龍の声

龍の声は、天の声

「韓国の人々が日本との比較に異常な執着?」

2022-10-31 06:31:15 | 日本

「韓国の人々があらゆることで日本との比較に異常な執着を見せるのはなぜですか?」
Kohjiさんが上手にまとめている。
以下、ご参考に!


韓国人は「前の親分を徹底的に見下す事で新しい親分に忠誠心をアピールする」傾向があります。
同時に「隷属の歴史への劣等感を他者にぶつけて自尊心を満たそうとする」のも特徴と言えるでしょう。
日清戦争後には中国に対して、現在は日本に対して、異常なまでにマウンティングを取ろうとします。

この「朝鮮人の特徴」に目をつけたのが大韓民国初代大統領李承晩です。彼は自らを「永世大統領」とする為に政敵や反李承晩勢力を徹底的に弾圧しました。そして国民の自身に対する不満を反日政策で日本へと逸らしたのです。
結局李承晩は国民の不満を逸らし切れなくなって失脚し、亡命先で亡くなりましたが「政府への不満を反日政策で日本へと逸らす」やり方はその後の政権にも引き継がれて「徹底した反日教育」が今も続いています。

つまり「韓国が日本との比較に異様なまでに固執する」のは「日本を見下して自尊心を満たす」朝鮮人の特徴と「政府への不満を反日で逸らす」韓国政府の思惑が合わさった結果なのです。
「韓国国内の不満」をぶつけられる日本にしてみれば迷惑でしかありませんが、韓国にとって反日は「死活問題」なのです。







「琉球&沖縄④」

2022-10-30 03:39:05 | 日本

8.をなり神信仰の歴史

1)村落時代(3・4世紀から12世紀)

御嶽が兄弟達(村の指導的男子、村長)の信仰の対象であるのと同時に、一切の社会的活動は、これを中心に展開された。つまり神託と加護が、村長の日常生活の支えであり、祭祀をとりおこなうことによって保たれて北。この祭祀を司ったのが姉妹=をなりであり、その神託により政治を行ったのが、村長であった。すなわち祭祀摘主権はをなりが持ち、政治的主権は村長が持つと言う政教二重主権の形態がとられていた。ヒメヒコ制であり、ここに「をなり神」信仰を見ることができる。

2)按司時代(12世紀~15世紀)

按司とは村長から発達した形態で、村落の均衡が破れ、各村を束ねた太村長を按司と言う。祝女(のろ)は、按司の支配下にある各村落のをなり達を支配した祭祀的主権者で、按司の姉妹(をなり)が任じられた。  

3)王国時代(15世紀~17世紀初期)

第二尚氏時代の尚真王(1477~1516)のときに。神女の組織化は完成した。中央集権を確立し宗教的統一により、それを維持しようとした。
 
祭祀的主権者である聞得大君は国王の姉妹(をなり)から選択され、聞得大君を頂点とした大阿母志良礼(おおあむしられ)、その下に各村々に祝女(のろ)さらにをなりがいた。このことは、をなりの力がいかにおおきく政治におよんでいたかを示すものでありこの時代においても、政教二重主権の形態がとられていた。


9.勝連町の漁村の神歌

『赤倭の世直し』名護博 から  現代語     勝連町は本島東側の半島の南部の町
 
うーとーと うー尊        あー尊・あー尊いことだ
いづがぎー あめーらわん   水掛け勧えても
てだがぎー はくらって     太陽 掛け誇られて
神のうんまりたちや       神の生まれ立たちは
やまとのふそ(ん)のうたけ  大和の臍の御嶽
うちなーならわん        沖縄だけになっても
すぢがもとたてて        霊統の元をたてて
うやの神はうんつけーしやびら 親の神におつかえしよう
やまとからくだる        大和から降った
あかわんのよーし       赤椀の世直し
なかむらち うしゃくしゃびら 中盛らして御酌しよう
やしろからくだたる      山代から降った
くるわんのよーし       黒椀の世直し
はたもらら うしゃくしゃびら 端盛らして御酌しよう
 
『南島歌謡大成 沖縄編 上』

自分たちの崇める神は大和の臍の御嶽のお生まれである、と言っている。これを唱える時、神女(のろ)達は匂玉を首にかける。匂玉を掛けるのは本土では古墳時代に終わっている。今、残っているのは沖縄だけである。古墳時代かそれ以前に伝わった神歌と考えられる。沖縄が崇める神はアマミキヨ(大和=天ノ宮)であろうが、シネリキヨと対の稲作の神である。何故、女神が大和から赴いたのかであるが、弥生時代末期までゴブウラやイモガイと言う貝が腕輪の材料としてもたらされていた。ゴボウラ貝は太陽の巻き貝と言われ、沖縄は常世の国だと思われていた。
 
神奈備の注 ここに赴いた女神は、ヒミコになった倭迹迹日百襲比賣命の妹の倭飛羽矢若屋比賣命が相応しかろうと考えているが証拠はない。


10.沖縄紀行  平成7年12月

○斎場御嶽(セーファ御嶽)  本島

琉球神道第一の聖地、とされるのは、琉球神道の最高の神職聞得大君が就任儀礼である御新下(おあらおり)をする聖地であるから。御嶽の奥に三角形の空間の突き当たりがあり、三庫理(サングーイ)、右側がチヨウノハナの拝所とされる。三角岩をくぐると岩場があり、久高島がよく見える。昔アマミキョが天から降って久高島をつくったが、あまりに小さいので、沖縄本島に渡り、斎場御嶽をつくったという伝えがある。久高島と一体である。
 
○漲水御嶽(ツカサヤー) 宮古島

「人蛇婚伝説」がある。 下里南宗根の住屋に美しい娘がいた。蕾の頃に懐妊したので両親は怪しみ、問いつめると、名はわからないが、麗しい男子が夜な夜な忍んできたと言う。両親はその男を突き止めようと、長い麻糸の先に針をつけ、男が来たらこれを髪に挿すように命じた。
 
翌朝、その糸をたどると、漲水御嶽のイベ(神霊の座素場所:祠)の洞窟の中だった。そこには大蛇が身を横たえており、針は首に刺さっていた。
 
その夜、娘の夢に大蛇が現れ、「吾は宮古の島建の神である。守護神を生むために汝のもとにしのんだ。汝は三人の娘を生む。三歳になったら漲水御嶽に参れ。」と言った。
 
娘達は三歳になり、漲水御嶽に連れて行った。娘達は大蛇にはいより、首・胴・尾に抱きついた。三人娘は御嶽の中に入って姿を消し、島守の神になったという。
 
○宮古島の北側の大神島山頂の磐座、大神山頂の神事
 
大神島山頂の遠見台跡には登り口から木造の階段が延々と続く。
 
巨岩があり、その下で神女が数名いて、神事を行っていた。また、頂上には木で約8畳程度の広場は作られており、北側にパンなどの供え物が並べられていた。トゥンバラと呼ばれ、海上の彼方の楽土ニライカナイから来訪する神の航海の目印になると言う。
 
