龍の声

龍の声は、天の声

「ご飯か食パンかの時代に別れを告げる日本食①」

2014-01-31 08:44:42 | 日本

白田茜さんの論文が興味深い。
今、朝食が脚光を浴びている。“世界一の朝食”として話題となった「bills(ビルズ)」など海外のパンケーキ店の日本進出も相次ぎ、有名店は行列待ちの人気ぶりだ。パンケーキの次はグラノーラの人気に火がつき、朝食ブームはまだまだ続きそうだ。外食産業も、朝食時間帯への新規参入や朝メニューの拡充に力を入れている。朝食ブームの背景を探ってみたい。
以下、要約し、2回に渡り記す。



朝食市場活況の背景にあるのが朝の時間を有効に活用する“朝活”ブームだ。“自分の時間”を夜から朝にシフトし、早朝からランニングや勉強、ミーティングなど充実した朝時間を過ごす人たちが増えている。早朝から営業する英会話スクールやフィットネスクラブなども増えた。

2009年4月には、出勤前に地域プロジェクトや農業、課題解決スキルなど幅広い知識を実践的に学ぶことができる「丸の内朝大学」がスタート。朝の朝食勉強会「Early Bird(アーリーバード)」や「Before 9 プロジェクト」など様々な朝の勉強会が開催されている。

こうした朝活によく利用されるのがカフェだ。夜に開催される異業種交流会では食事や会場代などで数千円から1万円かかることもあり、参加するハードルが高い。だが、朝食会はコーヒー1杯程度の負担で気軽に参加できる。
ファミリーレストランやカフェチェーン、ファストフード、駅構内にある“エキナカ”レストランなども、こぞって朝食専用メニューを強化している。朝ごはんを外で食べる人たちは「ソトアサ族」と呼ばれるようになった。食品メーカーでも朝の時間帯に合わせた商品が次々と開発されている。

日本人の起床時間も早くなってきている。総務省の「社会生活基本調査」によれば、日本人の平均起床時刻は2001年が6時42分だった。2006年には6時39分となり、2011年には6時37分になっている。日本人の“朝型化”が進んでいるように思える。

外で朝食を食べる習慣がなかった頃、いち早く朝食メニューを出していたのが「日本マクドナルド」だ。同社が朝食メニュー「朝マック」を始めたのが1985年。マフィンやホットケーキなど、朝食に適した軽めのメニューが人気となった。

2013年1月には、「朝マック」を強化すると発表。300円の新しい低料金セットメニューを発売するほか、従来の朝食セットを値下げした。ほかのファストフード店でも、「ロッテリア」や「バーガーキング」などが次々に朝食メニューを提供してきた。

ファミリーレストランは、1990年代後半頃から朝食市場にてこ入れしてきた。いち早く朝食メニューを提供してきたのが「デニーズ」だ。以降、「すかいらーく」「ガスト」「ジョナサン」などが相次ぎ朝食市場に参入してきた。

カフェでは「スターバックス コーヒージャパン」が2007年9月に朝食向きメニューを大幅に拡充。「スターバックス コーヒーで始まるアクティブな一日」をコンセプトに、「ゆとりのある気持ちいい朝」(同社ホームページ)を提案していくという。

ファストフードやファミレス以外にも、ソトアサ族に欠かせない存在になりつつあるのが、“エキナカ”だ。JRの首都圏エキナカでレストランを展開するジェイアール東日本フードビジネスは、「ベックスコーヒーショップ」や「カフェデンマルク」など2012年末時点で237店舗を運営している。中でも回転寿司チェーン「うず潮」ではおかずを選べる「回転朝食」を導入。朝食をさっと済ませたい食べたいビシネスマンの集客を狙う。
外食産業が朝食に力を入れている背景には、前述の朝活ブームのほかにも、少子高齢化が進み、外食産業の市場規模が縮小し続けていることがあると考えられる。夜の飲食の需要が減り、朝の時間帯での新たな集客を狙っているのだ。

もちろん、飲食店にとって朝食市場の開拓は容易ではない。しかし、朝食では繰り返し利用する固定客が多いという。早朝は散歩帰りの高齢者、出勤前のサラリーマン、子供を送り出した後の母親など様々な客の需要があり、固定客のリピートが見込まれるのだ。







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「万能薬念 キムチの作り方」

2014-01-30 08:33:45 | 日本

韓国の家庭の食卓のように、サラダのように、毎日もりもりキムチを食べたい。
身近な野菜と「キムチの素」で、簡単に本格派のキムチをつくってみよう!

「大根、白菜取り入れて、漬物漬けよう。唐辛子、にんにく、塩辛を程よく入れ、大瓶にも漬け、中瓶にも漬け、小瓶や壺にも漬けなされ……」

これは昔々のキムチづくり奨励の唄。
かの地の人々にとってキムチがどれほど大切なものであったか。いや、それは現代でも同じだ。

デパートのキムチ売り場や市場に行けば、白菜、大根、えごまの葉、からし菜、きゅうり、芋づる、たんぽぽの根っこに似たもの、山菜、日本では見たことのない葉物のキムチも並んでいる。しかしこれらはほんの一部。大根一つにしても小さな大根、間引いたものの葉を賞味するもの、大きな大根など数種もあるし、郷土の特産品まで含めるとその数は200とも400種類ともいわれている。

ヘルシーかつ、美しい肌をつくるキムチを自分でもつくってみたい。とはいえ、キムチは日本の漬物のように、極端にいえば塩と糠があればできるものではなく、複合的な旨味を出すための調味料からして複雑だ。そして、出来上がったキムチを適温で保存し、ゆるやかに発酵を促すキムチ冷蔵庫もない。本場の味をつくり出すのは、至難の業かもしれない。

そこで、この対応策として、チェ・ジウンさんの万能薬念(ヤンニョム)、いわば自家製「キムチの素」を伝授する。これさえ仕込んでおけば、思い立ったときにすぐキムチを漬けられるし、ご飯のおかずになる。

万能薬念のポイントは、ベースとなる、もち粉でつくる糊。この糊が、発酵を早める効果と優しい甘味を添えることで、漬けてすぐにおいしく食べることができるのだ。
ポイントはほかにもある。薬念の味つけは控えめに。仕上げで、塩や甘味を足して好みの味に調整できるようにするためだ。下処理した野菜の量の1割程度の薬念をからめ、様子を見るといい。野菜は、均一に味がなじむよう厚さや大きさを揃えること。野菜と薬念を混ぜるときは、力を入れず指先にまで神経を行き渡らせて、優しい手の動きで軽やかに混ぜ合わせること。力を入れすぎると食感に影響が出るからだ。

すぐに食べきらないキムチも、室温、野菜のもつ水分、冷蔵庫の温度によって発酵の進み具合が変わるので、自分の舌で判断しながらおいしく楽しんでほしい。

◎チェさんの万能薬念

【材料(つくりやすい分量)】

もち粉…大さじ2、玉ねぎ…150g、大根…250g、梨…大1/2個、にんにく…60g、生姜…10g、アミの塩辛(汁ごと)…1/3カップ、カナリエキス(イカナゴの魚醤)…2/3カップ、梅エキス(または砂糖)…大さじ2、粗挽き唐辛子…100g、細挽き唐辛子…20g
※梨が手に入らない場合は、りんご中1個でも可

(1)もち粉で糊をつくる。小鍋にもち粉と水200mlを入れてよく溶き、中火にかける。焦げつかないように木杓子で絶えず混ぜながら加熱。とろみがつき透明感が出て、全体にフツフツと泡が立ったら火を止めて完全に冷ます。

(2)玉ねぎ、大根、にんにく、生姜は適当な大きさに切り、梨はすりおろして汁を搾る。ミキサーに(1)の糊、その他の材料をすべて入れる。

(3)全体になめらかになるまでミキサーを回す。味をみて塩気が欲しい場合はカナリエキスを、甘味が欲しい場合は梅エキスまたは砂糖を足す。約5カップできるが、ここから適量をキムチに使う。残った薬念は冷凍保存できる。








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「ペットボトルの弊害」

2014-01-29 07:41:32 | 日本

アメリカのマーコラ博士の「ペットボトルの弊害」についての発表がある。
以下、要約し記す。



アメリカではペットボトルの健康被害は有名なようだが、日本ではまだあまり問題視されていないらしい。水に限らず、なるべくペットボトルのドリンクは飲まない方が良い。


◎プラスティックの危険性

プラスティックボトルから水を飲むことにより、あなたと家族の健康は深刻な健康リスクにさらされる。いくつか例をあげてみよう。ボトルウォーターは、これまで信じ込まされてきたような、健康的な選択肢ではないとおわかりいただけるだろう。

プラスティックがほとんどのボトルウォーターの抱える問題であることは言うまでもない。家庭などで浄水器を通した水、さらには汲みあげたままの湧き水であっても、飲む時までプラスティックの容器で保管すれば、その害が及ぶことになる。水の容器に最適なのはガラスである。プラスティック容器を使うと、以下のような化学物質に曝露される可能性があるからだ。

▶ BPA(ビスフェノールA)
ビスフェノールAは、エストロゲン様作用を持つ化学物質であり、次のような多くの深刻な健康被害に関与している。

・学習・行動障害
・免疫系への影響
・女子の早熟・生殖機能への影響
・精子数の減少
・前立腺がん・乳がん
・糖尿病・肥満

妊娠・授乳中であれば、その子もリスクにさらされる。もし乳幼児にプラスティック食器を使わせているのなら、ビスフェノールA汚染を避けるためガラス食器に替えよう。

▶ フタル酸エステル類
フタル酸エステル類は、塩化ビニル(PVC)などのプラスティックを柔らかくするため米国では広く使われている。

フタル酸エステル類は内分泌かく乱物質で、次のような多くの発育・生殖機能異常に関与している。

・精子数の減少
・精巣の萎縮・奇形
・肝臓がん

さらにラットを使った実験では、胎児の男性ホルモンの働きを阻害することが実証されている。これは男児の性分化に影響するもので、誕生時の停留睾丸や、その後の精巣腫瘍の原因となる。

母親が妊娠中に多量のフタル酸エステル類の曝露を受けた男児には、男性性徴が失われる傾向があり、テストステロン(訳注:男性ホルモン)の生産量が少ないことも研究から明らかになっている。

さらに他の研究では、母親が妊娠中にフタル酸エステル類に曝露された場合、曝露されていない女性より1週間以上早産になることもわかっている。

毎日飲んでいる水のなかには、本来混じってはいけない薬品が、混じって溶け込んでいる。薬剤アレルギーの人は何百万といる。あなたはどうだろう? もしアレルギー持ちだとしたら、あなたが悩まされている珍しい症状が、ボトルウォーターに含まれる微量の薬品に対するアレルギーでないと言い切れるだろうか?

