龍の声

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「日本国憲法第九条の草案者は誰か?」

2015-05-29 07:59:28 | 日本

ワシーリー・モロジャコフ氏の論文「日本国憲法第九条の草案者は誰か?」を要約し記す。



1945年12月10日公判を待つために東京の巣鴨拘置所に拘留中の、前駐伊大使で同時に「A級戦犯」であった白鳥敏夫は、吉田茂外相(当時)あての長文の手紙を書き終えた。手紙は英語で書かれていた。拘置所の検閲を難なくすり抜けられるようにするためか、それとも手紙が占領軍本部の目に留まるようにするためなのか。占領軍に読ませるためだったとの可能性が濃厚であったとみられる。


◎日本国憲法「第九条」の草案者は誰か?(元記事)

白鳥は、1930年代初頭に天皇陛下の報道官だった頃の回想から始めている:

3年間の報道官の職務のお蔭で、私は、頻繁に間近で天皇陛下をお見かけし、陛下のお人柄を知り得る、非常に稀な機会を得た。その結果、私は、天皇陛下が、生まれ持って平和を愛しておられ、真実を尊重し、真に日本国民の平安に心を砕かれていることを深く確信した。特に、陛下は、国際関係に関心をもっておられ、他国と善隣関係を保ちたいとお考えになっていたようだ。私は陛下は本能的に軍人に不信感を抱いており、大元帥という肩書と公の場で着なければならない軍服を最悪なものと感じていたと私には思われた。

白鳥は、どこまで正直にこのような天皇の姿を描いたのだろうか?このように天皇を描写することで誰かを納得させたかったのだろうか?吉田茂は、この手紙を書いた白鳥本人よりも、昭和天皇の実像をよく知っていたと考えられる。従って手紙のこの部分は、占領軍に向けられたものだったのではないだろうか。

天皇は「戦犯」として東京裁判に召喚されるのか、玉座からの退位を強制されるのか、もしくは、統治権の総攬者(そうらん)ではなくなり日本国と日本国民統合の「象徴」たる君主として存続するのか。この時期、占領軍は、天皇の今後の運命についてまだ最終決定を下していなかった。


◎興味深い憲法改正に関する記述

この手紙の中で最も興味深い部分は、その結語である。白鳥は、憲法改正問題に触れながら(全面的な改正についてはまだ言及していない)、(いかなる状況にあっても自らの国民を戦争に参加させないこと、どのような政権下のどのような形であっても、国民は兵務を拒否できる権利、国の資源の軍事的な目的での使用を一切なくすことに対する天皇の誓いが含まれた条文)を盛り込むことを提案している。

白鳥は、(日本が、真に平和国家たらんとするならば、(このような提案が)新生日本の基本法の礎石とならなくてはならない)としている。

さらに”(天皇の使命は、平和と安らぎの中で我が国を統治すること),(それは、憲法制度において、まったく新しいものとなる)と添えている。

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

戦争放棄をうたった1947年の憲法第9条は、全世界的な意味での革新的な条文となった。1945年9~10月の時点で、国民の願いという形ではあるが、日本のマスコミも戦争放棄を呼びかけてはいたが、白鳥の手紙は、時系列的に見て「永久的な戦争放棄」の原則を憲法に用いた最初の試みであった。ここで、この手紙を、広く知られている出来事や史実と同じ文脈の中で、もう一度見ていきたい思う。


◎誰が白鳥の手紙をGHQに受け渡したか不明

吉田は、戦前、白鳥からの依頼を受け、長年にわたり外相を務めていた幣原喜重郎を白鳥に紹介したことがある。1946年1月20日以前に、手紙は、連合国軍最高司令官であるマッカーサーの総司令部に届けられていたが、一体、誰が手紙を受け渡し(吉田本人である可能性も考えられる)、誰が実際に手紙を読んだのかは不明である。

1946年2月1日、マッカーサー元帥に対し、憲法問題調査委員会起草の「憲法改正要綱」が提出された。マッカーサーは、その改正要綱を拒否、2月3日、総司令部民政局に対し、自ら定めた憲法基本原則(「マッカーサー・ノート」(※1))を基盤として、憲法草案を作成するよう命じた。2月4日、民生局長であったコートニー・ホイットニーは、部下を集め、憲法草案作成の作業を開始すること、「国家主権としての戦争の放棄」という項目を含んだマッカーサーにより基本原則を伝えた。2月10日、草案作成の作業は完了。2月12日、マッカーサーが草案を承認。その翌日2月13日、「マッカーサー草案」は日本政府に提示された。

占領軍民政局は、天皇や日本政府に対して、この草案を受け入れる以外の道はないことを示した。そして、ホイットニーは、もし、このGHQ草案を受け入れなければ複数の連合国が裁判にかけることを要求している天皇の身柄を保障することは「困難になる」とした。2月21日、幣原との面談においても、マッカーサーは、このことを丁寧な言い回しをしながらも、はっきりと認めた。


◎「戦争放棄」をめぐる曲折

マッカーサー草案の中で、最も議論を呼んだのは、戦争の放棄と天皇の新しい地位に関する部分だった。戦争放棄の宣言をする必要がある根拠として、マッカーサーはこう発言した。

「もし日本が戦争を放棄することを明確に宣言するならば、日本は世界の道徳的リーダーの地位を確立できる。」 

幣原が「元帥は、指導的役割とおっしゃるが、他国は日本には追随しないでしょう」と応じると、マッカーサーは「もし他の国が日本に付いていかなくても、日本が失うものは何もない。日本を支持しない国が正しくないということになるのだ」と答えた。2月22日、マッカーサー草案は天皇によって承認され、3月6日には、「憲法改正草案要綱」として発表された。協議の中で、ホイットニーは、戦争放棄を前文の中で、基本的な原則の一つとして列挙されるだけではなく、独立した一章にすることを強く主張した。

歴史学者のリチャード・フィンと西鋭夫は、第九条をめぐる歴史の真実は闇に覆われているとしている。マッカーサーによれば、第九条を最初に発案したのは、幣原であり、1946年1月24日に懇談した際に幣原より耳にしたとのことであるが、それは政府による草案の作成の段階であった。

吉田茂は、第九条が制定に到ったのは、マッカーサーの全面的なイニシアチブによると認めている。マッカーサーの「戦争そのものを法の領域外に置く」という発言から、フィンは「日本国憲法における反戦思想は、おそらくマッカーサーによるものだろう、反戦思想を憲法に盛り込んだ責任は彼が全面的に負うべきものである」との結論に到達した。フィンは、どうやら白鳥の手紙については全く知らなかったようである。


◎マッカーサーに間接的に影響を及ぼした白鳥

白鳥が手紙の中で憲法改正および「戦争放棄」を盛り込むことについて記している部分の和訳が、1956年、東京裁判で白鳥の弁護人を務めた廣田洋二によって公表された。著者は、入手可能なありとあらゆる資料を精査し、マッカーサーが、第九条の着想を幣原から受けたであろうこと(この時のことについて触れているマッカーサーの回顧録が出版されたのは、手紙が公開されてから8年後のことだった。)、そして、その幣原に影響を及ぼしたのが白鳥である可能性は充分すぎるほどあるという結論に達した。

廣田は、「戦争放棄」の問題は、1月24日にマッカーサーと幣原が会談した際に話し合われたということを(GHQに白鳥の手紙が届けられてからたった四日後のことである)示し、幣原がGHQ草案の作業に取り掛かるまでに、この手紙を読む時間は充分にあったとしている。しかし、この廣田の論文は、知名度の低い雑誌に掲載されたこともあってか世間で注目を集めることはなかった。


◎幣原の「戦争放棄」の着想に結びつく

幣原が、白鳥の手紙から「戦争放棄」の着想を受けたが、「A級戦犯」である白鳥のことには一切触れずに、自らのアイデアとして、新憲法の基本原則の一つとすべきとマッカーサーに進言したということも考えられる。この「戦争放棄」の理念は、マッカーサーを揺り動かし、その結果、マッカーサーは憲法草案作成にさらに力を注いでいる。マッカーサーにアイデアが伝わるのとほぼ同時期に、GHQに届いていた白鳥の英文の手紙をホイットニー自らが読むか、補佐官などから手紙の要旨を伝え聞いたという可能性も考えられる。政治問題に関して、ホイットニーがマッカーサーに強い影響力を持っていたことは、よく知られているところである。もちろん、今まで申し上げてきたことすべてをもってしても、白鳥を「第九条の発案者」と呼ぶのには論拠不充分である。しかしながら、白鳥が影響を及ぼしたという可能性が非常に大きいのは厳然たる事実である。