しばらくすると小雨が降ってきたがすぐやんだ。北側に虹が出た。 神女さん方があがってきて北を向いて並び、神事が開始された。宮古島に来て神女の神事の現場に行き当たるとは何という幸運か。約1時間に渡る神事の間、一人の神女が歌を歌うように祈りの声をあげていた。涙声になることもあった。多くの神々の名前を呼んでいたなかに不動明王の名もあった。トランス状態に入っているようだ。 航海安全と豊漁の神への願い事かと思われる。
 
神事が終わると神女さん方は陽気に踊りを始めた。普通の老婆であり、おばさんであった。



<了>








「琉球&沖縄③」

2022-10-29 09:04:24 | 日本

1.をなり神

明治初期までの琉球は独立国であり、米国ペリーと琉米修好条約を締結していた。琉球王の姉妹や后が国家最高のの神官である聞得大君(きこゑおおきみ)になっていた。彼女を頂点とする地方の神職である祝々(のろ)までが神と称されていた。そこで今なお、一切の女人が、その兄弟等に、「をなり神」として崇められている。「をなり神」に「姉妹の生御魂」の義がある。妹の枕元を歩かない、けんかをしたら、兄がひっこむ、いいものをもらったら、まず妹にあげる、と言ったことが日常生活の中でおこなわれる。
 琉球では、兄弟のことを、ゑけり、姉妹のことを、をなり、と言う。ところが、兄弟姉妹のことを、をなり・ゑけり、と女性上位の表現になり。これは南島全体の共通した表し方と言える。
 
柳田国男は、『妹の力』の中で、次のように記している。
 
往古の祭祀祈祷の宗教上の行為は,肝要な部分はことごとく婦人の管轄であった。
 
巫は女性であって、家々の婦女は必ず神に仕え、その中の最もさかしき者が、最もすぐれた巫女であった。これには数千年の根底がある。日本の男子にとって、未来に対する疑惑と杞憂とは、仏教やキリスト教では処理しつくすことができなかった。その欠陥を満たすべき任務は、太古以来同胞の婦女に属していた。
兄の寂寞を妹が慰めるのも、いわばこの民族の一続きの大いなる力であろう。


2.久高島の例

故郷を離れる男子には、「をなり神」が終始つきまとって、自分を守護して呉れるという信仰があった。姉妹の項(うなじ)の髪の毛を乞うて守り袋に入れ、或いは手拭いを貰って旅立つ風習が行われていた。姉妹(をなり)のない時は、従姉妹(いとこをなり)なりのそれを貰って、お守りにした。
   琉歌。          意味
おみなりが手巾     (姉妹の手拭いは)
まぼるかんだいもの   (我が守護神なれば)
引きまわし給れ     (我を庇護し給れ)
大和までも       (日本に行ってまでも)

3. 普天間権現に伝わる民間伝承
父と長男が支那に行った時の話。ある晩妹が睡眠中、大きな音をたててもがくので、一緒に寝ていた母が、なぜそんなことをするのかと、一方の手をつかまえて揺り起こしたら、惜しいことをした、二人の乗った船が、今嵐に巻き込まれたところで、右の手で兄さんを助けて、左の手でお父さんをつかまえようとするところを、手が動かなくなって、お父さんを助けることが出来なかったと言った。
 
程経て支那に行った兄から手紙が来て、途中で船が難破して、自分は助かったが、父は溺死したとのことであったので、皆々びっくりしたということである。
 
彼女は他家に嫁がず、家族以外の人に見られたことがなかった。ある時、妹の夫に姿を見られたので、普天間の洞窟に逃れて、後日神として祀られた。今に至るまで、旅立つ人が、普天間に参詣して旅行の平安を祈るのは、こういうことから来たのである。「をなり」が「ゑけり」と別れるのを悲しんで、結婚を忌避した消息を語るものである。

2.3.の話は、伊波普猷著『をなり神の島』から引用。


4.宮古島の船立御嶽の由緒 宮古島市平良・・・・御嶽(うたぎ)

神代に久米島按司という人に一人の娘がいた。兄嫁は邪険放埒な女で娘を邪魔に思い、按司にこの娘は毎夜しのんでくる男がいると讒言した。按司はこれを信じ怒って娘を小舟に乗せて沖に流した。これを見かねた兄は小舟に泳ぎ乗り、妹とともに漲水の浜に漂着、その夜の夢に神のお告げがあり、兄妹は船立の地に移り苫屋を設けて住んだ。
 
里人の水くみや薪運びなどを手伝って暮らしていたが、やがて妹は住屋里かねこ世の主と夫婦となり九人の男子を儲けた。成人した子供達は祖父に逢いたいと思い、母を伴って久米島に行き、按司に対面した。按司は先罪を悔いて親子の愛を尽くし、黒がね・巻物を引き出物に贈って宮古島に返した。
 
兄はこの黒がね・巻物を基に鍛冶屋を起こし、ヘラ・鎌などの農具を作ったので農業が発達し豊穣の世になった。万民飢えをしのぎ、安楽に暮らせるのはこの兄妹のお陰だとして、二人の白骨を船立山の納め御嶽の神として崇めた。
 
この話は直接的には「をなり神」の話ではないが、兄を霊的に妹が守るということは、兄が社会的に妹を守るという相互扶助の考え方があることを示しているように思える。


5.池間島の話

宮古島の隣の池間島の若者が航海途中、にわかに風波が荒れ、船は水浸しとなった。陸の仲間達は一心不乱に祈った。天のぶなりや(妹)は白鳥となって船霊のひもろぎであるホンプー(本帆)の頭にとまった。すると風の神はちからを弱め、雨の神はその手をやすめた。宮古島や池間では、「をなり神」の信仰はないとされているので、上記の話は後世の作り話であるが、池間に兄妹婚がおこなわれていた。この作り話の背後には兄妹相姦とか兄妹神が現実に存在していたことは否定できない。
 
兄妹相姦とか兄妹神は琉球に限らない。東南アジア一帯に見られる。琉球には兄妹相姦が現実に存在していたので禁忌はいっそう厳しいものがあった。兄妹間の性愛は哀切をおびるのはこれゆえである。「をなり神」信仰の根底に兄妹間の性愛があると見るべきだろう。


