龍の声

龍の声は、天の声

「ひがみ七訓」

2021-02-28 08:16:33 | 日本

1.つらいことが多いのは、感謝を知らないからだ!
2.悲しいことが多いのは、自分のことしか考えないからだ!
3.苦しいことが多いのは、自分に甘えがあるからだ!
4.怒ることが多いのは、我がままだからだ!
5.心配することが多いのは、今を懸命に生きていないからだ!
6.行きづまりが多いのは、自分が裸になれないからだ!
7.あせることが多いのは、行動目的が無いからだ!










「賞味期限切れの備蓄品」

2021-02-27 09:28:54 | 日本

賞味期限切れの備蓄の水や食料はすぐに捨てないで!


◎賞味期限に関するQ&A

よく、「賞味期限が過ぎたこの食品、いつまで食べられ(飲め)ますか?」という質問がある。保管状況が異なるので、品質がいつまで保たれるか、いつまで飲食できるか、というのも、厳密には個々の飲食品によって異なる。その上で、全般的な内容について、Q&A方式でまとめてみたい。


Q、ペットボトル入りのミネラルウォーターの賞味期限、1日でも過ぎたらもう飲めないのですか?
A、そんなことはありません。
表示してある期限は、厳密には「ボトルに明記してある容量がこの日付までは確実に入っていますよ」という期限です。長期間、ペットボトル入りのミネラルウォーターを保存しておくと、容器を介して水が蒸発し、ボトルに明記してある容量を満たさなくなるからです。書いてある容量がきちんと入っていないものを販売することは、計量法に抵触します。だから表示しているのです。
ガラス瓶に入っているミネラルウォーターは、賞味期限表示が免除されています(消費者庁による)。

備蓄の水は、定期的に入れ替えを行っていれば、期限が切れることはないでしょう。でも、ついうっかり切らしてしまっていた場合、そして自然災害や地震で飲料水の確保が難しいと思われる場合、栓を開けてみて、においや味を確かめてみて、大丈夫そうだったら使ってみてください。
市販のペットボトル入りミネラルウォーターの賞味期限は、1年から3年ほどです。太陽光や部屋の照明などにさらされ続けていたものは飲むのを避けましょう。また、免疫力の落ちている方や、お腹の弱い人は、品質を確認してから飲むようにしましょう。


Q、缶詰の賞味期限が切れていました。これはもうだめになっているから食べない方がいいですか?
A、そんなことはありません。
缶詰は、缶に食品を入れて真空状態で密閉します。そのあとに(調理)、加熱殺菌、冷却をおこないますので、(穴を開けられるなど)外から危害が加えられない限り、基本的には菌が入ることはありません。
缶詰は、全般的にどれも製造から3年間の賞味期限が設定されています。これは缶詰の缶それ自体の品質保持の保証期間が3年間だからです。しかし食品保存に詳しい東京農業大学客員教授の徳江千代子先生によれば、味の濃いものや甘いシロップに漬けたフルーツの缶詰などは15年間、品質が保たれたものもあります。
農林水産省は、2020年12月、賞味期限が2ヶ月以上過ぎたフルーツの缶詰の備蓄食料を、福祉団体に寄付しました。これは、前述の通り、缶詰は、適切に保存されていれば品質が保たれるということがわかっているからです。
NHKの番組では、製造から70年以上経った赤飯の缶詰を開封したところ、菌が検出されなかったという結果も紹介されました。日本のツナ缶工場の社員たちは、賞味期限が切れた頃、過ぎたものを、あえて選んで食べるそうです。
とはいえ、前述の通り、穴が空いている、など、外から何か危害が加えられていれば中の品質は変わっている可能性があります。確認した上で食べましょう。


Q、賞味期限が過ぎてもどれくらい食べられるか、どうやったらわかるの?
A、食品保存に詳しい徳江千代子先生によれば、賞味期限は2割短くなっていることが多いので、「実際の期間の2割増し」くらいと考えればよいと語っています。
たとえば8ヶ月の賞味期間だったら、2ヶ月加えた10ヶ月が実際の賞味期間と考えます。
でも、昔は表示されていた製造日が、今は表示されていませんから、そもそも製造から賞味期限までがどれくらいかがわからないですよね。
たとえば菓子だったら6ヶ月のものが多く、レトルト食品なら1年、そうめんなら1年半から2年、パスタなら3年などです。
でも、同じ「菓子」でも、ものによって違います。ですから、消費者庁は、「五感を使って判断する」ことを勧めています。目で見て、においを嗅いで、舌で味わって、確認するということです。
英国でも、そのような取り組みが始まっています。2021年1月19日、英国食品基準庁(FSA)は、食品が悪くなっているかどうかを判断するために、匂いを嗅いだり、見たり、味わったりすることを消費者に奨励する “Look, Smell, Taste, Don’t Waste”(見て、嗅いで、味わって、無駄にしない)食品ロス削減キャンペーンを始めています。
また、コロナ禍の英国では、今ある食料を無駄にしないため、賞味期限が過ぎても捨てないでよいガイドラインを改訂し、2020年5月に発表しました。たとえばパスタならこれくらい過ぎていても食べられますよ、といった、食材ごとのガイドラインです。2017年に発表したものを改訂しました。


Q、普段から備蓄食料や水を無駄にしないための工夫はありますか?
A、はい、ローリングストック法をお勧めします。
非常袋に入れっぱなしではなく、ちょっとずつ使っては、使った分だけ買い足していく方法です。「今日は大雨だから、家にあるレトルトご飯とカレーでカレーライスにしよう」と使う。そしたら、次の買い物で、使った数だけ買い足していく方法です。これなら、非常袋に入れっぱなしでついうっかり切れていたということが減ります。
以上、


下記参考情報もお目通しいただき、貴重な水と食料を無駄にしないようにして、いざの時の自然災害や地震に備えたい。













「おもしろ雑学」

2021-02-26 08:22:54 | 日本

✿あなたの心臓は1日に10万回鼓動する

✿指紋と同じように舌の模様も同じ人はいない

✿話をしてる人は1分当たり300個の微小なツバを飛ばしている。
マスクは絶対に必要です!

✿平均的な人間は1日に200本の髪の毛を失っている
2日で400本、3日で600本・・・髪は長い友達ではナイ

✿中国の人口は10億人を超えているにも関わら苗字は3000種類しかない。
それに比べ日本には「鼻毛さん・御手洗さんなど珍しい苗字をはじめ約30万種類ある。

✿人間の脳の75%が水で出来ている

✿昆虫を食べると、カブトムシはりんご味・スズメバチは松の実・ミミズは焼きベーコンの味がする。
試したい方は是非ど~ぞ!

✿人間は生まれた時に350の骨があるが大人になると206になる。
これは成長するにつれて骨が融合していく為

✿12匹のミツバチが全生涯をかけて作れるハチミツの量はたったティースプーン一杯分である。
ハチミツさんありがとう。

✿聴覚は最後まで残る感覚である。
私が死んだら耳元で食べ物の話はやめて下さい(笑)

✿ノルウェーには地獄(HELL)という街があり観光客が写真を撮りにやってくる。
ちなみに高知県には「ごめん」と言う名の駅があり電車の行先看板には「ごめん」と書かれてる謙虚な電車がある。

✿4月4日・6月6日・8月8日・10月10日・12月12日は毎年すべて同じ曜日になる!永遠に。

雑学は知れば知るほど面白い











「朝の心の勉強」

2021-02-24 10:15:40 | 日本

朝の心の勉強です。


•四方八方ふさがれば それで終わったという前に天を仰ぐことです。
「ああ、まだ空があるなとね。」
和田一夫(ヤオハンジャパン代表)


•そんなにすぐには、なかなか親切にはなれない。「遅すぎた」と気づくのは、たいてい後になってからなのだ。
ラルフ・ワルド・エマーソン(思想家)


•人生で最高のもの、最も美しいものは目に見えず、触ることもできません。
それは心で感じるものなのです。
世の中はつらいことで
いっぱいですがそれに打ち勝つことも満ち溢れています。
ヘレン・ケラー










「世阿弥が説く 花」

2021-02-24 10:15:40 | 日本

世阿弥は、芸能のもっとも大切な勘所、一世一代の見せ所のようなものを「花」と表現し、風姿花伝のなかで、その大切さを語っている。
この、何とも言葉にはしづらい「花」を、様々な表現で説明をしているので、いくつかご紹介。
各種の芸を稽古しつくし、工夫に工夫を加えて後、はじめて永続する「花」すなわち一生失せない芸の美を知ることができる。
稽古と工夫を頑張った先に、一生の「花」を手に入れられる。

