◎歴史家蘇峰
歴史家としての名声は山路愛山とならび、特にその史論が高く評価される。
史書『近世日本国民史』は民間史学の金字塔と呼ぶべき大作である。蘇峰は歴史について、こう語っている。
所謂過去を以て現在を観る、現在を以て過去を観る。歴史は昨日の新聞であり、新聞は明日の歴史である。
従つて新聞記者は歴史家たるべく、歴史家は新聞記者たるべしとするものである。
『近世日本国民史』は、第1巻「織田氏時代 前編」から最終巻までの総ページ数が4万2,468ページ、原稿用紙17万枚、文字数1,945万2,952文字におよび、ギネスブックに「最も多作な作家」と書かれているほどである。『近世日本国民史』の構成は、
・緒論…織田豊臣時代〔10巻〕
・中論…徳川時代〔19巻〕・孝明天皇の時代〔32巻〕
・本論…明治天皇時代の初期10年間〔39巻〕
の計100巻となっており、とくに幕末期の孝明天皇時代に多くの巻が配分されている。
◎吉田松陰墓前における徳富蘇峰(1913年)
蘇峰は、全体の3分の1近くをあてるほど孝明天皇時代すなわち幕末維新の激動に格別の意義を探っていた。しかし蘇峰は、「御一新」は未完のままあまりに短命に終息してしまったとみており、日本の近代には早めの「第二の維新」が必要であると考えた。それゆえ、蘇峰の思想には平民主義と皇国主義が入り混じり、ナショナリズムとグローバリズムとが結合した。なお、この件について松岡正剛は、蘇峰はあまりにも自ら立てた仮説に呑み込まれたのではないかと指摘している。
蘇峰は執筆当初、頼山陽の『日本外史』(22巻、800ページ)を国民史の分量として目標としていた。しかし、結果的には林羅山・林鵞峰の『本朝通鑑』(5,700ページ)や徳川光圀のはじめた『大日本史』(2,500ページ)の規模を上まわった。
『近世日本国民史』の第十八巻は元禄赤穂事件にあてられている。義士否認論では佐藤信方らの見解を記すとともに、「吉良を故君の仇と思ふは愚の至り」と思想も述べられる。但し、「大石の放蕩は敵を欺く為の計略といふ深慮遠謀などではなく、只の救い難き好色による処である」「寺坂の離脱は密命を帯びた為でなく、単に臆病だった為」等の独断による主観的な赤穂義士への悪口も散見される。
同書の最終巻は西南戦争にあてられている。その後の日本が興隆にむかったため西郷隆盛は保守反動として片づけられがちであるが、蘇峰は西郷をむしろ「超進歩主義者」とみており、一身を犠牲にした西郷率いる薩摩軍が敗北したことによって、人びとは言論によって政権を倒す方向へと向かったとしている。
杉原志啓によれば、アナキストの大杉栄が獄中で読みふけっていたのが蘇峰の『近世日本国民史』であり、同書はまた、正宗白鳥、菊池寛、久米正雄、吉川英治らによっても愛読されていた。松本清張は歴史家蘇峰を高く評価しており、遠藤周作も『近世日本国民史』はじめ蘇峰の修史には感嘆の念を表明していたという。
蘇峰は、『近世日本国民史』を執筆しながら「支那では4,000年の昔から偉大な政治家がたくさんいた。日本は政治の貧困のために国が滅びる」として、同書完成のあかつきには支那史(中国史)を書きたいとの意向を示していたという[。
蘇峰は死ぬまで昭和維新、日本国憲法第9条、朝鮮戦争等のそれぞれの事象について、つねに独自の見解、いわば「蘇峰史観」をもっていた。その意味で蘇峰は松岡正剛によれば、日本近現代史においてはきわめて例外的な「現在的な歴史思想者」であったとしている[10]。
◎言論人蘇峰
蘇峰が1916年(大正6年)に発表した『大正の青年と帝国の前途』の発行部数は約100万部にのぼった。当時のベストセラー作家だった夏目漱石の『吾輩は猫である』は、1905年(明治38年)から1907年(明治40年)に出版し、1917年(大正6年)までに1万1,500部(初版単行本の大蔵書店版)であるから、その影響力の大きさがわかる。
蘇峰は朝比奈知泉、福地源一郎(桜痴)、陸羯南などと同様、当時のメディアをリードした傑出した編集者であり記者であったが、その本質は政客的存在に近いものであった。社内では経営権をもち、創立者でもあることから広汎な自律性と裁量権を有するが、ゆえに一方で経営上・編集上の責任を負い、場合によっては政界の力を必要することもあった。逆言すれば、蘇峰・桜痴・羯南らは、いわばみずから組織をつくりあげたことで政治的存在となったのであり、後年の「番記者」のごとく既存の組織に属することによって活動して自らの地位を築いたのではなかった。当時にあっては、「国民新聞の蘇峰」というよりは「蘇峰の国民新聞」だったのである。その意味で、蘇峰らは「純粋な新聞界の住人というよりは政界と新聞界の両棲動物で、現住所は政界に近い」 と評される。しかし蘇峰は、生涯にわたって、みずから一記者であることを「記す者」という本来の意味において誇りに思っていた。
