龍の声

龍の声は、天の声

「 伊藤秀雄翁 健康の教え」

2020-09-30 05:52:21 | 日本

人生は一度

悪い事ばかりするのも人生
良い事をするのも人生
何もしないのも人生

人間は生きて行くのに大切な事は
1身体の健康
2 心の健康
3 懐の健康
4 臍下の健康
5友人関係の健康
6社会的信用の健康
7特に金融機関からの信用の健康

以上が良くなる様に 毎日の努力が大事です。

最後に、人様にしてあげた事は忘れても良いが
人様にされた事は忘れてはならない。
 











「アルコール依存症とは、」

2020-09-29 09:13:24 | 日本

◎概要

アルコール依存症とは、長期間にわたってアルコールを大量に摂取し続けることによって、アルコールを摂取しないといられなくなる状態に陥る病気のことです。現在、日本では80万人以上がアルコール依存症を患っていると推定されています。
アルコールは適量の摂取であれば深刻な健康被害を引き起こすことはありません。しかし、大量の摂取を続けると脳の仕組みが変化し、猛烈にアルコールを欲するようになります。そのため、気持ちの高ぶりやイライラ感が生じ、動悸や発汗、手の震え、頭痛、不眠などの身体症状が現れるようになるとされています。なかにはアルコールによる肝障害などを発症するばかりでなく、朝から飲酒をする、仕事中に隠れて飲酒をするなど社会生活に大きな支障をきたすケースも珍しくありません。
アルコール依存症の治療は補助的に薬物療法も用いられますが、治療の中心となるのは、集団精神療法や、同じアルコール依存症を抱える人たちの自助グループに参加することです。短期的に断酒することは比較的容易ですが、再発しやすいのが特徴で、再飲酒となった場合には、すぐに断酒前の問題ある飲酒パターンに戻ってしまう傾向があります。したがって、断酒を継続するためには長期的アフターケア、特に自助グループへの継続的な参加が必要です。


◎原因

アルコール依存症の原因は、決して意志の弱さや特定の性格傾向が原因ではありません。原因は飲酒したこと、すなわち、長期間にわたってエチルアルコールという依存性薬物を過剰に摂取してきたことです。
アルコールは適量の摂取であれば程よい高揚感などをもたらし、健康に害を与えることはありません。しかし、長期間過剰な摂取を続けるとアルコールが常に体内に存在することが正常な状態と認識され、神経系の神経細胞の性質が変化していきます。そして、血液中のアルコール濃度が低下すると、神経のバランスが崩れ、離脱症状が現れるとともに、アルコールへの欲求が過剰に高まり、アルコールを摂取するためにはなりふり構わなくなるなどの行動上の変化が現れるようになるのです。


◎症状

アルコール依存症の中核的な症状は、アルコールを摂取することのメリットよりもデメリットのほうがはるかに上回っているにもかかわらず、アルコールを適量で済ませることができず、飲酒していないときでもたえず“飲むこと”にとらわれている、といった精神面と行動面の変化です。そして副次的に、血液中のアルコールが濃度が低下すると、強烈な飲酒欲求とさまざまな離脱症状も現れます。それぞれの特徴は以下のとおりです。


◎飲酒のコントロールができなくなる

アルコールへの欲求が高まるあまり、自身に適した飲酒量、時間、状況などを考慮せずに飲酒するようになります。その結果、朝から飲酒する、仕事中も飲酒する、家事をせずに飲酒を続けるなど日常生活や社会生活が困難な状況に陥ります。
また、仕事や人間関係のトラブル、家族関係の破綻、飲酒運転などさまざまな問題を引き起こすことで社会的に孤立し、それがさらなる飲酒行動を促すといった悪循環に陥るケースも少なくありません。
さらに依存状態が重度になると、体内にアルコールが存在しない時間を作ることができなくなり、日がな一日、飲酒することを続けては潰れ、目が覚めてはまた飲むといった“連続飲酒”と呼ばれる状態に陥ります。その状態では、すでに肝臓や脳などにも大きなダメージが生じていることがしばしばです。


◎精神的・身体的症状

アルコールは一定時間血液中にとどまると肝臓で分解されていきます。アルコール依存症では、血液中のアルコール濃度が低下するにともに、イライラ感、不眠などの精神的な症状、動悸・震え・発汗・吐き気・頭痛などの身体的な症状が現れます。これらの症状が“離脱症状”です。非常に重篤なケースではけいれん発作、幻覚や幻聴などが生じ、生命的な危機状態に瀕することもあります。


◎検査・診断

アルコール依存症は、日頃の飲酒量や飲酒にまつわる行動などさまざまな要因を総合的に判断したうえで診断が下されます。一般的な病気のように、血液検査や画像検査など客観的な情報から診断が下されるわけではないため、受診には普段の状況をよく知る家族などの協力が不可欠です。
また、アルコール依存症は大量のアルコール摂取による肝臓や脳への障害、栄養失調などさまざまなトラブルを抱えやすいものです。必要に応じて肝臓の機能をチェックするための血液検査、脳の状態を調べるCTやMRIなどの画像検査が行われることもあります。


◎治療

アルコール依存症治療の目標は、原則的にはアルコールを一切断つこと(断酒)です。まずは外来治療から試みますが、通院では断酒がなかなか困難な場合、あるいは、内科合併症が重篤な場合には、入院治療の適応となります。
治療にあたっては、まずはさまざまな離脱症状を緩和するために断酒初期のみ抗不安薬を投与します。
アルコール依存症の離脱症状は数日~2週間続くとされており、離脱症状が落ち着いた後は断酒を継続するためのリハビリテーションが行われていきます。治療の進め方は病気を抱える人の重症度や社会的な背景によっても異なりますが、誤った飲酒行動を正すための認知行動療法を集団療法の形で実施し、補助的に、アルコールを摂取すると気分が不快になる作用を持つ抗酒剤や、飲酒欲求が多少とも緩和する抗渇望薬の投与も行います。また、自助グループに継続的に参加することも、長期間の断酒を達成するうえでは非常に効果的と考えられています。
なお、患者が断酒という治療目標に同意しない場合には、ひとまず戦略的に減酒を試みてもらうことで、まずは治療の継続を優先することもあります。


◎予防

アルコール依存症の予防は、過剰なアルコール摂取を控えることです。
厚生労働省がアルコール依存症の発症リスクが少ないとする1日のアルコール摂取量は、純アルコール換算で20g以下とされています。これは、ビール500ml、日本酒1合、ワイングラス2杯程度に相当します。1日のアルコール摂取量が60g以上になるとアルコール依存症のリスクが高まるとされていますので、適量を心がけるようにしましょう。











「動悸と息切れの関係性は?」

2020-09-28 07:03:33 | 日本

まずは動悸と息切れが同時に起こりやすい理由を解説します。
動悸や息切れが起こりやすいシーンといえば、スポーツや階段の上り下りなどで体を動かしたときです。急いで階段を上ったり運動したりすると、筋肉内で酸素が大量に消費されるため、私たちの体内から酸素が不足した状態が脳の呼吸中枢である延髄に伝わり、呼吸が速くなりすぎると息切れが起こります。また、全身に酸素を運ぼうと、心臓が速く活発に動きすぎると動悸が発生するのです。

◎精神的なストレスも動悸や息切れの原因に

しかし、激しく体を動かしていないにもかかわらず動悸や息切れが起こることもあります。
この場合は、精神的なストレスが原因の可能性があります。精神的なストレスが蓄積されることでストレスホルモンが増加したり、自律神経が乱れて不安に感じたりすると酸素が不足しているように“錯覚”してしまい、動悸や息切れが生じるのです。
あくまでも酸素が不足しているように“錯覚”しているだけなので、呼吸が速くなると酸素を取り込みすぎて過換気症候群に陥ってしまうことがあります。過換気症候群とは、体が過呼吸の状態になることでさまざま症状が出る状態です。

◎女性の場合は貧血や妊娠が関係することも

女性の場合は、妊娠や貧血によって動悸や息切れを感じやすくなることがあります。
妊娠初期は女性ホルモンの乱れや精神的不安、妊娠後期は循環血液量が増加することによる動悸や母体の酸素の低下が息切れの原因であると考えられます。
また酸素を運ぶ役割のあるヘモグロビンの生成が減少して貧血状態になると、全身に酸素を届ける量が減ってしまいます。それによって体内から酸素が不足して、動悸や息切れなどの症状が現れるのです。
その他にも、動悸や息切れの原因には以下のようなものが考えられます。

●運動不足
普段から運動をしていないと、体を動かした際にスムーズに筋肉に酸素を運ぶことができず、動悸や息切れが起こりやすくなることがあります。

●高血圧、糖尿病 
血圧が高くなることで心臓疾患が発症したり、糖尿病によって動脈硬化等が発症したりすると、動悸や息切れが起こりやすくなります。

●更年期障害
更年期障害の症状でもあるホルモンバランスの乱れや情緒不安定が、動悸や息切れの原因になることがあります。

●食後
食後は胃に血液が集中するため、全身から酸素が不足しがちです。それによって、食後に動悸や息切れを感じやすくなることがあります。

◎不整脈や心不全との関係は?

心不全や不整脈が原因で、動悸や息切れが発生している可能性があります。
不整脈とは、心臓の拍動リズムが不規則になった状態です。不整脈は加齢、高血圧、肥満、ストレス、睡眠不足等によって起こりやすくなるといわれています。
心不全は、心臓のポンプ機能が低下することで、全身に必要十分な血液を送ることができない状態です。
不整脈や心不全は、日常生活に支障をきたしたり、最悪の場合は突然死を招いたりするケースもあるので十分に注意しましょう。

◎動悸、息切れに伴い頭痛や吐き気が出る理由

ストレス等によって自律神経が乱れると、めまい、冷や汗、貧血、頭痛などの症状がでる場合があります。また自律神経の乱れによって消化器官が弱ってしまうと、下痢や吐き気などを感じることもあります。
動悸や息切れが直接これらの症状を引き起こすわけではありませんが、動悸や息切れの原因である自律神経の乱れが、さまざまな症状を引き起こしてしまうのです。
動悸、息切れが出た場合の対処法は?
動悸や息切れが気になる場合は、市販の漢方薬を試してみても良いでしょう。動悸や息切れを抑える漢方薬には、心臓をゆっくり・もしくは強く動かす効果が期待できます。
市販の漢方薬で症状が治まったとしても、何度も動悸や息切れを感じたり症状が継続したりするようであれば、一度クリニックを受診して精査するのがおすすめです。
内科、循環器科、呼吸器科を標榜しているクリニックを受診しましょう。ストレスが動悸や息切れの原因となっている場合は、心療内科や精神科にて治療を行うケースもあります。

◎適度な運動とストレス解消が重要

もし動悸や息切れが起こった場合は、まずは深呼吸をして呼吸を整えましょう。
そして、普段からよく運動することが大切です。運動によって心臓や肺を健康に保つことができますし、運動不足による動悸や息切れの予防にもつながります。さらに質の良い睡眠を十分にとって、自律神経を整えるように心がけてください。ストレスも自律神経の乱れを招くので、リフレッシュの時間を適度に設けたりストレスの原因を除去したりすることで、ストレスの少ない生活を送りましょう。














「日本精神」を取り戻す (その2)」

2020-09-27 07:20:18 | 日本

菅家一比古さんから言霊の華が届いた。
以下、要約し記す。

日本列島は、縄文以前より人々が住み暮らしていました。縄文草創期は約2万年前と言われておりますが、それより以前、3万年以上も前、旧石器時代があり、それらの遺蹟からも数多くの遺物が発見されております。群馬県で発掘された「槍先型尖頭器」は3万年前のものです。

日本は旧石器時代が縄文の源流であって、その延長線上に縄文文化が花開いたのです。特筆すべきことは、数万年に及んだこの時代、侵略されたり、侵略したりしたことが一度もなかったことです。その証拠に武器など一つも見つかっていません。

