまた、中国での事業を維持したいという彼らの願望を利用して、我々の通商措置を非難するようビジネスリーダーに働きかけています。最近の例では、米国の大企業が米国政府の政策に反対する発言をしなければ、中国はその企業の事業許可を認めないと脅しました。
また、中間選挙に与える影響については、我々の関税に反応した中国の関税を見るだけでよいでしょう。これまでに中国が課した関税は、2018年の選挙において重要な役割を果たす産業と州を特に対象としていました。ある推計によると、中国がターゲットとした米国の郡の80%以上が2016年にはトランプ大統領と私に投票しました。現在、中国はこれらの有権者を我々の政権に反対させようとしています。
中国は米国の有権者にも直接訴えています。先週、中国政府は、駐中米国大使の故郷の州の地元紙デモイン・レジスターに複数ページのPR記事を挿入するために代金を支払いました。この州は、2018年(中間選挙)と2020年(大統領選)に重要な州です。この付録記事はニュース記事のように見えるようにデザインされており、我々の貿易政策をアイオワ州の人にとって無謀であり有害であるとしています。
(関連記事:トランプの駐中国米大使:デモイン・レジスター紙における中国の広告を批判)
幸いなことに、米国人はそのことを信じていません。例えば、米国の農民はこの大統領を支持し、彼が取った強い姿勢からの実際の結果を見ています。その中には、今週の米国-メキシコ-カナダ協定(USMCA)が含まれています。この協定では、北米市場を米国製品に実質的に開放しています。USMCAは米国の農家と米国の製造業者にとって大きな勝利です。(拍手)
しかし、中国の行動は、我が国の政策と政治に影響を及ぼすことだけに集中しているわけではありません。中国政府はまた、米国企業への影響力を高めるために、その経済的影響力と巨大市場の魅力を利用する措置を講じています。
中国政府は現在、中国で事業を展開する米国のジョイントベンチャーに対し、彼らが言うところの「党組織」を自社内に設置することを要求しており、その結果、共産党に雇用や投資に関する決定に対して発言権を与えるとともに、おそらく拒否権を与えることになります。











「ペンス副大統領の中国政策に関するコメント①」

2018-10-27 06:36:02 | 日本

(2018年10月4日ハドソン研究所にて)

本日、国内外におけるリーダーシップの代表である第45代アメリカ大統領、ドナルド・トランプ大統領からの挨拶の言葉から始めましょう。(拍手)
トランプ大統領は政権初期から中国や習近平国家主席との関係を重視してきました。昨年4月6日、トランプ大統領は習近平国家主席をマーアーラゴ(訳注:フロリダ州パームビーチにあるトランプ大統領の別荘)に迎えました。昨年11月8日には、トランプ大統領が北京を訪れ、中国の指導者が温かく迎えてくださいました。
過去2年間にわたり、我々の大統領は中国の国家主席と強固な個人的関係を築き、両国は共通の関心事項、最も重要な朝鮮半島の非核化について緊密に協力してきました。
しかし、米国国民が知っておくべきことがあり、そのことをお伝えするために私はここに来ました。それは、中国政府が、政治、経済、軍事的手段とプロパガンダを用いて、米国に対する影響力を高め、米国国内での利益を得るために政府全体にアプローチをかけているということです。
中国はまた、かつてないほど積極的にこの権力を利用して影響力を及ぼし、我が国の国内政策や政治活動に干渉しています。
トランプ大統領のリーダーシップの下、長い間アメリカの指導者たちが提唱してきた原則や政策を生かし、アメリカの指導力をもって中国に対応するための断固たる行動を取ってきました。


昨年12月に発表した「国家安全保障戦略」で、トランプ大統領は「大きな権力競争」の新たな時代について述べました。前述に書いたとおり、諸外国は「地域的にも世界的にもその影響力を再び主張」し、「[米国の]地政学的な優位性に異議を唱え、[本質的に]国際秩序を有利に変えようと」しています。
この戦略でトランプ大統領は、米国が中国に対して新たな対外姿勢を取ることを明らかにしました。我々は、公平、相互主義及び主権の尊重に基づく関係を求め、そのための強力かつ迅速な行動をとってきました。
昨年の中国訪問の際に大統領が述べたように、大統領の言葉を借りれば、「両国の関係を強化し、国民生活を向上させる機会がある」という事です。我々の未来のビジョンは、米国と中国が開放性と友好の精神でお互いに手を結んだ過去の最良の部分に基づいて築かれます。
アメリカ革命戦争時、我々新興国が輸出のための新しい市場を探索した時、中国人は朝鮮人参と毛皮を積んだアメリカ人貿易業者を歓迎しました。
中国がいわゆる「屈辱の世紀」の最中に憤りと搾取に苦しんでいた時、アメリカは参加を拒否し、「自由貿易」政策を提唱しました。それは、中国との貿易を自由化し、中国の主権を守るためです。
アメリカ人宣教師たちが中国に福音(神の言葉)を伝えたとき、彼らはいにしえの豊かな文化と活気ある人々に感動しました。そして彼らは信仰を広めただけでなく、同じ宣教師たちが中国初の一流大学をいくつか設立しました。
第二次世界大戦が勃発したとき、我々は帝国主義との戦いで同盟国として団結しました。そしてその戦争の余波の中で、アメリカは中国が国連の設立メンバーとなり、戦後世界に大きな変化を確実にもたらしました。
しかし、1949年に中国共産党が政権を握った直後から、共産党は独裁主義の拡張政策を追求し始めました。
共に戦ってからわずか5年後、朝鮮半島の山谷で、我々がお互いに(敵として)戦ったことを考えると驚くべきことです。
悲惨な朝鮮戦争でさえ、長い間、両国民を結びつけてきた絆を取り戻そうという相互の願望を少しでも失うことはできませんでした。中国と米国の疎遠な関係は1972年に終わり、その直後に我々は外交関係を再構築し、両国の経済の開放を始めました。米国の大学は、新世代の中国人技術者、ビジネスリーダー、学者、官僚の研修を開始しました。
ソ連の崩壊後、我々は中国の自由化が避けられないものと想定しました。21世紀に入ると、分別のある楽観主義をもって中国に米国経済への自由なアクセスを与えることに合意し、世界貿易機関に加盟させました。


これまでの政権は、中国での自由が経済的だけでなく政治的にも、伝統的な自由主義の原則、私有財産、個人の自由、宗教の自由、全家族に関する人権を新たに尊重する形で、あらゆる形で拡大することを期待してこの選択を行ってきました。しかしその希望は達成されませんでした。
自由への夢は、中国人にとっては未だ現実的ではありません。中国政府はいまだに「改革開放」と口先だけの賛同をしている一方で、鄧小平氏の有名なこの政策はむなしいものとなっています。
過去17年間、中国のGDPは9倍に成長し、世界で2番目に大きな経済となりました。この成功の大部分は、アメリカの中国への投資によってもたらされました。また、中国共産党は、関税、割当、通貨操作、強制的な技術移転、知的財産の窃盗、外国人投資家にまるでキャンディーのように手渡される産業界の補助金など自由で公正な貿易とは相容れない政策を大量に使ってきました。
中国の行為が米貿易赤字の一因となっており、昨年の対中貿易赤字は3,750億ドルで、世界との貿易赤字の半分近くを占めています。トランプ大統領が今週述べたように、大統領の言葉を借りれば、過去25年間にわたって「我々は中国を再建した」というわけです。
現在、共産党は「メイド・イン・チャイナ(Made in China)2025 」計画を通じて、ロボット工学、バイオテクノロジー、人工知能など世界の最先端産業の90%を支配することを目指しています。中国政府は、21世紀の経済の圧倒的なシェアを占めるために、官僚や企業に対し、米国の経済的リーダーシップの基礎である知的財産を、あらゆる必要な手段を用いて取得するよう指示してきました。
中国政府は現在、多くの米国企業に対し、中国で事業を行うための対価として、企業秘密を提出することを要求しています。また、米国企業の創造物の所有権を得るために、米国企業の買収を調整し、出資しています。最悪なことに、中国の安全保障機関が、最先端の軍事計画を含む米国の技術の大規模な窃盗の黒幕です。そして、中国共産党は盗んだ技術を使って大規模に民間技術を軍事技術に転用しています。
中国は現在、アジアの他の地域を合わせた軍事費とほぼ同額の資金を投じており、中国は米国の陸、海、空、宇宙における軍事的優位を脅かす能力を第一目標としています。中国は、米国を西太平洋から追い出し、米国が同盟国の援助を受けることをまさしく阻止しようとしています。しかし、彼らは失敗します。
中国もかつてないほど権力を行使しています。中国の船舶が、日本の施政下にある尖閣諸島周辺を定期的に巡回しています。そして、中国の指導者は2015年にホワイトハウスのローズガーデン(での記者会見)で、中国は南シナ海を「軍国主義化する意図はない」と発言した一方で、中国は今日、人工島に建設された軍事基地の列島上に、高度な対艦ミサイルと対空ミサイルを配備しました。


今週、南シナ海で「航行の自由作戦」を実施していた米海軍のイージス駆逐艦「ディケーター」は、45ヤード以内の距離までに中国海軍の艦艇が異常接近するという中国の攻撃的操縦がみられ、衝突回避の操縦を強いられる事態となりました。このような無謀な嫌がらせにもかかわらず、米国海軍は、国際法の範囲で、また米国の国益が要求するところであればどこでも、飛行、航海、作戦行動を続けていきます。我々は威圧されたり、撤退したりすることはありません。(拍手)
アメリカは、経済の自由化が中国を我々と世界とのより大きなパートナーシップに導くことを期待していました。それどころか、中国は経済的な攻撃を選択し、その結果、拡大する軍事力を勢いづかせました。
我々が望んでいたように、中国は自国の人々の自由を拡大する方向に進んでいません。しばらくの間、中国政府はより大きな自由と人権の尊重に少しずつ歩み寄っていました。しかし、ここ数年、中国は自国民に対して、統制と抑圧に向けて急激な転換をしました。
今日、中国は他に類を見ない監視国家を築いており、時に米国の技術の助けを借りて、ますます拡大し、侵略的になっています。彼らが「グレートファイアウォール(インターネット検閲)」と呼ぶものも同様に厳しくなり、中国人への情報の自由なアクセスを大幅に制限しています。
そして2020年までに、中国の支配者たちは、人間の生活の事実上すべての面を支配することを前提とした、いわゆる 「社会的信用スコア」 と呼ばれるジョージ・オーウェル式のシステムを実施することを目指しています。
同プログラムの公式青写真によれば、「信用できない者が一歩も踏み出せないようにしながら、信用できる者が天下を歩き回ることを許可する」というものです。












「祭りは日本の原点」

2018-10-26 07:03:30 | 日本

祭りとは素晴らしい教育、素晴らしい軍隊の原点だとし、西村真悟さんが掲載している。
以下、要約し記す。



十月も下旬になり、泉州各地の秋の祭りが終わった。
そこで、この「祭り」が現在に続いてきている意義について改めて考えてみたい。
何故なら、この「祭り」に、我が国の、古来からの共同体のあり方が明確に顕れているからである。
 
現在、政府は、その是非はともかく、急激に外国人観光客が増え続けている状況を自らの手柄と歓迎し、さらに、これまでになく多くの外国人労働者を受け入れる方向に動いている。
つまり、政府は、事実上の移民を受け入れる方針であり、現在、現実に外国人は急増している。
これは、我が国が、百六十年前に二百五十年の鎖国から開国に転じ、百五十年前に明治維新によって近代化に歩み始めて以来、初めての事態である。
従って、この事態に対して、我々は、改めて我が国のあり方と地域共同体の歴史と伝統、つまり「自らの個性」を自覚する必要がある。
何故なら、そうしなければ、我らは初めて身近に経験する国際化・外国人の急増の大波の中で、「個性」を失い、ひいては日本が日本でなくなってしまうからだ。
これが、「国際化」という現象がもたらす憂慮すべき側面である。
無邪気に喜べない。
よって、ここに、「祭り」の歴史と伝統を改めて見つめ直すことが必要な所以がある。
 