店で買ったボトルウォーターをそのまま飲んでも深刻な健康リスクがあるが、炎天下、車や自転車のホルダーに放置した場合は、より化学物質の曝露量が多くなる。太陽からの紫外線や高温により、前述した化学物質の水への浸出は加速する。

炎天下にボトルウォーターを放置した場合、ダイオキシンという有毒物質が水に溶けだす。ダイオキシンは、乳がんの発生に大きく関与している。

健康志向の人々は、出先でも安心して飲めるよう、自宅で浄水した水を持参したがるが、その場合はガラスかスチールのボトルを使うことで、プラスティック由来のリスクを回避できるだろう。








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「正しい水の飲み方選び方」

2014-01-28 08:35:46 | 日本

藤田鉱一郎著「正しい水の飲み方選び方」を読んだ。すごく参考になるもで、以下、重点をまとめてみた。


人間の体は、成人の男性で約60%、女性で約55%が水分で占められている。 3、 4日ぐらいは、あるいは極限状態であれば、人間は1週間前後は食べなくとも生きられる。だが、 3日くらい水分をとらなければ脱水症状で確実に死を迎える。

人間は体内の水分がわずか1%減少しただけで、喉の渇きを感じる。体内の水分量を3%も減らすと、喉の渇きの感覚がなくなってしまう。その先に待ち受けているのは、脱水症状、そして死である。脱水症状といっても体内の20%、30%もの水分が失われるわけでは無い。3%で渇きに麻痺してしまった体は、わずか6%の減少によって水分調整の働きを失い、脱水症状になってしまう。たった6%と言う数に驚く人多いのではないだろうか。10%にも満たない水の減少によって命の危機に瀕し、そのまま脱水状態が進み、10%の水分を失うと、完全に危機的状態を迎える。そして20%を超すと、私たちは生きていけないのである。

1日2ℓの水分補給が長寿達成を成し遂げる水分の摂取の目安となる。

飲み方は、がぶ飲みせずに、ちびちびとゆっくり、こまめに飲むことが大切である。 30分おきにコップ1杯飲むのが理想である。1日20回、コップ1杯飲むことを目標にして欲しい。

動脈硬化を予防し、心筋梗塞、脳梗塞から身を守るためには、軟水よりも硬水の方が良い。硬水に多く含まれているカルシウムとマグネシウムが血管を強くさて、血液もサラサラにするからである。

飲み方の目安としては、起床時に先ず1杯、午前中に1杯、午後に2杯、寝る前に1杯となる。特に忘れてはならないのは、就寝前の1杯である。これを「宝水」と言う。理由は、脳梗塞の発症が就寝中の午前中に多いからである。

眠りに入る前の水は、脳に集まっていた血管を胃腸に導き、緊張感をほぐすことで眠りやすくなる効果もある。したがって脳を覚醒させないように、ややぬるめの水を飲むことが大切である。反対に、朝目覚めたときには冷たい水をコップ1杯飲むのがおすすめである。朝の1杯は、胃腸を適度に刺激する一方で、血液やリンパ液として体内に届き老廃物を押し流す効果、つまり便意が催される。水によって食欲も増すのである。

水を飲むだけで「ガン」にならない水、『スーパーライトウォーター』日本では重水減少水と呼ばれている。重水はかなり高価な特別な水であるが、重水の濃度が低下するとともに、ガン細胞の成長が鈍化することを発見した。

更年期障害には、海洋深層水で早い目に対策をすること。

更年期障害の特徴の1つは、皮膚や粘膜が極端に乾燥することで、その原因は細胞間の水分を保持する働きをしている「ムコ多糖」の減少にあると考えられている。「ムコ多糖」は、山芋や里芋といったぬるぬる系の食品や魚のカレイ、鶏の手羽先などに多く含まれているが、体内では加齢とともに減少してしまう。
更年期障害の症状としてよく見られる、肩こりや腰痛、眼精疲労も「ムコ多糖」の減少によってなってくる。更年期障害を起こす主犯は、「ムコ多糖」と断言してもいい。効果的なのは、気持ちのイライラを抑える硬水で、アルカリイオン水も効果的である。アルカリイオン水を飲む場合は、はじめにpHを低めにして、コップ半分ぐらいをこまめに飲む。これを1週間くらいに続け、慣れてきたらpHをの値を大きくするようにする。

「お酒と水」は、乾杯前にコップ1杯の水を飲む。またお酒終了時にもコップ1杯の水を飲むことが極めて重要である。

「オーダーメイドの水の作り方の秘密」
まずバットなどの平らな容器に、水道水を入れる。それを冷凍庫で半分凍らせる。上側に半分くらい氷が張ったところで取り出す。表面にできた氷を割り、凍っていない水を捨てる。そして、薄くなった透明な氷だけを慎重に取り出して、グラスに入れて溶かせば完了である。







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「徒然」

2014-01-28 08:34:15 | 日本

川柳を作ってみた。

「ジジイ殺すにゃ鉄砲はいらぬ 床どこ上げれば コロリとこける」

昔から、座頭ころがしと言う地名がある。姥(うば)捨て山もよく似たものだ。悲しきかな。生活が厳しく、親子の愛情の希薄さを物語るものである。だが、親あっての子!国あっての自分!この点を再度、肝に銘じておくべきである。
また人生とは日々いろいろと思うもの。これは生きている証しである。有難いことである。
大切なことは、明るい方向で結論づけていくことである。



「父にもらい 母にもらいし この身体 感謝で明るく 操縦するべし」

「わが魂(たま)の 底の底なる雄叫びを 感じて今日も 誠尽くさむ」








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「軍師 黒田官兵衛とは?③」

2014-01-27 07:19:59 | 日本

◎人物

・築城の名手として知られ、居住した中津城や福岡城の他、前野長康や浅野長政らと共に、姫路城、大坂城、讃岐高松城、名護屋城(肥前国)、広島城など、秀吉政権下での主要な築城に関わり、縄張りや助言を行った。加藤清正は、自身の城は3~4日で落ちるが、福岡城は30~40日は落ちないなどと賞賛している。

・倹約家で知られ、不要になった物は家臣に売り下げるなど、蓄財に励んだ。関ヶ原の戦い時にあれだけの速成軍を集めることができたのは、そのためである(一説によれば黒田長政の動員した兵が5,400とされ、それを上回る数であった)。一方で兵を集めた時は金を惜しまず、支度金を二度受け取ろうとする者に対しても何も言わずに笑いながら与えた。

・徳川秀忠は孝高を「今世の張良なるべし」と評した。

・歴史小説等では、不遇の天才武将として描かれることが多い。徳川家康と石田三成の合戦では、家康が勝利するが長期戦になるだろうと予見し、その間に九州を制覇し、家康が三成を破って兵が疲労しているところを一気に攻めて家康を倒し、自分が天下を取ろうとした。しかし息子の長政は西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返りを交渉する役目を務めており、その結果、関ヶ原の合戦は極めて短期間で終わってしまい、皮肉にも息子の活躍により野望を阻まれた、とする作品が多々存在する(後述も参照)。しかし、史実として確認できる業績からは、下克上や天下取りの野心を示した事は一度もない。小寺政職は「裏切った」のではなく「裏切られた」のである、関ヶ原の合戦の際の徳川家康に関しても2人は(事実上)同じ豊臣家の家臣であって主従ではなく、なおかつ同じ東軍であったから、敵対すらしていない。

・遺訓として「人に媚びず、富貴を望まず」がある。

・当時は当たり前にあった主君のために家臣が追腹を切る事を禁止した。

・辞世の句「おもひおく、言の葉なくて、つひにゆく、みちはまよわじ、なるにまかせて」

・福岡県福岡市博多区に所在する崇福寺に伝来する肖像は慶長9年(1604年)の作で、播磨出身の井上之房(九郎右衛門)の求めに応じて作成され、「如水」の号を授けた大徳寺の春屋宗園による賛が記されている。


◎竹中重治との関係

荒木村重謀反の時、信長は翻意するよう説得に向かった孝高が帰ってこないのは、主家の政職と共に村重方に寝返ったからだと判断し、小寺家の人質として預けられていた松寿丸(黒田長政)を殺害するように命じた。しかし竹中重治(半兵衛)は密かに松寿丸を匿った。重治は孝高が救出される前に、平井山の付城で陣没したが、黒田父子を案じる手紙を残している。重治への感謝の気持を忘れないために、黒田家は家紋に竹中家の家紋を用いた(この家紋とは黒餅の事を指す。黒餅とは石高の加増を願う家紋である)。重治の子の竹中重門の元服の際には孝高が烏帽子親を務めた。

◎秀吉との関係

秀吉は孝高の才知を高く評価すると同時に、己の座をも脅かしかねないものとして恐れたという。
「おまえは弟の小一郎(豊臣秀長)と同じように心安く思っている」と書いた、天正5年7月付、孝高宛の自筆書状が残されている。
本能寺の変で織田信長が死去した際、孝高は取り乱す秀吉に対して「御運が開かれる機会が参りましたな」と言った。これにより秀吉は落ち着きを取り戻したが、以後孝高の智謀を恐れるようになったという。

