龍の声

龍の声は、天の声

「朝の祈り」

2019-06-30 07:55:11 | 日本

わたは毎日、以下のことを数回唱え祈っております。
暇あるごとに、この祈りを実行してくださいね。
必ずよい結果をもたらします。


◎朝の祈り

大宇宙の無限の生命よ、
われはあなたの中に生活し、あなたのうちに息している。

われはあなたである。
われはあなたの生命が顕現したものである。
われは楽観そのものである。
希望そのものである。
われは深き歓びに満ち溢れている。

「わが内に神が、今ここに神が!」

私は神なり、愛と光なり



ここで言う「われ」とは、今ある病気とか、痛みとか、苦しさとか、悩みとか、自分のこの身体や自分の思いではなく、

ちょっとそこから離れ、今の意識を外して、その向こうにある自分(われ)です。

その自分(われ)に全てを全託する。生きるも死ぬも、全てをその自分(われ)に任せ切ることです。

自分が生きているのではない、生かされているのだ!
完全円満な自分の本質に生かされているのだ!
ということがわかってきます。

これが谷口雅春先生がいう「生命の実相」の根本真理です。

私もあなたも、みんなそうです。人生は魂の修行の場です。この根本真理を把握することことそが、与えられた自分の人生の重大事です。
そのための人生学校だと思います。

その思いで、再度、先の文章「朝の祈り」を読み直して、何度も繰り返し、深く実感し噛み締めて下さいね。











「朝の祈り」

2019-06-30 07:55:11 | 日本

わたは毎日、以下のことを数回唱え祈っております。
暇あるごとに、この祈りを実行してくださいね。
必ずよい結果をもたらします。


◎朝の祈り

大宇宙の無限の生命よ、
われはあなたの中に生活し、あなたのうちに息している。

われはあなたである。
われはあなたの生命が顕現したものである。
われは楽観そのものである。
希望そのものである。
われは深き歓びに満ち溢れている。

「わが内に神が、今ここに神が!」

私は神なり、愛と光なり



ここで言う「われ」とは、今ある病気とか、痛みとか、苦しさとか、悩みとか、自分のこの身体や自分の思いではなく、

ちょっとそこから離れ、今の意識を外して、その向こうにある自分(われ)です。

その自分(われ)に全てを全託する。生きるも死ぬも、全てをその自分(われ)に任せ切ることです。

自分が生きているのではない、生かされているのだ!
完全円満な自分の本質に生かされているのだ!
ということがわかってきます。

これが谷口雅春先生がいう「生命の実相」の根本真理です。

私もあなたも、みんなそうです。人生は魂の修行の場です。この根本真理を把握することことそが、与えられた自分の人生の重大事です。
そのための人生学校だと思います。

その思いで、再度、先の文章「朝の祈り」を読み直して、何度も繰り返し、深く実感し噛み締めて下さいね。











「国歌を歌っただけで中国共産党に拷問され死亡 チベット人歌手」

2019-06-29 07:28:49 | 日本

ダライ・ラマ法王日本代表部事務所が5月2日に公式twitterアカウントで配信した情報によると、2016年にカンゼ・チベット族自治州(四川省)でチベット国歌を歌い、SNSにその動画を投稿していたチベット人歌手ペマ・ワンチェン氏が、その2ヶ月後に当局に拘束・拷問された影響で、2019年4月26日に四川省成都の病院で死亡した。

ダライ・ラマ法王日本代表部事務所:チベット国歌を歌った罪で、2016年4月に中国当局に拘束されたチベット人歌手ペマ・ワンチェンさんが、激しい拷問による健康状態の悪化で、先月26日に四川省成都の病院で亡くなりました。2016年2月13日にカンゼで国歌を歌いSNSに動画を投稿、WeChatで広まり、その後逮捕されました。享年31歳でした。

チベット国歌はインドのチベット亡命政府などで歌われているが、中国共産党に占領されているチベット本土では歌唱が禁止されている。
ダライ・ラマ法王日本代表部事務所の公式サイトに掲載されている、チベット国歌の和訳は以下の通り。仏教国らしい、平和を祈る内容だ。


◎チベット国歌

輪廻・涅槃における平和と幸福への、あらゆる願いの宝蔵にして願いを意のままに叶えることができる、宝石の如き仏陀の教えの光明を輝かせよう。
そして、仏教と衆生の持宝たる大地を育み、守護する御法神よ、汝の徳の高い偉業の大海が広がり金剛のように固く、慈悲をもって全てのものをお守りください。
百の歓喜を備えた天授の法が、我々の頭上に留まり四徳の力が増大しチベットの三区全土が、幸福で円満な時代で満たされ、政教が盛行しますように仏陀の教えが十方に広がることによって世界中の全ての人々が平安を享受できますように。
そして、チベットの仏教と衆生の吉兆なる陽光と十万に広がる吉兆なる光明の輝きが邪悪な暗闇との戦いに勝利しますように


◎カンゼ・チベット族自治州とは

チベット人歌手ペマ・ワンチェン氏が逮捕されたカンゼ・チベット族自治州は、チベット自治区の東隣に位置する四川省にある。辛亥革命後、中華民国とチベット国が領有権を巡って争った場所でもある。

1949年、国民党との内戦を制して中華人民共和国を建国した中国共産党は、直ちにチベット侵略を開始し、1950年の「チャムドの戦い」ではチベット兵5,000名が殺害された。1954年から1974年頃まで続いた「カム反乱」はチベット動乱のきっかけとなった。


◎中国共産党による人権弾圧

これまで中国共産党はチベット全域で120万人にも上るチベット人を虐殺し、仏教寺院を破壊するなどして思想統制を行なっている。チベット人は隣町に行くにも共産党当局の許可が必要で、当局に承認された歌しか聴くこともできないなど、生活の隅々まで監視下に置かれている。

ダライ・ラマ法王日本代表部事務所が5月2日に公式twitterアカウントで配信した情報によると、2016年にカンゼ・チベット族自治州(四川省)でチベット国歌を歌い、SNSにその動画を投稿していたチベット人歌手ペマ・ワンチェン氏が、その2ヶ月後に当局に拘束・拷問された影響で、2019年4月26日に四川省成都の病院で死亡した。

ダライ・ラマ法王日本代表部事務所:チベット国歌を歌った罪で、2016年4月に中国当局に拘束されたチベット人歌手ペマ・ワンチェンさんが、激しい拷問による健康状態の悪化で、先月26日に四川省成都の病院で亡くなりました。2016年2月13日にカンゼで国歌を歌いSNSに動画を投稿、WeChatで広まり、その後逮捕されました。享年31歳でした。

チベット国歌はインドのチベット亡命政府などで歌われているが、中国共産党に占領されているチベット本土では歌唱が禁止されている。

ダライ・ラマ法王日本代表部事務所の公式サイトに掲載されている、チベット国歌の和訳は以下の通り。仏教国らしい、平和を祈る内容だ。


◎チベット国歌

輪廻・涅槃における平和と幸福への、あらゆる願いの宝蔵にして
願いを意のままに叶えることができる、宝石の如き仏陀の
教えの光明を輝かせよう
そして、仏教と衆生の持宝たる大地を育み、守護する御法神よ
汝の徳の高い偉業の大海が広がり
金剛のように固く、慈悲をもって全てのものをお守りください
百の歓喜を備えた天授の法が、我々の頭上に留まり
四徳の力が増大し
チベットの三区全土が、幸福で円満な時代で満たされ、政教が盛行しますように
仏陀の教えが十方に広がることによって
世界中の全ての人々が平安を享受できますように
そして、チベットの仏教と衆生の吉兆なる陽光と
十万に広がる吉兆なる光明の輝きが
邪悪な暗闇との戦いに勝利しますように


◎カンゼ・チベット族自治州とは

チベット人歌手ペマ・ワンチェン氏が逮捕されたカンゼ・チベット族自治州は、チベット自治区の東隣に位置する四川省にある。辛亥革命後、中華民国とチベット国が領有権を巡って争った場所でもある。

1949年、国民党との内戦を制して中華人民共和国を建国した中国共産党は、直ちにチベット侵略を開始し、1950年の「チャムドの戦い」ではチベット兵5,000名が殺害された。1954年から1974年頃まで続いた「カム反乱」はチベット動乱のきっかけとなった。


◎中国共産党による人権弾圧

これまで中国共産党はチベット全域で120万人にも上るチベット人を虐殺し、仏教寺院を破壊するなどして思想統制を行なっている。チベット人は隣町に行くにも共産党当局の許可が必要で、当局に承認された歌しか聴くこともできないなど、生活の隅々まで監視下に置かれている。











「安倍総理、G20における日本の歴史的責務を自覚されたい」

2019-06-28 07:05:04 | 日本

西村真悟さんが「安倍総理、G20における日本の歴史的責務を自覚されたい」について掲載している。
以下、要約し記す。



六月二十八日と二十九日、大阪でG20が開催される。

世界の主要国G7にEUとロシアが加わり、さらにインドや中国そしてオーストラリア、韓国、ブラジル、メキシコ、インドネシア、南アフリカ、トルコ、サウジアラビア、アルゼンチンなど十一カ国
合計二十カ国の首脳が大阪に集まる。

そして、ホスト国である我が国の安倍晋三総理大臣が会議を仕切ることになる。
このG20で、アメリカと中国とロシアのトランプ大統領と習近平主席とプーチン大統領が、大阪で日本の安倍総理の仕切りの下で一同に会するこになる。
これは、現下の国際情勢のなかで象徴的な意義をもつ。
従って、このG20が如何なる国際情勢の台流、もっと大きく見れば、如何なる歴史段階の中で行われるものであるのかを概観しておくことが必要である。

まず第一に、この度のG20という会同は、東アジアにおいて「第二の冷戦」が始まった時期に行われると指摘したい。

「第一の冷戦」は、第二次世界大戦後からベルリンの壁が崩壊して一九九一年十二月のソビエト連邦共和国が解体するまでの自由主義陣営と共産党独裁陣営の対立であった。
当事国代表は、それぞれ、ソビエト連邦共和国とアメリカ合衆国。
これに対して、現在始まった「第二の冷戦」は、中華人民共和国に終身独裁者習近平主席が誕生し、アメリカ合衆国にトランプ大統領が誕生したことを切っ掛けとして始まった。
アメリカのトランプ氏には、米中貿易戦争を始める時に、明確な自覚はなかったとは思うが、
人類の幸福にとって、まことに意義ある歴史的「冷戦」を開始してくれたのだ。
この一点で、彼、トランプ氏はアメリカ大統領として歴史に残る。

この「第二の冷戦」の本質は、前の「冷戦」が近現代に生まれた自由主義と共産主義とのイデオロギーの対立であったのに対して、人間存在の、もっと、根源的な、情動的な、人間の太古からの生き方に根ざす「文明の衝突」といえる。

このことは、地理的に支那に近い日本人の観点から言うのが一番分かりやすい。
つまり、これからの冷戦は、欲望に走るイナゴの群れのような無数の人民を支配する支那的独裁権力の地球規模の支配圏拡大を拒否する「人間の自由を主体とする文明」と、中華民族の復興を掲げて世界支配を拡大しようとする「おぞましい文明」との衝突である。
何故、「おぞましい」のか。

それは、中華民族を率いる独裁権力の特色と本質が権力者の欲望に奉仕する為の宦官を必要とする腐敗と堕落であり外部の被支配者に対する残虐性であるからだ。
これは、唐であれ明であれ清であれ現在の中華人民共和国であれ不変である。
現在の中共が、政権内部に持つ腐敗!
ウイグルにチベットにモンゴルに何をしているか!
文化大革命で自国人民を二千万人殺し、三十年前に天安門広場で人民に何をしたのか!

