龍の声

龍の声は、天の声

「中村天風語録」

2021-11-29 08:14:08 | 日本

「中村天風語録2-㊱」

◎我とは何ぞや

人々は、落ちついて「我とは何ぞや」ということを考えない。
その理由は「我」というものの本質を自覚していないからである。
「我とは何ぞや」ということを正しく理解していないと、人生観が正当に確立されない。
人生観が、確立されないと、自己統御が完全にできない。
それが正しく理解された時、初めて確固不抜の人生観が確立され、その確立された人生観が、内的誘導力となって、自己を完全に統御し得るに至るのである。


「中村天風語録2-㊲」

◎精神統一

意志の力の発現に対し、
どういう手段が合理的かというと、「常住精神状態を積極的に把持し、必ず統一してこれを使用する」ということである。
精神が不統一で雑念、妄念、錯然(さくぜん)たる場合には、意志は完全に精神領域に顕現してこない。
すなわち、意志集中が現実化されない。
要するに意志は精神領域が整然としている場合にだけ、その本来の絶対性を働きかけ集中するものなのである。
精神統一こそ意志発現を習性づける合理的手段である。

注)錯然…入り乱れている状態


「中村天風語録2-㊳」

◎想像力の応用

本能心(肉体を生存させるための動物的な心)の整理に著効ある方法として、想像力の応用ということを推奨する。
これは想像という観念現象の中に本能心を整理し得る暗示力が存在しているからである。
わかりやすくいえば、平素勉めて積極的のことだけ想像する習慣を作るのである。
言い換えると、想像を決して消極的にしないように心がけねばならない。
この目的を現実化するのに最も効果的なのは、人間の心の中に存在する高級な欲求心というものを適宜に応用することである。





「主体的に生きましょう」

2021-11-29 08:14:08 | 日本

勝俣隊長からです。



「主体的に生きましょう」

死ぬときに残す教訓が大事なのではなく、生きている時の行動が大事なのだ。

<渋沢栄一>

これからの「戦略」について何か考えていますか?
これから何を「強み」にしてビジネスや人生で成果を上げていけばよいのか?
日本資本主義の父と言われた、渋沢栄一さんは、3つの能力を使うことを提唱しました。
その3つとは、知恵、意思、情愛です。
1つ目の知恵とは、頭の良さというより、知識と経験をどれだけ持っているかです。
技術やスキルもここに入ります。
そして、どれだけ仕事に創意工夫をもたらすことができるか、という能力です。
2つ目の意思とは、どれだけ強い気持ち、向上心、情熱を持っているか、という能力です。
3つ目の情愛とは、どれだけ一緒に働く人に愛と思いやりを持てるか、利他的になれるかという能力です。
これがリーダーシップです。
もちろん、どれも必要な能力です。
その中でも、あなたが最も発揮できる能力こそが、あなたの強みであり、
それを使うことがすばらしい戦略です。
あなたは今、誰の応援をしていますか?
本気で応援している人がいますか?
もし、いなければ、応援したい人をチームや組織の中で見つけましょう。
それがあなたの強みをさらに強化してくれることになるからです。
本気のスイッチが入るからです。
相手を勝たせてあげましょう。
そして、WinWinの実践をしましょう。
相手が大事にしている価値観を理解して、相手と利益を分かち合いましょう。
利益だけなく、相手が求めるものを与えてあげましょう。
今こそ、教訓を生かして行動する時です。
主体的に生きましょう。
そしてリーダーシップを発揮しましょう。
いつも読んで頂き、ありがとうございます。
今日も自分の強みを出して行く1日であります様、よろしくお願い致します。
応援団長勝俣隊長です。









「足上げ健康法②」

2021-11-28 11:28:22 | 日本

◎足のむくみを和らげる

足のむくみは、腎臓から生じる循環トラブルが原因であることがほとんどです。
足を高く上げることによって、重力の力を借りて、妨げられていた循環システムの流れ(主に心臓にもどる血液を運ぶ血管(静脈))を促すことができます。
特に、一日中立ち仕事や座り仕事をする人や血圧が低めの人は、足から心臓への循環が悪くなり、過剰な水分が蓄積して足がむくみやすくなります。
ぜひ、一日の終わりに、足を高くして、滞ってしまった血液やリンパの流れを解消する手助けをしてください。
足のむくみを解消すると、脚がすっきりと見え、脚痩せ効果も期待できるでしょう。


◎神経を落ち着かせる

足上げの姿勢と呼吸への集中は、筋肉を過度な緊張や負荷から解放し、神経系をリラックスさせます。
さらに、呼吸が改善されると、より多くの酸素を体内に取り込めるようになります。
一般的に、体にかかる負担は、おなかや首、こめかみの領域に集中するため、仰向けで壁に足を置くことで、重力の力を借りてこれらの領域の問題を和らげる効果があります。


◎消化を改善する

壁への足上げの姿勢は、腸の働きを助け、消化器系の働きを改善してくれます。
長期的に続けることで、栄養の吸収を助けて、便秘を防ぎ、体を内部から良好な状態に回復させていきます。


◎心を落ち着かせる

足上げの姿勢による脳への酸素供給と深い呼吸の組み合わせによって、心拍数が低下(血圧の調整)して、弛緩反応が誘発されやすくなります。
副交感神経が優位になった結果、素早くリラックスさせる効果が働き、それが不安やストレス、睡眠トラブルの改善に役立つと考えられています。
15分間から20分間続けることで、心が休まり、静かな幸福感で満たされていくでしょう。
心拍数や呼吸をゆっくりと整えて眠りやすい状態へと導いてあげましょう。


◎ヨガにおける足上げの意味

壁やクッションでサポートしながら行う「足上げ」は、ヨガの世界で「Viparita Karani(ヴィパリタ・カラニ)」という精神と体をリラックスさせ、ストレスと緊張を和らげるポーズとして知られています。
ヨガにおける目的は、生命活動を支える循環システム全体に対する重力の影響を逆転させて、リンパの停滞や血液不良を改善するとともに、人体内における根源的な生命エネルギーを上向きに流すことで心と体を修復させることです。
逆立ちや肩立ちといったヨガポーズと同じような目的で行われますが、手や肘、または、毛布で腰やお尻を支えるので、柔軟性や筋力をあまり必要とせず、より楽な体勢でできます。


◎壁への足上げのデメッリト

慣れないうちは、腕に力が入りすぎたり、下半身に負荷がかかったりして苦痛に感じるかもしれません。
なかには、血液やリンパの流れが上半身に戻るときに、しびれを感じる人もいるかもしれません。
体調に異変を感じたら、無理をしないで一度やめ、呼吸を落ち着かせながらゆっくりと起き上がりましょう。
慣れるまでは、20分を目標に少しずつ時間を伸ばしていき、楽な姿勢で無理のないように続けてください。
なによりも続けることで、より高い効果が期待できます。
壁への足上げを習慣づけることで、寝る前の数分間だけでも自分に目を向けて、心と体が喜ぶ状態に導いてあげましょう。










「足上げ健康法①」

2021-11-27 08:00:53 | 日本

「壁への足上げ」

血液促進効果、足の疲れやむくみを解消する効果、便秘の改善、神経系を落ち着かせながら体を内部から回復させる効果など期待以上のメリットを心と体にもたらすと考えられています。ただし、効果を上げるには、知っておくべきコツがあります。そこで今回は、「壁への足上げ」を毎日短時間行うだけでもたらされる心身への5つの効果をはじめ、適切な姿勢、初心者向けのポイント、応用編、注意すべきデメリットなどを徹底的に解説します。特に座り仕事や立ち仕事が多い人、また、循環機能の低下による足の疲れやむくみ、冷え性、睡眠トラブルで悩んでいる人などにおすすめです。


◎足上げのやり方

まずは基本的な姿勢。できるだけお尻を壁に近づけて、足をまっすぐ上に上げてください。
仰向けになって足を上げたときに、お尻が壁に近くなるほど背筋が伸びやすくなるため、曲がった腰(腰椎)の緊張を解放しやすいL字型になります。
これは、ハムストリング(膝から太ももにかけての背後にある大きな筋肉)やお尻周り、腰の筋肉のストレッチに有効な角度で、背中の緊張をほぐして、腰の痛みをやわらげる効果が期待できます。


◎姿勢のポントや注意点

ただし、人によっては身体を完全に直角(90度)に曲げてしまうと、腰回りの循環がかえって妨げられてしまうこともあるので、違和感を感じる場合は壁から数センチ離してください。
腰の下に小さなクッションを置くと、骨盤底筋の緊張が自然にゆるみやすくなり(骨盤底リラクゼーション効果もあり)、姿勢の維持にも役立ちます。


◎呼吸を意識するだけで改善

腕を「ハ」の字に伸ばして床に置き、完全に力を抜きます。
足を上げた体勢がどうしても難しい場合は、枕を頭の下に置いたり、手をおなかの上に置いたりして、リラックスできる姿勢に調整してください。
ここからは、呼吸に集中します。
鼻から深くゆっくりと息を吸い、長く吐きます。呼吸をするごとに、体が地に沈み込むようなイメージで行うと、一種の瞑想的な状態に近づけます。
十分なメリットを得るためには、足を上げた体勢を15分から20分間は維持した方がよいので、腰や足首など、体を締め付けない楽な服装で行いましょう。
どうしても時間がとれないときは5分間、それも難しい場合は1、2分間だけでもいいので、ぜひ毎日続けてみてください。