秀吉が家臣に「わしに代わって、次に天下を治めるのは誰だ」と尋ねると、家臣達は徳川家康や前田利家の名前を挙げたが、秀吉は黒田官兵衛(孝高)を挙げ、「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るだろう」と言った。側近は「官兵衛殿は10万石程度の大名に過ぎませんが」と聞き返したところ、秀吉は「お前達は奴の本当の力量を分かっていない。奴に100万石を与えたら途端に天下を奪ってしまう」と言った。これを伝え聞いた官兵衛は、「我家の禍なり」と直ちに剃髪し如水と号したという。同書には続けて「秀吉、常に世に怖しきものは徳川と黒田なり。然れども、徳川は温和なる人なり。黒田の瘡天窓は何にとも心を許し難きものなりと言はれしとぞ」と記されている。
文禄5年(1596年)の慶長伏見地震の際、倒壊した伏見城に駆けつけたが、秀吉は同じ蟄居中の加藤清正の場合には賞賛して警護を許したのに対し、如水に対しては「俺が死ななくて残念であったであろう」と厳しい言葉をかけたと言われている。

また、孝高はしばしば秀吉の「軍師」と呼ばれる。戦国期には合戦に際して方角や日時を占う「軍配者」が存在し、「軍師」とも呼ばれた。孝高は軍配者ではないが、軍師には主君の側近くにあって政治・外交・軍事的な指南を行うものという意味もあり、後代にはしばしば孝高を秀吉の軍師とされるが、秀吉の有力側近は豊臣秀長と千利休であり、孝高は軍事的な司令官ではあったが豊臣政権を動かす発言力は有していなかったとする指摘もある。

◎その他

京都の聚楽第邸内の猪熊の屋敷は千利休と隣り合い、茶道を学んでいる。

関白の豊臣秀次には、将棋の相手をさせられていたという。秀次事件では、秀吉の播磨国入り以来、陣営を共にしてきた従弟の明石則実が、前野長康らと連座となった。

小早川隆景とは仲が良かったらしく、隆景は如水に対し「貴殿はあまりに頭が良く、物事を即断即決してしまうことから、後悔することも多いだろう。私は貴殿ほどの切れ者ではないから、十分に時間をかけたうえで判断するので、後悔することが少ない」と指摘した。豊臣秀吉の養子であった小早川秀秋は、豊臣秀頼誕生後の当初は毛利本家の養子にと計画されていたが、隆景の申し出と如水の執り成しにより、小早川家の養子となった。如水は隆景の訃報に接し、「これで日本に賢人はいなくなった」と嘆じたという。隆景の末弟で養子の小早川秀包を、黒田長政や大友義統らと同時期にキリスト教の洗礼へと導いており、関ヶ原の戦いで西軍についた秀包の久留米城に1,000の兵を率いて駆けつけて降伏開城させ、妻子を保護した。

徳川家康の庶子である結城秀康は、小牧・長久手の戦いの和睦の際に、人質として豊臣秀吉に差し出され、養子となっていた。その後、秀吉に実子・豊臣鶴松が誕生すると、小田原の陣の後に家康が関東へ移封となると、孝高の執り成しにより北関東の名門で11万1千石を領していた結城晴朝の養子となり、後を継いだ。関ヶ原の戦いの後の伏見では、孝高の屋敷に3日に1度訪れるほど親交している。

◎逸話

・孝高は頭部に醜い瘡があったと言われる。これは有岡城にて投獄されていたときに患ったものとされる。長期に渡って劣悪な環境の土牢に押し込められていたため、救出された際に足腰が立たず、背負われて城を脱出したとされる。なお、左脚の関節に障害が残り、歩行や騎行がやや不自由になり、以後は合戦の指揮も輿に乗って行なうようになったとも言われるが、これの最も古い出典は大正時代の『黒田如水傳』である。小寺高友宛の秀吉からの手紙によれば、孝高は城うち(本丸)にいたとされる。

・有岡城内の孝高を、家臣の栗山利安、母里友信、井上之房などが、商人の銀屋(しろがねや)の付き人を装って安否を確認していたとされる。村田吉次の伯母、黒田一成の父などに、世話をされていたとされる。

・旧主の小寺政職の嫡男の小寺氏職を庇護したため、小寺氏は存続する事となった。

・九州征伐後の豊前国5郡半などの褒賞を、貝原益軒の『黒田家譜』などは、孝高の勲功(秀吉が多くの功績を立てた孝高に対して少なく、これを石田三成の讒言などによるものとしている。湯浅常山の『常山紀談』などは、豊臣秀吉が孝高の才能を恐れたからだとしている。ルイス・フロイスの手紙は、孝高がキリシタンであったためとしている。

・次男の熊之助が海難で亡くなった後、まだ長政に男子がいなかったため、山中城の戦いで戦死した妹婿の一柳直末の遺児で、孝高の甥・養子の松寿丸を跡継ぎに指名した。しかし、この松寿丸は13歳で亡くなっている。

・関ヶ原の戦いの折、石田三成方で本戦に加わっていた太田一吉や小早川秀包の九州での居城は、「攻め手に如水がいれば降伏せよ」と指示を与えられており、それまでの徹底抗戦を止め、開城した。

・関ヶ原の戦いの後、「家康は『我が徳川家の子孫の末まで黒田家に対して疎略あるまじ』と3度手を取り感謝した」という長政の報告に対し、「何故空いた手で刺さなかった」と叱責した。野心家ぶりを表す話だが(前述も参照)、後世の創作ともされ、最も古い出典は『黒田如水傳』である。

・関ヶ原で西軍側についた宇喜多氏の武将で、同じキリシタンであり母方の親戚でもある明石全登を、弟・直之の元で庇護したとされる。

・晩年は家臣に対して冷たく振舞ったが、これは当主の長政に家臣団の忠誠を向けさせるためであった。また、死に臨んでは優秀な家臣を長政に遺すために、殉死を禁じたという。

・身の回りの物を家臣に払い下げていた。この事についてある家臣が「何故、我等家来に売り渡しますか。どうせなら下賜されれば宜しいでしょう」と言った所、「くれてやりたいが、くれてやれる物は限りがあり、貰えなかった者は不平感が募るであろう。だから払い下げるのだ。こうすれば銭の無い者や銭を失いたくない者は買わぬであろう。こうして多少なりとも不公平にならずにしようと思うのだ」と言ったという。

・家臣に対しては、諄々に教え諭す様にして極力叱る事の無い様にしていたが、どうしてもという時は猛烈に叱りつけた。但し、叱った後に簡単な仕事を言いつけたりして後腐れの無い様に心がける事も忘れなかったという。

・隠居してからは、隠居屋敷に身分の低い者の子供達を入れて存分に遊ばせた。時には子供達が泥足で廊下を走ったり相撲を取ったりで襖や障子を破いたりしたが、決して怒ったり叱ったりしなかったという。小説家の海音寺潮五郎はこの事を指して、信長・秀吉・家康の三英傑より人物的には勝っていると評した。


<了>







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「軍師 黒田官兵衛とは?②」

2014-01-26 10:15:54 | 日本

◎豊臣家臣時代

高松城攻めの最中の6月2日、京都で明智光秀による本能寺の変が起こり、信長が横死した。変を知った孝高は秀吉に対して、毛利輝元と和睦して光秀を討つように献策し、中国大返しを成功させたと言われる山崎の戦いでは天王山を抑え、その裾野から射撃を仕掛ける中川清秀を追い落とそうとする明智軍と激しい戦闘を繰り広げた。9月頃より、毛利氏に対し、宇喜多氏との国境線確定の交渉に、蜂須賀正勝とともに入る。

天正11年(1583年)、大坂城の縄張りに当たる。秀吉と柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政の猛攻に遭って中川清秀の部隊が壊滅し、続いてその攻撃を受けることとなったが、奮戦し守り抜いた。

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いの当初においては、大坂城で留守居役を務めている。黒田長政らは岸和田の戦いで根来盛重、鈴木重意、長宗我部元親らの兵を破った。7月、播磨国宍粟郡(山崎)篠の丸城を与えられ5万石の大名となっている。

天正13年(1585年)の四国攻めには、讃岐国から攻め込んだ宇喜多秀家の軍勢の軍監として加わり、諸城を陥落させていった。植田城に対してはこれを囮であると見抜いて阿波国へ迂回するなど、敵将・長宗我部元親の策略を打ち破ったと言われる。阿波国の岩倉城が攻略されたところで長宗我部軍は撤退、降伏した。この頃に、孝高は高山右近や蒲生氏郷らの勧めによってキリスト教に入信している。

天正14年(1586年)、従五位下・勘解由次官に叙任された。10月、大友宗麟の要請による九州征伐では、毛利氏などを含む軍勢の軍監として九州豊前に上陸。宇留津城、香春岳城などを陥落させる。翌年3月に豊臣秀長の日向方面陣営の先鋒を務めて南下し、島津義久の軍勢と戦い、戦勝に貢献している(根白坂の戦い)。戦後は石田三成と共に博多の復興(太閤町割り)を監督している。

◎豊前国主

九州平定後の7月3日、本拠地の馬ヶ岳城をはじめとする豊前国の中の6郡(ただし宇佐郡半郡は大友吉統領)、およそ12万石(太閤検地後17万石以上)を与えられた(その直後に中津城の築城を開始)。しかし、7月に佐々成政が肥後国の仕置きに失敗し、隈部親永らによる肥後国人一揆が起きたため、孝高も鎮圧のための援軍として差し向けられるが、その隙をついて豊前でも野中鎮兼、次いで城井鎮房ら国人勢力が肥後国人に呼応し、大規模な反乱となる。長政らが一旦は失敗する(城井谷崩れ)が、その後、黒田親子は徐々に鎮圧し、和議・婚姻を結ぶ。しかし秀吉は国人衆を許さず、天正17年(1589年)までには城井氏らを謀殺することとなった。