私は、この自らの推説を、博士論文公開審査会の席上(「白鳥敏夫と日本外交(1931-1941年)」東京大学2002年)で披露した。多くの人が、関心をもって聞いてくれたが、しかし、軍国主義のイデオローグとして名を馳せた「戦犯」が、「戦争放棄」を憲法の基本理念とするという説があまりに大胆だと懐疑的だった。

後に、推説に関して、ロシア語で著した「戦いの時代 ― 白鳥敏夫(1887-1949年)、外交官、政治家、思想家」(2006年)で詳細に記述した。今日も、白鳥の伝記と呼べるものは、この本しかない。白鳥が英語で記した手紙の完訳は、私の論集「The Re-awakening of Japan(日本の新しい覚醒)」(2008年)にその他の白鳥の手紙の訳と共に収められている。


(※1)^天皇は国家の元首の地位にある。皇位は世襲される。天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする。
国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。
日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。華族の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものではない。予算の型は、イギリスの制度に倣うこと。


<了>










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「憲法改正の議論、国民にはその中身がよくわからない」

2015-05-29 07:58:39 | 日本

田原総一朗さんの「憲法改正の議論、国民にはその中身がよくわからない」と題しての記事があった。
以下、要約し記す。



衆院の憲法審査会が5月7日に開かれ、自民、公明、民主、維新、共産、次世代の6党が参加し、今国会で初めて本格的な討論が行われた。

大災害時の国会議員の任期延長などを定める「緊急事態条項」の必要性については、共産党を除いて各党の考えは大体一致したが、現行憲法の制定過程に関する認識などで各党の違いが表れた。


◎「お試し改憲」という批判

安倍晋三首相が率いる自民党は、おそらく来年7月の参院選後に憲法改正をしたいと考えているのだろう。自民党は公明党と合わせて衆院で3分の2以上の議席を確保している。しかし、参院では確保できていないため、来年の参院選後をにらんで憲法改正スケジュールが立てられることになる。

自民党は9条改正などで野党あるいは公明党を刺激することをなるべく避けようとしている。このため、まずは緊急事態条項や環境権、財政規律の3条項の新設などで改憲をめざす。そして、その後に9条改正を実現するという「2段構え」を見せている。

こうした自民党の進め方を、朝日新聞や毎日新聞などのメディアは「お試し改憲」と批判する。民主党代表代行の長妻昭氏も「『お試し改憲』という報道がある。本丸は9条だが、国民が理解するようなところからやっていこうと」などと述べ、「2段構え」を批判する。


◎「安倍政権である限りは憲法改正の議論をしない」

安倍さんは3月6日の衆院予算委員会で、1946年2月に作られた現行憲法について、「GHQの素人がたった8日間で作り上げた代物」と発言し、「もう一度、国民の手でつくらなければならない」と述べた。

安倍さんにしてみれば、祖父・故岸信介元首相の悲願であった憲法改正をぜひとも自分の手で成し遂げたいということだろう。「自主憲法制定」を最大の政治目標としていた岸元首相の思いが安倍さんに投影されているのではないか。

2年ほど前、自民党は第96条の緩和を中心にした憲法改正を主張していた。第96条は、憲法改正の発議要件、すなわち憲法改正の手続きについて、「国会議員の3分の2以上の賛成」と「国民の過半数の賛成」を必要とするとしている。ところが、「国会議員の3分の2以上の賛成」ではハードルが高すぎるため、それを「過半数」に引き下げようと考えたのである。

さすがに、これには批判が強かった。「勝手にルールを変えるのは本末転倒だ」「96条改正は『裏口入学』だ」などと改憲派からも批判が相次いだ。このため、今回は野党をあまり刺激しない3条項を新設することから憲法改正のアプローチをしようとしている。

一方の野党はというと、足並みがそろっていない。最大野党の民主党は憲法改正について何をしたいのかさっぱりわからない。党内には改憲に賛成する議員と反対する議員がいる。岡田克也代表は「安倍政権である限りは憲法改正の議論をしない」と言い、改憲議論を封印する姿勢を示している。


◎9条は絶対にいじってはいけないのか?

民主党の他の幹部も、「安倍内閣の下で9条をいじることは絶対あってはならない」と発言する。だが、9条の内容にまったく問題はないのだろうか。

9条は第1項で「戦争の放棄」、第2項で「戦力の不保持」と「交戦権の否認」を定めている。具体的には次の通りである。


◎第九条

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


私は「戦争の放棄」を定めた第1項は手を入れるべきではないと考える。戦後70年間、一度も戦争に巻き込まれることなく過ごしてきた日本が世界の信頼を勝ち取る道は、平和国家であり続けること以外にないと思う。だから、第1項は守り続ける必要がある。

第2項については、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」としている部分を改正すべきだと考える。たしかに現行憲法が作られたときは日本は非武装だった。しかし現在は、自衛隊が存在する。その自衛隊をきちんと認め、自衛のための手段を持つことを規定すべきであろう。


◎憲法改正議論の中身がよくわからない

本来ならば、9条第2項については憲法審査会で議論してもいいのではないか。それもせず、自民党があまりにも野党や国民を刺激しないようにと考えて、「2段構え」を見せるものだから、メディアに「お試し改憲」などと揶揄され、批判されるのだ。

朝日新聞と東京大学・谷口将紀研究室の共同調査(昨年末)によると、憲法改正に賛成する人は、衆院選で当選した議員で84%になる一方で、有権者では33%にとどまった。

この調査結果から一つ考えられるのは、国民から見ると、憲法のどこを改正したいのか、憲法をどうしたいのか、国会議員による憲法改正議論の中身がわからないということだろう。現在の流れで憲法改正を行うのは「戦争をするためではないのか」と国民は心配する。「国権の発動たる」武力行使をするための改憲ではないか恐れるのだ。

「お試し改憲」などと批判するメディア側にも問題がある。メディアも批判ばかりではなく、「では、どうすればよいか」といった対案をそろそろ出すべきだろう。

憲法はいうまでもなく国家の基本原則を定める法規範である。憲法改正の是非をめぐる議論は、政治家と国民の間で丁寧に行う必要がある。













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「こんな議論で大丈夫か?憲法改正論議の浅すぎる中身」

2015-05-29 07:57:48 | 日本

自分たちで憲法をつくる機会を無駄にしてはいけない。筆坂秀世さんの論文「こんな議論で大丈夫か?憲法改正論議の浅すぎる中身」を要約し記す。  



◎審査会での討論を新聞やテレビ報道で見ていると、

この場で、船田元・自民党憲法改正推進本部長は、「緊急事態条項」「環境権をはじめとする新しい人権」「財政規律条項」の3点を優先的に議論してはどうか、という提起を行った。この3点は、2014年11月の自由討議で、多くの党が前向きな姿勢を示した条項である。

しかし、自民党が本当に改正したい、いわば“本丸”は憲法9条である。
船田氏自身、「9条の改正についてはみなさんの関心が高いと思いますけれども、9条の改正は憲法改正の中心のテーマだと思っております。しかし9条に関しましては、その改正の中身も含めて国民の間では世論が大きく二分されている現状にありますので、国会の内外においてさらに慎重な議論を行わなければいけないと考えております。ですから、9条の改正は2回目以降の改正において手がけることになると思います」(4月28日記者会見)と語っている。

なぜ、この“本丸”から堂々と議論しないのか、はなはだ疑問である。


◎憲法そのものについて根源から議論を

審査会での討論を新聞やテレビ報道で見ていると、どうも憲法についての根源的な議論がなされていないように思う。

例えば、民主党の辻元清美議員は、安倍晋三首相が訪米中に「安保法制をこの夏までに成就させる」という発言をしたことをとらえて、立憲主義に反するとか、三権分立に反するなどの意見を述べていた。こんなことは、憲法審査会で議論すべきことではない。国会の予算委員会などで議論すればよいことだ。

また共産党の赤嶺政賢議員は、「国民の多数は改憲を求めておらず、改憲のための憲法審査会を動かす必要はない」と主張し、討論そのものが不要だと主張している。

共産党が、憲法改正に反対していることは承知しているが、だからといって議論そのものを否定するのは身勝手な論法と言わねばならない。各種の世論調査で改正に対する賛否は拮抗している場合が少なくない。議論すら否定するようでは、改正賛成の世論を無視するものである。

自民党の「やりやすいところから」という姿勢も、たとえ戦術とはいえ、いただけない。仮にも憲法を改正しようというのであれば、「そもそも論」から議論すべきだ。


◎「立憲主義」の神髄とは?