◎壁への足上げ応用編

壁への足上げだけでは物足りない人は、L字の姿勢を保ったまま、下記のバリエーションを組み合わせてください。
基本姿勢は、仰向けにして両脚を壁に沿ってまっすぐ上げます。
・足の裏を合わせる
・膝を伸ばしたまま、左右に脚を開いたり閉じたりする
・片脚ずつ開いたり閉じたりを繰り返す
・手を頭に置いて、肩を上げて腹筋
足上げ運動には、さまざまなバリエーションがありますが、いずれにしても、決して呼吸をとめないで、特に息を吐くことに集中してください。


◎足上げ効果

寝る前に「足を壁に沿わせて高く上げる」。
簡単な運動ですが、重力に逆行する姿勢によって、体の血流や滞ったリンパの流れを促したり、心をストレスから解き放ち神経系を落ち着かせたりなど、さまざまな効果が期待できます。
さらに、毎日続けることで、以下のようなメリットが高まります。


◎足の疲れを解消する

足上げ運動は、たった20分間行うだけで姿勢の軸(身体の中心となる軸)を整え、体のコリやハリをほぐす効果が期待できます。
特に一日の終わりに不快感が生じやすい足からお尻にかけてのハリや疲れを取るには、最適な方法です。








「足上げ健康法」

2021-11-26 08:51:40 | 日本

昨日お会いした96歳の鏑木さんから聞きました。
鏑木さんはゴルフを毎月4回はやっており、極めてお元気な方でした。どこから見ても、75歳位にしかみえません。120歳まで健康に生きるそうです。
その若返り健康法が、足上げ健康法でした。
それで私も早速実行することにしました。


◎足上げ健康法!

これは壁などを使い、両足を30°位に上げて、30〜60分間位その状態を保ちます。
横になっているので、別に疲れたりもしません。

寝る前がいいかもしれません。

お尻と腰に注意をして、枕か座布団を敷くといいです。
   
腹筋などを行うベンチ式トレーニング器だと
、なおいいです。
その場も角度を30°位に上げます。そして仰向けに寝ているだけでいいのです。

1〜2ヶ月、毎日集中して30〜60分間やり、身体の体質が馴染んだら、時間を短くしてもいいそうです。

効用は、
通常、人間は立って歩いたりしています。その為、重力(引力)により下の方、足の方へ身体の中の水分や血液、内臓器官が下がってしまい、下の方が重くなってしまいます。

これが一番の老化現象を引き起こすそうです。

若いうちはまだいいですが、中年以降は、この点に気を付けなければいけません。

この足上げ健康法を実施しておれば、身体が軽くなり免疫力が高まり、気力が充実してきます。健康で病気もしません。誰でも20歳以上は若返ります。

人間の寿命は本来、120歳以上と言われてます。

それともう一つ、どうしても身体の筋力が落ちますから、筋力をつけることが大事です。
それには、早足で歩くのが一番いいといってました。

参考にして、実行して下さいね❗️








「心で観る、感じる」

2021-11-25 09:54:14 | 日本

真実の知恵・愛・生命・供給・喜び・調和とか掴みどころがない。
無限に続く線や空間、無限に続く時間は一体どこが始まりで、どこが終わりなのか分からない。それはその人の心の中にあるしかない。
物質も自然現象も感情も左右されない永遠の世界が、目に見えない世界が、目に見える世界を支えている。

全体で一つ、一つの中に全体が調和していて美しい。
良いこととはそういうことだ。
時は流れず、日々は移らず。
永遠の今、心で直観で美しさが感じられる。

肝心なことは心で観なければ感じられないということだ。
心を通じて感じられている。
心が五感を通じて顕れている。

永遠の真実とは目に見えない、心で観る、感じるのだ。









「中村天風語録」

2021-11-24 08:13:59 | 日本

「中村天風語録2-㉗」

◎まず自分を批判するべし

自己の生命と人生を自ら擁護するには、何はさておき、いかなる時も、自己の心の強さ、尊さ、正しさ、清らかさを堅持することである。
換言すれば、自己の「心」を微塵(みじん)も汚さぬよう「心がける」ことである。
心身統一法を実践するのに際して、特に心がけねばならないのはみだりに他人を批判しないことである。
それをする暇があるくらいなら、その前に自分自身を厳格に批判し、自己の是正に努力しなければ、正しい人生など送れるべくもない。


「中村天風語録2-㉘」

◎肥料には季節がある

たとえば植木に肥料をやるにしても、必要だからといって、やたらに肥料をぶっかけても成長しません。
植木が肥料を欲しがっている時にかけてやらなきゃだめなんです。
人生に関する話もこれと同じで、結局、人間となる場合に必要な肥料も、
やはりかける季節があるんです。
その人が人生を、ほんとうに求めている状態の時でないと、与えたものが心のなかで、よく噛みくだかれないという結果がきてしまうんです。


「中村天風語録2-㉙」

◎取り越し苦労の害

取り越し苦労を当然だと思う人は、自分の墓穴を自分で掘っている愚かな人なのであります。
事のいかんを問わず、よしんば、ほんとうに心配することを心配した場合でも、心配しなくてもいいことを心配した場合でも、結果は同じなんです。
すなわち、
取り越し苦労をすればするほど、その心の消極的反映が即座に運命や健康のうえにまざまざと悪い結果となってあらわれるからであります。
「百害あって一利なし」というのが取り越し苦労なんであります。


「中村天風語録2-㉚」

◎真理に目覚める方法

本来人間は、この世に生まれ出た時から、たえず真理に接し、真理の中で生きている。
真理の中にいながら、この真理をなかなか自覚できないのは、心の中に雑念妄念があるためである。
本当に心が清い状態であれば、真理はすぐに発見できる。
安定打坐(あんじょうだざ)という特殊な方法を行うと、雑念妄念がたちどころに消え去っていく。
そうすれば、たいした努力や、難行苦行などをしなくても、自然に心が真理と取り組んでいこうとするのである。


「中村天風語録2-㉛」

◎潜在意識の重要性

われわれの意識は、実在意識と潜在意識の二つに分割されている。
そしてわれわれの心理作用の90パーセントまでは、この潜在意識の作用で行われるのである。
ところが多くの人は精神活動の直接の衝に当たっているという関係から、
実在意識を潜在意識よりも重視して考える傾向がある。
しかしながら、実在意識の精神活動も単独に行われる場合は、潜在意識の作用から内的誘導を受けて行われているのである。


「中村天風語録2-㉜」

◎血液の洗濯を行うには

なぜ多量の空気を人間は必要とするのかというと、自分の血液を完全に浄化させるために必要だからである。
わかりやすく言えば、血液の洗濯を肺臓が行う時の洗剤として必要なのである。
いかに肺臓が強健であっても、空気がなければ完全に血液を浄化することは不可能である。
だから、空気を合理的に
自分の生命に活用するには、まず第一に、チャンスがあるたびに、清浄な空気に親しむという心がけを実行することである。


「中村天風語録2-㉝」


◎力強い存在


ほんとうに現在よりもより良い人生を生きようと願うなら、人間なんていうものは何の価値もないもののように考える考え方は断然自分の中から切り捨てなければならない。

というのは、人間とは多くの人々が考えているような力弱い憐れなものではなく、もっともっと力強い尊厳な存在なのであるからである。


「中村天風語録2-㉞」

◎理性心の正体

理性心で本能心が統御できるならば、何も人生というものは苦労する必要はありゃしないんだよ。
学問が豊富になって、いわゆる学者、識者とならないまでも常識の中が非常に理知で豊かにされたならば、みんなこの本能心が完全に整理できそうなもんだが、そうはいかないんです。
だから、もう二千年も前から孔子がすでに言っているだろ。
「学んでいよいよ苦しみ 極めていよいよ迷」と。
いい悪いがわかればわかるほど、人間は苦しいんですよ。


「中村天風語録2-㉟」

◎心は「気」の働く場

心というものは生命を創造する「気」の働きを行うための存在であり、心が思ったり考えたりすることによって、生命の活動が表現される。
そして心の行う思考は、
すべて個人の命の原動力となっている「気」を通じて、その「気」の本源たる「宇宙根本主体」に
通じている。
しかもこの「宇宙根本主体」は一切の万物を創造するエネルギーの本源である。
この絶対的関係を真剣に考えると、思考は人生を創るということに断然結論される。











「ジョン万次郎という人物②」

2021-11-23 09:41:49 | 日本

◎社会的影響

・嘉永5年(1852年)、土佐藩の絵師・河田小龍(川田維鶴)により漂流記『漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)』がまとめられた。

・坂本龍馬も中浜万次郎から聞いた世界観に影響を受けたと言われ、激動の幕末における影の重要人物である。

・アメリカの様々な文物を紹介し、西洋知識を貪欲に吸収しようとしていた幕末の志士や知識人達に多大な影響を与えた。


◎人物

・おごることなく謙虚で、晩年は貧しい人には積極的に施しを行い、役人に咎められても続けていたという。

・甘いものや、うなぎの蒲焼が好物だったという逸話が残っている。 

・外国の文物を説明する際、鉄道など言葉に置き換えて説明することが難しいものは絵を描いて図解を試みたものの、絵が不得意で幼児並の絵を描くことしか出来ずにずいぶん苦労したようである。