その後、家督を嫡男・長政に家督り、如水は秀吉の側近として仕えた。天正18年(1590年)の小田原の陣では北条氏政・氏直父子を小田原城に入って説得し、無血開城させる功績を立てた。

文禄元年(1592年)、秀吉の朝鮮出兵の文禄の役では、総大将・宇喜多秀家の軍監として参加したが、小西行長など諸将の暴走で思ったような采配を執れず、病を理由に帰国。文禄2年(1593年)3月15日、日本軍が明軍の参戦と補給の行き詰まりにより和平を模索する間、再び朝鮮に渡ったが、石田三成などとの間に確執が生じて東莱城より5月21日再帰国したが、秀吉の怒りを買って追い返されている6月、第二次晋州城攻防戦においての後藤基次らが用いた亀甲車の設計や、和式城郭の縄張りなどに携わっているが、「如水円清」と号して出家している。

慶長2年(1597年)、慶長の役では総大将・小早川秀秋の軍監として釜山に滞陣。第一次蔚山城の戦いにおいて、加藤清正の救援に向かった長政が留守にした梁山城が8,000の軍勢に襲われた際、救援に駆けつけ1,500の兵で退ける。両城にて日本軍は大勝を収め、また今回の戦いを踏まえて戦線縮小を図った。しかし、これらを福原長堯などの軍目付たちが酷評して秀吉に報告し、秀秋、長政、蜂須賀家政など、多くの武将が叱責や処罰を受ける事となった。一方、軍目付たちは豊後国内に加増となった。

◎関ヶ原の戦い

慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去した。この頃、如水が上方の情勢を知らせてきた吉川広家宛てに「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候」と書いた書状が残されている。これは、如水が遠からず天下の覇権をめぐって最後の大乱が起きるであろうことを予想していたことを窺わせる。12月に上洛し伏見屋敷に居住したという。

明くる慶長4年(1599年)1月、生前の秀吉が『大坂城中壁書』にて制限した大名間の婚姻と私的な交流に徳川家康や福島正則らが抵触すると、それを詰問した前田利家を筆頭とした、他の石田三成ら大老・奉行衆と緊張が高まる。この時に蜂須賀家政や藤堂高虎らと共に、家康方に参じる。3月、利家が病死すると、利家方であった加藤清正や細川忠興らを引き込んで、長政ら七将が三成襲撃事件を起こす。家康の仲裁により、三成は領国の佐和山城に退去し、長政や家政の朝鮮での罪科は誤審と裁定された。

慶長5年(1600年)6月2日、徳川家康が会津の上杉景勝討伐を諸大名に命じる。6月6日、長政は家康の養女(保科正直娘・栄姫)と再婚し、6月16日に家康と共に出陣。7月17日(8月25日)石田三成らが家康の非を鳴らして挙兵し(西軍)、関ヶ原の戦いが起こった。長政は豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み、後藤基次ら黒田軍の主力を率いて、関ヶ原本戦で武功を挙げた。

中津に帰国していた如水も、家康方に対し、前以って味方として中津城の留守居を務める密約を結び、行動した。 石田三成の挙兵の知らせを用意させていた早舟から受け取った如水は、中津城の金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、九州、中国、四国からも聞き及んで集まった9,000人ほどの速成軍を作り上げた。9月9日(10月15日)、再興を目指して西軍に与した大友義統が毛利輝元の支援を受けて豊後に攻め込み、東軍の細川忠興の飛び地(本拠地は丹後国宮津)である杵築城を包囲攻撃した。城将・松井康之と有吉立行は如水に援軍を要請、同日、如水はこれに応じ、1万人と公称した兵力を率いて出陣した。それまでは三成の誘いに対し、西軍に組する条件として九州7ヶ国の恩賞を求め、東へ向かう九州の西軍の部隊を素通りさせ、準備期間を稼いでいたという。

道中の諸城を攻略した後、9月13日(10月19日)、石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突した。母里友信が緒戦で大友軍の吉弘統幸に破れる等苦戦するも井上之房らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した(石垣原の戦い)

9月19日(10月25日)、富来城の攻略中に哨戒船が、東上中の城主である垣見一直からの密書を運んでいた飛脚船を捕え、西軍敗報に接する。

その後、如水は藤堂高虎を通じて家康に領地切り取り次第を申し入れ、西軍に属した太田一吉の臼杵城(佐賀関の戦い)などの諸城(熊谷直盛の安岐城、毛利高政の角牟礼城と日隈城、毛利勝信の小倉城、毛利信友の香春岳城など)を落としていった。 国東半島沖の豊後水道付近では水軍が、関ヶ原より引き上げてきた島津義弘の軍船と戦い(義弘が同行していた立花宗茂と別れた後のことである)、焼き沈めている。10月14日、如水は兵5,000を柳川へ派兵し、自身は西軍に参加した小早川秀包の居城である久留米城攻めへ向かう。鍋島直茂と鍋島勝茂が32,000の兵を率いて久留米城攻めに参戦する。10月16日、柳川の支城である梅津城を落とす。その後、宇土城攻めを終えた加藤清正も参戦する。交渉の上、立花宗茂は降伏し如水軍に加わる。そして11月に入り如水は立花宗茂、鍋島直茂、加藤清正を加えた4万の軍勢で九州最後の敵勢力である島津討伐に向かったが11月12日に肥後の水俣まで進軍したとき、徳川家康と島津義久との和議成立による停戦命令を受け、軍を退き解散した。

◎晩年

関ヶ原の合戦の後、長政が先に勲功として家康から筑前国名島(福岡)32万6,000石(再検地後の申請は52万3,000石)への加増移封となった。翌年、如水にも、これとは別に上方での加増が提示されるが辞退し、その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送った。晩年は再建に努めた太宰府天満宮内に草庵を構えている。

慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸にて死去。59歳。

◎号

孝高の隠居後の号である如水の由来について、ルイス・フロイスは次のように記している。

官兵衛は剃髪し、予の権力、武勲、領地、および多年にわたって戦争で獲得した功績、 それらすべては今や水泡が消え去るように去って行ったと言いながら、ジョスイ、すなわち水の如し、と自ら名乗った。

そのほか、文字通り水の如くの清らかさや柔軟さ、或いは「孫子」の一文を引用したという説や、水徹を号に用いた竹中重治にちなむとする見方もある。

また、孝高は「ドン・シメオン」という洗礼名を持つキリシタン大名でもあったが、モーゼの後継者であり、カナンの地を攻め取った旧約聖書のジョズエ(Josué)も引用して含意しているとされる宣教師から城攻めの才能がある人物として伝わっていた。但し、孝高は人を害したり、神社仏閣を聖絶する事を好まなかったといわれる。なお当時の他の武将の号の例に、小西行長などに仕えた内藤如安などがいる。

孝高が用いた印章には、「SIMEON IOSUI」と読めるものと、「QVAN」(または「QVÃN」)とも読めるものがありいずれも当時用いられていたポルトガル語式ローマ字表記による「じょすい」、「くゎん(官)」と考えられる。なお当時、大文字のJとUを欠き、Iがiとjの、Vがuとvの大文字として兼ね用いられていた。








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「軍師 黒田官兵衛とは?①」

2014-01-25 08:44:47 | 日本

NHK大河ドラマでやっている「軍師 黒田官兵衛」について、以下、3回にわたり学ぶ。



黒田 孝高(くろだ よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。孝高は諱で、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは出家後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。

豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀であり、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。

キリシタン大名でもあった。子に黒田長政がいる。
黒田氏は、『寛永諸家系図伝』などによれば、賤ヶ岳山麓の近江国伊香郡黒田村の出身とされるが、定かではない[注釈 3]。孝高の祖父・黒田重隆の代に備前国邑久郡福岡村から播磨国に入り[注釈 4]、置塩城の守護赤松晴政[注釈 5]、後に晴政重臣で御着城(現在の姫路市東部)を中心に播州平野に勢力を持っていた戦国大名の小寺政職に仕えた。政職は黒田氏を高く評価し、重隆を重臣として天文14年(1545年)姫路城代に任じた。重隆の子、黒田職隆には自らの養女を嫁がせ、小寺(こでら)の名字を名乗らせた。

◎播州時代

天文15年11月29日(1546年12月22日)、黒田職隆の嫡男として播磨国の姫路に生まれる。永禄2年(1559年)、母親を亡くし、文学に耽溺したと言われる。永禄5年(1562年)、小寺政職の近習となる。この年に父と共に土豪を征伐し、初陣を飾る[2]。永禄7年(1564年)、室津の浦上清宗に嫁いだ妹が、龍野城主の婚礼当日に敵対する赤松政秀(宇野政秀)に攻められ、夫や八代道慶らとともに討たれる。永禄10年(1567年)頃、孝高は父・職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘の光(てる)を正室に迎え、姫路城代となった。

永禄11年(1568年)9月、放浪中の足利義昭が織田信長と美濃で会見して上洛を要請し、三好三人衆を退けて室町幕府15代将軍となる。翌12年(1569年)8月、義昭と誼を結んだ赤松政秀が、池田勝正、別所安治、宇喜多直家らの支援を受け、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んでくるが、孝高は奇襲攻撃を仕掛けるなど、300の兵で2度にわたり戦い、三木通秋の援軍などもあって撃退に成功する(青山・土器山の戦い)政秀は浦上宗景に攻められ降伏した。この後、三人衆が一旦は勢力を立て直し、信長包囲網が引かれ、義昭と信長の関係も疎遠になり始める。

元亀4年(1573年)、包囲網は甲斐国の武田信玄の病などにより弱体化し、信長が勢力を盛り返す。4月、東播磨の三木城主・別所長治(安治の子)が攻めこんでくる(印南野の戦い)7月、内紛により三好氏の篠原長房が討死。9月、信長が浅井長政を討ち、義昭を追放。12月、浦上宗景が信長と和睦。翌2年、義昭は山陰山陽に勢力を張る毛利輝元の領内の鞆の浦へ逃れる。