たとえ渡来人に侵略掠奪の意図があったとしても、この島で生活し始めると、それらは消滅し、穏やかになってしまうのです。大八洲(おおやしま・日本列島)の持っている霊的磁場がそうさせます。

しかし外国ではこうは行きません。ヨーロッパ大陸でも北米大陸、中南米大陸、中国、中央アジア、中近東でも侵略され侵略する歴史の連続だったのです。あのイギリスでさえ数多くの侵略戦争の歴史の場でした。そこで思うことは、日本精神とは世界で特殊、特有、特筆な奇蹟の精神であり、精神文化だと云うことです。

だからアメリカ精神、イギリス精神、フランス精神、中国精神などの固有名詞など馴染みがないのであり、日本だけが日本精神、大和魂という固有名詞が現在(いま)も生き続けて、人々の中に生き続けているのです。

それでは日本人が忘れ去ろうとしている日本精神とは何か。それは先ず、神話(フィクションではなく)が宇宙開闢(かいびゃく)から現代まで続いているということです。

神話と二十一世紀が日本では別々のものではなく、一つのものとして生き続けているのです。そして「万世一系の天皇」の概念にあるのは、悠久の過去から永遠の未来へと流れる時間が内包されていることです。

いま生ける天皇は、それらを生ける神話として象徴、体現され、宮中祭祀をされています。
占領下にアメリカ軍によって押し付けられた憲法によって定義された、天皇を象徴しているのではありません。永遠不動なる日本国の中心なのです。

日本精神とは、その中心に向かう心、帰一していく心であり、それを抜きにしては成り立つことなどできないのです。日本精神とは、数万年に及んだ睦み合い、称え合い、感謝し合い、分かち合い、支え合い、助け合いの精神であり、それらが古事記(ふることふみ)に述べられているのです。

それを体現し、代表しているのが日本国天皇。天皇(スメラギ)の大御心を生きる。天皇の大御心に帰る。即ち、中心帰一すること。それによって調和が生まれ、平和がもたらされ、繁栄が訪れるのです。その中心帰一は、神仏、ご先祖、父母、先人、御英霊に向かう心と同じです。

縦糸をしっかり結ぶことにより、横糸は自ずと結ばれます。日本精神を失った日本人は、縦取り(中心帰一)を忘れ、横取り社会になってしまったのです。












「天皇のしらす國」

2020-09-26 09:33:38 | 日本

西村真悟さんが「天皇のしらす國」と題して掲載している。
以下、要約し記す。


そもそも、日本とは、天照大御神が「天壌無窮の神勅」において、神武天皇に国の創業を促してできた国である。
しかも、この原点の神勅が、天皇を、「国民に命令するエンペラー」とせずに、その地(くに)の民と、「自他の区別を無くして家族のように一体になれ」、と促されただけだ。
そして、現在の天皇陛下も、神武天皇以来この天壌無窮の神勅通りである。
これが、万世一系ということだ。

即ち、生涯を古事記の研究に費やした本居宣長は、古代大和言葉の「しらす」と「うしはく」の違いを自覚して、「しらす」こそ、日本が日本である根源だと得心する。
「しらす」とは、人が外物と接する場合、自分以外にある他のものを、皆、わが身に受け入れて、他のものと我とが一つになること、すなわち、自他の区別がなくなって一つに溶け込んでしまうこと。
「うしはく」とは、ある地方の土地、人民を、我がものとして、我が私有物として領有支配すること。

天照大御神の「天壌無窮の神勅」は、次の如し。

豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂國は、是吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(く)なり。
宜しく爾皇孫(いましすめみま)就(ゆ)きて治(しら)せ。
行矣(さきくませ)。
寶祚(あまつひつぎ)の隆えまさむこと、當に天壌(あめつち)の與(むた)窮(きはま)りなかるべきものぞ。

また、天照大御神は、建御雷神(たけみかづちのかみ)を通じて大国主神に、「爾がうしはける芦原中國(なかつくに)は、我が御子のしらす国ぞ」と告げられる。
すると大国主神は、天照大御神に従い、その御子に、自分が領有統治する国を譲られる。
即ち、自分の「うしはく」国を、天皇の「しらす」国にしたのだ。
大国主神の国譲りの、とてつもない尊さはここにある。
まさに「奇しき御業」だ。

出雲大社参拝の際の美智子皇后陛下御歌

國譲り祀られましし大神の奇しき御業を偲びて止まず

つまり、わが日本は、神勅による国の始まりから「天皇のしらす国」だ。
よって、
天皇と国民が一つの家族のように溶け合っている我が国においては、主権が天皇にあるか国民にあるか、西洋のように革命を起こして決定するべき前提がない。
つまり、一つの家族の如き「部族」においては、欧州のように国王から国民主権になったことを
「コペルニクス的転換」と騒ぐ必要はない。
日本には、一神教のドグマはなく、そのように騒ぎたくなるような野蛮未開な中世はない。
従って、ドイツとフランスに留学し、帰国しては古事記をはじめとする古典研究に没頭した明治の大日本帝国憲法起草者井上毅は、天皇の「しらす」の本質から見て、国の君主か国民かの何処に「主権」があるのかという欧米の国家概念は、我が憲法に入る余地はないと判断した。
よって「主権」という言葉は大日本帝国憲法に書かれていない。
これが正しい。
「主権」を入れた日本国憲法(マッカーサー憲法)第1条はウソであり、空文であり、無効文である。

笑止なのは、大日本帝国憲法のもとでの東京帝国大学の憲法学の教授が、戦後、日本国憲法(マッカーサー憲法)のもとでの東京大学の憲法学の教授となったとたん、昭和二十年八月十五日に、日本にクーデター(革命)があったと言いだして、マッカーサーとGHQに迎合したことだ。
これを、アホという。
マッカーサーに聞け。
八月十五日にクーデター(革命)などあるか。
九月二十七日午前十時から三十五分間、アメリカ大使館公邸で、マッカーサーは天皇の謁を賜った。
退出される天皇を見送るマッカーサーは、天皇に、Your Majesty!と呼びかけているではないか。

問題は、この曲学阿世の弟子および孫弟子・曾孫弟子が現在に至るまで、東京大学や各主要大学の憲法講座を担当していることだ。
この欺瞞に満ちたおもねり、これが、「戦後」だ。














「ミッドウェイ海戦とは、⑥ 敗因は何か?」

2020-09-25 06:48:18 | 日本

空母機動部隊をせん滅するかミッドウェイ島を攻略するかを一つにする
先の章でも述べました空母機動部隊からの東京空襲による国土防衛の為に、この作戦が必要かどうかを検証した場合、ミッドウェイ島に空母機動部隊をおびき寄せそれをせん滅する事で、当面の太平洋上における海軍力の優位性は確保されていたのは間違いありません。(アメリカ側はサラトガ1隻のみで大西洋にも作戦行動中)ミッドウェイ島を占領したところで兵站が困難で、その他の条件も考えても島を奪取する事は2の次と戦略上考えるべきです。

結論、目的を空母をおびき寄せ、そこに集中した兵力を投入しせん滅する事
様々な文献や両軍パイロット証言から今まで伝わって来たミッドウェイ海戦と模様が違った事が次第に解明されてきました。総合的に書かせていただきますが、”魔の5分間”と云うのは単なる日本軍参謀たちの方便だった云う事です。それを基にしてこの検証を進めて行きます。
1942年5月27日 南雲忠一中将率いる第一機動部隊は広島湾を出撃した。
旗艦の空母「赤城」を筆頭に、ミッドウェー攻略作戦に参加する艦艇は150隻、航空機が1000機以上、参加した将兵数が約10万人と、まさに史上空前の作戦でした。

「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」の空母4隻を伴い北太平洋上に進撃。山本五十六連合艦隊司令官の戦艦「大和」を期間とする艦隊は後から続いた。(ミッドウェイ海戦では、作戦海域の後方500キロ離れた海域で行動)


◎話をさかのぼる事1か月前のアメリカ軍部

アメリカ軍部は日本の海軍の持つ暗号システムを解読に成功し、その全貌を把握していました。特にアメリカ軍はオーストラリアとの連携を遮断するため太平洋に浮かぶフィジー諸島が日本海軍進出海域と想定していましたが、囮の暗号で目的海域がハワイ沖合西方2千キロ離れたミッドウェイ島と云う事が判明しました。
そこに、前月の海戦で損傷した空母「ヨークタウン」をたった3日で航行可能にして、戦力にしました。それに「エンタープライズ」「ホーネット」2隻を加えて3隻の空母とミッドウェイ島の航空部隊が日本空母部隊に立ち向かう体制で海域に展開しました。

日本とアメリカ側の戦力は以下の様です。

          日本     アメリカ
空母         8       3
戦艦        11       0
重巡洋艦      17       7
軽巡洋艦      7        1
駆逐艦       70余      11

勿論この時点では日本側は敵の戦力の把握が出来ていませんでしたが、航空母艦を主力とする海戦では滑走路と艦載機が多い方が有利です。これは、紀元前5世紀頃のギリシャ連合とマケドニア王国の戦いから現在に至るの軍事セオリーだからです。
では、雪合戦に落とし込んでみると、ここでは、勝つと云うゴール設定での戦略戦術を駆使して戦う事を想定しての見解です。スポーツ雪合戦では、4人のフォワードFWと3人のバックスそして作戦を指示する監督(Director )がキーパーソンとなります。
雪合戦に於いては、4人のフォワードFWは艦載機からくる攻撃機 この4人をマークし球を避ける事がチームを勝利に貢献する大きな要因となります。  そして雪球の補給を止め、フォワードの戦力を無きモノにする事が勝利に繋がる大きな要因です。つまり、BK3人をアウトにさせれば、フラッグ奪取しか選択肢のないFWの行動を制限させ(航空母艦が無ければ不時着しか方法が無い)爆弾を持たないFWには怖がらずに集中して雪球を当てる事が出来ます。(スポーツ雪合戦は奥が深いです。)


◎知っていたにも拘らず、空母部隊に知らせなかった山本長官

ミッドウェイに行く途中、空母部隊の動きを予想して潜水艦10隻以上を海域で作戦行動を取っていました。しかしながら既にアメリカの空母部隊はその海域を通過した後だったので海域を特定する事が出来ませんでした。しかしながら、アメリカ軍の電波を傍受し、ミッドウェイの海域に空母が3隻行動している事を把握できました。
その事実を戦艦大和の山本五十六司令長官の所まで届きましたが、電波の感度に優れない空母にはこの件が伝わらなく、また確認のための電信も打たなかったため、米軍空母部隊が接近中だと云う事を知らないまま、戦闘行動に移りました。


◎スポーツ雪合戦でもコミュニケーションが大事

雪合戦に換言すれば、後方から空母である相手BKが前に出てきている事を監督ならびに自チームBKが前線のFW陣に伝えないでいる事と同じで、それだけでも行動に遅れが生じ勝利から遠のく結果に繋がります。全員が共通の危機意識を共有する事が現場レベルでどれだけ大事かを学ばされるウィンタースポーツです。


◎ミッドウェイ島に向け第一陣攻撃陣発進

昭和17年6月5日早朝、日本軍空母部隊はゼロ戦を含む108機の攻撃陣がミッドウェイ島に向け飛び立ちミッドウェイ海戦がはじまりました。発艦から約二時間後、ミッドウェイ島に爆撃をはじめました。当初から暗号を解読し作戦を予測したアメリカ軍地上基地の航空機は全機飛び立っており、より重厚な地上からの対空攻撃に遭い第一陣攻撃隊は思うような成果が挙げられず第二次攻撃隊の要請を打電しました。
その頃、日本空母艦隊はアメリカ空母部隊を想定し、魚雷を攻撃機に取り付けてゴーサインを待つばかりでした。
ほとんど同時刻、アメリカ軍も日本空母部隊の位置を確認。ミッドウェイ島から爆撃機が飛び立ちました。また、その水域に到着した米潜水艦が空母「赤城」に対して魚雷攻撃の準備をしていました。

魚雷を発射、水しぶきと航跡が見えて、空母「赤城」はあわてて舵を取り、回避。その潜水艦を沈めるため、日本の駆逐艦が隊列を離れ潜水艦駆逐のため爆雷を投下、アメリカ潜水艦は深くもぐり、エンジンを止め、駆逐艦の攻撃がやむのを待っていました。


◎日本のパイロットは優秀

日本空母部隊に向けミッドウェイ島の爆撃隊はゼロ戦と対空砲火で全機が撃墜され、日本側に被害は有りませんでした。空母部隊から派遣した偵察機が空母らしき艦隊を見つけて打電、空母艦隊の南雲中将たち指揮官たちは大慌て、空母飛龍の艦長の山口多聞少将は、地上攻撃の爆弾のままのアメリカ機動部隊の攻撃を提案しますが、戦闘機の護衛が不備の理由で却下。空母部隊は地上攻撃の爆弾から艦船用の魚雷への兵装転換を再び行います。
時すでに遅し!