・アメリカ人について、背が高く、力量強く、智巧であって気性は豪邁の者が多いが、相撲などは敏捷でなく、2〜3人ずつ投げ飛ばした事があると語っている。

・刺客に襲われる可能性があったため、常にピストルと仕込み杖を持っていたとされる。

・画家の高橋由一が無名の頃に、彼の救助金を募ったとされる。


◎日本初

・『ABCの歌』を日本に初めて紹介した。
・日本で初めてネクタイをしたともいわれる。
・初めて鉄道・蒸気船に乗った日本人でもある。
・日本人で初めてアメリカの学校に正式に通った。
・日本人で初めて近代式捕鯨に携わった。
・日本人で初めてアメリカのゴールドラッシュといわれる金の採掘に携わった。
・『亜美理加 合衆国航海学書(英語版)(Bowditch's American Practical Navigator)』を和訳している。
・日本人で初めて地球を2周した人物だと思われる(ホノルルを起点に2周していると言える)。日本人としては津太夫の次に地球を1周したと思われる(万延元年遣米使節よりも早い)。
・ホーツン事件で、初めて外国人を逮捕した日本人になったと思われる。


◎アメリカとの交流

・日本にいる中浜万次郎の子孫は、アメリカのホイットフィールド船長の子孫と代々交流を続けている。

・また出身地の土佐清水市はアメリカでの滞在先となったニューベッドフォード、フェアヘーブンの両市と姉妹都市盟約を締結し、現在も街ぐるみでの交流が続けられている。

・フランクリン・ルーズベルトの祖父のワラン・デラノ(英語版)がジョン・ハウランド号の所有者の一人で、また万次郎がアメリカ滞在時にはデラノ家(英語版)と近所付き合いがあり、これに因んで万次郎の子供中濱東一郎に大統領から、1933年に手紙が送られている。

・1918年7月4日、駐米大使石井菊次郎を介して息子中濱東一郎がフェアヘーブンに太刀を贈呈し、献刀式が行われた。フェアヘーブンのミリセント図書館(英語版)に保管されていたが盗難にあい、シートンホール大学の菊岡正教授の尽力で別の刀が贈られた。


◎ジョン万次郎と英語

・ジョン万次郎は、英語を覚えた際に耳で聞こえた発音をそのまま発音しており、現在の英語の発音辞書で教えているものとは大きく異なっている。中浜万次郎が後に記述した英語辞典の発音法の一例を挙げると、「こーる」=「cool」・「わら」=「water」・「さんれぃ」=「Sunday」・「にゅうよぅ」=「New York」など。実際に現在の英米人に中浜万次郎の発音通りに話すと、多少早口の英語に聞こえるが、正しい発音に近似しており十分意味が通じるという実験結果もあり、万次郎の記した英語辞書の発音法を参考に、日本人にも発音しやすい英語として教えている英会話教室もある。

・武士階級ではなく漁民であり、少年期に漢文などの基本的な学識を身に付ける機会を得ずに米国に渡ったため、口語の通訳としては有能だったが、文章化された英語を日本語(文語)に訳することが不得手だったとされる。そのため西洋の体系的知識を日本に移入することが求められた明治以降は能力を発揮する機会に恵まれなかった。

・晩年にアメリカ時代の友人が訪ねてきたが、すでに英語が話せなくなっていたといわれる。


<了>









「ジョン万次郎という人物①」

2021-11-22 07:57:04 | 日本

ジョン万次郎こと中浜万次郎は、文政10年(1827年)1月1日に土佐の中浜、今の高知県土佐清水市中浜で貧しい漁師の次男として生まれました。

9歳の時に父親を亡くし、万次郎は幼い頃から稼ぎに出ていました。
天保12年(1841年)14歳だった万次郎は仲間と共に漁に出て遭難。数日間漂流した後、太平洋に浮かぶ無人島「鳥島」に漂着します。万次郎達はそこで過酷な無人島生活をおくりました。漂着から143日後、万次郎は仲間と共にアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって助けられます。この出会いが万次郎の人生を大きく変えることとなりました。

救助されたものの当時の日本は鎖国をしており、外国の船は容易に近づける状態ではありませんでした。それに、帰国できたとしても命の保証はありませんでした。ジョン・ハウランド号の船長ホイットフィールドは、万次郎を除く4人を安全なハワイに降ろしましたが万次郎の事を気に入った船長は、アメリカへ連れて行きたいと思い万次郎に意志を問いました。
万次郎もアメリカへ渡りたいという気持ちがありましたので、船長とともにアメリカへ行くことを決断しました。 
     
この時、船名にちなんだジョン・マンという愛称をつけられました。
そして、万次郎は日本人として初めてアメリカ本土へ足を踏み入れたのです。

アメリカ本土に渡った万次郎はホイットフィールド船長の養子となり、マサチューセッツ州フェアヘーブンで共に暮らしました。学校で、英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学びました。万次郎は首席になるほど熱心に勉学に励みました。


◎捕鯨生活と帰国

学校を卒業後は桶屋で働くなどしているが、ジョン・ハウランド号の船員だったアイラ・デービスが船長の捕鯨船フランクリン号にスチュワードとして乗る道を選ぶ。1846年5月16日ニューベッドフォード出港。1846年(弘化3年)から数年間は近代捕鯨の捕鯨船員として生活していた。このとき、大西洋とインド洋を経由してホノルルに寄港しており、別れた漂流民と再会している。また、琉球の小島に上陸しているが、帰国は果たせなかった。

この航海でボストン、アゾレス諸島、カーボベルデ、喜望峰、アムステルダム島、ティモール島、スンダ海峡、ニューアイルランド島、ソロモン諸島、グアム、マニラ、父島、ホノルル、モーリシャスなどに行く。1849年9月、再びニューベッドフォードに戻り船長ウィリアム・ホイットフィールドと再会した後、帰国の資金を得るため、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへスティグリッツ号で水夫として渡り、サクラメント川を蒸気船で遡上し、鉄道で山へ向かった。数ヶ月間、金鉱にて金を採掘する職に就く。

そこで得た資金を持ってホノルルに渡り、土佐の漁師仲間と再会する。1850年12月17日、知己であった宣教師で新聞を発行していたSamuel C. Damon(英語版)の協力もあり、上海行きの商船サラ・ボイド号に伝蔵と五右衛門と共に乗り込み、購入した小舟「アドベンチャー号」も載せて日本へ向け出航した。
嘉永4年(1851年)、薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、翁長で牧志朝忠から英語で取り調べを受けたり、地元住民と交流した後に薩摩本土に送られた。海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩の取調べを受ける。薩摩藩では中浜一行を厚遇し、開明家で西洋文物に興味のあった藩主・島津斉彬は自ら万次郎に海外の情勢や文化等について質問した。斉彬の命により、藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術について教示、その後、薩摩藩はその情報を元に和洋折衷船の越通船を建造した。斉彬は万次郎の英語・造船知識に注目し、後に薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招いている。

薩摩藩での取調べの後、万次郎らは長崎に送られ、江戸幕府の長崎奉行所等で長期間尋問を受ける。長崎奉行所で踏み絵によりキリスト教徒でないことを証明させられたが、慣例として残っているのみで、描かれた絵はほぼ解読不能に等しく、何かよくわからないまま踏んだという。加えて、外国から持ち帰った文物を没収された後、土佐藩から迎えに来た役人に引き取られ、土佐に向った。高知城下において吉田東洋らにより藩の取り調べを受け、その際に中浜を同居させて聞き取りに当たった河田小龍は万次郎の話を記録し、後に『漂巽紀略』を記した。約2か月後、帰郷が許され、帰国から約1年半後の嘉永5年(1852年)、漂流から11年目にして故郷に帰ることができた。


◎帰国後の活躍

帰郷後すぐに、万次郎は土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命された。この際、後藤象二郎、岩崎弥太郎などを教えている。

嘉永6年(1853年)7月8日ペリーが江戸に来航し、7月17日に江戸を後にしたが、来春の黒船来航への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていたことから 7月25日、万次郎は幕府に召聘され江戸へ行き(8月30日着)、直参の旗本の身分を与えられた。その際、生まれ故郷の地名を取って「中濱」の苗字が授けられた。万次郎は江川英龍の配下となり、江川は長崎で没収された万次郎の持ち物を返還させた。勘定奉行川路聖謨からアメリカの情報を聞かれ、糾問書にまとめられている。1856年軍艦教授所教授に任命され、造船の指揮、測量術、航海術の指導に当たり、同時に、英会話書『英米対話捷径』の執筆、『ボーディッチ航海術書』の翻訳、講演、通訳、英語の教授、船の買付など精力的に働く。この頃、大鳥圭介、箕作麟祥などが万次郎から英語を学んでいる。
安政元年(1854年)、幕府剣道指南・団野源之進の娘・鉄と結婚。

藩校「教授館」の教授に任命されるが、役職を離れた。理由の1つには、中浜がアメリカ人と交友することをいぶかしがる者が多かったことも挙げられる。また当時、英語をまともに話せるのは中浜万次郎1人だったため、マシュー・ペリーとの交渉の通訳に適任とされたが、(オランダ語を介しての)通訳の立場を失うことを恐れた老中がスパイ疑惑を持ち出したため、結局ペリーの通訳の役目から下ろされてしまったが、実際には日米和親条約の平和的締結に向け、陰ながら助言や進言をし尽力した。
万次郎は幕府が建造した西洋式帆船の君沢形を、西洋式の航海実習も兼ねて捕鯨に使用することを提案し、中浜万次郎が指揮する「君沢形一番」(同型艦は10隻)は安政6年3月(1859年4月)に品川沖を出港して小笠原諸島へと向かったが、暴風雨により船は損傷し、航海は中止となった。

万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団の1人として、咸臨丸に乗りアメリカに渡る。船長の勝海舟が船酔いがひどくまともな指揮を執れなかったため、万次郎は代わってジョン・ブルックとともに船内の秩序保持に努めた(彼はアメリカ人との交友を日本人船員に訝しがられることを恐れ、付き合い方には注意していたとされる)。サンフランシスコに到着後、使節の通訳として活躍。帰路ホノルルではSamuel C. Damon(英語版)と再会した。帰国時に同行の福澤諭吉と共にウェブスターの英語辞書を購入し持ち帰る。