西暦八九四年、菅原道真は、遣唐使を廃止して支那との交流を中止した。
この廃止の理由は、菅原道真が、宦官が権力を左右し人肉を食らう支那の惨状を知ったからだけではなく、遣唐使と交換する形で日本に来た支那人達のおぞましさを見たからである。
明治十二年、情報将校として活動を開始した福島安正陸軍中尉は、支那人になりすまして五ヶ月間、清国を偵察し、次の通り報告した。
「上は皇帝、大臣より、下は一兵卒まで官品の横領、横流しを平然と行い、贈収賄をやらない者は一人もいない。
これは清国のみならず、古来より一貫して変わらない歴代支那の不治の病である。
このような国は日本がともに手を取ってゆける相手ではありえない・・・。」

今まさに、太古から同じ「このような国」が、世界の自由主義経済システムにダニのように寄生して世界からカネを吸い上げ、国と十数億の人民ごと守銭奴となり、この守銭奴が、核弾頭ミサイルを実戦配備したモンスターとなって世界に覇権を拡大しようとしている。
これが、「第二の冷戦」の開始である。

従って、この支那と「文明」を異にする我が国こそは、旗幟を鮮明にしなければならないのであって、この度のG20は、まさに、その旗幟鮮明の機会である。
ゆめゆめ、安倍総理は、アメリカのトランプ大統領の次に中共の習近平主席を国賓として日本に招きたい、というような認識で習近平氏に対応してはならない。
中共は日本の主要都市に照準を当てて核弾頭ミサイルを実戦配備しているのだ。
これ、完全に、我が国と仮想敵国同士ではないか。
すでにまやかしの「日中友好」時代は終わっている。
従って、安倍総理は、日本の大阪に来た習近平主席に、まず、実戦配備している貴国の核弾道ミサイルの照準を、我々のいる大阪から外して来日したのか?
と尋ねたらどうか。
 
次に、ロシアであるが、安倍総理とプーチン大統領は、既に二十数回会談しており、お互いに、ウラジーミル、シンゾウと呼び合う仲で個人的信頼関係ができている、と、安倍総理は思っているようだ。
しかし、プーチン氏は、ソビエト連邦共産党員として、情報機関、秘密警察であったKGB(ソ連国家保安委員会)に入って頭角を現したブレジネフの手下の共産党エリートである。
その共産党エリートとは、無理難題に処してたじろがず、手段を選ばず、親友を裏切ることを屁とも思わない者である、と十一年間ソビエトの収容所に抑留拘束されてロシア人の本質を知り尽くした故内村剛介北海道大学教授が言っている(同氏著「ロシア無頼」)。
プーチン氏の、政敵を次々と殺害し、ソチ冬期オリンピックに世界の耳目を集めておいて、一挙に軍隊を侵攻させてウクライナのクリミアを軍事力で奪った手法を見ると、彼はまさに内村剛介氏がいう共産党エリートそのものである。

友と思い込んでいる安倍晋三氏を裏切ることを屁とも思っていない。
従って、彼は、日本に北方領土を返還する気など毛頭無く、ただ日本からの経済的利益と得るために笑顔で来日するに過ぎない。
そして、「第二の冷戦」においては、クリミア武力併合で対露制裁を実施しているアメリカの敵は中共であるから、敵の敵は味方で、プーチンは中共に付く。
現在、中露蜜月である。
従って、安倍総理は、プーチン氏に対しても、冒頭の挨拶で次のように尋ねれば良い。

以前に来日した貴殿の前任者であるエリティン大統領は、空港に着くなり、ミサイルの照準を日本から外してから来たと言った。
貴殿も外して来たのかね?
 
以上の通り、二十八日と二十九日のG20では、大阪に「第二の冷戦」における「アメリカと日本陣営」と「中共とロシア陣営」が相対するという図式になる。
そこで、繰り返すが、我が国が覚悟を決めるべきことは、「第一の冷戦」ではアメリカ任せでよかったが、「第二の冷戦」では、日本が「文明」の名において、主体となって、中共の覇権主義を阻止しなければならないということである。

何故なら、この冷戦に於いて中共は、台湾併合どころか一挙に尖閣併合から沖縄本島併合に進む方針であり、これと同時に、日本本土を併合することを目指しているからだ。
中共は、日本に繋がるシーレーンを支配すれば日本併合は成ると判断している。
そして、日本を飲み込めば、世界支配は掌中に入ると見切っている。

我が国は、つい最近までこの中共に総額三兆円以上のODA援助を実施して、現在の習近平に率いられたモンスターを育てたのだ。
その中共は、中距離核弾頭ミサイルの実戦配備数は世界一であり、毎年、日本を囲む近海で
中共とロシアの海軍が多数の軍艦を展開して合同軍事演習を実施していることを知らねばならない。

中共は、国際法を無視して南シナ海に人口島を建設してミサイル基地や海軍や空軍の基地にして、我が尖閣周辺を中共の海の如く不法占拠し、途上国に債務の罠を仕掛けて返済不能に陥らせてその港湾を召し上げている。
これが習近平の「一帯一路」戦略のからくりだ。
日本を含む自由な民主主義国は、この所業を見て見ぬ振りをしてはならない。
最後に、この中共が仕掛けている「戦争」の内容を指摘しておく。

それは、「Other Than War」というもの、つまり、「戦争で無いようで実は戦争であり戦争のようで実は戦争ではない」という、思想戦、宣伝戦、大量の観光客送り込み、広大な土地買い占め、歓楽地への蛇頭進出・・・等々、これが中共の「対日戦争」なのだ。
彼は、この「戦争(other than war)」を既に開始している。
そして、この「戦争」に無防備で寝ているのが、この度のG20のホスト国である日本だ。
危ういではないか!

よって、この度のG20を、この中共の仕掛ける「Other Than War」への世界的反撃の第一歩になるように仕切るのがホスト国の総理の、人類への文明論的責務である。







「属国の証・日米地位協定」

2019-06-27 08:53:48 | 日本

◎米軍の駐留はアメリカが同情を以って日本に与える「恩恵」

日米地位協定は、なぜ日本の主権を著しく制限する、属国的は内容のものとして結ばれることになったのか。それは、日米地位協定(日米行政協定)が結ばれる経緯を見ることによって明らかになる。
サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の締結に向けた日米交渉は、1951年1月に開始された。交渉団代表のダレス国務省顧問は同月26日、日本に「われわれが望む数の兵力を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保させること」が最大の目的だと語っていた。しかし、同時にダレスは、「アメリカにそのような特権をあたえるような政府は、日本の主権を傷つけるのを許したと必ず攻撃されるだろう。われわれの提案を納得させるのは難しい」とも述べていた。(三浦陽一「吉田茂とサンフランシスコ講和」)

自尊心を傷つけられないような平和条約によって独立を回復したいと考えていた吉田総理は、アメリカとの交渉に備え、日本の安全保障を確保するためのいくつかの政策について研究していた。アメリカとの交渉の道具、かけひきのために、吉田は「非武装、中立地帯」を設けることによって日本の安全を確保するという案も準備していた。ところが、吉田はダレスとの交渉が始まる直前に自らその案をおろしてしまった。
こうした状況で、2月2日に米側は、「日本領域内における米国軍の駐屯を日本は要請し合衆国は同意する」とした「相互の安全保障のための日米協力」案を示してきた。あくまで日本側の「要請」にアメリカが応えるという形の規定である。
これに対して、日本側は「日本は要請し米国は同意する」との文言を、「日本及び米国は日本領域内に米国軍が駐屯することに合意した」との規定に改めるように求めた。

豊下楢彦氏が指摘するように、日本側の論理は、「日本が米国軍に駐屯してもらいたいということが真理であるとおなじく、米国が日本に駐兵したいことも真理であると思う。五分五分のところであるから『両国は合意した』とするのが本当である」というものだ。
この論理が貫かれ、アメリカがそれを受け入れれば、吉田の言う自尊心を満たす条約となったかもしれない。しかし、日本には交渉のカードがなかった。その結果、米軍の駐留は、日本側の要請に応えて、アメリカが 同情をもって与える「恩恵」だというアメリカの論理に沿って、安保条約が結ばれることになった。アメリカの軍事的要請が全てにおいて優先されるという「不平等な構造」は、ここに発しているのである。


◎属国的な条項を押し込むために結ばれた日米行政協定

サンフランシスコ講和条約は、1951年9月8日にオペラハウスで華々しく締結された。そのわずか数時間後、日米安保条約は米第6軍団司令部の下士官クラブで密かに結ばれた。三浦陽一氏は、「ダレスの補佐役だったアリソン(後の駐日大使)は、もし安保条約が署名されたら、日本側代表団の少なくともひとりは帰国後暗殺されることは確実だと語っている」と書いている(三浦陽一「吉田茂とサンフランシスコ講和」)。

日本にとってそれほど売国的な内容だと、アメリカ側も認識していたということだ。調印するまで、 吉田は、安保条約は、「交渉中」として国会でまともなに議論させなかった。吉田以外の代表団のメンバーでさえ、条約の内容をほとんど知らなかった。
安保条約を、どこで、いつ結ぶのかさえ、ぎりぎりまで日本側には伝えられなかった。これについて、「本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」(前泊博盛編、創元社刊)は、「あまりにもアメリカに異常な特権をあたえる条約であるため、調印直前まで各国代表団に対して隠しておく必要があったからです」と説明している。

サンフランシスコ講和条約がアメリカ側代表4人、日本側代表6人によってサインされたのに対して、安保条約はアメリカ側が同じく4人サインしたにもかかわらず、日本側は吉田首相がただひとりでサインした。しかし、安保条約には具体的なことは書き込まれていない。主権を制限するような、様々な規定は日米行政協定に書き込まれたのである。
日米行政協定は1952年2月28日、東京の外務省庁舎で結ばれた。寺崎太郎元外務次官は、次のように振り返っている。
「日本が置かれているサンフランシスコ体制は、時間的には平和条約―安保条約―行政協定の順序でできた。だが、それがもつ真の意義は、まさにその逆で、行政協定のための安保条約、安保条約のための平和条約でしかなかったことは、今日までに明瞭であろう。つまり本能寺は最後の行政協定にこそあったのだ」

