龍の声

龍の声は、天の声

◎恐れずに失いましょう。勝俣隊長

2023-08-31 07:16:38 | 日本

失うことへの恐れは強いですか?
失うことは避けたいと思いますか?
人間は「得ること」よりも、「失うこと」の方が2.5倍も強く感じるそうです。
1000円をもらった時の嬉しさより、1000円を落とした時の悔しさの方が大きいです。
私たちは、どうしても、失うことに対しての防衛本能が働きます。

でも、失うことは悲しいことではありません!
何を失った時、人は何かを得ているからです。
人は失うことでしか、本当に大切なことを学べません。
出会いがあれば、別れがあります。
何を得ても、いつかはそれを失う。
そう考えた方がいい。
失う覚悟を持っておきましょう。

私はたちは何も持たずに生まれてきて、人生を歩むごとに、いろんなものを得てきました。
でも、命もいつか必ず失いますし、得たものは全て手放して、旅立っていきま す。
人生で絶対に失いたくないものを失ってしまった時、人は大きな後悔と強い痛みを感じるでしょう。
そして、そこに大きな教訓と学びがあるはずです。
そこまでしないと、人は本当に大切なことを学べないのです。
そして、何度も繰り返さないと人は本当に成長しないのです。
失うことを繰り返し、失うことを積み重ね、人は深く学び、人格を磨くことができるのです。
今日あるものが明日あるとは限りません。
今日会えた人と明日会える保証はありません。
そのことはあの震災で学んだことです。
だから今、この瞬間を大切に生きることを教訓として得たはずです。
失うことを恐れず、失うことを覚悟して、今を生きましょう。
失うことを恐れて、恐れから選択をしないようにしましょう。
恐れから選択した行動はあなたの人生を後退させるだけです。
失うことを恐れず、愛からの選択で行動すれば、失うものの何倍ものことを与えられるでしょう。
幸せで豊かな人生のために。











◎中村天風 傑出した人物 中村天風翁

2023-08-30 08:15:01 | 日本
◎中村天風 傑出した人物

実際、古今ともに、いわゆる傑出した人物というのは、いずれもみんな有意注意力が完全な人々のことを言うんだ。

何事に対しても周到にその観念が総合され、したがって精神も統一され、その結果すべての能力が同輩をしのぐために、いやでも自然と傑出しちゃう。
だから、いつも何事でも自分の好むことをおこなうときと同様に気をこめておやりなさい。



◎嘆くよりも、積極的な方向へ心をふり向ける

病や不運は、自分が生きるうえに何か誤りがあったがための結果の現象なんです。
悔んだり、嘆いたり、心を弱くする暇があるなら、本来の積極的な方向に心をふり向けかえる。
感謝や喜びで誤りを是正するほうへと、自分の心を積極的にふり向けることが
いちばん必要でしょう。
結局、人生は、自分の心のおきどころひとつなんです。




◎朗らかな活きがい

実際、たのしい、面白い、うれしい、という観念が心の中に生じた時ほど、朗らかな活きがいを人生に感じることはない。
そして、それがどんなに健康にも運命にも直接間接顕著な効果を与えるかわからない。
ということに想到する時、よりいっそうの貴い価値を感じる。
しかり、おそらくどんな名医名薬といえども、この観念以上の効果は絶対にないと、私は私の長年の経験で断言する。
多くいうまでもなく、人生は「心」である、
「観念」である。



<健康> 明るい生活 

2023-08-29 09:51:36 | 日本

「丹田を充実させる斎藤式複式呼吸法」

⇒息は吸うことでなく、吐くことが大切。

①先ず、息を吐く。
②鼻から三秒間息を吸う。
③2秒間丹田にグッと溜める。
④15秒間かけてゆっくり息を吐く。
⑤これを繰り返す。

副交感神経が優位に働いて、不整脈は治まる。






◎「将来は安定した仕事に就いて」勝俣隊長

2023-08-28 07:46:17 | 日本

「将来は安定した仕事に就いて」という、「親の願望」を刷り込まれて、私たちは大人になりました。
そんな親御さんに、尊敬する人物は?と聞くと、エジソン、リンカーン、坂本龍馬という偉人を答えます。
そして、将来、子供に就いて欲しい職業は?と聞くと、公務員と答える親御さんが多いようです。
安定した仕事をして欲しいと願うのは、親が心配をしたくないという、親の願望であり、子供の願望を無視した、親のエゴでしかありません。

もし、世の中に安定した仕事があるとしたら、それは、変化のない仕事であり、変化のない人生を送ると、人生の後半で退屈な人生が待っています。
現実、安定した仕事など今の時代には存在しません。
どんな仕事にもリスクはあります。
そもそも、私たちは、「不安定は悪い」というルールをいつから持ってしまったのでしょう。
不安定とは「バラエティに富んでいる」「マンネリしない」「変化を楽しめる」というニーズを満たしてくれる良いものなのです。

安定を望めば、望むほど、心配が募るだけです。
なぜなら、この世の中に「安定」というものは存在しないからです。
無いものを得ようとすれば、葛藤するだけです。
これからの人生を楽しみたいと願っている人は、「安定したい」を手放しましょう!
人生はどうなるかわからない。

だから、イキイキ、ワクワク、ドキドキ出来るのです。
過去を悔いたり、未来を憂いたり、そのエネルギーを「今」に注いでいきましょう。
人生とは「今」というこの瞬間の永遠の連続のことを言います。
退屈な人生、退屈な大人にならないために!
不安定が当たり前だと、不安定に慣れ、不安定を楽しみましょう。




「心を磨く 中村天風訓」

2023-08-26 08:48:06 | 日本

「心を磨く 中村天風訓」


人間の心の働きは、このほとんどのすべてが、心の奥にある、潜在意識の中にある、観念要素が、この不思議の作用の根本を成しているのであります。

心を正しく研究しない人は、人間が思ったり考えたりすることを、実在意識が行っているがために、もう一切合財、どんな心の作用も、この実在意識から発現し、そして実在意識が単独にこれを行っているもののように、思い違いをしている。

実在意識に、何かのショックや衝動をパーッと受けると、もう即座、収拾のできない、いわゆる混乱状態に心が陥っちゃって、結局、思うように完全に心の操縦ができなくなる。

つまり怒らなくていいことを怒ってみたり。
何も怖れなくてもいい場合でも怖れを感じてみたり。
そうしてもう、気が静まって考えてみりゃ、たいしたことでもないことを、非常にこの悲しんでみたり。
つまんないことを悩んで、気をふさいでみたりと。
間違いを間違いでないように思って、間違ってやっちまうんだよ。



 「人生をむずかしく考えない」


人生を、あまりむずかしく考えないほうが よい。
むずかしく考えるとわからなくなる。

真理は足もとにある。
高遠な学理の中にあるのではない。

もとより軽率な考え方ではいけないが、なまじ学問をした人は、真理は遠く大海の底、深山幽谷の奥山にあるような思い違いをすることが多い。

人間それ自体の生命存在を、思索の中心において考えれば、大きな的はずれをしないですむはずである。

人間の心のあり方が、結局人生を支配する法則の根本である。


いかなるときでも忘れてはいけない。
「不孤(こならず)」

自分というものは、ひとりでいるのではない。

常に宇宙根本主体である気というものに包まれていて、しかもそれは全智全能の力を持っている。

それと結び付いている生命を自分が持っているのである。

つまり自己というものを無限大に考えてよい。

霊智によって作られ、
宇宙の中に最も優れたものとして、自分は造られたのだという事実を、断固として信念しなければいけないのである。

それだけのことが心の中にしっかり決められれば、何も大した努力をしなくても、恵まれた幸せな人生を造りあげることができる。








「魔王サマトクマラ&鞍馬寺」

2023-08-25 06:52:40 | 日本

「650万年前に金星から降臨した魔王を今も祀っているお寺、魔王サマトクマラ&鞍馬寺」


名高い聖地・鞍馬寺は、平安時代より京都北方を守護する寺。そこは源義経の伝説あり、枕草子などの文学に登場歴あり、与謝野鉄幹・晶子夫婦にゆかりあり、京都三大奇祭の火祭りあり、かつて秘祭だったウエサク祭もあり…と、伝説に事欠かない不思議な土地です。それもそのはず、この土地のエネルギーの創始は650万年前、金星からこの地に降り立った魔王・サマトクマラ! 始まりからして宇宙規模に神秘的な土地なのです。
圧倒的なスケールを持つ、人智を超えたパワースポット鞍馬寺。今回はそんな鞍馬寺に伝わるサマトクマラ伝説の数々をご紹介します。