文久元年(1861年)には外国奉行・水野忠徳に同行し、小笠原諸島などの開拓調査を咸臨丸を含む四隻の艦隊で行った。中浜が小笠原付近に知識があり、当時小笠原に住んでいたアメリカ人やイギリス人との面識もあり、通訳もできるために選ばれた(ここでアメリカ人開拓者ナサニエル・セイヴァリーと再会している)。後には君沢一番丸というスクーネル船で小笠原諸島近海でアメリカ式捕鯨を実験的に行った。

文久2年(1862年)、豪商平野廉蔵の出資で買い取った外国船「壹番丸」で捕鯨を行う許可を幕府に提出し、出船を命じられる。翌年には父島在住の外国人6名を雇い、同船で小笠原諸島近海に向い捕鯨を行い、鯨2頭を捕獲している。しかし、ここで先の外国人が逮捕されるホーツン事件が起こる(初めて外国人を逮捕した日本人になる)。江戸に帰航後、再度捕鯨航海を企図するが政情不安のため幕府の許可が下りず、翻訳をしたり、細川潤次郎などの士民に英語の教示を行っている。
1864年から鹿児島赴任になり、薩摩藩の開成所の教授なる。また、1865年に長崎で薩摩藩が船舶5隻購入し、その交渉を行なっている。

慶応2年(1866年)、土佐藩の開成館設立にあたり、教授となって英語、航海術、測量術などを教える。また、藩命により後藤象二郎と長崎・上海へ赴き土佐帆船「夕顔丸」などを購入。
慶応3年(1867年)には、薩摩藩の招きを受け鹿児島に赴き、航海術や英語を教授したが、同年12月、武力倒幕の機運が高まる中、江戸に戻った。

明治維新後の明治2年(1869年)、明治政府により開成学校(現・東京大学)の英語教授に任命される。
明治3年(1870年)、普仏戦争視察団として大山巌らと共に欧州へ派遣される。アメリカ経由で行く。8月28日米外輪船グレート・リパブリック号で横浜発、9月23日サンフランシスコ着、鉄道を利用して10月28日にニューヨークに行き、ここでフェアヘーブンにより、アメリカで恩人のホイットフィールドと再会した。また身に着けていた日本刀を贈った(この刀は後にアメリカの図書館に寄贈され、第二次世界大戦の最中にあっても展示されていたが、後に何者かに盗まれ行方不明になり、現在はレプリカが展示されている) 11月にロンドンに着くが、発病のため英蒸気船ダグラス号でスエズ運河を通り東回りで帰国。

帰国後に軽い脳溢血を起こし、数か月後には日常生活に不自由しないほどに回復するが、以後は静かに暮らす。時の政治家たちとも親交を深め、政治家になるよう誘われたが、教育者としての道を選んだ。万次郎の雑記の断片から、老後(1888年)にも小笠原諸島近海で航海を行なっていた可能性がある。
明治31年(1898年)、71歳で死去。現在は雑司ヶ谷霊園に葬られており、墓石は東京大空襲で傷ついている。
昭和3年(1928年)、正五位を追贈された。












「牧野富太郎という人物」

2021-11-19 10:06:42 | 日本

牧野富太郎(まきの とみたろう、1862年5月22日(文久2年4月24日) - 1957年(昭和32年)1月18日)は、日本の植物学者。高知県高岡郡佐川町出身。
「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威である。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っている。小学校中退でありながら理学博士の学位も得て、生まれた日は「植物学の日」に制定された。

・94歳で亡くなる直前まで、日本全国をまわって膨大な数の植物標本を作製した。個人的に所蔵していた分だけでも40万枚に及び、命名植物は1,500種類を数える。野生植物だけでなく、野菜や花卉なども含まれ、身近にある植物すべてが研究対象となっていたことが、日本植物学の父と言われる所以である。


◎生涯

1862年(文久2年)、土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)の、近隣から「佐川の岸屋」と呼ばれた商家(雑貨業)と酒造業を営む裕福な家に生まれた。幼少のころから植物に興味を示していたと伝わる。
元は「成太郎」という名であったが、3歳で父を、5歳で母を、6歳で祖父を亡くした頃、「富太郎」に改名している。その後は祖母に育てられた。

10歳より土居謙護の教える寺子屋へ通い、11歳になると郷校である名教館(めいこうかん)に入り儒学者伊藤蘭林(1815年-1895年)に学んだ。当時同級生のほとんどは士族の子弟であり、その中に後の「港湾工学の父」広井勇らがいた。漢学だけではなく、福沢諭吉の『世界国尽』、川本幸民の『気海観瀾広義』などを通じ西洋流の地理・天文・物理を学んだ。
名教館は学制改革により校舎はそのままに佐川小学校となった。そこへ入学したものの2年で中退し、好きな植物採集にあけくれる生活を送るようになる。小学校を中退した理由として、造り酒屋の跡取りだったので、小学校などで学業を修め、学問で身を立てることは全く考えていなかったからだと述べている。

酒屋は祖母と番頭に任せ、気ままな生活を送っていた。15歳から、佐川小学校の「授業生」すなわち臨時教員としておよそ2年間教鞭をとった。佐川で勉強するだけでは物足リなくなった富太郎は、植物の採集、写生、観察などの研究を続けながら、17歳になると高知師範学校の教師永沼小一郎を通じて欧米の植物学に触れ、当時の著名な学者の知己も得るようになる。牧野は自叙伝で「私の植物学の知識は永沼先生に負うところ極めて大である」と記している。
そして、江戸時代の本草学者小野蘭山の手による「本草網目啓蒙」に出会い、本草学とりわけ植物学に傾倒する。自らを「植物の精(精霊)」だと感じ、日本中の植物を同書のようにまとめ上げる夢を抱き、それは自分にしかできない仕事だと確信するようになる。そして19歳の時、第2回内国勧業博覧会見物と書籍や顕微鏡購入を目的に、番頭の息子と会計係の2人を伴い初めて上京した。
東京では博物局の田中芳男と小野職怒の元を訪ね、最新の植物学の話を聞いたり植物園を見学したりした。

富太郎は本格的な植物学を志し、明治17年(1884年)、22歳の時に再び上京する。そこで東京帝国大学理学部植物学教室の矢田部良吉教授を訪ね、同教室に出入りして文献・資料などの使用を許可され研究に没頭する。そのとき、富太郎は東アジア植物研究の第一人者であったロシアのマキシモヴィッチに標本と図を送っている。マキシモヴィッチからは、図を絶賛する返事が届いており、富太郎は天性の描画力にも恵まれていた。やがて25歳で、同教室の大久保三郎や田中延次郎・染谷徳五郎らと共同で『植物学雑誌』を創刊。同雑誌には澤田駒次郎や白井光太郎、三好学らも参加している。2014年現在も刊行されており、日本で最も古く権威ある植物学誌となっている。
同年、育ててくれた祖母が死去。
26歳でかねてから構想していた『日本植物志図篇』の刊行を自費で始めた。工場に出向いて印刷技術を学び、絵は自分で描いた。これは当時の日本には存在しなかった、日本の植物誌であり、今で言う植物図鑑のはしりである。かねてより音信のあったロシアの植物学者マキシモヴィッチからも高く評価された。

この時期、牧野は東京と郷里を往復しながら研究者の地位を確立していくが、研究費を湯水の如く使ったこともあり実家の経営も傾いていった。
1889年(明治22年)、27歳で新種の植物を発見、『植物学雑誌』に発表し、日本ではじめて新種のヤマトグサに学名をつけた。1890年(明治23年)、28歳のときに東京の小岩で、分類の困難なヤナギ科植物の花の標本採集中に、柳の傍らの水路で偶然に見慣れない水草を採集する機会を得た。これは世界的に点々と隔離分布するムジナモの日本での新発見であり、そのことを自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになる。同年、小澤壽衛子と結婚し、大学至近の根岸に一家を構えた。しかし同年、矢田部教授・松村任三教授らにより植物学教室の出入りを禁じられ、研究の道を断たれてしまった。『日本植物志図篇』の刊行も六巻で中断してしまった。失意の牧野はマキシモヴィッチを頼り、ロシアに渡って研究を続けようと考えるが、1891年にマキシモヴィッチが死去したことにより、実現はしなかった。

一旦、郷里の高知に帰郷し、地元の植物の研究をしたり、西洋音楽会を開き、自ら指導し、時には指揮者として指揮棒を振ったりしていたが、知人らの助力により、駒場の農科大学(現・東大農学部)にて研究を続けることができるようになり、帰京。
31歳で、矢田部退任後の帝国大学理科大学の主任教授となった松村に呼び戻される形で助手となったが、その時には生家は完全に没落していた。助手の月給で一家を養っていたが、文献購入費などの研究に必要な資金には事欠いていた。それでも研究のために必要と思った書籍は非常に高価なものでも全て購入するなどしていたため多額の借金をつくり、ついには家賃が払えず、家財道具一切を競売にかけられたこともある。
その後、各地で採集しながら植物の研究を続け、多数の標本や著作を残していく。ただ、学歴の無いことと、大学所蔵文献の使用方法(研究に熱中するあまり、参照用に借り出したままなかなか返却しないなど)による研究室の人々との軋轢もあり厚遇はされなかった。松村とは植物の命名などを巡って対立もしている。