つまり、講和条約や安保条約には書き込めない属国的は条項を押し込むために結ばれたのが、日米行政協定だったということである。
<月間「日本」誌より抜粋>









「トランプ大統領、日米安保条約破棄の考え?」

2019-06-26 06:00:00 | 日本
トランプ大統領、日米安保条約破棄の考え側近に示していた。


2019/06/25 11:56

(ブルームバーグ): トランプ米大統領が最近、日本との安全保障条約を破棄する可能性についての考えを側近に示していたことが分かった。事情に詳しい関係者3人が明らかにした。トランプ大統領は日米安保条約が米国にとって不公平だと考えている。

関係者によれば、トランプ氏は同条約について、日本が攻撃されれば米国が援助することを約束しているが、米国が攻撃された場合に日本の自衛隊が支援することは義務付けられていないことから、あまりにも一方的だと感じている。約60年前に調印された同条約は、第二次世界大戦後の日米同盟の基盤となっている。

大統領は条約破棄に向けて実際に措置を取ったわけではなく、政権当局者らもそのような動きは極めてありそうもないことだと話している。トランプ氏の個人的な会話の内容だとして関係者らはいずれも匿名を条件に語った。

万が一条約破棄となればアジア太平洋地域の安全保障に役立ってきた日米同盟を危うくする。日本が中国および北朝鮮からの脅威に対して防衛するため別の方法を見つける必要が生じ、新たな核軍備競争につながるリスクもある。

「憲法論議を嫌がる国会議員はバッジ外すべき」

2019-06-25 05:44:18 | 日本

有本香さんが「憲法論議を嫌がる国会議員はバッジ外すべき」について掲載している。
以下、要約し記す。



通常国会最終盤のハイライトかと期待された党首討論が行われた。が、結果は期待外れ。

野党党首らはそろいもそろって、「モリカケ」に代わる新たなオモチャ「老後資金2000万円問題」に夢中になるあまり、国家の針路をめぐっての火花散る大論戦と程遠い、お粗末さを国民に露呈した。今ごろ、安倍晋三首相と与党はほくそ笑んでいることだろう。

政権と与党の揚げ足取りに興じるだけの、こんな野党ではダメだ。なぜ、彼、彼女らは今まさに、わが国に降り掛かっている国難、危機を切実に感じることができないのか。その危機感、切迫感を政権にぶつけ、国民に新たな選択肢を見せることができないのか。

これについては、マスメディアも同様、同罪だ。

野党の政治家らが、「モリカケ」や「2000万円」に依存するのは、それで騒いでさえいればマスメディアのアシストが得られるという甘えがあるからだ。運が良ければ政策などロクになくとも、選挙に大勝することさえ可能となるからだ。

ダメなのは野党とメディアだけではない。昨年から今年の国会では、自民党も、支持者、国民を大いにがっかりさせた。

特に、憲法審査会が事実上開かれず、憲法論議がまったく前に進まなかったことへの失望は、自民党支持者ならずとも強い。同審査会が設置されて13年が過ぎ、与党は史上初、衆参両院で憲法改正発議に足る3分の2の議席を有している。それでも一向に進まない。

昨年秋、自民党の有力議員らは「臨時国会では時間が足りないから、来年の通常国会で憲法論議をする」と口をそろえていたが、その口約束は果たされないまま会期末を迎えている。

「憲法論議は、他の法案審議の何倍も慎重に、全会派の理解を得ながら進める必要がある。さもなければ、国民投票の際に『強引に進めた』というそしりを受け、内容の是非以前のところで否決されてしまう」

与党幹部らは「進まない」理由をこう釈明する。

言い訳はもはや聞き飽きた。国の最高法規を議論するという、最も国会議員冥利に尽きることに及び腰でいるのなら、誰であろうが改選時には潔くバッジを外してもらいたい。

だが、われわれ国民も、そう愚痴ってばかりもいられない。

世界は激しく変化し、産業構造も大きく変わるなか、日本の少子高齢化は止まらない。しかし、その激流を生き抜き、先人から受け継いだこの日本を子孫に残さなければならない。占領時代の憲法に手足を縛られたまま、座して死を待つわけにはいかない。

そう考えていたところへ、同じ思いを持つ先輩方が立ち上がるというご連絡をいただいた。微力ながら筆者も加わることにし、昨19日、都内で開かれた「憲法を国民の手に! 言論人フォーラム」設立の記者会見に出席した。

改憲派、護憲派の別なく、学者や作家、ジャーナリストに留まらず、実業界や芸能関係までの幅広い人たち。ただし、ただちに憲法論議を進めるべきとの問題意識を共有する人たちの会だ。

今後は国民の皆さまにも趣旨に賛同いただき、漏電したかのような国会に、議論のエネルギーを送り込みたいと思っている。





 











「再び、日本国憲法の無効を宣言する②」

2019-06-22 20:04:57 | 日本

◎まず、我が国における「国家生活の根本事実の出現」とは何時か。

それは神武創業である。
そして、神武創業を促し、神武創業で明らかになった立國法と國體法の法源は、神話と天照大御神の天壌無窮の神勅と神武天皇の八紘為宇の詔にある。
ここに、我が日本の天皇(国家元首)の立ち方とその地位の本質、そして立国の精神的又は道徳的理想が明らかになっている。
 
神話のなかの大国主命の国譲りは、天照大御神が使者を大国主命に使わして、「爾がうしはける葦原の中つ國(日本)は我が御子のしらすさむ國」と告げたところ、大国主命がそれに応じ、日本は「天照大御神の御子即ち天皇のしらす国」になったという話である。
そして、天皇の祖である天照大御神の天壌無窮の神勅は、「豊葦原の千五百秋瑞穂の國は、是吾が子孫の王たるべき地なり。
宜しく爾皇孫、就きてしらせ。」とある。

ここに鮮明にされた、我が国の御国振りが、即ち、「天照大御神の子孫である天皇のしらす國が万世一系続く」ということ、これが我が国の不文の立國の法、即ち、國體の法である。
そして、この我が国の立國法・國體法は、以後、詔(みことのり)、万葉集をはじめとする歌、また、聖徳太子の「十七条の憲法」や「宇佐八幡の神託」や南北朝期の北畠親房の「神皇正統記」そして、江戸期の国学や水戸学を経て、明治維新の「王政復古の大号令」から「五箇条の御誓文」と「国威宣布の宸翰」、さらに「教育勅語」を経て、「大日本帝国憲法」という成文の憲法典に結実する。
これが、我が国の「憲法」である。
 
この「うしはく」と「しらす」という古代大和言葉の意味を探究したのが江戸時代の国学者本居宣長であり、彼が「古事記伝」に書いた説明によれば、「うしはく」とは、ある地方の土地人民を、我が私有物として、領有支配すること。
「しらす」とは、人が外物と接する場合、即ち、見るも、聞くも、嗅ぐも、飲むも、食うも、知るも、みな、自分以外にある物を、我が身にうけいれて、他の物と我とが一つになること、自他の区別がなくなって、一つに溶け込んでしまうことである(木下道雄著「宮中見聞録」)。
 
大国主命は、土地と人民を自分の私有物として支配する國を、天照大御神の御子と家族のように一つに溶け込んでしまう國にするために譲ったのだ。
これによって、日本が日本になった。
まことに尊い御業というほかない。
上皇后陛下がかつて大国主命が祀られる出雲大社にご参拝されたとき、次の御歌を詠まれた。

『國譲り 祀られましし 大神の 奇しき御業を 偲びてやまむ』
 
以上の悠久の太古から続く不文の立國法・國體法を、明治維新を経た近代のなかで、法的に表現して成文化したのが大日本帝国憲法だ。
この憲法の起草者である井上毅は、寝食を忘れた如く、我が国の神話と古典の研究に没頭し、古事記から我が国が「天皇のしらす國」と表現すべきことを発見する。
そして、天皇(元首)の立ち方とその地位の本質を次の通り近代法的に表現した。

第一条、大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す。
第二条、皇位は皇室典範の定むる所に依り皇男子孫之を継承す。
第三条、天皇は神聖にして侵すへからす。
第四条、天皇は國の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行ふ。
 
起草者井上毅は、「主権」という語を一切使っていない。
何故なら、「天皇のしらす國」は天皇と国民が一つに溶け合った家族であり、欧米諸国のように、国内において、君主と人民を対立したように峻別して、主権が君主にあるのか人民にあるのかを争う必要はなく、当然その歴史もないからである。
なお、井上は、「しらす」という大和言葉を憲法典に記載しようとしたが、ドイツ帰りの伊藤博文に阻止され実現しなかったと聞く。
 
ともあれ、明治維新後の世は、欧米化の風が吹きまくっており、鹿鳴館に代表される欧化の風潮のなかで、日本語を廃止してローマ字を使用することを主張した有力者もいた時期である。
この欧米化の嵐のなかで、井上毅は我が国の神話と古典研究に没頭して大日本帝国憲法を起草したのだ。

そして、その度重なる憲法案審議の場には、明治天皇が御臨席されていた。
つまり、大日本帝国憲法は、国家の運命的な重要決定が行われる御前会議のなかで出来上がった成文憲法である。
GHQの二十五人の若いアメリカ人が九日間で書いた作文との違いは天地以上である。

元産経新聞論説委員長の皿木喜久氏は次のように記している(「明治という奇跡」展転社刊)。
「欧米列強に対抗するためにその文化、制度を取り入れるのは止むを得なかった当時の状況で、憲法の中に色濃く日本の伝統を残すことができたのは、奇跡的とも言えた。」さらに、昭和五十四年三月、明治神宮が編纂した「大日本帝国憲法制定史」は、冒頭に明治天皇の御製

をりにふれてさだめたる國のおきてはいにしへの聖の君のみこゑなりけり

を掲げた。
そして末尾に、大日本帝国憲法制定史調査委員長で京都大学名誉教授の大石義雄博士が、「大日本帝国憲法は、明治天皇が皇祖皇宗の遺訓を体して欽定されたものであるから、
大日本帝国憲法の精神的基礎を成す日本思想を理解することなくしては、大日本帝国憲法の制定史を語ることはできないのである。」と書きはじめ、最後に「大日本帝国憲法は、現憲法から見れば旧憲法である。

しかし、社会は刻々として変わる。
占領目的達成の手段として作られた現憲法も、いつまでもつづくというふわけにはゆかないのであり、いつかは変わらねばならないだろう。
その時は、大日本帝国憲法の根本精神が新憲法の名においてよみがへって来るだろう。
この意味において、大日本帝国憲法はこれからの日本の進路を示す光として今も生きているのである。」と結ぶ「跋文」を記しておられる。
 
以上が、大日本帝国憲法の制定過程である。


◎では、日本国憲法は如何にして作られたのか。

これ、公知の事実。
即ち、起草したのは日本人ではなく、外国人のチャールズ・ケーディス大佐以下二十五名の日本占領軍職員。
彼らが起草したのはもちろん占領下の同二十一年二月のたった九日間。
そして、占領下に大日本帝国憲法の改正として帝国議会で議決され同年十一月三日公布され翌年五月三日に施行された。