まずは駅に降り立つと目に飛びこんでくる不思議、鞍馬天狗から。実はこの鞍馬天狗も、魔王・サマトクマラの一姿なのです。

一般に鞍馬天狗と言えば、鞍馬山の僧正ガ谷(そうじょうがだに)に住むと伝えられる大天狗のこと。天狗伝承は高尾山や比叡山、愛宕山などさまざまな霊山で語り継がれていますが、ここ鞍馬山の大天狗は全国の天狗のいわば総帥であり、僧正が谷は天狗の総本山と言われています。
そして鞍馬山での天狗とは、山の精霊であり、本来目に見えない宇宙の力を表現した姿とされます。

鞍馬寺は、愛(月の精霊-千手観世音菩薩)・光(太陽の精霊-毘沙門天王)・力(大地の霊王-護法魔王尊)の三身を一体の「尊天」として本尊とする「尊天信仰」。ですので一般的に、力の現れとしての護法魔王尊(サマトクマラ)=天狗とされているのです。

ちなみにサマトクマラ=天狗と言うと、クマラが変化してクラマになったのかな? と考えてしまうところですよね。実際そうとする説もありますが、ここ鞍馬山では、鞍馬山開創時に鑑禎上人を山へ導いたのが鞍を乗せた馬だったことから鞍馬となったと伝えられています。

鞍馬山には伝説や不思議を残す場所は幾つもあり、どの場所もたいへん神秘的です。まさに山全体が神秘のパワーを持つ土地なのです。それではその山の中心、最もパワーが集中すると言われる場所は? それがこちら、本殿金堂の前庭の石畳。

本殿でなくその前庭がパワーの中心とは、ちょっと不思議に思いますよね。こちらの本殿金堂には、毘沙門天、千手観世音、護法魔王尊(サマトクマラ)の尊天三像が祀られています。(三像とも60年に一度のみ開帳される秘仏なので、厨子の前に「お前立ち」と称される代わりの像が常時安置されています)

そして前庭の石畳ですが、これは金剛床(こんごうしょう)といい、宇宙のエネルギーである尊天の波動が果てしなく広がる星マンダラを模した場所で、「内奥に宇宙の力を蔵する人間が宇宙そのものと一体化する」という鞍馬の教えの理想を表現しています。お堂の三像は尊天の象徴であり、こちらが尊天を感じるための場なのです。金剛床の中心には三角形の重なった美しい星の図が描かれ、パワーが最も集中する場所と言われていますよ。
そしてこの星の図は、サマトクマラの紋章ともされているのです。


そして天狗の総本山、鞍馬山奥地の僧正ガ谷も重要なパワースポット。本殿金堂より奥の院参道を通ってたどり着く不動堂とその向かいの義経堂、そしてそれらのお堂を含めた辺り一帯を僧正ガ谷と呼びます。謡曲「鞍馬天狗」の舞台として有名ですが、つまりは謡曲になるほどの天狗伝説があったということ。単なるゆかりの地には留まらない神秘的な場所です。

案内板には、僧正ガ谷は源義経が天狗「僧正坊」から武芸を習った処、とあります。また仮名草子「京童」では「この谷は不動明王示現の地なり」とあり、昔幼い義経がある山伏に剣術を教わった旨が語られた後、「その後終(つひ)に山伏みえず。これ天狗にてありと也」と閉じられます。

その天狗こそ全国の天狗の総帥と語られる、650年前に金星からこの地へ降り立った魔王・サマトクマラの化身とされているのです。


そのサマトクマラの降り立ったとされる場所がこちら! 鞍馬山最高の聖地とされる奥の院・魔王殿です。道の遠さ険しさからか鞍馬山を訪れても奥の院までは行かずに帰るという人も多い場所。そして実際に訪れてみると、パワフルとされる聖地の多くがそうであるように、ここも呼ばれた人しかたどり着けない場所なのかもしれないと思えるほどの神聖さが漂います。

その神秘は目にも見える形にもなっており、奥の院から貴船への道々には曲がりくねって生え伸びる木々が見られます。これは木の性質からするとおかしなことで、土地のエネルギーが強いせいではないかと言われています。
また道傍らの水成岩にはサンゴの化石などが見られ、大昔には海であったことが知れます。

魔王殿は決して怖い場所ではありません。むしろ静かで森閑としており、心地よく過ごすことができる場所です。こちらのベンチで瞑想する人も多いとか。
ちなみに幕に大きく二つ描かれている寺紋は、場所柄もあって天狗の羽団扇のマークだと思う方が多いのですが、実は菊の花の文様。菊の花を正面ではなく横から見た図章なのですよ。


魔王殿の内部。入ると柵の向こう側に、サマトクマラの降り立ったという磐座(いわくら)を拝することができます。もちろん今も、お祀りしているのはサマトクマラである護法魔王尊。

サマトクマラの伝説はヒンドゥー教の神話を始めとして世界各地にたくさんあり、カールケッティーヤ、スマラ、スカンダ、韋駄天、鳩摩羅天(くまらてん)など、多くの神々と同一視されています。総じて強い力を持つ戦いの神、また暗闇や負の存在を取り除いてくれる賢人とされることの多い存在です。
そしてここ鞍馬山では、通常の人間とは異なる元素から成る身体を持ち、永遠に16歳のまま年をとることのない存在と語られています。

サマトクマラが降臨したと語られるのは650年前。そして現在発見されている最古の人類化石が700万-600万年前であることから、最新の研究ではその頃人類が産まれたのではないかとの説が有力です。サマトクマラは人類の誕生に合わせて地球へ来たのかも…なんて考えてみるのも面白いですね。
◎ウエサク祭とは?
天上と地上の間に道が開けて強いエネルギーが降り注ぐという五月の満月の宵に、鞍馬山に祀られる大魔王尊(尊天)に、人類の目覚めを参加者全員で祈る。(京都市観光協会HPより)
5月の満月の夜に鞍馬寺で行われる。宇宙からの強いエネルギーがこの世界は洪水のように降り注ぐ。その分、呼応するように地のエネルギーも蠢くので、こころしたい!








 「徳富蘇峰とは、③」

2023-08-24 08:23:42 | 日本

◎歴史家蘇峰

歴史家としての名声は山路愛山とならび、特にその史論が高く評価される。
史書『近世日本国民史』は民間史学の金字塔と呼ぶべき大作である。蘇峰は歴史について、こう語っている。
所謂過去を以て現在を観る、現在を以て過去を観る。歴史は昨日の新聞であり、新聞は明日の歴史である。
従つて新聞記者は歴史家たるべく、歴史家は新聞記者たるべしとするものである。
『近世日本国民史』は、第1巻「織田氏時代 前編」から最終巻までの総ページ数が4万2,468ページ、原稿用紙17万枚、文字数1,945万2,952文字におよび、ギネスブックに「最も多作な作家」と書かれているほどである。『近世日本国民史』の構成は、
・緒論…織田豊臣時代〔10巻〕
・中論…徳川時代〔19巻〕・孝明天皇の時代〔32巻〕
・本論…明治天皇時代の初期10年間〔39巻〕
の計100巻となっており、とくに幕末期の孝明天皇時代に多くの巻が配分されている。


◎吉田松陰墓前における徳富蘇峰(1913年)

蘇峰は、全体の3分の1近くをあてるほど孝明天皇時代すなわち幕末維新の激動に格別の意義を探っていた。しかし蘇峰は、「御一新」は未完のままあまりに短命に終息してしまったとみており、日本の近代には早めの「第二の維新」が必要であると考えた。それゆえ、蘇峰の思想には平民主義と皇国主義が入り混じり、ナショナリズムとグローバリズムとが結合した。なお、この件について松岡正剛は、蘇峰はあまりにも自ら立てた仮説に呑み込まれたのではないかと指摘している。