例えば、現憲法が制定されたとき、日本は占領下にあり、主権はなかった。主権が回復したのは、1952年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効してからである。憲法が施行されたのは、1947年5月3日である。国家主権も、国民主権もない下で、はたして国の最高法規である憲法を制定することが可能なのか、というのは、憲法をめぐるもっとも根源的な問題である。

ちなみにサンフランシスコ条約第1条(b)項には、「連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する」とある。それまでは、主権がなかったということである。

また、9条はどのような思惑、どのような経過をたどって挿入されたのか。改正論議を真剣なものにするのは、この原点に立ち返った議論も必要であろう。

共産党などは、制定時には9条に反対しながら、今日では「9条は世界の宝」などと言っている。どういう経過でこれほど極端に主張を変えたのかなども大いに究明してもらいたい点である。

集団的自衛権についても、もう少し歴史を踏まえた議論をしてもらいたい。日本は、サンフランシスコ条約に調印した同じ日に、日米安保条約にも調印している。1960年に改定がされるが、いずれにしろ日本はアメリカとの軍事同盟関係に入ったのである。この時点で、集団的自衛権の行使は自明の前提となっていた。だからこそ、岸信介首相時代には、集団的自衛権の行使を全面否定してはいなかった。

立憲主義についても、もっと精密な議論が必要である。立憲主義というと、“国家権力を抑制するもの”という単純な議論がまかり通っている。例えば、長谷部恭男・東大教授は、「リベラルな議会制民主主義の体制は、立憲主義の考え方を基本としている。この世には、比較不能といえるほど根底的に異なる世界観・宇宙観が多数、並存しているという現実を認めた上で、その公正な共存をはかる考え方である。人の生活領域を公と私の二つに区分し、私的領域では、各自の世界観に基づく思想と行動の自由を保障する一方、公的領域では、それぞれの世界観とは独立した形で、社会全体の利益に関する冷静な審議と決定のプロセスを確保しようとする」(『憲法とは何か』岩波新書)と指摘している。
私には、ここにこそ立憲主義の神髄があるように思える。

「ファシズムと共産主義とは、いずれも公私の区別を否定する点で共通する。思想、利害、世界観の多元性の否定と裏腹をなす国民〈人民〉の同質性・均質性の実現が前提である以上、多元的価値の共存に意を用いる必要もなく、したがって公私の区分も不要となる」   
「冷静の終結は、リベラルな議会制民主主義が、したがって立憲主義が、共産主義陣営に勝利したことを意味する」
こういう議論をこそ、憲法審査会では深めてほしいものだ。


◎“加憲”というごまかしの議論

平和が売り物の公明党は、改憲ではなく「加憲」などと言っている。加憲だとしても、憲法を変えることである。だったら「改憲」と堂々と主張すればよい。こんなまやかしの議論もやめることだ。

加憲の1つとして、環境権など、新しい人権を挙げている。しかし、憲法に書き込んだところで環境や人権などが守られるわけではない。具体的な法令などが整備されなければ、実効力はない。日本の公害規制は、かつてに比べれば非常に厳しくなった。河川や海もきれいになった。憲法を改正したからできたわけではない。具体的な法令が整備されてきたからだ。そもそも「環境を悪化させよう」「環境を破壊しよう」などという運動があるだろうか。「環境を守りましょう」と言えば、本音はともかく反対する人などいない。このことを憲法に書き込んだところで現状と何ら変わることはないだろう。


◎「緊急事態」条項は必要

西修・駒澤大学名誉教授の『いちばんよくわかる!憲法第9条』(海竜社)によれば、国家緊急事態とは、外部からの武力攻撃、内乱、組織的なテロ行為、大規模な自然災害、重大なサイバー攻撃など、平常時では対処できない国家的規模の緊急事態ということである。こういう事態というのは、国家の存立や憲法秩序への侵害、国民の安全と権利が根底から脅かされる状態ということである。

緊急事態が宣言されれば、基本的人権などが制約されるという面だけを強調する意見がある。もちろん、それは可能な限り最小限にとどめるとしても、ありうることである。しかし、国防や自然災害からの迅速な復旧を確実に成し遂げ、国民の暮らしや安全を確報するというのは、国家としての本来的な役割である。「憲法秩序を保障するための措置、それが国家緊急事態条項であり、その憲法への導入が現代立憲国家の不可避の憲法構造」(同前)なのである。

日本も批准している「市民的および政治的権利に関する国際規約」(「自由権規約」とか「国際人権規約B規約」とも言われる)の第4条では、「国民の生存を脅かす公の緊急事態の場合においてその緊急事態の存在が公式に宣言されているときは、この規約の締約国は、事態の緊急性が真に必要とする限度において、この規約に基づく義務に違反する措置をとることができる。ただし、その措置は、当該締約国が国際法に基づき負う他の義務に抵触してはならず、また、人種、皮膚の色、性、言語、宗教又は社会的出身のみを理由とする差別を含んではならない」と規定している。

緊急事態というのは、どの国家にもあり得ることだからである。だからこそ多くの国の憲法に、この条項が盛り込まれている。これでこそ国家としての体を成すからだ。このことも、大いに議論してもらいたい。

現憲法制定時に、国民的な議論があったとは言い難い。日本国家には、主権すらなかったのである。憲法を変えようとするとすぐに、「戦争できる国づくり」などという扇情的批判がなされる。そうではなく、自分たちで憲法をつくる機会が到来しているのだと捉えるべきではないのか。国会議員諸氏には、その気概で真剣に検討してもらいたい。











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「水を調べれば生き物が分かる 環境DNA」

2015-05-28 09:00:42 | 日本

川や海などの水を調べれば、そこに、どのような生き物がいるかが分かる「環境DNA」と呼ばれる新しい技術が今、大きな注目を集めている。日本で独自の進化を遂げた技術で、絶滅が危惧される生物の保護や漁業などへの応用に期待が高まっている。

この技術は神戸大学の源利文特命助教らの研究グループなどが開発した。
川や海などの水をくんで、フィルターによって生き物の粘液やふんをこし取り、それを分析してDNAの情報を明らかにすることで、その場所にどのような生き物が住んでいるかを見破る。

この技術の実証実験には国内の多くのグループが取り組んでいるが、このうち、源特命助教らのグループは、国の特別天然記念物に指定されているオオサンショウウオの生息調査を行っている。オオサンショウウオは夜行性で岩の陰に隠れて生息するため、調査はこれまで夜間に川に入り、くまなく探す必要があったが、この技術で京都府や兵庫県の川を調べたところ、水をくんで分析しただけで、実際にオオサンショウウオが生息していることを確認できたということです。

一方、北里大学のグループは、この技術を使い、絶滅が危惧されるニホンウナギの稚魚を、外国産の別の種のウナギの稚魚と見分ける手法を開発し、ことし3月、日本水産学会で発表しました。この手法を使えば、魚を殺すことなく、一度に大量の稚魚の種類を判別することが可能になり、水産庁は今後、ウナギの稚魚の販売業者や養殖業者に活用してもらうことを検討している。

また、この技術は生き物がそこにいるかだけでなく、どれほどいるか、量を推測することにも利用できることが分かってきた。京都大学のグループは京都府の舞鶴湾で潜水調査によって明らかになったマアジやカタクチイワシの量と、海水のDNAの量の関係を調べた。その結果、実際に海の中で確認できた魚の量と、DNAの量は同じ傾向を示すことが分かったということである。