<了>










「ミッドウェー海戦とは、⑤ 運命の5分間」

2020-09-24 07:05:52 | 日本

戦後、日本の空母三隻が被弾、炎上する直前に赤城では攻撃隊の戦闘機が発進しようとしており、あと5分あれば攻撃隊は発艦できたとする話が紹介された。これは「運命の5分間」として広まったが、第一航空艦隊参謀長だった草鹿龍之介が文藝春秋の昭和24年10月号に書いたのが最初である。

また、昭和26年に出版された淵田美津雄(当時、病気で横になって赤城の発着指揮所から見ていた)と奥宮正武との著書でも「運命の5分間」が書かれた。「被弾した時(日本の三空母が急降下爆撃された時)、各空母甲板上には発進準備を終えた戦闘機隊、雷撃機が整列しており、アメリカ軍の攻撃があと5分遅ければ全機発進できた」と淵田中佐は記述している。この本は『ミッドウェー』であるが、その影響は大きく以後日本のミッドウェー海戦に関する戦記はこの本の記載を概ね踏襲したものとなった。また『ミッドウェー』は昭和30年代に英語版で出版されており、アメリカ海軍の歴史家サミュエル・モリソンの著書『History of United States Naval Operations in World War II』のミッドウェー海戦に関する章が、英語版『ミッドウェー』の記載に沿う形で増補改訂されたことから一般的な説として広まったという意見もある。英語版『ミッドウェー』が出版された後に出版されたミッドウェー海戦の戦記では、執筆に協力したマクラスキー少佐やベスト大尉等のアメリカ海軍のパイロット達が「各空母の甲板には航空機は並んでいた」と述べたことも相まって、海外においても「運命の5分間」はほぼ定説と見られるようになったとする意見もある。

しかし、戦史叢書『ミッドウェー海戦』には、第一航空艦隊の戦闘詳報を元に「この時点で攻撃隊の発艦準備は終了していない」と記載されており、10:20に出されたとされる発艦命令は10:22に出された「上空直掩機は準備ができ次第発艦せよ」という命令が誤解して広まったものだとしている。また、各空母の複数乗員は「攻撃隊は並んでいなかった」「上空直掩を行う戦闘機の準備がなされていた」という回想を残している。第一航空艦隊航空参謀だった源田実も5分説を採用していない。赤城雷撃隊の松田憲雄電信員は、ちょうど「第二次攻撃隊員整列」のアナウンスがあり、搭乗員達が出撃前にお茶を飲もうと一息ついた時だったと証言している。蒼龍雷撃隊の森拾三兵曹は被弾後に搭乗員待機室から外に出た際に、「艦爆搭載の250kg爆弾が格納庫の中で誘爆している」と聞いたという。また、アメリカに残された赤城の日誌等の日本資料を調査したJ・パーシャルやA・タリーの調査では、B-17が撮影した蒼龍、飛龍、赤城の飛行甲板の写真に航空機は並んでいない事から、山口の進言に従っていれば「運命の5分間」は避けられたとする説には無理があるという意見もある。しばしば使用される「運命の5分間」というのは単なるたとえであって、実情が5分でないことは昔からわかっていてはるか以前から死語になっているという主張もある。

「運命の5分間」が生まれた理由は次のように考察されている。戦時中捕虜となった豊田穣は、ハワイでミッドウェーの報道を新聞で読んだ中に、数分あれば日本の攻撃隊は全機発艦完了して勝敗は逆になっていたというものがあり、草鹿、淵田は戦争直後にアメリカの調査と接触しているため、5分説はこの辺から出てきた可能性を述べている。攻撃隊の発艦準備が進んでいれば戦闘機の発着艦も不可能なはずだが、各空母は被爆する15分前から上空直掩用の戦闘機を複数回発着しており、各空母が攻撃隊の準備を完了していたとは考え難いこと、合わせて当時攻撃を行ったアメリカ海軍のパイロット達も「各空母の甲板に航空機は並んでいたのは確かだが、そんなに多くは並んでいなかった」との証言を残していることを踏まえ、アメリカ軍の急降下爆撃を受けた際には攻撃隊の発艦準備は終わっていなかったと考え、「運命の5分間」は当初第一航空艦隊司令部が出した発艦準備完了時刻が10:30であったことと、南雲長官が10:22に出した上空直掩機の発艦命令が誤解されて広まったのではないか、という意見もある。再度の兵装転換であと30分も40分もかかってしまったでは身も蓋もない。あと5分の方が読む方も口惜しく感じること、一瞬で負け戦に転じた事への万感胸に迫る思いがこの言葉にあることから定着してしまったという意見もある。草鹿参謀長や淵田中佐が、攻撃隊の発艦準備が整っていなかったにも関わらず「あと5分の余裕があれば」と劇的なストーリーに脚色した事について、南雲司令部の決断ミスによって敵空母対策が後手に回った失態を包み隠そうとしているとの意見もあるが、草鹿参謀長は著書で敵空母への攻撃が後手になった責任を記述している。 第一航空艦隊司令部航海参謀だった雀部利三郎は、5分間というのは草鹿のその場の実感だろうという。

作家の澤地久枝は、第一航空艦隊が第一次攻撃隊を発進させた直後に「敵情に変化なければ第二次攻撃は第四編成をもって本日実施予定」という予令(0220信)を出した未公開資料を新発見したとして、「運命の5分間」は0220信で兵装転換を始めて失敗したことを隠蔽するための誤魔化しと主張した。これに対し、豊田穣(元海軍軍人で作家)は、0220信は戦史叢書ですでに公開された情報であることを指摘。さらに5分説は海軍の定説と主張する澤地に対し、海軍軍人が作成した戦史叢書や代表的な海軍軍人である源田実は5分説と異なる立場を取っており、海軍の定説ではないとし、澤地の勉強不足を批判している。また、赤城の風紀軍規担当だった芝山末男中尉は、予令で兵装転換を発動することはないし、そんなことをしたら大問題と述べている。そのため、豊田は、たとえ予令で兵器員が独断で行動を開始したとしても、監督不行き届きかもしれないが、草鹿に責任はなく5分説で隠す必要もないと主張している。


◎暗号解読を報じた米新聞

アメリカ海軍が日本海軍の暗号を解読して待ち伏せしていたことは、ミッドウェー開戦直後の6月7日、シカゴ・トリビューン系列新聞で"Navy Had Word of Jap Plan to Strike at Sea."という見出しの特ダネ記事として報じられた。シカゴ・トリビューン社は、フランク・ノックス海軍長官が経営するシカゴ・デイリー・ニュース社と競合する反ニューディール派の新聞社だった。この記事はアメリカ側で大問題となり、日本側が暗号被解読を察知する機会は存在していた。





















「ミッドウェー海戦とは、④ 南雲忠一第一航空艦隊長官の資質」

2020-09-23 11:16:15 | 日本

◎指揮官の資質

連合艦隊の幕僚たちは南雲中将に批判的であり、交代を要望しており、草鹿参謀長にも批判的であった。また宇垣によれば、「(一航艦)司令部は誰が握り居るや」の質問に二航戦司令官の山口少将は「(南雲)長官は一言も云はぬ、参謀長先任参謀等どちらがどちらか知らぬが臆怯屋揃いである」と答えている。攻撃隊の指揮官だった淵田美津雄によれば、戦前の南雲中将の印象は末頼もしい提督の面影があり、第一水雷戦隊司令官としても抜群の武将であるとの評判が高かったが、開戦後は航空という畑違いのせいもあってかはつらつとした昔の闘志が失われ、何としても冴えない長官であり、作戦を指導する態度は消極的で、長官自ら乗り出してイニシアチブをとるというようなことはなく、最後にうんそうかで採決するだけのようであったという。また当時、航空参謀の源田実から、大西瀧治郎や山口多聞あたりが上にいてくれるとあらゆる角度から叩き直して突っ返してくるから安心して自由奔放に作戦を練られるが、南雲司令部のように国運を左右するかもしれない案がチェックされずに通っていくと責任感で圧迫されて自然と萎縮してしまうという苦衷も聞いたという。

そもそも南雲中将は第二艦隊などの水上艦部隊の方が適任であり、年功序列で第一航空艦隊司令長官を決めた海軍人事行政に問題があったという指摘もある。一方で、戦術戦略には共通分母があり、水雷出身者でもあっても空母に乗って半年も経てばそれが判るはずだったとの批判もあるドウェー海戦で米機動部隊を率いたスプルーアンスは、病気に倒れたハルゼーの代理で、ハルゼー麾下の巡洋艦戦隊の司令官から急遽抜擢された人物であり、空母勤務の経験は無く、この海戦の時点では南雲以上に航空に疎い提督だった。


◎攻撃の判断

・攻撃隊半数待機の解除
南雲長官は、敵機動部隊の出現に備えて攻撃隊の半数を雷装で待機させることを連合艦隊と約束したが、ミッドウェー基地攻撃が不十分であるとの報告を受け、その攻撃隊を陸用爆弾に兵装転換するように命じ、敵機動部隊出現の際に攻撃できなかった。
草鹿参謀長は「山本の望みは南雲も幕僚もよく知っていた。事実状況が許す限りそうした。しかしミッドウェー基地の敵航空兵力がわれわれに攻撃を開始し敵空母も発見されていない状況でいるのかどうかわからない敵に半数を無期限に控置しておくのは前線指揮官にとして耐えられないことだった。後で問題だったとしてもあの当時の状況では南雲の決定は正当だった」と語っている。プランゲ元GHQ戦史室長は、当時の南雲の状況に加えて、連合艦隊からの敵情情報も敵艦隊なしだったことから、南雲の判断は妥当とし、指揮上の失策ではなく、情報上の失策であると分析している。一方、南雲司令が攻撃隊の半数待機を破る命令を出したのは索敵機が索敵範囲の先端に達する前であり、(攻略中の)図上演習において不意に米空母部隊が出現して日本が大損害を受けたことから警戒が足りなかったという批判もある。蒼龍に乗船していた攻撃隊パイロットは「ミッドウェーで日本軍が従来の教科書的な戦法から脱し得ず、敵空母確認の報告が入るまで艦船攻撃の用意をしないで基地攻撃に囚われ続けてしまった」と述べている。加賀の艦攻隊分隊長の牧大尉は「空母はいるかどうかわからない」と考えておらず、「ミッドウェー攻撃のあいだに敵空母が出現したら味方はお手上げだ」と飛行長に雷装を解かないよう抗議したが、聞き入れてもらえなかったという。
南雲司令部は、第一次攻撃隊発進直後、「敵情に変化なければ第二次攻撃は第四編制をもって本日実施予定」と発信している。この予令は存在しないという証言もある。第四編制では上空警戒機は各空母で3機ずつとなる計画だった。この予令にはミッドウェー基地への奇襲が成立するという判断があったという意見もある。この予令が存在したとして、予令で兵装転換の作業を開始することはない。