6.古代日本の同母兄妹婚 記・紀から

○神世七代の後半四代の対の神々、七代目は伊邪那岐神・伊邪那美神である。

○若倭根子日子大毘々命(開化天皇)、伊迦賀色許売命を娶して、生みましし御子、御真木入日子印恵命、次に御真津比売命。二柱。所が、崇神天皇の段では、御真木入日子印恵命、大毘古命の女、御真津比売命を娶して生みましし御子、伊玖米入日子伊沙知命(垂仁天皇)とある。同母兄妹婚をごまかそうとしたが、失敗している。

○浅津間若子宿禰命(允恭天皇)が忍坂之大中津比売命を娶して、木梨之軽王、長田大郎女、穴穂命、軽大郎女、亦の名は衣通郎女、御名に衣通王と負はせる所以は、その身の光、衣より通り出づればなり。木梨之軽王と軽大郎女との性愛は有名な事件であった。

○穴穂命(安康天皇)が長田大郎女(大日下王の摘妻であった)を皇后とした。

○『日本書紀』巻二五白雉四年(六五三)是歳
是歳。太子奏請して曰く。願わくは倭の京に遷りたい。天皇は許さなかった。それで皇太子は皇祖母尊・間人皇后を奉じ、并せて皇弟等を率いて倭の飛鳥河邊行宮に居します。時に公の卿大夫・百官人等皆隨ひて遷った。天皇は恨に國位を捨てた。そうして間人皇后に送って曰く。
舸娜紀都該。阿我柯賦古麻播。比枳涅世儒。阿我柯賦古麻乎。比騰瀰都羅武箇。
 
かなきつけ あが飼う駒は 引出せず  吾が飼う駒を  人見つらむか
 
当時、「見る」とは、男女相会うとの意味があり、皇太子と皇后の仲を深く疑った。
 
孝徳天皇の次に天皇になってもよい年齢(28)であったにもかかわらず、高齢の母親の斉明天皇を重祚させているのは、なかなか天皇になれなかった理由として同母兄妹の性愛を疑われていたとの見方がある。


7.ヒメヒコ制

日本の女性は男性のもたない特殊な霊力をもち、巫女王、神の嫁、采女、斎王、遊女などの古代王権にかかわって来た。そして、王権と女性という問題の根底に本土のヒメ・ヒコ制や沖縄の「をなり神」の信仰がある。本土のヒメ・ヒコ制は『魏志倭人伝』に記述のある邪馬台国の卑弥呼とその弟の関係にまでさかのぼる。この二人は3世紀ごろに実在した人物。
 女性が霊力をもつと信じられたのは、神がかりによる特殊な予知能力をもつからである。つまり憑霊型の女性シャーマンである。故上田正昭氏の巫女王説では、日本の古代における巫女王として、卑弥呼、壱与、神功皇后、飯豊女王をあげている。全員、憑霊型の女性シャーマンと思われる。







「琉球&沖縄②」

2022-10-28 07:55:09 | 日本

伊波普猷(いはふゆう)(1876―1947)

言語学者、民俗学者。明治初年の琉球(りゅうきゅう)処分に始まり、太平洋戦争の敗戦によってアメリカ軍の統治下になるまでの近代沖縄の激動期を、沖縄とともに生きた愛郷の研究者として知られる。明治9年2月20日(旧暦)那覇に生まれる。素封家の長男として恵まれた幼年期を過ごすが、中学5年生の秋、沖縄尋常中学で起こった校長排斥運動に加担して退学。翌1896年上京。この間、中学時代の恩師田島利三郎(たじまりさぶろう)の影響を強く受けて、『おもろさうし』研究を志す。1906年(明治39)東京帝国大学文学科言語学専修卒業。郷土研究を志して帰郷するが、当時の沖縄の社会的要請にこたえ啓蒙(けいもう)活動に入る。県立沖縄図書館の設立にかかわり、館長嘱託としての活動を続けるかたわら、琉球史の講演を手始めに、キリスト教に関する宗教講演、方言矯正のための音声学講演を続け、読書会を開き、子供の会を始め、組合教会の設立、演劇協会にかかわり、婦人講話会、エスペラント講習会、民族衛生講話を行うなど、多様な啓蒙運動を展開した。しかし1921年(大正10)柳田国男(やなぎたくにお)と出会い、学究に立ち戻ることを決意、『おもろさうし』の研究に打ち込む。1925年上京、以後は東京で研究生活を続け、終戦を迎える。昭和22年8月13日、戦場となった沖縄の地を案じつつ、生涯を閉じた。時代にもまれた一生は、かならずしも平穏でなかったが、いまは、風光の美しい浦添(うらそえ)の丘に霊園がつくられ、顕彰碑が建てられている。

研究活動は、言語、民俗、歴史、文学など広範にわたり、数多くの著作を発表。諸領域の学問を総合して、沖縄という地域社会の特性を明らかにしようとした顕著な傾向は沖縄学として知られる。個々の学問の業績だけでなく、伊波普猷の沖縄学の思想的影響は大きく、現代沖縄のさまざまな活動にも影を投げている。著書に『古琉球』『おもろさうし選釈』『校訂おもろさうし』『をなり神の島』『沖縄考』『沖縄歴史物語』などがある。
[外間守善 2018年10月19日]










「琉球&沖縄①」

2022-10-27 07:19:22 | 日本

石垣島・白保竿根田原(しらほさおねたばる)遺跡でえられた人骨(ホモ・サピエンス)は約2万年前の年代測定値をしめし、沖縄本島・南城市サキタリ洞遺跡調査区 I では、約20,000〜23,000年前の年代をしめす第II層から、マルスダレガイ科の二枚貝を利用した扇状貝器やニシキウズ科の巻貝の底部円盤部分を加工した釣針らしき資料が出土します。これらの遺跡からは石器が出土しないため、島嶼環境に順応した貝器文化が存在した可能性が指摘できます。

その後、日本列島本土で縄文文化が成立すると、北琉球(琉球列島北・中部圏)にはその影響がおよびましたが、南琉球(琉球列島南部圏)にはおよばず、以後、狩猟・漁労・採集に依存することなる先史文化が両地域にうまれます。

11世紀頃になると、琉球列島全域に、中国産陶磁器をはじめとするさまざまな文物がもたらされ、穀物栽培もはじまり、奄美・沖縄諸島から宮古・八重山諸島までをふくむ琉球文化圏が形成されます。

なお「沖縄」と「琉球」という2つの名称はまぎらわしいですが同一地域のことなるいいかたであり、随の皇帝・煬帝(ようだい)は、中国東方海域の事情調査を実施し、『隋書』に「流求伝」をのこし、明代になって、「流求」が「琉球」にあらためられました。一方、日本では、奈良時代に中国から渡来した鑑真の伝記を『唐大和上東征伝』に淡海三船がまとめ、そのなかに、「阿古奈波島」の島名がみられます。したがって「琉球」は中国の、「阿古奈波」→「沖縄」は日本の記録にみられる名称であり、2つの名称がいまでも混在しているのは、中国からの影響と日本からの影響を同等にうけてきた中継地域としての歴史が反映しているためであるとかんがえられます。