その間、我が国を占領していた占領軍は、厳格で執拗な検閲を行って自由な言論を封じ、罪もない者を含む「戦犯」を処刑(リンチ)し、気に入らない二十万人以上の人物を追放していた。
日本以外の世界の法律家なら、このような情況でできた「憲法」は国際法違反で無効だと言う。

仮に近い将来、中共の人民解放軍が朝鮮半島全土を占領したうえで、「朝鮮国憲法」を作れば、日本を含む世界の法律家は、その憲法は無効だと判断する。
これと同じだ。
従って、まず、日本国憲法も無効だという結論を記しておく。
 
そのうえで、最後に、論じられることが少ない論点について記しておきたい。
それは、日本国憲法が、大日本帝国憲法第七十三条の改正規定に従って大日本帝国憲法の改正として施行された点である。
 
これも、結論から指摘する。
この改正は無効である、と。
既に記したように、大日本帝国憲法は、不文の立國法に基づいて、我が国の天皇の本質と成り立ち、そして、国民の精神的乃至道徳的伝統を記し、その國體を護持するために統治権力作用の組織や権限を定めている。
従って、統治作用を担う内閣や国会は万能ではなく、自らに権限を与えている立國法の本質を改正することはできないのである。
我々の身体で言うならば、顔の一重瞼を二重瞼に整形したり鼻を高くしたりすることはできても、首を切り落として取り替えることはできないということだ。
従って、大日本帝国議会は、「大日本帝国憲法」を「日本国憲法」に改正することはできない。
この改正は無効だ。

さらに之に留まらず、議会が昭和二十三年に行った「教育勅語」の失効決議も無効である。
立國法を護持するための統治権力組織に、立國法と不可分の「教育勅語」や「軍人勅諭」を無効にすることはできない。
 
さらに条文の形式的解釈に於いてもこの改正は無効である。
何故なら、大日本帝国憲法第七十五条は、「憲法及び皇室典範は摂政を置くの間之を変更することを得す」と定めている。

摂政を置く時とは、天皇の能力に欠落があるときである。
では、占領下の天皇は如何なる地位に置かれていたのか。
それは、同二十年九月二日に調印された「降伏文書」により明らかだ。
即ち、そこに、「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は・・・連合国最高司令官の制限の下に置かれるものとする。」と記載されているではないか。
これ、我が国開闢以来最大かつ屈辱の天皇の能力の欠落した状態ではないか。
よって七十五条に基づき、このような時に、憲法の改正はできない。
 
以上、先帝陛下の御意思による万世一系の皇位継承を目の当たりにしたうえで、今上陛下が現人神となられる大嘗祭に向かう今、我々は、日本国憲法の無効と、大日本帝国憲法の甦り、
そして、我が国の神話に淵源する不文の立國法と國體法が、悠久の太古の神話の世界から綿々と歴史を貫いて、今も脈々と生きていることを確認しようではないか。









「再び、日本国憲法の無効を宣言する①」

2019-06-22 20:03:43 | 日本

西村真悟さんが「再び、日本国憲法の無効を宣言する」について掲載している。
以下、要約し記す。


本年十一月十四日と十五日の大嘗祭によって、今上陛下は天照大御神と一体となられる。
即ち、現人神(あらひとがみ)になられる。
 
この大嘗祭が歴代天皇の御代に一回行われてきたということは、天皇家の祖である天照大御神の「天壌無窮の神勅」によって初代天皇となった神武天皇以来百二十五代の天皇は、総て天照大御神の「生き通し」であり、今上陛下も天照大御神と一体となって百二十六代の天皇となられるということだ。
これが、「万世一系の皇祖を践む」ということである。
 
これに対して、唯一絶対の超越神ゴッドを戴く一神教のキリスト教を国の宗教とする欧米においては、新しい国家元首の就任において、例えばイギリスでは、英国国教会の大司教が神の代理として新しい王に王冠を授与する。

また、アメリカにおいては、新大統領は聖書に手を置いて神に向かって宣誓する。
このように、キリスト教世界では、元首(人)が「神」から王冠を授けられ、あるいは、「神」に向かって宣誓する。

つまり人から超越した「神」という他者から権威を授けられ他者に誓うのが欧米なのであるが、これに対して、多神教の八百万の神々がいる我が日本では、天皇は、大嘗祭によって天照大御神と自他の区別がなくなり神と人が一体になる。
ここが、決定的に違う。
 
このように、この度の我が国の皇位継承において、我が国が「日本であることの本質」が顕れている。

そして、同時に、現在の我が国の、昭和二十二年五月三日に施行された「日本国憲法」を土台として作られた「戦後体制の法体系」が、如何に「日本であることの本質」から乖離したものであるかも明確に顕れた。
これは、即ち、「日本国憲法」とは、日本人として生まれた日本国民が、日本の本質に目を閉ざした無国籍人として生きることを促す占領中の特異かつ架空の法体系であることが明確になったということである。
これが、この度の御譲位の、重大な歴史的・文明論的意義である。
 

◎その上でまず、「日本国憲法」を廃棄する方策を記したい。

「日本国憲法」の改正を論じるのではない。
廃棄すべきものを改正しても意味が無いどころか、却って廃棄すべきものを温存し有害である。

「日本国憲法」を廃棄することは、日本人として生きたいという我々日本人の生きる力、即ち、民族生命を回復する力の躍動なのである。
まず、上記の記憶に生々しい政府の行った「退位礼正殿の儀」が従った、日本国憲法第一条は次の通りである。
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。」

結論から言うが、明白であろう。
この第一条はウソである。

昭和二十年八月十五日から日本国憲法が施行される同二十二年五月三日までの間に、天皇を決める国民投票でも行われたとでも言うのか。
天皇の地位は、国民が決めたのではなく、太古の「天照大御神の天壌無窮の神勅に基づく」、これが正しい。
日本国民とは、「天皇の地位は天照大御神の『天壌無窮の神勅』に基づく」と正々堂々と言い切る者のことだ。

吉田松陰や三島由紀夫は日本人だ。
三島由紀夫は言った。
「命に代えても守るべきものが二つある。
それは三種の神器と天壌無窮の神勅だ。」と。
吉田松陰は斬首される十六日前に、友人堀江克之助に次の通り書き送った。
「(天壌無窮の)神勅相違なければ日本未だ亡びず。
日本未だ亡びざれば、正氣重ねて発生の時は必ずある也。
只今の時勢に頓着するは神勅を疑ふの罪軽からざるなり。」と。
 
さて、この日本国憲法の、こともあろうに、第一条が、ウソであると確認することは、これは即ち、この「日本国憲法と題する文書」は、日本の「憲法」としては、無意味であり無効であるという結論が掌中に入ったということである。
「黒い烏は白い」と何度言っても無意味であるのと同じだ。
とはいえ、独裁権力をもつ者が、権力によって「黒を白」と人民に強制的に思わせることは、現在も独裁国家によくある。

GHQのマッカーサーもそれを日本にしたということだ。
しかし、その独裁者が去れば、「黒を白」と思っている者は一人もいなくなる。
これと同様に、「日本国憲法と題する文書」即ち「マッカーサー憲法」は、同二十七年四月二十八日のサンフランシスコ講和条約発効によるGHQの日本占領統治が終了するとともに、我が国の「憲法」としては機能停止すべき文書として扱うべきである。
 

◎次に、そもそも「憲法」とは何かという原点に戻って論を進めたい。

「憲法」とは何かという原点を把握すれば、「日本国憲法と題する文書(マッカーサー憲法)」が、我が国の憲法としては無効であることの確信を得るからである。

以下、かつて御激励をいただき学恩ある故三潴信吾博士の「日本憲法要論」に学んだことを記す。
 
およそ憲法は、その国家の国民の精神的ないしは道徳的伝統と、その顕現としての立國法即ち國體法に基づいて、その国家の統治権力作用の組織や権限を定める基本法であって、法律、命令、規則その他の諸政務法令に対し、最高法規の地位にある。

従って、この憲法は、国家がある限りそこに存在しているが、その存在の仕方によって、紙に書かれた「成文の憲法」と紙に書かれていない「不文の憲法」がある。
また、成文であれ不文であれ、憲法が先にあって然る後に国家ができるのではなく、「国家生活の根本事実」が出現し、これと同時に、又はその後の時点に於いて不文の憲法ができ、次に紙に書かれて成文の憲法典が制定される。
そして、この憲法の果たす任務は、まず、立國法に基づく国家存立の確保即ち國體の護持である。

その上で、国家の統治作用により、国土と国の財産と国民の命と財産を保全し、さらに国民の人権を保障することである。
 
この憲法の基礎となる不文の立國法は國體法と称されるものであり、これは国の立国と同時に、その成立事実と不可分に存立し、立国の精神的又は道徳的理想を根幹とする国の最も基本的な伝統的秩序を樹立するものだ。
そして、この国の成立事実の中心は、元首の立ち方であり、国の元首の地位の本質を定めることである。
 
以上の通り整理した上で、我が国即ち日本の成り立ちを見つめ、我が国の「憲法」とは何か、を把握しなければならない。








「クンバハカ法②」

2019-06-22 05:46:06 | 日本

◎クンバハカのポーズの取り方

肛門とおなかと肩に意識を集中します。
なにかショックを受けたらスグに、肛門を締め、おなかに力を入れ、肩を落とします。この3つを同時にする、これがポーズです。

声を出して笑っているときの格好が実はクンバハカのポーズです。
クンバハカを実践してみて私は夜寝る前にクンバハカをします。

正座をし、顎と鎖骨、わきの下のところのリンパを軽くマッサージしてから、ひざは肩幅に開き、手のひらをもものところで組み、胸を張り、おへその辺りの腹筋に力を入れ、肩を力一杯下へ引っ張るように下ろし、肛門を締めます。

クンバハカをすると、肩の辺りが熱くなり肩こりが解消します。この時、呼吸法を腹式呼吸にし、まず息を吐きます。(吸う(鼻で)時におなかを膨らませて、吐く(口から)ときにおなかをへこませる)この時意識することは、出来るだけ深い呼吸をすることと、横隔膜を動かすことです。横隔膜が副交感神経を刺激し、リラックスして、安眠に導いてくれます。クンバハカをすることによって身体の抵抗力が上がった気がします。

「瞑想のすゝめ」と同様に、なんのための手段なのかは特定しません。
おかしな話なんですけども、あなたの目的がどんなものであろうと、それを達成するために抜群に有効な手段だからです。

心がまえそのものが強くなりますので、すぐに緊張してしまう方や、感情のコントロールがうまくできない方に特におすすめです。

 
◎天風式クンバハカ法を習慣化するコツ

「天風式クンバハカ法」の習慣をつけるのに一番いい一石二鳥の方法がある。
日に何千回でもいいから、深呼吸をすることを稽古なさい。
深呼吸は出すだけ。深呼吸なんだから、「呼」のほうから先におし。
そのときに、肛門は締めておいて、肩だけ落として、腹のほうは考えないで、息を出すだけ出しちゃう。
 