己の芸の格をよくよく心得て勘違いしないようにしていれば、それ相応の花は一生のあいだ失せることがない。しかし、慢心して相応の位よりも上手なのだと思い込んだら最後、それまで持っていた花もすべて消え失せてしまうのだということである。
自分イケてるな、と勘違いをしたら最後、花はすべてなくなってしまうなんて・・・慢心ってば恐ろしい。
そもそも、花というものは、万木千草(ばんぼくせんそう)において、四季折々に咲くものであるから、ああ春になった、夏になったと、季節ごとにその都度花をみて珍しく思いもし愛で楽しみもするわけである。
能もこれと同じで、見ている人の心に「ああ、珍しい」と思うところがあれば、すなわちそれを面白いと思う心理である。したがって「花」と「面白い」と「珍しい」の三つは本来同じ心から発する三つの側面にすぎない。
「花」を「感動」とか「優美」というよりも、「面白い」「珍しい」と言った興味関心・好奇心のような表現をしている。いい意味で、相手の気を引くことが、芸能の未来に繋がると考えたのだろうか?
秘する花を知ること。「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」となり。この分け目を知ること、肝要の花なり。
そして、冒頭でも紹介したこちらの文章だ。
「花」は開けっぴろげにするものではなく、自分の中に秘めておくものだ、としている。最初から、「花」となる見所を明かしてしまえば、 相手は面白さを感じるわけはない。だから、ここぞという場で見せるために、準備し温めておくものなのだ。


◎風姿花伝の最後には、

わが能の道の様々な芸態も、現代の人々、あるいは演能の場所場所によって、その時のおおかたの好みにしたがってふさわしいものを取り出して演じると、これが観客の心に叶い、花となって役に立つということであろう。
(中略)これは見ている人の、それぞれの心々に存在する「花」というものである。さて、そういう風に時に応じて変異する花、そのいずれを本当の花とすべきなのであろうか。せんずるところ、ただその時々に応じてもっとも適切なものを用いることを以て「花」と知るべきなのであろう。
ここでは、「花」は自分ではなく相手の心のなかになるもの、と言っている。
「花」であるかどうかは、相手が決めることであり、その到達を目指して、芸能の努力や工夫を怠ってはならない。そうすれば、相手やその場に合わせた芸能を提供することができるようになり、相手の心に「花」を咲かすことができる。


◎奥義云のなかで、世阿弥は「風姿花伝」の名前の由来

とくにこの能という芸能は、本来先人の教えた風姿を継承するのが大切なのだが、しかし、それだけではだめで、そこに各自の工夫・才能によって新しく拓いてゆく面もなくてはいけないわけだから、そう簡単に言葉で説明することができぬ。すなわち、先人からの芸の風刺を継承しつつ、心から心へ言葉を超越して伝授していく「花」が大切だという意味合いで『風姿花伝』と名付けるのである。

家、家にあらず、次ぐをもて家とす。人、人にあらず、知るをもて人とす。
つまり、「才能は遺伝するとは限らない」として、才覚知性人格の優れた人を選んで継がせるという、極めて合理的な考え方を述べている。
(血縁を大事にしていそうな時代に、結構大胆な宣言をしていることに驚き・・・!)

世阿弥は、若干三十七歳のときに、この風姿花伝を書きはじめている。まるで、能の未来を一人で背負って、未来を案じているかのよう。


◎初心忘るるべからず

世阿弥にとっての「初心」とは、新しい事態に直面した時の対処方法、すなわち、試練を乗り越えていく考え方を意味しています。つまり、「初心を忘れるな」とは、人生の試練の時に、どうやってその試練を乗り越えていったのか、という経験を忘れるなということなのです。
◎離見の見(りけんのけん)
自分の姿を左右前後から、よくよく見なければならない。これが「離見の見(りけんのけん)」です。これは、「見所同見(けんじょどうけん)」とも言われます。見所は、観客席のことなので、客席で見ている観客の目で自分をみなさい、ということです。
◎稽古は強かれ、情識はなかれ
「情識」(じょうしき)とは、傲慢とか慢心といった意味です。「稽古も舞台も、厳しい態度でつとめ、決して傲慢になってはいけない。」という意味のことばです。世阿弥は、後生に残した著作の中で、繰り返しこのことばを使っています。





<了>













「風姿花伝の構成③」

2021-02-23 08:51:52 | 日本

◎風姿花伝第一 「年来稽古条々」三十四・五

<原文>
この頃の能、盛りの極めなり。
ここにて、この条々を窮(きわ)め悟りて、堪能になれば、定めて天下に許され、名望を得つべし。
もしこの時分に、天下の許されも不足に、名望を思ふ程になくは、いかなる上手なりとも、いまだまことの花を窮めぬ為手(して)と知るべし。
もし窮めずは、四十より能は下がるべし。
それ、後の証拠なるべし。
さるほどに、上がるは三十四・五までの頃、下がるは四十以来なり。
返すがへす、この頃天下の許されを得ずば、能を窮めたりととは思ふべからず。
ここにてなほ、慎むべし。この頃は、過ぎし方をも覚え、また、行く先の手立(てだて)をも覚る時分なり。この頃極めずば、こののち天下の許されを得ん事、返すがへすかたかるべし。

<現代語訳>
この年ごろの能は、あらゆる意味で全盛で窮める。
したがって、この時期に至って、この伝書に書きおく条々をよくよく悟得(ごとく)して、行き届いた芸域に達するならば、かならずや天下の見巧者にも認められて、芸能者として一流の名を得るであろう。
反対に、もしこの時期になっても、天下の見巧者には認められず、その結果大した名声も得られないのであれば、一見いかに達者に芸をするように見えても、それはいまだ「真実の花」を会得しているシテ(役者)とは考えがたい。
そうして、もうこの年ごろが絶頂の時期なのだから、もしこの頃までに「真実の花」を会得し得なかったならば万事休す、四十を過ぎてからどのように芸が堕ちていくかということを見れば、その者が真実の花を会得していたか否かが分かるというものである。
というわけであるから、芸の力が進歩向上するのはせいぜい三十四・五までのこと、そして芸が衰え始める境目が四十のころなのだ。
くれぐれも言っておくが、だからこの三十四・五のころまでに天下に名声を確立出来なかった者は、ゆめゆめ能を窮めたなどと思ってはいけない。
この時期には、なお一層自省熟慮しなければならぬことがある。
すなわち、自分がそれまでに学んできたあれこれの事を反省し、またこれから先どのような方法で進んでいくべきか、そのことをよく考えるべき時だという事である。
重ねて言っておくが、この時分に芸を窮め真実の花を会得していなかったならば、これから先どんなに頑張っても天下に名人の名を許されることはまずありえないのである。

風姿花伝には、想像以上に人生への教訓が詰まっていた
秘すれば花。

秘する花を知ること。「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」となり。この分け目を知ること、肝要の花なり。
この「風姿花伝」の一節は、世阿弥が伝えようとする芸能論を理解するうえで、最も大切な考え方を記している。
世阿弥は、能楽を通じて、ある種の人生哲学を生み出す。そこには、現代人にも活きる素晴らしい教えがある。
世阿弥の考えた「花」とは何か、「花」を秘するとはどういうことか。それを紐解けば、きっと、何かを学ぼうとする全ての人に気づきを与えてくれるはず。



















「風姿花伝の構成②」

2021-02-22 08:10:33 | 日本
◎風姿花伝第一 「年来稽古条々」十七・八

<原文>
この頃は、またあまりの大事にて、稽古多からず。
まづ声変はりぬれば、第一の花、失せたり。
体も腰高になれば、かかり失せて、過ぎし頃の、声も盛りに、花やかに、やすかりし時分の移りに、手だてはたと変はりぬれば、気を失ふ。
結句(けつく)見物衆(けんぶつしゆ)も、をかしげなるけしき見えぬれば、恥づかしさと申し、かれこれ、ここにて退屈するなり。
この頃の稽古には、ただ指をさして人に笑はるるとも、それをば顧みず、内にては、声の届かんずる調子にて、宵・暁の声を使ひ、心中には願力を起こして、一期の境ここなりと、生涯にかけて能を捨てぬよりほかは、稽古あるべからず。
ここにて捨つれば、そのまま能は止まるべし。
総じて調子は声によるといへども、黄鐘(おうしき)・盤渉(ばんしき)をもて用ふべし。
調子にさのみかかれば、身なりに癖出で来るものなり。
また声も、年寄りて損ずる相なり。


<現代語訳>
この年頃はまた、なんとしても難しい時期で、稽古をしすぎてはいけない。
まず声変わりということがある。
これによって少年期の艶めかしさは失せる。
また体つきも、手足が伸びて変に腰高な風情になるので、見ていて不安定な感じがする為に第一姿が悪くなる。
それまでは声も朗々として美しく、姿は華やかであってなんでも自在にできた時期であったけれど、そのあとでなにもかもがぱたっと一変してしまうわけだから、どうしてもここで気力が萎えてしまう。
その結果、見物の人たちも、ありゃ変だなあと思っているらしい様子がそれとなく分かるので、やっぱり恥ずかしいし、それやこれやでこの年齢の頃に挫折してしまう事が多い。
だから、この時期の稽古は、舞台では指さしして嘲られることがあろうとも、それは気にかけないこと、そして家に帰ってからは、あまり無理な高声など使わずに、そこそこ届く程度の高さの声で、宵には十分に声を出し、朝にはちょっと控えめにして発声を整える。
心の中に神仏かけての願力を奮い立たせて、おのれの一生の分かれ目はここだ、と覚悟し、これから先、生涯をかけて能を捨てずに精進するということの他には稽古の方法もないのである。