1368年、中国大陸では、モンゴル族がたてた元がほろび、漢民族による明が成立し、明は、アジア各地に建国をつげ、琉球・中山王はすばやくこれにこたえます。1373年、中山王は、明への遣使をおこなって冊封をうけ、朝貢国となります。その後、沖縄諸島の覇権をにぎり、さらに、奄美・宮古・八重山諸島を支配下におさめ、琉球列島全域を支配します。琉球国は、明や、明と朝貢関係をもつ東南アジア諸国とのあいだで交易をおこない、海洋国家として繁栄します。

1609年、島津氏は、琉球へ軍事侵攻し、琉球国は降伏、日本の幕藩体制下にくみこまれます。しかし明・清とのあいだの冊封関係も維持し、日中両属体制のもとで国家を存続させます。
冊封関係にもとづく朝貢貿易によって、陶磁器をはじめとする中国製品が琉球国に大量にもちこまれ、琉球国は、それらを日本や東南アジアへおくり、交換した産物を中国にもちこむ中継貿易をおこないます。活発な交易によってもちこまれたさまざまな製品は、琉球列島の美術工芸や芸能・思想など、あらゆる分野に影響をおよぼします。また島津藩支配下の琉球国では明・清にくわえて日本の影響が加味され、今日につながる琉球文化の根幹が形成されます。

沖縄県の設置後は、日本化が急速にすすむ一方、「沖縄学」がうみだされます。人材育成を目的として学校制度が導入され、沖縄県立中学校に赴任した教師のなかに國學院の前身である皇典講究所を卒業した国語教師・田島利三郎がおり、田島は、沖縄にのこるさまざまな古記録を採録するとともに、沖縄の演劇や言語について調査しました。しかし沖縄へつよい関心をむけたことが学校執行部による排斥をまねき教職をおわれ、田島の退職に抗議してストライキをおこし退学処分をうけた学生のなかに伊波普猷(いはふゆう)がおり、田島が採録した古記録のすべてをゆずりうけ、「沖縄学」の道をきりひらきます。

伊波普猷は、東京帝国大学を卒業後、沖縄にもどって沖縄県立図書館館長となり、言語学・民俗学・人類学・歴史学・考古学・宗教学など、さまざまな分野を総合して日本本土と沖縄の比較研究をおこない、沖縄(県民)の日本における位置づけの確立を目ざしました。伊波がこころみた総合的な研究は、明治 44(1911)年に出版した『古琉球』に結実し、「沖縄学」とのちによばれます。伊波は、昭和9(1934)年に國學院大學において琉球の神歌「おもろ」についての講義をおこなっています。

『おもろそうし』は、琉球王府によって16・17世紀に編纂された神歌を中心とする歌謡集であり、田島利三郎が、沖縄県庁に所蔵されていた筆写本を明治28(1895)年にかきうつし、翌年、おもろ主取安仁屋家にのこされていた原本(安仁屋本)との校合をすませたことがしるされています。和紙370丁におよび、田島や伊波によるかきこみがおおくみられます。

そして第二次世界大戦ではおおきな悲劇がおとずれます。その末期、日本の敗色が濃厚となった昭和19(1944)年3月、日本の大本営は、沖縄への連合国軍侵攻にそなえて第三二軍沖縄守備隊を編制、同年5月以降、沖縄守備隊は、軍管区となった奄美・沖縄・宮古・八重山・大東諸島へ移動、陣地構築をすすめます。連合国軍は、昭和19年10月以降、琉球列島への空襲をはじめ、昭和20年4月には、三二軍司令部がおかれた沖縄島への上陸作成をすすめ、はげしい地上戦となり、終結した7月以降、米軍は沖縄を占領、第三二軍の軍管区を支配下におき、沖縄統治をはじめます。

このように沖縄は、日本本土とはことなる歴史をもちます。
これには、弥生時代に相当する時代が沖縄には欠落しており、日本国(本土)の基盤となった稲作文化が定着し発展しなかったことがおおきく影響しています。このことにより沖縄の文化は、旧石器時代〜貝塚時代(新石器時代)の文化の面影をつよくとどめているにちがいないという仮説をたてることができます。沖縄は、石灰岩がおおい地質、海がちかい、おおきな川がない、台風がよくくるなど、自然環境が水田稲作にもともとむいていませんでした。

また沖縄は、地理的には東アジアの要衝であり、海洋貿易国としておおいに繁栄したのであり、日本本土とはこの点でもことなります。要衝であるため軍事基地がいまでも多数あり、問題になっています。

したがって沖縄は、日本国の果てにすぎないという視点ではまったく理解できず、日本本土とはちがう世界がひろがっており、だからこそ「沖縄学」とよばれる独創的な学問がうまれました。
その沖縄学の父が伊波普猷(いはふゆう、明治9年(1876)~ 昭和22年(1947))です。伊波は、沖縄・那覇でうまれ、東京帝国大学文学科言語学専修を卒業し(1906)、主著に、『古琉球』(1911)、『校訂おもろさうし』(1925)、『をなり神の島』(1938)、『沖縄歴史物語』(1947)などがあります。

とくに、およそ12世紀から17世紀初頭にかけて採録されたウムイ(古代歌謡)をあつめた『おもろさうし』に着目、それを解説し、沖縄の人ばかりか日本人一般にはじめてしらせました。『おもろさうし』は沖縄の『万葉集』とよばれます。また晩年には、日本本土の文化が沖縄に南下してくるまえに、「南方系の文化や言語を持つ先住民族がすでにいたであろう」とのべました。

このように、沖縄文化の起源は稲作文化にあるのではなく、もっとふるい狩猟(漁撈)採集文化にあるとかんがえられ、沖縄文化は、日本の深層文化をしるために欠かすことのできない文化であるといえるでしょう。それどころか、狩猟(漁撈)採集文化は人類の深層文化でもあり、人類の歴史と社会を探究するうえでも重要な文化であるとかんがえられます。限界にきている今日の機械文明を反省するためにも沖縄文化が参考になります。













「日琉同祖論」

2022-10-26 06:47:54 | 日本

日琉同祖論(にちりゅうどうそろん)は、(本土)日本人と琉球(沖縄・奄美・宮古・八重山)人はその起源において民族的には同一であり、日本人と琉球人の人種的・文化的同一性を学術的に立証することによって民族的一体性を強調する理論。
16世紀の京都五山の僧侶等によって唱えられた源為朝琉球渡来説に端を発するとされ、それが琉球へ伝わり17世紀に摂政・羽地朝秀が編纂した『中山世鑑』に影響を与え、明治以降は沖縄学の大家・伊波普猷によって詳細に展開された。