蘇峰は執筆当初、頼山陽の『日本外史』(22巻、800ページ)を国民史の分量として目標としていた。しかし、結果的には林羅山・林鵞峰の『本朝通鑑』(5,700ページ)や徳川光圀のはじめた『大日本史』(2,500ページ)の規模を上まわった。
『近世日本国民史』の第十八巻は元禄赤穂事件にあてられている。義士否認論では佐藤信方らの見解を記すとともに、「吉良を故君の仇と思ふは愚の至り」と思想も述べられる。但し、「大石の放蕩は敵を欺く為の計略といふ深慮遠謀などではなく、只の救い難き好色による処である」「寺坂の離脱は密命を帯びた為でなく、単に臆病だった為」等の独断による主観的な赤穂義士への悪口も散見される。
同書の最終巻は西南戦争にあてられている。その後の日本が興隆にむかったため西郷隆盛は保守反動として片づけられがちであるが、蘇峰は西郷をむしろ「超進歩主義者」とみており、一身を犠牲にした西郷率いる薩摩軍が敗北したことによって、人びとは言論によって政権を倒す方向へと向かったとしている。

杉原志啓によれば、アナキストの大杉栄が獄中で読みふけっていたのが蘇峰の『近世日本国民史』であり、同書はまた、正宗白鳥、菊池寛、久米正雄、吉川英治らによっても愛読されていた。松本清張は歴史家蘇峰を高く評価しており、遠藤周作も『近世日本国民史』はじめ蘇峰の修史には感嘆の念を表明していたという。
蘇峰は、『近世日本国民史』を執筆しながら「支那では4,000年の昔から偉大な政治家がたくさんいた。日本は政治の貧困のために国が滅びる」として、同書完成のあかつきには支那史(中国史)を書きたいとの意向を示していたという[。
蘇峰は死ぬまで昭和維新、日本国憲法第9条、朝鮮戦争等のそれぞれの事象について、つねに独自の見解、いわば「蘇峰史観」をもっていた。その意味で蘇峰は松岡正剛によれば、日本近現代史においてはきわめて例外的な「現在的な歴史思想者」であったとしている[10]。
◎言論人蘇峰
蘇峰が1916年(大正6年)に発表した『大正の青年と帝国の前途』の発行部数は約100万部にのぼった。当時のベストセラー作家だった夏目漱石の『吾輩は猫である』は、1905年(明治38年)から1907年(明治40年)に出版し、1917年(大正6年)までに1万1,500部(初版単行本の大蔵書店版)であるから、その影響力の大きさがわかる。
蘇峰は朝比奈知泉、福地源一郎(桜痴)、陸羯南などと同様、当時のメディアをリードした傑出した編集者であり記者であったが、その本質は政客的存在に近いものであった。社内では経営権をもち、創立者でもあることから広汎な自律性と裁量権を有するが、ゆえに一方で経営上・編集上の責任を負い、場合によっては政界の力を必要することもあった。逆言すれば、蘇峰・桜痴・羯南らは、いわばみずから組織をつくりあげたことで政治的存在となったのであり、後年の「番記者」のごとく既存の組織に属することによって活動して自らの地位を築いたのではなかった。当時にあっては、「国民新聞の蘇峰」というよりは「蘇峰の国民新聞」だったのである。その意味で、蘇峰らは「純粋な新聞界の住人というよりは政界と新聞界の両棲動物で、現住所は政界に近い」 と評される。しかし蘇峰は、生涯にわたって、みずから一記者であることを「記す者」という本来の意味において誇りに思っていた。


◎人物と交友関係

蘇峰は、新聞・雑誌のみならず、講演者としても活躍した。日本各地で数多くの講演をおこない、数百人、場合によっては1,000人をこえる聴衆を集め、つねに盛況だったといわれる。


◎多岐にわたる交友者

蘇峰の交友範囲は広く、与謝野晶子、鳩山一郎、緒方竹虎、佐佐木信綱、橋本関雪、尾崎行雄、加藤高明、斎藤茂吉、土屋文明、賀川豊彦、島木赤彦らの名前を掲げることができる。また、後藤新平、勝海舟、伊藤博文、森鷗外、渋沢栄一、東条英機、山本五十六、正力松太郎、中曽根康弘とも交遊があった。そこにイデオロギーや職業の違いはなく、あらゆるジャンル、年代の多様な人びとと親しく交際した。『近世日本国民史』の執筆に際しても、当時存命であった山縣有朋、勝海舟、伊藤博文、板垣退助、大隈重信、松方正義、西園寺公望、大山巌らに直接取材し、かれらのことばを詳細に紹介している。
親交のあった人の多くは蘇峰の高い学識に敬意をあらわした。与謝野晶子は、蘇峰について2首の短歌を詠んでいる。
・わが国のいにしへを説き七十路(ななそじ)す 未来のために百歳もせよ
・高山のあそは燃ゆれど白雪を 置くかしこさよ先生の髪


◎交友者からの書簡

神奈川県二宮町にある徳富蘇峰記念館には、蘇峰にあてた4万6,000通余の書簡が保管されており、差出人は約1万2,000人にわたっている。『近世日本国民史』でも多くの書簡が駆使されて歴史や人物が描かれており、蘇峰自身も『蘇翁言志録』(1936年)で、
ある意味に於いて、書簡はその人の自伝なり。特に第三者に披露する作為なくして、只だ有りのままに書きながしたる書簡は、其人の最も信憑すべき自伝なり。
と述べるように、書簡を大切なものと考えていた。
蘇峰自身も手紙魔であり、朝食前に20本もの書簡を書いていたというエピソードがある。
徳富蘇峰記念館所蔵の書簡は、館員の高野静子による解説(正・続)が出版。
『蘇峰とその時代-そのよせられた書簡から』(1988年)では、勝海舟、新島襄、徳富蘆花、坪内逍遥、森鴎外、山田美妙、内田魯庵、中西梅花、幸田露伴、森田思軒、宮崎湖処子、志賀重昂、佐々城豊寿、酒井雄三郎、小泉信三、松岡洋右、中野正剛、大谷光瑞などとの書簡が、、紹介されている。

『続 蘇峰とその時代-小伝鬼才の書誌学者 島田翰』(1998年)では、島田翰、与謝野晶子、与謝野鉄幹、吉屋信子、杉田久女、夏目漱石、竹崎順子(伯母)、徳富久子(母)、徳富静子(妻)、矢島楫子(叔母)、潮田千勢子、植木枝盛、依田學海、野口そ恵子、吉野作造、滝田樗陰、麻田駒之助、菊池寛、山本実彦、島田清次郎、賀川豊彦、が紹介されている。
平成22年(2010年)には、高野静子編『蘇峰への手紙―中江兆民から松岡洋右まで』が出版された(各・下記参照)。
◎弟・蘆花
小説『不如帰』で知られる5歳年下の弟・徳冨蘆花は、1903年(明治36年)に兄への「告別の辞」を発表して絶交。何かにつけて兄に反発していたが、大逆事件では幸徳秋水らの減刑について兄に取りなしを頼んでいる。この件は失敗に終わり、蘆花はその直後第一高等学校で「謀叛論」と題する有名な講演をおこなっている。これ以後、兄弟は長いあいだ疎遠な状態がつづいた。
1927年(昭和2年)、蘆花が群馬県伊香保で病床に就いた際に再会する。蘇峰が「おまえは日本一の弟だ」と話しかけると、蘆花は「兄貴こそ日本一だ。どうかいままでのことは水に流してくれ」と泣きながら訴えており、周囲の人に深い感動をあたえている。臨終の席で蘆花は兄に「後のことは頼む」と言い残して亡くなったといわれる。


◎墓地

・山王草堂
蘇峰が「山王草堂」と名づけた旧宅跡が大田区立山王草堂記念館として公開されている。1924年(大正13年)から昭和18年(1943年)まで住み、『近世日本国民史』等の主要著作を著した。1988年(昭和63年)、大田区により「蘇峰公園」として整備公開され、蘇峰の書斎があった家屋2階部分と玄関部分が園内に復元保存された。館内には蘇峰の原稿や書簡類が展示されている。
所在地:東京都大田区山王1-41-21。JR京浜東北線大森駅下車、徒歩15分。
開館時間:AM9:00-PM4:30(入館は4時まで) 休館日:12月29日-1月3日、入館無料。