そうして、この時期に諦めてしまったら、もうそれっきり能は行き止まりとなる。
概して、声の高低は生まれつきで決まっているものだが、それでもおおかたの所を申すならば、この変声期の時期には「黄鐘(おうしき)・盤渉(ばんしき)」あたりまでの所の声を使うのがよろしい。
調子にこだわって無理に高い声などだそうとすると、その為に体つきに妙な癖がついてしまうことがある。
さらには、声帯を傷めて後に中年以後に声が出なくなるというようなことも出来(しゅったい)するので、くれぐれも無理は禁物である。


◎24~25歳

<原文>
この頃、一期の芸能の定まるはじめなり。
さるほどに、稽古の堺なり。
声もすでに直り、体も定まる時分なり。
さればこの道に二つの果報あり。声と身なりなり。
これ二つは、この時分に定まるなり。
年盛りに向かふ芸能の生ずる所なり。
さるほどによそ目にも、すは、上手出で来たりとて、人も目に立つるなり。
もと、名人などなれども、当座の花に珍しくして、立合勝負にも一旦勝つ時は、人も思ひ上げ、主も上手と思ひしむるなり。
これ、かへすがへす主のため仇なり。
これもまことの花にはあらず。
年の盛りと、見る人の一旦の心の、珍しき花なり。
まことの目利きは見分くべし。
この頃の花こそ初心と申す頃なるを、極めたるやうに主の思ひて、はや申楽にそばみたる輪説(りんぜつ)とし、至りたる風体をする事、あさましき事なり。
たとひ人も褒め、名人などに勝つとも、これは一旦、珍しき花なりと思ひ悟りて、いよいよ物まねをも直ぐに為(し)定め、なを得たらん人に事を細かに問ひて、稽古をいや増しにすべし。
されば時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり。
ただ人ごとに、この時分の花に迷ひて、やがて花の失するをも知らず。
初心と申すは、この頃の事なり。
一、公案して思ふべし。
わが位のほどをよくよく心得ぬれば、それほどの花は、一期失せず。
位より上の上手と思へば、もとありつる位の花も失するなり。
よくよく心得べし。


<現代語訳>
このころ、一生の芸能の位が定まる、ちょうどその分れ目の所に当たっている。
だから、稽古もここが肝心かなめの所である。
変声期は既に終わり、体も安定してくる。
しかるに、能という芸能にとっては、二つの幸いがなくてはならぬ。
声と体の二つである。
この二つはまさにこの時期に善し悪しが定まると言ってよい。
そうして、これから段々に全盛期に向かっていく本格的芸能の生まれてくる時期がこの頃なのだと言うことが出来るであろう。
さあ難しいのはここである。
なにしろこの時期には、第三者から見ても「ややっ、これは上手な役者が出てきたぞ」というような事になって、やたら称賛を浴び、人目に立つということがある。

その為に、たまさか名人と呼ばれるような人と能の立会い菖蒲をして、若造のくせに勝ったりする事もある。
これはしかし、叙上の意味でかりそめの物珍しさの魅力で勝っただけなのだが、それでも廻りはチヤホヤするだろうし、勝った本人はすっかり舞い上がって、己はもう上手の位に上がったのだと思いこんでしまう。
これは返す返すも本人の為にならぬ。
この時分の魅力というものもまた、まことの花ではない。
若盛りの美しさと、まだ物珍しさが見るほうにあるための、かりそめばかりの魅力なのだ。
そのところを、本当に目の利く人はちゃんと見分るであろう。
この時期の花こそ、芸道にとっては、ようやく「初心」という程度のことなのであるが、もういっぱし芸を窮めたようなつもりになってしまう者もいて、申楽を演ずるにもなにやら変則的なやり方で演じて見せたりして、いわゆる名人気取りの様子をすることは、これまことに浅ましいことと言わねばならぬ。
それでたとい人も褒め、立会いの勝負で本当の名人に勝つことがろうとも、それはほんの一時の「物珍しさの魅力」なのだと自らに思い定めて、ますますまっすぐに定式通りの写実演技をするように励み、より高い芸格の役者衆にあれこれと細かなところまで教えを乞い、稽古はさらにいや増しに尽すのがよい。
すなわち、こういうことである。

一時かりそめの花をほんとうの花だと思いこんでしまう心が、真実の花に遠ざかる心である。
そんなふうにして、誰もかれも、この一時かりそめの花を褒められて有頂天になる結果、すぐにその花は失せてしまうのだということも悟らない。
「初心」というのは、子供時代のことでない。
まさにこの人も褒める若盛りのことなのである。

一、各自内省熟慮して思うべきことがある。
己の芸の格をよくよく心得て勘違いしないようにしていれば、それ相応の花は一生のあいだ失せることがない。
しかし、慢心して相応の位よりも上手なのだと思い込んだら最後、それまで持っていた花もすべて消え失せてしまうのだということである。
このあわいをよくよく思っておかなくてはならぬ。







「風姿花伝の構成②」

2021-02-22 08:10:33 | 日本
◎風姿花伝第一 「年来稽古条々」十七・八

<原文>
この頃は、またあまりの大事にて、稽古多からず。
まづ声変はりぬれば、第一の花、失せたり。
体も腰高になれば、かかり失せて、過ぎし頃の、声も盛りに、花やかに、やすかりし時分の移りに、手だてはたと変はりぬれば、気を失ふ。
結句(けつく)見物衆(けんぶつしゆ)も、をかしげなるけしき見えぬれば、恥づかしさと申し、かれこれ、ここにて退屈するなり。
この頃の稽古には、ただ指をさして人に笑はるるとも、それをば顧みず、内にては、声の届かんずる調子にて、宵・暁の声を使ひ、心中には願力を起こして、一期の境ここなりと、生涯にかけて能を捨てぬよりほかは、稽古あるべからず。
ここにて捨つれば、そのまま能は止まるべし。
総じて調子は声によるといへども、黄鐘(おうしき)・盤渉(ばんしき)をもて用ふべし。
調子にさのみかかれば、身なりに癖出で来るものなり。
また声も、年寄りて損ずる相なり。


<現代語訳>
この年頃はまた、なんとしても難しい時期で、稽古をしすぎてはいけない。
まず声変わりということがある。
これによって少年期の艶めかしさは失せる。
また体つきも、手足が伸びて変に腰高な風情になるので、見ていて不安定な感じがする為に第一姿が悪くなる。
それまでは声も朗々として美しく、姿は華やかであってなんでも自在にできた時期であったけれど、そのあとでなにもかもがぱたっと一変してしまうわけだから、どうしてもここで気力が萎えてしまう。
その結果、見物の人たちも、ありゃ変だなあと思っているらしい様子がそれとなく分かるので、やっぱり恥ずかしいし、それやこれやでこの年齢の頃に挫折してしまう事が多い。
だから、この時期の稽古は、舞台では指さしして嘲られることがあろうとも、それは気にかけないこと、そして家に帰ってからは、あまり無理な高声など使わずに、そこそこ届く程度の高さの声で、宵には十分に声を出し、朝にはちょっと控えめにして発声を整える。
心の中に神仏かけての願力を奮い立たせて、おのれの一生の分かれ目はここだ、と覚悟し、これから先、生涯をかけて能を捨てずに精進するということの他には稽古の方法もないのである。

そうして、この時期に諦めてしまったら、もうそれっきり能は行き止まりとなる。
概して、声の高低は生まれつきで決まっているものだが、それでもおおかたの所を申すならば、この変声期の時期には「黄鐘(おうしき)・盤渉(ばんしき)」あたりまでの所の声を使うのがよろしい。
調子にこだわって無理に高い声などだそうとすると、その為に体つきに妙な癖がついてしまうことがある。
さらには、声帯を傷めて後に中年以後に声が出なくなるというようなことも出来(しゅったい)するので、くれぐれも無理は禁物である。


◎24~25歳

<原文>
この頃、一期の芸能の定まるはじめなり。
さるほどに、稽古の堺なり。
声もすでに直り、体も定まる時分なり。
さればこの道に二つの果報あり。声と身なりなり。
これ二つは、この時分に定まるなり。
年盛りに向かふ芸能の生ずる所なり。
さるほどによそ目にも、すは、上手出で来たりとて、人も目に立つるなり。
もと、名人などなれども、当座の花に珍しくして、立合勝負にも一旦勝つ時は、人も思ひ上げ、主も上手と思ひしむるなり。
これ、かへすがへす主のため仇なり。
これもまことの花にはあらず。
年の盛りと、見る人の一旦の心の、珍しき花なり。
まことの目利きは見分くべし。
この頃の花こそ初心と申す頃なるを、極めたるやうに主の思ひて、はや申楽にそばみたる輪説(りんぜつ)とし、至りたる風体をする事、あさましき事なり。
たとひ人も褒め、名人などに勝つとも、これは一旦、珍しき花なりと思ひ悟りて、いよいよ物まねをも直ぐに為(し)定め、なを得たらん人に事を細かに問ひて、稽古をいや増しにすべし。
されば時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり。
ただ人ごとに、この時分の花に迷ひて、やがて花の失するをも知らず。
初心と申すは、この頃の事なり。
一、公案して思ふべし。
わが位のほどをよくよく心得ぬれば、それほどの花は、一期失せず。
位より上の上手と思へば、もとありつる位の花も失するなり。
よくよく心得べし。