1900年から、未完に終わった『日本植物志図篇』の代わりに新しく『大日本植物志』を刊行する。今回は自費ではなく帝大から費用が捻出され、東京の大手書店・出版社であった丸善から刊行された。だかこれも松村の妨害により、四巻で中断してしまった。
1926年(大正15年)には津村順天堂(現、ツムラ)の協力を得て、個人で『植物研究雑誌』を創刊したが、3号で休刊した。以降は、津村の協力により編集委員制で現在も刊行されている。
1912年(大正元年、牧野50歳)から1939年(昭和14年、77歳)まで東京帝国大学理科大学講師。この間、学歴を持たず、権威を理解しない牧野に対し、学内から何度も圧力があったが、結局牧野は帝大に必要な人材とされ、助手時代から計47年間、大学に留任している。

1927年4月(昭和2年)、65歳で東京帝国大学から理学博士を受ける。論文の題は「日本植物考察(英文)」。同年に発見した新種の笹に翌年死去した妻の名をとって「スエコザサ」と名付けた。
1940年(昭和15年)、退官後、78歳で研究の集大成である「牧野日本植物図鑑」を刊行、この本は改訂を重ねながら現在も販売されている。
1949年(昭和24年)、大腸カタルで一旦危篤状態となるも、回復。
1950年(昭和25年)、日本学士院会員。
1951年(昭和26年)、未整理のまま自宅に山積みされていた植物標本約50万点を整理すべく、朝比奈泰彦科学研究所所長が中心となって「牧野博士標本保存委員会」が組織。文部省から30万円の補助金を得て翌年にかけて標本整理が行われた。同年設立された文化功労者第1回の対象者となる。
1953年(昭和28年)、91歳で東京都名誉都民。
1954年(昭和29年)頃から病気がちになり、病で寝込むことが多くなった。
1956年(昭和31年)、「植物学九十年」・「牧野富太郎自叙伝」を刊行。同年12月、郷里の高知県佐川町の名誉町民。同じく同年、高知県に牧野植物園が設立されることが決定された。
1957年(昭和32年)、94歳で死去。没後従三位に叙され、勲二等旭日重光章と文化勲章を授与された。墓所は東京都台東区谷中の天王寺。郷里の佐川町にも分骨されている。

1958年(昭和33年)4月、高知県高知市五台山に高知県立牧野植物園が開園した。


◎逸話

・植物だけではなく鉱物にも興味をもち、音楽については自ら指揮をとり演奏会も開き、郷里の音楽教育の振興にも尽力した。

・植物研究のため、造り酒屋であった実家の財産を使ったが、東京に出る際に親戚に譲った。後に困窮し、やむなく妻が始めた料亭の収益も研究につぎ込んだという。その料亭の件や、当時の大学の権威を無視した出版などが元で大学を追われたこともある。しかし、学内には富太郎の植物に対する情熱とその業績を高く評価する者も多く、78歳まで実に47年のあいだ、東大植物学教室になくてはならない講師として日本の植物学に貢献した。

・富太郎の金銭感覚の欠如や、周囲の人にたいする彼の振る舞いにまつわる逸話は多い。しかし富太郎を追い出した松村任三自身、若き日研究に邁進する余り、周囲に対する配慮を欠いていたことを認めている。後年、富太郎は松村が明治初頭の植物学の第一の功労者であり、東大植物学教室の基礎を築いた人であると賞讃した。

・尾瀬で植物採集した際にあまりに植物を採ったため、尾瀬の保護運動の第一人者であった平野長蔵が研究するだけでなく保護を考えろと叱ったというエピソードがある。
・多くの植物の命名を行い「雑草という名の植物は無い」という発言をしている。

・生地の佐川町では、富太郎を主人公にした連続テレビ小説の誘致活動が行われている。


◎田中芳男と牧野富太郎

富太郎は1883年(明治16年)、第2回内国勧業博覧会見学のため上京し、その際、文部省博物局を訪ね、田中芳男と小野職愨に小石川植物園を案内してもらっている。まだ無名の富太郎が、3年後にコーネル大学に留学した東京大学理学部植物学教室の誇り高き教授、矢田部良吉の許しを得て、この教室に出入り出来るようになったのは、田中芳男と田中の師である伊藤圭介の力があった。
博物館行政や多くの勧業殖産に貢献し、後に貴族院議員になった田中と富太郎は本の貸し借りをするなど親しく交友があり、それは24歳年上の田中が亡くなるまで続いた。


◎池長孟と牧野富太郎

富太郎は1916年(大正5年)12月、生活苦から収集した植物標本10万点を海外の研究所に売ることを決断する。
富太郎の窮状を知った渡辺忠吾は、『東京朝日新聞』に「篤学者の困窮を顧みず、国家的資料が流出することがあれば国辱である」との記事を書き、『大阪朝日新聞』がこれを転載した。
記事は反響を呼び、神戸から二人の篤志家が現れた。一人は久原房之助、もう一人が20歳の京都帝国大学生の池長孟であった。
12月21日、富太郎は壽衛子夫人とともに神戸に向かう。孟は父、池長通の遺産の中から3万円で標本を買い取り、改めて富太郎に寄贈しようと申し出た。感激した富太郎はこの申し出を固辞、標本は通が建てた池長会館に所蔵されることになり、会館は池長植物研究所と改称される。
これで富太郎は困窮時代の危機を脱することになる。また、孟は富太郎にその後も研究費を援助する。


◎発見、命名した植物

命名は2500種以上(新種1000、新変種1500)とされる。自らの新種発見も600種余りとされる。

・発見、命名した植物の例
ムジナモ、センダイヤザクラ、トサトラフタケ、ヨコグラツクバネ、アオテンナンショウ、コオロギラン、スエコザサ
和名については、ワルナスビやノボロギクのような、当該植物種の性質を短い言葉で巧く言い表しているものもある一方で、ハキダメギクなど発見場所をつけただけの命名もある。イヌノフグリのように意味を考えると(犬の陰嚢の意ゆえ)、少々破廉恥なものもあるが、この植物の場合、もとは和歌山県における同種の方言からとったものではある。

亡き妻の名を冠したスエコザサのエピソードはよく知られているが、富太郎のこうした学問の場以外の私情をはさんだ献名は例外的であった。マルバマンネングサの学名にはロシアの植物学者マキシモヴィッチにより、牧野の名が盛り込まれている。

また、生き別れになった愛人・お滝を偲んでアジサイにHydorangea macrophylla Sieb. var. otakusaの学名を命名したシーボルトについて、otakusaの由来をシーボルトは日本での地方名だと著書にのべていたものが事実に反し、お滝に献名したものであることを突き止めたのも富太郎である。












「平賀源内という人物」

2021-11-18 08:09:07 | 日本

平賀源内(ひらが げんない、享保13年(1728年) - 安永8年12月18日(1780年1月24日))は、江戸時代中頃の人物。本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家。

讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)の白石家の三男として生まれる。父は白石茂左衛門(良房)、母は山下氏。兄弟が多数いる。白石家は讃岐高松藩の足軽身分の家で、元々は信濃国佐久郡の豪族(信濃源氏大井氏流平賀氏)だったが、『甲陽軍鑑』によれば戦国時代の天文5年(1536年)11月に平賀玄信の代に甲斐の武田信虎による侵攻を受け、佐久郡海ノ口城において滅ぼされた。後に平賀氏は奥州の白石に移り伊達氏に仕え白石姓に改め、さらに伊予宇和島藩に従い四国へ下り、讃岐で帰農した伝承がある。源内の代で姓を白石から平賀に復姓したと伝わる。

幼少の頃には掛け軸に細工をして「お神酒天神」を作成したとされ、その評判が元で13歳から藩医の元で本草学を学び、儒学を学ぶ。また、俳諧グループに属して俳諧なども行う。寛延元年(1748年)に父の死により後役として藩の蔵番となる。宝暦2年(1752年)頃に1年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学ぶ。留学の後に藩の役目を辞し、妹に婿養子を迎えさせて家督を放棄する。
大坂、京都で学び、さらに宝暦6年(1756年)には江戸に出て本草学者田村元雄(藍水)に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために林家にも入門して聖堂に寄宿する。2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。

宝暦11年(1761年)には伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカーなども行う。物産博覧会をたびたび開催し、この頃には幕府老中の田沼意次にも知られるようになる。
宝暦9年(1759年)には高松藩の家臣として再登用されるが、宝暦11年(1761年)に江戸に戻るため再び辞職する。このとき「仕官お構い」(奉公構)となり、以後、幕臣への登用を含め他家への仕官が不可能となる。

宝暦12年(1762年)には物産会として第5回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催する。江戸においては知名度も上がり、杉田玄白や中川淳庵らと交友する。
安永2年(1773年)には出羽秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、また秋田藩士小田野直武に蘭画の技法を伝える。
安永5年(1776年)には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元する。
安永8年(1779年)夏には橋本町の邸へ移る。大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12月18日に破傷風により獄死した。獄死した遺体を引き取ったのは狂歌師の平秩東作ともされている。享年52。杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった。ただし晩年については諸説あり、上記の通り大工の秋田屋九五郎を殺したとも、後年に逃げ延びて書類としては死亡したままで、田沼意次ないしは故郷高松藩(旧主である高松松平家)の庇護下に置かれて天寿を全うしたとも伝えられるが、いずれも詳細は不明。大正13年(1924年)、従五位を追贈された。