◎多磨霊園
墓所は東京都府中市の東京都立多磨霊園。碑銘は「待五百年後、頑蘇八十七」。右に蘇峰の戒名「百敗院泡沫頑蘇居士」、左に静子夫人の戒名「平常院静枝妙浄大姉」とある。



<了>







「徳富蘇峰とは、②」

2023-08-23 07:42:48 | 日本

◎大正デモクラシー時代と『近世日本国民史』の執筆

1913年(大正2年)1月の第一次護憲運動のさなか桂太郎の立憲同志会創立趣旨草案を執筆している。 『國民新聞』は大正政変に際しても第3次桂内閣を支持したため、「桂の御用新聞」と見なされて再び襲撃を受けた。『蘇峰日誌』などによれば、このとき国民新聞社社員は活字用の溶解した鉛まで投げて群衆に抵抗し、社員のなかの1名はピストルを発射、それにより少なくとも死者1名、重傷者2名を出し、更に日本刀による応戦で負傷者多数が生じている。
蘇峰は、同年10月の桂の死を契機に政界を離れ、以降は「文章報国」を標榜して時事評論に健筆をふるった。1914年(大正3年)の父・一敬の死後は『時務一家言』『大正の青年と帝国の前途』を出版して『将来之日本』以来の言論人に立ち返ることを約した。

第一次世界大戦のさなかに書かれた『大正の青年と帝国の前途』のなかで蘇峰は、特徴的な「大正の青年」について、模範青年、成功青年、煩悶青年、耽溺青年、無色青年の5類型を掲げて論評しており、「金持ち三代目の若旦那」のようなものだと言っている。日清・日露の両戦争に勝利した日本は、独立そのものを心配しなくてはならないような状況は見あたらないから、彼らに創業者(維新の青年)のようにあれと求めても無理であり、彼らが「呑気至極」なのもやむを得ない、と述べたうえで、むしろ国際競争のなかで青年を呑気たらしめている国家のあり方、無意識的に惰性で運行しているかのような国家のあり方が問題なのであり、国家は意識的に国是を定めるべきだと主張した。

1915年(大正4年)11月、第2次大隈内閣は異例の新聞人叙勲をおこなっている。蘇峰は、このとき黒岩涙香、村山龍平、本山彦一らとともに勲三等を受章した。なお、蘇峰の『國民新聞』は立憲政友会に対しては批判的な記事を掲載することが多く、それは第1次西園寺内閣時代の1906年(明治39年)にさかのぼるが、「平民宰相」となった原敬が最も警戒すべき新聞として敵視していたのが『國民新聞』であった。二個師団増設問題の解決をめぐって互いに接近したこともあったが、1918年(大正7年)の原内閣成立後も、原は『國民新聞』に対する警戒を解かなかった。

1918年(大正7年)5月、蘇峰は「修史述懐」を著述して年来持ちつづけた修史の意欲を公表した。同年7月、55歳となった蘇峰は『近世日本国民史』の執筆に取りかかって『國民新聞』にこれを発表、8月には京城日報社監督を辞任した。『近世日本国民史』は、日本の正しい歴史を書き残しておきたいという一念から始まった蘇峰のライフワークであり、当初は明治初年以降の歴史について記す予定であったが、明治を知るには幕末、幕末を知るには江戸時代が記されなければならないとして、結局、織田信長の時代以降の歴史を著したものとなった。『近世日本国民史』は、東京の大森(現大田区)に建てられた「山王草堂」と名づけた居宅で執筆された。山王草堂には、隣接して自ら収集した和漢の書籍10万冊を保管した「成簀堂(せいきどう)文庫」という鉄筋コンクリート造、地上3階、地下2階の書庫が建てられた。
1923年(大正12年)には10巻を発表した段階で『近世日本国民史』の業績が認められ、帝国学士院の恩賜賞を受賞した。この年は9月1日に関東大震災が起こっているが、その日神奈川県逗子にいた蘇峰は、周囲が津波に襲われるなか、庭先で『近世日本国民史』の執筆をおこなっている。

1925年(大正14年)6月、蘇峰は帝国学士院会員に推挙され、その任に就いた。また、同年、皇室思想の普及などを目的とする施設「青山会館」が、蘇峰の寄付によって東京・青山に完成している。
◎創立50周年記念祝会(1929年(昭和4年)12月12日)
ジャーナリスト・評論家としての蘇峰は、大正デモクラシーの隆盛に対し、外に「帝国主義」、内に「平民主義」、両者を統合する「皇室中心主義」を唱え、また、国民皆兵主義の基盤として普通選挙制実現を肯定的にとらえている。1927年(昭和2年)、弟の蘆花が死去。1928年(昭和3年)には蘇峰の「文章報国40年祝賀会」が青山会館で開催されている。
帝国学士院会員としては、1927年(昭和2年)5月に「維新史考察の前提」、1928年(昭和3年)1月に「神皇正統記の一節に就て」、1931年(昭和6年)10月には「歴史上より見たる肥後及び其の人物」のそれぞれについて進講している。
なお、関東大震災後に国民新聞社の資本参加を求めた根津嘉一郎が副社長として腹心の河西豊太郎をすえると根津と河西のあいだに確執が深まり、1929年(昭和4年)、蘇峰は自ら創立した国民新聞社を退社した。その後は、本山彦一の引きで大阪毎日新聞社・東京日日新聞社に社賓として迎えられ、『近世日本国民史』連載の場を両紙に移している。


◎軍部との提携と大日本言論報国会

1931年(昭和6年)、『新成簀堂叢書』の刊行を開始した。同年に起こった満州事変以降、蘇峰はその日本ナショナリズムないし皇室中心主義的思想をもって軍部と結んで活躍、「白閥打破」、「興亜の大義」、「挙国一致」を喧伝した。
1935年(昭和10年)に『蘇峰自伝』、1939年(昭和14年)に『昭和国民読本』、1940年(昭和15年)には『満州建国読本』をそれぞれ刊行し、この間、1937年(昭和12年)6月に帝国芸術院会員となった。1940年(昭和15年)9月、日独伊三国軍事同盟締結の建白を近衛文麿首相に提出し、1941年(昭和16年)12月には東條英機首相に頼まれ、大東亜戦争開戦の詔勅を添削している。

1942年(昭和17年)5月には日本文学報国会を設立してみずから会長に就任、同年12月には内閣情報局指導のもと大日本言論報国会が設立されて、やはり会長に選ばれた。前者は、数多くの文学者が網羅的、かつ半ば強制的に会員とされたものであったのに対し、後者は内閣情報局職員の立会いのもと、特に戦争に協力的な言論人が会員として選ばれた。ここでは、皇国史観で有名な東京帝国大学教授・平泉澄や、京都帝国大学の哲学科出身で京都学派の高山岩男、高坂正顕、西谷啓治、鈴木成高らの発言権が大きかった。
1943年(昭和18年)4月に蘇峰は、三宅雪嶺らとともに東條内閣のもとで文化勲章を受章した。この年に蘇峰は80歳となり、三叉神経痛や眼病を患うようになったが、『近世日本国民史』の執筆は病気をおして継続している。1944年(昭和19年)2月には『必勝国民読本』を刊行した。
1945年(昭和20年)7月にポツダム宣言が発せられたが、蘇峰は受諾に反対。昭和天皇の非常大権の発動を画策したが、実現しなかった。


◎『近世日本国民史』の完成と晩年の蘇峰

1945年(昭和20年)9月、自らの戒名を「百敗院泡沫頑蘇居士」とする。戦前の日本における最大のオピニオンリーダーであった蘇峰は、同年12月2日、連合国軍最高司令官総司令部の逮捕命令対象者のリストに名を連ねた(A級戦犯容疑の第三次逮捕者59名中の1人)が、老齢と三叉神経痛のために自宅拘禁とされ、後に不起訴処分が下された。公職追放処分を受けたため、1946年(昭和21年)2月23日に貴族院勅選議員などの公職を辞して静岡県熱海市に蟄居した。また同年には戦犯容疑をかけられたことを理由に、言論人として道義的責任を取るとして文化勲章を返上した。1948年(昭和23年)12月7日、妻の静子が死去。熱海に蟄居となったこのころの蘇峰は、さかんに達磨画を描いている。
蘇峰は終戦後も日記を書き続けており、その中で、昭和天皇について「天皇としての御修養については頗る貧弱」、「マッカーサー進駐軍の顔色のみを見ず、今少し国民の心意気を」などと述べている。