<現代語訳>
このころ、一生の芸能の位が定まる、ちょうどその分れ目の所に当たっている。
だから、稽古もここが肝心かなめの所である。
変声期は既に終わり、体も安定してくる。
しかるに、能という芸能にとっては、二つの幸いがなくてはならぬ。
声と体の二つである。
この二つはまさにこの時期に善し悪しが定まると言ってよい。
そうして、これから段々に全盛期に向かっていく本格的芸能の生まれてくる時期がこの頃なのだと言うことが出来るであろう。
さあ難しいのはここである。
なにしろこの時期には、第三者から見ても「ややっ、これは上手な役者が出てきたぞ」というような事になって、やたら称賛を浴び、人目に立つということがある。

その為に、たまさか名人と呼ばれるような人と能の立会い菖蒲をして、若造のくせに勝ったりする事もある。
これはしかし、叙上の意味でかりそめの物珍しさの魅力で勝っただけなのだが、それでも廻りはチヤホヤするだろうし、勝った本人はすっかり舞い上がって、己はもう上手の位に上がったのだと思いこんでしまう。
これは返す返すも本人の為にならぬ。
この時分の魅力というものもまた、まことの花ではない。
若盛りの美しさと、まだ物珍しさが見るほうにあるための、かりそめばかりの魅力なのだ。
そのところを、本当に目の利く人はちゃんと見分るであろう。
この時期の花こそ、芸道にとっては、ようやく「初心」という程度のことなのであるが、もういっぱし芸を窮めたようなつもりになってしまう者もいて、申楽を演ずるにもなにやら変則的なやり方で演じて見せたりして、いわゆる名人気取りの様子をすることは、これまことに浅ましいことと言わねばならぬ。
それでたとい人も褒め、立会いの勝負で本当の名人に勝つことがろうとも、それはほんの一時の「物珍しさの魅力」なのだと自らに思い定めて、ますますまっすぐに定式通りの写実演技をするように励み、より高い芸格の役者衆にあれこれと細かなところまで教えを乞い、稽古はさらにいや増しに尽すのがよい。
すなわち、こういうことである。

一時かりそめの花をほんとうの花だと思いこんでしまう心が、真実の花に遠ざかる心である。
そんなふうにして、誰もかれも、この一時かりそめの花を褒められて有頂天になる結果、すぐにその花は失せてしまうのだということも悟らない。
「初心」というのは、子供時代のことでない。
まさにこの人も褒める若盛りのことなのである。

一、各自内省熟慮して思うべきことがある。
己の芸の格をよくよく心得て勘違いしないようにしていれば、それ相応の花は一生のあいだ失せることがない。
しかし、慢心して相応の位よりも上手なのだと思い込んだら最後、それまで持っていた花もすべて消え失せてしまうのだということである。
このあわいをよくよく思っておかなくてはならぬ。







「風姿花伝の構成①」

2021-02-21 08:05:37 | 日本

1.風姿花伝第一 「年来稽古条々(ねんらいのけいこのじようじよう)」
2.風姿花伝第二 「物学条々(ものまねのじようじよう)」
3.風姿花伝第三 「問答条々(もんどうのじようじよう)」
4.風姿花伝第四 「神儀云(じんぎにいわく)」
5.第五 「奥義云(おうぎにいわく)」
6.花伝第六 「花修云(かしゆにいわく)」
7.花伝第七 「別紙口伝(べつしのくでん)」


◎風姿花伝の内容

「秘すれば花」

<原文>
秘する花を知ること。秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず、となり。
この分け目を知ること、肝要の花なり。
そもそも一切の事、諸道芸において、その家々に秘事と申すは、秘するによりて大用あるがゆゑなり。
しかれば、秘事といふことをあらはせば、させることにてもなきものなり。
これを、「させることにてもなし。」と言ふ人は、いまだ秘事といふことの大用を知らぬがゆゑなり。
まづ、この花の口伝におきても、ただ珍しきが花ぞと、みな人知るならば、「さては珍しきことあるべし。」と思ひまうけたらん見物衆の前にては、たとひ珍しきことをするとも、見手の心に珍しき感はあるべからず。
見る人のため、花ぞとも知らでこそ、為手の花にはなるべけれ。
されば、見る人は、ただ思ひのほかにおもしろき上手とばかり見て、これは花ぞとも知らぬが、為手の花なり。
さるほどに、人の心に思ひも寄らぬ感を催す手立て、これ花なり。

<現代語訳>
秘密にする(ことで生まれる)花を知ること。秘密にすれば花であり、秘密にしなければ花になることはできない、ということなのだ。
この(花となるか、ならないかの)分け目を知ることが、「花」について肝心・大切なところである。
ところで全てのこと、もろもろの芸道において、その(それぞれの専門の)家々に秘密のことと申しあげるのは、秘密にすることによって大きな効用があるからである。
だから、秘事ということを明らかにすると、大したことでもないものなのだ。
これを、「大したことでもない。」と言う人は、まだ秘事ということの大きな効用を知らないからである。


◎風姿花伝第一 「年来稽古条々」七歳

<原文>
一、この芸において、おほかた、七歳をもてはじめとす。
このころの能の稽古、必ず、その者、自然と為出だす事に、得たる風体あるべし。
舞・はたらききの間、音曲、もしくは怒れる事などにてもあれ、ふと為出ださんかかりを、うち任せて、心のままにせさすべし。
さのみに、よき、あしきとは教ふべからず。
あまりにいたく諫むれば、童は気を失ひて、能、ものくさくなりたちぬれば、やがて能は止まるなり。
ただ音曲・はたらき・舞などならではさせすべからず。
さのみの物まねは、たとひすべくとも、教ふまじきなり。
大場などの脇の申楽(さるがく)には立つべからず。
三番・四番の、時分のよからむずるに、得たらん風体をさせすべし。

<現代語訳>
一、能楽の稽古は、だいたい七歳の時分に始めるのが良い。
この頃の能の稽古というものは、ともかく自然に任せるという事が肝心である。
どんな子でも、それぞれがやりたいようにやらせておくと、その自然に出てくるやり方の中に、必ず個性的な有様が見えてくるものだ。
舞いや仕草の中に、また謡いにのせての所作はもとより、更には例えば怒気を含んだ鬼物の所作などの場合であっても、本人が何心もなく思いついて見せる動きなど、みなその子の好きなように、心のままにやらせておくのが良い。
この時分には、「こうすると良い」とか「そうしちゃいけない」とか、事細かに教えるのはかえってよくない。
あまり口うるさくあれこれと注意すると、子供というものはやる気をなくして、能なんて面倒くさいなぁと思って怠る心が出来るから、すなわちそこで能の進歩は行き止まりとなる。
そうして、子供には、謡い、しぐさ、舞い、という基礎的な事だけを教えて、それ以上のことはさせてはいけない。
子供の中には、もっと手の込んだ写実的演技などもさせれば出来る者もいるけれど、あえてさようなことは教えぬほうがよいのだ。
格の高い大きな場所での脇能(初番の神能)のようなものには出演させてはいけない。
三番目の女の舞いを主眼とした能か、四番目の世話物の能あたりの、ちょうどよさそうな時分に、その子のもっとも得意とする役柄で出してやるのがよろしい。


◎風姿花伝第一 「年来稽古条々」十二・三

<原文>
この年の頃よりは、はや、やうやう声も調子にかかり、能も心づく頃なれば、次第次第に物数(ものかず)をも教ふべし。
まづ童形なれば、なにとしたるも幽玄なり。
声も立つ頃なり。二つのたよりあれば、わろき事は隠れ、よき事はいよいよ花めけり。
おほかた、児(ちご)の申楽(さるがく)に、さのみに細かなる物まねなどはせさすべからず。
当座も似合はず、能も上らぬ相なり。
ただし堪能(かんのう)になりぬれば、何としたるもよかるべし。
児といひ、声といひ、しかも上手ならば、なにかはわろかるべき。
さりながらこの花は、まことの花にあらず。ただ時分の花なり。
さればこの時分の稽古、すべてすべてやすきなり。
さるほどに一期(いちご)の能の定めにはなるまじきなり。
この頃の稽古、やすき所を花に当てて、わざをば大事にすべし。
はたらきをもたしやかに、音曲をも文字にさはさはと当たり、舞をも手を定めて、大事にして稽古すべし。