◎日琉同祖論の起源

近年の研究では、日琉同祖論の起源となる源為朝琉球渡来伝説は、16世紀前半にはすでに日本において文献に現れていることが明らかになっている。現在確認されているその初出は、京都五山の臨済宗僧侶・月舟寿桂(1470年 - 1533年)の「鶴翁字銘并序」においてである。
そこで、月舟は信憑性は分からないがと断りながら、「日本には、源為朝が琉球へ渡って支配者(創業主)となったという伝説がある。そうであるなら、その子孫は源氏であるから、琉球は日本の附庸国である」という内容を記している。このことから、源為朝琉球渡来伝説が16世紀前半には日本において、特に京都五山の僧侶の間である程度流布していたことがわかる。なお、この段階で琉球側にも源為朝琉球渡来伝説が流入していたかどうかはわからない。
この源為朝琉球渡来伝説は、日琉間の禅宗僧侶の交流を通じて琉球へもたらされた可能性のほか、袋中の『琉球神道記』や島津氏の外交僧である南浦文之が起草した「討琉球詩並序」が琉球に伝来、1650年の羽地朝秀による『中山世鑑』によってこの伝説が完成されたとする。


◎羽地朝秀の日琉同祖論

羽地朝秀は1650年(慶安3年)、琉球最初の正史である『中山世鑑』を編纂した。この中で羽地は、琉球最初の王・舜天は源為朝の子であり、琉球は清和源氏の後裔によって開かれたと述べ源為朝来琉説を紹介している。舜天が実在の王か否かについては議論があるが、舜天の名自体は『中山世鑑』より100年以上前の1522年に建てられた「国王頌徳碑」に刻まれている。碑文は、琉球の僧で円覚寺第六代住持・仙岩が撰んだもので、そこには「舜天、英祖、察度三代以後、其の世の主は遷化すと雖も同行を用いず……」とあり、舜天は16世紀初頭には琉球最初の王であると見なされていたことが分かる。

また羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている。
こうした羽地の言説は、現在では羽地が当時の因習を打破するために用いたレトリックであるとする説が定説となっている。だがそうした定説を認めつつも、同時に羽地のなかに日琉を同祖とする思いを有しており、かつ琉球が日本と同等に悠久の歴史を持つ国であることを強調していると見る研究者も存在する。
羽地の日琉同祖論は、王国末期の政治家・宜湾朝保(三司官)に影響を与えた。宜湾は未定稿ながら琉球語彙を編纂して、記紀、万葉集などの上代日本語と琉球方言を比較して、両者に共通点があると説いた。


◎江戸時代の日本における日琉同祖論

日本における日琉同祖論は、室町時代の京都五山の僧侶以降では、江戸時代に新井白石がその著『南島誌』(1719年)の総序において、『山海経』に見える「北倭」「南倭」の南倭とは沖縄のことであると述べ、琉球の歌謡や古語なども証拠に挙げて自説を展開している。
また藤貞幹は天明元年(1781年)刊行の著作『衝口発』において、神武天皇は沖縄の「恵平也(いへや)島」(伊平屋島)に生誕しそこから東征したと述べ、皇室の祖先は沖縄から渡来したとの説を展開した。藤貞幹は伊平屋島には天孫嶽(あまみたけ、クマヤー洞窟)という洞窟があり、地元では天孫降臨説があるのを知り、ここが高天原の天孫降臨の地であると推定したのである。本居宣長はこの説に激怒し、天明5年(1785年)に成稿した著作『鉗狂人』でこれに徹底的に論駁している。


◎ヒトゲノム研究との関連

最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民は、縄文人を基礎として成立し、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成であり、同じ祖先を持つことが明らかになっている。高宮広土(鹿児島大学)が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降であるとし、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したのではないかと指摘するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。

斎藤成也ら総合研究大学院大学による大規模調査において、アイヌ人36個体分、琉球人35個体分を含む日本列島人のDNA分析を行った結果、アイヌ人からみると琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、沖縄にすむ日本人に次いでアイヌ人に近いことが示された。
分析結果から、現代日本列島には旧石器時代から日本列島に住む縄文人の系統と弥生系渡来人の系統が共存するという、二重構造説を強く支持する研究結果となっている。

2021年11月10日、マックス・プランク人類史科学研究所を中心とした、中国・日本・韓国・ヨーロッパ・ニュージーランド・ロシア・アメリカの研究者を含む国際チームが『ネイチャー』に発表した論文によると、宮古島市の長墓遺跡の先史時代の人骨をDNA分析したところ「100%縄文人」だったことが分かり、先史時代の先島諸島の人々は沖縄諸島から来たことを示す研究成果となった。また、言語学および考古学からは、中世(グスク時代、11世紀~15世紀)に九州から「本土日本人」が琉球列島に移住したことが推定でき、高宮広土(鹿児島大学)は、「結果として、琉球方言の元となる言語を有した農耕民が本土から植民した。著名な『日本人二重構造論』を否定するという点で大変貴重だ」と指摘している。










「なぜ日本はアイヌ民族虐殺したか???」

2022-10-25 08:02:00 | 日本

アイヌクォーターの山尾哲也さんより、

私から正しい知識を貴方に与えましょう。
アイヌ民族の虐殺などありません。
部族間同士の争いはありました。
そして今、アイヌに対する差別などありません。
私は事有る毎にアイヌクォーターだと宣言してますが、それによって差別されたことなど1度もありません。
無いことをいかにも有った事のように言うのは止めていただきたい。
それはアイヌを侮辱し貶める差別的な行為です。










「政教分離の原則」

2022-10-23 08:12:02 | 日本

◎政教分離の原則

憲法第20条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

下記、憲法20条の1項後段では、「宗教団体が、国から特別優遇措置を受けること」と「宗教団体が、政治上の権力を行使すること」を禁止しています。
また、憲法20条3項では、「国自身が、宗教教育をすること」と「国自身が宗教活動行うこと」を禁止しています。
つまり、政治(国家)と宗教は別々であること(国家の宗教的中立性)を明らかにしています(政教分離の原則)。


◎制度的保障

制度的保障とは、憲法上の規定において、個人の権利を直接保障するのではなく、一定の制度が保障することにより、間接的に国民の権利が保障されることを言います。
そして、たとえば、「政教分離原則は、制度的保障」と判例(下記、津地鎮祭事件)では言っています。政教分離原則は人権保障規定そのものではなく(直接個人の権利を保障しているのではなく)、政教分離原則により、間接的に、信教の自由を保障しようとしています。これが制度的保障です。


◎政教分離の限界(目的効果基準)