さて、我が国の祭りは、五穀豊穣を願い五穀豊穣を感謝する全国各地の神社の「神事」として行われてきた。
ここが、天皇を戴く日本という国家のポイントである。
全国各地の神社が祀る全ての神々は、皇居のなかにある、天皇が参拝される「宮中三殿」一つである「神殿」に祀られている。
祈る存在としての天皇は、いつも、「宮中三殿」の天照大神を祀る「賢所」そして歴代天皇と皇族を祀る「皇霊殿」とともに、この「神殿」に参拝されているのだ。

「賢所」に祀られる天照大神は、天皇家の祖であり、天皇は天照大神の「天壌無窮の神勅」によって天皇なのだ。
ここにおいて、明らかなことは、全国各地・津々浦々の神社の「神事としての祭り」は、全て天皇の祈りと結びついているということだ。
つまり、祭りに参加する全国の国民は、同じ神々に祈る家族である。
これが、我が国の「祭り」の意義と本質である。
 
天照大神の「天壌無窮の神勅」という「神話」を持ち出すことを、前近代的であると軽視するなかれ。
国際社会から見て、これが我が国の最大の魅力の一つであり特色である。
フランスの文化人類学者クロード・レブィストロースは「われわれ西洋人にとっては、神話と歴史の間には、ぽっかっりと深淵が開いている。
日本の最大の魅力の一つは、これとは反対に、誰もが歴史とも神話とも密接な絆をむすんでいられるという点にあるのだ。」と述べている。
従って、我らは、改めて「神事としての祭り」を先祖から受け継いで現在に至っていることを誇るべきである。
 
我が国が、世界法制史上に誇るべきものは、承久三年(一二二一年)の鎌倉幕府執権北条泰時によって制定された関東御成敗式目である。
これは後の室町幕府や徳川幕府においても廃止されず、さらに、江戸時代を超えて明治時代まで維持されてきた慣習法だ。
ここでは、女性の相続も、女性御家人や女性城主も認められていたので、十六世紀に我が国に来たキリシタン宣教師達は、我が国がヨーロッパよりも進んだ男女平等の国であることに驚いた。
そして、この世界法制史上特筆すべき関東御成敗式目全五十一条冒頭の、まさに第一条は、
「神を敬い祭りを衰退させてはならない」という教えである。
即ち、原文(漢文)の読み下しは、神は人の敬ひによって威を増し、人は神の徳によって運を添ふ。
然れば即ち、恒例の祭祀は陵夷(衰退)を致さず。
如在(神を祭る)の礼奠(供物)は怠慢せしむるなかれ。

よって、この関東御成敗式目の教え通り、全国各地の祭りは現在の我らに受け継がれてきたと言える。
従って、この「地域の祭り」こそ、我が国共同体の基盤であり、日本が日本である証(あかし)だ。
それ故、私は榎のふとん太鼓の出陣式で、いつも、「榎の太鼓を担ぐことは、日本を担ぐことだ、日本の歴史と伝統を担ぐことだ」と挨拶する。
 
また、この祭りは、「教育力」のかたまりである。
一台のふとん太鼓、一台の地車(だんじり)を動かすためには、地域の青年と子供らと地域住民の団結がいる。
そこでは、誰にも強制されずに、年上の者が年下の者を鍛え教えて成長させる。
そして、祭りの当日に、その鍛錬による成長の成果が発揮される。
これは江戸時代の薩摩藩の郷中教育と同じである。
従って、この祭りのふとん太鼓が発揮している「教育力」は、地域の小学校が逆立ちしてもかなわないであろう。
しかるに、戦後の教育制度下における地域の小学校や中学校は、この祭りの、歴史と伝統と教育力に無関心であると思われる。
しかし、学校の先生は、祭りのもつ「教育力」を積極的に認めて、子供達生徒を、祭りに参加させるよう日々教室で働きかけるべきである。
そうすれば、地域の学校と祭りの両輪によって、驚くべき教育効果が発揮されるだろう。
また、治安を維持する責務を負う警察は、祭りがもたらす地域共同体の仲間意識が、如何に地域の治安維持に貢献するかに思いを致し、祭りを担う青年や子供達が、大いにエネルギーを発散できるように特段の配慮をお願いする。
つまり、祭りの時は、彼らに朝が少々早くとも、晩が少々遅くとも、大いに騒がせてやってほしい。

祭りは、我が天皇を戴く日本という共同体の歴史と伝統の年に一度の確認であり、日本民族の個性とエネルギーの再生である。













「天師道・鬼道・五斗米道・太平道について」

2018-10-25 07:22:30 | 日本

わが国の古代史研究空間では五斗米道と鬼道だけが何かと取り沙汰されるが、実はこれらには複雑に入り組んだ関係が存在する。そこで、天師道・五斗米道・鬼道・太平道・道教の関係を整理しておこう。


◎天師道
 
斉の宣王の時代に門下の大学をつくる。ほどなく諸氏百家の時代を迎えるが、老子の思想に斉の地に古くからあった黄道といわれる学問を取り込んだ学問が、黄老学(黄老道・道学)として開花する。この道学を学んだ張陵が『道書』24篇を著わす。142年、鶴鳴山で太上老君の命を受けて『道書』を基礎とした天師道を創立する。


◎巫鬼道
 
のちに蜀領となる漢巴の地域には、古くから巫鬼道の信仰があった。張陵はこの漢巴に自らが極めた道学を持ち込む。一気に信徒を増やす中で、旧来の巫鬼道と対立して排除していく。(一説によると、巫鬼道は鬼神に人間を生け贄にして祈祷していたという。張陵があえて漢巴を布教の地に選んだのには、巫鬼道を駆逐する意図があったのかも知れない)。張陵は戒律を制定し太清玄元の神を崇め、邪道に誘う鬼を祭ることを禁じた。張陵の天師道は盛んに伝わり、当地の巫鬼道の巫覡もくら替えして天師道の祭酒・道民になり、天師道は四川に次第に根をはっていった。
 
張陵は157年に世を去りその子の張衡が跡を継いだ。その張衡が179年に死ぬと、これを引き継いだ張脩によって巫鬼道が再び盛んになる。


◎五斗米道
 
もともと巴郡の巫人(巫鬼道の巫覡だった)張脩は、張衡の死を境に天師道と巫鬼道を一つにして天師道の信徒を統括した。信徒や患者に米を拠出させたことから、米巫・米賊とも呼ばれた。そもそもは、これが五斗米道であり『三国志』のいう鬼道である。

 話が前後するが、 益州牧の劉焉は188年に「宗教集団の勢力を味方につけて中原の覇者に」という野望を秘めて蜀に入り、張脩に投降帰順させて五斗米師を接収して、張脩を別部司馬に封じた。この後、朝廷に貢ぎ物を収めなくなっている。
 
一方で張陵の天師道をも取り込もうとしていたらしく、美人の誉れ高かった張衡の妻(魯の母親)に自領で布教させ、その息子の張魯を督義司馬に任命して、別部司馬の張脩と漢中太守の蘇固を攻撃させた。張魯は張脩と蘇固を奇襲したあと、張脩をも襲って殺し全軍を掌握した。
 
祖父のつくった教団を、父親の死後に横取りした形の張脩に対する報復と教団奪還の思惑あってのことだろう。張魯は思惑どおり教団を奪い返している。


◎初期道教
 
劉焉の死後に子の劉璋が立ったが張魯がこれに従わなかったので、劉璋のところで布教活動をしていた母と弟を殺された。そこで張魯はそのまま漢中にとどまって支配した。威光の衰えた朝廷は張魯を懐柔。張魯は漢寧太守となり漢中に天師道王国を建てた。
 
張魯の政治は独特で、を置かず、すべて祭酒(大学教授の呼称)に治めさせた。人々は平穏安楽で、張魯の漢巴支配は30年間続いた。
 
張魯の教団は、張脩の鬼道色を少しは残しながらも天師道と称していた。実際には張陵の天師道と張脩の巫鬼道の結合体のようなもので、(米を収める規定が張魯の教団にあったか否かは不明だが)、社会一般には五斗米道と呼ばれ体制側からは鬼道と呼ばれた。この天師道が道教の原形をなすもので、原始道教とか初期道教と呼ばれる。
 

◎『太平経』
 
後漢の順帝(126~144年)の時、宮崇が『太平清領書』という170巻の書物を献上したが、採用されなかった。桓帝(146~167年)の代になって、 襄楷という人物が皇帝にこの『太平清領書』をもちだしてすすめたが採用されなかった。 内容からみると、この書は多くの人がたえず増補を加えてできあがったもので、宮崇彼自身もこの本の編纂に加わっていた可能性がある。
 
この書物が説くのは「治国の道」で、最高統治者が乱世を鎮め、世の中を安泰にすることを援助しようというものである。それは、後漢末の危険がいっぱいの社会に真っ向から立ちむかい、 一つの宗教的処方箋を示し、崩壊寸前の王朝の封建政治を救おうとしているもので、多くの具体的政治改革の考えが述べられている。これが流伝して太平道を統率した張角にも読まれた。 この書こそが『太平経』と呼ばれているものである。(「道教と仙学」漢末の早期道教)


◎太平道
 
建寧年間(168~171年)に張角が太平道の布教を始める。もともと黄老道の信徒だった張角は、黄老道に伝承されていた『太平経』を読み、建寧年間に布教を始め、自ら大賢良師と称して太平道を創立した。
 
184年2月黄巾党を挙兵する。同年7月、漢中の張脩は五斗米道の集団率いて張角の黄巾の乱に呼応する。黄巾党の軍勢は最盛期には30万人を越え、20年以上も続いたとされる。
 (中国の道教 金正燿著を参照して抜粋)
 
のちに蜀領となる広大な土地を領有した劉璋、対して漢と巴を拠点とした張魯、数十万の軍勢を率いた張角の3者もまた、曹操、劉備らと中原の覇を競った一大勢力の領袖だった。さらには、これらが宗教組織を基盤としたものであり、宗教組織が巨大化して国家を形成する過程をかいま見せているところにも注目したい。
 
先に参考にした資料が非常に良いことを述べている。
「漢末の早期道教は黄老道から変化したものだが、それに伴って黄老道が完全に失伝したのではなく、黄老道の方士たちは早期道教の道士に転化したということである。中国は広大なので、各地区の文化は不均衡であり、宗教も一斉に変化するようなことはありえない。漢末に黄老道だけが伝わっていたのではなく、黄老の術を学ばない方仙道の方士もやはり積極的に活動していたし、各地の巫覡もなりをひそめていたわけではない。江南の呉越の文化地区は、早期道教の活動の中心からは離れていたので、黄老道が伝播して盛んに行なわれていた」。
 (「道教と仙学」漢末の早期道教)

以上を頼りに整理すると以下のようにな流れになる。
①張陵は黄老道を集大成した道書を著して天師道を創立した。
②張角は黄老道の影響を受けた『太平経』を読み太平道を創立した。
③両者は黄老道根幹とする部分で共通する。
④張陵の天師道に張脩の巫鬼道が一時期混じって五斗米道と呼ばれた。
⑤この五斗米道を張陵の孫の張魯が奪還して天師道を立て直した。
⑥世間では鬼道と呼ばれたが、天師道はのちに道教へと昇華した。


◎道教の真実
 
たとえば、正月ともなれば誰しも家族づれで神社仏閣に詣で、何がしかのお札や縁起ものを受ける。そこに見る精神性と様式と教義の原点をたどれば、間違いなく道教に到達する。このほかにも、身近な漢方医学・漢方薬学・易・占い、気功、風水はいうまでもなく、医学や科学面も膨大にわたる。21世紀の現在も、道教は膨大かつ先進的な部分を包含した体系として私たちと深くかかわっているのである。ものごとにはポジティブとネガティブな側面がある。道教は古い道学を基礎としており、例を見ないほど多岐にわたることからも、陰陽道のような非科学的要素も確かに包含する。史実検証に臨んで心したいのは、それらを現代の価値観で評価しないことと、そうした一面で全体を語らないことである。
 