南雲の敵状判断は、第一次攻撃隊を発進させる直前のものとして、敵機動部隊は付近海面に行動中と推定する資料がないこと、攻略作戦が始まれば、出動してくる算があることが述べられている。南雲の幕僚も敵がこちらの企図を察知していないもの、敵空母はハワイにあるものとして行動していたと証言している。敵機動部隊については、連合艦隊が把握し、動向は機を逸せず南雲に通報し、また重要な作戦転換は連合艦隊司令部から発せられることになっていた。しかし、連合艦隊は付近に敵空母の疑いを感じ、情勢が緊迫してきたと判断しながら甘い状況判断の放送を東京から全部隊に流したまま、自己判断を麾下に知らせなかった。航空参謀の吉岡少佐は、敵機動部隊の出現がないと思い込んだ判断を敗因として、「敗北の責任は連合艦隊司令部も同罪」と語っている。


◎敵機動部隊発見時

敵艦隊を発見した報告があった際、攻撃隊は艦船攻撃兵装から陸上攻撃兵装に換装中だったため、南雲は艦船攻撃兵装への再転換を命じた。二航戦司令官山口少将は、準備中の陸用爆弾のままで攻撃させるように意見具申したが、却下された。参謀長草鹿龍之介少将によれば、九七艦攻を雷装に戻すよう命令した南雲長官の判断は命中率の差があったという。九七艦攻の艦船攻撃方法には、爆弾の水平爆撃と魚雷攻撃の2つがあるが、水平爆撃の命中率は10パーセント前後であり魚雷攻撃は60パーセント以上だった。
この判断を下した南雲司令部の回想は以下の通り。草鹿参謀長によれば、敵の来襲状況を見ると敵は戦闘機をつけずに面白いように撃墜され、全く攻撃効果をあげておらず、これを目前に見ていたので、どうしても艦戦隊を付けずに艦爆隊を出す決心がつかなかったという。航空参謀源田実中佐は、当時入手していた敵空母の位置(誤情報)は味方からまだ約210浬離れており、敵の艦戦は航続力不足でついてこられず、敵が艦戦を伴わないとすれば上空の警戒機で十分に防御できる、敵空母の攻撃隊が戦闘機を付けて来るとすれば、もっと距離をつめる必要ができるため、時間的余裕があると判断した。また、図上演習ならば文句なしに第一次攻撃隊を見捨てたが、苦楽を共にしてきた戦友達に「不時着して駆逐艦に助けてもらえ」とは言えず、機動部隊が移動すれば、不時着した搭乗員達は見殺しになるので歴戦の搭乗員達の回収を優先させることを進言し、部下の生命を惜しんだために決定的な敗北に終わったと語っている。航空参謀吉岡忠一少佐は「いままでの防空戦闘の成果からみて、敵機の来襲は艦戦で防御できると漠然と判断していた。また敵空母までの距離はまだ遠いので、次の来襲はミッドウェーの航空兵力であろうが、それにはまだ相当の時間的余裕があると判断した。さらに攻撃は大兵力を集中して行なう方が戦果も大きく損害も少ないので、若干攻撃隊の発進を遅らせても、大兵力が整うのを待つ方が有利であると考えた。この決定は司令部内では問題もなく簡単に決まった」と語っている。

南雲中将には陸用爆弾への兵装転換を下令してから30分しか経っていない上、防空戦があり、飛行甲板も使えなかったため、転換作業はほぼ進んでおらず、雷装に簡単に復旧できるという判断があったという意見がある。しかし、兵装復旧を命令したものの防空戦が続いたため、南雲中将の予想に反し復旧作業は進捗しなかった。当時の進捗状況については、空母に搭載されていた航空兵装運搬用の台車の数や、海戦前に第二航空戦隊が行った兵装転換実験での所要時間から考えても、兵装転換を開始した午前4時15分(07:15)から一時中止を命令した午前4時45分(07:45)までの間に赤城と加賀の兵装転換はそれぞれ1個中隊(9機)が済んでいただけではないかという意見もある。一方、整備員や乗組員たちの懸命の作業で南雲司令の予想に反し兵装転換はかなり進んでおり、九七艦攻の大半が陸用爆弾の搭載を終えていたとの意見がある。赤城に搭乗していた第二次攻撃隊の電信員も、5時40分(8:40)頃、赤城艦内で(17機中)15~16機の九七艦攻の陸用爆弾の搭載が完了していたと回想している。第一次攻撃隊の収容が終わった6時半(9:30)頃、「一航戦の雷装艦攻は7時30分(10:30)発進可能、二航戦の艦爆隊は7時30分(10:30)ないし8時(11:00)に可能」との報告があったが、加賀で発進準備の完了を待っていた艦攻隊分隊長の牧大尉によれば、7時20分(10:20)の時点でも「(換装終了まで)あと小一時間かかる」という状況だったという。二航戦の飛龍、蒼龍においてもミッドウェー攻撃隊を収容した事で九七艦攻への魚雷の装備を開始することとなった。蒼龍艦内で兵装転換作業に当った整備兵も、戦闘中の艦では平常航海中のように順調な作業はできず、右に左に転舵する蒼龍の動きに「どうなってるんだ」と途方に暮れ作業は遅々として進まなかったと述べている。赤城艦内で兵装転換を行った整備兵は、度重なる兵装転換で疲労が溜まった上、回避運動で揺れる艦内では「気は焦っても体は伴わなかった」と証言している。

同様の兵装転換作業がミッドウェー海戦の2か月前のセイロン沖海戦でも発生しており、その戦訓を生かせなかったという批判もある。ただ、セイロン沖海戦では1時間半では済んだものがミッドウェー海戦では2時間でも完成しなかった。敵襲を考慮しても2時間あれば十分で、原因としてミッドウェー海戦では直掩戦闘機の補給も同時に行っていたことが挙げられる。また、第一航空艦隊はこの海戦において敵の来襲の無い好条件下でも艦攻の出撃が間に合わなかったので、兵装転換の実験を飛龍で実施した。問題の通常爆弾から魚雷への転換は2時間という結果が出ている。飛龍で実験が行われたことから、艦長の加来止男大佐から、あるいは第二航空戦隊司令官の山口少将からなんらかの改善に関する報告があって、問題を未然に防ぎえたかもしれないという意見もある。兵装転換に関しては、加来艦長が飛龍の整備兵に対し転換作業の訓練を行い、陸用爆弾から通常爆弾への転換なら30分以内に完了できるまで上達していたが、それも5月に大幅な人事異動があったため訓練は振出しに戻っていた。飛龍の航空整備兵は「バカな命令を出したなと思った。爆装から雷装への転換なんて一度も訓練をした事がないのに、偉い人はそんな事も考えていなかったんだろう」と述べている。

陸用爆弾のまま攻撃させることについて以下のような意見がある。参謀長の草鹿少将は、空母は攻撃に対して脆弱であるため、護衛戦闘機を付けられるだけ付けて、陸用爆弾であっても、一切の人情を放棄して第二次攻撃隊の出撃を優先すべきだったと反省している。航空参謀の源田中佐も、心を鬼にして出撃させていれば、相打ちくらいにはできたと反省している。戦後の批判でも同様の点があげられる。6時23分(9:23)から7時(10:00)までの間、赤城から8機(後に2機を収容)、加賀、蒼龍から合計15機、飛龍から7機の戦闘機が上空直掩のため度々着艦、再出撃を繰り返しており、二航戦の艦爆隊36機に、在空の戦闘機隊から選抜して燃料、弾薬を補給すれば、遅くとも7時(10:00)には、12機の護衛戦闘機を付けて出撃できたとする見解もある。蒼龍攻撃隊のパイロットは攻撃隊の出撃に関して「近くに敵空母の所在がほぼ明らかとなり、確実に発見していない時点で攻撃隊をいち早く発艦させて、索敵機の発見報告があるまで上空待機させておくべきだった」と述べている。二航戦の艦爆隊を緊急発進させた後に第一攻撃隊を収容させ、雷装の準備で特に手間取っていた一航戦の空母の負担を減らすといった平時ではない対応や、南雲中将が四空母全てを指揮せずに、二航戦の飛龍、蒼龍を山口の指揮下として分離させる選択肢もあったとする意見もある。混乱する艦内で取り外した爆弾を整理する余裕もなく、格納庫内は多くの魚雷、爆弾、燃料を搭載した艦載機で満載となり、三空母被弾の際の誘爆原因となったとする意見もある。アメリカ海軍歴史センター所長(1988年当時)のロナルド・H・スペクター博士は「アメリカの戦闘機は、戦争のこの段階では日本より劣っていた」とする見解から、戦闘機の護衛無しに日本の艦爆隊36機が出撃した場合でもアメリカ空母の上空哨戒機によって全て撃ち落される事は有り得ないと述べ、二航戦の艦爆隊がアメリカ空母部隊に多大な損害を与えただろうと分析している。一方、プランゲ元GHQ戦史室長は、山口の進言は余計なもので、南雲は航空攻撃の奇襲性と迅速性の価値を理解しているが、山本や天皇に対して責任を負い、幾千の将兵の命を預かる立場であったことを指摘し、また南雲は理論的には非難の余地のない作戦決定をしたものの裏目に出ただけで、主導権を失っていることに気づかなかったことも入手情報から非難できず、当時南雲は中途半端な攻撃をさせる必要もなかったと述べている。


◎索敵

南雲司令部は、偵察を1回のみの1段索敵として巡洋艦の水上機が割り当てられ、空母艦載機が出した索敵機は九七艦攻2機のみである。この索敵計画の立案を担当した吉岡忠一少佐は「当時攻略作戦中敵艦隊が出現することは、ほとんど考えていなかった。そのため、索敵は厳重にするのがよいことはわかっていたが、索敵には艦攻を使わなければならないので、攻撃兵力が減り、惜しくて索敵にさけなかった。全く情況判断の甘さが原因である」と語っている。一段索敵と決めた参謀長草鹿龍之介は「攻撃兵力を増やそうとして偵察を軽視した」と語っている。
南雲司令部の草鹿龍之介少将、源田実中佐、淵田美津雄中佐は、二段索敵にするべきだったと戦後語っている。吉岡参謀は索敵の密度をもっと濃くするべきだったと反省している

もっとも、索敵計画はこれまでの経験から早くに出すように改善はされていた。そのため、利根の4号機がカタパルトの故障がなく定刻に発進し、偵察搭乗員に気の緩みがなければ、索敵計画に問題はなかったという指摘もある。利根の4号機が定刻に発進した場合、コンパスのずれによる実際の索敵線から計算すると敵位置を飛び越えていて発見できないが]、コンパスの故障がなく定刻通り発進し、計画通りの索敵線を進めば30分早く発見できる。また、利根の四号機が報告した敵空母位置は誤りであり、これに第一航空艦隊、第八戦隊司令部、利根が気付かなかったことは、南雲中将の戦闘指導に大きな影響を与えている。
筑摩の機も敵艦隊を見逃した。筑摩の機長兼飛行長の黒田信大尉によれば、敵艦隊が発見された地点は自分のところだが、敵方天候不良で見逃したのは仕方なかったという。しかし、アメリカの資料では天候不良ではなく第四索敵線機も発見しているので、索敵機の雲上飛行が原因であった。また、南雲が夜戦を検討している時も、索敵機からの敵情報告はくるくる変わり、南雲を悩ませ、苛立たせただろうという意見もある。
GHQ戦史室長だったゴードン・ウィリアム・プランゲは、そもそも日本海軍では航空偵察に使用する兵力は全力の1割以内であり、特別な教育や訓練もなく、艦上偵察機の価値を認識しておらず、あらゆる作戦で南雲に不利になっていたこと、セイロン沖海戦で索敵機の回収に必要な電波を発したことで、自分の艦隊位置が露見して航行中に英軍爆撃機の奇襲を受けたせいで索敵を必要最小限にしていたこと、ミッドウェーの索敵でさらに時間を早めると、ミッドウェー島に事前偵察に向かった第二索敵線の加賀機がミッドウェー島に届かなくなること、そして連合艦隊からの情報で敵機動部隊はミッドウェーにいないものと思い込んでいたことから、索敵計画はミッドウェー島に対する攻撃に重点を置いたものと指摘している。これに対し、プランゲの著書(ミッドウェーの奇跡)を翻訳した千早正隆は、インド洋作戦での南雲艦隊は、ソマービル中将旗下のイギリス東洋艦隊に待ち伏せされており、ミッドウェーに近似した状況だったことをプランゲが認識していない点がその著書の問題として、その著書の編集者からも賛意を得られたと主張している。千早は、セイロン沖海戦で南雲機動部隊のごく近くにソマービル中将旗下のイギリス東洋艦隊が存在し、南雲司令部ではソマービルが放った複葉機を発見していながら索敵を行わなかった事について取り上げ、索敵の怠慢は繰り返されたものと批判している。