天正3年(1575年)、信長の才能を高く評価していた孝高は、主君・小寺政職に長篠の戦いで武田勝頼を破っていた織田氏への臣従を進言し、7月、羽柴秀吉の取次により岐阜城で信長に謁見。さらに年明けには政職にも、赤松広秀(政秀の嫡子)、別所長治らと揃って京で謁見させる[5]。一方で9月には、宗景が宇喜多直家に敗れ小寺氏の元に落ち延びてくる。翌4年1月、丹波の波多野秀治が、赤井直正攻めの明智光秀を攻撃して信長より離反。

天正5年(1577年)5月、小早川隆景の水軍の将、浦宗勝を毛利と同盟する播磨の三木通秋の所領である英賀に上陸させるが、孝高は500の兵で毛利・三木軍5,000の兵を退ける(英賀合戦)この戦いの後、長男の松寿丸(後の黒田長政)を人質として信長の元へ送る。

10月、信長は信貴山城の戦いで松永久秀を討伐した後に、秀吉を播磨に進駐させた。孝高は一族を父の隠居城である市川を挟んで姫路城の南西に位置する飾東郡の妻鹿・国府山城(功山・甲山(98m))に移らせ、居城であった姫路城を秀吉に提供し、自らは二の丸に住まい、参謀として活躍するようになる。月末には秀吉は、弟の羽柴秀長を生野銀山を管轄する太田垣景近の竹田城(但馬国)攻めに向かわせる(11月4日落城)。次いで秀吉本隊の赤松政範の上月城攻めに従い、佐用城(福原城)攻め(11月26日落城)へは竹中重治らと共に加わり先陣を務めている(上月城の戦い)

◎織田家臣時代

ところが天正6年(1578年)3月、別所長治(波多野秀治の娘婿)が殆どの周辺豪族を引き込んで反旗を翻し(三木合戦)、これに毛利氏が呼応する。4月、海から宇喜多直家軍7,000と雑賀衆の兵が、別府(べふ)の阿閉城に攻め込んできた際には孝高が救援し1,000の兵で防ぎ退ける。しかし、7月に秀吉本隊は信長の指示に従い、山中幸盛らを残して上月城を放棄し、書写山まで撤退した。

双方の調略も激しさを増し、9月に孝高は直家を調略することに成功する。しかし、今度は織田家の重臣で摂津国を任されていた荒木村重が信長に対して謀反を起こし、有岡城に籠城した(有岡城の戦い)さらにこの時、主君の小寺政職も呼応しようとしたために、10月、孝高は村重を翻意させるため交渉に有岡城に乗り込んだが、成功せず逆に幽閉される。1年後、天正7年(1579年)10月19日、本丸を残すのみとなっていた有岡城は開城し、孝高は栗山利安に救出された。

天正8年(1580年)1月、秀吉は2年間の難攻の末にようやく別所長治の三木城を陥とした。孝高の主君の政職も、信長の嫡男・織田信忠によって討伐されて鞆の浦へ逃がれ、戦国大名としての小寺氏は滅んだ。織田家臣として秀吉の与力となり、名字に黒田を用いたのはこれ以降と考えられている(3年後の賤ヶ岳の戦いを当時に記録した『天正記-柴田退治記』などに、小寺孝隆での記載があることから、それ以降とも考えられる。)[注釈 15]。秀吉は三木城を拠点とし、姫路城を孝高に還そうとするが、孝高は「姫路城は播州統治の適地である」と進言する。7月、秀吉より姫路城普請を命じられる。9月、孝高は揖東郡福井庄(網干周辺)に1万石を与えられる。

天正9年(1581年)6月、前年に降伏した山名豊国を追放して3月に吉川経家を城主に迎え入れていた因幡国の鳥取城へ、秀吉は6月に再び出兵(第二次鳥取城攻め)し、これに孝高も加わる。策略により若狭国などの商人が周辺の米を買い占めた上で完全に包囲して補給路を絶ち、兵糧攻めを行ったため、鳥取城内は飢餓で凄惨極まりない状況に追い込まれ(鳥取の渇え殺し(かつえごろし))、3ヶ月で降伏を余儀なくされたが、城中の備蓄米が少ないことを見抜き、この作戦を秀吉に献策したのは孝高だったと言われる。

鳥取城攻めの同時期、天正8~10年の間に、毛利氏と結んだとされる淡路島の由良城主、安宅清康攻め、志知城から信長側に付いた阿波国の三好氏の支援などに、小西行長らとともに関わっている。

また天正10年(1582年)、毛利氏の部将・清水宗治が守る備中高松城攻略に際し、秀吉は巨大な堤防を築いて水攻めにしたが上手く水をせき止められなかった。これに対し、孝高は船に土嚢を積んで底に穴を開けて沈めるように献策し成功させたと言われる。









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「軍師 竹中半兵衛とは」

2014-01-24 08:39:07 | 日本

生年: 天文13 (1544)
没年: 天正7.6.13 (1579.7.6)

安土桃山時代の武将。美濃菩提山城主竹中重元の子。半兵衛というのは通称。名は,はじめ重虎といったが,のち重治と改めた。稲葉山城主斎藤竜興に仕えていた永禄7(1564)年2月,竜興の寵臣政治にたまりかね,わずか十数名で稲葉山城を乗っ取ったことはよく知られている。その後,城は竜興に返したがそのまま蟄居し,同10年,織田信長が斎藤氏を滅ぼすと,豊臣秀吉の誘いによって信長方となり,元亀1(1570)年の姉川の戦のころから秀吉の与力につけられた。居城の菩提山城が美濃と近江の国境に近かったことから,近江浅井長政の家臣たちを味方にするという点で大活躍をし,「秀吉の軍師」などと呼ばれるようになる。中国攻めにも黒田孝高らと手腕を発揮し,知将といわれた。播磨三木城攻めの最中に発病し,向城の平山の陣中において病没。36歳の若さであった。

竹中 重治(たけなか しげはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初名は重虎、のちに重治。通称は半兵衛(はんべえ)。父は竹中重元、弟に重矩。子に重門。従兄弟に竹中重利。

戦国時代を代表する軍師[注釈 1]としても知られ、織田氏の家臣である羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍し、黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。

多くの軍功に関する逸話や美談を残しているが、現在では後世の創作によるものとみられているエピソードも数多く、史実上の活躍の実態が不明瞭な人物でもある。


生涯

◎斎藤氏時代

天文13年(1544年)、美濃斎藤氏の家臣で美濃国大野郡大御堂城(岐阜県揖斐郡大野町)城主・竹中重元の子として同地に生まれる。
永禄元年(1558年)、父は不破郡岩手城主・岩手弾正を攻略し、翌2年(1559年)、菩提山城を築いて居城を移し、重治もこれに従う。
永禄3年(1560年)、父の死去または隠居(一説に父の死去は永禄5年(1562年)とも)により家督を相続し、菩提山城主となって美濃国の国主・斎藤義龍に仕えた。永禄4年(1561年)に義龍が死去すると、その後を継いだ斎藤龍興に仕える。

この頃、尾張国の織田信長による美濃侵攻が連年のように激しくなるが、義龍時代は信長の攻勢をよく防いでいた。しかし義龍が死去すると、後を継いだ龍興は若年で凡庸だったために家臣団に動揺が走り、一転して織田氏の侵攻を防ぐことが困難となった。そのような状況を見た信長が、永禄4年(1561年)7月に美濃に侵攻してくるが、斎藤勢は重治の十面埋伏陣という独特の伏兵戦術で織田勢を破ったとされている。永禄6年(1563年)にも新加納で織田勢と戦い、このときも重治の戦術のために斎藤勢は勝利した。

ところが、主君・龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとせず、一部の側近だけを寵愛して重治や西美濃三人衆を政務から遠ざけていた。このため永禄7年(1564年)2月、弟・重矩や舅・安藤守就とともに龍興の居城・稲葉山城(後の岐阜城)を16人(『竹中雑記』、17人という説も)の部下とともにわずか1日で奪取した。織田信長は重治の稲葉山城奪取を知ると、城を譲り渡すように要求したが、重治は拒絶し、8月には自ら稲葉山城を龍興に返還した。

その後は斎藤家を去り、北近江の戦国大名・浅井長政の客分として東浅井郡草野に3,000貫の禄を賜るが、約1年で禄を辞して旧領の岩手へと帰り、隠棲した。

◎斎藤家滅亡後

永禄10年(1567年)、織田信長の侵攻により斎藤氏は滅亡した。すると信長は、浪人していた重治を自分の家臣として登用したいと考え、美濃攻めで頭角を現していた木下秀吉(後の豊臣秀吉)に勧誘を命じ、秀吉は「三顧の礼」で重治を誘った。重治はこのとき、秀吉の天性の才能を見抜き、信長に直接仕えることは拒絶したが、秀吉の家臣となることを了承したとされる。ただし、このエピソードも後世の創作の色合いが強く、近年では弟・重矩と同様に信長の直臣として登用に応じたものという見方がされている。

後に信長包囲網が敷かれ、信長と浅井長政が敵対関係になると、重治はかつて長政の家臣時代にあった浅井家臣団との人脈を利用して、主に調略活動で活躍した。元亀元年(1570年)には浅井方の長亭軒城や長比城を調略によって織田方に寝返らせている。直後の姉川の戦いにも安藤守就の部隊に参加した。この合戦の後に信長の命で横山城に秀吉とともに残し置かれ、この頃から信長直臣から秀吉の与力へと転じた。