◎墓所

戒名は智見霊雄。墓所は浅草橋場(現東京都台東区橋場2-22-2)にあった総泉寺に設けられ、総泉寺が板橋に移転した後も墓所はそのまま橋場の旧地に残されている。また、その背後には源内に仕えた従僕である福助の墓がある。友人として源内の葬儀を執り行った杉田玄白は、故人の過日を偲んで源内の墓の隣に彼を称える碑を建てた。この墓の敷地は1931年(昭和6年)に松平頼寿により築地塀が整備され、1943年(昭和18年)に国の史跡に指定された。
また故郷のさぬき市志度の自性院(平賀氏菩提寺)にも源内の義弟(末妹の婿)として平賀家を継承した平賀権太夫が、義兄である源内を一族や故郷の旧知の人々の手で弔うために建てたと伝えられる墓が存在する。
一般には橋場の墓が葬墓で志度の墓が参墓(いわゆる両墓制)といわれているが、上記経歴にて前述したように源内の最期や遺体の処され方については諸説ある(上述した高松松平家庇護説に則った場合は葬墓と参墓の関係が逆転する)。


◎人物と業績

・天才、または異才の人と称される。鎖国を行っていた当時の日本で、蘭学者として油絵や鉱山開発など外国の文化・技術を紹介した。文学者としても戯作の開祖とされ、人形浄瑠璃などに多くの作品を残した。また源内焼などの焼き物を作成したりするなど、多彩な分野で活躍した。
・男色家であったため、生涯にわたって妻帯せず、歌舞伎役者らを贔屓にして愛したという。わけても、二代目瀬川菊之丞(瀬川路考)との仲は有名である。晩年の殺傷事件も男色に関するものが起因していたともされる。

・『解体新書』を翻訳した杉田玄白をはじめ、当時の蘭学者の間に源内の盛名は広く知られていた。玄白の回想録である『蘭学事始』は、源内との対話に一章を割いている。源内の墓碑を記したのも玄白で、「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」(ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや〔貴方は常識とは違う人で、常識とは違うものを好み、常識とは違うことをする、しかし、死ぬときぐらいは畳の上で普通に死んで欲しかった。〕)とある。

・発明家としての業績には、オランダ製の静電気発生装置エレキテルの紹介、火浣布 の開発がある。一説には竹とんぼの発明者ともいわれ、これを史上初のプロペラとする人もいる(実際には竹とんぼはそれ以前から存在する。該項目参照)。気球や電気の研究なども実用化寸前までこぎ着けていたといわれる。ただし、結局これらは実用的研究には一切結びついておらず、後世の評価を二分する一因となっている。

・エレキテルの修復にあっては、その原理について源内自身はよく知らなかったにもかかわらず、修復に成功したという。

・1765年に温度計「日本創製寒熱昇降器」を製作。現存しないが源内の参照したオランダの書物及びその原典のフランスの書物の記述からアルコール温度計だったとみられる。この温度計には、極寒、寒、冷、平、暖、暑、極暑の文字列のほか数字列も記されており華氏を採用していた。

・土用の丑の日にウナギを食べる風習は、源内が発祥との説がある。この通説は土用の丑の日の由来としても平賀源内の業績としても最も知られたもののひとつだが、両者を結び付ける明確な根拠となる一次資料や著作は存在しない。また明和6年(1769年)にはCMソングとされる歯磨き粉『漱石膏』の作詞作曲を手がけ、安永4年(1775年)には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけてそれぞれ報酬を受けており、これらをもって日本におけるコピーライターのはしりとも評される。

・浄瑠璃作者としては福内鬼外の筆名で執筆。時代物を多く手がけ、作品の多くは五段形式や多段形式で、世話物の要素が加わっていると評価される。江戸に狂歌が流行するきっかけとなった大田南畝の『寝惚先生文集』に序文を寄せている他、風来山人の筆名で、後世に傑作として名高い『長枕褥合戦』や『萎陰隠逸伝』などの春本まで残している。衆道関連の著作として、水虎山人名義により 1764年(明和元年)に『菊の園』、安永4年(1775年)に『男色細見』の陰間茶屋案内書を著わした。

・鈴木春信と共に絵暦交換会を催し、浮世絵の隆盛に一役買った他、博覧会の開催を提案、江戸湯島で日本初の博覧会「東都薬品会」が開催された。
・文章の「起承転結」を説明する際によく使われる「京都三条糸屋の娘 姉は十八妹は十五 諸国大名弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す 」の作者との説がある。














「二宮忠八物語」

2021-11-17 08:57:47 | 日本

◎好奇心お旺盛な子供時代

二宮忠八(にのみやちゅうはち)は、1866年(慶応2年)伊予国宇和郡八幡浜浦矢野町(愛媛県八幡浜市矢野町)に生まれた。幼い頃から好奇心旺盛だった忠八は、手作りの凧で遊ぶことを覚えたが、忠八が12歳のときに若くして父を亡くしてしまったために奉公に出て働く。忠八の作った奇抜な凧は、周囲の人間を大変驚かせ、好評を博したという。この経験が後の飛行機作りの要因になったともいわれている。


◎カラスの滑空してくる姿を見て飛行機原理を発見

明治20(1887)年、忠八は21歳で徴兵され、丸亀歩兵第12連隊に入隊した。その2年後、野外演習の帰り道のこと、仲多度郡十郷村(現在のまんのう町)もみの木峠で昼食をとっている時、ふと霧の中から残飯を求めて滑空してくるカラスに注目する。カラスは翼を広げ、羽ばたくことなくすべるように舞い降りてくる。飛び立つときには何度か大きく羽をあおって、すぐに谷底からの上昇気流に乗って舞い上がっていく。その様子を見ながら忠八は、向かってくる風を翼で受け止め、その空気抵抗を利用すれば、翼を羽ばたかなくても空を飛ぶことができるのではないか、と考えた。飛行原理の発見である。その日から忠八は空を飛ぶことの研究に没頭。休みのたびに研究を重ね、ついに1年後、「カラス型模型飛行器」を完成させた。飛行実験では、10メートル飛んだ。その後、自由に空を飛べる二枚翼の「玉虫型飛行器」の実用機の完成を目指し、何度も軍に上申して、日夜研究を重ねたが、あと一歩のところでライト兄弟が有人飛行機を飛ばし先を越されてしまったのであった。


◎日本の航空機の父

晩年は、自らの考えていた飛行機が現実に世界の空を飛び交うようになったとき、その事故による犠牲者の多さを嘆き、自宅に「飛行神社」を建立し、航空界の安全と航空殉難者の慰霊に一生をそそいだ。
 
忠八の功績は、有人飛行機を飛ばすには至らなかったが、ライト兄弟が成功する14年も前に飛行原理に着想していたこと。また、忠八が研究に費やした時代背景は、まだ日本に電気はなく、動力もままならない時代でもあったにもかかわらず、夢の実現に向けて研究に没頭した人生は、近年「日本の航空機の父」または「飛行機の真の発明者」と称されるようになった。
 
忠八は昭和11年、70歳でその人生を終えた。忠八は人生でただ一度だけ飛行機に乗ったことがある。この時飛行機で飛んだ気持ちは、若いころ毎晩夢で見ていた飛行機に乗る気持ちと全く変わらなかった、と忠八は言ったという。忠八を飛行器の開発にか駆り立てていたのはきっと少年の日に胸にあった空への大きな大きな夢だったのだろう。













「二宮忠八という人物」

2021-11-16 07:08:50 | 日本

二宮忠八(にのみや ちゅうはち、慶応2年6月9日(1866年7月20日)- 1936年(昭和11年)4月8日)は、明治時代の航空機研究者。伊予国宇和郡八幡浜浦矢野町(現・愛媛県八幡浜市矢野町)出身。

陸軍従軍中の1889年、「飛行器」を考案。その翌年には、ゴム動力による「模型飛行器」を製作。軍用として「飛行器」の実用化へ繋げる申請を軍へ三度行なうも理解されず、以後は独自に人間が乗れる実機の開発を目指したが、完成には至らなかった。
なお、「飛行器」とは忠八本人の命名による。忠八の死から18年後の1954年、英国王立航空協会は自国の展示場へ忠八の「玉虫型飛行器」の模型を展示し、彼のことを「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物」と紹介している。


◎生い立ち

八幡浜の商家の四男坊として生まれる。父は幸蔵、母はきた。忠八が出生したころの家は富裕であったが、まもなく事業に失敗し、また2人の兄による放蕩、さらに父幸蔵が忠八12歳の時に若くして亡くなり家は困窮した。忠八は生計を得るため、町の雑貨店や印刷所の文選工、薬屋などで働くかたわら、物理学や化学の書物を夜遅くまで読み耽けっていた。また、収入の足しに学資を得るために自ら考案した凧を作って売り、この凧は「忠八凧」と呼ばれて人気を博したという。この経験が後の飛行機作りの原型になったともいわれる。錦絵に描かれた気球にも空への憧れをかきたてられ、気球を付けた凧を作ったこともあった。


◎飛行への着想

1887年(明治20年)、忠八は徴兵され、香川県の丸亀歩兵第12連隊第1大隊に入隊した。ある日(1889年11月のことという)、忠八は野外演習の休憩で昼食を取っているときに滑空しているカラスを見て、羽ばたいていないのに気付く。そして、翼で向かってくる風を受けとめることができれば、空を飛べるのではないかと考えた(固定翼の着想)。


◎カラス型飛行器

それを基に忠八は、「模型飛行器」を作成。これがいわゆる「烏(からす)型飛行器」である。主翼は単葉で上反角を持ち、翼幅は45cm。全長は35cm。機尾に水平尾翼、機首に垂直安定板があった。また三輪を備えていた。推進力はゴムひも(陸軍病院勤務であった忠八は聴診器のゴム管を流用した)で駆動される推進式の四枚羽プロペラであった。1891年(明治24年)4月29日、3mの自力滑走の後、離陸して10mを飛行させて、日本初のプロペラ飛行実験を成功させた。翌日には手投げ発進の後、約36mを飛行させた。