政教分離が原則といっても、国家が宗教に一切かかわらないということは、現実的に不可能です。例えば、日本各地の重要文化財となっている神社については、その保存費用は、国が支出しています。つまり、国家と宗教の関わり合いはある程度は許されているのですが、どこまで許されているのかが問題になってきます。
この点について最高裁は1つの基準として目的効果基準を採用しています。


◎目的効果基準とは

目的効果基準とは、下記2つの基準について、どちらも満たす場合は、政教分離原則違反が認定されるということです。
1.行為の目的が宗教的意義を持つかどうか?
2.その行為の結果(効果)が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるかどうか?これは、下記、津地鎮祭事件の判例をご覧ください。




「宗教政党の政権参加」

2022-10-23 08:12:02 | 日本

宗教団体が選挙活動その他の政治的活動を行うことは違憲ではない。政党は国家機関ではないから、宗教団体が政治団体や政党を結成することも違憲ではない。さらに政権与党も内閣とは異なり国家機関ではないから、これに宗教政党が加っても、国家機関に接近はするが、それ自体は違憲ではない。宗教政党が単独過半数を制すれば、総理大臣および閣僚はすべて宗教政党から選出されることになるかも知れないが、閣僚が個人的に宗教を持っていても不思議なことではなく、これも違憲にはならない。ただし、内閣または閣僚がその支持母体である宗教団体に特権を付与したり、便宜を与えたり、閣僚の立場で宗教的活動を行ったりすれば違憲になる。宗教政党が政権参加をすれば、その危険が増大するのではないかと危惧する国民が多いのは事実であろう。それだけに、公明党が政権に参加し、閣僚を出すならば、その閣僚の行為は厳しく問われることになる。

大日本帝国憲法でも、文言のうえでは「信教の自由」は謳われていた。

安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ(国家の安全と秩序を妨げず、国民の義務に反しない限りにおいて)
という条件付きだったのだ。







「創価学会と公明党が問題」 

2022-10-21 11:05:42 | 日本

一方で、宗教団体やその信者、教徒が政治活動を行うことは自由です。例えば現在、連立与党に入っている公明党は、創価学会という宗教団体が作った政党で、支持者も信者が多く、選挙前には組織的に活動してもいます。しかしそうした活動を行い、政治に参加すること自体は政教分離に反しません。ただし、仮に公明党が、創価学会にだけ有利なはからいをしたり、ライバルの宗教団体を抑圧したりするようなことがあれば、これは政教分離に反します。

創価学会は以前、国立戒壇を作ること、つまり日本が国家として富士山の大石寺の前に本堂を作り、日蓮宗を国教として定めることを目標としていました。そのために信者から多額の献金を集めることが必要だったので、かなり激しい集金活動を行ったのです。

しかし公明党が結成された時に、政党の母体が国教を定める運動をしていてはまずいのではないか、政教分離に反するのではないか、と指摘されたことで、創価学会は国立戒壇を断念しました。この国立戒壇の断念を許容できなかった人たちが作ったのが顕正会という宗教団体です。そのため、創価学会と顕正会は同じ日蓮宗系の宗教団体ですが(ただし双方とも日蓮正宗からは破門)、激しく対立しています。


※公明党が、政教分離に反する。
①創価学会にだけ有利なはからいをしたり
②ライバルの宗教団体を抑圧したりする。














「統一教会と創価学会」

2022-10-21 07:43:44 | 日本

宗教マニアの方が、掲載している。
参考にしよう!


◎自民党は「統一教会」と関係を持ってはいけないような風潮が今ありますね。 「創価学会」じゃOK?どう違うんですか?日本の政治を理解しようとする私に教えていただけませんか?

宗教マニアとしてお答えします。

こういうご質問を見るたびに時代を感じます。あんなにやばい団体だと騒がれていたのに。オウム真理教事件以後、「やばい宗教団体=オウム」という図式ができて、統一教会問題がかすんだ感じですね。

もちろん、創価学会だって、かつてはヤバイ宗教団体だったんです。1951年の段階で3000世帯に過ぎなかった創価学会は「祈伏大行進」と称して1964年までに信徒500万世帯にまで拡大します。相当に強引な勧誘活動があり、軟禁状態にして大勢で取り囲み夜通し責め立てて、入会を承諾するとその人の家に押しかけて神棚や仏壇を焼却するというかなり強引なモノでした。入信を強要された19歳の少年が飛び込み自殺したという事件まで起こっています。そのうえ公明党を作って、国政に出ようとするのだから、批判されない訳がありません。69年には言論出版妨害事件というものを起こしマスコミとの抗争が始まります。さすがにこれは創価学会に分が悪く、1970年には池田大作が謝罪し、以後創価学会はソフト路線に転じます。実際、これ以降創価学会絡みで社会問題が起こることはめっきり減ります。(共産党へ仕掛けた盗聴事件なんてのもありましたが。)

そして、1970年代終わりころより、統一教会あるいはその学生団体の原理研の洗脳(マインドコントロール)が出てきて、創価学会問題は霞んでいきます。さらに霊感商法という悪辣な金儲けも暴露され始め、これが社会問題化します。創価学会もそれに乗じてあたかも過去に社会問題を起こして騒がれたことが無かったかのように振る舞い、「選挙に強い」ことを売りにして国政に注力します。

そして1990年代にはオウム真理教事件が話題をかっさらってしまいます。その上、1990年代から2000年代にかけて統一教会絡みの民事訴訟事件はすべて統一教会側が敗訴しており、霊感商法は過去のものとなったかのような印象もありました。

これを一変させたのが、統一教会信者2世の山上容疑者による安倍首相暗殺事件です。
※以下省略










「政教分離と祭政一致とは、」

2022-10-20 07:26:03 | 日本

政教分離とは、
特定宗教団体に対し、政治が弾圧や抑圧を行うことや、不況のための公金支出、あるいはどこかの宗教団体が政権を取って、自分たちの宗教を国教に指定したり、国民に信じるように強要したりすることを禁じています。

祭政一致とは、
祭りと政治が一致するという思想及びその政治形態である。
明治三年、政府により発布された「大教宣布の詔」では、それが日本国家の本来的な有様として、すなわち日本の「国体」の本質的要素として語られている。
古代の日本においては祭祀と政治が一致しており、両者の間に差異がなかったからこそ、「祭」と「政」の訓が同一だった。








「小欲知足とは、」

2022-10-19 06:56:35 | 日本

兵頭一夫さんが小欲知足について解説している。
日本は、一九九〇年代前半にバブルがはじけて以来、成長は滞ったままであり、経済的には「失われた十年」などと言われ、日本社会全体が閉塞状況にあると言われてから久しい。さらに、一年前に東北の大地震や津波、福島の原発事故に直面した後、私たちは自らの生き方や社会のあり様を根本的に見直すことを余儀なくされている。