1951年(昭和26年)2月、終戦以来中断していた『近世日本国民史』の執筆を再開し、1952年(昭和27年)4月20日、ついに全巻完結した。『近世日本国民史』は、史料を駆使し、織田信長の時代から西南戦争までを記述した全100巻の膨大な史書であり、1918年(大正7年)の寄稿開始より34年の歳月が費やされている。高齢のため、98巻以降は口述筆記された。平泉澄の校訂により時事通信社で刊行されたが、100巻のうち24巻は生前の発刊に至らず、全巻の刊行は没後の1963年(昭和38年)、孫の徳富敬太郎の手によってなされた。
1952年(昭和27年)9月『勝利者の悲哀』『読書九十年』を出版、1954年(昭和29年)3月から1956年(昭和31年)6月まで『読売新聞』紙上に明治・大正・昭和の人物評伝として「三代人物史伝」を寄稿した。『勝利者の悲哀』では、近代アメリカ外交を批判すると同時に日本人にも反省を求めている。なお、「三代人物史伝」は蘇峰の死後、『三代人物史』と改題されたうえで刊行された。
1954年(昭和29年)には山中湖畔の双宜荘を同志社に寄贈し、翌年11月に行われた同志社創立80周年記念式にも老躯を押して出席するなど、同志社との関わりは生涯にわたって続いた。
1957年(昭和32年)11月2日、熱海の晩晴草堂で死去。享年95(満94歳没)。絶筆の銘は「一片の丹心渾べて吾を忘る」。葬儀は東京の霊南坂教会でおこなわれた。墓所は東京都立多磨霊園にある。


◎業績と評価

思想家、言論人としての蘇峰は、その思想の振幅が大きく、行動が変化に富み、活動範囲も多岐にわたるため、その全体像をつかむのは容易ではない。蘇峰自身も、
「維新以前に於いては尊皇攘夷たり、維新以降に於いては自由民権たり、而して今後に於いては国民的膨張たり。」

と述べている(「日本国民の活題目」、『国民の友』第263号)。それについて、「変節漢」あるいは時流便乗派という否定的な評価があることも事実であり、終戦後の1946年(昭和21年)に同志社大学学長となった田畑忍は蘇峰に向かって「どうぞ先生、もう一度民主主義者になるような、みっともないことをしないでください」と述べたという。
それに対し、松岡正剛は、敬虔なクリスチャン、若き熊本の傑物、平民主義者、国民主義者、皇室中心主義者、大ジャーナリスト、文章報国に生きた言論人、そのいずれでもあったが、しかし、そのなかのどれかひとつに偏った人ではなかった、そして、歴史の舞台の現場から退くということのなかった人であると評価している。
戦前における国権主義的な言論活動については評判が悪く、戦後の日本史学界では、上述の蘇峰「日本国民の活題目」にみられるような情勢判断こそが近代日本のアジア進出さらには軍国主義の台頭を許した元凶ではないかとする見解が少なくない。
徳富蘇峰(1950年)

その一方で、久恒啓一は蘇峰が人びとにあたえた影響力の大きさを「影響力の広さ×影響力の深さ×影響力の長さ」で示すならば、蘇峰は近代日本社会にきわめて大きな影響をあたえた人物にほかならないとしている。
近代日本思想史を語るうえで重要な、三国干渉後の「蘇峰の変節」については、今日では仮に軽挙妄動の部分があったとしても決して蘇峰自身の内部では思想上の変節ではなかったとする評価が力を得ており、こうした見解は海外の研究者であるジョン・ピアーソン(1977年)、ビン・シン(1986年)によって示されている。すなわち、かれらは蘇峰はむしろ時勢に即して最良の歴史的選択を構想し続けた思想家であり、上述「日本国民の活題目」における判断は、変化する時代の潮流のなかで、その時々において最も妥当なものでなかったかと論じ、むしろ、日本人がどうして蘇峰のこうした判断を精緻化する方向に向かわなかったのかに疑義を呈している。








 「徳富蘇峰とは、①」

2023-08-18 08:04:08 | 日本

徳富 蘇峰(とくとみ そほう、1863年3月14日(文久3年1月25日) - 1957年(昭和32年)11月2日)は、明治から昭和戦後期にかけての日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家。『國民新聞』を主宰し、大著『近世日本国民史』を著したことで知られている。蘇峰は号で、本名は猪一郎(いいちろう)。字は正敬(しょうけい)。筆名は菅原 正敬(すがわら しょうけい)、大江 逸(おおえ いつ、逸郎とも)。雅号に山王草堂主人、頑蘇老人、蘇峰学人、銑研、桐庭、氷川子、青山仙客、伊豆山人など。生前自ら定めた戒名は百敗院泡沫頑蘇居士(ひゃぱいいんほうまつがんそこじ)。
小説家の徳冨蘆花は実の弟である。


◎生い立ちと青年時代

1863年3月14日(文久3年1月25日)、肥後国上益城郡杉堂村(現熊本県上益城郡益城町上陳)の母の実家(矢嶋家)にて、熊本藩の一領一疋の郷士・徳富一敬の第五子・長男として生れた。徳富家は代々葦北郡水俣で惣庄屋と代官を兼ねる家柄であり、幼少の蘇峰も水俣で育った。父の一敬は「淇水」と号し、「維新の十傑」 のひとり横井小楠に師事した人物で、一敬・小楠の妻同士は姉妹関係にあった。一敬は、肥後実学党の指導者として藩政改革ついで初期県政にたずさわり、幕末から明治初期にかけて肥後有数の開明的思想家として活躍した。
蘇峰は、8歳まで水俣(浜村、通称居倉) に住んでおり、1870年(明治3年)の暮れ、8歳の頃に熊本東郊の大江村に引き移った。1871年(明治4年)から兼坂諄次郎に学んだ。読書の力は漸次ついてきて、『四書』『五経』『左伝』『史記』『歴史網鑑』『国史略』『日本外史』『八家文』『通鑑網目』なども読み、兼坂から習うべきものも少なくなった。1872年(明治5年)には熊本洋学校 に入学したが、年少(10か11歳)のため退学させられ、このことはあまり恥辱でもなかったが、大変不愉快な思いを憶えたという。その後1875年(明治8年)に再入学する。この間、肥後実学党系の漢学塾に学んでいる。熊本洋学校では漢訳の『新約・旧約聖書』などにふれて西洋の学問やキリスト教に興味を寄せ、1876年(明治9年)、横井時雄、金森通倫、浮田和民らとともに熊本バンド(花岡山の盟約)の結成に参画、これを機に漢学・儒学から距離をおくようになった。
熊本洋学校閉鎖後の1876年(明治9年)8月に上京し、官立の東京英語学校に入学するも10月末に退学、京都の同志社英学校に転入学した。同年12月に創設者の新島襄により金森通倫らとともに洗礼を受け、西京第二公会に入会、洗礼名は掃留(ソウル)であった。若き蘇峰は、言論で身を立てようと決心するとともに、地上に「神の王国」を建設することをめざした。
1880年(明治13年)、学生騒動に巻き込まれて同志社英学校を卒業目前に中退した。蘇峰は、こののち東京で新聞記者を志願したがかなわず、翌1881年(明治14年)、帰郷して自由党系の民権結社相愛社に加入し、自由民権運動に参加した。このとき蘇峰は相愛社機関紙『東肥新報』の編集を担当、寄稿もしてナショナリズムに裏打ちされた自由民権を主張している。
1882年(明治15年)3月、元田永孚の斡旋で入手した大江村の自宅内に、父・一敬とともに私塾「大江義塾」を創設する。1886年(明治19年)の閉塾まで英学、歴史、政治学、経済学などの講義を通じて青年の啓蒙に努めた。その門下には宮崎滔天や人見一太郎らがいる。