◎情報戦

日本はそれまでの勝利や誇大戦果を報じた珊瑚海海戦などで気が緩み、作戦の機密保持がずさんになっていた。取り締まる立場にある連合艦隊もその傾向が出ていた。また、連合艦隊は敵情がひっ迫していることを知りながら前線部隊に知らせないことが何度もあった。連合艦隊は、5月中旬から敵の通信が増加していることから何らかの動きがあると把握しつつも気にとめず、出撃から6月3日までに入手した情報から敵が日本の動静を偵知して活発に動いていると判断するも、警戒すべきではあるが、敵をおびき出せるものと受け止め好ましいことだと考えていた。第二艦隊の白石萬隆参謀長は、連合艦隊は作戦がばれてでも米艦隊を呼び出そうとしていたと語っている。6月4日頃、連合艦隊は大本営の知らせあるいは通信符号の傍受でミッドウェーに機動部隊がいる兆候をつかんでいたが、無線封止を理由に一航艦に知らせなかった。
また日本は太平洋にある米空母は3、4隻と考えていたが、珊瑚海海戦で米空母2隻撃沈、マーシャル諸島南方で西航する米空母2隻発見の情報から、残っている米空母2隻は全て南太平洋のハワイ方面にあると誤った敵情判断をしていた。
アメリカ海軍は戦術情報班ハイポを重用し、日本海軍の暗号解読と無線傍受でミッドウェー作戦を事前に把握して迎撃準備を整えていた。日本の「海軍暗号書D」系統は戦略常務用一般暗号書でよく用いられていたが、乱数表を用いて二重に暗号化した複雑な暗号であり、これに特定地点表示表、特定地点略語表、歴日換字表を併用したものではあったものの、開戦前から使用していたうえ、作戦前に行われる予定であった更新も遅れ、作戦概要や主力部隊以外のすべての参加艦艇などの作戦全体像がアメリカにほぼ察知されていた。

ニミッツは4月下旬には日本が大規模な作戦を企図していることをつかみ、ミッドウェーの可能性が高いと判断した。5月2日からミッドウェーで環礁視察し、兵力、警戒態勢を整え、その後の情報でさらにミッドウェーの感が強まった。5月14日第二艦隊司令部がAF攻略部隊にあてた電文を傍受して攻略があると知り、19日にはAFを特定するためにアメリカは「ミッドウェーで真水製造機が故障」の偽の電文を傍受させ、罠にかかった軍令部は「AFで真水欠乏」という電文を打ち、アメリカはAFをミッドウェーと特定した。26日には攻略が6月7日であることも特定し、日本の作戦を把握して態勢を整えミッドウェー海戦で一航艦の迎撃に成功した。


◎日本軍の楽観

この時期の日本海軍航空隊の搭乗員の精強さについては、日中戦争(支那事変)以来の戦果に対する大きな自信と長い実戦経験があり、さらに日米戦争開戦後は「真珠湾以来すべて完勝してきた」との自信もあった。そのため、珊瑚海海戦で空母同士の決戦を初めて経験し、訓練された敵の空母部隊と交戦して大損害の後も、敗北(戦術的には日本の勝利)の検証さえ十分に行わなかった。第一航空戦隊(赤城、加賀の飛行隊)のパイロットたちも「珊瑚海で米艦隊を撃ちもらしたのは5航戦がだらしないからだ」「妾の子でも勝てたのだから、自分達なら問題ではない」と信じていた。当時の一航艦を含む日本海軍は、南方作戦において、爆撃、雷撃で高い命中率をあげていたことで、敵の戦闘機の妨害や敵艦艇の防御砲火にあまり関心を払わなくなっており、敵の戦力を軽視したという指摘もある。ただ、敵の戦闘機による妨害に関しては、第一航空艦隊自身の直掩機の有効性から重視されている。

連合艦隊は過信から、日本の機動部隊が最強なので、たとえ敵情判断が間違っていても簡単に処理してくれるだろうと考え、作戦は奇襲成功が前提、索敵も不十分であり、知敵手段が崩れても対応せず、意図がばれてもかえって敵機動部隊を誘出し撃滅できると甘い判断で行われた。しかし開戦前の図上演習で複数の航空参謀が見通しの甘さを指摘し、作戦計画の修正を求めている。航空作戦においても索敵は念のため程度であり、ミッドウェーの航空基地制圧にも艦上攻撃機の全力が使用されなかった。また、機動部隊の草鹿参謀長も、敗因は何より機動部隊の慢心にあるとし、またこの慢心は日本全体に及んでおり機密保持が全く不徹底なものであったと語っている。














「ミッドウェー海戦とは、③、勝敗の要因」

2020-09-22 08:57:22 | 日本

◎連合艦隊司令部作戦内容

連合艦隊がこの作戦計画案を関係者に配布したのは、4月28日であった。その後図上演習開始まで関係者は戦訓研究会に出席していたので、作戦計画について深く研究する時間的余裕はなかった。
図上演習でも、ミッドウェー攻略の最中に米空母部隊が出現して日本の空母に大被害が出る、攻略の遅れや燃料不足など問題が続出し、攻略作戦続行が難しい状況となったが、連合艦隊参謀長の宇垣纏が空母を復活させるなど審判をやり直させて続行させた 。宇垣の強引な判定には、ミッドウェー作戦からハワイ攻略までの図上演習を行う時間が3日間しかなく、スケジュールがひっぱくしていたという事情もあった。この研究会で麾下各部隊が最も強く要望したことは、作戦準備が間に合わないゆえの作戦期日の延期であり、軍令部からも2-3週間遅らせることを勧められたが、連合艦隊はこれに応じなかった。

また、連合艦隊と軍令部の意思統一ができておらず、本作戦の主目標が、ミッドウェー島攻略にあるのか、敵機動部隊の撃滅にあるのか、はっきりしていなかった。軍令部は主目標をミッドウェー島攻略にあるとし、大本営命令においてもそれが主目標と指示されていたが、連合艦隊首脳は敵機動部隊撃滅を重視する発言をしていた。そのため、最前線部隊の第一航空艦隊にはどちらの目標も周知徹底されることがなかった。

アメリカ軍は、本作戦では戦力が分散していたが、空母3隻、重巡7隻ほか合計57隻を決戦海面に集めた。日本側がミッドウェー・アリューシャン作戦に動員した戦力は、戦艦11隻、空母6隻、重巡17隻ほか合計350隻に達していたが、決戦海面で戦うことができたのは、戦艦2隻、空母4隻、重巡2隻ほかに過ぎなかった。空母1隻あたりの護衛能力は下回り、しかも航空兵力の半分を陸上攻撃に向かわせるという致命的な失敗を犯した。ニミッツ司令長官は「日本軍が6隻の空母、11隻の戦艦などを集中運用していたならば、いかなる幸運や技量をもってしても敗走させることはできなかったであろう。日本海軍は奇襲を必要としない場合も奇襲に依存するという錯誤を犯したのである」と語り、日本の作戦構想の誤りを指摘した]。ゴードン・ウィリアム・プランゲ(元GHQ戦史室長)は、アリューシャン方面に空母龍驤、隼鷹を投入したことが、山本五十六最大の失策だったと指摘している。防衛大学校戦略教育室は、日本が兵力を分散したためミッドウェー沖で戦闘に参加した航空機の数がアメリカより少なかったことが根本的な原因であるとしている。

連合艦隊が機動部隊で上陸点の制空を獲得することを前提として開戦時と違い十分に警戒された敵要地に奇襲が成功すると決め、奇襲不可なら反撃され損害を受けることを考慮しなかった点、敵情判断を誤り、南方攻略作戦の成功から日本の希望通りに予定が進むと思い込み敵を軽視し、予期せぬ事態に対処する余裕のない作戦立案を行った点、ミッドウェー攻略を早く認めさせるために大本営の要望するFS作戦を組み入れたことで作戦に無理を招いた点について批判がある。また、連合艦隊はミッドウェー島上陸を6月7日に固定したため作戦の柔軟性が失われた。機動部隊の草鹿参謀長は、この作戦では機動部隊の後から後から上陸部隊など他の艦隊がやってくるので非常に窮屈なものであったと語っている。
連合艦隊は占領後の基地航空部隊の進出を急いでおり、機動部隊の空母4隻に第6航空隊の航空機21機を輸送のため積んだので、格納庫は窮屈になり、不要な物を載せないという被害局限の原則にも反していた。


◎作戦指導

連合艦隊は第一航空艦隊から、連合艦隊が敵情を把握し米機動部隊の動向は機を逸せず通報するように懇願されて、重要な作戦転換は連合艦隊司令部から一航艦に発せられることになっていた。また、機密連合艦隊命令作第14号には、主力部隊の内地出撃から帰投までの太平洋方面の敵情通報は東京から放送することが定められ、東京には連合艦隊通信部隊の中枢に第1連合通信隊司令官柿本権一郎少将がいた。

しかし、連合艦隊は付近に敵空母の疑いを感じ、情勢が緊迫してきたと判断しながら甘い状況判断の放送を東京から全部隊に流したまま、自己判断を麾下に知らせなかった。そのため、第一航空艦隊は敵潜水艦に発見された情報も知らされず、その後の敵の緊急信増加、動きの活発化が何を意味するのか判断がつかず、敵がこちらの企図を察知していないもの、敵空母はハワイにあるものとして行動することになった。連合艦隊の宇垣参謀長は海戦後の日記に第一航空艦隊に対して「当司令部も至らざる処あり相済まずと思慮しあり」と残している。機動部隊の草鹿参謀長は、大和が無線封止を徹底し機動部隊に敵情を伝えなかったのは本末転倒であると批判している。


◎哨戒

ミッドウェー作戦は、真珠湾に米機動部隊が在泊していることを前提として計画しており、そのため連合艦隊は、真珠湾の動静確認が重要で知敵手段として散開線への潜水艦哨戒配備と二式飛行艇での敵情偵察を行うK作戦を計画したが、間に合わず失敗した。この報告を受けた連合艦隊は計画が崩れたことに何ら対策を取らなかった。戦後、連合艦隊参謀黒島亀人は「海軍の常識からいえば、この場合の散開線構成は、西方で散開隊形を概成したのち東進して、所定配備に潜水艦をつけるべきである。ところが私の敵情判断の間違いなどから、あんな配備のつき方を計画してしまった。そのうえ、連合艦隊の指導が至らず潜水艦の準備が遅れてしまった。また、今次作戦は連合艦隊の主兵力を使って行なう作戦であるから、潜水部隊は連合艦隊の全兵力を集中すべきであった」と語っている。K作戦失敗で完全に日本は敵機動部隊の知敵手段を失ったが、黒島は「わが機動部隊は無敵で、敵を圧倒できると信じていたので、このため特別な処置は考えなかった」という。