現実論として、現代人の私たちでさえ風邪を患っただけでお手あげになる。これが古代となれば、病気は生命にかかわる切実な問題である。病気治癒を神に頼るしか術がなかった時代において、医療の巫呪祈祷は民衆の唯一の拠り所だったのである。 

張魯の場合は、臣下が王号を唱えるようすすめるほどだったし、曹操が厚遇するほどの人物だった。その曹操は、すぐれた武将であり、知略に長けた戦略家であり、有能な政治家であり、そして文才に長けた詩人でもあった。専門家社会ではむしろ、逸材が多く登場した後漢末の動乱期において、最もすぐれた人物の一人と評価されている。
 
また張角の場合は、彼亡きあとの太平道(黄巾党)の残党の一部が暴徒と化して略奪を働いたことから、極端に悪者扱いされている。そうした主因は、脚色を交えて書かれた『三国志演義』が、物語としての展開上、善悪の役柄を演出したことが、そのまま現代人の間に先入観としてできあがったようである。

敗れれば賊徒と呼ばれるのは世の常。死をも覚悟の覇権争いである。
歴史のすき間で輝いて、そして消え去った者たちを、いたずらに軽視しないようにしたい。










「鬼道とは、」

2018-10-24 06:32:40 | 日本

鬼道(きどう)とは、邪馬台国の女王卑弥呼が国の統治に用いたとされる。『三国志』魏書東夷伝倭人条に記述がある。鬼道が何であるかについては、諸説ある。


◎『三国志』魏書東夷伝倭人条における記述

『三国志』における「魏志倭人伝」(『三国志』魏書東夷伝倭人条)では、親魏倭王卑弥呼はこの国の女王であり、約30の国からなる倭国の都としてここに住居していたとしている。
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛
倭国には元々は男王が置かれていたが、国家成立から70〜80年を経たころ(漢の霊帝の光和年間)倭国乱れ、歴年におよぶ戦乱の後、女子を共立し王とした。その名は卑弥呼である。女王は鬼道によって人心を掌握し、既に高齢で夫は持たず、弟が国の支配を補佐した。1,000人の侍女を持ち、宮室や楼観で起居し、王位に就いて以来、人と会うことはなく、一人の男子が飲食の世話や取次ぎをし、巡らされた城や柵、多数の兵士に守られていた。
この戦乱は、中国の史書に書かれたいわゆる「倭国大乱」と考えられている。
卑弥呼に関する「魏志倭人伝」のこの「鬼道」の記述から、卑弥呼は呪術を司る巫女(シャーマン)のような人物であり、邪馬台国は原始的な呪術国家とする見方がある。一方で、弟が政治を補佐したという記述から、巫女の卑弥呼が神事を司り、実際の統治は男子が行う二元政治とする見方もある。


◎「鬼道」についての諸説

卑弥呼の「鬼道」については幾つかの解釈がある。
卑弥呼はシャーマンであり、男子の政治を卑弥呼が霊媒者として助ける形態とする説(井上光貞『日本の歴史』〈1〉 中公文庫 2005年等)。
『魏志』張魯伝、『蜀志』劉焉伝に五斗米道の張魯と「鬼道」についての記述があり、卑弥呼の鬼道も道教と関係があるとする説(重松明久『邪馬台国の研究』 白陵社 1969年等)。
上記の説について慎重さを求める意見もある(佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下 吉川弘文館 2000年)。

卑弥呼の鬼道は後漢時代の初期道教と関係があるとする説(黒岩重吾『鬼道の女王 卑弥呼』 文藝春秋 1999年等)。
道教説を否定し、鬼道は道教ではなく「邪術」であるとする説(謝銘仁『邪馬台国 中国人はこう読む』 徳間書店 1990年)。

神道であるとする説。神道の起源はとても古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念であることから、縄文時代を起点に弥生時代から古墳時代にかけてその原型が形成されたと考えられている。大島宏之 『この一冊で「宗教」がわかる!』 三笠書房
その他、「鬼道」についてシャーマニズム的な呪術という解釈以外に、当時の中国の文献では儒教にそぐわない体制を「鬼道」と表現している用法がある(神道#由来と教義も参照)ことから、呪術ではなく、単に儒教的価値観にそぐわない政治体制であることを意味するという解釈がある。


◎鬼道の実態

『三国志』魏書・倭人伝によると、卑弥呼が女王になる以前は鬼道をやっていたという。

卑弥呼の鬼道については、天師道の創始者・張陵と同じく「衆を惑わす」と書かれたことや、張陵の後継者たる張魯と同じく「鬼道」と書かれたこと。さらには、鏡と剣を神宝とする一方で二者を重要な呪具とする様式がそのまま伝わっている事実からみて、天師道(もしくはこれと根を一つにする太平道)だったものと断定できる。

『三国志』魏書は体制側の歴史書である。その『三国志』魏書のいう「鬼道」とは、魏の開祖・曹操らと中原の覇を争った張魯の天師道(のちの道教)を、人民を惑わす妖術として批判的にとらえた呼称である。

明確な歴史的事実として、2世紀末から3世紀半ばの倭国を治めた卑弥呼の時代は氏族世襲による武力支配社会である。この時代の祭祀は、支配者とその一族の女性がとり仕切っていた。現代風にいえば、武力がハードで祭祀がソフト。これを両輪とした経営法が祭政一致で、経営者とその一族が独占してきた。祭祀の作法と儀礼は秘事であり、巷の庶民が修得することなど不可能だった時代である。卑弥呼は、そんな時代に国人(国士=国家をささえる有力者)たちの合意で王に立てられ、倭国の国家祭祀を執行する女王の座に収まってごく自然に成し遂げている。その卑弥呼が女王になる以前にやっていたという鬼道とは、一体どんなものだったのだろうか。


◎鬼神について 
 
鬼とは「死者の魂」の意味で、文字の象形は、死者に扮して舞う仮面をつけた人物の姿である。この死者の魂と天の神とが合体した存在、つまり神格化された死者の魂が鬼神で、端的にいえば「父祖霊・祖先霊」が鬼神である。
 
鬼神に対する考え方は古く、『史記』にも殷王朝時代に登場する。歯が痛むだけで「先祖のたたりでは」と、大がかりな鬼神祭祀をやっているのである。そうしたことからも、鬼神が主に祖先霊を指していたらしいことが分かる。
 そうした実例を、先に『史記』魯周公世家から周公旦の逸話を紹介したが、今度はその内容を紹介する。周の武王(發)の実弟の旦が、父祖三代の祭壇を設けて三者の霊に向かって唱えた祈祷詞は次のようなものである。

 「もし爾(なんじ)、三王が天にてこれ子の責を負うあらば、旦をもって王・發の身に代えよ。旦は多才多芸にして能(よ)く巧み、鬼神に事(つか)えるに能(あた)う。すなわち王・發は、旦の多才多芸に如かず、鬼神に事えるに能わず」。 
 
もしも、父祖三代の霊が天にあって子孫を加護する責任を負っているのなら、私を病身の兄の身代わりにするべきである。私は多才多芸で何ごとも巧み、(あなた方)鬼神に仕える資格も十分である。兄の發は私の多才多芸には遠く及ばず、鬼神に仕えるにはふさわしくない。だから、私を身替わりにそちらにに召してほしい。 

どの世界のどの民族も祖先を敬うし、祖先を祀る祭祀を行なう。中国では祖先霊を鬼神と呼んだことから、祖先祭祀を鬼神祭祀という。当然ながら、鬼神祭祀(祖先霊祭祀)は、支配層の間で古くから盛んに行なわれてきた。 


◎鬼道の誕生 
 
古くは斉の地に黄帝ゆかりの黄道という医道があり、周王朝下の戦国時代になると黄道に老子の学問を合わせた黄老学が興きる。これが「道」の源流をなす道学である。時の斉の宣王は、その居城の門下に広大な邸(一種の大学)を建て、天下の学者や思想家を招いた。集った食客の数は数千人ともいわれている。彼らは、衣食住に何の心配することなく厚遇される中で、日夜議論を重ねながら知識と才能を磨いた。やがておびただしい学問が芽生えた。こうして誕生したのが黄老学である。
 
これは、医療と医薬の神とされる黄帝の知識と学問とを、老子が自らの思想にとり込んで体系化した森羅万象の学問である。これが後漢代になると、張陵という人物によって『道書』として集大成され、天師道の教義として開花することになる。張陵は蜀の鵠鳴山中にこもって道学を極め、初めて道を体系化して書物にしたわけだが、実態は仙人のような人物だったといわれている。
 
彼の興した天師道は膨大な学問大系ともいえるのだが、時代のニーズもあって、符呪祈祷を窓口とした民衆教化と医療祈祷を行ない、体制側の歴史書には「百姓(民衆)を惑わした」と書かれることになる。その天師道について中国の文献から拾ってからなぞってみる。













「日本の古文書」

2018-10-23 06:41:09 | 日本

◎九鬼文書

九鬼文書 「くかみもんじょ」と読みます。ご存じのように綾部九鬼家に伝わるもので あり、古史のみでなく、たいへん広い範囲の内容を含んでいます。超古代史 の中では、信憑性の比較的高そうな文書のひとつです。一部古代文字の春日 文字で書かれた部分があるようです。伝説では、天児屋根命が天孫降臨の頃 (180万年前)に書いたものを奈良時代に藤原不比等が書き直したといわれま す。綾部ということから、大本教の出口王仁三郎に大きな影響を与えたと いわれています。 竹内文書・宮下文書・上記とともに、神武天皇以前のいわゆる「ウガヤ朝」 の存在を書いています。


◎竹内文書

竹内文書武烈天皇の命により平群真鳥が、当時存在した古文書を当時の現代の文字に 直したものである、とされています。実際にこの文書を世に出したのは天津 宮の竹内巨麿で、明治政府の天津教弾圧で出版ができないまま本体が太平洋 戦争の空襲で焼けてしまいました。現在は天津教の当時の信者が部分的に書 き写していた断片の寄せ集めでしか見ることができません。 創造神・元無極躰主王大御神以来の歴史を記述。天津教にとっては、今でも たいへん重要な文書です。


◎宮下文書

宮下文書 「富士古文書」ともいいます。孝霊天皇の時代に日本に渡来した徐福が富士 山大神宮の神官から見せられた古文書をもとに漢文で書いたものを天智天皇 10年に中臣藤原物部麻呂という人が書き直したとされています。 富士山の神であり皇室の祖先神でもある木花咲耶姫命が、富士の火口に飛び 込んでこの山の守護神となったくだりの記述は有名。実際、木花咲耶姫命が 富士山の神とみなされるようになったのは近世からですのでこの文書も江戸 時代初期より以前の時代までは遡りません。 なお徐福というのは中国の秦の始皇帝(在位BC221-210)の命により東方の仙人 の島へ不老不死の薬を探しに行ったといわれる人で、日本では徐福は日本に 来たのではないかという説が根強くあります。


◎上記

上記 「うえつふみ」と読みます。鎌倉時代の初期に豊後国の大友義能が編纂した とされています。比較的歴史家系の研究者の多い文書です。元々は豊国文字 と呼ばれる古文字で書かれていたようです。


◎物部文書

物部文書 秋田の唐松神社に伝わる古文書です。饒速日命が鳥海山に降臨してから7世紀 の物部氏の滅亡までの記述があります。物部文字(アヒルクサモジ)にも言及 されているようです。


◎但馬故事記

但馬故事記 平安初期の嵯峨天皇の命により編集が始まり、平安中期の円融天皇の時代に 完成した「但馬国司文書」の一部とされ、明治時代に兵庫県の小田井県神社 の大石繁正が発表しました。兵庫県地方の饒速日命伝承をまとめたものでは ないかともいわれています。