◎人物と交友関係
蘇峰は、新聞・雑誌のみならず、講演者としても活躍した。日本各地で数多くの講演をおこない、数百人、場合によっては1,000人をこえる聴衆を集め、つねに盛況だったといわれる。
◎多岐にわたる交友者
蘇峰の交友範囲は広く、与謝野晶子、鳩山一郎、緒方竹虎、佐佐木信綱、橋本関雪、尾崎行雄、加藤高明、斎藤茂吉、土屋文明、賀川豊彦、島木赤彦らの名前を掲げることができる。また、後藤新平、勝海舟、伊藤博文、森鷗外、渋沢栄一、東条英機、山本五十六、正力松太郎、中曽根康弘とも交遊があった。そこにイデオロギーや職業の違いはなく、あらゆるジャンル、年代の多様な人びとと親しく交際した。『近世日本国民史』の執筆に際しても、当時存命であった山縣有朋、勝海舟、伊藤博文、板垣退助、大隈重信、松方正義、西園寺公望、大山巌らに直接取材し、かれらのことばを詳細に紹介している。
親交のあった人の多くは蘇峰の高い学識に敬意をあらわした。与謝野晶子は、蘇峰について2首の短歌を詠んでいる。
・わが国のいにしへを説き七十路(ななそじ)す 未来のために百歳もせよ
・高山のあそは燃ゆれど白雪を 置くかしこさよ先生の髪
◎交友者からの書簡
神奈川県二宮町にある徳富蘇峰記念館には、蘇峰にあてた4万6,000通余の書簡が保管されており、差出人は約1万2,000人にわたっている。『近世日本国民史』でも多くの書簡が駆使されて歴史や人物が描かれており、蘇峰自身も『蘇翁言志録』(1936年)で、
ある意味に於いて、書簡はその人の自伝なり。特に第三者に披露する作為なくして、只だ有りのままに書きながしたる書簡は、其人の最も信憑すべき自伝なり。
と述べるように、書簡を大切なものと考えていた。
蘇峰自身も手紙魔であり、朝食前に20本もの書簡を書いていたというエピソードがある。
徳富蘇峰記念館所蔵の書簡は、館員の高野静子による解説(正・続)が出版。
『蘇峰とその時代-そのよせられた書簡から』(1988年)では、勝海舟、新島襄、徳富蘆花、坪内逍遥、森鴎外、山田美妙、内田魯庵、中西梅花、幸田露伴、森田思軒、宮崎湖処子、志賀重昂、佐々城豊寿、酒井雄三郎、小泉信三、松岡洋右、中野正剛、大谷光瑞などとの書簡が、、紹介されている。
『続 蘇峰とその時代-小伝鬼才の書誌学者 島田翰』(1998年)では、島田翰、与謝野晶子、与謝野鉄幹、吉屋信子、杉田久女、夏目漱石、竹崎順子(伯母)、徳富久子(母)、徳富静子(妻)、矢島楫子(叔母)、潮田千勢子、植木枝盛、依田學海、野口そ恵子、吉野作造、滝田樗陰、麻田駒之助、菊池寛、山本実彦、島田清次郎、賀川豊彦、が紹介されている。
平成22年(2010年)には、高野静子編『蘇峰への手紙―中江兆民から松岡洋右まで』が出版された(各・下記参照)。
◎弟・蘆花
小説『不如帰』で知られる5歳年下の弟・徳冨蘆花は、1903年(明治36年)に兄への「告別の辞」を発表して絶交。何かにつけて兄に反発していたが、大逆事件では幸徳秋水らの減刑について兄に取りなしを頼んでいる。この件は失敗に終わり、蘆花はその直後第一高等学校で「謀叛論」と題する有名な講演をおこなっている。これ以後、兄弟は長いあいだ疎遠な状態がつづいた。
1927年(昭和2年)、蘆花が群馬県伊香保で病床に就いた際に再会する。蘇峰が「おまえは日本一の弟だ」と話しかけると、蘆花は「兄貴こそ日本一だ。どうかいままでのことは水に流してくれ」と泣きながら訴えており、周囲の人に深い感動をあたえている。臨終の席で蘆花は兄に「後のことは頼む」と言い残して亡くなったといわれる。
◎墓地
・山王草堂
蘇峰が「山王草堂」と名づけた旧宅跡が大田区立山王草堂記念館として公開されている。1924年(大正13年)から昭和18年(1943年)まで住み、『近世日本国民史』等の主要著作を著した。1988年(昭和63年)、大田区により「蘇峰公園」として整備公開され、蘇峰の書斎があった家屋2階部分と玄関部分が園内に復元保存された。館内には蘇峰の原稿や書簡類が展示されている。
所在地:東京都大田区山王1-41-21。JR京浜東北線大森駅下車、徒歩15分。
開館時間:AM9:00-PM4:30(入館は4時まで) 休館日:12月29日-1月3日、入館無料。
◎多磨霊園
墓所は東京都府中市の東京都立多磨霊園。碑銘は「待五百年後、頑蘇八十七」。右に蘇峰の戒名「百敗院泡沫頑蘇居士」、左に静子夫人の戒名「平常院静枝妙浄大姉」とある。
<了>