◎『國民新聞』の創刊と平民主義

大江義塾時代の蘇峰は、リチャード・コブデンやジョン・ブライトらマンチェスター学派と呼ばれるヴィクトリア朝の自由主義的な思想家に学び、馬場辰猪などの影響も受けて平民主義の思想を形成していった。1882年(明治15年)夏に上京し、慶應義塾に学ぶ従兄の江口高邦に伴われて福澤諭吉に面会。

蘇峰のいう「平民主義」は、「武備ノ機関」に対して「生産ノ機関」を重視し、生産機関を中心とする自由な生活社会・経済生活を基盤としながら、個人に固有な人権の尊重と平等主義が横溢する社会の実現をめざすという、「腕力世界」に対する批判と生産力の強調を含むものであった。これは、当時の藩閥政府のみならず民権論者のなかにしばしばみられた国権主義や軍備拡張主義に対しても批判を加えるものであり、自由主義、平等主義、平和主義を特徴としていた。蘇峰の論は、1885年(明治18年)に自費出版した『第十九世紀日本の青年及其教育』(のちに『新日本之青年』と解題して刊行)、翌1886年(明治19年)に刊行された『将来之日本』 に展開されたが、いずれも大江義塾時代の研鑽によるものである。彼の論は、富国強兵、鹿鳴館、徴兵制、国会開設に沸きたっていた当時の日本に警鐘を鳴らすものとして注目された。


◎蘇峰24歳(1886年夏)

蘇峰は1886年(明治19年)の夏、脱稿したばかりの『将来之日本』の原稿をたずさえ、新島襄の添状を持参して高知にあった板垣退助(自由党総理)を訪ねている。原稿を最初に見せたかったのが板垣であったといわれている。同書は蘇峰の上京後に田口卯吉の経済雑誌社より刊行されたものであるが、その華麗な文体は多くの若者を魅了し、たいへん好評を博したため、蘇峰は東京に転居して論壇デビューを果たした。これが蘇峰の出世作となった。
1887年(明治20年)2月には東京赤坂榎坂に姉・初子の夫・湯浅治郎の協力を得て言論団体「民友社」を設立し、月刊誌『国民之友』を主宰した。この誌名は、蘇峰が同志社英学校時代に愛読していたアメリカの週刊誌『The Nation』から採用したものだといわれている。
民友社には弟の蘆花をはじめ山路愛山、竹越與三郎、国木田独歩らが入社した。『国民之友』は、日本近代化の必然性を説きつつも、政府の推進する「欧化主義」に対しては「貴族的欧化主義」と批判、三宅雪嶺、志賀重昂、陸羯南ら政教社の掲げる国粋主義(国粋保存主義)に対しても平民的急進主義の主張を展開して当時の言論界を二分する勢力となり、1888年(明治21年)から1889年(明治22年)にかけては、大同団結運動支援の論陣を張った。また、平民叢書第6巻として『現時之社会主義』を1893年(明治26年)に発刊するなど社会主義思想の紹介もおこない、当時にあっては進歩的な役割をになった。

その一方で蘇峰は1888年(明治21年)、森田思軒、朝比奈知泉らとともに「文学会」の発会を主唱した。会は毎月第2土曜日に開かれ、気鋭の文筆家たちが酒なしで夕食をともにし、食後に1人ないし2人が文学について語り、また参加者全員で雑談するという会合で、坪内逍遥や森鷗外、幸田露伴などが参加した。

1890年(明治23年)2月、蘇峰は民友社とは別に国民新聞社を設立して『國民新聞』を創刊し、以後、明治・大正・昭和の3代にわたってオピニオンリーダーとして活躍することとなった。さらに蘇峰は、1891年(明治24年)5月には『国民叢書』、1892年(明治25年)9月には『家庭雑誌』、1896年(明治29年)2月には『国民之友英文之部』(のち『欧文極東(The Far East)』)を、それぞれ発行している。このころの蘇峰は、結果として利害対立と戦争をしか招かない「強迫ノ統合」ではなく、自愛主義と他者尊重と自由尋問を基本とする「随意ノ結合」を説いていた。蘇峰は、『國民新聞』発刊にあたって、
「当時予の最も熱心であったのは、第一、政治の改良。第二、社会の改良。第三、文芸の改良。第四、宗教の改良であった。— 『蘇峰自伝』」
と記している。
蘇峰は1891年(明治24年)10月、『国民之友』誌上に「書を読む遊民」を発表している。そこで蘇峰は、中学校(旧制)に進学せず、地方の町村役場で吏員となっている若者や小学校の授業生(授業担当無資格教員)となっている地方青年に、専門的な実業教育を施して生産活動に参画せしむるべきことを主張している。


◎『大日本膨脹論』(一部)

一方では1889年(明治22年)1月に『日本国防論』、1893年(明治26年)12月には『吉田松陰』を発刊し、1894年(明治27年)、対外硬六派に接近して第2次伊藤内閣を攻撃し、日清戦争に際しては、内村鑑三の「Justification of Korean War」を『国民之友』に掲載して朝鮮出兵論を高唱した。蘇峰は、日清開戦におよび、7月の『国民之友』誌上に「絶好の機会が到来した」と書いた(「好機」)。それは、今が、300年来つづいてきた「収縮的日本」が「膨脹的日本」へと転換する絶好の機会だということである。蘇峰は戦況を詳細に報道、自ら広島の大本営に赴き、現地に従軍記者を派遣した。 さらに蘇峰は、参謀次長・川上操六、軍令部長・樺山資紀らに対しても密着取材を敢行している。同年12月後半には『国民之友』『國民新聞』社説を収録した『大日本膨脹論』を刊行した。


◎「変節」と政界入り

従軍記者として日清戦争後も旅順にいた32歳の蘇峰は、1895年(明治28年)4月のロシア・ドイツ・フランスによるいわゆる三国干渉の報に接し、「涙さえも出ないほどくやしく」感じ、激怒して「角なき牛、爪なき鷹、嘴なき鶴、掌なき熊」と日本政府を批判し、国家に対する失望感を吐露した。
蘇峰は、
「この遼東還付が、予のほとんど一生における運命を支配したといっても差支えあるまい。この事を聞いて以来、予は精神的にはほとんど別人となった。これと言うのも畢竟すれば、力が足らぬわけゆえである。力が足らなければ、いかなる正義公道も、半文の価値もないと確信するにいたった。」
と回想している

遼東半島の還付(三国干渉)に強い衝撃を受けた蘇峰は、翌1896年(明治29年)より海外事情を知るための世界旅行に出かけた。同行したのは国民新聞社社員の深井英五であった。蘇峰は、渡欧する船のなかで「速やかに日英同盟を組織せよ」との社説を『国民之友』に掲載した。その欧米巡歴は、ロンドンを皮切りにオランダ、ドイツ、ポーランドを経てロシアに入り、モスクワでは文豪レフ・トルストイを訪ねた。その後、パリに入ってイギリスに戻り、さらにアメリカ合衆国に渡航している。ロンドンでは、『タイムズ』や『デイリー・ニューズ』などイギリスの新聞界と密に接触し、日英連繋の根回しをおこなっている。このころから蘇峰は、平民主義からしだいに強硬な国権論・国家膨脹主義へと転じていった。
帰国直後の1897年(明治30年)、第2次松方内閣の内務省勅任参事官に就任、従来の強固な政府批判の論調をゆるめると、反政府系の人士より、その「変節」を非難された[。
蘇峰は「予としてはただ日本男子としてなすべきことをなしたるに過ぎず」と述べているが、田岡嶺雲は蘇峰に対し「一言の氏に寄すべきあり、曰く一片の真骨頂を有てよ。説を変ずるはよし、節を変ずるなかれと」と記して批判し、堺利彦もまた「蘇峰君は策士となったのか、力の福音に屈したのか」とみずからの疑念を表明した。

1898年(明治31年)には『国民之友』の不買運動がおこり、売り上げは低迷した。蘇峰は、この年の8月『国民之友』のみならず『家庭雑誌』『欧文極東』も廃刊して、その言論活動を『國民新聞』に集中させた。なお、蘇峰の政治的姿勢の変化については、有力新聞を基盤として政治家と交際し、政界や官界に影響力を持った政客として活動することで政治を動かそうとしたとして肯定的な評価もある。