その中で見えてきたのは、一九世紀初めのヨーロッパの進歩思想を根とする、「際限のない成長(特に経済におけるもの)や進歩(特に科学・技術におけるもの)」を基礎とした現代社会の根本にある価値観に対する疑問である。「際限のない成長や進歩」という考え方は、私たち人間を無限の可能性へと突き動かす原動力ではあるが、実際は欲望の本性とも相俟って止まることのない卑近な「もっと、もっと」の欲望を生み続け、いつも現状に満足しない状況を生み出していたのである。

仏教は、欲望に内在するこの「もっと、もっと」という本性に気づき、先ずそれを止めるために「少欲・知足」ということをもって、生きる出発点としてきた。「少欲」とはいまだ得られていないものを欲しないことであり、「知足(足るを知る)」とはすでに得られたものに満足し心が穏やかであることである。唐の時代の代表的な仏教僧である玄奘(げんじょう)は「知足」をさらに踏み込んで「喜足(足るを喜ぶ)」と訳し、「少欲・喜足」とする。このほうが内容に適った訳語ではあるが、一般には「知足」が受け入れられている。

私たちは、物や知識や名誉・地位などの中、すでに得ているものに対してはもっと良いもの、もっと多くのものを欲しがり、いまだ得ていないものに対してはそれを得ようと欲する。したがって、欲望とは現状に満足しないことと表裏の関係にあり、逆に言えば、満足を知り、喜ぶことによってこそ欲望が減少するのである。「少欲知足」と言われる所以である。

「少欲知足」は、これまでは何か高徳でストイックな生き方を示す語として敬遠される傾向にあった。しかし、成長や進歩を考え直さなければならない今こそ、自分自身や社会が真剣に受け止めるべき語であろう。


「バランスと少欲知足」

太田利生さんがバランスと少欲知足について解説している。


◎均衡を保つ自然界

今朝もホトトギスの鳴き声が聞こえてきます。
「夏は来(き)ぬ」の一番の歌詞には、
  卯(う)の花の 匂(にお)う垣根(かきね)に
  時鳥(ほととぎす) 早も来鳴(きな)きて
  忍(しの)び音(ね)もらす 夏は来(き)ぬ
とあります。
 
このように親しまれているホトトギスですが、いわゆる托卵(たくらん)する鳥としてよく知られています。ホトトギスはウグイスの巣に卵を産み、ウグイスはそれを知らずにあたため、先にふ化したホトトギスのひなは、ウグイスの卵を巣から落としてしまうのです。ウグイスは、ホトトギスの雛を自分の子どもだと思い込んで、育てていくのですね。
 
このような鳥の世界のはなしから「バランス」ということが頭に浮かんでくるのでした。それは自然界は自然そのままでバランスが保たれているんだなあ、そして、人間はバランスをとろうとして、逆にそれを壊しているのかな、と思ったことです。
 
日常生活の中でも、栄養のバランスを考える、バランス感覚がよい、悪い、バランスよくできている、などとしばしば使っています。ただ、このバランスも、人間の命を保っていくという意味ではあまり聞かれないようです。たとえば、あの人はバランスをとって生きておられる、とか。でも考えてみますと、体の諸器官がバランスよく働いて元気でいられるのですから、健康とはバランスのとれた状態といえましょう。
 
ともかく、自然界はそのままで、また人間が生きていくということも、ともに均衡が保たれている、そういう状況だといえます。そして、そこには、「少欲知足(しょうよくちそく)」ということばが大きな意味をもってあらわれてくるように思われます。それは「欲少(よくすく)なく足(た)るを知る」ということを考え、実践していくところにバランスが保たれていく、そのように思えてくるからです。


◎欲には限りがない

欲望というものは限りがなく大きく膨らんでいく本性があります。新幹線ができるまでは、新幹線以上速い乗り物は考えません。しかし、いったん新幹線が走ると、そのスピード以上のものを求め、手に入れようと懸命になります。
 
『無量寿経』のなかには、「田(た)あれば田(た)に憂(うれ)へ、宅(いえ)あれば宅(いえ)に憂(うれ)ふ」「田(た)なければ、また憂(うれ)へて田(た)あらんことを欲(おも)ふ。宅(いえ)なければまた憂(うれ)へて宅(いえ)あらんことを欲(おも)ふ」と説き明かされます。無いから求めるだけでなく、有っても有っても満足することがないということです。
 
それは、こんな譬(たと)えで示すこともできるでしょう。手に砂を握っている人が、そのままでさらに砂をつかもうとしている姿です。砂にかぎらず、握っているものは手から放さなければ新しいものをつかむことはできません。さらに、つかむことのできないものまでもつかもうとしているのが凡夫(ぼんぶ)の私かもしれません。
 
1歳ぐらいの幼児が外で遊んでいて、砂場に水道の水が流れている。それを一生懸命つかもうとしている。それは、水が棒に見えているからだ。こんな話を保育専門の先生から聞きました。たまたま子どもの話をしましたが、似たことは年齢に関係なくあるかもしれません。
 
仏教では、欲望のことを煩悩と称して大きくとりあげ問題にします。それは、迷いの世界から悟りの世界をめざす以上、どうしても避けることができないからです。その場合、煩悩を断(た)つという方向が一つあります。これは、ある意味で理解しやすいといえます。ただ、わかりやすいということと、実際に行(ぎょう)ずるということは一つになるとは限りません。そこで、今一つの立場が重要になります。それが、煩悩を制御していくという方向です。
 
これは煩悩を否定してしまうのではなく、かといって、湧き起こってくるものをそのまま容認したり、放置するものでもありません。そこに、制御することの意味があります。
 
少欲とは欲望をなくすことではありません。また知足の意味は、心が穏やかなことである、ともいわれます。謙虚にこのことばのこころを聞いていくべきでしょう。
 









「跋地羅帝経とは、」

2022-10-18 07:52:40 | 日本

◎跋地羅帝経(ばっじらていきょう)

過去を追うな!
未来を願うな!
過去はすでに捨てられた。
未来はまだやって来ない。

だから、
現在のことがらを、現在においてよく観察し、
揺らぐことなく、動ずることなく、
よく見極めて行動すべし。

ただ今日なすべきのとを熱心になせ。
誰か明日の死のあることを知らん。


◎吉祥なる一夜、跋地羅帝経 (長尾佳代子訳)


あるとき、尊き師はサーヴァッティーのジェータ林のアナータピンディカの僧院に滞在していた。
そのとき、尊き師は「弟子たちよ」と呼びかけた。
「尊き師よ」とその修行者たちは尊き師に答えた。
尊き師は次にように言った。