◎甲斐古蹟考

甲斐古蹟考 山梨県の錦村の旧家に伝わっていた文書。手力雄神との関連も指摘される、 佐久大明神の伝承が書かれています。大正時代に須田宇十が整理編集して 出版しました。



◎春日文書

春日文書 この文書は古代の有力氏族のひとつ春日一族に伝わっていたとされる文書で 昭和に入ってからも「見た」という報告があるが、実物はまだ世に出ていない。


◎秀真伝

秀真伝 「ホツマツタエ」と読みます。ホツマ文字と呼ばれる独特の古文字で書かれ た五七調の美しい文書でファンも多い。景行天皇の時代に意富多多泥古こと 三輪季聡が撰修したとされています。 江戸時代にも非常に注目されていた文書ですが、全編が世に出たのは戦後の ことです。五七調という形式が成立したのはかなり新しい時代であることと 美しすぎることもあって「間違いなく偽書」と判断する人が多いのですが、 チャネリング系の古書である可能性もあると思われます。恐らくは江戸時代 初期の成立か?また思想的に非常に興味深いものがあり、日本の神について 考えたり、太占の研究をする際には、貴重な資料です。性別について昔から 両論のある天照大神を男神とし、八人の妃神がいたとする記述は有名。


◎三笠紀

三笠紀 「ミカサフミ」。秀真伝の姉妹文書であり、同じくホツマ文字で書かれてい る五七調の文書です。景行天皇の時代に三笠臣という人がまとめたとされて います。実際、秀真伝の著者と近い関係の人が執筆したものと思われます。


◎東日流外三郡誌

東日流外三郡誌 「つがるそとさんぐんし」と読みます。寛政5年にまとめられたとされ、戦後 和田長八郎(秋田孝季)が発表しました。ほかの超古代史とは一線を画し、 東北地方の独特の神系統について記述されており、縄文文化の研究者は一度 読んでおきたい文書でもあります。












「宮下文書を学ぶ②」

2018-10-22 06:18:38 | 日本

山梨県富士吉田市明見周辺にて発見された古文書群である。なかでも宮下源兵衛氏の保管するものが最も多く、よって『宮下文書』ともいう。
数多い古文書のうち神代から太古史に至る部分は、不老不死の秘薬を求めて富士に渡来・定着した徐福一行が子孫七代に渡って編纂したものであるという。古文書は小室浅間神宮(阿祖山太神宮)の宝物として保管され、大宮司宮下氏が代々これを守ったという。
時間が経つとともに文書は逸散したという。時間とともに腐朽するか、または時の権力者(足利尊氏も名を連ねている)の迫害に遭って焼却されたと伝える。第六十七代大宮司宮下宗忠のとき、領主である秋元喬知の苛政を責めたため、大宮司職を剥奪され古文書の多くも失われたという。以後、一族は残片を保護のみに徹したが、徳川幕府が消滅し文明開化を目の当たりにするに及び、明治十六年二月二十二日に再び公開したという。
小生が確認したのは富士古文書そのものではなく、これらをまとめた『神皇記』『富士史』『長慶天皇紀略』である。ここでは、南北朝時代関連の記事のみ扱う。
有名な記事としては、
護良親王及び雛鶴姫に関する伝説
富士南朝に関する伝説
がある。戦後に出現した自称天皇のうち、三浦天皇は富士南朝・三河南朝の末裔を称している。
最初に注記しておく。史実を期待してはいけない。宮下文書著者の空想と民間伝承と軍記物語の結合体と見るべきである。


◎概要

1,後醍醐天皇時代
北条高時が執権となった当時、鎌倉幕府に往時の活力は無かった。
後醍醐天皇はこれを察知した。倒幕の好機であると考えた天皇は、計画を実行するに十分な軍事力を得る為、各地の有力者に密使を派遣した。富士十二郷には万里小路藤房が派遣され、大宮司宮下義高(三浦氏を称したという)に綸旨をもたらした。義高は天皇の御志に賛同し、嫡男六左衛門義勝を藤房につけて楠木正成の館へと向かった。これ以外にも、忠義の心篤き者が各地にて次々と名乗りを挙げた。すなわち、楠木正成・三浦義勝・井伊道政・児島範長・名和長重・河野道長・菊池武時・北畠親房である。
かくして天皇の帷幕に集った八人を、「二心なき八将」という。八将は各自の分担を決め、己が意志を血判状に込めた。分担の内訳は以下の通り。なお、秘密中央裏大将の役割は、諜報活動にある。軍勢を動かさず、諸国の状況を天皇方に知らしめ、場合によっては謀略を用いる。
元帥:後醍醐天皇
副元帥:尊雲法親王
副帥:万里小路藤房
西表大将:楠木左衛門尉正成
東表大将:北畠陸奥守親房
中央秘密裏大将:三浦六左衛門義勝
副将:井伊遠江介道政・児島備後守範長(高徳の父)・名和小太郎長重(長年の弟)・河野伊予介道長・菊池肥後守武時
また、表根拠地を河内金剛山に、裏根拠地を富士谷(宮下氏の根拠地)に定め、それぞれ軍事活動の中心・諜報活動の中心とした。
義勝らは更に味方を募り、二十七士がこれに応じた。
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宮方は幾度とない敗北に耐え、ついに鎌倉幕府を滅ぼした。新田義貞が分倍河原合戦に敗れた際、味方に加わって反撃の契機を与えた「三浦義勝」は、かの宮下義勝のことであるという。また、義勝は義貞に献策した。
「請う、義貞自ら二万の精鋭を率いて稲村ケ崎に向かい、海岸の防塁を攻撃せよ。予は干潮を見計らって裏山から奇襲をかけ、以て幕府軍を牽制す。」
義貞は策を採用し、鎌倉占領に成功したという。
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天下は定まり、年号は建武と改められた。天皇親政が進むなか、護良親王と足利尊氏の対立が表面化した。親王は政争に敗れて捕らえられ、鎌倉にいる足利直義の監視下におかれた。楠木正成は、親王の皇子である万寿王を保護し、義勝に依頼して富士谷宇津峰南城に潜伏させた。万寿王は「皇国を再興すべし」という意を込めて興良親王と名乗り、常陸国平定にあたって陸良親王と改名したという。
中先代の乱が勃発するに及び、直義は淵辺伊賀守に命じて親王を暗殺した。雛鶴姫は親王の首級を発見し、松木宗忠らがこれを捧持して富士谷に向かった。残った二人の家来は、身重の姫を守護しつつ、富士谷を目指した。津久井郡青山村で供養塔を建て、更に秋山嶺の麓に至ったが、無情野にて民家に泊まろうとして断られ、秋山嶺で皇子を出産して死亡した。皇子は綴連王といい、大事に養育されたが、十二歳で亡くなった。親王の首級は富士神宮に納められた。
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湊川の合戦において正成は戦死した。このとき足利尊氏に届けられた首級は偽物で、本物は富士神宮にて秘匿されたという。
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2,後村上天皇
正平七年閏二月十三日、義勝は関東八州に動員をかけ、新田義宗らとともに鎌倉を攻撃させた。しかし、合戦は南軍の敗北に終わった。正平十年六月二十八日、義勝は新田義宗・脇屋義治・宗良親王とともに兵を挙げ、再び鎌倉目指して進軍した。尊氏は上野国にて敗れて武蔵国石濱に追い詰められ、基氏もまた鎌倉を放棄して上総に逃れた。が、宮方に裏切り者相次ぎ、戦況は逆転した。義勝は親王らを逃がした後、殿軍をつとめて踏みとどまり、自ら死地を求めるように戦死した。義勝の首級は縁者の手によって密かに回収され、富士谷に送られた。
義勝の戦死とともに、尊氏は陰大将の存在を感知し、仁木頼章らに富士谷を捜索させた。松木宗忠は護良親王の首級を朝日山(石船神社)に隠し、楠木正成の首級もまた上野国新田郷花見塚に移されたという。宮下義高は幕府の追求を受けたが、義勝病死を噂として流布させてこれを逃れた。
--
3,長慶天皇
文中三年正月、長慶天皇は皇太弟に譲位した。後亀山天皇である。
(この章では、脇屋義隆・新田貞方らが霊山城に拠り奥州に転戦したことを記す。内容は『底倉之記』にほぼ同じ。)
天授三年、脇屋義治は富士谷にあったが、足利幕府の天下いよいよ定まり追求が厳しくなるに及び、伊予にいた新田義宗に救援を求めた。義宗は義治ともども伊予で病死したかのように見せかけ、富士谷に向かった。
天授五年九月五日、長慶院は富士谷に遷幸した。八月十五日、楠木正興・正光、和田正久らに警護されて出発し、摂津から伊勢、駿河まで海路をとった。(この後、三浦義利に賜ったという院宣が引用されているのだが、言葉遣い・書式に疑問あり)
天授六年二月二十日、富士勝山谷東沢深山に御所を造営した。長慶院はかつて紀伊国玉川宮に住んでいたことがあったので、御所も玉川宮と命名された。この地を宮原と称するようになり、その前を流れる川を玉川と呼ぶようになった。
北条時行は、宗良親王が薨ぜられると、出家して法鏡禅師と名乗り、諸国を放浪した後、富士谷に落ち着いた。元中九年、七十四歳にて死去。
元中七年、後亀山天皇は長慶院に対し、兄弟で皇統迭立することを提案した。
元中九年、両朝は合一したが、尹良親王など、幕府に屈せず吉野に残る者もいた。
応永十七年、長慶院崩御。
--
以下略。

考証
一、史実との対比

◎鎌倉攻めについて

宮下六郎左衛門義勝を三浦大多和義勝に附会し、倒幕計画の秘密陰大将(東表大将は北畠氏、西表大将は楠木氏だそうだ)として暗躍したとするが、どう考えても無理がある。『太平記』分倍河原にて新田義貞を勝利に導いたとする「三浦大多和六左衛門義勝」は、他の記録に見えない。『大多和家譜』によると「三浦大多和平六左衛門義行」または「彦六左衛門義勝」であり、新田勢に加わったとするが、『宮下文書』と符合する事跡も記されておらず他の記録にも見えない。 『大塚文書』では、五月二十二日葛西ヶ谷合戦に関連して「相模国御家人大多和太郎遠明」という名前が見えるので、これの同族かもしれない。

『天野文書』によると、新田軍が「稲村ケ崎の陣を駆け破って」鎌倉内部に進入したのは五月十八日で、一旦は撃退された。『和田文書』三木俊連の書状では、五月二十一日、新田氏義配下にあった三木勢が峰から駆け降り、霊山寺大門に拠る敵を追い落としたとする。『大塚文書』によると、同日鎌倉内部にて大館幸氏率いる軍勢が前浜付近浜鳥居脇にて合戦。義貞は、当初からこの攻略に力点を置いていた可能性もある。現在の稲村ケ崎は、地形が変化して道が消滅している。

◎雛鶴姫の伝説について

雛鶴姫は親王の首級を抱いていたとする伝承もある。『長慶天皇紀略』のこの部分には、何故か地元の正月の風習まで記されており、やたらと詳しい。
また、山梨県都留市秋山村付近一帯に伝えられる伝説と、護良親王首級および雛鶴姫の末路に関する記述がほぼ一致する。他所で述べた通り、同一人物に関する全く異なる伝説が各地にあるので、これは伝承と考えるべきである。
正平年間の鎌倉攻めについて

『長慶天皇紀略』『富士史』は、正平七年閏二月の南軍による鎌倉侵攻(『太平記』武蔵野合戦事)の後、正平十年六月二十八日にも再攻撃の敢行を記す。正平七年閏二月は前哨戦として扱われ、本格的な記述があるのは正平十年六月の合戦である。
ここでは『太平記』武蔵野合戦事と類似の記述(『長慶天皇紀略』では上野国合戦)が見られ、したがって原書と同じ間違いをおかしている。『太平記』では「南軍は武蔵野合戦にて北軍に勝利した後、鎌倉を占領した」という。が、『園太暦』三月四日条にあるように、まず尊氏は鎌倉を脱出して南軍の鋭鋒を避け、味方の集結を待ってから金井原・人見原で敵を破ったのである。