この潜水艦と飛行艇による哨戒網は6月2日の予定だったため、計画通り進んでも5月28日にサイパンを出発するミッドウェー攻略部隊が発見されて真珠湾の米機動部隊が動いた場合、間に合わない作戦だった。












「ミッドウェー海戦とは、②」

2020-09-21 07:56:29 | 日本

ミッドウェー海戦は、第二次世界大戦(太平洋戦争)中の1942年(昭和17年)6月5日(アメリカ標準時では6月4日)から7日にかけて、ミッドウェー島付近で行われた海戦。同島攻略をめざす日本海軍をアメリカ海軍が迎え撃つ形で発生し、日本海軍機動部隊とアメリカ海軍機動部隊および同島基地航空部隊との航空戦の結果、日本海軍は投入した空母4隻とその搭載機約290機の全てを喪失した。ミッドウェー海戦はMI作戦の一部であり、この敗北で同作戦は中止された。

◎日本の準備 MI作戦の内容

連合艦隊が計画したミッドウェー作戦構想は、ミッドウェー島を攻略し、アメリカ艦隊(空母機動部隊)を誘い出し捕捉撃滅することに主眼が置かれた。日本軍は同島をアメリカ軍の要点であり、占領した場合、軍事上・国内政治上からアメリカ軍は全力で奪回しようとすると考えた。一方、軍令部では、ミッドウェーは攻略後の防衛が困難で、わざわざ米空母が出撃してくるとは考えにくいと見ていた。作戦構想では現時点で豪州方面で活動している米空母部隊がミッドウェー近海に出撃する確率は高い、と計算していた。日本軍は情報分析の結果、アメリカ軍の空母戦力を以下のように推定した。

1、空母レンジャーは大西洋で活動中。
2、捕虜の供述によればレキシントンは撃沈されたようであるが、アメリカ西海岸で修理中という供述者もある。
3、エンタープライズとホーネットは太平洋に存在。
4、ワスプの太平洋への存否については確証を得ない。
5、特設空母は6隻程度完成、半数は太平洋方面に存在の可能性があるも、低速なので積極的作戦には使用し得ない。

これをふまえ日本軍は、ミッドウェー攻撃を行った場合に出現するアメリカ軍規模を、「空母2-3隻、特設空母2-3隻、戦艦2隻、甲巡洋艦4-5隻、乙巡洋艦3-4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦30隻、潜水艦25隻」と判断した。アメリカ軍が同島に海兵隊を配備し、砲台を設置して防衛力を高めていることも察知していたが、その戦力は「飛行艇24機、戦闘機11、爆撃機12、海兵隊750、砲台20前後」または「哨戒飛行艇2コ中隊、陸軍爆撃機1乃至2中隊、戦闘機2コ中隊」であり、状況によってはハワイから「飛行艇60機、爆撃機100機、戦闘機200機」の増強もあると推測。同島占領作戦実施の際にはアメリカ軍基地航空隊からの空襲も想定していたが、直掩の零戦と対空砲火で排除できるとしている。日本軍が海兵隊3000名、航空機150機というミッドウェー島の本当の戦力を知るのは、空母部隊が全滅した後の捕虜の尋問結果からだった。

作戦は、ミッドウェー島上陸日(N日)を6月7日と決定して一切を計画した。上陸用舟艇で敵のリーフを越えて上陸するため、下弦月が月出する午前0時を選んだ。7月は霧が多く上陸が困難なため、6月7日に固定した。上陸作戦の制空と防備破壊は3日前(後に延期で2日前になる)に南雲艦隊が空母6隻で奇襲することで可能と考えた。連合艦隊は奇襲の成功を前提にしており、アメリカが日本の企図を察知して機動部隊をミッドウェー基地の近辺に用意することは考慮していなかった。米機動部隊の反撃は望むところであったが、米機動部隊は真珠湾にあってミッドウェー基地攻撃後に現れることを前提に作戦を計画した。ミッドウェー島占領後、基地航空部隊の哨戒網で敵機動部隊を発見、一航艦は第二艦隊と協力してそれを攻撃、山本艦隊は機を見て参加し撃滅するというものだった。

MI作戦の主目標はミッドウェー島攻略と米機動部隊(空母部隊)撃滅のどちらにあるのかはっきりしておらず、連合艦隊は米機動部隊撃滅を重視する発言をしていたが、軍令部は主目標を攻略による哨戒基地の前進にあると示していた。軍令部で作戦計画の説明を受けた第一航空艦隊参謀長草鹿龍之介少将と第二艦隊参謀長白石萬隆少将は、ドーリットル空襲の直後だったため、哨戒基地の前進によって米空母による本土再空襲を阻止するものと抵抗なく解釈し、ミッドウェー作戦の主目的は同島攻略という強い先入観を得た。また、5月の図上演習で、陽動で米艦隊を他に誘導してミッドウェーを攻略する案が出たが、連合艦隊参謀長から陽動をしたら米艦隊をミッドウェーに引き出せないとの意見が出た。この直後、軍令部に基づく大本営命令、総長指示で攻略が主目標に示されただけに、白石少将は連合艦隊の解釈が間違っているのではと思ったという。連合艦隊は出撃前に再び米艦隊の撃滅が目的と伝えるが、参加部隊には徹底して伝わらなかった。

戦後、草鹿は作戦目標があいまいでミッドウェー攻略が優先であったことを指摘し、「二兎を追うことになった」と表現している。
出撃前日の5月26日、赤城において作戦計画の説明と作戦打ち合わせが行われた。山口少将から索敵計画が不十分という意見があった。索敵計画を立案した第一航空艦隊航空参謀吉岡忠一少佐によれば、当時の敵情判断から索敵計画は改めなかったという。吉岡は、当時攻略作戦中敵艦隊がほとんど考えていなかったため、厳重にするのが良いのはわかっていたが、索敵には艦攻を使わなければならないので攻撃力が減ることとなり、惜しくて索敵にさけなかったとして、状況判断の甘さが原因と回想している。

この計画での一航艦司令部の心配は、攻撃開始日が決まっているので奇襲のための機動の余地がなかったことと、空母はアンテナの関係から受信能力が十分でなく、敵信傍受が不十分となり、敵情がわかりにくいことであった。そのため、一航艦参謀長の草鹿少将は、連合艦隊が敵情を把握して作戦転換を指示することを連合艦隊参謀長の宇垣参謀長に取りつけた。土井美二(第八戦隊首席参謀)によれば、草鹿参謀長が「空母はマストが低くて敵信傍受が期待できない。怪しい徴候をつかんだらくれぐれも頼む」と出撃前に何度も確認していたという。

◎アメリカ軍の対応、情報収集と分析

アメリカ軍は日本軍来襲の情報収集、分析し、ミッドウェー作戦に備えていた。1942年3月4日、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツはオアフ島に日本軍の大型航空機(二式飛行艇)2機が爆撃を行い(K作戦)、同月11日にはミッドウェーに新型飛行艇(前同 二式飛行艇)1機が接近、撃墜されたことをふまえ、日本軍の攻勢の兆候と判断した。ただ、これは誤解で、実際には日本軍の爆撃は攻勢作戦とは関係のない偵察監視・妨害作戦に過ぎなかった。日本海軍の主力部隊は南方戦線から日本本土へと帰投しており、次に太平洋のどこかを攻撃することは確実であるものの、ハワイ、ミッドウェー、米本土西岸など可能性が幅広く、判断がまとまっていなかった。米本土西岸への日本軍上陸の誤報なども影響している。

真珠湾攻撃直前に変更された日本海軍の戦略暗号 "D"は、アメリカ軍の諜報部よりJN-25と呼ばれていた。1942年4月頃には、ハワイ真珠湾のアメリカ海軍 レイトン(情報)班が、日本軍の暗号を断片的に解読し、日本海軍が太平洋正面で新たな大規模作戦を企図していることについても、おおまかに把握していた。この時点では時期・場所などの詳細が不明であった。その後、5月ごろから通信解析の資料が増え、暗号解読との検討を繰り返して作戦計画の全体像が明らかになると、略式符号「AF」という場所が主要攻撃目標であることまでわかってきた。しかし「AF」がどこを指しているのかが不明であった。アメリカ側は、]日本海軍の編成表から「A」「AO」「AOB」がアリューシャン方面であることは明白であると判断した。

ワシントンのアメリカ統合参謀本部は攻撃目標をハワイ、陸軍航空隊ではサンフランシスコだと考え、またアラスカ、米本土西岸だと考える者もいた。5月中旬になっても決定的な情報は無かったが、チェスター・ニミッツ大将は各種情報と戦略的な観点からミッドウェーが目標であると予想し、ハワイ所在のレイトン情報主任参謀らも次第にミッドウェーが目標であるとの確信を深めていった。

5月11日ごろ、諜報部にいた青年将校ジャスパー・ホームズの提案により、決定的な情報を暴くための一計が案じられた。彼は、ミッドウェー島の基地司令官に対してオアフ島・ミッドウェー間の海底ケーブルを使って指示を送り、ミッドウェーからハワイ島宛に「海水ろ過装置の故障で、飲料水不足」といった緊急の電文を英語の平文で送信させた。その後程なくして日本のウェーク島守備隊(クェゼリン環礁所在の第六艦隊説もあり)から発せられた暗号文に、「AFは真水不足、攻撃計画はこれを考慮すべし」という内容が表れたことで、AFはミッドウェー島を示す略語と確認された。こうしてミッドウェー島及びアリューシャン方面が次の日本軍の攻撃目標だと確定された。 日本側にも「6月1日における第三部特務班の判断」として「ミッドウェー島が清水不足を訴えている」と軍令部作戦課佐薙毅中佐の日誌に残されている。一方、このエピソードについては、実際の暗号解読状況や手法を秘匿するための粉飾とする説もある。沈没する空母飛龍から脱出後、アメリカ軍に救助され捕虜となった相宗邦造中佐ら機関科兵34名は、アメリカ軍情報士官から1942年5月に就役したばかりの飛鷹型航空母艦隼鷹の写真を見せられて仰天している。萬代久男少尉によれば、「隼鷹」の写真は軍極秘回覧簿で見たものと全く同じであった。萬代は暗号解読云々よりも、むしろ連合軍諜報活動の方が連合軍の情報戦勝利に影響を与えたと述べている。

5月26日までにハワイの情報隊は暗号解読に成功し、各部隊の兵力、指揮官、予定航路、攻撃時期などが判明した。ニミッツ大将はこの結果をミッドウェー基地の部隊に伝えたが、ワシントンではこの情報を全面的には信用せず、日本軍の偽情報ではないかと疑問を持つ者もいた。ニミッツ大将は、日本軍がサンフランシスコを攻撃するのに陸上戦力を伴うわけがなく、自己の意見が間違いないと主張、論争は続いたが、ニミッツ大将は自己の主張に基づいて作戦準備を進めた。5月26日以降は日本軍が暗号・乱数表を変えたために解読できなくなった。











「ミッドウェー海戦とは?①」

2020-09-20 09:13:57 | 日本

今、映画館で上映している映画「「ミッドウェー」、是非観ていただきたい。

もしミッドウェー海戦で日本がアメリカに勝利していたならば確実に世界の地図が変わっていた。それも、わずか5分が勝敗の分かれ目となったのである。ミッドウェー海戦について、よくよく学ばねばならない。各種文献を紐解き学ぶ。


ミッドウェー海戦とは?1942年6月5日から6月7日にミッドウェー島付近で起こった、日本海軍とアメリカ海軍の戦いです。
1941年12月の真珠湾攻撃から連戦連勝を重ねた日本海軍は、山本五十六(やまもといそろく)率いる戦艦「大和」をはじめ、主力部隊で臨みます。対するアメリカは寄せ集めの部隊で、整備員など人員も不足していました。
日本が圧倒的優位な状況に見えましたが、アメリカは「暗号解読」という技術で立ち向かってきます。無線を傍受し、攻撃を事前に把握して迎撃準備を整えていました。