<現代語訳>
このくらいの年齢になれば、謡う声もだんだんと能の音階に合わせられるようになり、もう内容的な事もちゃんと理解出来る頃であるから、謡い、舞い、演技とも、順々に少しずつ数多くのことがらを教えてよい。
なにぶんにも、華やかな稚児姿なので、何をどのように演じようとも華やいだ美しさがある。
しかも、声もよく通るようになっている。
この二つの美点があるのだから、欠点は目立たず、良いところはますます華やかに見えてくる。
とはいえ、概してこうした稚児たちの申楽には、あんまり細密な写実演技などさせるものではない。そうい
うのは、目の当たりに見ていてもいっこうに似つかわしいとは思えないものだし、また将来上達がとまるもといである。
ただし、この年代の子供の中には、どうかするととても達者になんでも出来る者がある。
そういう稚児は、何をどう演じてもよろしかろう。
なにしろ、姿はお稚児の華やかさ、声も朗々と響く、しかも上手に演ずる子とくれば、そりゃ何をやっても悪かろうはずがない。
とはいいながら、この花は本物の花ではない。
言ってみれば、ちょうど良い年齢ゆえの花であるに過ぎないのだ。
かかる花が備わっているからして、この時分の稽古はなんでも容易に出来てしまうところがある。
だからといって、この時分の稽古で達成したことが一生の芸の格として身につくというわけでもない。
したがって、この時分の稽古は、年齢相応のやりやすいところを舞台で華やかに見せるようにして、一方、一つ一つの基礎的な技を丁寧に稽古することが肝心である。
すなわち、動作を確実にし、謡いは発音を正しく明瞭にするように心がけ、舞いも一つ一つの所作をきちんと守って、大事に大事に稽古しなくてはいけない。














「風姿花伝意訳」

2021-02-20 08:26:16 | 日本

◎幼年期 7歳ころ

「能では、7歳ごろから稽古を始める。この年頃の稽古は、自然にやることの中に風情があるので、稽古でも自然に出てくるものを尊重して、子どもの心の赴むくままにさせたほうが良い。良い、悪いとか、厳しく怒ったりすると、やる気をなくしてしまう。」
世阿弥は、親は子どもの自発的な動きに方向性だけを与え、導くのが良いという考え方を示しています。親があまりにも子どもを縛ると、親のコピーを作るだけで、親を超えていく子どもにはなれない、という世阿弥のことばには含蓄があります。


◎少年期 12~13歳

12〜13歳の少年は、稚児の姿といい、声といい、それだけで幽玄を体現して美しい、と、この年代の少年には、最大級の賛辞を贈っています。しかし、それはその時だけの「時分の花」であり、本当の花ではない。だから、どんなにその時が良いからといって、生涯のことがそこで決まるわけではない、と警告もしています。
少年期の華やかな美しさに惑わされることなく、しっかり稽古することが肝心なのです。


◎少年後期 17~18歳

この時期を世阿弥は、人生で最初の難関がやってくる頃と言っています。
「まず声変わりぬれば、第一の花失せたり」
能では、少年前期の声や姿に花があるとしていますが、声変わりという身体上の変化が加わり、その愛らしさがなくなるこの時期は、第一の難関なのです。
こんな逆境をどう生きるか。世阿弥は、「たとえ人が笑おうとも、そんなことは気にせず、自分の限界の中でムリをせずに声を出して稽古せよ」と説いています。
「心中には、願力を起こして、一期の堺ここなりと、生涯にかけて、能を捨てぬより外は、稽古あるべからず。ここにて捨つれば、そのまま能は止まるべし」
周りからも、本人も才能があると思っていたことが、身体の発育というどうしようもないことにぶつかり絶望する。しかし、そういう時こそが、人生の境目で、諦めずに努力する姿勢が後に生きてくる。
限界のうちで進歩がない時には、じっと耐えることが必要だ。そこで絶望したり、諦めたりしてしまえば、結局は自分の限界を超えることができなくなる。無理せず稽古を続けることが、次の飛躍へと続くのです。


◎青年期 24~25歳ころ

この頃には、声変わりも終わり、声も身体も一人前となり、若々しく上手に見えます。人々に誉めそやされ、時代の名人を相手にしても、新人の珍しさから勝つことさえある。新しいものは新鮮に映り、それだけで世間にもてはやされるのです。
そんな時に、本当に名人に勝ったと勘違いし、自分は達人であるかのように思い込むことを、世阿弥は「あさましきことなり」と、切り捨てています。
「されば、時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になお遠ざかる心なり。ただ、人ごとに、この時分の花に迷いて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すはこのころの事なり」(新人であることの珍しさによる人気を本当の人気と思い込むのは、「真実の花」には程遠い。そんなものはすぐに消えてしまうのに、それに気付かず、いい気になっていることほど、おろかなことはない。そういう時こそ、「初心」を忘れず、稽古に励まなければならない。)
自分を「まことの花」とするための準備は、「時分の花」が咲き誇っているうちにこそ、必要なのです。


◎壮年期 34~35歳ころ

この年頃は、ちょうど世阿弥が風姿花伝を著した時期と重なります。世阿弥は、この年頃で天下の評判をとらなければ、「まことの花」とは言えないと言っています。
「上がるは三十四、五までのころ、下がるは四十以来なり」
上手になるのは、34〜35歳までである。40を過ぎれば、ただ落ちていくのみである。だから、この年頃に、これまでの人生を振り返り、今後の進むべき道を考えることが必要なのだというのです。34〜35歳は、自分の生き方、行く末を見極める時期なのです。


◎壮年後期 44~45歳ころ

「よそ目の花も失するなり」
この時期についてのべた世阿弥のことばです。どんなに頂点を極めた者でも衰えが見え始め、観客には「花」があるように見えなくなってくる。この時期でも、まだ花が失せないとしたら、それこそが「まことの花」であるが、そうだとしても、この時期は、あまり難しいことをせず、自分の得意とすることをすべきだ、と世阿弥は説きます。
この時期、一番しておかなければならないこととして世阿弥が挙げているのは、後継者の育成です。自分が、体力も気力もまだまだと思えるこの時期こそ、自分の芸を次代に伝える最適な時期だというのです。
世阿弥は、「ワキのシテに花をもたせて、自分は少な少なに舞台をつとめよ」ということばを残しています。後継者に花をもたせ、自分は一歩退いて舞台をつとめよ、との意で、「我が身を知る心、得たる人の心なるべし」(自分の身を知り、限界を知る人こそ、名人といえる)と説くのです。


◎老年期 50歳以上

能役者の人生最後の段階として、50歳以上の能役者について語っています。
『風姿花伝』を書いた時、世阿弥は36〜37歳だったので、この部分は、自分の父である観阿弥のことを思い、書いていると言われています。
「このころよりは、おおかた、せぬならでは手立てあるまじ。麒麟も老いては駑馬に劣ると申すことあり。さりながら、まことに得たらん能者ならば、物数は皆みな失せて、善悪見どころは少なしとも、花はのこるべし」(もう花も失せた50過ぎの能役者は、何もしないというほかに方法はないのだ。それが老人の心得だ。それでも、本当に優れた役者であれば、そこに花が残るもの。)
この文章に続けて世阿弥は、観阿弥の逝去する直前の能について語っています。観阿弥は、死の15日前に、駿河の浅間神社で、奉納の能を舞いました。

「その日の申楽、ことに花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり」
「能は、枝葉も少なく、老木になるまで、花は散らで残りしなり」
観阿弥の舞は、あまり動かず、控えめな舞なのに、そこにこれまでの芸が残花となって表われたといいます。これこそが、世阿弥が考えた「芸術の完成」だったのです。老いても、その老木に花が咲く。それが世阿弥の理想の能だったのです。
世阿弥が説く7段階の人生は、何らかを失う、衰えの7つの段階であるともいえます。少年の愛らしさが消え、青年の若さが消え、壮年の体力が消える。何かを失いながら人は、その人生を辿っていきます。しかし、このプロセスは、失うと同時に、何か新しいものを得る試練の時、つまり初心の時なのです。「初心忘るべからず」とは、後継者に対し、一生を通じて前向きにチャレンジし続けろ、という世阿弥の願いのことばだといえるかもしれません。














「風姿花伝とは、」

2021-02-19 08:00:51 | 日本

風姿花伝について学ぶ


風姿花伝(ふうしかでん)は、世阿弥が記した能の理論書。世阿弥の残した21種の伝書のうち最初の作品。亡父観阿弥の教えを基に、能の修行法・心得・演技論・演出論・歴史・能の美学など世阿弥自身が会得した芸道の視点からの解釈を加えた著述になっている。