出しちゃって、出し切ったなと思ったときに、改めてまた肛門を締めて、肩を落としておいて、息を吸い込む。
 
いっぱい吸い込んだときにおなかにぐっと力を入れて、そしてまたハーッと出す。
一度に二回か三回でよろしい。
日に何千回でも、意識的にそれをやってみる。











「クンバハカ法①」

2019-06-21 07:07:38 | 日本

天風先生講話(抜粋) 昭和35年

 
ヒマラヤの山麓、現代の文化からほど遠いヨーガの里に、クンバハカ密法がありました。
それを習得することによって、己の心身が自分でも信じられないほど見違えるように変わってしまった。たいへん効果のあるもんなんです。
 
しかし、たいへんに難しいものであるから、長年ヨーガをやった人か私のように軍事探偵のような特殊な訓練を受けた者でないとなかなかか習得できない。そこで昭和7年頃から今あなた方にこれから教えるような本物のヨーガのクンバハカ方法を、現代文化の日本民族に実行しやすいように組み変えてみました。
 
それでも非常に効果がありますよ。本物はもちろん難行苦行に耐える体を造るためですが、これから教えるのは「神経反射の調節」さえすればいんだから、目的が自ずから違いますから、難しい理論は本に書いてあるから本を見て、ここでは方法だけをおさわりなさい。
 
それはね感情や感覚に衝撃刺激が来たなら、いきなり驚いたり怒ったりすることを、止めようとしたってだめだから、それはそれとして置いといて、先ずとりあえず一番初めにやらなくてはならないものは、肛門をキューと締めちゃうこと。気がつくたんびに、きっとあなたがたはお尻の穴が開いているってことを経験しますよ。まぁ見えない所だからいいと思っているだろうけど、お尻の穴というのは、ほんとうは開いていてはいけないもんなんです。
 
「いや締まっています」と言っても、それは自然の括約筋で締まっているだけで、特別に自分の意識的な緊張はしていないじゃないかな。そうして肛門を締めると同時に、臍下丹田いわゆるヘソを中心としたお腹にグッと力を入れる。このグッと力を入れるのは、全生命の肉体の重心を安定せしめるためなんだ。それと同時に肩の力をヒョイと緩めちゃう。肩が上がっていると横隔膜が上がり神経反射を完全に消滅できない。横隔膜をグッと安定せしめて全生命の重心を臍下丹田におしつけ肛門をしめる。
 
最初の間は、なにはともあれ何時でも肛門がしまっている自分になり得るように、折りあるごとに、時あるごとに、肛門を締める努力をしなさい。歩く時でも、座って立ち上がる時でも、座る時でも、肛門を締めといて、いや、もっと厳密なことを言えば、「えへん」と咳払いする時も締め、「おぃ」と言う時も締めて、「はい」と返事するときも締めて、だんだんそれを練習して行くうちにひょいと気がつくのは、本当に尻の穴というものは今まで知らなかったけれどもいつも開いているな〜と気がつく。
 
これはね〜尻の穴を開けといても、急激に突発的な変化がなにも起こらないから、その必要を感じなかったかも知れないけど、これがインドのような猛獣や毒蛇の多い所に行きますと、尻の穴が開いているとすぐにやられてしまう。だから犬があなたがたに吠えついたりしたら、尻の穴を締めてジ〜と犬の顔をみていたら吠えるのをやめてしまうから。人間の目には映らないけど、ああいう動物というものは人間のもたない感応というものが非常に鋭敏なんです。だから動物の目には肛門が締まっていると体から出すオーラが違うんです。オーラとはフランス語で見えない光でして、その見えない光が動物には見える。視覚神経に映るのであります。だから肛門を締めてジーと見つめている者には吠えたりしない。私が虎のオリの中に紋付袴のままで入って大きな虎と一緒に写真を撮ったり、 鶏が私の前でパッとすれば動けなくなるでしょう。これはみな自然に私の体からオーラが出ているからなんですよ。ですからどんな場合だって私の肛門は生理要求のある以外は開いてなどいません。
 
人間は万物の霊長だもん、誰でもそのように成れますよ。私だけでなくあなたがたも成れるのです。だからあなたがたもそのように、体の方を何時でもなれるように習慣ずけ、何時も肛門の締まった人間になるようにしないといけません。肛門さえ締めておけば、あとの腹に力を入れ、肩を落とすなんてわけないことです。それを普段なんにもしないでもって、いざお尻だ、腹だ、肩だと言っても間に合いません。
 
実行しないで聞き放しでは何時までたっても上達しません。実行せずに理屈だけ聞いても上手くなれません。おまけにこれはいちいち隣のおばさんや、おじさんに頼む必要もないんだ。己の現在もちうる体でできるんだもん。一番練習しやすいですよ。これをやっているとただ単に神経反射の調節法ができるばかりでなく、神経の生活機能を旺盛にし内蔵の全ての調子もよくなり息切れなんてものはなくなってくる。
 
とにかく、わずかな方法でもってそれが自分のものになってしまうと、自分でもこれが自分の命かいなと思うほど幸福を感じますから。やさしい方法だろ、わけない方法だろ、理屈は今は厳密に知らなくていいから、息にかまいなく尻の穴をしめて、肩を落として、腹に力を入れるということをなんべんでもやっていると、同じびっくりするにも、腹が立つにしても、たちまちそれはもう火に水をかけたのと同じようにだんだん収まってくる。
 
呼吸にあまり入念に注意しなくてもいいから、ただしこういう時だけには呼吸に注意してください。尻をしめて、肩を落として、腹に力をいれながら深呼吸するの。これを一日になん百回でもやりなさい。私のようになっちまうと朝から晩まで深呼吸しどうしであります。深呼吸しない時はありません。こうして話しをしている時はもちろん、普通に休んでいる時でも、少なくても私の呼吸はあなたがたよりも三倍くらいの長さでやっています。それはまぁ何十年もたっての結果ですが、それはあなたがたの場合は、最初の間は気がついたら深呼吸するんだよ。死ぬまで必ず呼吸をしてなくてはならないのだから、寝た間もけして多過ぎて困るという事はないのだから。
 
しかし、深呼吸は尻を締めて、肩を落として、腹に力を入れてやらないと肺気腫という肺がゴムの風船をふくらまし過ぎるとしわがよってしまうでしょ、あれと同じような状態にんるから、必ず尻を締めて、肩を落として、腹に力を入れて、べつに腹に吸い込もうとか、どこに息を吸い込もうとかいう観念を使わなくていいから、尻を締めて、肩を落として、腹に力を入れながら、できるだけゆっくり、深く、長く、気のついたたんびに一息でも二息でもいいから、ただし一日に一息や二息ではないよ、一日に一息や二息ではなんの効果もありはしません。もう間がなしきなくやってごらん。それは何てことはないね、そうすれば使うそばからお金が入ってくるのと同じような状態だ。活力と復活と補充ができるようになるから。
 
これだけ聴いただけでも、どれだけ大きなもうけもんかわからないだろう。しかし、聴き放しは駄目だよ、やらなければ。









「ワンネスの扉」

2019-06-20 05:49:24 | 日本

「ワンネスの扉」(ナチュラルスピリット)著者 ジュリアン・シャムルワさん、30代の若きフランス人の著書紹介を天下泰平の滝沢泰平さんがしている。
以下、興味深いので要約し記す。



ワンネスという言葉はスピリチュアルな世界でも頻繁に使われる表現ですが、それが一体どんなものなのか、言葉で説明するのは困難なものであり、その定義は本当に様々です。
ジュリアンさんは、このワンネスの体験を5段階のステージで分けており、これがまたワンネスを理解するのにとてもわかりやすいものです。

以下、本文から一部抜粋となりますが、ここで語られているワンネスの体験は、まさに映画「美しき緑の星」のテーマである“接続解除”と非常にリンクする部分があります


僕の経験では、ワンネス感覚を体験しているあいだ、時間の感覚は完全になくなる。まず、時間というものが消滅し、すべてが「今」になる。過去、未来、現在は一つになる。過去から未来へという直線的な時間軸がなくなり、一つとなるのだ。それがわかったのは、親しい人たちの誕生と死の瞬間を見せられたからだった。人生にとってもっとも重要な瞬間、誕生と死の場面が一つの瞬間として目前に現れたのだ。それを見ていると、彼らに対する愛おしさで心がいっぱいになった。

普段僕たちは、赤ん坊の誕生は喜びとして、人の死は悲しい出来事として経験する。でもワンネスを体験すると、魂の立場からこの二つが同等に見えるようになり、両方ともとても美しい現象に見えた。身体に入る前の希望と興奮、さまざまな体験を重ねて身体から離れていくときに抱く感謝の気持ちと喜び。死ぬときは身体から離れ、それまで積み重ねた体験と人間関係の豊かさで心が満たされている。それを眺めている僕も、喜びと悲しみを超えた素晴らしい気持ちでその死を見つめていた。

ワンネス体験中は「時間」も「生と死の区別」もなくなり、すべてが瞬間的に同時に起こる。それは「今」。永続的で永遠の「今」。渦巻く力が中心となる。自分が躍動する力の一部になり、そこから前後左右360度の全方向が観察できる。
(中略)
ワンネスを終えて通常の意識状態に戻り、脳で論理的に整理しようとしたが、今しがた体験したこと、時間や観察した状況は、僕の三次元の脳の機能では理解も処理もできないと思い知った。日常の時間の流れに戻ると、最初その次元の低さに情けなく、そして笑えてきた。大学の専門課程から、いきなり小学1年生の授業に戻ったような感覚だった。
(中略)
ワンネスを繰り返すごとに脳の反応パターンを観察し、少しずつわかっていったことがある。僕は改めて「脳」について考えるようになった。

ワンネスを体験していると、僕が観察したかぎりでは、脳がスイッチオフされる。そしてワンネス体験が終わったときに脳がスイッチオンの状態に戻る。つまり、ふたたび働きはじめるのだ。ワンネスのどのステージで脳がスイッチオフされるのかはよくわからない。
(中略)
「私は誰か?」との問いに対し「脳=私」という回答がある。人間は考える葦、つまり考えている自分が私という人間である、というとらえ方だ。

しかし、人生で子どもの頃から脳がつくり上げてきた「私」は、本当の「わたし」ではない。

もともと、肉体を持つ人間に生まれることを決めたのは魂だ。新しい命として人間の体験を通して学んでいくのも魂であり、老化した肉体を脱ぎ捨てて次の旅に向かうのも魂だ。決して「私=脳」ではない。本当の「わたし」とは、肉体と脳を使いこなし、いま物質的な次元を体験している「私」を超えたものであり、それが「魂」なのだ。