織田信長の最大の宿敵であった越後国の上杉謙信が本格的な上洛を目指して進攻して来た時、秀吉は戦評定において総大将である柴田勝家と戦法をめぐって激しく意見を対立させた挙げ句、軍律違反を犯して戦線を勝手に離脱している。その事に激怒した信長ではあったが、比較的軽い処分に留め、その代わりに秀吉が中国攻めの総大将に任じられると、重治は秀吉に従って中国遠征に参加する。天正6年(1578年)、宇喜多氏の備前八幡山城を調略によって落城させ、信長に賞賛された。同年、信長に対して謀反を起こした荒木村重に対して(有岡城の戦い)、秀吉幕僚の黒田孝高が有岡城へ赴き帰服を呼びかけるが、城内で捕縛されたため、信長は孝高の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を秀吉に命じた。しかし重治は秀吉に偽の首を進呈させ、松寿丸の命を助けたのである。この後、助け出された孝高はこのことを非常に感謝し、竹中家の家紋を貰い受けている。

天正7年(1579年)4月、播磨三木城の包囲中に病に倒れた。秀吉は重治の病状を心配して京都で療養させたが、重治はすでに自らの死期を悟り、武士ならば戦場で死にたいと秀吉に懇願して播磨三木の平井山秀吉本陣に戻り、陣中にて6月13日に死去した。享年36。死因は肺の病気(肺炎か肺結核)とされる。

◎墓所

竹中重治弟家累代の墓。慶長6年3月1日と刻まれている。深志野は播磨国御着城の北にある村
墓所は陣地のあった兵庫県三木市平井山観光ぶどう園内にある。他にも三木市志染町の栄運寺、岐阜県垂井町の禅幢寺、滋賀県能登川町の浄土寺などにも墓所がある。浄土寺にある墓は、竹中家臣団の一人である竹中筑後守のものである。

◎人物・逸話

・活躍は『武功夜話』や、江戸時代の軍記物である『太閤記』、子の重門が江戸時代に記した『豊鑑』などによって描かれている。江戸時代の講談などで、黒田孝高とともに天才軍師の人物像が固まり、現在の人気に至っている。しかしながら『信長公記』などに記されている記述は少なく実態はよく分かっていない。また、秀吉の正式な家臣であるという記述も一次史料には見当たらず織田家から秀吉に付けられた与力武将の一人であると見られている。

・『太閤記』や『常山紀談』などによると、体が弱く見た目は痩身で女性のようであり(「その容貌、婦人の如し」と記録にはある)、出陣するときも静かに馬に乗っているだけだったという(こちらは漢の劉邦の謀臣・張良のイメージと重なる)。容貌が婦人のようであったことから、主君の龍興をはじめとする斎藤家臣団から侮られ、龍興の寵臣である斎藤飛騨守に櫓の上から嘲弄され、小便を顔にかけられたことがあった。数日後、飛騨守が龍興居室の宿直を務めていたとき、重治は稲葉山城に詰めていた弟・重矩の看病のためと称して武具を隠した数箱などをもって入城し、そして重矩の居室で武装して宿直部屋に居た飛騨守を斬殺して稲葉山城を乗っ取ったとされている。

・長篠の戦いで、武田勢の一部が向かって左側に移動した。秀吉は回りこまれるのではないかと焦ったが、重治は織田勢の陣に穴を開けるための陽動ではないかと進言した。秀吉は重治に従わず迎撃のため兵を動かしたが、重治は反対した挙句手勢と共に持ち場を離れなかった。まもなく武田勢は元の位置に戻って秀吉が不在の地点に攻め寄せた。重治が守っている間に秀吉もあわてて帰還し、重治が正しかったことが証明された。中国攻めの陣中で病死する際には秀吉は京で養生するように戒めたが、重治は「陣中で死ぬこそ武士の本望」と断ったとされる(『竹中家譜』)。また最後の策として、三木城兵糧攻めを秀吉に授け、別所長治を降伏させている。この無血開城戦法は、後の備中高松城の水攻めにも通じている。

・黒田孝高が秀吉が約束した知行の加増をいつまでたっても実行しないことに不満を覚え、秀吉の花押が入った書状を持って秀吉の前に現れて不満を述べたことがある。そのとき、秀吉の側にいた重治が書状を手に取り、破って燃やしてしまった。驚く孝高に対して、「こんな文書があるから不満を感じるのだ。それに貴殿の身のためにもならない」と述べたとされる。

・重治が息子の左京(後の竹中重門)に軍物語について教えていると、左京が急に席を立ってしまった。重治が理由を聞くと、小用だという。これに重治は怒り、「たとえ小便を垂れ流そうとも、軍談の席を立ってはならない。竹中の子が軍談に聞き入って座敷を汚したと言われれば、竹中家の面目であろう」と言ったと伝えられる(『武辺咄聞書』)

・いつも貧相な馬を買っては、それに乗馬していた。秀吉が「貴殿の身分でその貧相な馬はなかろう」と言うと、「名馬を買うと、実際の戦闘のときにその名馬を惜しんで戦機を逃がすことになりますから、これがいいのです」と述べたとされる。

・秀吉が重治の功績に報いるため、加増を約束した書状を渡そうとしたが、「このような物は不用です。もし私の子が自身の不覚悟を忘れ、父にはここまで殿は懇意にされていたのに、なぜ私にはと恨みに思うようなことがあっては災いとなります」と述べて破り捨てたという(『武功雑記』)






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「徒然に」

2014-01-24 07:56:23 | 日本

◎徒然に

「この世とは みなに生かされ みなに尽くす さきゆく人は あとのために」

「朝日みて 夕日に沈む ときの瀬に 日のくぎりこそ おのがこころに」

「みぎひだり うえにしたにと ゆれうごく ゆれる中にも まことぞ祈る」

「おさな児が 走るすがたに 光みる こころはずませ こころ明るく」

「この世とは おのがこの世と 自覚しつ おのが誠の 道ぞあゆまん」 








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「日本経済、2014年が正念場アジア全域に影響を及ぼす」金融政策の大胆な実験の行方

2014-01-23 11:13:24 | 日本

英フィナンシャル・タイムズ紙に「日本経済、2014年が正念場アジア全域に影響を及ぼす金融政策の大胆な実験の行方」という論文が掲載されていた。
以下、参考の為、要約し記す。



もう何年もの間、アジアで本当に重要な唯一の経済ニュースは中国であった。10年以上にわたり地域の成長の原動力となってきた中国は来る年も来る年も、アジア経済、さらには世界経済の温度を決定する唯一最大の要因であった。だが、今年、中国は互角の競争に直面する。ほとんどの人の記憶にある限りでは初めて、日本経済の今後の展開に対する関心の方が大きいかもしれない。

さて、日本は金融政策の過激な実験の真っ只中にある。あまりに大胆なために「量的・質的金融緩和(QQE)」という新しいしゃれた名前が付けられたほどである。今年は、QQEが機能するかどうかが分かる年である。

3つの可能性が存在する。

1つ目は、2年間でマネタリーベースを倍増させることを標榜するQQEが次第に立ち消えになること。その時は、インフレ率が再びゼロに向かって低下するだろう。

2つ目の可能性はそれよりさらに憂慮すべきものである。安倍晋三首相にちなんで名付けられたアベノミクスが「アベゲドン」に陥る危険性である。そうなれば、インフレは手に負えなくなり、金利が急騰し、資本が逃げていく。

3つ目の可能性(これを期待しよう!)は、QQEが実際に機能することである。仮にそれが起きれば、日本は2%という持続的なインフレ率に向かって動き、成長率は1.5%になるかもしれない。

HSBCのフレデリック・ニューマン氏は最近の調査メモで、アジアの成長を牽引する最近の2つのエンジン、米連邦準備理事会(FRB)が供給する低利資金と中国の急拡大がどちらも止まりかけていると指摘し「だが、2014年に過去何年もなかったほど大きな影響を地域に及ぼす第3の勢力がある。日本がそれだ」と話している。

日本はアジアにとって巨大な投資家だが、しばしば過小評価される深みのある企業部門を持つライバルでもある。日本は英国経済の2倍以上の経済規模を持つ巨大な市場だ。膨大な流動性の源泉でもある。

ニューマン氏が「史上最大の金融刺激策」と呼ぶものが勢いを増すにつれ、日本から流れてくる流動性は、米国の金融刺激策の縮小の結果として残されるかもしれない穴を埋める助けになり得る。

ニューマン氏の試算では、先を争ってアジアの金融機関を買収してきた日本の銀行は、東南アジア諸国向けだけで600億~1400億ドルの追加資金を供給できるという。タイは対内直接投資の60%を日本から受けている。

もっと遠いところでも、日本企業はアニマルスピリッツを再発見している。サントリーホールディングスは、総額160億ドルの案件でウイスキーメーカーのビームを買収することでカネ、一部の向きによれば、過大な大金をばらまいた。

もちろん、中国経済は日本経済より大きい。大雑把に言って、日本の6兆ドルに対して中国は9兆ドルだ。中国政府も、市場改革を導入しようとしているため、この先は困難な1年が待ち受けている。例えば、影の銀行システムが破綻し始めたり、地方政府が債務をデフォルトし始めたりした場合には、マイナスの衝撃が走る恐れがある。

だが、中国には悲観論者の見方を覆してきた実績がある。一番確実なのは、中国が2014年に7%を超えるペースで成長し、経済が生きて再び戦う年を迎えるというものだろう。

日本では消費者物価がカギを握っている。安倍首相は、2年以内に2%のインフレ目標を達成することに自身の評価を懸けている。これまでのところ、指標は心強いものだ。今年は、それが持続的なものかどうかが分かる。

昨年11月の統計は、生鮮食品を除くがエネルギーを含む消費者物価のコア指数が前年比1.2%上昇したことを示している。懸念材料は、最近の物価上昇が単に円安による輸入エネルギーコストの上昇を反映したものに過ぎないことである。そうだとすれば、インフレは単に失速してしまう可能性がある。