成立は15世紀の初め頃。全七編あり、最初の三つが応永7年(1402年)に、残りがその後20年くらいかけて執筆・改訂されたと考えられている。「幽玄」「物真似」「花」といった芸の神髄を語る表現はここにその典拠がある。最古の能楽論の書であり、日本最古の演劇論とも言える。
多くの人に読まれ始めたのは20世紀に入った明治42年(1909年)に吉田東伍が学会に発表してからで、それまでは能楽流派の奈良金春宗家の相伝の「秘伝書」の形で、その存在すらほとんど知られていなかった。『花伝書』の通称が用いられていた頃もあったが、後の研究の結果現在では誤称とされる。

能の芸道論としても読める一方、日本の美学の古典ともいう。Kadensho、Flowering Spiritなどの題名で何度か外国語訳もされ、日本国外でも評価されている。


◎世阿弥の生涯

風姿花伝を書いた世阿弥は、猿楽師である太夫観阿弥清次(たゆうかんあみきよつぐ)の長男として生まれました。
幼名は鬼夜叉(おにやしゃ)と付けられましたが、たいそう美しい顔立ちだったそうです。
早くから芸の才能を開花していった世阿弥でしたが、22歳の時に父が亡くなってしまいます。
この難局の中でも激しい稽古と研究によって芸を磨き続け、一躍スターの座に登り詰めていきます。
風姿花伝の1〜3巻まではこの頃(30代)に書かれたといわれています。

その後40代になり、世阿弥の理解者であった足利義満が亡くなると、徐々に人気にも陰りがみえはじめます。
60代になると世阿弥は家督を長男に譲り、自身は出家してしまいます。

後年は禅宗に傾倒していった世阿弥でしたが、後にその長男も亡くなった事もあり一座は破滅。
自身もなんらかの罪によって佐渡に流されてしまいます。
その後の詳細はわかっていませんが、芸の道を極めた世阿弥の最期は、暗いものであったといわれています。









「斎藤隆夫の反軍演説とは、」

2021-02-18 07:54:22 | 日本

反軍演説(はんぐんえんぜつ)は、1940年(昭和15年)2月2日に帝国議会衆議院本会議において立憲民政党の斎藤隆夫が行った演説。日中戦争(支那事変)に対する根本的な疑問と批判を提起して、演説した。この演説により、3月7日、斎藤は衆議院議員を除名された。この経緯は言論弾圧としても扱われる。なお、「支那事変処理を中心とした質問演説」や「支那事変処理に関する質問演説」を、一般的に「反軍演説」と称している。


◎経緯

・演説まで
斎藤は「粛軍演説」で軍部の政治関与を批判するなど、国民からの注目を浴びるも、警察・軍部から監視され、脅迫状などの攻撃も受けた。「国家総動員法案に関する質問演説」において、国家総動員法の危険性を指摘するも、立憲政友会と立憲民政党の二大政党は斎藤の主張を無視し、全会一致で成立。その後、過労から転倒して打撲し、脳梗塞の疑いで病床に着く。日中戦争の長期化につれ、病床の斎藤の元へ日増しに、「なぜ、斎藤は沈黙するのか」という類の手紙が増加し、国民の声を議会に届けるべく、「国家総動員法反対演説」から2年ぶりの登壇を決意。1939年11月18日原稿の起草に着手、演説の練習を繰り返す。

1940年1月14日、阿部信行内閣が総辞職し、16日、ドイツに接近する軍部と異なり、親英米派である米内光政内閣が成立した。その後召集された、第75議会の衆議院本会議での、2月2日の議題「国務大臣の演説に対する質疑」における、立憲民政党所属の当時71歳、斎藤隆夫による1時間半に及ぶ午後3時からの「支那事変処理を中心とした質問演説」である。久しぶりの斎藤の演説ということで、傍聴席は満員であった。
議会召集後、民政党院内主任総務俵孫一に質問の旨を通告し、総裁町田忠治は質問に否定的な意向であったが、斎藤はこれを無視。
米内総理、閣僚の演説の後、民政党小川郷太郎の原稿朗読演説、立憲政友会中島派東郷実の演説の後に斎藤が演壇に立った。


◎演説

斎藤によれば、演説の要点は以下の通りである。

・第一は、近衛声明なるものは事変処理の最善を尽したるものであるかどうか
・第二は、いわゆる東亜新秩序建設の内容は如何なるものであるか
・第三は、世界における戦争の歴史に徴し、東洋の平和より延(ひ)いて世界の平和が得らるべきものであるか
・第四は、近く現われんとする支那新政権に対する数種の疑問
・第五は、事変以来政府の責任を論じて現内閣に対する警告等

「演説中小会派より二、三の野次が現われたれども、その他は静粛にして時々拍手が起こった」と、演説中の議場は静かであったことを記している。そして、「しかし、議場には何となく不安の空気が漂うているように感ぜられた」と付け加えている。 演説当日の具体的様子として斎藤は、「時局同志会や社民党から私の演説は聖戦の目的を冒涜するものであるという意味の声明を発するようである」と記している。
演説直後、陸軍大臣の畑俊六は「なかなかうまいことを言うもんだな」と感心していたという。また政府委員として聞いていた武藤章(陸軍軍務局長)や鈴木貞一(興亜院政務部長)も「斎藤ならあれぐらいのことは言うだろう」と顔を見合わせて苦笑していたという。
また、衆議院議長で、身内の民政党の小山松寿は斎藤の演説中に「聖戦の美名云々」などのメモを記し、衆議院書記官長大木操に渡し、職権により、演説全体の3分の2程度、約1万字にも及ぶ、軍部批判にあたる箇所を削除させた。大木は抵抗したものの小山に屈し、「私はこの時職を賭して戦うべきであった」とのち、日記で悔いている。大木は秘密会の議事録を、陸軍の焼却要求から守り抜き、日記で斎藤除名の様子を詳細に記述するなど、当問題についての貴重な史料となっている。また、斎藤の演説の全文が新聞各紙の一部地域向けの紙面に掲載されたため、反軍演説が各地に報道されることになった。更に外電で配信され、交戦国の中華民国で大きく報道され、アメリカでも報道された。


◎除名

民政党は、翌日3日早朝、小泉又次郎(党常任顧問)や俵孫一(党主任総務)が斎藤に離党勧告を出すことで事態収拾を図り、斎藤は党に影響を及ぼすのであれば、やむをえないとして、受諾。また、総裁町田忠治の意向を受けていたとされる同僚議員から、自発的に議員辞職をするよう促されたが、断固拒否した。
反軍演説の翌日の院内の様子を、斎藤はこのように描写する。
「政友会中島派、時局同志会、社民党[7]は懲罰賛成に結束し、政友会久原派の多数は反対にみえる。民政党は秘密代議士会を開いて討議しているが、大多数は反対に傾き、幹部攻撃に激論沸騰して容易に収拾すべくみえない」
後日、斎藤は懲罰委員会に出席することとなるが、その委員会では、
「劈頭私は起って質問演説をなすに至りたる経過とその内容の一般を述べ、さらに進んで政友会中島派より提出したる七ヵ条の懲罰理由を逐一粉砕し、かつ逆襲的反問を投じたるに、提出者は全く辟易して一言これに答うること能わず。」

その結果、
「委員会は全く私の大勝に帰し…翌日の新聞紙上には、裁く者と裁かれる者が全く地位を顛倒し、私が凱旋将軍の態度をもって引き上げたと記載したほど」
とその有様を紹介している。
そして3月7日の本会議で、除名の可否の投票が行われた。議場には167名と3分の1弱の空席を出した。民政党は除名賛成に党議拘束をかけたが、斎藤と親しかった岡崎久次郎が除名に反対し、脱党。民政党で唯一の反対票を投じた。残り170名のうち4割強の69名が欠席または棄権をした。政友会は、久原派が71名中27名が棄権・欠席、全会派中最多の5名が反対。軍部寄りの中島派も97名中16名、金光派は10名中4名が棄権・欠席した。軍部寄りの社会大衆党は34名中、賛成であった病欠の麻生を除き10名が棄権・欠席し、時局同志会は30人中5人が棄権。無所属議員は10名のうち、反対1名、棄権・欠席が7名であった。


◎投票結果は以下の通り

・賛成 296名
 浅沼稲次郎・河上丈太郎・河野密・三輪寿壮・三宅正一・亀井貫一郎・杉山元治郎・平野力三・野溝勝・佐竹晴記(以上社会大衆党)・星島二郎・松野鶴平・中井一夫・西岡竹次郎・綾部健太郎(以上政友会久原派)・望月圭介・前田米蔵・島田俊雄・山崎達之輔・中島知久平・船田中・星一・川島正次郎・羽田武嗣郎・岸田正記・宮沢裕・木暮武太夫・田子一民(以上政友会中島派)・金光庸夫(政友会金光派)・木村武雄・清瀬一郎・赤松克麿・三木武夫(以上時局同志会)・内田信也・秋田清・安倍寛(以上第一議員倶楽部)など
・空票 144名
・棄権 121名 
 鳩山一郎・若宮貞夫・大野伴睦・河野一郎・安藤正純・植原悦二郎・林譲治・世耕弘一・三土忠造・森幸太郎(以上政友会久原派)・犬養健(政友会金光派)・田辺七六(政友会中島派)・松永東・松田竹千代・中山福蔵・木檜三四郎・川崎克・矢野庄太郎・工藤鉄男(以上民政党)・水谷長三郎・西尾末広・黒田寿男・松本治一郎・米窪満亮・富吉栄二(以上社会大衆党)・尾崎行雄・馬場元治・田川大吉郎・朴春琴(以上第一議員倶楽部)・安達謙蔵(時局同志会)など
・欠席 23名
 安部磯雄・片山哲・鈴木文治(以上社会大衆党)・坂田道男・砂田重政(以上政友会久原派)・田中万逸・北昤吉・小山邦太郎・林平馬(以上民政党)など
・反対 7名 
 牧野良三・名川侃市・芦田均・宮脇長吉・丸山弁三郎(以上政友会久原派)・岡崎久次郎(民政党)・北浦圭太郎(第一議員倶楽部)