ワンネス体験を通してハートで理解するのと、頭で理解するのとでは雲泥の差だ。ハートで理解すると、自分という魂の声が聞こえるようになり、人間に生まれた本来の理由と決意がより明らかになる。長いあいだ昏睡状態に陥っていた人が、
やっと目覚めたような感覚だ。

「今まで、僕は何をやっていたんだろう?」と、曇っていた空がすっきり晴れ渡り、太陽が顔を出したようにすべてがくっきりと鮮やかになる。
















「昭和20年、連合国に占領された帝国日本」

2019-06-19 05:18:48 | 日本

平塚柾緒さん(戦史研究家)が「昭和20年、連合国に占領された帝国日本」について掲載している。『写真でわかる事典 日本占領史』(平塚柾緒著、PHPエディターズグループ刊)の一部を抜粋、編集したものです。
以下、要約し記す。


◎ポツダム宣言の受諾で終戦に

1945年(昭和20年)7月17日から米・英・ソの三首脳はドイツのポツダム市に顔をそろえた。暗号名「ターミナル(終着駅)」とされた会議の主題は、ヨーロッパの戦後処理に関する問題の討議で、日本の降伏問題はメインテーマではなかった。

会議が始まって1週間後の7月24日に、第8回会議が開かれた。席上、アメリカのトルーマン大統領が、日本に降伏を要求する最後通告の案文を示した。

案文はイギリスのチャーチル首相の賛成を得、中国の蔣介石総統の賛同も取って、7月26日に「ポツダム宣言」として日本政府に伝えられた。ソ連はまだ対日戦に参加していなかったので、宣言当事国から外していた(のちに参加)。

宣言は13カ条から成っているが、その骨子は次のようだった。
1)連合国による日本占領
2)日本の領土は本州・九州・四国・北海道とその周辺の諸島に限定されること(朝鮮の独立、台湾・満州の中国返還、南樺太のソ連返還、すべての占領地の放棄)
3)陸海軍の解散や軍国主義的勢力の一掃と自由主義の助長
4)平和で民主的な国家建設

当時の日本は「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(大日本帝国憲法第3条)の主旨の下、政治や軍事の権力を天皇に集中させていただけではなく、天皇をいわば家長に見立てた家族的な国家観念の中で生活していた。

そういう形態を「国体」とか「国体観念」と称したが、ポツダム宣言を受諾して降伏することは、「国体」が制度的にも国民意識の上からも破壊されることを意味していた。
そのため宣言を受諾すべきか、拒否すべきか、最高戦争指導会議が開かれた。東郷茂徳外相、米内光政海相は国体護持を条件に受諾を説き、阿南惟幾陸相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長らは無条件降伏に反対を唱え、会議は暗礁に乗り上げた。そこにマスコミの誘導質問に引っかかったかのような、鈴木貫太郎首相の「(ポツダム宣言は)ただ黙殺するだけである」という発言が報道された。

この首相発言を宣言拒否と受け取ったアメリカは、最後の手段に出た。広島と長崎への原爆投下だった。

再び最高戦争指導会議が開かれたが結論は出ず、陸軍の若手将校の一部は「国体護持」を標傍し、本土決戦を呼号してクーデターによる降伏阻止を画策しだした。しかし、最終的には鈴木首相、東郷外相、米内海相らの強い意思表示を受けて、天皇自身による“聖断”で降伏が決定された。


◎最高司令官の着任とGHQの民主化政策 

ダグラス・マッカーサー米陸軍元帥(米太平洋陸軍総司令官)が、神奈川県の海軍厚木飛行場に降り立ったのは1945年8月30日である。以後、マッカーサー元帥はGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の最高権力者として、日本の占領政策を統轄した。形式的には49カ国による連合占領だったが、実質はアメリカ一国による統治であった。

9月2日、東京湾に浮かぶ米戦艦「ミズーリ」号で、日本と連合国との降伏調印式が行われた。米陸軍をはじめとする連合国軍の東京進駐と同時に、マッカーサー最高司令官も総司令部を横浜から東京・日比谷の第一生命ビルに移し、本格的な日本統治を開始した。
GHQは当初、軍政と軍票による統治を考えていたが、日本政府の粘り強い交渉の結果、日本政府を介しての間接統治とすることにし、軍票も用いない方針に転換した。

その日本管理政策の内容は、
1)武装解除と軍国主義の抹殺
2)戦争犯罪人の処罰
3)個人の自由と民主主義の助長
4)経済の非軍事化
5)平和的経済活動の再開
6)労働・産業および農業における民主主義的勢力の助長
7)侵略財産の賠償
8)在外資産の処分と返還
など、政治、経済、国民生活の各分野に及んでいた。

特に、その民主化政策の矢継ぎ早の指令は、時の東久邇宮稔彦内閣には対応しきれなかった。すなわち、10月4日の「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃」指令は、特高警察の全員罷免や政治犯の即時釈放はもとより、天皇に関する言論の自由も含んでおり、皇族内閣が実施できるものではなかった。東久邇宮内閣は翌日総辞職、幣原喜重郎内閣の誕生となった。

かつて幣原には、欧米との協調外交を推進して軍部から睨まれた経歴があり、欧米流の個人主義や自由主義についてある程度の理解を持っていた。幣原首相は就任の2日後に総司令部を訪問したが、マッカーサーは直接、いわゆる民主化5大政策の即時実施を要求した。

1)婦人参政権などによる婦人解放
2)労働組合結成の奨励
3)学校教育の自由化
4)秘密審問司法制度の撤廃
5)経済機構の民主化
などである。

これらを実現させるために、以後、幣原内閣は明治憲法の改正に着手するとともに、獄中の政治犯の釈放、衆議院議員選挙法の改正、労働組合法の成立、占領政策に反対する軍国主義者教員の罷免、国家保安法・軍機保護法・言論出版集会結社取締法の廃止、財閥解体(持株会社の解散など)、農地解放への着手などで応えた。これらはいずれも、国民の自由を解放する政策として歓迎された。すでに、東條英機元首相など戦犯容疑者の逮捕も始まっており、硬軟織りまぜたGHQの占領政策は早いテンポで進められていった。
 











「衆参ダブル選挙は煙幕と思われる6つの訳」

2019-06-18 05:46:13 | 日本

坂東太郎さんが「衆参ダブル選挙は煙幕と思われる6つの訳」について掲載している。
以下、要約し記す。


3年に1度、定員の半数を選び直す参議院通常選挙が今年行われます。それにあわせて安倍晋三首相が衆議院を解散して同日選挙に持ち込む「ダブル選挙」を狙っているのではないかという憶測が絶えません。「何だか前にも聞いたことがある話だ」と思われる方もいらっしゃるでしょう。3年前の2016年参院選でもささやかれたからです。しかし実行されたのは1980年と86年の2回だけ。果たしてあるのかないのか。最終的に解散権を持つ首相の思惑を探ってみました。

【解散理由1】
参院選の勝利を確実にするため?
 
参議院は解散されません。言い換えると政府や与党(首相の味方)に逆風が吹いているさなかでも来るべきものは来るのです。首相に近いとされる日本維新の会を除く野党(首相の味方以外)は遅まきながら改選1議席の選挙区の大半で統一候補を立て、与党との一騎打ち態勢を整えました。
 
しかし衆議院はまだまだ。というか主に都道府県単位の45選挙区しかない参院と異なり、1人だけ当選できる衆議院の小選挙区は289もあり、立憲民主、国民民主、共産、社民の4野党が一致して押せる候補にそろえるのはほぼ不可能。立憲と国民は源流の旧民主党から分裂した経緯があるため怨念も残っています。
 
小選挙区は皆都道府県内に設置されているので参院で統一候補を立てても衆院で野党同士で争えば一体感も失われてしまうのです。
 
また参院選は与党が敗北しても最終的に首相が指名できる衆議院の勢力は変わらないので普段は与党支持でも「灸をすえる」といった動機で野党に票が集まりやすいともいわれます。総選挙を同日にぶつければそんな悠長なことはいっていられませんから結果的に参院も与党有利に運ぶとの見方も「ダブルがある」説の有力論です。

【解散理由2】
消費増税や日米貿易交渉前に総選挙を打った方が勝てる
 
前回総選挙は2017年10月ですから4年の任期(21年)まで相当残っています。ただ今年10月には国民に不人気な消費増税を控えており、トランプ米大統領が多分大いに押し込んできそうな日米貿易交渉も本格化するでしょう。農産品の輸出入がより日本にとって不利な結果となりそうな気配で自民の金城湯池たる農業票の猛反発を招きかねません。ならばその前に総選挙を終わらせてしまえという観測もなされています。
 
衆議院の解散権は事実上首相が握っています。現在の自民党会派は283人。しかも連立する公明と合わせて17年衆院選は小選挙区を落としてもほとんどが重複立候補で比例復活当選していて、国会に議席を得られなかったのはわずか4選挙区。今すぐ現職だけで勝負できる環境なのです。元々が大勢力なので議席増が果たせなくとも微減で済めば政権は信任されたと叫べるでしょう。

【疑問1】
自民が参院選でボロ負けする可能性は低い

【解散理由1】
で示したようにダブルを打つとしたら与党側に「今回の参院選はヤバい」との提が必要です。でも案外そう思わせるような根拠が見当たりません。
 
確かに32ある改選1人区で維新を除く野党の統一候補は実現しています。しかしそれは3年前も同じ。この時の結果は野党11勝21敗で全議席で比べても自公快勝でした。今回は野党協力が前回より遅れ、勢いがあるとも言い難い状況です。
 
もし野党が「1人区」で勝とうとしたら西日本の選挙区をかなり自公から奪取しなければなりません。前回も村山富市元首相の地盤である大分と「オール沖縄」勢力が強い沖縄を除いて落としているのです。野党が快勝した2007年参院選では山陰と四国で全勝、九州・沖縄でも勝ち越しました。現時点でそうした情勢が再現できるとは到底いえない状況です。

【疑問2】
「2人区」激減で野党不利
 
かつて参院選で野党優位になる理由として改選2人区の存在が挙げられていました。先に例示した07年だと12もあったのです。それが今や4にまで激減しています。
 
「2人区」はたいてい無風で与野党が分け合ってきました。自民は分け合いたいわけでなくとも候補者を2人立てて独占するほどの力はなく、落選した与党候補との遺恨が生じるのも嫌で見送り。結果として労せずして野党は12議席を得られたのです。
 
当時の「2人区」は現在、定数是正で北海道、兵庫、福岡が1増の「3人区」へ、逆に宮城、福島、新潟、長野、岐阜が1減の「1人区」へと変わりました。「1人区」は体力に勝る自公が優勢になりやすい。では3人区はというと16年選挙では北海道を除いて自民に加えて公明が議席を得ています。野党からすると「1減」で無風で得てきた議席が激戦と化し、「1増」で与党へ2議席を与える損な流れなのです。