さらに失敗も重なって、日本海軍は敗戦。主力空母4隻のほか多くの航空艦載機を失う大損害を負います。
これ以降、第二次世界大戦の主導権はアメリカに奪われたことから、ターニングポイントの戦いともいわれています。


◎ミッドウェー海戦における日本の敗因は?山本五十六と南雲忠一

この海戦で日本海軍はさまざまな失敗を重ねていましたが、主な敗因として挙げられるのは、目的が曖昧だったことでしょう。主な目的が、敵の空母を攻撃することなのか、それともミッドウェー島を攻略することなのか明確にされておらず、このことが現場に大きな混乱を招きました。
そして決定的なのが、連合艦隊司令長官の山本五十六。アメリカ海軍の動きがきわめて活発になり、敵の空母がミッドウェー方面に出てきたことなど重要な情報を機動部隊に知らせず、敵の空母を発見した際もただちに攻撃する命令をくだしませんでした。
さらに作戦は希望的観測にもとづいたシナリオで、燃料の補給なども軽視。またアメリカ側に開戦前から暗号を解読されていて、攻撃日時、戦力の配備などが筒抜けで、対策をとられてしまいました。

またもうひとつ、「運命の5分間」というものがあります。
日本の空母3隻がアメリカ軍から急降下爆撃を受けた際、まさに日本の空母からも魚雷を積んだ攻撃機が飛び立とうとしていました。「あと5分あれば攻撃機は発進でき、日本の空母が攻撃されることはなかっただろう」ということです。
これは、当時第一航空艦隊参謀長だった草鹿龍之介(くさかりゅうのすけ)が1949年に発表した文章で広まった説ですが、アメリカ軍の攻撃を受けた際にはまだ発進の準備は整っていなかったとする者もいて、「運命の5分間」は抽象的な意味だといわれています。


◎ミッドウェー海戦でもし日本が勝っていたら

連合艦隊司令長官の山本五十六は、この海戦で勝利した後ハワイを攻略し、その後講和に持ち込みたいと考えていました。
しかし、もし仮に日米の早期講和が実現したとしても、日露戦争終結時よりさらに条件を緩和しなければならなかったでしょう。そうなると講和は決裂し、再び戦争になる可能性があったと考えられます。

また日本が勝利した場合、戦争推進派だったルーズベルトは失脚。その後の日米関係は大きく変わっていたのではないでしょうか。それにともない、中国や韓国など近隣諸国との関係も今とは異なっていただろうことが予想されます。










「敗戦75年に想うこと(その3)」

2020-09-19 07:15:22 | 日本

菅家一比古さんから言霊の華が届いた。
以下、要約し記す。




敗戦の日の数日前、8月6日の辺りだったと思いますが、NHKドキュメンタリー番組がありました。原爆搭載機エノラ・ゲイのB29と乗組員たちの貴重な映像です。原爆投下の前日だったか前々日、グアム島近くのテニアンの飛行場基地でエノラ・ゲイの乗員とその計画のチーム、関係者ら数十名が集まり、礼拝が行われたのです。その時の牧師の祈りに驚きました。
 
「主なる神よ。邪悪を退け、我等に勝利をもたらし給へ。」そのような祈りだったと記憶しています。
日本のことを邪悪だといい、その翌日か二日後に広島に、そしてその三日後に長崎に原爆が投下され、罪も無い一般市民が一瞬にして何十万人も虐殺されたのです。
 
本来、原爆投下は全く必要なかったものを、ポツダム宣言受諾の前にどうしても人体実験をしたかったアメリカの謀略でした。日本のポツダム宣言受諾の動きを前もって知っていたにも関わらず、原爆投下したのはアメリカ側の都合によるものです。
 
アメリカにとってマンハッタン計画に巨額の資金を注(つ)ぎ込んでいた以上、それを無駄にしたくなかったのです。原爆投下の後、トルーマン大統領は「獣(けだもの)には獣に接するようにしなければならない。」と述べたと記録されています。
 
何故、ナチスドイツには原爆は落とされなかったのでしょう。ヒトラーは熱心なカトリック信者でした。即ちドイツは白人キリスト教徒だったからです。イギリスのチャーチルが妻のウィニーとやり取りした書簡集には、日本人が聞くに堪えない侮蔑し切った罵詈雑言が散りばめられており、許容範囲を逸脱した差別表現にまみれております。
イギリスのアジア植民地支配を一網打尽にした日本が心底憎くてならなかったのです。
 
八月中旬頃に放映されたNHKの「歴史ヒストリア」はガダルカナル島の特集でした。兵士の多くが餓死した痛ましい戦いです。日本兵の遺体、未だ生きている兵士の上を戦車やキャタピラーが踏み潰していくのです。
 
そう言えば硫黄島もそうでした。島の飛行場の下には多くの日本兵が眠っています。占領後アメリカはやはりキャタピラーを使って踏み潰し、その上に砂利やアスファルトを敷いて飛行場にしたのです。

日本人であればこのような悍(おぞ)ましい残虐な行為などできません。
日本は古来より怨霊信仰があり、祟りを怖れ、死者をしっかり弔い、しっかりあの世に送って上げるという精神文化が根付いているのです。
 
楠木正成は戦死した敵兵の墓地を作り「寄せ手の墓」として懇ろに祀っていましたし、東海道一の大親分、清水次郎長に至っては戊辰戦争で亡くなった旧幕府軍の武士たちや兵士たちを手厚く葬りました。そこに官軍が来て次郎長を脅します。その時次郎長は「死んだ仏さんに官軍も賊軍もねえ!」とやり返します。

これが日本人の霊魂観・死生観そのものなのです。決して「死者を鞭打たない。」死者が誰であれ、懇ろに弔ってしっかりとあの世に送って差し上げる。
靖国神社にA級戦犯もB級戦犯もいません。皆戦争の犠牲者です。しっかり祭祀するのは国民の義務であり、日本人としての矜持な筈。
 
日本人の矜持と言えば、東条英機閣下もそうです。
1930年代末頃、ナチスドイツの迫害を逃れ、満州国境に約二万人ものユダヤ人が集結しました。入国許可を与えなければソ連がユダヤ人を強制送還します。

当時満州の関東軍特務機関長だった樋口季一郎少将(後に中将)は、関東軍参謀長だった東条英機に許可を要請します。東条英機は「八紘一宇の我が国の精神からして入国許可は当然である。」と即許可したのです。

ナチスドイツから強硬な抗議があったのは当然です。それを「日本はドイツの支配下に非ず。」と突っぱねます。こうして二万人ものユダヤ人が救われました。東条英機閣下の功績は歴史の闇へと追いやられ、多くの人がこの事実を知りません。
 
第一次世界大戦が終わり、1919年(大正8年)1月からパリ講和会議が開催され、日本は人種差別撤廃の提案をします。オーストラリアのヒューズ首相は署名を拒否し、すぐさま退席しました。採決では11対5の圧倒的多数で可決したにも関わらず、当時議長であったアメリカのウィルソン大統領が全会一致を主張し、葬り去られてしまいます。

奴隷制も大虐殺もなく、宗教戦争も無かった日本。
その日本が世界史を大きく変えたのが先の大戦だったのです。白人キリスト教植民地支配、有色人種支配を終わらせ、原爆による大量虐殺を止めることになったのも日本の戦いと犠牲があったからなのです。文明史観から観た時、先の大戦は「愚かな戦争」と果たして決めつけられるのでしょうか。












「文在寅、日韓関係悪化を安倍総理に責任転嫁 総理が誰でも反日を貫くという意志も」

2020-09-17 07:09:24 | 日本

「週刊新潮」が「文在寅、日韓関係悪化を安倍総理に責任転嫁」について掲載している。以下、要約し記す。

人の不幸は蜜の味――。  目下、韓国が沸いている。「天敵」の安倍総理の辞任表明を受け、ここぞとばかりに上から目線で日本を責め立てているのだ。

「文在寅(ムンジェイン)政権は大統領府報道官名で、『突然の辞任発表を残念に思う』とコメントしましたが、社交辞令に過ぎないでしょう」  と、ある韓国ウォッチャーは解説する。

「実際、韓国メディアでは『最悪の総理だった』『韓国叩きで支持率を管理してきた』『日韓対立を煽ってきた』などと、安倍総理のことをこき下ろしています。その他にも、『歴史退行的な行動で一貫』とか、『日本の右傾化をリード』とレッテル貼りした上に、なかには『(韓日)関係改善の最大の足かせ』と評する報道までありました。この機に乗じ、総じて日韓関係を悪化させてきたのは安倍総理だと責任転嫁しています」  弱みに付け込むのが外交の要諦とはいえ、体調悪化で辞任する総理にここまで鞭打つとは、さすがは「反日有理」の国である。「溺れる犬は棒で叩け」を地で行き、病身の安倍総理を内心では嘲笑している文大統領の姿が目に浮かぶ。しかし、そもそも韓国のこうした論調がねじ曲がったものであることは論を俟(ま)たない。 「日韓関係を悪化させた責任は、文大統領のほうが大きいと思います」  として、龍谷大学の李相哲教授が改めて解説する。 「なぜなら、韓国側の対日強硬姿勢に対して、安倍総理はあくまで冷静に国際社会のルールに則って対応しただけです。例えば、慰安婦に関する日韓合意を巡る経緯を振り返ってみます。

朴槿恵(パククネ)政権の時に『最終的かつ不可逆的な解決』を確認したはずなのに、それを反故にしたのは文大統領です。それに対し、安倍総理は国家間の約束は守ってくださいと、国際ルールに基づいた外交姿勢を貫きました。誠実かつ毅然と対応しただけで、決して『嫌韓』を支持率アップに利用したとは思いません」  むしろ「反日」を利用しているのは韓国のほうだ。 「韓国大統領府は昨年まで、『安倍総理である限り日韓関係が良くなることはない』と主張していました。しかし、いざ安倍総理が辞任表明すると、外交部(外務省)筋は『誰が新しい総理になっても韓日間の争点は変わらないだろう』『韓日関係に変化があるとは見ていない』と言っています。これこそ、総理が誰であろうと反日を貫くという証ではないでしょうか。したがって、次期総理も安倍政権の対韓政策を踏襲すべきだと思います」(同)  韓国側の言う通りなのかもしれない。そう、誰が総理になっても日本は変わらない。なぜなら、非がないのにあるフリは、何人(なんぴと)にもできないからである。












「台湾・蔡政権が日本の新首相に期待するもの」

2020-09-15 05:48:57 | 日本

東洋経済のコラムに「台湾・蔡政権が日本の新首相に期待するもの」と題して掲載されてる。
以下、要約し記す。


8月28日の安倍晋三首相による退陣表明は、台湾にも強い衝撃を与えた。7月末に知日派として知られた李登輝元総統が亡くなった直後、日本からは森喜朗・元首相が弔問で訪台するなど、日本との関係が改めてクローズアップされたところだった。 現在の蔡英文総統が2016年に就任して以降、日台は結びつきを強めている。安倍首相は特に、中国との関係に配慮しながら台湾にも強い関心を示していた。そこで、台湾から安倍退陣後の日本をどう見ているか。台湾のシンクタンク・台湾智庫副所長を務めるなど著名な国際政治学者である賴怡忠(I-Chung Lai)氏に、日台関係や今後の東アジア情勢について話を聞いた。

■日台の相互信頼関係は良好

◎安倍晋三首相の任期中の日台関係は、相対的に良好なものだったのではないでしょうか。特に蔡英文政権になり、経済・政治的な関係も緊密になったように見えます。現在の日台関係を、どう評価しますか。  確かに、日台関係は安倍政権中に急速に発展したと言える。しかも、党派を越えて発展してきた。中国国民党(国民党)の馬英九政権当時(2008~16年)、安倍首相は尖閣諸島周辺海域における漁業権問題に積極的に取り組むと同時に、民主進歩党(民進党)ともTPP(環太平洋経済連携協定)問題について何度も話し合ってきた。