と、反対者はわずか7名と、圧倒的多数の賛成票によって斎藤は衆議院議員を除名された。この投票結果や経緯は、ただ単に軍部の政治介入による結果だけではなく、政党自体が議会制民主主義を破壊したとする「自壊」の面があることも斎藤自身や様々な歴史家らも厳しく指摘している。なお、議長の小山は在職中「スターリンのごとく」発言の西尾末広についで、2人の除名決議の議事に携わったことになる。
除名当日、斎藤は日記にこう書いた。(「斎藤隆夫日記(下巻)」より、一部省略)
(三月)七日

弥々(いよいよ)最後の日来れり。終日在宅。午後木檜三四郎氏来宅。院内の事情を報ず。(中略)
衆議院本会議に於いて予の除名決定す。岡崎久次郎氏離党して反対投票を為(な)す。政友久原派の五名も亦(また)反対投票を為す。出席議員三百二名と報ぜらる。

之(これ)より一年二ヶ月間静養、来年の選挙に捲土重来せん。
(以下、除名に反対した議員の氏名が書かれてある)
その後、民政党は斎藤を見捨てたとして、内外の信用を失い、町田の求心力は落ち、後の解党への流れとなる。政友会久原派も反対した5名に離党勧告、総裁の久原房之助は除名を強行しなかったものの、結果として解党へと向かう。社会大衆党は、書記長麻生久により、党首の安部や片山ら除名に賛成しなかった8名に離党勧告を出し、安部ら8人は離党を拒否し、除名処分を強行、反対派を追放することにより、軍部に従順な態度をより鮮明にした。親軍部の政友会中島派、時局同志会、社大党の主張通り、革新運動が加速し、戦争遂行のための協力体制と称し、大政翼賛会への流れへと直結した。

斎藤は除名された後、次の漢詩を詠んでいる。
吾言即是万人声 (吾が言は、即ち是れ万人の声)
褒貶毀誉委世評 (褒貶毀誉〈ほうへんきよ〉は、世評に委す)
請看百年青史上 (請う百年青史の上を看ることを)
正邪曲直自分明 (正邪曲直、自ずから分明)
なお、反軍演説がなぜ衆議院議員を除名されるという結果まで引きおこしたかについて、斎藤は以下を挙げて説明をしている。

・第一は、政府の無能
・第二は、議長が速記録を削除したこと
・第三は、政党の意気地なきこと


◎除名後の翼賛選挙

衆議院議員除名後には総選挙の延期などがなされた。そして、1942年(昭和17年)の総選挙では、当然、大政翼賛会の推薦はなく非推薦で選挙区の兵庫県5区(但馬選挙区)から立候補した。期間中軍部や翼壮を始めとする選挙妨害や内務省の選挙文書の差押を受けつつも有権者の多大な支持を得て、その結果最高点で、2位と7000票以上の大差で再当選を果たし、見事衆議院議員に返り咲く。


◎斎藤は再選に関して、次のように総括している。

「今回私の選挙は全国民注目の焦点であったが、ここに至りて第七十五議会の私に対する処分は国民の判決によりて根抵より覆えされ、衆議院の無能と非立憲とを暴露すると同時に、私の政治生涯にとりてそれは永く忘るべからざる記念塔である。」


◎逸話

斎藤は反軍演説の練習を鎌倉の海岸で何度も行い、そのためによく声をからしていた。これを心配した斎藤の妻乙女は、海岸へ練習をしに行く斎藤に手製のキャラメルを持たせた。この甲斐あって斎藤は以後、声をからすことなく練習に没頭でき、最終的には演説全文を暗記するまでになった。もちろん当日も原稿を見ることなく演説を果たした。
「我が言は、万人の声〜太平洋戦争前夜、日本を揺るがした国会演説〜」で斎藤の反軍演説である!





<了>

















「斎藤隆夫と反軍演説」

2021-02-17 09:16:09 | 日本

立憲民政党の斎藤隆夫が「支那事変処理に関する質問演説」

昭和15年(1940)2月2日、第75回帝国議会の衆議院本会議において、立憲民政党の斎藤隆夫が、「支那事変処理に関する質問演説」を行ないました。支那事変(日中戦争)をどのようにして終えるのかを質したもので、いわゆる「反軍演説」として知られます。 
昭和12年(1937)7月の盧溝橋事件を発端とする支那事変が始まってから2年半。日本、中華民国(蒋介石政権)ともに宣戦布告を行なわないまま、事態は中国大陸全土を巻き込む戦争状態となっていました。昭和12年12月には、日本軍は国民政府の首都・南京を陥落させますが、蒋介石は国民政府を内陸部の重慶に移し、徹底抗戦の構えを見せ、事変は長期化の様相を呈します。 これに対し、早期終結を目指す参謀本部は長期化に反対。駐華ドイツ大使トラウトマンによる和平工作も模索され、蒋介石も講和に前向きな姿勢を見せていたといわれます。
ところがその機運を壊したのが、近衛文麿首相でした。強硬姿勢に転じた近衛は和平条件のハードルを上げたため蒋介石も態度を硬化、すると近衛内閣は蒋政権との交渉を打ち切り、「帝国政府は爾後、国民政府を対手とせず」という声明を出すに至るのです。本来、日本も蒋介石政権も、最も警戒すべきはソビエト連邦であり、共産主義勢力でした。ところが近衛内閣の交渉打ち切りで、蒋介石との歩み寄りの道は閉ざされ、蒋は張学良を仲介とした共産党との共同戦線で日本に対していくことになるのです。
こうした状況を受けて行なわれたのが、昭和15年2月2日の衆議院本会議における斎藤隆夫の「支那事変処理に関する質問演説」でした。当時の米内光政内閣は、前近衛政権の方針(昭和13年12月22日の近衛声明)を引き継ぐという立場で、斎藤は今に至るまでの国民の多大な犠牲に触れた上で、本当にそれを実行する気があるのか問います。

近衛声明とは、具体的には
1.中国の独立主権を尊重
2.領土・償金を要求しない
3.日本は経済上の独占をやらない
4.第三国の権益の制限を中国に要求しない
5.防共地域である内蒙古を除く地域からの日本軍の撤兵
というものでした。

ところが政府は事変開始から1年半も経ってから、事変処理について「東亜新秩序の建設」と言い始めました。しかもその原理原則は「支那王道の理想」「八紘一宇の皇謨」であるとし、眼前の利益よりも東洋平和、世界平和のために戦う「聖戦」とも言い始めています。
斎藤は「いやしくも国家の運命を担う政治家であれば、理想にとらわれず国家競争の現実に即して国策を立てなければ、国家の将来を誤る」「現実に即さない国策は、一種の空想に過ぎない」と述べ、近衛声明の妥当性を批判しました。

「重慶政府が屈服しない限り、日本軍はあくまでその討伐に向かい、汪兆銘(日本政府が交渉相手とする南京国民政府)は、日本軍に便乗して戦う。これが軍部の方針であろう」

「一方で蒋介石討伐、一方で汪政権の援助という二つの重荷を背負うことは、日本の国力から考えてどうなのか」
「この2年半で3度も内閣が辞職している。こんなことで国難にあたれるのか。それは政府首脳部に責任の観念が欠けているからだ。身を以て国に尽くす熱意が足りないのだ。立憲の大義を忘れ、国論の趨勢を無視し、国民的支持を欠いているから、何ごとにも所信を断行する決意も勇気もない。姑息な帳尻合わせの政治では失敗するのは当たり前だ」

「我々は遡って先輩政治家を追想する必要がある。日清戦争はどうであったか。日清戦争は伊藤博文内閣が始めて、伊藤内閣が解決した。日露戦争は桂太郎内閣が始めて、桂内閣が解決した。日比谷焼き討ち事件も起こったが、桂公は一身に国家の責任を背負い、解決した後に身を退かれた。 伊藤公といい、桂公といい、国に尽くす先輩政治家は斯くの如きである。しかるに事変以来の内閣は何であるか。外で10万の将兵が斃れているにもかかわらず、内で事変の始末をつけるべき内閣は、次々に輔弼の重責を誤って辞職する。内閣は辞職すれば責任を取ったことになるかもしれないが、事変は解決せず、護国の英霊は蘇らないのである」