この「環境DNA」と呼ばれる調査技術は日本で独自の進化を遂げたが、最近では欧米でも技術開発が進んでいて、各国間の競争は激しさを増している。技術を開発した源特命助教は「今後は、より高い精度で、住んでいる生き物の種類を判別できるようにしたい」と話している。


◎微量のDNAを増幅させて判別

水をくんで調べるだけで、なぜ、住んでいる生き物が分かるのか。
今回、研究グループが着目したのは川や海などに住む魚や両生類から放出された微量のDNAだった。DNAを分析するには水をまず、ガラス繊維で出来た目の細かいフィルターでこします。一見、透明に見える水でもフィルターには茶色い不純物が残され、この中に魚や両生類の体の粘液やふんが含まれている。

ここから薬剤や遠心分離器によってDNAを抽出したあと、専用の機械にかけて、その特徴を増幅させて分析することにより、合わせて4時間ほどで、どの生物のDNAかを判別できるということである。

神戸大学の源・特命助教がこの手法を思い付いたのは今から7年前で当時、問題となっていたコイヘルペスウイルスの研究を行っている時だった。コイを飼育している水槽の水から、ウイルスのDNAを調べようとしたところ、コイ自体のDNAが多く検出され、魚のDNAが水に溶け出していることに気付いたということである。そして、こうした現象が川や海などでも起きている可能性があると考え、調査したところ、さまざまな生き物のDNAの検出に成功した。

DNAの分析で、その持ち主を特定する手法は警察が犯人を探し出す手法の1つとしてすでに確立されている。しかし、川や海に溶け出したDNAの濃度は極めて薄いため、生き物の判別に使うのは難しいと考えられていたが、微量のDNAを増幅して高い精度で分析する機械が登場したことなどで、新技術の開発につながったということである。
この「環境DNA」の技術は現在、欧米でも開発が急速に進んでいるが、日本では水産分野への応用などで独自の進化を遂げるとともに、技術面でも世界をリードしている。
源特命助教は「これまで考えられなかったような、生態学の新しい研究分野が生まれる可能性を秘めている」と話している。


◎DNA分析と実際の調査 結果はほぼ一致

「環境DNA」の技術を開発した神戸大学の源特命助教らのグループは、絶滅のおそれがあり、国の特別天然記念物にも指定されているオオサンショウウオの生息調査にこの技術を用いている。

オオサンショウウオは大きいもので、体長が1メートルを超える世界最大の両生類だが、水の流れが急な川の上流で岩場に隠れて生息しているうえ、夜行性でもあるため、その姿を捕らえることは困難だった。

源・特命助教らは兵庫県西部の佐用川の43か所で水をくんで分析したところ、9か所からオオサンショウウオのDNAが検出された。その結果を基に先月、オオサンショウウオが実際に生息しているかの調査を保護活動に取り組んでいる市民グループの協力を得て行った。夜間に10人余りで、川の中を懐中電灯で照らして探したところ、実際に体長60センチから80センチほどのオオサンショウウオが合わせて7匹見つかったということである。

源特命助教によりますと水の流れが激しい川の上流でも、DNAが検出された場所と生息が確認された場所は、ほとんど一致したということで今後、川の中でDNAがどのように拡散しているのか研究を進めたいとしている。

15年間にわたって保護活動を続けている「佐用川のオオサンショウウオを守る会」の山川修さんは「大がかりな調査をしなくてもいるか、いないかが分かるので非常に助かる」と話していた。

一方、オオサンショウウオを巡っては近年、一部の地域で日本固有の種の生息が中国産の外来種によって脅かされている。「環境DNA」の技術は、こうした在来種と外来種の区別もできるということで、源特命助教は「外来種の侵入を早い段階で発見することができるので、より早く、駆除などの対策を取ることができる」と話している。


◎生息数の把握にも応用の可能性

「環境DNA」の技術は、特定の生き物が住んでいるかだけでなく、どれくらいいるのか、量を推定することもできることが分かってきた。

京都大学舞鶴水産実験所の益田玲爾准教授は実験所に面した舞鶴湾で月に2回、同じコースを潜水して観察できた魚などの種類や数を記録している。

3年前からは潜った場所の水を採取して、DNAを分析する調査も併せて行っているが、その結果、マアジやカタクチイワシ、それにアカクラゲなど複数の種で観測できた数とDNAの量の変化が同じ傾向を示すことが分かったということである。

また、最新の分析機を用いれば、1杯の水からサワラやブリ、コノシロなど湾内で確認されている、さまざまな魚のDNAが、その量とともに一度に検出され、複数の魚の量が同時に把握できる可能性も示された。

益田准教授は「魚を一切、傷つけることなく、膨大なデータを取得でき、水産資源の量を把握したり、海水浴シーズンにクラゲの大量発生を予測したりするのにも活用できる。海の資源を管理していくうえで非常に有用なツールになる」と話している。

益田准教授は魚がどのようにDNAを海水に放出するのか細かく調べ、広い海で水産資源を正確に把握できる手法の開発を進めたいとしている。









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「A級戦犯は戦争犠牲者といえるのか④」

2015-05-27 08:10:22 | 日本

◎サンフランシスコ講和条約と「法務死」

1951年9月8日、サンフランシスコのオペラハウスに世界の52ヵ国の代表が集って日本が独立するための対日講和会議が催されたのだが、すでに厳しい冷戦状況で中国は招聘されず、インドはそれに反対して参加を拒み、ソ連やポーランド、チェコスロバキアは参加はしたが署名はしなかった。いわゆる片面講和となったのである。

なお、47年当時の条約案は、日本の軍国主義の復活を阻止するために、連合国の無制限の統制下に置く、あるいは、戦争責任を明記し、加えて戦犯容疑者をさがし出して処罰するなどときわめて厳しかったのだが、冷戦が強まって、米、英などが共産主義勢力に対して日本を橋頭堡にするために緩やかな条約となった。

そして東京裁判については、講和条約第11条で「裁判を受諾する」とはっきり謳った。

占領下から独立する当時の国際事情に詳しい波多野澄雄氏は、「英文ではjudgementなのだが、外務省は、裁判全体が正当な手続きによる裁判であると同時に、少数意見にも配慮したことを示すために、『判決』ではなく『裁判』ということにしたのだろう」と説明した。手続法など、東京裁判への疑問、さらに否定論などが少なからず生じているのを考慮したのだろうか。

なお、第11条では「刑を宣告した者については、この権限〔赦免や減刑の権限〕は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない」と明記していて、一見厳しいようだが、波多野氏は次のように解説する。

「講和後、つまり独立した後は、刑の執行は日本政府に委任する一方、赦免、減刑などの恩典については、関係国の了解があればできるということです」

なお、とくに国外の中国やアジア諸国でBC級戦犯に問われたケースでは事実誤認が少なくないので、あらためて日本で再審するべきだという意見もあったのだが、第11条は"再審"を否定し、あくまで日本政府が勧告し、関係国の了解を得て赦免、減刑を選択するということになったのである。

日本が独立した段階で拘禁されている戦犯は1860人もいた。そのために、ただちに議員立法で戦犯者の留守家族を対象にした戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)が国会に提出された。そしてこれがきっかけとなって、戦犯釈放に関する4000万人分に及ぶ請願や陳情が国会になされ、戦犯釈放に関する国会決議が4度におよんだ。

「政府による関係国への赦免勧告は、まずBC級からはじまりました。いちはやく検討に応じたのはアメリカですが実際の釈放は最も遅く、岸内閣のときの58年です。関係国では中華民国(台湾)が一番早く、フィリピン、フランス、イギリス、そしてオランダがつづきました。オーストラリアも57年7月に全員を釈放しました」

波多野氏が説明した。

A級戦犯の仮釈放は、BC級戦犯にくらべると難航したがスターリンの死後フルシチョフ首相の平和攻勢もあって、日本の比重が増し、58年末には全てのBC級、さらにA級戦犯の釈放が実現した。そしてBC級、A級を問わず死刑を執行された戦犯も「法務死」とされ、戦死の場合と同様に援護法や恩給法の対象となった。

それにしても、戦死の場合はあきらかに戦争犠牲者であり、BC級戦犯として処刑された人物も犠牲者といえなくないのかもしれないが、A級戦犯は戦争犠牲者とはいえないのではないか。それにA級戦犯も「法務死」ということになると靖国神社に合祀されてもなんら問題はない、ということになる。