第一、正平十年六月二十八日の時点で宗良親王が鎌倉への進攻を企画していたのか。むしろ、越後・信濃の確保に重点を置いており、そのような余力は無かったものと見られる。
『三浦和田文書』(正平九年九月二十三日・翌十年四月七日付)によって中越で転戦していることが知られ、『園太暦』同年八月十七日条に「宗良親王が信濃で挙兵したため国中が騒動し、「駒牽」のための馬が献上できなくなったという記録がある。駒牽というのは諸国(南北朝当時は信濃望月牧の馬のみ)の牧場から献上された馬を天皇にお披露目する儀式で、八月十五日頃に行われた。信濃方面で決着がついたのは八月二十日の大合戦であり、南軍が大敗したことが『矢島文書』によって知られる。

第二、いや、そもそも尊氏が鎌倉にいたのか。正平八年七月二十九日(『鶴岡社務録』)尊氏は鎌倉を出発し、九月に京都へ戻った。その後は正平十年三月十三日まで、南朝及びそれに与同する旧直義党と延々二年弱にわたる京都争奪戦を繰り広げたことは『太平記』にも記されている。

第三、では、なぜ『宮下文書』は幻の正平十年六月の攻勢を記さなければならなかったのか。
それは、『太平記』鎌倉攻めにおける分倍河原合戦では義勝が活躍するものの(陰大将にあるまじきことだが)、正平七年の鎌倉侵攻には義勝が登場すらしないからであろう。読者が『太平記』を見たとき、不審に思うのは十分予想できる。これを避けるには、合戦そのものを創作するよりほかは無い。それも、正平十年三月まで尊氏が京都で合戦しているのは『太平記』にも記されていることなので、それ以降でなければならない。

第四、期日の辻褄は合っている。しかし、正平十年以降、尊氏が関東に下向したという記録は『宮下文書』以外に無い。


二、種本について

『太平記』などの軍記物語であると思われる。公家・僧侶による記録を参考にした形跡はない。
奥州における脇屋義隆の戦いについて

応永三年六月三日、足利氏満が十万騎を率いて奥州新田軍を攻めた旨を記す。『底倉之記』と比較するに、兵数は全く同じ、人名もほぼ同じ、表現も酷似している。
『底倉之記』:「射違ふる矢は夕雨の軒端を過るより尚繁く、打ち違ふる太刀の鍔音矢叫びの音は百千の雷の一度に鳴り落ちるかと夥しく」
『長慶天皇紀略』:「流れ矢雨のごとく飛び下り、戦闘の声、百雷の一時に堕つるがごとし」
但し、戦の経過は異なる。例によって富士谷が絡むから。

◎南北朝統一以後の記述について

『十津川之記』を参考にした形跡あり。登場人物も、『十津川之記』に特有の(他文献に見えず、よって想像上のものと思われる)名前が見られる。戦況の描写までも酷似している。湯浅城の合戦など、最後まで生き残って戦うのが楠木正秀であることが異なる以外、『十津川之記』にほぼ同じ。 長禄の変の期日も『十津川之記』に同じで、やはり間違いを継承している。
本稿でいう「長禄の変」は、「南朝遺臣によって持ち去られた神器を、赤松遺臣が二回にわたる襲撃で奪回するまで」の一連の事件とする。
『上月記(上月文書)』 『経覚私要抄』『大乗院寺社雑事記』など当時の記録は、長禄元年十二月に南朝皇胤二人を討ち取り、翌二年四月に悪党を入れて盗み出し神器奪還に成功した旨を記す。『上月文書』は、実際に襲撃を行った人物が、二十年後に当時を思い出して記したものである。

が、問題は後年に成立した質の悪い文献で、『南方紀伝(長禄二年六月二十七日、一回のみ)』『十津川之記(長禄二年七月二十五日)』『桜雲記(長禄三年六月二十七日)』は期日を間違えている上に、二度にわたる襲撃を混同している。新井白石の『読史余論』も『南方紀伝』準拠のため同じく間違えている。

もし『宮下文書』が当事者によって記され室町時代から保存されているものであれば、主と仰ぐ南帝が暗殺された日と神器を奪還された日を混同して記述することはあり得ない。書写を経ているとしても、そう間違えるものでも無いだろう。それとも、「書写に際して他文献を参照した」と強弁するのであろうか。ならば、もっと信頼できる史料を選択すべきである。
以上、『底倉之記』『十津川之記』との類似及び間違いの継承を指摘した。両書の成立年代及び作者は不明であるが、文化六年成立の『南山巡狩録』に参考文献として挙げられている。少なくとも、文体から察して江戸時代のものと思われる。
問題は、これら江戸時代に作られた軍記物が先か、それとも『宮下文書』が先かということだ。これについては、『宮下文書』を引用した歴史書を見たことが無いので、不明であると言わねばならない。

確かに、私は原書を見たわけではない。しかし、三輪氏が『宮下文書』を要約するにあたって、信頼性に劣る他文献(『底倉之記』『十津川之記』)を混入させることは無いものと信じている。

『宮下文書』の南北朝関連記事に信頼性は期待できないが、現地の伝承を調べる際には有益な情報もあるだろう。 伝承が先か、『宮下文書』が先か、という問題は残るが。
当サイトは、「たとえ信頼性の低い史料といえど、少しでも史実が含まれているかもしれない」という立場にある。が、『宮下文書』については、ここに要約を載せただけでも、かなりご都合主義が目立つ。「噂を流したところ、世の人はすぐに信じた」「死んだというのは実は身代わりで、本人は生きている」などという辻褄合わせがあちこちに出てくる。流石に辛い。
機会があれば、三河南朝、というよりは長慶天皇にまつわる各地の伝説についても、ごく簡単に触れたい。伝承間に連続性が無いため、深く追求するつもりは無い。













「宮下文書を学ぶ①」

2018-10-21 08:34:59 | 日本

宮下文書(みやしたもんじょ)とは、富士山の北麓、山梨県富士吉田市大明見(旧南都留郡明見村)の旧家、宮下家に伝来する古記録・古文書の総称。「富士古文書」「富士古文献」などとも称される。神武天皇が現れるはるか以前の超古代、富士山麓に勃興したとされる「富士高天原王朝」に関する伝承を含み、その中核部分は中国・秦から渡来した徐福が筆録したと伝えられている。
大正時代には宮下文書をもとに三輪義熈『神皇記』が成立した。

高天原のあった場所を富士山としていることなのですが、「富士山」が現在の富士山のことを指しているのか、それとも飛騨高山あたりなのかについては、説が分かれているようです。

 
◎イザナギの治世にスポットを当た宮下文書の現代語訳

<出典> 美輪義熈著『神皇記』
<原典> 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965674
 
<現代語訳(概略)>
イザナギ命は、別名をタニチ彦といい、クニサツチ命の5番目の御子でした。

舞鶴に居た国常立命に迎えられ、当時、副元帥として阿祖北地方を巡幸して、多くの悪神を退治しました。
(のちにあるように阿祖北とは九州の阿蘇ではなく加賀のことを言っているようです)
 
白山姫(のちにイザナミと呼ばれる)と結婚して、西国を統治しました。
 
生まれつき聡明で、よく人民を愛する方でしたので、人民は「敷島第一の知恵神」とあがめ奉りました。
皇后の白山姫もよく夫を助け、ともに83,010日間もの長きにわたり、西国を統治しました。
(白山信仰とはイザナミ信仰のことのようですね)
 
また周辺の国々を訪れて、国を興し、四海を平定しました。
(四海とは、北海道、東海道、南海道、西海道のことでしょうか?)
 
のちに、高砂の富士山中央高天原に帰りまして、日向高千穂峰の小室の「アタツ山」の穴宮を改造してここに住まわれ、周辺の国々を統治しました。
この都のことを「日向の大御宮の穴宮」といいます。

行政単位・ご祀神・法制度・衣服などに関する記述-------省略
(衣服は木の葉をツタで結んで、穴宮=洞窟に住んだといってますので、縄文時代のことようです)
 
夫婦には一人の娘と二人の息子がいました。
娘を大市姫といい、別名をオオヒルメといいます。(のちの天照大神)
息子は、月峯命と蛭子(ヒルコ)命の二人でした。
 
周辺の広大な御洲(平地)を、オオヒルメに譲り、天照大神と呼ばれました。
周辺の広大な御山(山岳)を、月峰命に譲り、月讀命と呼ばれました。
周辺の広大な御海(海洋)を、ヒルコ命に譲り、栄日子(えびす?)と呼ばれました。
(スサノオが登場しないことに注目!!)
 
二柱は、田場国真伊原の田羽山のふもとに祠を立てて、国常立夫婦の神霊を祀りました。
これを「豊受大神」といいます。
(伊勢神宮の外宮に祀られている神様です)
 
高天原に帰り、小室の日向のアタツ山の西尾崎という岩長峯に、毎晩怠りなく火を焚いて、皇祖神をはじめ、国常立夫婦とクニサツチ夫婦の大御神を祀りました。
世にこの火のことを「高燈」といいます。


二柱は、それぞれ153,500日(約420歳)にして、高天原の小室の日向の穴宮で亡くなりました。
ともに、その大宮の西尾崎にある岩長峯の御陵に葬られました。
 
この二柱は、イザナギ・イザナミと呼ばれるようになりました。
その御陵の前に社祠を造って、「高燈大神」として祀りました。
 
皇后の白山姫(イザナミ)は、はじめ父に代わり副元帥として阿祖北地方を巡幸して、多くの悪神を退治しました。
良い農民たちを親兄弟のように愛しましたので、阿祖北地方の農民たちは喜んでお祝いしました。
だから、この姫の居られた場所を「家賀野」といいます。
 
その姫が亡くなったことが知れわたると、農民たちは大挙してその家賀野原の家賀山の石川のあたりに祠を建てて、その神霊を祀りました。
(現在の石川県=加賀の白山比咩神社のことをいっているようですね。ククリ姫は何者かがあとから差し替えたのでしょうか?)
 
高天原の時代は天神七代、つまり185,000日で終わり、ついに豊葦原の瑞穂の国の時代(天照大神の治世)が始まります。
 

考察
以上のとおり、『宮下文書』の記述からはさまざまな論点が浮上してきますので、以下にメモしておきます。
 
(1) 活躍した舞台はどこか?
イザナギ・イザナミの時代は加賀の国を中心に栄えていたようですね。
 
『ウエツフミ』でも、このあたりは「越の国」と呼ばれており、ウガヤフキアエズ王朝のあった「豊の国」とは同盟関係にあったと書かれています。
 
「敷島」とはおそらく本州のことを指しており、その中心が高天原のある富士山、その西側に加賀があったようです。
『竹内文書』でも、もともと日本国の中心は「富山」であったとされていますので、富士山とは飛騨高山のことであるとする説のほうが、説得力があるように感じます。
 
なぜなら、
【1】現在の富士山は火山であり、その周辺の高原地帯には農作物(山の幸)が乏しく、文明が発達しにくい環境にある。
【2】大陸から船でやってきた徐福の一行が、いきなり富士山を本拠地にしたとは考えにくい。日本海側のどこかに上陸して陸路で富士山を目指すのは困難で、船団が太平洋側に漂着したとも考えにくい。
【3】この記述を徐福自身が書いたとすると、自分がやっと発見した聖地=蓬莱山を秘密にしておきたかったのではないか?
だから誰でも知っている「富士山」と「阿蘇山」をくっつけて、どこのことだか分からないようにしたのではないか?
(この技法は古事記でも使われており、熊本と宮崎がくっついて「タケヒムカヒトヨクジヒネワケ」というややこしい地名となっているが、ウエツフミではタケヒの国=熊本とクシヒの国=宮崎)
 
なお、『竹内文書』にも「イザナギは加賀の白山に葬られた」という記述があります。
詳しくは、こちら。
https://www.facebook.com/groups/kodaishi/permalink/1336098836534863/
 
その後、天照大神の治めた土地は「豊葦原の瑞穂の国」と呼ばれており、「敷島」とは異なっていますので、このあたりから九州が舞台となっていったようです。
 
ニニギの時代には、ツクミチ島(のちの筑紫島)に侵攻したとされていますので、ここからは明らかに九州が舞台です。
 
ちなみに『ウエツフミ』でも、猿田彦は加賀の国で生まれたと書かれていますので、「天孫降臨」とは、先発隊として九州に入っていた猿田彦が、ニニギを新しい統治者として九州に迎えたということでしょうか?
(2) 三兄弟の構成が記紀とは違うこと
この文書では、スサノオが登場してきません。
多分、日向国と出雲国が合併(国譲り)したあと、出雲国に配慮して、ヒルコの代わりにスサノオが追加されたということでしょうか?