斎藤はこの演説以前にも、「粛軍演説」というものを行なって、軍部や右翼から圧力をかけられていましたが、それに屈せず、こうした内容を政府・軍部を前に堂々と言ってのけました。
これに対し衆議院議長は書記官長に、軍部批判にあたる全体の3分の2を削除させます。さらに翌日、斎藤の所属する民政党は斎藤に離党を勧告、斎藤は党に迷惑をかけるのであればと承諾しました。後日、斎藤は懲罰委員会にかけられますが、懲罰理由のすべてを論破してのけ、委員たちを沈黙させます。

そして3月7日の衆議院本会議で、斎藤の議員除名の投票が行なわれ、賛成296名、空票144名、反対7名で斎藤の衆議院議員除名が決まりました。しかし斎藤は、昭和17年(1942)の総選挙で、あらゆる妨害を撥ね退けて兵庫県5区でトップ当選し、返り咲くことになります。 当時、こんな政治家もいたことを知っておきたいところです。

















「斎藤隆夫とは、」

2021-02-16 09:49:31 | 日本

斎藤隆夫(さいとう たかお、1870年9月13日〈明治3年8月18日〉 - 1949年〈昭和24年〉10月7日)は、日本の弁護士、政治家である。姓は「齋藤」とも表記する。
帝国議会衆議院において、立憲主義・議会政治・自由主義を擁護し、弁舌により軍部の政治介入に抵抗した。


◎来歴・人物

但馬国出石郡、現在の兵庫県豊岡市出石町中村に斎藤八郎右衛門の次男として生まれる。8歳になり福住小学校に入学したが、12歳の頃「なんとしても勉強したい」という一念から京都の学校で学ぶことになった。ところが彼の期待していた学校生活とは異なり、1年も経たず家へ帰ってきた。その後、農作業を手伝った。
21歳の冬に、東京まで徒歩で移動する。上京後は後に徳島県知事である桜井勉の書生となる。桜井の退官後は桜井からの紹介で同郷但馬の朝来郡出身で大物財界人の原六郎の支援を受ける。1891年(明治24年)9月に東京専門学校(現・早稲田大学)行政科に入学、1894年(明治27年)7月に同校同学科を首席で卒業。同年判事検事登用試験(現・司法試験)に不合格も、翌年1895年(明治28年)弁護士試験(現司法試験)に合格(この年の弁護士試験合格者は1500名余中33名であった)。その後、アメリカのイェール大学法科大学院に留学し公法や政治学などを学ぶ(イェール大学の同窓生という意味では原と斎藤は先輩後輩の間柄になる)。

帰国後の1912年(明治45年・大正元年)養父郡選出の衆議院議員佐藤文平の後継として原の旧知であった斎藤に白羽の矢が立ち立憲国民党より総選挙に出馬、初当選を果たす。以後、1949年(昭和24年)まで衆議院議員当選13回。生涯を通じて落選は1回であった。第二次世界大戦前は立憲国民党・立憲同志会・憲政会・立憲民政党と非政友会系政党に属した。普通選挙法導入前には衆議院本会議で「普通選挙賛成演説」を行った。この間、浜口内閣では内務政務次官、第2次若槻内閣では法制局長官を歴任している。

腹切り問答を行った浜田国松や人民戦線事件で検挙される加藤勘十とともに反ファシズムの書籍を出したり卓越した弁舌・演説力を武器にたびたび帝国議会で演説を行って満州事変後の軍部の政治介入、軍部におもねる政治家を徹底批判するなど立憲政治家として軍部に抵抗した。

・1935年(昭和10年)1月24日、「岡田内閣の施政方針演説に対する質問演説」で「陸軍パンフレット」と軍事費偏重を批判。
・1936年(昭和11年)5月7日(第69特別帝国議会)、「粛軍演説」(「粛軍に関する質問演説」)を行った。
・国家総動員法制定前の1938年(昭和13年)2月24日(第73帝国議会)、「国家総動員法案に関する質問演説」を行った。
・1940年(昭和15年)2月2日(第75帝国議会)、「反軍演説」(「支那事変処理中心とした質問演説」)を行った。

反軍演説が軍部、及び軍部との連携・親軍部志向に傾斜していた議会内の諸党派勢力(政友会革新派(中島派)、社会大衆党、時局同志会など)より反発を招き、3月7日に議員の圧倒的多数の投票により衆議院議員を除名された。しかし1942年(昭和17年)総選挙では軍部などからの選挙妨害をはねのけ、翼賛選挙で非推薦ながら兵庫県5区から最高点で再当選を果たし衆議院議員に返り咲く。
第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)11月、日本進歩党の創立に発起人として参画、翌年の公職追放令によって進歩党274人のうち260人が公職追放される中、斎藤は追放を免れ総務委員として党を代表する立場となり翌1946年(昭和21年)に第1次吉田内閣の国務大臣(就任当時無任所大臣、後に初代行政調査部総裁)として初入閣する。

1947年(昭和22年)3月には民主党の創立に参加、同年6月に再び片山内閣の行政調査部総裁として入閣、民主党の政権への策動に反発し1948年(昭和23年)3月に一部同志とともに離党。日本自由党と合体して民主自由党の創立に参加、翌年心臓病と肋膜炎を併発し、東大物療内科で死去。

享年79。
故郷の出石に記念館「静思堂」がある。


◎栄典

・1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章


◎演説
「普通選挙賛成演説」、「粛軍演説」、「反軍演説」を斎藤の三大演説と扱われる。
大正14年3月2日に衆議院本会議で行われた演説は帝国議会速記録に公開されており、演説後の登壇者に「齋藤君は二時間以上も喋って」という発言が見られる。

◎粛軍に関する質問演説

◎岡田内閣の施政方針演説に対する質問演説

◎国家総動員法案に関する質問演説
「政府の独断専行に依って、決したいからして、白紙の委任状に盲判を捺してもらいたい。これよりほかに、この法案すべてを通じて、なんら意味はないのである..」

など議会の審議、決議なしで国民を戦時体制のために統制する国家総動員法の危険性を指摘した。
演説後、同僚議員に「この案はあまりに政党をなめている」「僕は自由主義最後の防衛のために一戦するつもりだ」と語っている。しかし斎藤の反対もむなしく、懐疑的であった二大政党もついに賛成に回り国家総動員法は可決された。

◎支那事変処理中心とした質問演説


◎逸話

「ネズミの殿様」とのあだ名で国民から親しまれ、愛され、尊敬された政治家であり、その影響力は尾崎行雄、犬養毅に並ぶと言っても過言ではないほどであった。あだ名の由来は小柄でイェール大学に通っていた時に肋膜炎を再発し肋骨を7本抜いた影響で演説の際、上半身を揺らせる癖があったことによる。

反軍演説で除名処分を受けた後、「第七十五帝国議会去感」という一編の漢詩を残している。
吾言即是万人声 (吾が言 即ち是れ万人の声)
褒貶毀誉委世評 (褒貶毀誉は世評に委ねん)
請看百年青史上 (請う看よ 百年青史の上)
正邪曲直自分明 (正邪曲直 自ずから分明なるを)











「田中正造の名言」

2021-02-14 09:11:21 | 日本

・「亡国に至るを知らざれば、これ即ち亡国の儀に付き」

・民を殺すは国家を殺すなり、法を蔑ろ(ないがしろ)にするは、国家を蔑ろにするなり」

・民を殺し法を乱して、」亡びざる国家はなし」

・「今よりのちは、この世にあるわけの人にあらず、今日生命あるは、間違いにて候」

・「人のためになすには、辛酸を共にして、その人となるべし」

・「天に登は山に登るより急なり、欲を捨て傲慢(ごうまん)を捨て、私欲という重き罪の荷物を捨て登らねば、登れぬなり」

・「美なる小石の人に蹴られて、車に砕かれるを忍びざればなり」

・辛酸亦入佳境」(しんさんまた、かきょうにいる)


◎田中正造の祖について

『姓氏』(樋口清之監修・丹羽基二著)によると、『尊卑分脈』に記している岩松氏の一族という。足利義純の子の時朝(岩松時兼の弟、畠山泰国の兄)が田中次郎と称し、足利郡田中郷に定着したと伝わる。子の田中時国、孫の満国は足利尊氏に従い、戦功を立てて正造の代まで至ったという。


◎その他のエピソード

・正造の天皇直訴の当時、盛岡中学(現・岩手県立盛岡第一高等学校)の学生であった石川啄木は、天皇直訴の報を聞いて、「夕川に 葦は枯れたり 血にまどふ 民の叫びのなど悲しきや」と、その思いを三十一文字に託した。

・1973年、画仙紙に書かれた田中正造直筆の書などが「田中正造の墨跡」として栃木県有形文化財に指定された。なお、この文化財は2018年時点、所在が不明となっている。



<了>