◎玉虫型飛行器

飛行中の復元RC模型
2年後の明治26年(1893年)10月には有人飛行を前提にした飛行機「玉虫型飛行器」の縮小模型(翼幅2m)を作成。これは無尾翼の複葉で、下の翼(上の翼に比べると小さい)は可動であり操縦翼面として働く設計だった。烏型と同様に四枚羽の推進式プロペラを機尾に備えていたが、動力源については未解決であった。日清戦争時に衛生卒として赴いた忠八は、戦場での「飛行器」の有効性について考え、有人の「玉虫型飛行器」の開発を上司である参謀の長岡外史大佐と大島義昌旅団長に上申したが、却下された。長岡は「戦時中である」という理由であった。また大島には戦地の病気で帰国し、戦争が終わった頃に尋ねてみたところ、「本当に空を飛んだら聞いてもよい」という返答が帰ってきた。当時は軍も観測気球が利用されていたが、飛行機の開発に乗り気ではないと感じた忠八は退役し、まずは製作資金を作ってから独力で研究することにした。

大日本製薬株式会社に入社し、業績を挙げて1906年(明治39年)に支社長にまで昇進する。この時期は資金をまかなえず、ほかにスポンサーも現れなかったため飛行器の開発は停滞した。この間、1903年(明治36年)12月17日、ついにライト兄弟が有人動力飛行に成功する。しかしこのニュースはすぐには日本には伝わらず、なおも忠八は飛行器への情熱を持ち続けていた。
支社長就任後ようやく資金的な目処も立ち、忠八は研究を再開する。従軍当時に新聞記事でオートバイのガソリンエンジンを知り、これを動力に利用できないかと考えていた忠八は、1908年(明治41年)に精米器用の2馬力のガソリンエンジンを購入した。しかしこれでは力不足であることがわかり、ついで12馬力のエンジン(偶然にもライト兄弟の「フライヤー1」と同じ出力)を自作する構想を立てた。
しかし、その矢先にライト兄弟の飛行機を新聞で知ることとなる。世界初の有人動力飛行という快挙を逃した忠八は大いに嘆き、飛行器の枠組みをハンマーで破壊してしまった。以後、二宮は飛行器の開発から離れて製薬の仕事に打ち込むとともに、1909年(明治42年)には食塩製造業のマルニを創業した。


◎遅かった評価

1919年(大正8年)、同じ愛媛県出身の陸軍中将(当時)・白川義則と懇談した際に、忠八は以前飛行機の上申をしたが却下されたことを告げ、白川が専門家に諮ってみるとその内容は技術的に正しいことがわかった。
ようやく軍部は忠八の研究を評価し、大正11年(1922年)、忠八を表彰、その後も数々の表彰を受けた。1925年(大正14年)9月、安達謙蔵逓信大臣から銀瓶1対を授与され、1926年(大正15年)5月、帝国飛行協会総裁久邇宮邦彦王から有功章を受章、1927年(昭和2年)勲六等に叙せられ、昭和12年度から国定教科書に掲載された。すでに陸軍を退役していた長岡外史は直接忠八のもとを訪れ、謝罪した。
忠八はその後、飛行機事故で死去した多くの人を弔うために京都府八幡市に飛行神社を設立、自ら神主になっている。晩年は幡山と号して、七音五字四句一詞の形を「幡詞」と名づけ、幡詞会をもうけ、『幡詞』を著した。


◎世界航空機史上における位置付け

当時欧米で有人飛行を目指す流れは、
・模型飛行機の実験を行い、それを人が乗れる大きさに拡大したものを製作する
・グライダーによる滑空実験を行い、操縦技術を確立してからグライダーに動力を取り付ける
の2つに大別され、ライト兄弟はこの両方の研究成果を受け継ぎつつ後者の道を選んだ。兄弟は3000回以上の滑空と風洞をはじめとする科学的で綿密な実験結果に基づいて操縦者の意思で飛行する最初の飛行機を制作した。一方、忠八の研究は91年、愛媛県八幡浜市において自筆の設計図を元に実物大の飛行器復元模型が制作され、有人動力飛行実験に成功した事で飛行理論の正しさは証明されたものの、その研究の過程や計画が研究途上で明確な位置付けがまだできず、海外の研究者の着目が少ない。


◎近年の見解

日本では近年「日本の航空機の父」という評価が高まりつつあり、その先見性や独創性が一般に知られるに従ってメディアで取り上げられることも多くなった。ライト兄弟の初飛行に先立ち動力付き有人飛行機を着想するも、金銭的事情で研究が進展せず有人飛行を断念したが、黎明期の先駆者としての功績と才能、様々な逸話、人格等、世界的な発見や功績は挙げていないものの、日本航空機史上へ名を刻むに足る人物として認知されつつある。
一方で実際にはゴム動力の模型飛行機はフランスで1871年にすでに製作され飛行しているにもかかわらず、「飛行機の真の発明者」「世界で最初に模型飛行機を製作」と報じる等、忠八の研究活動や航空史の流れを全く理解していない例も散見されたり(航空に関する年表も参照)、情報や認識が錯綜している。また忠八の作った航空機は人力航空機で、動力航空機とはかけ離れており過大評価されているとの意見もある。その活動について、安定した評価は形成されていない。


◎その他

・忠八がカラスを見て飛行の原理を着想したのは、香川県まんのう町追上の樅ノ木峠であったとされる。その故事にちなみ、同地には1966年(昭和41年)に二宮飛行公園が、1991年(平成3年)には二宮飛行神社が整備開設された。さらに2006年(平成18年)3月17日、「道の駅空の夢もみの木パーク」の隣接地に「二宮忠八飛行館」が開館した。玉虫形飛行器の複製模型をはじめとした再現模型や書簡などが展示されている。なお、同地への公共交通は平日のみ一日4本の旧仲南町町内巡回バスしかない。

・1991年には、忠八の故郷である八幡浜市で行われた「やわたはまみなと祭」の一環として、玉虫型飛行器のレプリカ機である超軽量動力機「二宮式玉虫型飛行器-R447型」が製作された。改設計・製作は日本大学理工学部の専任講師によって行われ、同年4月に完成。10月20日に開催されたやわたはまみなと祭でジャンプ飛行を行ったが、離陸直後に高度30 cmほどまで達したところで右前方向からの横風によって横転し、観客の中に墜落。観客1名が重傷を、2名が軽傷を負い機体は小破した。なお、この機体は忠八による原設計には無い垂直・水平尾翼を有しているなどの改設計が加えられていた。

・ライト兄弟の初飛行はアメリカ国内ですらほとんど報道されなかった。また、その後兄弟が(アイディアの盗用を恐れて)なかなか公開飛行を行わなかったため、広く知られるようになったのは1908~9年頃である(村岡正明『航空事始』(東京書籍、1992年)によれば、日本で初めて報じられたのは、雑誌『科学世界』の明治40年(1907年)11月号だという)。日本の新聞記事等からもこのことは裏付けられ、忠八がライト兄弟の飛行機を知ったのもその時期と考えられる。鈴木真二の著書『飛行機物語』(中公新書、2003年)では、忠八がライト兄弟の飛行機を知ったのは1909年10月3日付の新聞(紙名は記載なし)であると記している。村岡正明は、1907年3月25日の「萬朝報」におけるアルベルト・サントス・デュモンの飛行記事によって、二宮が外国人の初飛行を知ったと推測している。

・飛行機発明以来、航空事故が多発するようになったことに心を痛めた忠八は、事故犠牲者の慰霊が飛行機開発に携わった者としての責任だと感じ、私財を投じて犠牲者の霊を祀る飛行神社を京都府八幡市に創建し、自ら神官となった。安全祈願に訪れる航空、宇宙業界関係者が多く、例祭では飛行機からの参拝も実施される。

・2017年1月、名古屋市立工業高等学校の生徒が忠八の機体を参考にして設計・製作した有人動力飛行機が、津市で約70メートルの飛行に成功した。




「シーボルトの生涯」

2021-11-15 06:42:49 | 日本

◎シーボルトの生い立ち

シーボルトは、1796年2月17日にドイツのヴュルツブルクという町で、医学者の家に生まれました。ヴュルツブルク大学医学部に入学し、医学をはじめ動物学・植物学・民族学などを学びました。大学を卒業したあと、近くの町で医者として働いていましたが、見知らぬ国の自然を勉強したくて、そのころ世界中で貿易をしていたオランダの陸軍軍医となりました。
シーボルトは、オランダの命令で日本へ行くことになりました。それもただの医者としてだけではなく日本との貿易のために日本のことについて調べるようにも命じられていました。


◎シーボルトの活動

シーボルトは、1823年8月11日 (文政6年7月6日)に、長崎へ到着しました。
そのころ日本に来た外国人は、出島から出てはいけませんでしたが、シーボルトはすぐれた医者でしたので長崎の町に出て病人を診察することを特別に許されました。
シーボルトは、長崎に来た翌年、長崎の鳴滝(なるたき)にあった家を手に入れました。彼はここに「鳴滝塾」を開き、日本各地から集まってきた医者たちに医学などを教えています。ここで学んだ人々は、やがて医者や学者として活躍しました。
シーボルトは、この家に何人かの生徒たちを住まわせて、自分の日本研究の手伝いをしてもらいました。手伝ってくれた人には、医学を勉強した証明書をあげたり、医学の本や器具などを与えました。 また、シーボルトも日本人から日本のことをいろいろと教えてもらいました。