『東京裁判の国際関係』(木鐸社)という700頁近い大著の著者である日暮吉延氏(帝京大学法学部教授)に問うた。日暮氏は牛村圭氏と『東京裁判を正しく読む』(文春新書)という著書も出している。

「恩給の問題は残された遺族が気の毒で、遺族には責任がないということでしょうが、戦犯で処刑された人々を靖国に合祀するのは無理筋ではないですか。A級戦犯を合祀した宮司は、合祀しないと東京裁判を認めたことになるといっていますね」

日暮氏は慎重な口調で話した。歴史家で昭和史に詳しい秦郁彦氏にも問うた。

あきらかに戦死ではないA級戦犯をなぜ靖国に合祀するのか、松平永芳宮司は『講和発効までは戦争が継続していたわけで、だから処刑されたA級戦犯は戦死だと見なし、東京裁判を否定するためにその手段として合祀したのだ』と言っている」

 こうなると、そもそも靖国神社とはどういう存在なのか、根本的に考え直さざるを得ないことになる。




<了>











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「A級戦犯は戦争犠牲者といえるのか③」

2015-05-26 07:33:57 | 日本

◎尋問が終わった日

47年12月26日以来つづいた東条への尋問が終わったのは翌年1月7日であった。東条は、天皇に戦争責任はないと表明したわけだ。前掲書『東京裁判』によると、東条は「コップの水をごくりとのみほして、静かにイヤホーンをはずし、証人台からゆっくりおりて、法廷を横切り、中央被告席に帰った」ということだ。

そして、清瀬弁護人に、つぎのように心境を語っている。

「この際とくに申し上げることはありませんが、私の心境はたんたんたるもので、ただ靖国神社の祭霊と戦争により戦災をこうむられた方々の心になってのべたつもりです。言葉は完全に意をつくしておりませんが、事柄だけは正しくのべたつもりです。もし私にここで希望をいうことが許されるならば、二つの希望が残っている。

この裁判の事件は一九二八(昭和三)年来の事柄に限って審理しているが、三百年以前、少なくとも阿片(アヘン)戦争までにさかのぼって調査されたら、事件の原因結果がよくわかると思う。またおよそ戦争にしろ外交にしろすべて相手のあることであり、相手の人々、相手の政府とともに審理の対象となったならば事件の本質はいっそう明確になるでしょう」

東条尋問の終わった翌日、8日付の朝日新聞「天声人語」は、東条の証言をつぎのように痛烈に批判している。

「キーナン検事の尋問に対して東條被告は『首相として戦争を起したことは道徳的にも法律的にも正しかった』と答えている▼東條が法廷で何を言おうとそれはかまわぬ。思つた通りをそのまま言えばよい。東條一人が前非を悔いてしおらしいことを言つてみても今さら何の足しにもならぬ。われわれもまた東條の言辞を相手に論争しようとも思わぬ▼問題は、東條の陳述に国民がどんな反応を起すかである。アルカリ反応するか酸性反応を示すかである。諸外国の注意もそこにある▼外人記者も言っておる。『世界は東條の口許を見てはいない。東條の言を聞いた国民の表情を注視してるのだ』と▼このごろ電車の中などで『東條は人気を取りもどしたね』などと言うのを耳にすることがある。本社への投書などにも東條礼賛のものを時に見受ける。沈黙している大部分の国民は、今さら東條らのカストリ的、璽光様的迷句に酔うとは思われない。が一部に東條陳述共鳴の気分が隠見していることは見のがしてはならない▼それは歴史のフィルムを逆に回すことだ。民主々義のプールに飛込んだはずの水泳選手が、開戦前の侵略的飛込台に逆もどりするにひとしい。それはまた、美しいワイマール憲法を作つたドイツ国民が、ナチスの毒虫にむしばまれてしまつたことを連想させる」

毎日新聞の「余録」も、「天声人語」に劣らない酷評である。

「東條は、真珠湾攻撃のことをきかれて、ハッキリしたことは知らないが陸相の資格で、計画を参謀総長から聞いたといい、これを天皇に伝えるのは参謀総長か軍令新総長の委任だという▲つまり東條は、明治憲法を条文通りに答えたに過ぎない。戦争ということをバラバラにして、ここまでは外交、ここからは統帥、これは文官、あれは軍部の責任といつたことを事実について説明したまでだ▲これでは戦争は、最高の『政治』ではなくて、官吏の『事務』となる。全く満州事変以来の戦争はそれ以外のものでなく、一人の政治家もなかつたのだ(中略)▲東條一人に最高責任があつたか否かは別の問題。エラクない彼は、エライ責任を負うことになつたのも日本の宿命だ」

昭和のいずれの戦争でも礼賛、というよりも煽りつづけた新聞が、自分たちの責任を忘れたように、東条の証言をこれほど酷評するのは�朽然とする思いだが、実は私自身、当時は新聞の論調に違和感を抱いていなかった。私を含めた国民の多くが占領軍の思惑通りに教育されていたということなのだろうか。


◎天皇制とマッカーサー

それにしても、国家主権者であり、元首であって、陸海軍を統帥していた昭和天皇を、なぜ連合国側は東京裁判にかけることをせず、天皇制を事実上存続させたのか。

実は、連合国軍最高司令官として日本に進駐したダグラス・マッカーサー元帥は、彼が信頼し、また日本をよく知っていたボナー・フェラーズ准将に、昭和天皇を逮捕して裁判にかけるべきかどうかを徹底的に調査し、報告せよと命じていた。フェラーズは大学時代に日本人の女子留学生と親しくなり、日本を何度か訪れていて、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の研究家でもあった。

マッカーサーは、フェラーズに調査させると同時に、1945年9月27日に、赤坂のアメリカ大使公邸で昭和天皇に会っている。

そのときの昭和天皇とのやりとりを、『マッカーサー回想記〈下〉』(津島一夫訳 朝日新聞社)で次のように書いている。

『私(天皇:引用者注)は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした』

私(マッカーサー:引用者注)は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽している諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした」

そしてこの会見の5日後(10月2日)、フェラーズが、マッカーサーに自分の意見も含めた最終報告書を提出している。

「(日本への)無血侵攻を果たすにさいして、われわれは天皇の尽力を要求した。天皇の命令により、七〇〇万の兵士が武器を放棄し、すみやかに動員解除されつつある。天皇の措置によって何万何十万もの米国人の死傷が避けられ、戦争は予定よりもはるかに早く終結した。

したがって、天皇を大いに利用したにもかかわらず、戦争犯罪のかどにより彼を裁くならば、それは、日本国民の目には背信に等しいものであろう。それのみならず、日本国民は、ポツダム宣言にあらまし示されたとおりの無条件降伏とは、天皇を含む国家機構の存続を意味するものと考えている。

もしも天皇が戦争犯罪のかどにより裁判に付されるならば、統治機構は崩壊し、全国的反乱が避けられないであろう。(中略)

彼らは武装解除されているにせよ、混乱と流血が起こるであろう。何万人もの民事行政官とともに大規模な派遣軍を必要とするであろう。占領期間は延長され、そうなれば、日本国民を疎隔してしまうことになろう。

米国の長期的国益のためには、相互の尊敬と信頼と理解にもとづいて東洋諸国との友好関係を保つことが必要である。結局のところ、日本に永続的な敵意を抱かせないことが国家的に最も重要である」(岡本嗣郎『終戦のエンペラー』集英社文庫)

フェラーズの報告書は、ありていに言えば、アメリカの占領政策をスムーズに進めるために、昭和天皇を裁かず、むしろ利用すべきだという提案である。

こうして、一般的にはマッカーサーが昭和天皇の免訴を決めたとされているが、戸谷由麻氏は380頁におよぶ著書『東京裁判』(みすず書房)の中で、昭和天皇の訴追にかんする決定権はマッカーサーにはなく、トルーマン大統領をふくむ連合国指導者にあって、オーストラリアが天皇を裁判にかけることを強く求めて意見がまとまらず、棚上げ状態のままで裁判が終わってしまったのだと書いている。