 <偈を誦す>
「弟子たちよ、わたしは『吉祥なる一夜』を誦経し分析して論じましょう。わたしの話すことを注意して聞きなさい。」
「お願いします、尊き師よ」
と修行者たちは、尊き師に答えた。尊き師は次のように誦した。

過去を振り返るな、未来を追い求めるな。
過去となったものはすでに捨てられたもの、一方、未来にあるものはいまだ到達しないもの。
そこで、いまあるものをそれぞれについて観察し、左右されず、動揺せずに、それを認知して、増大させよ。
今日の義務をこそ熱心にせよ。
明日の死を知り得る人はないのだから。
死神の大軍勢と戦わないという人はないのだから。
このように熱心に禅定を行なう人、昼夜怠けぬ人、
その人こそが『吉祥なる一夜における、
心静まった聖者』として語られる。









「転輪聖王とは、」

2022-10-17 05:37:30 | 日本

転輪聖王(てんりんじょうおう)は古代インドの思想における理想的な王を指す概念。地上をダルマ(法)によって統治し、王に求められる全ての条件を備えるという。サンスクリット語ではチャクラヴァルティラージャン


◎輪

転輪聖王たる者は輪宝を転ずるとされるが、それがいかなる起源を持つものかについては定説が無い。起源論としては、インドラ神の力を象徴する戦車の車輪とする説や、世界を照らす日輪(太陽)とする説、或いは輪状の武器チャクラムとする説や、マンダラを表すという説もある。

この輪宝は理想的な王である転輪聖王の無限の統治権のシンボルであった。ヴェーダ時代(紀元前2千年紀)半ば以降から輪を王権のシンボルとする観念はインド世界に存在し、転輪聖王の概念もその延長上にあるものである。バラモン教においてもこの観念は継承されたが、「転輪聖王」の概念がよりはっきり形成されたのは、寧ろインドにおける非正統派宗教である仏教やジャイナ教においてであった。転輪聖王に関する記述は『転輪聖王師子吼経』や『大善見王経』といった仏典の随所に登場する。


◎転輪聖王観

仏典の記述によれば、転輪聖王の概念とは大雑把に以下のようなものであった。
世界は繁栄と衰退の循環を繰り返し、繁栄の時には人間の寿命は8万年であるが、人間の徳が失われるにつれて寿命は短くなり、全ての善が失われた暗黒の時代には10年となる。その後、人間の徳は回復し、再び8万年の寿命がある繁栄の時代を迎える。転輪聖王が出るのはこの繁栄の時代であり、彼は前世における善行の結果転輪聖王として現れる。仏陀と同じ32の瑞相を持ち、4つの海に至るまでの大地を、武力を用いる事無く、法の力を以って統治する。

転輪聖王には金輪王、銀輪王、銅輪王、鉄輪王の4種類がある。鉄輪王は鉄の輪宝を持ち、(古代インドの世界観で地球上に4つあるとされた大陸のうち)1つの大陸を支配する。同様に銅輪王は銅の輪宝を持ち、2つの大陸を、銀輪王は銀の輪宝を持ち、3つの大陸を支配する。そして最上の転輪聖王である金輪王は、金の輪宝を持ち、4つの大陸全てを支配するという。
また、法(ダルマ)に則った統治を強調するものとして、「輪王はまさに法に依り、法を敬い、法を重んじ、法を尊び、法を幡とし、法を旗印とし、法を第一としてクシャトリヤたち、家臣達、軍隊、バラモン・ガハパティ達、市民、地方民、シャモン・バラモン達、獣類、鳥類に対し、法にかなった守護、庇護、保護を加える。」とする記述もある。

転輪聖王は、寿命の尽きる前に、王宮の上の輪宝が離れ去るのを見て、王子に位を譲り、出家する。出家の7日後に輪宝は忽然と消えてしまう。新王がこれを元の王である父に問うと、父は輪宝が父祖伝来の物ではなく、王自身の功徳によって齎されるものであると説く。これを新王が聞き入れて法に則った統治を行うと、満月の夜に再び輪宝が空中に現れるのだという。
転輪聖王が出家せずに王位にあるまま死んだ場合には、その遺体は大衆の手で仏陀の遺体と同じように丁重に扱われ、遺骨は大塔に収められる。
この転輪聖王の時代が終わると、再び世は暗黒の時代へと移行していくという。


◎転輪聖王の七種の宝、四種の神徳

転輪聖王は各種の宝と徳性を持つと言う。
・輪宝(チャッカラタナ cakkaratana):四方に転がり、王に大地を平定させる。
・象宝(ハッティラタナ hatthiratana):空をも飛ぶ純白の象。
・馬宝(アッサラタナ assaratana):空をも飛ぶ純白の馬。
・珠宝(マニラタナ maniratana):発する光明が1由旬にも達する宝石。
・女宝(イッティラタナ itthiratana):美貌と芳香を持つ従順かつ貞節な王妃。
・居士宝(ガハパティラタナ gahapatiratana):国を支える財力ある市民。
・将軍宝(パリナーヤカラタナ parinayakaratana):賢明さ、有能さ、練達を備えた智将。
以上の7つを七宝と言う。

また四種の神徳を持つと言う。
・美貌
・長寿
・少病少悩
・バラモン・ガハパティからの敬愛と彼らに対する慈愛


◎実際の王達の転輪聖王観

インドにおいて、転輪聖王観が実際の政治に影響を与えた例として、先ず挙げられるのは、マウリヤ朝の王アショーカである。ただし、転輪聖王の観念と、アショーカ王のダルマの政治がどのような関係にあったのかは、はっきりとはしない。「ダルマによって統治する」というアショーカ王の理想は、仏典における転輪聖王観に非常に近いものであるが、アショーカ王の時代に既に転輪聖王観が形成されていたことをはっきりと証明するものはない。マウリヤ朝という巨大帝国の成立を背景として、全てを支配する理想王としての転輪聖王観が成立したのだという説がある一方、既に形成された転輪聖王観に影響されてアショーカがダルマの政治を始めたのだという説もある。

確実に転輪聖王を名乗った王としてはチェーティ朝の王カーラヴェーラがおり、彼は転輪聖王(チャクラヴァルティン)の他にも、「チャクラ」を含む多数の称号を名乗っている。ただし、カーラヴェーラの用いたこれらの称号は、前後の文脈や彼自身の事跡とあわせて考えると、理想王としての転輪聖王よりも、王の持つ権力の象徴としての「チャクラ」であったといわれている。

東南アジアでは、王の正式名称の一部に使われたり、チャクラパット(アユタヤ王朝の王)という風に現地の訛ではあるが、直接に語が名前に使われたりもした。大般若波羅蜜多経にもこの言葉があり。チベット仏教圏では、元のクビライ、北元のアルタン・ハーン、清の歴代皇帝たちが転輪聖王に擬せられていた。