◎シーボルトの江戸参府

シーボルトは、1826年(文政9)、オランダ商館長の江戸参府に同行しました。当時の日本では、外国人が日本の国を自由に旅行することを禁止されていましたので、シーボルトにとって日本のことを調べる絶好の機会でした。旅の途中で植物や動物の採取をしたり、気温や山の高さをはかったりしました。また、多くの日本人が病気やけがの治療法(ちりょうほう)や西洋の知識を教わりにきました。
江戸では、将軍や幕府の役人にあいさつをしたり、多くの医者や学者に会ってお互いの知識や情報を交換したり、日本研究に役立てるための品物をもらったりしました。この旅行の時に集めた本や絵、いろいろな品物は、船でオランダまで送られました。シーボルトは、日本から帰った後に、調べたことを本で紹介したり、集めたものを博物館で見せたりしています。


◎シーボルト事件と国外追放

江戸参府のあと、「シーボルト事件」が起こりました。これは、シーボルトが日本調査のため集めた品物の中に、日本地図や将軍家の家紋である葵の紋付きの着物など、そのころ日本から持ち出すことが禁じられていたものがあったからです。長い取り調べのあと、関係があった人びとは処罰され、シーボルトは国外追放(2度と日本に来てはならない)を申し渡されました。
シーボルトは、生徒たちに別れをつげて、オランダに帰国しました。ヨーロッパに帰ったシーボルトは日本で集めた資料や知識をもとに、日本についての本格的な研究書である『日本(ニッポン)』や、日本の植物・動物を紹介する『日本植物誌(にほんしょくぶつし)』『日本動物誌(にほんどうぶつし)』などを書いて出版しました。また、日本の植物を栽培し、ヨーロッパに普及させました。


◎ふたたび日本に来る

シーボルトが日本をさって30年後、国外追放がとかれ、1859年(安政6)、ふたたび日本に来ることができました。長崎に到着したシーボルトは、なつかしい鳴滝に住み、昔の門人たちや娘・いねたちと交流しながら日本研究を続けました。また、幕府にまねかれて、江戸でヨーロッパの学問を教えました。3年後に日本をさり、1866年10月18日、ドイツのミュンヘンで70歳で亡くなりました。


◎シーボルトと楠本たき・いね

シーボルトは長崎の女性・楠本たきとむすばれ、彼女を「オタクサ」と呼んでいました。やがてシーボルトは、はじめてみる美しい花(アジサイ)に出会い、その花に愛する人の名をとり 「ヒドランゲア・オタクサ」と名づけ、『日本植物誌』に掲載しました。二人の間には文政10年(1827)、娘・いねが生まれました。いねは父と同じ医学の道をこころざし、石井宗謙・二宮敬作・ポンペらに医学を学び医師として活躍しました。長崎や東京で開業し、明治6年(1873)、明治天皇の若宮が誕生するときには、宮内省御用掛となり、出産に立ち会いました。明治36年(1903)、東京で亡くなりました。


◎日本初の女医となった娘イネ

其扇(そのおおぎ)は本名を「たき」という。先祖は長崎から西南方向に長く突き出た半島の先端に位置した「野母」(のも)の人で、その後、代々銅座跡に住居を構えていた。父が31歳、母が25歳の年に、たきは4番目の娘として生まれた。
父の佐兵衛は銅座跡でこんにゃく商を広く営み、奉公人も数多く使っていたが、数年前手違いが生じて借財をし、商売も思わしくなく、家も人手に渡る悲運に見舞われた。万策尽きた佐兵衛は長女つねを遊女奉公に出した。

「つねは美しい女であったが、たきは、さらに美しかった。少女の頃から近隣でも評判で、丸山の遊女屋の中で最も格式の高い引田屋から奉公に出るよう強い勧めがあった。たきもつねに次いで遊女になり、引田屋抱えになった。たきは15歳の歳で、其扇という源氏名が付けられた」(吉村昭著『ふぉん・しいほるとの娘』上)。

シーボルトが彼女に強い関心を持ち、なじみになるまでに時間はかからなかった。其扇が第一子を身ごもったのは1825年、19歳のときだった。この子の名前をイネと呼ぶ。イネはその後、日本初の女性産科医になった。


<了>









「シーボルト事件とは、」

2021-11-14 09:07:36 | 日本

シーボルトについて学ぶ。



シーボルト事件は、江戸時代後期の1828年にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが国禁である日本地図などを日本国外に持ち出そうとして発覚した事件。役人や門人らが多数処刑された。1825年には異国船打払令が出されており、およそ外交は緊張状態にあった。


◎概要

文政11年(1828年)9月、オランダ商館付の医師であるシーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死した(その後死罪判決を受け、景保の子供らも遠島となった)。シーボルトは文政12年(1829年)に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けた。当時、この事件は間宮林蔵の密告によるものと信じられた。
樺太東岸の資料を求めていた景保にシーボルトがクルーゼンシュテルンの『世界周航記』などを贈り、その代わりに、景保が伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の縮図をシーボルトに贈った。この縮図をシーボルトが国外に持ち出そうとした。


◎事件の発端

シーボルトは、江戸で幕府天文方高橋景保のもとに保管されていた伊能図を見せられた。地図は禁制品扱いであったが、高橋はその写しをシーボルトに渡した。後のシーボルト事件はこの禁制の地図の写しを持ち出したことにあった。


◎事件の露見

シーボルトらが1826年7月に江戸参府から出島に帰還し、この旅行で1000点以上の日本名・漢字名植物標本を蒐集できたが、日本の北方の植物にも興味をもち、間宮林蔵が蝦夷地で採取した押し葉標本を手に入れたく、間宮宛に丁重な手紙と布地を送ったが、間宮は外国人との私的な贈答は国禁に触れると考え、開封せずに上司に提出した。
高橋景保と間宮林蔵のあいだには確執があったといわれる。間宮がシーボルトから受け取った手紙の内容が発端となり、多くの日本人と高橋景保は捕らえられ取調べを受けることになり、日本地図の返還を拒否したためシーボルト自身も処分の決定を待つことになってしまった。


◎蘭船積み荷発覚説

旧来の説では禁制品を積んだ船が暴風雨(いわゆるシーボルト台風)に見舞われて座礁し、積み荷から地図などが発見されたという蘭船積み荷発覚説が知られていた。


◎江戸露見説

1996年に旧来の説を否定する論文が出され、オランダ商館長の日記や長崎商人の中野用助による報告書の写しから江戸で露見したとする江戸露見説が有力になっている。
長崎市鳴滝にあるシーボルト記念館の研究報告書である『鳴滝紀要』第六号(1996年)発表の梶輝行の論文「蘭船コルネリウス・ハウトマン号とシーボルト事件」で、これまで通説だった暴風雨で座礁した船中から地図等のご禁制の品々が発見されたという説が後日の創作であることが判明した。コルネリウス・デ・ハウトマン号は1828年10月に出航を予定していたが、同年9月17日夜半から18日未明に西日本を襲った猛烈な台風(いわゆるシーボルト台風)で座礁し、同年12月まで離礁できなかったのである。従来の説は壊滅的な被害を受けて座礁した船の中から、禁制品の地図類や三つ葉葵の紋付帷子などが見つかっていたことになっていたが、座礁した船の臨検もなくそのままにされ、船に積み込まれていたのは船体の安定を保つためのバラスト用の銅500ピコルだけだった。
2019年、三井越後屋の長崎代理店をしていた中野用助が江戸に送った報告書を本店で写した資料が見つかった。中野の報告書によると事件は江戸で露見し、飛脚で長崎に通報され、長崎奉行所がシーボルトを取り調べて様々な禁制品が見つかったと述べられており、オランダ側の資料とも一致する内容となっている。


◎関係者の取り調べと処分

江戸で高橋景保が逮捕され、これを受けてシーボルトへ高橋より送った「日本地図其の他、シーボルト所持致し居り候」ため、シーボルトの所持する日本地図を押収する内命が長崎奉行所にもたらされ、出島のシーボルトは訊問と家宅捜索をうけた。軟禁状態のシーボルトは研究と植物の乾燥や動物の剥製つくりをしてすごしたが、今までの収集品が無事オランダやバタヴィアに搬出できるかどうか心配であり、コレクションの中には個人的に蒐集していた標本や絵画も所有しており、これが彼一人の自由には出来なくなっていた。

シーボルトは訊問で科学的な目的のためだけに情報を求めたと主張し、捕まった多くの日本人の友人を助けようと彼らに罪を負わせることを拒絶した。自ら日本の民になり、残りの人生を日本に留まることで人質となることさえ申し出た。高橋は1829年3月獄死し、自分の身も危ぶまれたが、シーボルトの陳述は多くの友人と彼を手伝った人々を救ったといわれている。しかし、日本の地図を持ち出すことは禁制だと彼自身知っていたはずであり、日本近海の海底の深度測定など、スパイの疑惑が晴れたわけではなく、シーボルトは国外追放処分となった。
シーボルトは高野長英から、医師以外の肩書は何か、と問われて、「コンテンス・ポンテー・ヲルテ」とラテン語で答えたと渡辺崋山が書いているが、これは「コレスポンデントヴェルデ」であり、内情探索官と訳すべきものである。


◎事件後

シーボルトは安政5年(1858年)の日蘭修好通商条約の締結により追放が解除となり、翌安政6年(1859年)に長男アレクサンダーを伴って再来日し、幕府の外交顧問となっている。
なお、2度目の来日中の文久2年(1862年)にも、秘書役であった三瀬諸淵が、シーボルトのために日本の歴史書を翻訳した罪で捕らえられるという事件が起きている。一方、シーボルトの孫娘にあたる三瀬諸淵の妻楠本高子の手記によると、原因は他のところにあったとされている。