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「A級戦犯は戦争犠牲者といえるのか②」

2015-05-25 06:30:24 | 日本

◎真珠湾攻撃

年が明けて48年1月6日、キーナン検事が真珠湾攻撃について東条を尋問した箇所を引用する。

問「あなたは、日本の艦隊が真珠湾を攻撃するために日本を出発した日を知っておるでしょう」

答「この裁判所で知りました。それは単冠(ヒトカップ)湾を二十三日に出たということを知ったのです」

問「さてこの日本艦隊が日本を出発したのは、東京においてハル・ノートが受領される前であったのは事実ではないか」

日本側弁護人たちは、中国からも満州からも全て撤退せよというハル国務長官の最後通牒ともいえる文書を受けて、やむなく戦いに踏み切らざるを得なかったと述べているのだが、キーナン検事は、それ以前に真珠湾攻撃の行動を起こしていたのではないかと斬り込んだのである。

答「それは事実です。作戦準備行動です」

問「あなたは、日本艦隊が真珠湾を攻撃せよという命令を受けて出発したのを、単に作戦の準備であったというのか」

答「そういう細かいことをお聞きになっても私は知りません。海軍の統帥部に関することですから、はたしてあなたの言うように、当時、真珠湾を攻撃せよという的確な命令を出したかどうかわかりません」

 (中略)

問「あなたは総理大臣として、この艦隊が十一月二十三日にしろ二十六日にしろ日本を出発したことも知らなかったわけですね」

答「事実において知りません」

問「そうして真珠湾に対する攻撃が現に起こってしまうのちにいたるまで、これを攻撃する意思を見いだすことができなかったと推定するか」

答「それは違った推定です」

問「それではあなたはまず真珠湾を攻撃すべきであるということを、艦隊が真珠湾に向かって進行中に知ったか」

答「それは艦隊の進行中知ったというよりも、十二月一日の御前会議決定に基づいて当然、攻撃開始に向かって行動しつつあると想像しておりました。しかも、その間において日米交渉が万一にでも打開できれば、技術上許す範囲においていつでも作戦行動を停止するということで行動していた、と承知している」

(ここで裁判長よりそれを知った日付を答えなさいと注意)

答「一九四一年十二月一日の御前会議において知りました」

問「あなたは、この御前会議において艦隊が真珠湾攻撃をするため進行中であったことを知ったか、然りとか否とか答えて下さい」

答「それは否と答えましょう」

問「それでは最初に知ったのはいつか」

答「イエスとかノーで答えるというのはつらい。御前会議においては、真珠湾攻撃うんぬんということは出ていなかったのです。それで私は否と答えた」

問「それでは御前会議において、作戦部隊が合衆国あるいはその領土を攻撃のため出動中であるということが明らかにされたか」

答「そういう作戦に関する具体的なことは御前会議、連絡会議において採り上げられませんでした。そういうことは統帥部から提案すべきものではないのです」


◎天皇の戦争責任

キーナン検事は、天皇の戦争責任に斬り込もうとした。

問「それでは、誰があなたに対し真珠湾を攻撃することになっていると話したか」

答「陸軍大臣の資格において、参謀総長から聞いたと記憶します」

 (中略)

問「あなたはこの情報を天皇に伝えたか」

答「伝えません。伝える意味をもちません」

問「それは誰の責任か」

答「当然に軍令部総長、参謀総長の責任です」

問「日本の総理として、政府の首班としてこの情報を天皇に伝える義務はないと主張するのか」

答「内閣総理大臣としてはありません」

 (中略)

問「十二月一日か二日から七日の間に天皇に謁見したか」

答「たびたび謁見しました」

問「その際、戦争の問題について話したか」

答「いま的確には記憶せぬが、当然、お話があったと思う」

問「真珠湾攻撃について話したか」

答「しません」

問「それに触れなかったのは故意か、あるいは遠慮したのか」

答「それを含んだもっと大きな戦争について話した。真珠湾攻撃は戦争の一部です」

問「真珠湾攻撃が天皇に話すに足りない、つまらないものだというのか」

答「そうとられると困る。小さいものとは思わぬが、戦争の全体からいえばなんといっても一局です」

 (中略)

問「さて一九四一年十二月、戦争を遂行するという問題に関する天皇の立場とあなた自身の立場の問題に移ります。あなたはすでに法廷に対して、日本の天皇は平和を愛すると言っていることは正しいか」

答「もちろん正しい」

問「そうしてまた日本臣民たる者は何人たるも天皇の命令に従わないということは考えられないと言いました。それは正しいか」

答「それは私の国民としての感情を申し上げていた。天皇の責任とは別の問題です」

問「しかし、あなたは実際米英蘭に対して戦争したのではないか」

答「私の内閣において戦争を決意しました」

問「その戦争をおこなわなければならない。おこなえというのは裕仁天皇の意思であったか」

答「意思と反したかも知れませんが、とにかく私の進言、統帥部その他責任者の進言によってしぶしぶご同意になったのが事実です。そして平和ご愛好のご精神は、最後の一瞬にいたるまで陛下はご希望を持っておられました。

戦争になっても然り、そのご意思の明確になっておりますのは、昭和十六年十二月八日のご詔勅のうちに明確にその文句が加えられております(※筆者注 開戦の詔勅に、「まことに已むを得ざるものあり」とある)。しかもそれは、陛下のご希望によって政府の責任において入れた言葉です。それはまことにやむをえないものであり、天皇の意思ではないという意味のお言葉であります」














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「A級戦犯は戦争犠牲者といえるのか①」

2015-05-24 08:21:01 | 日本

田原総一朗さんの論文「A級戦犯は戦争犠牲者といえるのか」を要約し、4回にわたり記す。



◎東条英機の尋問

1947年12月26日、この日東京・市ヶ谷の法廷には、日本の新聞社はもちろん、AP、UP、フランス通信、タス通信など世界の主要通信社が記者とカメラマンを派遣して待機させていた。この日の午後から、東京裁判のいわば「主役」である東条英機の弁護立証と尋問がはじまることになっていたからである。

朝日文庫の『東京裁判〈下〉』(朝日新聞東京裁判記者団)によれば、東条は、いつもは色あせた軍服を着ていたが、この日はだれが差し入れたものか、「仕立て下ろしの緑がかった軍服」を着ていたという。

同書は「なんといっても戦争の最高責任者、全世界の耳目がひととき、このたぐいまれな独裁者、八千万国民の運命を、あの無謀な真珠湾の一撃に賭けた大賭博師の告白に集注されたのも当然であった」と書いている。

その東条英機は、1884年(明治17年)7月30日に、東京府�跫町区(現在の東京都千代田区)で生まれた。父親は当時陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)の東条英教で、英機は三男だったが、長男と次男はすでに他界していた。中学校を卒業すると陸軍幼年学校に入り、1905年(明治38年)3月、日露戦争の最中に陸軍士官学校を卒業し、歩兵少尉に任官した。

そして陸軍大学校に挑戦して一度は失敗するのだが再度挑戦して入学、歩兵第一連隊長、参謀本部課長などを経て、関東憲兵隊司令官、そして関東軍参謀長となり、岸信介、松岡洋右、星野直樹などとともに「満州の二キ三スケ」と称された。そして近衛文麿内閣で陸軍大臣となり、近衛の後をうけて1941年10月に首相となるのだが、内大臣の木戸幸一によれば「勅命を重んずることは、他の軍人に比して格別だった」ということだ。

木戸が近衛の後の首相に戦争強硬派の東条を選んだ理由を聞いて、昭和天皇は木戸に「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と語ったそうである。日米交渉の進展を期待した昭和天皇は、強硬派の東条だからこそ戦争が回避できると考えたのであろうか。


◎新聞の東条への反発

法廷では、まず清瀬一郎弁護人が、太平洋戦争で日本に侵略の思惑は全くなかったと、次の7項目を強調した。

1 米、英、蘭の対日圧迫によって、日本の存立が危うくされていた。
2 太平洋戦争は自衛の戦いであった。
3 日本政府は合法的開戦通告を攻撃開始前に米国に交付するため、周到な注意をもって手順を整えた。
4 大東亜共栄圏の企図は侵略ではなく、東亜の解放と建設であった。
5 いわゆる「軍閥」は存在しない。
6 統帥権は独立していて、陸海相を含む国務大臣は統帥に干渉する権限がなく、そこで両者の協議をはかるために連絡会議、御前会議などを必要とした。
7 東条の行った軍政の特徴は統制と規律にあった。