【疑問3】
ダブルで投票率が上がると与党不利
 
80年と86年のダブル選は当然ながら衆参双方とも投票率が上がり自民圧勝劇を演出しました。ところが近年の選挙では投票率アップは自民不利の結果を招いているのです。
 
今世紀に入ってからの参院選は前回(3年前)より投票率が上がると議席減(3年前と比べて)下がると議席増とみごとに符合しています。12年の政権奪回選挙以来、衆院3連勝、参院2連勝と結果を残して「絶対王者」のごとく君臨する安倍政権でさえそうなのです。下がった13年は議席増、上がった16年は勝利したとはいえ3年前より減らしています。
 
与党にとっておそろしいのは総選挙でも同じ傾向を示している点。投票率が大幅に上がって勝利したのは05年の小泉郵政選挙ぐらい。09年の政権交代選挙は05年以上を記録して民主党が政権奪取。12年、14年、17年はいずれも投票率が過去最低を含めワースト1・2・3です。「自民党ではなく自分党」と別称されるほど自民は後援会など強固な組織を、公明は創価学会という大きな支援母体を持つため低投票率になるほど相対的に有利に働きます。
 
言い換えると下手に投票率が上がると近年棄権していた層が動き票が読めなくなってしまうのです。小泉郵政選挙のような熱狂を生み出せれば別ですが今のところそれらしき解散の大義名分が見つかりそうにありません。一部にいわれる消費増税再延期は野党の主張でもあるので争点たり得ず、菅義偉官房長官が5月の記者会見で述べた「内閣不信任決議案提出が解散の大義になり得る」というのもどうか。
 
確かに不信任決議がらみの解散は過去にあったにせよ、多くが可決したり(80年ダブル選はまさにこれ)、可決しそうになったりしたケースで今回とかけ離れています。与党圧倒的多数の衆院で粛々と決議案を否決した後に「国民の信を問う」というのも不思議な話。「不信任案を否決した我々ってどうよ?」と問いかけるのか。返答に窮しそうです。
 
いくら自民党の「理屈は後から貨車でついてくる」(故春日一幸元民社党委員長)が習い性でも納得いかない大義では盛り上がらない……ってもしやそれ(低投票率)が狙いなのか。でもだとしたらダブル(=盛り上げる手段)を打つのは矛盾します。

【疑問4】
参考にならない過去のダブル選
 
まず80年の方は政局の環境が今日と全然異なります。大平正芳内閣不信任決議案採決の際に反主流派の議員69人が本会議を欠席したため提出した野党もビックリの可決。憲法69条の決まりで首相が解散を選択し(ハプニング解散)総選挙へなだれ込みました。ダブルになったのは偶然。選挙期間中に大平首相が急死し、同情票も加わってグシャグシャであった自民が圧勝しました。まるでヤクザ映画のような展開。今の安倍政権のどこを突いても出てこないシナリオです。
 
86年の中曽根康弘首相による「死んだふり解散」は多少似ているかも。首相自ら通常国会中に解散風を吹かせたり「考えていない」と否定したりと観測気球を上げた挙げ句に臨時国会を召集して冒頭で解散したのです。
 
争点の1つとみられていたのが現在の消費税の源流にあたる大型間接税導入です。首相は微妙な言い回しでやる気があるようなないような発言を繰り返し、選挙中は導入しないと断言。「この顔が嘘をつく顔に見えますか」とまで言い放ちました。結果は自民圧勝。
 ただし解散をいつ行うかはともかく中曽根首相が前回(83年)総選挙で過半数割れの大敗を喫したのを挽回して政権を安定させたがっていたのは皆の知るところでした。すでに絶対多数を持つ安倍政権とはここが大きく違います。

【疑問5】
中選挙区制下の実績はあてにしにくい
 
過去2度のダブル選はいずれも衆院が中選挙区制、参院が80年は地方区と全国区(個人名を書く)、86年は全国区に代わって拘束名簿式比例代表制(政党名を書く)でした。いずれも現在の衆院小選挙区比例代表並立制と参院の選挙区&非拘束名簿式比例代表制と異なる方式でした。
 
特に衆院の違いが顕著です。中選挙区制度は1選挙区あたりおよそ3~5人が当選します。当時は自民党単独政権(83年から約3年は新自由クラブと連立)で過半数を得るには3人区で2人以上、5人区で3人以上擁立する必然が生じていたのです。要するに同じ選挙区で同じ自民党候補が争う構図。
 
表向きは「ともに勝って党に貢献しよう」ですけど本音としては片方が落選する可能性も十分あるので血で血を洗う選挙戦に突入します。複数の自民候補が互いに少しでも抜きん出ようと必死の活動を展開し、自民勝利の場合は結果として眠っていた票を掘り起こしたのです。
 
この構図だと投票率アップ=票の掘り起こし=自民勝利となりやすい。中曽根首相の群馬3区(4人区)など他に福田赳夫、小渕恵三と有力3氏でしのぎをけずり、首相在任中の2度の総選挙でさえ福田氏に次ぐ2位当選で「日本で1番(=首相)、群馬で2番」などとからかわれたほどでした。
 
ひるがえって今の小選挙区制はまるっきりの様変わり。何しろ1人しか当選しないのだから公明候補が出馬する選挙区を除いて自民候補は1人。自民党支持者でも、それこそ旧群馬3区のように「福田か中曽根か小渕か」が選べた時より「この候補だけ」と決まっている方がつまらないでしょう。その候補に思い入れできないならばなおさらです。それでも強力な野党対立候補がいれば別ですけど鉄板選挙区で対抗馬は共産だけとなると放っとくかとなりかねません。低投票率の方が勝てる理由の1つです。
 
小泉郵政選挙のように逆らった自民党議員を除名して刺客を立てる、つまり実質的に小選挙区に自民系が2人立つというウルトラCを演出できれば別かもしれませんが、そうした離れ業を全国規模でやってのける自民党総裁はめったにいないし大敗するリスクも抱え込みます。17年総選挙は二階俊博幹事長が自派所属の候補がいる埼玉11区、山梨2区にそれぞれ自民系2人が立つのを容認し「勝った方を追加公認」と裁定。両選挙区とも投票率は全国平均を上回りました。ただいずれも二階氏の豪腕がなせる技であくまで例外です。

【疑問6】
野党がかえってまとまるおそれ
 
野党がバラバラで参院選で手一杯。その間隙を突いて不意にダブル選を仕掛けて壊滅させたいという思惑が政権にないとは思えません。野田佳彦前首相はテレビ番組で「(仮に自身が首相なら)解散したいと思う。(解散したい)衝動に駆られると思う」と語りました。首相経験者ならではの重みがある見立てです。
 
もっともかつての自民党重鎮・川島正次郎の「政界は一寸先は闇」という金言を忘れてはなりません。特に選挙は何が起こるかわからない。
 
実は「ダブルあるある」をあおっているのは自民関係者ばかりではありません。先の野田発言に加えて野党第1党・立憲民主党の枝野幸男代表も4月23日のツイッターに「衆議院とのダブル選挙も濃厚です」と書き込み、5月17日の党会合で「ダブル選挙になる可能性もかなり出てきた」と発言しています。
 
国民民主党に合流した小沢一郎氏は総合選挙対策本部長(玉木雄一郎代表)の相談役に就任。やはりダブル選の可能性に言及しています。「誰とでも寝る」「民主主義は数だ」「数合わせの何が悪い」とまあ身もふたもない発言で知られる小沢氏ですが自民党を2度も野に追った立役者であるのも事実。
 
野党の有力者が相次いで「解散風」を吹かせているのは与党側の揺さぶりを奇貨としてドサクサ紛れでも何でもいいから結集するしかないという方向へ持っていきたいからでしょう。何しろ「多弱」ですから小選挙区289を埋めるだけで精一杯。
 
言い換えると候補が立憲だろうが国民だろうが共産だろうが立てなければ選挙前から負け戦決定で元も子もありません。過去の恩讐は超えられなくても「敵は自公」で一致して無理やりでも風らしきを吹かせて「時間がない。この人しかいなかった。勝つしかない。ウダウダいうな」で備えたら選挙は案外とわからないものです。
 むしろ泥縄での短期決戦の方が勝機をつかめるかも。17年総選挙の立憲がまさにそうでした。10月3日、枝野氏ら現職6人だけで結成し10日公示(選挙戦正式スタート)までに候補者を78人かき集め、22日投開票で公示前15人を55人まで増やしたのです。
 
こう考えていくとダブル選は自民にとってメリットよりリスクの方が高そうです。佐藤栄作元首相はかつて「改造をするほど首相の権力は下がり、解散をするほど上がる」と語りました。もしかしたら安倍首相は解散風で党内の結束をはかりたいだけかもしれません。だとしたら煙幕です。野党に選挙準備をせかしてカネを使わせ日干しにしようという思惑かも。
 
もっともそれが仇となって野党が何とかかんとか態勢を整えたら与党側にも心配が募り「時間を与えるほど相手に有利」との焦りが醸成されると解散不回避となりひょうたんから駒のダブルへとなだれ込むかもしれません。煙幕のつもりが火災発生の仕儀へと突入する可能性も否定できないのです。やはり政界は一寸先は闇。









「楠木正成 痛快無比の英雄の魅力」

2019-06-08 05:50:46 | 日本

童門冬二さんが「楠木正成 痛快無比の英雄の魅力」について掲載している。
以下、要約して学ぶ。


没後間もない時期に書かれた『太平記』や『梅松論』ですでに智略あふれる英雄として描かれ、戦国時代には、あの竹中半兵衛が「昔楠木、今竹中」と評され、江戸時代には講談などで庶民のヒーローとなり、さらに幕末の志士が敬慕した武将、楠木正成。
その天才的な軍略と、節を守る侠気あふれる生き方は、時代を超えて、なぜ多くの日本人を魅了するのか。
 

◎日本人が長きにわたり憧れを寄せた「英雄」
 
楠木正成 ―― 最近でこそ、その名前を聞く機会が減っていますが、かつて、多くの日本人が憧れた英雄中の英雄でした。私が子供の頃、「好きな人物は誰か?」を世間一般に問えば、必ず「楠木正成」の名が上位に挙げられたものです。
 
楠木正成は鎌倉時代の末期から、後醍醐天皇による建武の新政が行なわれた数年間、これ以上ないほどの輝きを放った人物です。鎌倉幕府打倒の兵を挙げた後醍醐天皇にいち早く呼応し、自らの地盤である南河内の赤坂城や千早城(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)に立て籠もります。そして攻め寄せた幕府方の大軍に、山城の上から岩や丸太を落としたり、熱湯をかけたりと、それまでの戦いの常識を覆す智略の限りを尽くして、わずかな兵で数万以上の敵を翻弄。城を見事に守り抜いて倒幕への気運を一気に高め、時代のヒーローの座へと駆け上りました。
 