蘇峰はこののち山縣有朋や桂太郎との結びつきを深め、1901年(明治34年)6月に第1次桂内閣の成立とともに桂太郎を支援して、その艦隊増強案を支持し続け、1904年(明治37年)の日露戦争の開戦に際しては国論の統一と国際世論への働きかけに努めた。戦争が始まるや、蘇峰の支持した艦隊増強案が正しかったと評価され、『國民新聞』の購読者数は一時飛躍的に増大した。しかし、1905年(明治38年)の日露講和会議の報道では講和条約(ポーツマス条約)調印について、
「図に乗ってナポレオンや今川義元や秀吉のようになってはいけない。引き際が大切なのである。」
と述べて、唯一賛成の立場をとったことから、国民新聞社は御用新聞、売国奴とみなされ、9月5日の日比谷焼打事件に際しては約5,000人もの群衆によって襲撃を受けた。社の印刷設備を破壊しようとする暴徒と社員が社屋入り口付近でもみ合いとなり、駆けつけた日比野雷風が抜刀してかろうじて撃退している。

1910年(明治43年)、韓国併合ののち、初代朝鮮総督の寺内正毅の依頼に応じ、朝鮮総督府の機関新聞社である京城日報社の監督に就いた。『京城日報』は、あらゆる新聞雑誌が発行停止となった併合後の朝鮮でわずかに発行を許された日本語新聞であった。
翌1911年(明治44年)8月24日には貴族院勅選議員に任じられている。前年5月には大逆事件の検挙が始まり、1911年(明治44年)1月には幸徳秋水ら24人に死刑判決が下った。弟の蘆花は、桂太郎首相に近い蘇峰に対し幸徳らの減刑助命の忠告をするよう求めたが、処刑の執行は速やかにおこなわれたため、間に合わなかった。
1912年(明治45年)7月30日、明治天皇崩御。蘇峰は明治天皇の死について、
「国家の一大秩序は、実にわが明治天皇の御一身につながりしなり。国民が陛下の崩御とともに、この一大秩序を見失いたるは、まことに憐むべきの至りならずや。」
と言及している。同年、専門学校令による同志社大学開校に際し、政治経済学部委員長に就任。






リーダーとは

2023-08-10 06:11:07 | 日本

リーダーとは自分が学んだこと、体験したことをシェアできる人です。

自分だけ成長すればいいのでなく、共に学び、成長していきたいと考える人です。
チームや組織において、役に立つ情報やノウハウは、すぐにでも教えたいとリーダーは考えますが、「成功例」だけがシェアするものではありません。
リーダーがしなければならないものは「自己開示」です。
自らの失敗を開示できるかどうかがリーダーの器になります。
どんなに素晴らしいチームや組織でも必ず失敗は存在しています。
すべての戦略がどれも成功するとは限りません。
失敗した時に、その失敗にどう対応したのか?

チームメンバーはそこから学びたいのです。
自らの失敗をオープンにできるリーダーは、メンバーにもその影響を与えることができ、「自己開示性」の高いチームが作れます。
「自己開示性」の高いチームは、失敗を恐れず、前向きに挑戦するチームに成長していきます。
例えば、ある航空会社では、「顧客の安全を最優先にする」という方針を持っていて、整備士が飛行機のネジを閉め忘れたという報告があれば、それが勘違いで飛行機が遅延しても、その整備士は批難されません。
多くの企業では、まだ「何かおかしい?」と思っても、やっぱり言うのはやめておこうという「恐れ」が存在しているチームがあります。
この「恐れの空気」を排除できるものが、リーダー自身の過去の失敗のシェアです。
そもそも男性はシェアするのが苦手です。
「男性脳」は、問題は自分で解決する。
悩みは一人で考える。という性質があります。
女性は本来、シェアすることが当たり前で、情報交換する性質が備わっています。(だから聞いてもらいたいだけとかがあります。)
多くのリーダーは、失敗を自己開示すると、リーダーとしての威厳がなくなる、
尊敬されなくなるという恐れを持っています。

「教える」のが大好きで、「開示する」のは苦手なリーダーが多いようです。
あなたがなぜ成功したのか?という武勇伝や自慢話より、あなたがどんな失敗を犯し、その失敗に対して、どんな対策をしたのかが大切な学びとなるのです。
教えるのではなく、学びの機会を提供する。
リーダーはシェアする人。









「われ、護国の神剣をたずさえ、神政維新を断行せん」

2023-08-09 05:59:39 | 日本

「われ、護国の神剣をたずさえ、神政維新を断行せん」
                                  
                               令和5年(2023年)8月5日 


昭和48年(1973年)禅の大家、田中忠雄翁が祖国の将来を憂いて、次の如く喝破された。

「おおよそ文化の創造と国家及び社会の建設において必須不可欠の要諦は、国民が天の軸と地の軸、すなわち縦横の軸のバランスを保持していることである。しかし残念なことに、戦後の日本は、そのバランスを奪い取られ、さらには、その謀略さえ自ら喜び迎えて、横軸のみの心身となり果て、空しくその視野の広さを競い、いたずらに情勢への鋭敏を誇り、ついには順応と便乗をこととする思想に押し流されるに至った。これぞ戦後日本の最大の痛恨事であり、現下日本の危機の正体なのである。これによって日本民族の創造力の源泉を涸渇し、人心は分裂し、世代は断絶し、政治は姑息な技術と化し、気骨ある官僚も今は乏しく、経済は恥を知らぬ集合体となってしまった。」


昭和20年(1945年)終戦により日本はGHQの占領下におかれた。その後も、占領政策をそのままに踏襲して惰性的につづけていくことになった結果、わが国の「建国の精神」を忘れさせられた。特に政治は日本人の魂を抜きとられたために、日をおって人心は荒廃し、家族は解体し、自然は汚染し、国論は分裂し、国家は危殆に瀕する事態に突入してしまった。それは一重に、政治への魂が長年にわたり不在になったからである。天の軸「縦軸」の不在が亡国への道に拍車をかけている。

今だけ、金だけ、自分だけ、そういう人たちが蔓延している。それだけに国家政策は手を変え品を返して国民より税利を搾り取る。巻き上げた税利は、DS(デープステート)へ、ドンドン流れ込んでいく。まさに日本は隷属国家と化している。国家に対する自立心がまったく希薄になっている。ここまでされて、日本国民は何故気づかないのか、気づいて怒らないのか?占領政策により、徹底的に怒りの、闘いの牙を抜かれてしまっている。
わが日本の同志たちよ!今までの理不尽な仕打ちに対し、もっと怒れ!闘え!私も爆発するくらい怒っている。

このままでは本当に日本はダメになってしまう。何か手を打たなければならない。心ある人たちは誰もがそう思い危機感を抱いている。

今こそ、日本を救うために何をなすべきかを真剣に考え、真剣に祈り、全力で行動すべき時期である。心ある人々に向かって、日本を救うために協力して欲しいと働けば、たくさんの仲間が集まってくるに相違ないと確信する。日本を救いたいという強い使命感のもとに人々は結集してくるのである。皆、同じ日本人の血が流れているではないか!そしてその動きこそが日本を救う道へと繋がっていく。

では具体策は一体な何なのか?
それは、国を愛する想い!願い!の人々を結集し、多くの国民の支持を得て、選挙戦に勝利して過半数の議席を得ることに尽きる。そこからが国家再生への第一歩となる。

今や政治は保守革新の思想集団は既になく、各党ともに結党の理念が崩壊してしまっている中で、政治は根こそぎ大混乱の渦中に入っていくだろう。今こそ、国家の命運を背負い、国家経営を運営していく為の新しい国家集団の創出が必要である。

では、各党総崩れの中での選挙戦において、集団的利己心に訴えることは何か?今日のわが国の政治をとめどもなく堕落せしめてきた元凶とは何か?これを明らかにしなくてなならない。

その原因は私達国民自信では無かったのか?今日まで何故、自らの力で立ち上がろうとしなかったのか?人のせいではない、自分のせいだとハッキリ自覚することである。そこからが日本再生への力が生まれてくる。日本人として日本国に生を受けた生き甲斐というものが生まれてくる。自立ある国が生まれてくる。これが私たち日本人の根源的な力である。