ようするに、日本にとって太平洋戦争は、連合国側が主張するような侵略戦争ではなかったと強調したのである。

東条の口供書について、12月28日の朝日新聞の社説は、満州事変勃発時のリツトン報告書が、日本側の「自衛権の発動」という主張を否定したことを引きあいに出しながら、「(日本は)その後幾度か自衛戦争の名において、帝国主義的侵略戦争を正当化しようとした。そしてこの主張が東條口供書においても臆面もなく繰り返されている」と決めつけていて、近衛・東条の対米交渉についても、「外交は開戦の準備までの単なる手段にすぎなかつたとしか受取れない。そこには世界平和への熱意など毛頭もうかゞわれない」と断定している。

さらに毎日新聞の「余録」(12月30日)も、「▲東條は『国家自衛のため起つということただ一つ残された途であつた、われわれは国家の運命をかけ敗れた』と弁じているが、それは『日本の自衛』のためでなく『軍閥の自衛』のためであつた▲革命前の中国を知つて、革命後の中国を知らなかつた軍閥が、日華事変のドロ沼にハマリ込んで、その失敗をゴマカすためにだんだん深入りしたということは、当時心ある知識人の常識であり常感であつたのだ▲彼の如き平凡極まる人物に国家の運命を荷わせたところに、日本の運命があつたという外はない」と酷評している。

くり返し記すが、東京裁判の検事たちだけでなく、日本の新聞、そして国民の多くも東条を嫌悪し、東条の主張を否定したい思いが強かった。それは占領軍による強権を発動しての国民に対する教育効果が浸透していたということと、それ以上に戦争で夫や息子、あるいは兄弟を失い、戦災で命からがら逃げたというなまなましい現実が、負ける戦争を始めた東条英機への強烈な反発となっていたのであろう。


◎キーナン検事の尋問

前掲書『東京裁判』から、47年12月31日に、ブラナン弁護人が退いたあとを受けての、首席検事のジョセフ・キーナンの東条尋問、つまりキーナンと東条のやりとりを引用することにする。

問「被告東条、私はあなたに対し大将とは呼ばない。それはあなたも知っているとおり、日本にはすでに陸軍はないからである。・・・一体あなたの証言というか、議論というか、過去三、四日にわたって証言台に立ち弁護人を通じてのべた宣誓口供書の目的は、あなたが自分の無罪を主張し、それを明白にしようとの意図であったか、それとも日本の国民に向かってかつての帝国主義、軍国主義を宣伝する意図のためにおこなわれたものであるか」

(ブルウエット弁護人から妥当な反対尋問でないと異議を申し立て、この質問は却下)

問「あなたは米国および他の西欧諸国に対して攻撃をする言い訳のひとつとして、これらの諸国があなたの大東亜共栄圏に関する計画を邪魔しておったからだと言うのか、それが戦争を正当化するひとつの理由であったと言うのか」

答「原因にはなります。しかしながら、直接の原因ではない」

問「これらの戦端が開始されるころ、およびその以前のあなたの意図は大東亜に新秩序を樹立することであったのを認めるか」

答「もちろんひとつの国家の理想として、大東亜建設ということは考えていた。しかも、できるだけ平和的方法をもってやりたいと思っていた」

東条は落ち着いて答えた。








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「波長の法則」

2015-05-23 09:27:39 | 日本

松本守正さんのブログ「波長の法則」について紹介する。


何かを心に強く思う時、その思いはエネルギーを生み出す。
それは波長となって、同じ波長のものを引き寄せる。

「類は友を呼ぶ」

あなたが出会う人、今のあなたと同じ波長の人である。
人は自分と同じ波長の人としか出会えない。
まず自分自身が明るくポジティブな波長を出すこと。
すると自然に出会う人が変わってくる。
いい波長を出す為のポイントは3つ。

「思い」
「言葉」
「行動」

この全てを明るく、前向きにしていれば、波長は高まる。
高い波長は必ずいい結果を運んでくる。
周囲に集まるのは、すべて自分の波長が呼び寄せる人たちなのである。












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「元氣な人と元氣にする人は違う」

2015-05-23 09:26:46 | 日本

菅家一比古さんから「言霊の華」第三二七号が来た。
以下要約し記す。




世の中に元氣な人は沢山いる。私の周りにもそのような人は多く見かける。職場も家庭も元氣であることにこしたことはない。

しかし「元氣のいい人と居ると疲れる」と言うような経験をしたことはないか?

「今日はあの人とは会いたくないな。会う元氣がない、エネルギーが無い」みたいな経験である。確かに陰気で暗い性格な人よりはましだが、どこか氣が休まらない。その元氣な人と会うには氣合いが必要と感じるから大変でる。

その一方で「元氣にしてくれる」人がいる。決して説得口調でなく、ハッタリもなく、明るく穏(おだ)やかで鎮(しず)かな人に多く見かける。そういう人に「癒し」を感じる。そして浄化される。

元氣にしてくれる人にはきっと祈りがあり、鎮魂がある。だから会っているうちにこちらが鎮魂され、心が軽くなり、底の方から力が湧き上ってくる。

私も以前、若かった時代は本当に元氣満々の人間だったが、どれだけ多くの人々を疲れさせたか計り知れない。それが禊と祈りで変化していった。

苦労人は他者の痛みを知っており、内省力、自己観照力を持っている。内省力、自己観照力が増していくと人は寄ってくる。人の心はザワつかない。ホッとして、いつまでもその人の傍(そば)に居たくなるものである。

元氣でいることはとても大切だが、しかし人を元氣にして上げることはもっと大切である。そういう家庭づくり、職場づくり、サークルづくりを心がけていこう。







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「自分と向き合う」

2015-05-23 09:25:53 | 日本

松本守正さんのブログ「自分と向き合う」について紹介する。


「状況を好転させるには」

自分を知り、自分を変えなければ、状況はかわらない。
逆にいえば、自分を変えればどんな困難な状況でも、好転していく。
今の状況はあなたが自分で呼び寄せたものであって、大切なのは自分のどういうところが返ってきたのか、それを注意深く内観(精神統一により、自分の心理状態を観察すること)すること。
自分自身を知ること、自分に気づくことが必要。
今の状況は、その気づきを促す為に起こっているのかもしれない。
「間違っているよ」 「軌道修正が必要だよ」 ってメッセージをあなたは受け取っている。
自分と向き合える場所は色々あるだろうが、最近本で知ったが、「お酒が飲める読書スポット」 があるようである。
お酒を注文すると「お酒のイメージに合う一冊」をセレクトして貸し出してくれる。
自然の中でゆっくりと読書するのもいいが、ときにはお酒をのみながら、過ぎゆくひとときを過ごしてみたいなぁと思っている。











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「学習の意義」

2015-05-23 09:25:11 | 日本

松本守正のブログ「学習の意義」を紹介する。

今の時代を生き抜く為には、変化することが大切である。
変える、変わるどちらにしても、今までと違うことをやらなければならない。
経験や体験のないことに挑戦しなければならない。
変えるには理由が問題である。
他人から言われて、変わろうとする並の人間。
これでは変われない。

自分の夢や目標の為に変わろうとする成功者の考えをもつ人間。
僕はここらへんが、人の差だと思っている。
そして成長する為に「学び」は必須である。
習することの意義を考えてみる。

学ぶ=真似る 真に心を汲み取る事。

『習う』とは・・・

ひな鳥が99回飛ぶことに挑戦し、100回目に羽ばたいた事から「羽」に「白」で「習」
99回だから「白」という文字。

白=真っ白。素直。

だから素直にただひたすらに・・・の姿勢で挑むことである。
何事もあたりまえに成功するまでやり続ける気持ちが非常に大切。

また、悲しみがあるから喜びがある。
苦しい事を経験するから楽しさが倍増する。
裏切られるから、人の有り難さがわかる。
学習にも大切な事は、夢であり目的であることをわすれないで、頑張ろう!!