倒幕が成って建武の新政が行なわれると、その混乱ぶりに多くの武士が愛想を尽かし、実力者である足利尊氏になびいていきますが、楠木正成は掌を返すことはせず、あくまで「節」を守ります。そして叛旗を翻して京に攻め上った足利尊氏率いる大軍を、一度は追い落とすことに成功するのです。しかし、時の勢いはなお、足利尊氏の側にありました。九州に落ち延びた尊氏は、勢力を盛り返して再び上洛軍を起こします。
 
楠木正成は足利尊氏を京都から追い払った直後、後醍醐天皇に尊氏と手を結んで政権を安定させるよう進言し、さらに尊氏が九州から上洛してくると、守るに難く攻めるに易い京を退去し、洛中(京都市街)に足利軍を引き入れたうえで包囲殲滅するよう献策します。しかし、勝ちに驕る因循姑息な公家たちに、いずれも退けられてしまいました。正成は朝廷の命令に従って足利尊氏を討つために湊川(現在の兵庫県神戸市)に出陣。圧倒的な敵勢を一手に引き受けて天皇方の主力部隊を無事京都へ落ち延びさせ、自らは見事な最期を遂げるのです。
 
湊川の戦いに臨む際のエピソードとして有名なのが「桜井の別れ」です。死を覚悟した正成は、桜井の駅(現在の大阪府三島郡島本町桜井)で息子・正行(まさつら)に2000騎を引き連れて故郷に帰るよう命じます。「自分も一緒に」とすがる正行に、「もし私が死ぬことがあっても、楠木一族が1人でも生き残っていたら、帝の絆に思いを致し、しっかりとお仕えして戦い抜け」という言葉を残し、自らは700騎を率いて湊川に向かうのでした。
 
この訣別の場面は、明治時代に「青葉茂れる桜井の」という歌詞で始まる唱歌にもなっています。メロディの艮さもあって、私も小学校時代によく口ずさみました。
 
寡兵で大軍を打ち破る痛快さや、自らの理想と節を守る生き様の美しさ、そして桜井の別れの哀切さまで、楠木正成の人生を彩る様々なシーンごとに、それぞれの見せ場とテーマがあります。私も子供の頃から、正成の物語を読んだり聴いたりするたびに「ときめき」を覚えたものです。
 
もしかすると今の若い人の中には、かつて楠木正成が英雄視されたのは、戦前の軍国教育の影響だと勘違いされている方もいるかもしれません。しかし、それは大きな誤解です。私が楠木正成に「ときめき」を覚えた際、軍国主義がどうのなど、まったく考えたこともありませんでした。
 
そもそも、楠木正成は、没後すぐの14世紀に成立した『太平記』の中で、すでに智略あふれる英雄として描かれています。さらに驚くべきことに、正成と敵対した足利氏寄りの視点で書かれた歴史物語『梅松諭』(同じく14世紀の書です)にすら、英雄として極めて同情的に描かれているのです。正成が、同時代の人たちからいかに高く評価されたかがわかります。
 
『太平記』はその後も広く読まれ、正成の「天才軍略家」ぶりは広く語り継がれていきました。たとえば、戦国時代に羽柴秀吉の軍師として活躍した竹中半兵衛を評するのに、「昔楠木、今竹中」などという言葉も残されています。さらに江戸時代に入ると、水戸光圀が「忠臣の鑑」として楠木正成を大いに顕彰しました。光圀は、元禄5年(1692)に、湊川の正成の墓に「鳴呼忠臣楠子之墓」と刻んだ碑を建てています。
 
また、江戸時代から盛んになった庶民の娯楽「講釈(講談)」でも、楠木正成は大人気のヒーローになりました。
 
「今夕より正成出づ」
 そんな張り紙が出されると、講釈場に、どっとお客がつめかけたといいます。
 この人気と尊崇の念は幕末に至っても衰えず、吉田松陰をはじめ多くの志士たちが湊川の「鳴呼忠臣楠子之墓」の碑に詣でました。明治9年(1876)、正成の忠誠心に感銘を受けた駐日イギリス大使ハリー・パークスが、桜井の地に建立された記念碑に英文の碑文を寄せていることからも、当時の圧倒的な人気が窺えます。楠木正成は、かくも長きにわたって日本人の心を捉えて止まない存在だったのです。
 

◎ 地域自治を実現し「リトル・ユートピア」を築く
 
そんな楠木正成ですが、実はその前半生は謎に包まれています。
 
ただ当時、正成が河内国にしっかりと根を生やしていたことは間違いありません。彼が、自分の根拠地である赤坂城や千早城で戦った手法は、いまでいうゲリラ戦法のようなもので、土地の人間たちの熱烈で根強い支援なしに続けられるはずがないからです。
 
正成の屋敷跡は、千早赤阪村水分と推定されており、現在もその近傍には楠木家の氏神とされる建水分(たけみくまり)神社があります。水分とは文字通り「水の配分」を意味し、おそらく正成は、地域の有力者として潅漑用水の配水権を司っていたのでしょう。
 
さらに正成は、京大坂と高野山を結ぶ高野街道を中心とする幹線道路の陸運や、堺港から各地を結ぶ水運などの利権も押さえていたと考えられます。また、千早城が築かれた金剛山地は、辰砂(水銀の原料)などの産地でもあり、その採掘によって大きな利を得ていたともいわれます。
 
金剛山は、修験道の開祖・役小角(えんのおづぬ)が修行した場所でもあります。正成が物流や鉱山など様々な権益を司った背景には、そのような宗教勢力との結びつきもあったことでしょう。つまり楠木正成は、河内を地盤として民の生活を支えつつ、広いネットワークを束ねる存在だったのです。現代的にいえば「河内を拠点にした地域自治の実現者」ということになるでしょう。
 
私は、楠木正成は太っ腹で頼りがいがあり、公明正大な善政を行なって、河内の民衆から大いに慕われる存在だったのだと思います。言うなれば彼は、河内の地に、自らの腕っ節一つで「リトル・ユートピア」を築き上げていたのではないでしょうか。


◎自らの夢を貫く「熱い志」
 
一方、当時は京都の朝廷と鎌倉の北条政権とで権力が分立しており、さらに各地に荘園などが乱立して、土地を巡る権利支配の関係は錯綜を極めていました。正成のような立場の者からすれば、これでは中間搾取が多く、たまったものではありません。
 また鎌倉幕府末期には、執権を務める北条氏を中心とした専制政治が強まり(得宗専制)、それまでの荘園や交通物流の利権が、幕府によって奪われ、脅かされていきます。さらに幕府の微税権限も拡大されました。これらは自らの土地に「リトル・ユートピア」を建設した正成にとって、到底許せることではなかったでしょう。
 
そんな折、幕府政治のあり方に危機感を抱いた後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げます。後醍醐天皇は「朕の新儀は未来の先例なり(私が新しく行なったことが、未来の先例となる)」と高らかに述べるような天皇でしたから、旧来の格式秩序などにとらわれず、広く社会の実力者層に倒幕への協力を訴えかけました。
 
もっとも後醍醐天皇は自らの武力を持っていないので、そうするしか方法がなかったともいえます。しかし、このような「民と直接結びつき、自らの手で政治を行なう」という後醍醐天皇の願いは、地域に根ざして生きてきた正成からすれば、中間搾取ばかりにやっきとなる幕府のような夾雑物を排除することを意味しました。
 
さらに後醍醐天皇が旧来の格式や秩序を超えて協力を呼びかけたことで、ある種の「自由な実力主義社会」への気運が巻き起こります。戦国期や明治維新期の自由闊達さにも通じるこの気連は、正成のような実力者の目には、極めて魅力的に映ったはずです。自分が作り上げたような「リトル・ユートピア」を全国に広げよう ―― あるいはそんな理想を正成は胸に抱いたのかもしれません。
 
このような想いがあったからこそ、楠木正成は後醍醐天皇の倒幕挙兵に、自らの夢を託したのではないでしょうか。圧倒的に強大な権力に立ち向かうリスクを冒し、身銭を切ってまであれだけの見事な戦いを展開した裏には、そのような「熱い志」があったとしか考えられないのです。
 
そして楠木正成は、その自らの夢を貫き、最後まで理想を掲げ、天皇を裏切りませんでした。それは正成自身に、「人生意気に感じる」ところがあったからでしょう。イデオロギーや理屈などとは、まったく別次元の話だったはずです。
 
さらに正成に従う配下たちも最後の最後まで正成と行動を共にし、常に大敵に向かって怯みませんでした。湊川の戦いでは数十倍以上の足利軍を相手に、700騎が73騎に減るまで16度にも及ぶ壮烈な突撃を繰り返したといわれます。
 
「この人のためなら死んでもいい。やってやろうじゃないか」
 
正成も、そしてそれを取り巻く男たちも、そのような心意気を胸に滾らせていたように思われてなりません。一途さと情熱とパワーが凝縮された、強烈な「侠気」を感じさせるのです。
 

◎「湧くがごとき智謀」をなぜ発揮できたか
 
楠木正成の魅力は、そのような「熱さ」ばかりではありません。変幻自在の軍略の数々や、後醍醐天皇への的確な献策からは、彼の「先見性と合理性」が見て取れます。
 
物流を差配しているがゆえに情報通だったこともあるでしょうし、古来、渡来人たちが多く入植した河内の土地柄もあって、外からの知識に柔軟なところもあるのでしょう。当時の知識階級である寺社勢力と親しく交流していたことも大きかったはずです。彼が「
天才軍略家」の名をほしいままにする背景には、日常生活の中で、源 義経の戦例や、僧兵たちの戦い方から、蒙古や朝鮮の戦法まで、広く知りうる立場にいたことがあるかもしれません。
 
さらに正成は、自らの利益ではなく、理想のために行動する「無私」の姿勢を貫いたからこそ、「とらわれない心」でありのままの状況を正しく見極めることができたのではないでしょうか。そしてそれゆえに、自らの想定が覆されても挫けることなく、その時その時の最善の道を追求し続ける「湧くがごとき智謀」を発揮できたのだと思われます。
 このような情報収集力、分析力と、それに基づく確かな戦略構想力が、楠木正成の痛快さを一層際立たせるのです。
 
私は楠木正成に、太陽に向かって花を咲かせるひまわりのような、とことん「陽」の人物という印象を抱いています。ただ怖いだけだったり、表面的に繕ってばかりいるような人間に対して、誰が「この人のためなら」などという思いを抱くでしょうか。明るくて圧倒的な先見性があり、侠気があって皆を引きつけてやまない ―― 正成は、そうした魅力をまとう人物だったはずです。
 
楠木正成は、まさに庶民の中から生まれ、庶民が愛し、語り継いできたヒーローでした。それこそ長屋の八つぁん熊さんのような人々が、正成の智略の痛快さに快哉を叫び、一途で気高い心に涙を流し、時には権力への不満を正成に仮託してきたのです。そうした存在であり続けた正成の生き様には、「人間として大切にすべき誠実さ」が色濃く刻み込まれているともいえます。
 
とかく混迷を極め、先の見えない今の時代だからこそ、私たちは再び「楠木正成」を見直すべきではないでしょうか。