特に民進党が政権を握った後に進められてきた日台間の海事に関する対話は、日台間の経済対話に続くもう1つの公式の対話となった。これまで日本政府は台湾に対し、何回も支持やお祝いなどのコメントやメッセージを発表してきた。実際に、日台両政府のコミュニケーションの頻度は上がり、1972年の日台断交から初めて、日本の副大臣が公務で訪台するなど、日本の政治家の関与もグレードアップした。これは過去に例を見ないものだ。
◎安倍首相の台湾への強い関心を、台湾は好意的に受け止めているということでしょうか。  そうだ。安倍首相個人が、台湾への連帯と支持を持っていることは台湾にも十分伝わっている。相互の信頼関係もとても良好だと言えるだろう。今後、日本に安倍首相ほど台湾に心を寄せて支持するリーダーが現れるかどうかはわからない。しかし、確実に言えるのは、安倍氏が台湾に深い印象を与えた人物だということだ。  とはいえ、あえて安倍政権と台湾との問題を指摘するならば、日台間の安全保障問題がまだ十分ではないということだろう。蔡英文総統は安全保障問題について日本との対話を望んでいるが、いまだ実現には至っていない。台湾海峡や西太平洋情勢は、日に日に緊張感を増している。日台間の安保対話は、台湾と日本、そしてインド太平洋地域の安全にとって非常に重要だ。日本の次期首相が、この問題に取り組んでくれることを願っている。

◎蔡英文政権は日本に対しどのような政策・戦略を持っているのでしょうか。中国の存在を意識しながらも、台湾との関係をよくしていきたいと考えている日本の政治家は少なくありません。  蔡政権は日本をとても重視している。日本は台湾にとって非常に重要なパートナーだ。しかも、日台が共有しているのは「自由民主主義」という政治的価値観だけではない。経済においても同様だ。蔡政権は日本と自由貿易協定(FTA)の締結ができることを期待している。また台湾は環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(CPTTP、TPP11)への加入を目指しているが、これにも日本の支持と協力が必要だ。
安全保障面では、例えば2005年2月19日に発表された日米安全保障協議委員会(日米「2+2」)での共同発表以降、台湾海峡の平和が日米同盟において追求すべき共通の戦略目標となって久しい。台湾海峡の平和は、台湾の安全保障にとってキーポイントだ。台湾を国際社会から排除しようとする中国の姿勢に対抗し、台湾が国際社会とつながり参加していくためには、日本との緊密なコミュニケーションと連携が必要だ。  ――安全保障面では、中国との関係をどうするかという難問が待ち構えています。台湾をめぐる日中関係は、台湾からどう見えていますか。
台湾が持つ「台湾問題」、すなわち中国との主権帰属をめぐる問題と、「台湾は台湾、中国人ではなく台湾人だ」とする、いわゆる「台湾のアイデンティティー問題」を考える場合、その切り口は「日本統治時代をどう解釈するか」にあると言える。


■対中関係は日本統治時代の解釈をめぐる問題  

第2次世界大戦では、中華民国は日本と戦った。だが当時の台湾は日本の一部だ。そればかりか、少なくない台湾の民衆が天皇に忠誠を誓い、積極的に従軍した。しかし戦後、これらの日本統治時代の歴史は国民党により闇へ葬られた。さらに戦前の台湾が深いところまで日本化していたため、統治するようになった国民党は台湾民衆の権利を剥奪した。これにより、後に台湾で展開されることになる、戦後に台湾に移り住んだ「外省人」という一部のエスニシティ(族群)による独裁政治の基礎となった。
国民党の馬英九政権は、中国からの圧力に際し、日本に強硬な態度を取ることで中国との友好関係を築いてきた。中国は台湾が第2次世界大戦をはじめとする歴史問題に対し、日本にどのような態度を取るかで、台湾が中国とどうしたいのかといった態度を推し量ることが多い。つまり、台湾の中台統一派は親中であるだけでなく反日であることが求められるのだ。  

◎外省人ではなく、もともと台湾に住んでいた「本省人」はそれについてどのように考えてきたのでしょうか。今では、台湾独立派として政治活動を行う人も少なくはありません。
台湾独立派は日本統治時代を重視する傾向にあり、さらに現在の日本との関係も重要視している。そのため、中台統一派と独立派という二派の対立は、単に日台関係の良し悪しに影響を与えるのではなく、「台湾の対日政策」をどうするのかという問題と、統一か独立かをめぐる「台湾問題」、さらには自分たちが台湾人なのか中国人なのかを問う「台湾のアイデンティティー」と深く結びついているといえる。


■中国は台湾により強い圧力をかけてくる

◎現在、東アジアひいては世界における台湾の存在感が高まりつつあります。トランプ政権において米台関係が強化され、さらには香港の混乱と対比される際にも、台湾がクローズアップされています。当面の台湾外交の主な方針はどのようなものでしょうか。  中国の強硬な姿勢に対し、台湾はさらなる防衛力の強化と、台湾が持つ理念に近い国家との連携をより緊密にさせることで、国際社会での生存能力を維持する必要がある。アメリカは、台湾海峡における平和のためのキーマンだ。台湾にとってアメリカとの関係が重要なのは疑いようがない。中国の抗議があったからといって、米台関係が揺らぐことはないだろう。アメリカは中国の台湾に対する侵犯行為への対抗措置に協力している。
香港情勢について、中国は国際社会の声が耳に入らないほど忍耐力を失いつつある。これが意味するのは、中国の台湾に対する圧力も増大する可能性があるということだ。さらに踏み込んで言えば、中国は経済成長の鈍化や内政問題、米中対立、「一帯一路」の頓挫可能性といった中国内部に溜まる不満を抜くために、台湾へより強い圧力をかけると考えられる。  新型コロナウイルスが発生して以来、中国軍機は台湾に対し挑発を繰り返している。具体的に言えば、台湾海峡の中間線を超えて台湾側に侵入し、さらには中国戦闘機が台湾機にレーダーでロックオンすることも頻発している。中国は台湾の基本的な安全保障に深刻な脅威を与えている。このような中国の行動は、中国国内の問題を解決するためには、国内で解決をするのではなく、対外的な圧力を強めて武力衝突の危機を作り出すことで国内の不満をコントロールしているということだろう。

◎2020年11月のアメリカ大統領選挙の結果が台湾へもたらす影響を、現段階でどう見ていますか。トランプ大統領の再選、あるいはバイデン候補の当選といった場合に、台湾はアメリカとどのような関係を深めることになるでしょうか。  大統領選で仮に政権交代が行われたとしても、アメリカの対中政策に影響はないと見ている。しかし、政党が変われば対中政策の具体的な内容や、どのような政策を重視するかという細部は変化するだろう。例えば、バイデン氏は中国との貿易戦争を行わないと主張しているといったものだ。また、バイデン氏はトランプ大統領がアピールする「アメリカファースト」ではなく、同盟国との関係修復も重視している。
 
台湾は、アメリカの共和党、民主党とは十分に密接な関係を築いている。ただ、バイデン氏が当選した場合、現在のトランプ政権ほど台湾を支持するかどうかは注意深く見ていく必要があるだろう。


■アメリカの対台湾「6つの保証」は有効  

◎アメリカ国務省は最近、レーガン政権時代の1982年に台湾の安全保障に関するアメリカの姿勢を記した「6つの保証」の機密文書指定を解除し、内容を公表した。これは、台湾への武器供与や台湾関係法、台湾の主権に関する立場などに関するアメリカの立場を示したものだが、この6つの保証は現在でも米国の対台湾政策の基礎となるものであり、さらに新たな米台経済・商業対話を構築する考えを表明している。
6つの保証とは、米台関係を建築物にたとえるなら、建物の土台となる杭打ち工事のようなものであり、このような杭があって初めて、具体的な政策や対話が持続可能なものになる。これこそ、米台関係の安定化にとって重要なものだ。  ――グローバル社会に衰えが見え、地域主義・孤立主義が息を吹き返そうとしています。その分、台湾がこれまで築き上げてきた「民主主義」や「人権」、そして多様性という歴史的成果と価値は、国際社会でもより多くの関心を集めています。これが、国際社会における台湾の活動の場を広げることにはなりませんか。
現実の世界が持つ基本的枠組みから抜け出せないとしても、民主主義は台湾が国際社会で生きるための基本だ。今、台湾は中国からの圧力にさらされ、国際社会からのより一層の支持を必要としているのが現状だ。  とはいえ、台湾自身が民主主義を維持できなかったら、台湾への支持を他国に期待できるだろうか。台湾はこの9月、チェコ上院議長率いる90人が台湾を訪問してくれたことに対し、非常に感謝している。彼らの訪台は、自由と民主主義への支持の表明であり、同時に覇権主義への反対の表明だ。
台湾はもはや、金に物を言わせる小切手外交を行うことはない。だが反対に、中国は台湾と国交を持つ国を奪おうと小切手外交を大々的に行っている。それでも、台湾は民主主義を放棄することはない。















「安倍総理最大の功績と靖国神社参拝」

2020-09-14 07:29:58 | 日本

西村真悟さんが「安倍総理最大の功績と靖国神社参拝」と題し掲載している。
以下、要約し記す。


令和二年秋まで安倍内閣は憲政史上最長期の内閣となる。
従って、識者は、各々、マスコミで、安倍内閣の色々な功績を記している。
そこで、私も、今まで度々指摘したが、識者が指摘していない安倍晋三総理の最大の功績を記しておく。

自民党が政権を奪還するときに「日本を取り戻す」「戦後体制からの脱却」を掲げたのならば、
その志に、国民の共感が集まったから政権が奪還できたのである。
従って、具体的に「日本を取り得戻す」こと、「戦後体制から脱却する」こと、これが、安倍総理の国民に対する任務であり、その任務をいかほど果たしたか否かが点検されねばならない。
よって、今からそれをする。

偉大な結果をもたらす思想は、常に単純である(トルストイ)。
安倍総理は、その単純なことをした。
それが、如何なる結論をもたらすかを意識していたか否かは知らない。
つまり、安倍総理は、平成二十五年四月二十八日、政府主催の「主権回復を祝う会」を
天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、憲政記念館で開催した。
これは、即ち、サンフランシスコ講和条約発効の日、昭和二十七年四月二十八日に、我が国の主権が回復されたことを祝う会である。
同時に、この時、安倍内閣は、昭和二十年九月二日の降伏文書調印から同二十七年四月二十七日のサンフランシスコ講和条約発効前日まで、我が国に主権が無かったことを公的に認めたのだ。
よって、ここから、「日本を取り戻す」とは何か、「戦後体制からの脱却」とは何か、具体的に明らかになるではないか!
それは、即ち、我が国に主権が無いときに押しつけられたものを廃棄し、我が国に主権が無いときに奪われたものを回復することだ。
それは、具体的に何か?!
それは、日本国憲法を廃棄し、大日本帝国憲法と帝国陸海軍を回復することである。

以上は、安倍晋三内閣の文字通り画期的な業績である。

この主権回復を祝う会で、冒頭、主催者として立った安倍総理の挨拶は心にしみるものだった。
彼は、主権を回復するまでの先人の労苦を顧みるなかで、昭和天皇の御製ふりつもるみ雪にたへて色かえぬ松そををしき人もかくあれを朗読した。
その時、かすかに声が震えはじめ、彼が嗚咽をおさえたのが分かった。

その後、安倍総理が、自ら封印を解いて開けたパンドラの箱のなかを、覗いた形跡はない。
そして、六年の年月が経ち、安倍総理の退陣が迫っている。
よって、今となって、安倍総理に最後に願うことは、大日本帝国憲法の下で帝国陸海軍兵士として戦い戦死した英霊が祀られる靖國神社に日本国内閣総理大臣として参拝されることである。