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「日本紀元2605年インドネシア独立宣言書が西暦を使わなかった理由」

2015-05-22 08:02:32 | 日本

榊原智さんが、「日本紀元2605年インドネシア独立宣言書が西暦を使わなかった理由」述べている。以下、要約し記す。



これは、ジャカルタの独立記念塔に収められたインドネシア独立宣言書の日付である。「05年8月17日」を意味する。

05年とは、日本紀元(皇紀)2605年のことだ。昭和20年、西暦1945年ある。
宣言書に署名したのは独立運動のリーダーで、インドネシア共和国の初代大統領と副大統領になったスカルノとハッタの2人だ。

日本が大東亜戦争に敗れた翌日、スカルノら建国準備委員会はジャカルタ在勤の海軍武官、前田精(ただし)海軍少将の公邸に集まり、インドネシア人だけで17日未明までかけて宣言書を起草した。前田は後に、インドネシア共和国建国功労章を授与された。

スカルノらが、強制されていないのに、敗戦直後の日本の紀元を独立宣言書に用いた意味は重い。西暦は植民地支配への反発から避けたようで、辛亥革命後の中華民国暦のように建国を元年にすることもできたが、そうしなかったのである。

大東亜戦争で日本は、インドネシアを350年もの間、植民地支配してきたオランダを駆逐し、軍政を敷いた。愚民化政策をとったオランダとの違いは、日本が官吏育成学校、医科大学、師範学校、商業学校など、国づくりに必要な教育を推進したことだ。

特に、祖国(郷土)防衛義勇軍(略称PETA)をつくり、3万8千人ものインドネシアの青年に訓練を施した意義は大きかった。彼らが、植民地支配に戻ってきたオランダ軍や援軍となったイギリス軍との間で、独立戦争を戦う中心となった。80万人の犠牲を払って独立を勝ち取ったのである。

日本へ引き揚げず、インドネシア独立戦争に身を投じた日本軍将兵は1千人から2千人もいたとされる。相当数が戦死し、ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地に葬られた人もいる。

インドネシアでのアジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年記念首脳会議に出席した安倍晋三首相は先月22日、カリバタ英雄墓地を訪ね、祈りをささげた。その際、首相は英雄墓地に葬られた残留日本兵の墓前に献花した。

第1回バンドン会議(1955年)では、日本代表団は、アジア独立を掲げて戦ったことを感謝され、歓迎された経緯がある。

今回のバンドン会議での演説で、安倍首相は第1回会議の逸話にも、日本がアジア独立を掲げて大東亜戦争を戦ったことが有色人種の国々の独立につながったことにも触れてはいない。

そこには日本流の謙虚さがあるし、当時は敵国で今は盟邦となったアメリカや友好関係にある西欧諸国への外交上の配慮がある。

首相がカリバタ英雄墓地に詣でたことは、日本人がアジア独立に貢献したことを、言葉でなく行動で伝える機会だったが、日本ではほとんど報じられなかった。

いつの時代でも戦争は避けるべき悲劇だ。それでも、日本が国を挙げて戦った戦争に、当時の日本人がどんな理想や意義を見いだしていたのか。外交場裏では語れなくても、後進の私たちは覚えておきたい。それがバランスのとれた歴史観につながる。










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「行司、ひげの伊之助 涙の抗議」

2015-05-21 06:46:51 | 日本

物言い(ものいい)とは、大相撲において、行司が下した判定(軍配)に対し、勝負審判や控え力士が異議を唱えること。またそれから転じて、異議を申し立てること全般を「物言いをつける」ともいう。

対戦(取組)後の行司軍配に異議のある(ほとんどは、両者の体勢が微妙な状態での決着など)場合、勝負審判は、即座に手を挙げることによって意思表示をする。その後5人の勝負審判が土俵上で協議を行う。この際、ビデオ室と連絡を取り、ビデオ映像も参考にする。協議が合意に達すると、行司の下した判定の如何を問わず、改めて勝負の結果が審判長から発表される。

多くの場合は、体が落ちる、あるいは土俵を割る瞬間が同時(同体)として、勝敗の決定をせず、取り直し(再試合)となるか、そのまま行司軍配通りの結果となるが、稀に行司の軍配と逆の結果となる場合もあり、このケースは行司差し違え(もしくは行司軍配差し違え)という。なお、行司は必ずどちらかに軍配を上げねばならず、同体という判定は行司にとっては存在しない。また行司は禁じ手の有無を判断することは出来ない。
また、土俵下に控えている現役力士も、物言いをつけるための挙手をする事が出来る。審判委員は控え力士から物言いが出た場合、必ず土俵上で協議を行わなければならないが、その控え力士自身は協議に参加することは出来ない。なお、行司は取組の状況を述べる以外は協議に参加できない。

審判長から協議内容の説明の際、十両以上の取組の場合は四股名を用いて説明を行うが、幕下以下の場合は原則として四股名ではなく「東方力士」「西方力士」と呼ばれる事が有る。また「只今の協議は確認のための物言いでありまして、軍配どおり○○の勝ちといたします。」と説明する時もある。

アマチュア相撲においては「異議申し立て」という。控え力士に物言いの権利のないことや、大会にもよるが、ビデオ判定は用いられないことなどを除き、形態は大相撲とほぼ同じである。

この大相撲の「物言い」は複数の元一流選手が審判の判定をチェックするため、場外に控えているシステムはあまり他のスポーツには例の無いものである。


さて、有名な「行司、ひげの伊之助 涙の抗議」についてであるが、1958年9月場所初日、前頭7枚目北の洋-横綱栃錦の物言いで立行司の19代式守伊之助が土俵を叩いて自分の軍配の正当性を主張した。いわゆる「ヒゲの伊之助涙の抗議」である。

問題の箇所は北の洋の方が下になっていて頭からダイヴしている。また栃錦は上から突き落としているものの体は飛んでいる。この時伊之助は一旦北の洋に挙げかけた軍配を回し団扇で栃錦に挙げた。行司の心得のひとつに「負けを見て勝ちにあげる」という言葉があるそうだが、伊之助が必死に訴えている声も「先に体が落ちている」を繰り返している。物言いの際、行司は取組の状況を述べる以外は協議に参加出来ない。これは今も昔も変わらない。そして伊之助の抗議は、行司の本分をわきまえないという事で、出場停止処分となった(当初は9月場所中出場停止だったが、14日目から再出場した)
なお、この北の洋-栃錦戦の一件で、次の1958年11月場所より物言いに行司も検査役の協議に加わり発言できるようになった。









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「人生劇場の意義」

2015-05-20 08:09:28 | 日本

『還暦(れき)をすぎ、折返しなる道しるべ 物質(もの)を超えて 霊(いのち)高めん』


いくら物質的に恵まれても、また物質に執着心しても、所詮、春夏秋冬、この世のこと。物質的豊かさを捕まえようとしても捕まえきれない、夢のまた夢である。この世は、確たる生命を磨くこと、人生を通じて魂を磨くこと、そこに、この世の使命があると言うことです。


◎霊性と価値観について

なぜ人は、死んで「あの世」に持って行くこともできない富や、名誉や、地位を得ることに大切な時間とエネルギーを費やして、死んでも「あの世」に持っていくことのできる、最も大切な「霊性の向上」に努力しないのか。

それは低い価値観であると言わなければならない。低い価値観とは「価値あるものを価値がないと考え、価値のないものを価値あるもののごとく信ずる」ことであり、高い価値観とは「価値あるものを価値ありと判断し、価値なきものを価値なしと判断する」正方向の価値観を言う。

この価値観の違いは霊性の向上に伴って変化するが、これは価値観を変えれば霊性が変わるかと言うと、必ずしもそうではない。価値観というものは付焼刃(つけやいば)で変わるものではなく、霊性が向上すれば自ずから価値観が変わるのである。

鍛錬の繰り返しによって大きい渦を獲得した人は、禍(わざわい・反方向の渦の憑依)に苦しめられている人々のために、そのチカラを集中して、「反」の波動(渦)をそれが本来あるべき世界に処を得さしめることが可能となる。しかし鍛錬不足で未熟な術者が、自己の力が勝る「反」のチカラに対して無謀な挑戦をしたときは、厳しい返り討ちに合うことを覚悟しなければならない。











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