記紀では、どういう訳か月讀命の足跡も一緒に消されていますが、『ウエツフミ』においても、もともとは太陽・月・海の三宮信仰であったことが確認できます。
 
『先代旧事本紀』によると、「月讀命が豊受大神を切り殺し、スサノオが保食神を切り殺した」と書かれていますので、
【1】加賀の月讀命が豊受大神=国常立の領土を侵略して農作物を略奪した事件と
【2】出雲国のスサノオが保食神の領土である丹波国を侵略した事件
の2つは別物で、これが(意図的に?)混同されてひとつの逸話として伝わっているのではないでしょうか?
 
さらに、『飛騨の口碑』では出雲国の大国主のことをさんざん批判していますので(女たらしでふがいない人物として描かれている)、高天原=加賀連合国と出雲国とは仲が悪かったようです。
 
ちなみに、ヒルコは海を任された神様とあるので「恵比寿様のことである!」という私の解釈は当たっていたようですね。
 詳しくは、こちら。
 
(3) 消された信仰体系
「白山信仰」がイザナギ・イザナミ信仰のことであり、「豊受大神」が国常立のことであることは、ほとんどの人が忘れかけているようです。
それにしても、これらの神様を消し去らなければならない理由が何かあったのでしょうか?
 
(4) 最後に残る問題点
最後に残された問題は、逆にここに書かれていない下記の事実です。
【1】イザナギ・イザナミは淡路島を訪れた痕跡が無く、国生みを行っていないこと
【2】イザナミが黄泉の国を訪れていないこと
【3】イザナミはオオヤマツミやカグツチを始め多くの神々を生んでいないこと
の3点なのですが、多分、他の誰かの逸話が、イザナギ・イザナミの逸話として集約されて、神道体系の一本化が行われたのではないでしょうか?
 
まだまだ『宮下文書』の記述は続きますので、またレポートさせていただきます。















「ブロックチェーンの技術の未来」

2018-10-20 06:26:10 | 日本

3年以内に誰もがブロックチェーンの恩恵を受ける通貨、選挙、医療、流通・・・続々と始まったプロジェクトについて、河西 泰さんが掲載している。
以下、要約し記す。



仮想通貨としてのイメージが定着しつつあるブロックチェーンだが……
「ブロックチェーンが世界を変える」ーーそう言われて久しい。
しかしその萌芽を感じとっている人は、まだまだ少ない。むしろ、ブロックチェーン技術の代表格ともいえる仮想通貨の度重なるハッキング騒動が、ブロックチェーンに対する我々のイメージに暗い影を落としたと言える。
 
ブロックチェーンは本当に世界を変えられるのか? 仮想通貨ウォレットアプリ「Ginco(ギンコ)」を開発し、京都大学在学中にGincoを起業した森川夢佑斗氏は「少なくてもここ5年、いえ3年以内には、多くの人が知らず知らずのうちに生活の一部としてブロックチェーン技術に触れることになるはず」と断言する。ブロックチェーンの技術の未来を聞いた。


◎ブロックチェーンの実証実験は至る所で始まっている
 
今年(2018年)8月28日、茨城県つくば市は、ブロックチェーン技術とマイナンバーを活用したインターネット投票の実証実験を行ったことが話題になった。もちろん国内初の取り組みだ。

「まずは、改ざんできないというブロックチェーン技術の最大の特長を活かしたサービスが実証実験の段階に入ってきています。海外ではウクライナをはじめ、ブロックチェーン技術による投票システムがすでに実用化されている国もあり、この分野での活用はかなり早い段階で身近になるはずです」
 
ブロックチェーンというと、ついビットコインに代表される仮想通貨を思い浮かべる人も多いことだろう。ともすれば、仮想通貨からの連想でネガティブな印象を持っている人いるかもしれない。
 
しかし、つくば市の取り組みと時を同じくして『ブロックチェーンの描く未来』を上梓した森川氏は、仮想通貨はブロックチェーン技術にとって『第一の波』に過ぎないと言う。
「たとえばビットコインからブロックチェーンという言葉を知ったという人も多いはずです。それはそれで、ブロックチェーンの技術を認識してもらう上で非常に重要な役割だったと思います。ただしブロックチェーン、イコール仮想通貨といった認識で止まってしまうのは残念です。仮想通貨はブロックチェーン技術の一部でしかないからです」
実際、我々の身の回りではすでにブロックチェーン技術が応用され始めている。
 
たとえばダイヤモンドの販売でブロックチェーン技術の活用が始まっているのをご存じだろうか。

ダイヤモンドのマーケットでは質の低いダイヤモンドを偽装したり、ダイヤモンドではない石を偽って販売するなどの問題があった。さらには、紛争やテロ組織の資金源として悪用されているという指摘もあり、品物や流通経路に関しての偽装問題が後を絶たなかった。
 
そこに登場したのが「EverLedger」(エバーレッジャー)というプロジェクトだ。
「ダイヤモンドは通常、個人の目では真贋の区別がつきにくいため、鑑定士による証明書の発行によってその品質などの保証が行われてきました。しかし、この証明書の発行や保管には、これまで大きなコストがかかっていた。EverLedgerのプロジェクトは、ダイヤモンドのサプライチェーン(原料調達から商品が消費者に届くまでの全工程)や取引履歴をブロックチェーン上に記録することにより、低コストかつ改ざん不可能な情報管理を可能にしたのです。ブロックチェーン上で、ダイヤモンドの真贋証明書や、サプライチェーンの情報を管理することが可能になれば、消費者は、そのダイヤモンドが本物であるかどうか、どういった過程を経て生産されたものかをいつでも参照することができるようになります」
 そして、この「EverLedger」のプロジェクトは、ダイヤモンドだけではなく様々なものに応用可能だと言う。

「そもそも、サプライチェーン管理の中で起こる問題を解決しようとするのがEverledgerのプロジェクトです。消費財が私たちの手に届くまでには多くの企業同士の取引があり、そうしたプロセスのなかで一貫して透明性を保つのは、企業にとっても最重要の問題となっています。他にも、ブランド品の流通管理に用いられる『VeChain』(ヴィチェーン)や『Seal』(シール)などに代表されるように、サプライチェーン・マネジメントの効率化はブロックチェーンの得意分野のひとつです」


◎医療分野との高い親和性

我々に身近なのは、医療分野における活用だろう。イギリスで生まれた「MedicalChain」のプロジェクトは、今年の7月に実用化に向けた実験が始まったばかりだ。
「『MedicalChain』は、医療記録をブロックチェーン上に記録し、患者・医師だけではなく、研究機関、保険会社なども情報保有者の許可によって、ブロックチェーン上の記録を参照することを可能にするプロジェクトです。患者の医療記録をブロックチェーン上で一括管理することによって、診察や治療の記録などを、違う病院でも参照できるようになります。これにより、患者が逐一病状を説明したり、医師が他の病院への紹介状を書いたりする手間とコストを削減することができます」

「さらに保険会社は、正当で偽りのない情報を入手できるため、保険料の決定に役立てたり、保険詐欺の被害から免れることができます。医療関係の情報は、患者自身の身体に関する情報です。こうした情報をブロックチェーン上に記録できるようになると、医療機関の都合に左右されることなく、個人の意思決定のもとで自由に利用できるようになります」

イギリスの「National Health Service」(国民保険サービス・NHS)はそのほとんどが国費で賄われる公費負担医療だが、その額はイギリス国家予算の25%に相当する。コスト削減には病院間でカルテを共有するなどの方法が考えられるが、一か所にしかないカルテをいかに共有するか、情報の機密性を保つかが課題になっていた。『MedicalChain』はそうした課題を解決するものとして大きな期待が寄せられているのである。
 
この他にも、医療分野においては多くのブロックチェーン技術が活用されつつある。
「処方箋の追跡・管理を行う『Medi Ledger』や、臨床機関の情報プラットフォーム『Simply Vital Health』が開発されています」


◎ブロックチェーンが普及するまでの段階
 
ブロックチェーンはインターネット上の技術なので、いくら「いくつものプロジェクトが実現に向けて動き出している」と言われても実感が湧かないだろう。
 
そうした実感を我々が得るまでの段階を森川氏は、「5つの波がある」と表現する。

「第1の波は『お金の技術』。これについては、2017年に私たちが経験した仮想通貨ブームとしてすでに実感していることです。

これに続く今後の第2の波は、セキュリティやデータの共有に焦点を当てた、管理システムの普及です。記録技術としての優位性を活かすことで、企業はデータの送信や検証に割いていたコストを大幅に削減できます」
このタイミングまでは既存のシステムの増強策としてブロックチェーンが活用される。

「第3の波が、さまざまなものをデータ化することでインターネット上の取引を活性化する流れです。この時点で改ざんもコピーもできない電子的なデータが固有の価値を持つようになるでしょう。同時に、スマートコントラクトを活用した、価値交換・価値取引が盛んに行われるようになるはずです」
ブロックチェーン上でスマーとコントラクト(契約の自動化)を行うことで、改ざんなどを防ぎ、また仲介業者を介さずとも個々が自由に価値を交換できるようになる段階である。

「第4の波は、一般への普及です。ブロックチェーンの基本的な仕組みが一般の人々に理解され、エンドユーザーのボリュームが一気に拡大していくことで多くのコンテンツが生まれてくることでしょう。ちょうどSNSが普及し始めた頃のインターネットのような時期です。

そして最後、第5の波は、インフラや公共施設が集中管理型から完全分散型へ変化することです。この段階では、法律および規制上の枠組みが、分散型台帳を通じた資産の所有権や取引をサポートするようになると私は考えています」
「行政システムも分散化されていき、様々な仕組みが個人を中心としたものになっていくことで、組織や個人が保有する資産の直接取引が可能になるほか、従来のインフラ所有者=仲介者が不要となり、完全なP2P取引が実現されます」
 
当然ではあるが、個人よりも国や政府といった旧来の中央集権的な仕組みそのものが、人々のライフスタイルに合わせて変化しようとしたときに、この波は加速していく。その点でも、前述のつくば市の投票システムのような例は、ひとつの始まりと言えるであろう。


◎ブロックチェーンが日常になる日はいつ?
 