政治は立法府、すなわち法律を創るのは議員である。議員が新しい国を創出しなかったならば、一体誰が出来るのか?
今の議員は各政党、各議員ともにほとんどの者が真に国を愛することなく、憂うることなく、国政を司ることなど論外の者が多い。この論外議員の総入れ替えこそが重要なカギとなる。坂本龍馬が言った如く、「今一度、洗濯し申うそう」である。この意識に立って、市井(しせい)にある国を愛する人々、国を憂いている人々の総結集こそ喫緊の課題である。
そして天と地の軸を合わせたバランスのよい日本国民を生み出すのである。










第8話「8月15日、玉音放送」

2023-08-08 08:15:28 | 日本

「何か、天皇さまの話があっとげな。重大ニュースげな」と言うことで、近所の人達が我が家のラジオを囲んで、今か今かと心待ちに待っていた。

「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・」とか。勅語風に語られる陛下のお言葉を聞いて、「あ、戦争に負けたんだ・・」と実感した。うつむく大人たち、目頭を押さえる人達。子供心に、「ああ、これでB29の空襲もなく、防空壕にも入らなくてすむのか、これで戦争は終わったんだ。」と思った。

8月15日は、極めて青く清々しく、普段と変わりなく時は過ぎて行った。



<了>







第7話「雲、流れる果てに」

2023-08-07 06:38:24 | 日本

寝苦しい夜、中々寝付かれない。静寂な夜に、柱時計の時を刻む単調な音だけがやたら気になり、眼が冴える。やがて3時を回り、白々と夜明けが少しずつ明ける朝ぼらけ。
もう直ぐ、松本中尉の愛機が姿を見せるのか?そう思うと寝てはいられない。父はどうやら一睡もせず徹夜したらしく、何度も生あくびをしていた。
その父が、日の丸にない、屋根の上へ上へと登って行った。私も父の元へ、と見上げたら、「危なかけん、お前は下で見送れ!」とたしなめられた。

今か、今かと待ち焦がれていると、「ブーン・・」とエンジン音が聞こえてきた。そして音が近づくにつれ、裏の山陰から遂に機体を現した。低空で一回、二回と旋回する。やがて名残りを惜しむかの如く、「永遠の別れ、サヨナラ・・」のサイン。両翼をバンクさせながら南の空目指して飛んでいった。
とうとう行ってしまった。父は、大旗を振り続けたせいで疲れ果てたのか、屋根にまたがってうつむき、涙を拭っていた。

私は、尊い若鷲たちの「命」の瞬間を脳裏に刻み、彼らの軌跡を感謝の思いで、後世に伝えなければならない。それは青春も知らずして国に殉じた若者たちへの鎮魂の思いもあり、二度と不幸な戦争の轍を踏まないよう。平和と豊かさを誇る日本が今日あるのは、幾多の尊い犠牲の上にあることを。
我々は忘れてはならない。そしてこの事実を、我々は後世に伝えなければならない。先人たちへの感謝の念を常に、胸に抱き、生きていかねばならない。






第6話「惜別、永遠の別れ」

2023-08-06 09:24:05 | 日本

残された貴重な時間を意義あるものに。そんな思いの一日だったような松本中尉は、テキパキと行動し、夜は「駒我家」の小父さん等に、お別れの挨拶をとのことで、「坊や、一緒に来いよ」と呼ばれ、私は一緒に駒我家へと向った。

お店は空襲の影響か閑散として、芸奴連中のお姉さん達も談笑にふけりながら、手持ちぶささにたむろしていた。そこへ松本中尉が顔を出した途端、こぞって驚いた様子で、今日は来る日じゃないのに・・。来るべきときが来たことを、皆、感じていた。
しばらく奥の部屋で叔父と語り合っていたが、松本中尉馴染みの美和子の案内で、奥の四畳半の部屋へ通された。

松本中尉はあぐらをかき、うつむいて貧乏揺すりをし・・。しばらく沈黙が続き、やっと口を開いた。「俺・・、俺・・、明後日、飛ぶことになった・・。」と言った途端、美和子は畳にうつ伏して、大声を上げ、体を震わせ、泣き叫んだ。私はここに居るべきではないと、ソッとラムネを片手に抜け出した。日ごろからおとなしい芸奴と言われていた美和子さん。その狂乱ぶりには周りが驚いていたようだった。

男と女。相寄る二つの魂。結ばれることのない束の間の愛。外では、しとしとと無常の雨が円窓を濡らしていた。






第5話「慟哭!出撃命令下る」

2023-08-05 08:11:38 | 日本

青空が広がる朝、突然、松本中尉がやってきた。
父「ありゃー、どぎゃんしたとですか?今日は」 
父は何かある!と感じたのか、奥の部屋に松本中尉を招きいれた。いつも夕方と思いながら「いよいよ・・」という感じは拭いきれなかった。私は、耳をそばだてて聞き入ったり、様子を探ったり、母が目頭を拭いながらお茶を運ぶ姿に、どうやら出撃命令が下った模様が窺い知れた。
「小父さん、いよいよ沖縄へ飛ぶことになりました。いろいろとお世話になりました。」こんな内容の言葉だったように思う。いよいよ松村中尉ともお別れか・・と思うと寂しさが込み上げてきた。やがて両親との話も終わった。

そして、私の顔を見ると、「おお、坊や、試し切りでもやるか!」と持ってきた軍刀を抜き、庭先の桜の木に、孟宋竹(もうそうだけ)を立てかけ、正眼に構えて、一気に振り落とした。しかし、竹は半分しか切れず、刃こぼれした軍刀を見つめながら「なまくらじゃのう」と呟いていた。

今度は「坊や、山に行こうか?」と誘われたので、私は後に続いた。道中、「坊やともいよいよお別れだな・・。明後日、沖縄へ飛ぶことになったんだ・・」私は何と応えたらよいか、只々うなずくだけであった。松本中尉「ところでどうだい、学校は?」と問いかけられた。私は戸惑いながら、「ハア、空襲ばっかで授業はなかとです・・」消え入りそうな声で応えると、「そうか、ごめんな。飛行機さえあればアー・・」 後は、お互いに言葉が途切れてしまった。

やがて頂上に着き、本明川と諫早駅を臨む景色を眺めていたとき、松本中尉が急に、「坊や、ここで待っててくれないか・・」と言い残すと、そそくさと茂みの中へ入って行った。5分・・20分・・。時間が過ぎていく。私は、もしや?割腹?・・いやあ、そんな筈はない。居ても立ってもおれなくなり、不安を胸に、私も後を追った。かなり奥へ入り込むと、何やら泣き声のような声が聞こえてきた。そこで見た光景は・・・。

「俺はあした死ぬんだ。母ちゃん・・、母ちゃんよオ・・・、母ちゃん死ぬんだよオ・・、サイナラ・・、母ちゃんよオ・・、サ・イ・ナ・ラ・、母ちゃん・・、オウ・・」

正に、狂った猛獣の如く、木という木を、メッタ切り、絶叫し、号泣し切りまくる姿は、あの冷静でリーダー格だった松本中尉さんも、とうとう狂ってしまったのか??と子供心に衝撃と恐怖の光景であった。藪の隙間から見た光景は、軍人・松本中尉から想像も出来ない姿であり、地べたにひれ伏して母の名を呼び続ける姿は、邪気のない子供・・、人間松本中尉・・、いや、松本義人の真実の裸の姿があった。

うつ伏して、力尽きたか?松本中尉はやおら立ち上がり、我に返ったか「お~い、坊や!どこにいる?」私を探している様子。出て行っても大丈夫かな?とためらいながら薮の中から顔を出した。「お~、ごめんな!」の一言で安心し、私はトボトボと山道を下りて行った。私には、衝撃が大きかったので交わす言葉もなく、只ひたすら黙々と家路へと向った。

若さ、夢、青春、人生の全てを大義に殉じた若鷲たち。しかし、母の前には邪気のない子供・・。如何に母の存在は偉大であろうか!永遠の崇高の愛である。それにしても、「母ちゃん!俺はあした死ぬんだア・・。母ちゃん!・・」の絶叫は、今でも耳にこびりついて離れない。