だが、物価は本当に息を吹き返しつつあるのかもしれない。エネルギーを除いても、インフレ率は0.6%と、15年ぶりの高さまで持ち直している。

賃金が上昇しなければ、それさえ消えてなくなる可能性がある。安倍首相は、給与を引き上げることでインフレ実現の大義に一役買うよう大企業にプレッシャーをかけている。大企業が要請を聞き入れたとしても、雇用の大半を担う、資金繰りに苦労している中小企業も大きな負担を負う必要が出てくる。

少なくとも労働市場は逼迫している。失業率は4%まで低下しており、有効求人倍率は1倍まで上昇している。

マイナスの側面を見ると、日本の消費者は、消費税率を3%引き上げて8%とする増税によって、こん棒で殴られようとしている。安倍首相の側近である本田悦朗氏でさえ、消費税増税は正気ではないと考えている。危険なのは、4月の増税後に需要の急激な落ち込みが起きることだ。

中期的には、需給ギャップを埋めるために、トレンドを上回るペースで成長が続くことが極めて重要だ。日銀の黒田東彦総裁は先月、本紙(英フィナンシャル・タイムズ)に対して、需給ギャップはマイナス1~1.5%であり、既に「大幅に縮小した」と考えていると話した。このペースであれば、1~2年後に「若干のプラス」になる可能性があるという。

それでも、仮に日本が2%のインフレ率と1.5%の成長率を達成すれば、日本経済は何年もなかったほど調子が良いように見えるだろう。
アベゲドンか、アベサクセスか。2014年が決めることになる。








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「アジア外交は親日国家へシフトすべし」

2014-01-22 09:02:48 | 日本

宮崎正弘さんが、中国の現況のほか、日本の歴史観から見た安倍政権の外交解説まで、幅広く話している。
以下、要約し記す。



これまで急速に発展してきた中国だが、この数年でものすごい歪みが出てきた。
その3大歪みが腐敗、汚染、借金である。これが解決不能のところまでいよいよ来ている。
中国は文明発展的に見れば、大後退というか、今年はそういう始まりになるんじゃないかなと非常に不気味な気がしている。

中国の最大の問題は、経済の崩壊である。これはひしひしと迫っているように見える。目先のこととしては不動産バブルの大爆発が近づいてきている。

シャドーバンキング(影の銀行)というのは、分かりやすく言うと闇金融である。正規の銀行融資ではない。この貸付残高が約326兆円あり、それにプラスして地方債務残高が約310兆円ある。これだけで約630兆円である。
中国のGDP(国内総生産)は780兆円と言われているが、100兆円は水増ししているので、実際は約680兆円。つまり、分かっているだけでもGDPとほぼ同額の不動産融資の貸付残高があるということである。

また、中国の経済成長率は今年7.5%と言われているが、今年の大学新卒者720万人のうち3割しか就職先がなく、欧米留学から帰国した人たちも就職先がない。こういう就職戦線を見ただけでも、中国経済はおかしいと普通なら考える。
それなのにまだ中国経済は大丈夫だなどと言っている人は、いったい何を見ているのか、首をかしげてしまう。

安倍晋三首相の靖国参拝について、評論家的には非常に難しい問題だが、個人的な意見を言えば、どんどん参拝に行けばいい。中国や韓国が麻痺するくらい行けば、そのうち諦める。

中国、韓国との首脳会談については、安倍首相は、対話の窓口はいつでもオープンだと言っている。けれども、中国と韓国が乗ってこない。
彼らは、靖国参拝でますます遠のいたなどと取ってつけたようなことを言っているけど、そんなことは気にしないで、繰り返し繰り返し、対話の窓口はいつでもオープンだと言っていればいい。

私に言わせれば、韓国が日本批判をしたり、口汚く罵ったりすると、むしろ哀れにしか感じない。反感なんてわいてこない。

だいたい李氏朝鮮の約500年間というのは国じゃない。両班という貴族階級がいて、絶対に働かない。この中から科挙制度に合格して地方長官になると、人民を搾取して賄賂を取って、いわば貪官汚吏(たんかんおり)というのであるが、これが500年も続いた。
その両班を、日本は韓国併合の時にやめたんである。腐敗した貴族はいらないと。当然、両班階級の人は日本に恨みを持つ。その最たる人が安重根である。逆恨みをして伊藤博文を暗殺した。安重根はテロリストだけれど、韓国では民族の英雄である。韓国にはもう1人英雄がいる。李舜臣という、豊臣秀吉の朝鮮征伐の時に一時的に活躍した人物である。
この2人しか民族の英雄がいない。要は歴史がない。そういう国が国民国家の体をなしているかのごとく装って日本を攻撃している。一番安直な方法だし、これ以外に政権維持をできない。

そういう国に対していちいち苛立って付き合う必要はないと思う。

日本は、中国や韓国ではなく、もっと親日国家のアジア諸国、インドネシア、タイ、ミャンマーをはじめインドやトルコ、モンゴルなどと重点的に親しくしたほうがいいのではないかと思う。

安倍さんの靖国参拝に対して、米国が「失望した」とのコメントを発表しました。原文では「disappointed」となっており、これは外交的には非常に失礼な言葉である。それこそ外務省は米国に対して「失望した」とただちに反撃すればいいのだが、言えない。誠に情けない。
日本人は米国に対する信仰みたいなものをまだ持っているけれども、米国はもう日本を守ってくれそうにないし、大国としての地位はどんどん衰退している。

もう一つ大事なことは、いまのオバマ政権というのは相当程度に無能である。歴代政権の中でも非常に能力が低いと見ていい。なぜかというと、非常にみっともなくイラクから撤退したあとイラクはどうなったか。米国を敵視する、そしてイランが後押しするイスラム教シーア派の天下になった。

また、アフガニスタンはどうか。米軍が完全撤退すれば、おそらくカルザイ政権は崩壊して、タリバンの天下になる。シリア問題も、いつのまにかズルズルとなってしまった。

ゲーツ元国防長官は回顧録の中で、オバマは優柔不断、決断力がない、その周りを囲む人たちは外交的知識に乏しい、能力がない、軍事的理解がないなどと厳しく批判している。

前の政権の中枢にいた人が、これほどボロクソに言うかという感じである。オバマさんの決断力のなさにはアメリカ国民の多くが失望している。








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「検証・首相靖国参拝」

2014-01-21 07:54:38 | 日本

中田卓二、古本陽荘、ワシントン西田進一郎氏等がまとめた「検証・首相靖国参拝」を記す。
わが輩は、「安倍総理!本当にありがとう。内外の圧力に屈せず頑張りぬいて欲しいと強く願う」と激励をし続けたい。必ず、護国の英霊が守って下さっているから。



首相官邸と外務省は、中国、韓国との首脳会談を実現させるため、関係改善の努力を重ねていた。首相は2012年9月の自民党総裁選の際、第1次内閣で参拝しなかったことを「痛恨の極み」と語ったが、就任直後の同年末、13年4月の春季例大祭、8月15日の終戦記念日、10月の秋季例大祭といずれも参拝を見送った。菅義偉官房長官、世耕弘成、杉田和博両官房副長官ら官邸中枢は慎重意見が大勢を占めていた。

しかし、首相の答えには有無を言わせない強さがあった。「これまで止められてきたが、26日に靖国に行こうと思う」

首相周辺は、中韓以上に、米国の反応を気にかけていた。13年4月、首相が国会で「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない」と答弁したことが米国内の批判を招いた苦い経験があったからだ。首相はそれを見透かすように続けた。「私が参拝したことで日米同盟が揺らぐとしたら、関係強化の取り組みが甘いという、私の失政だ」

翌23日から参拝に向けた準備が極秘に始まった。関与したのは首相周辺の限られたメンバー。外交面の影響を最小限にとどめるため、恒久平和を誓う首相談話を作成することや、靖国神社に合祀(ごうし)されていない戦没者を慰霊する敷地内の「鎮霊社」にも参拝する方針が固まった。

当日まで徹底した箝口令(かんこうれい)を敷き、米中韓など関係国には直前に通告した。官邸関係者は「右翼の街宣車が駆けつけ、その中で首相が参拝する映像が流れたら政権はアウトだった」と振り返る。毎日新聞などが加盟する内閣記者会への通告は26日午前、首相参拝の約1時間前だった。

菅氏には参拝2日前の24日、首相が直接伝えた。「任期中に1回参拝すればいい」と考えていた菅氏も観念し、「もうずるずる延ばせない。年内に片付けて、一からはい上がろう」と周囲に漏らした。

26日朝、沖縄県にいた日韓議連会長の額賀福志郎元財務相は、首相から電話で「国民との約束なので決断した」と告げられた。額賀氏は「できるだけ思いとどまってほしい」と要請したが、首相の気持ちは揺らがなかった。保守層の支持を受けて再登板した首相は、秋以降、「約束」を果たすタイミングをずっと計っていた。

参拝のハレーションは小さくなかった。米国は即座に「失望している」との声明を発表。岸信夫副外相が13日から訪米するなど、政権は年をまたいで説明に追われている。

昨年12月26日に靖国神社を参拝する意向を明かした安倍晋三首相に、側近は電話口で「28日という選択肢はありませんか」と食い下がった。同月25日に米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設を巡って首相と沖縄県の仲井真弘多(ひろかず)知事が会談し、27日には仲井真氏が移設先の名護市辺野古沖の埋め立て申請を承認する方向になっており、影響を懸念したためだった。しかし、首相は「それは違う問題だ。リンクさせてはいけない。私の気持ちの中では(政権発足)1周年しかないんだ」と譲らなかった。

だが結果的に、首相の靖国参拝は普天間移設に絡む日米協議にも影を落とした。小野寺五典防衛相とヘーゲル国防長官は仲井真氏の辺野古埋め立て承認後に電話で協議することになっていたが延期になり、米国の歓迎ムードは吹き飛んでしまった。

15日午後(日本時間16日午前)、ワシントンのシンクタンク「戦略国際問題研究所」が開いた東シナ海に関するシンポジウムでは、「ジャパン・ハンド」と呼ばれる日米関係専門家の筆頭格の2人がそろって首相の靖国参拝を批判した。