ブロックチェーンの技術を使ったサービスやシステムが、これから私たちの生活の中に入ってくることは間違いない。
 
それはインターネットの普及により、文書連絡の手段が紙の手紙からEメールに取って代わられたようなものだ。サービスの普及とは、1つの変化が起これば一気に加速度を増して、まるで昔からあったように生活に取り入れられていく。
 
ブロックチェーンに詳しいある大学教授は、ブロックチェーンが普及する段階で、すでにブロックチェーンという言葉は消滅しているのではないかとも言う。
それはブラウン管がテレビとなり、もはやブラウン管のテレビ自体が消滅したのと同じことである。
 
ブロックチェーンが身近になるスピードを森川氏は「3年ないし5年内の話だ」と言った。
「日本にいると、『ブロックチェーンなんてまだまだ未来の話』と思うかもしれませんが、これまでもお話ししたとおり、海外での実用化はかなり先に進んでおり、日本でも、あとは法整備の問題などをクリアすればいつでも実用化されるところまで来ている分野も多いのです。5年以内、いや3年以内には、みなさんも何らかの形でブロックチェーンを使ったサービスに触れているはずです」
 
森川氏が提供する仮想通貨ウォレット『Ginco』(ギンコ)は、その未来を見据えた最初のインフラだ。

「ブロックチェーンの技術を使ったサービスが普及した際に必要となるのが、個人がブロックチェーンや仮想通貨を安心して扱えるインターフェイスです。どんなサービスであっても、最終的には個人の管理する秘密鍵に資産と権利が紐づくからです」
 
あらゆるサービスの基幹にブロックチェーンの技術が使われていく。その足音は近づいてきている。










「中朝事実とは、」

2018-10-19 06:01:24 | 日本

『中朝事実』を何故、われわれが学ぶ必要があるのか?

(荒井 桂先生)
山鹿素行が「中朝事実」を現わしてから、400年経った現在もまた、日本は中国の台頭、膨張政策の脅威に直面している。日本と言う国の本質や未来に向けた方向性が問われているいまのこの時に、「中朝事実」を改めて紐解いてみるのは大変に意義があることである。
さらに、戦後、日本人の心に弊害をもたらしたものの一つはGHQによる占領政策であった。GHQによる占領政策によって押し付けられた、いわゆる「自虐史観」によって日本の歴史を醜悪に歪曲して国民の誇りや自信、使命感を喪失させるに至った。ここにGHQによる占領政策の本来の狙いであったのである。
日本人自身が誇りと自信、民族としての使命感を取り戻し、しかもそれを健全で中正なものにするには、どうしてもこの自虐史観の誤りを正し、日本人としての姿勢を確かなものにしていく必要がある。
将来の展望と活路を見出す要諦は、まさに日本の歴史を正しく学び、知ることにある。その意味では、日本はいま精神的に大きな変革期を迎えていることは間違いない。



『中朝事実』(ちゅうちょうじじつ)は、山鹿素行が記した尊王思想の歴史書。寛文9年(1669年)に著わした。全2巻。付録1巻。山鹿素行は儒学と軍学の大家である。


◎『中朝事実』の内容

当時の日本では儒学が流行し、中国の物は何でも優れ日本の物は劣る、という中国かぶれの風潮があった。また、儒教的世界観では、中国の帝国が周辺の野蛮人の国よりも勢力も強く、倫理的にも優れるという中華思想が根本にあった。素行はこの書で、この中華思想に反論した。当時中国は漢民族の明朝が滅んで、万里の長城の北の野蛮人の満州族が皇帝の清朝となっていた。また歴史を見ると、中国では王朝が何度も替わって家臣が君主を弑することが何回も行われている。中国は勢力が強くもなく、君臣の義が守られてもいない。これに対し日本は、外国に支配されたことがなく、万世一系の天皇が支配して君臣の義が守られている。中国は中華ではなく、日本こそが中朝(中華)であるというのが、この書の主張である。ただ、朝鮮の小中華思想は、中華から朝鮮への継承権の委譲とでも言えるものだが、素行の主張は攘夷や国粋といったスタンスである。


◎『中朝事実』は全13章から成り立つ。

第1章 天先章 
天孫降臨をはじめとする神話が皇室への結びついていく歴史が記されている。

第2章 中国章
日本こそが中華と称すべき優秀な国だと強調。

第3章皇統章
天照大神が孫の瓊瓊杵尊に下した神勅(天壌無窮の神勅)から連綿と続いている皇室の徳を称えている。理想の国を目指した孔子の説いた精神は外朝ではなく、太古からわが国に存在していると素行が述べるのは、まさにこの皇室の伝統にはかならない。
さらに日本が無窮の国体を維持する根底には、民の心を心としてきた皇室の至誠の精神があると述べ、その上で易姓革命によって王朝が消滅を繰り返した支那との根本的違いを明確にしていくのである。

さらに、
神器章 神道の三種の神器(勾玉、鏡、剣)が知、仁、勇の象徴であること。
神治章 人材の任用の在り方。
禮儀章 治平や外交の要は礼にあること。
化功章 わが国固有の政治の大道は外国人をも引きつけ数多く帰化していること。
等々、
様々な視点で他国にはない日本の優位性が綴られている。

このように江戸時代初期の時点で、早くも日本人の民族的主体性の確立を促すという先駆的役割を果たしたのが、素行であった。

 
◎山鹿素行の「万世一系」論

江戸時代、尊皇家は天皇への尊崇と支持を高めるため、天皇家の大変な古さと不変性という「万世一系」を強調した。山鹿素行は、神武天皇に先立つ皇統の神代段階は200万年続いたと主張している。『中朝事実』で下のように論じている。

ひとたび打ち立てられた皇統は、かぎりない世代にわたって、変わることなく継承されるのである。……天地創造の時代から最初の人皇登場までにおよそ二〇〇万年が経ち、最初の人皇から今日までに二三〇〇年が経ったにもかかわらず……皇統は一度も変わらなかった。 — 山鹿素行、『中朝事実』


◎「中朝事実と乃木希典大将」

国を磨き西洋近代を超える!

元治元年 (一八六四)年三月、当時学者を志していた乃木希典は、家出して萩まで徒歩
で起き、吉田松陰の叔父の玉木文之進への弟子入りを試みた。ところが、文之進は乃木
が父希次の許しを得ることなく出奔したことを責め、「武士にならないのであれば農民
になれ」と害って、弟子入りを拒んだ。それでも、文之進の夫人のとりなしで、乃木は
まず文之進の農作業を手伝うことになった。そして、慶應元 (一八六五)年、乃木は晴
れて文之進から入門を許された。乃木は、文之進から与えられた、松陰直筆の 「士規七
則」に傾倒し、松陰の精神を必死に学ぼうとした。
乃木にとって、「士規七則」と並ぶ座右の銘が『中朝事実』であった。実は、父希次は
密かに文之進に学資を送り、乃木の訓育を依頼していたのである。そして、入門を許さ
れたとき、希次は自ら『中朝事実』を浄書して乃木にそれを送ってやったのである。以
来、乃木は同書を生涯の座右の銘とし、戦場に赴くときは必ず肌身離さず携行してい
た。

日露戦争後の明治三十九年七月、参謀総長の児玉源太郎が急逝すると、山悪有明は、明治天皇に児玉の後任として乃木を参謀総長に任命されるよう内奏した。ところが、天皇は、「乃木については朕の所存もあることりやから、参謀総長には他のものを以て補任することにせよ」と仰せられた。そこで、参謀総長には奥保筆が任命された。
他日、山懸が天皇に拝謁すると、天皇は「先日乃木を参謀総長にとのことであったが、乃木は学習院長に任ずることにするから承知せよ。近く三人の朕の孫達が学習院に学ぶことになるのじやが、孫達の教育を託するには乃木が最も適任と考えるので、乃木をもってすることにした」こうして、明治四十年一月、乃木は学習院長に任ぜられた。明治天皇は、就任に際して、次の御製

「いさをある人を教への親として おほし立てなむ大和なでしこ」

乃木は、学習院の雰囲気を一新するため、全寮制を布き、生徒の生活の細部にわたって
指導しようとした。この時代、乃木は自宅へは月に一、二度帰宅するだけで、それ以外
の日は寮に人って生徒たちと寝食を共にした。寮の談話室で、乃木は素行と『中朝事実』について、生徒たちに次のように語った。

「この本の著者は山鹿素行先生というて、わしの最も欽慕する先生じや。わしは少年時
代、玉木文之進という恩師から山鹿先生を紹介せられ、爾来先生の思想、生活から絶大
な感化指導を受け、わしが日本人としての天職を悟るに非常に役立つたというもの
じや」

乃木は『中朝事実』の真価について、「要はわが日本国本然の真価値、真骨髄をじや
な、よくよく体認具顕しその国民的大信念の上に日本精神飛躍の機運を醸成し、かくし
て新日本の将来を指導激励するということが、この本の大眼目をなしておるのじや」と
述べ、その序文については、次のように語っていた。 「人は愚かな者で幸福に馴れると幸福を忘れ、富貴に馴れると富貴を忘れるものじや。
高潔なる国土、連綿たる皇統のもとに生を享けても、その国土、その人愛になれると自
主独往すべき根本精神を忘却し、いたずらに付和雷同して卑屈な人間と堕する者が頻々
として続出する。これが国家存立の一大危機というものじや」 「どうじやな、ここの中華とは中朝と同じく日本国家の事じや。これは決して頑迷な国
粋論を主張しているものではない。

「よきをとりあしきをすてて外国におとらぬ国となすよしもがな」

と御製にもある通り、広く知識を求め外国の美風良俗を輸入して学ぶことは国勢伸張の
秘鍵ではあるが、。それは勿論皇道日本の真価値を識り、その大精神を認識した上でのことでなければならぬのじゃ。

盲滅法に外国人に盲従し西洋の糟を舐めて随善し、いたずらに自国を卑下し罵倒すると
いうのは、その一事すでに奴隷であって大国民たるの資格はない。国家興亡の岐路はそ
こにあるのじや。個人でも国家でも要は毅然たる独立大精神に生き、敢然と自主邁進す
るにある」 (岡田幹彦氏「乃木希典」展転社、平成十三年)

明治四十五年七月三十日、明治天皇が崩御され、大正元年九月十三日に御大喪が行われ
ることとなった。殉死のこ目前の九月十一日、乃木は午前七時に参内して皇太子と淳
宮、光宮の三人が揃うのを待って、人ばらいをした。そして、「私がふだん愛読してお
ります書物を殿下に差上げたいと思いましてここに持って参りました。いまに御成長に
なったら、これをよくお読みになって頂きたい」とお願いし、自ら写本した 『中朝事実』を差上げたのだった。



※宗参寺(そうさんじ)は、東京都新宿区弁天町にある曹洞宗の寺院である。
ここに『中朝事実』を著わした山鹿素行の墓(国の史跡)がある。








「高須梅渓とは、」

2018-10-18 06:47:50 | 日本

高須梅渓(たかす ばいけい)1880年4月13日~1948年2月2日は、日本の文芸評論家、評論家。

大阪府出身。本名は芳次郎。為替貯金管理所勤務から1898年上京して早稲田大学文学部英文科卒。中村吉蔵らと雑誌『よしあし草』を発行、また『新声』の編集に加わり文芸時評で活躍、「国民新聞」「東京毎日新聞」「二六新報」などの記者を務める。のち明治文学史、水戸学の研究に専念、昭和期には国粋主義・軍国主義にはしった。1940年「大日本史に現はれた尊皇精神」で日本大学文学博士[1]。1901年『文壇照魔鏡』で与謝野鉄幹を攻撃したとされ、鉄幹から訴えられた。


◎著書

『暮雲』新声社 1901
『学生坐右訓』亀井支店書籍部 1906
『青春雑筆』美也古書房 1906
『中学作文要訣』博報堂 1906
『偉人修養の径路』実業之日本社 1907
『愛弟に与へし兄の書翰』高須芳次郎 (梅渓) 富田文陽堂ほか 1910
『百傑スケッチ 金言対照』博文館 1910
『学生文範 小品百種』求光閣 1911
『滑稽趣味の研究』実業之日本社 1911
『新時代普通文』実業之日本社 1911
『東西名婦の面影 金言対照』高須芳次郎 (梅渓) 博文館 家庭百科全書 1911
『婦人日常座右銘』高須芳次郎 (海渓) 編 博文館 家庭百科全書 1911
『スケッチ文集 美文評論』岡村盛花堂 1912
『平家の人々』岡村盛花堂 1912

(以下、芳次郎名義)
『ふらんす革命夜話』天佑社 1919
『明治大正五十三年史論』日本評論社出版部 1920
『近代文芸史論 上巻』日本評論社 1921
『日本近世文学十二講』新潮社 1923
『日本現代文学十二講』新潮社 1924
『ふらんす革命史話』日本学術普及会 1924
『東洋思想十六講』新潮社 1925
『孔子から孟子へ』新潮社 東洋学芸文庫 1926
『東洋文芸十六講』新潮社 1926
『老子から荘子へ』新潮社 東洋学芸文庫 1926
『日本思想十六講』新潮社 1928
『小池国三伝』小池厚之助 1929
『古代中世日本文学十二講』新潮社 1930
『古代日本精神』東方文学社 日本精神文化講座 1930
『日本学概説』東方文学社 日本精神文化講座 1930
『日本精神文化の王国(世界の現状を批判して日本精神文化に及ぶ)』東方文学社 日本精神文化講座 1930
『ふらんす大革命時代』日本学術普及会 1930
『日本は世界を征服せん』先進社 1931
『爛熟期・頽廃期の江戸文学』明治書院 1931
『国民の日本史』早稲田大学出版部 1932
第3篇 平安時代
第5篇 鎌倉時代
第10篇 江戸時代興隆期
第11篇 江戸時代爛熟期
第12篇 江戸時代頽唐期
『非常時の日本を如何にすべき乎』大阪屋号書店 1932
『明治大正昭和文学講話』新潮社 1933
『明治文学史論』日本評論社 1934
『日本精神とは何ぞや』日本精神協会 日本精神パンフレット 1935
『水戸学の新研究』明治書院 1935
『藤田幽谷・会沢正志斎・藤田東湖』日本教育家文庫 北海出版社 1936
『日本名文鑑賞』全8巻 厚生閣 1936
『水戸学派の尊皇及び経綸』雄山閣 1936
『赤穂浪士 随筆』高須梅渓 モナス 1937
『名文鑑賞読本 江戸前期』編著 厚生閣 1937
『名文鑑賞読本 江戸後期』編著 厚生閣 1937
『名文鑑賞読本 漢詩漢文』編著 厚生閣 1937
『名文鑑賞読本 古代中世』編著 厚生閣 1937
『名文鑑賞読本 明治前期』編著 厚生閣 1937
『名文鑑賞読本 昭和時代』編著 厚生閣 1937
『名文鑑賞読本 大正時代』編著 厚生閣 1937
『名文鑑賞読本 明治後期』編著 厚生閣 1937
『乃木将軍詩歌物語』新潮社 1938
『文章作法問答』厚生閣書店 1938
『支那文学十五講』新潮社 新潮文庫 1939
『日本二千六百年史物語』新潮社 新潮文庫 1939
『海の二千六百年史』海軍研究社 1940
『大日本史に現はれた尊皇精神』誠文堂新光社 1940
『皇道と日本学の建設』大阪屋号書店 1941
『国史精華読本』大阪屋号書店 1941
『徳川光圀』新潮社 新伝記叢書 1941
『日本科学の建設者』富士書店 1941
『日本精神の伝統』富士書店 1941
『藤田東湖伝』誠文堂新光社 1941
『水戸学徒列伝 水戸学入門』誠文堂新光社 1941
『水戸学の心髄を語る』井田書店 1941
『愛国詩文二千六百年』非凡閣 1942
『会沢正志斎』厚生閣 1942
『維新留魂録』大阪屋号書店 1942
『皇道を語る』二見書房 1942
『孔孟思想講話』新潮社 新潮文庫 1942
『戦時青年の進むべき道』富士書店 1942
『日本近世転換期の偉人』欧文社 1942
『日本思想読本』駸々堂書店 1942
『日本精神とその展開』大東出版社 1942
『日本はどんな国か』新潮社 新日本少年少女文庫 1942
『水戸学と青年』潮文閣 青年文化全集 1942
『水戸学の人々』大東出版社 1942
『水戸義公を語る』井田書店 1942
『大御心を仰いで』文松堂書店 1943
『近世日本儒学史』越後屋書房 1943
『思想戦の勝利へ』大東亜公論社 1943
『少国民の国体読本』玉村吉典絵 フタバ書院成光館 1943
『高山樗牛 人と文学』偕成社 1943
『東洋思想を語る』井田書店 1943
『光圀と斉昭』潮文閣 1943
『水戸学講話』今日の問題社 1943
『水戸学精神』新潮社 新潮文庫 1943
『物語大日本史 上,中巻』誠文堂新光社 1942-1943
『吉野朝の人々』潮文閣 1943
『老荘思想読本』葛城書店 1944
『作家に描かれた女性』万葉出版社 1948
共編著編集
『女子と宗教 女子修養の鑑』中村春雨共著 亀井支店書籍部 1906
『商用文鑑 文案資料』福井庄三郎共編 博文館 1911
『勤皇烈士詩歌物語』小島徳弥共著 創造社 1943


◎翻訳

『水滸伝物語』高須芳次郎 (梅渓) 編 富山房 通俗世界文学 1903
ロングフェロー『乙女の操』高須芳次郎 (梅渓) 訳 新潮社 1906
ウラジミル・セメヨノフ『日本海大海戦殉国記』明治出版社 1912
会沢正志斎『新論講話』詳註 皇国二大経典叢書 第1巻 平凡社 1934
山鹿素行『中朝事実講話』詳註 皇国二大経典叢書 第2巻 平凡社 1934
『大日本詔勅謹解 第2 道徳教育篇 第3 軍事外交篇 第4 神祇仏教篇 第5 政治経済篇 第6 雑事篇 第7 詔勅と日本精神及索引第1-7』日本精神協会 1934
頼山陽『日本文化史論 原名 新策』訳註 井田書店 1941
『藤田東湖の勤皇詩選』駸々堂 1943


◎編纂

『水戸学全集』全6編 編 日東書院 1933-1934
『藤田東湖全集』全6巻 編 章華社 1935-1936
『水戸学大系』全8巻 編 水戸学大系刊行会 1940-1941
『藤田東湖選集』編 読書新報社出版部 1943














『乃木将軍詩歌物語』 高須芳次郎著

2018-10-17 06:14:59 | 日本

◎乃木希典大将の父、希次は、
「常に、武士は外よりも内を修めることが肝要で、名よりも、實を重んずるようにありたい。」

「薄給の為、当時、ひどく貧乏して、衣食住の費用は、切り詰めるだけ切り詰めていたが、ただ、武器だけは、何人にも劣らぬものを用意していた。


◎「古来、すべての烈士功臣は、刻苦・悲惨の体験を積んだものの中から出て、気楽に飽食暖衣するお坊ちゃんの間から断じて出ない」と教訓した。


◎青葉若葉の色を愛し、ホトトギスの声に耳を傾け、緑陰に時ならぬ鶯が来て鳴くのを興味深く聴いた。昼寝を楽しみ、湯上りのときに�サッと吹いてくる青嵐に折からの暑さを忘れるのだった。


◎夏草に埋もれた村荘

◎寒月の下に物凄く見ゆる雪景


◎時に、齢(よわい)四十六、爽涼たる秋風に軍服を吹かれ、心澄み身健やかに、一気に、戦地へ飛んでいこうという壮士が胸一杯にこみあげて来て抑えきれない出征直前の心境が、ここに発露されて、乃木さんの風貌が躍如として迫ってくるのを覚える。


◎聖人の至道というのは、支那の道で、日本の道ではない。支那の道に採るべき点があるなら、先ず、皇国の威風即ち日本国体の尊厳を知り、天壌無窮の皇運を扶翼し奉ることを知った後でなければならない。この前後を知らなければ、正しい学問とは言えない。そこに乃木さんの燃ゆるような尊皇心が見える。

◎無限の感慨、夕日を軍服に浴びつつ

◎気魄、敵を呑んで、ぐんぐん押していくところに、乃木さんの長所があった。


◎「色あせて梢に残るそれならで  散りてあとなき花ぞ恋しき」
色あせて淋しく残る花にひとしい老人の死よりも、色鮮やかな花の若武者の死に心をひかれる。
一死、国に報じたい。

◎皇軍十万の中で、誰が一番、目覚ましく働いて、英傑の名を千載の下に残すのか

◎悲しみに打ち勝って、


◎昨日までは敵味方の間だったが、ステッセルが降伏すれば、もう互いに友人である。どこまでも、彼の面目を立てることが、武士道の作法であると乃木さんは考えた。


◎悲劇から悲劇へ、緊張から緊張へ、危機からまた危機へ、ぐるぐる廻る人生の走馬燈は、応接に暇がない。が、それも過去というページの彼方に没してしまえば、まるで范(ぼう)として一夢のようである。そう考えると、招魂祭に、祭壇を美しく飾って、心から戦死者の霊を涙のうちに慰めた事さえも、また一個の夢と化し去ってしまう。流れ、動いてやまぬ人生波乱の一沫、さういう気さえする。乃木さんはこうした点から、記念碑を立てて、永く戦死者の功を後世に伝えたいとも考え、暗にその意を詩にほのめかしたのである。


◎乃木さんは、どんなに、切羽詰まった場合でも、またどんなに多忙な時でも、若干のゆとりを持つ人だった。また、精神は、物思いのためにも、弾力を失わなかった。

◎紅葉や野の花で飾られた辺地の秋を探りつつ


◎『千五百秋 瑞穂の国の民草の しげりに茂る 御代ぞめでたき』 ちいほあき みずほのくにの たみくさの

皇室の繁栄と国運の隆祥とを謳歌した至誠の声を聴くことが出来よう。
今、日本がここを固めて皇威を発揚しつつある喜び

感興の湧くままに痛飲した。


◎勃勃たる雄心が、字句の間に躍り上がっているのを感じる。

◎厳格なうちにも、やさしい情味のあった面目を浮き彫りにした感がある。


◎かく皇軍は、天祖を初め、日本の神々に守護せられ、神の御旨によって動くので、必ず勝つというのが古来からの信念だった。昔を懐い今を考えるに、皇軍は常に、太陽の光によって祝福されているから、戦争には必勝であるという旨を述べ、わが国の古代史に想いを馳せた乃木さんの風格が、悠揚として迫ってくる。


◎吉野に赴いて、満山の紅葉が錦を綴っている風光に対し、懐古の感に浸っている。
当年、悲壮な生に終始した南朝の人々は、いずれも一代の英傑で、よし、生前、志を得なかったにもせよ、事蹟は炳として千載の下に、錦を綴る紅葉のように照輝いていると深く感じつつ低回去るに忍びなかった様が結句に浮き彫りになっている。

◎満開の桜花を馬上に見て、雅懐を満たす。


◎『落葉声なく、秋雨寒し』


◎雪の暁に

◎乃木さんは、いつも東郷さんと、船中で形影相伴い、月清き夜は、盃をあげて、語りあうのが常でした。


◎「今の青年は、概ね惰弱の風に化せられて、いつの間にか、汗を流して働く精神をなくしてしまった。その上、国民はだんだん軟弱になる。艱苦欠乏に堪える気性が薄くなる。自分は非常に残念にこれを思う。」と、真実な警世の声である。


◎顧みると、乃木さんの一生は、「自分に相応しい死所を得て皇恩に酬い、武人として壮烈な生を終わりたい」という一事に尽きるような気がする。


◎乃木さんの歌には、「道」という言葉が、折々見えるが、それは、古道とか、皇道とかいう意味に用いられ、支那の儒教が日本に渡来する以前に、存在した『日本固有の道徳を指す』のである。山鹿素行が現わした『中朝事実』は、寛文九年に出て、賀茂真淵・本居宣長らの『日本主義運動』に先駆したのである。その『神教章』のうちには、漢学渡来以前、既に優れた道徳を個有し、政治もよく整っていたことを説き、日本こそ、中華(世界文明の中心)として恥ずかしくない国だという旨を明らかにしている。日本固有の道徳とは一口に申せば「君臣父子の道・敬神尚武の道」である。

これは将に、今日における『日本道義主義』そのものである。

いずれまとめる『わが半生の軌跡』続編の題名は、『夜明けの日々に!』とする。