グリーン元国家安全保障会議アジア上級部長「オバマ政権が安倍首相の靖国神社参拝に『失望』を表明したのは正しい対応だ。日米関係の助けになることはない」

キャンベル前国務次官補「靖国参拝は日本に相当な困難をもたらす。日中関係も日韓関係も緊張のレベルは高い。それをワシントンは懸念している」

グリーン氏は共和党のブッシュ政権の高官、キャンベル氏は昨年までオバマ政権でアジア政策を取り仕切った。両氏が批判のトーンを上げたのは、ジャパン・ハンドたちが「参拝すべきでない」というメッセージを再三、首相に送っていたためだ。

首相官邸は昨年11月、衛藤晟一首相補佐官をワシントンに派遣した。衛藤氏は国務省のラッセル次官補や、グリーン氏、アーミテージ元国務副長官らと相次いで会談し、首相の参拝に関する米側の意向を探った。だが、面会相手は一様に参拝に反対する考えを示し、中国の挑発的な言動に冷静に対応してきた安倍政権を評価してみせた。

政権発足後、首相が参拝する機会をうかがってきた衛藤氏だったが、自民党幹部は「訪米であきらめたようだ」と解説する。衛藤氏が得た情報は、菅義偉官房長官ら参拝慎重派の主張を支える結果になり、政府内では「首相が参拝すれば、米国の高い評価が一転してしまう」という懸念が広がった。

こうした動きの一方で、秋季例大祭での参拝を首相に進言していた飯島勲内閣官房参与が昨年12月中旬に極秘でワシントンを訪問したことが、首相の靖国参拝決断に影響したとの見方がワシントンでは出ている。飯島氏は、2008年大統領選の共和党候補だった保守派のマケイン上院議員らと面会。共和党筋によると、飯島氏は会談で、日米関係や中国の話題を持ち出したが、首相の靖国参拝には言及しなかったという。

日米両政府に幅広い人脈を持つ日米関係研究者、ピーター・エニス氏は「衛藤氏の報告が気に入らなかった飯島氏は訪米後、衛藤氏の認識は誤りで米国の反発はそれほどでもないと安倍氏に伝えたと言われている」と語る。

首相は米国の意向を読み違えたのか。飯島氏に事実関係の確認を求めたところ、「現時点でその問題についてお話しできることはない」(参与室)との回答が寄せられた。

「米側から踏み込んでくる人はいなかった」。日米国会議員連盟の中曽根弘文会長らは10日、ワシントンで記者会見し、米政府高官や有識者との一連の会談で首相の靖国神社参拝を「不戦の誓いが目的」と説明したことに米側の「理解」が得られたと強調した。議連との会談で、アーミテージ元国務副長官は「公約を果たしたということで、もう終わった話だ」と伝えた。首相の弟の岸信夫副外相も13日から訪米し、米政府要人らに参拝の真意を説明している。

在日米大使館の「失望」声明について、首相周辺は参拝当日、「外交官の間では、それほど強い表現ではない」と首相に説明。首相は「うん、そうか」と短く答えたという。ブッシュ政権時代、小泉純一郎首相(当時)による計6回の参拝に米政府が表向き強い反発を示さなかったことから、政府・与党には、オバマ政権の反応を「過剰」と見る向きもある。

しかし、こうした楽観論には危うさもある。

ワシントンのシンクタンク「スティムソン・センター」の辰巳由紀主任研究員は「米政府が不快感を示していることを日本側が理解するのに相当な時間を要してきた」と指摘。首相が昨年4月、国会答弁で「侵略」の定義に言及した際にも、日米間で同様の「認識ギャップ」があったと主張する。アーミテージ氏の「終わった話」発言は、「どれだけダメージが大きいか分かったのだから、もう行かないよな」というメッセージ--。それが辰巳氏の分析だ。

台頭する中国につけ入る隙(すき)を与えないためにも、東アジアの緊張を少しでも緩和したいというのがワシントン全体の共通認識といえる。

首相の参拝を受けて、中国は若手記者や中学生などの交流事業を凍結した。韓国の朴槿恵大統領も6日の記者会見で、首脳会談には日本が「正しい歴史認識」を持つことが前提との認識を示した。首相周辺は「日中、日韓関係は今が底」と関係改善に期待をつなぐが、両国との首脳会談は一層遠のいた。

首相は9日の外遊出発前、羽田空港で「参拝自体が残念ながら外交問題、政治問題化されている。その観点から、今の時点で、今後参拝するかしないか申し上げるつもりはない」と記者団に語った。「公約」を果たした首相は2年目以降も参拝を続けるのかどうか。政府関係者の見方は交錯している。




わが輩は思う。
国有っての日本人である。その国の為に、その国の仲間の為に、尊い命を捧げられた英霊を護らずして、どうして国の繁栄があるのだろうか。国の代表者が率先して靖国神社に参拝するのは当然の義務である。確かに、中韓とのいらぬ摩擦を避け、米国の危惧をなくするべきではあるが、他のことならともかく、事、国家の根本精神の魂の源である靖国神社に関しては一歩も引くべきではない。これで万一、戦争を引き起こそうとも、である。どこの国も戦争はしたくはないが、この一線だけは絶対に死守すべきことである。
もっと、もっと、力強く、安倍総理を全面的に応援していこうではないか!








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「先人が決着つけた戦犯問題」

2014-01-20 08:36:52 | 日本

中静敬一郎さんお論文「先人が決着つけた戦犯問題」が送られてきた。その通りである。
以下、紹介する。


日本人が知っておくべき歴史的事実の一つは、先人たちが戦犯問題に決着をつけたことだろう。

昭和27(1952)年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効後、間もなく、「戦犯受刑者の助命、減刑、内地送還」を求める国民運動が巻き起こり、約4千万人の署名が集まった。
独立を回復したにもかかわらず、なぜ、敵国に裁かれた同胞たちは釈放されないのか、といった疑問が共有されたからである。

当時、巣鴨、モンテンルパ(比)、マヌス島(豪州)では1千人以上の日本人らが、A級およびB・C級戦犯として服役していた。
講和条約第11条は関係国の同意なくして、日本政府は独自に戦争受刑者を釈放してはならないと規定されていたためだ。

これに対し衆参両院はほぼ全会一致の5回にわたる赦免決議を採択した。
趣旨説明に立った改進党の山下春江議員は極東国際軍事裁判(東京裁判)をこう批判した。
「戦犯裁判の従来の国際法の諸原則に反して、しかもフランス革命以来人権保障の根本的要件であり、現在文明諸国の基本的刑法原理である罪刑法定主義を無視いたしまして犯罪を事後において規定し、その上、勝者が敗者に対して一方的にこれを裁判したということは、たといそれが公正なる裁判であったとしても、それは文明の逆転であり、法律の権威を失墜せしめた、ぬぐうべからざる文明の汚辱であると申さなければならない」(27年12月9日衆院本会議)

日本社会党の古屋貞雄議員も「敗戦国にのみ戦争犯罪の責任を追究するということは、正義の立場から考えましても、基本人権尊重の立場から考えましても、公平な観点から考えましても、私は断じて承服できない」(同)と訴えた。東京裁判がいかに不当で一方的なものかを論難するのに保革の違いはなかった。

翌28年8月6日、A級、B級、C級を問わず、戦犯を犯罪者と見なすのではなく、公務で亡くなった「公務死」と認定し、困窮を極める戦犯遺族たちに遺族年金、弔慰金を支給する戦傷病者戦没者遺族等援護法の一部改正法が成立した。
靖国神社への合祀も手続きに従って進められた。

確認したいのは、一連の戦犯問題の処理に外国から異論は唱えられなかったことだ。これらが独立した戦後日本の原点だった。
昨年12月26日、靖国神社に参拝した安倍晋三首相に対する非難、とりわけ国内からの強い批判にはこうした事実認識がすっぽり抜け落ちていないか。残念なのは、先人たちの労苦と思いが忘れ去られてしまったことだ。それどころか「勝者の裁き」を受け入れる「東京裁判史観」による発言が平然と出ている。

後藤田正晴官房長官は61年8月、東京裁判の正当性を認める見解を示し、小泉純一郎首相は平成17年6月、「(A級戦犯は)戦争犯罪人という認識をしている」と国会で答弁した。
安倍政権は少しずつ是正している。だが、日本が心を一つにして作り上げた成果を自らの手で無効にしてしまった所業は消えない。
これを喜んでいるのは、さて、誰であろうか。










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「魂の寄る辺に繋がる」

2014-01-19 07:34:19 | 日本

菅家一比古さんから「言霊の華」が届いた。
以下、要約し紹介する。


寄り添うと言えば、牡鹿(雄)と牝鹿(雌)を思い浮かべる。山道や崖っ淵の急斜面の足跡を見ると、牡鹿の足跡の上にピッタリと牝鹿の足跡が重なっている。夜の山の中、牡鹿が牝鹿を切なく喚び求める声を耳にすることがある。

その情緒は百人一首の和歌の中にも出て来くる。寄り添う夫婦(めおと)鹿の姿に共感、哀愁を覚えた日本人の伝統精神がそこにある。

私のとても好きな言葉のもう一つに「魂の寄る辺」がある。魂の拠り所、よすが。魂が癒され、魂が満たされる場所なり人を指す。子にとっての「魂の寄る辺」とは、それは「母」である。

日本人にとっても「魂の寄る辺」とは、やはり母であり、ご先祖であり、ご皇室である。
しかし現代日本人は果たして魂の寄る辺としているのだろうか。靖國神社はどうだろうか。魂の寄る辺を見失った人間は、ただ彷徨うばかりであることを知るべきである。

「魂の寄る辺」こそ人間の原点である。そこにしっかりと繋がっていることによって、安心と安定、自信、希望を得ることができる。







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