龍の声

龍の声は、天の声

「中国が空気という怪物に操られる日」

2012-09-30 07:54:27 | 日本

山田高明さんは「中国が空気という怪物に操られる日」と題して論文を出した。
参考になるので、以下要約する。



中国は国民主権というレベルにはほど遠いが、「大衆が力を持ち始めた」という事実、またそれによって国が動かされることもあるという可能性は、頭に入れておくべきだと思う。本来ならばそれは民主化の進展を意味するので喜ばしいことなのだが、大衆の受けてきた政治的な教育の質などを考えると、「大衆の台頭」は率直に喜べない部分も大きい。
そこで今回は、近年中国の反日運動が如何に作られてきたかの流れをみる。

1983年11月、政治改革を進めていた胡耀邦総書記が訪日し、日本の国会で始めて演説した。当時、胡耀邦氏と中曽根康弘総理は「平和友好 平等互恵 長期安定 相互信頼」という“四原則”に合意した。おそらく、この時が“日中友好”の絶頂だったのかもしれない。

その胡耀邦は結局、学生デモを理由に失脚し、89年の天安門事件が起こるきっかけとなる。
そこで指名されたのが元上海市長で一政治局員だった江沢民だった。だが第二次天安門事件では、江沢民の出る幕はなかった。ところが、その後の江沢民は意外にもしたたかだった。無難な政局運営の一方、軍部に対しては昇級人事を乱発して支持を獲得する。そして事件後に高まっていた人民の怒りや不満の矛先を反らせ、共産党に対する信頼と求心力を今一度高める手段として「憎日キャンペーン」を始めた。一方で、日本を利用することで、西側の経済制裁を解除することに成功する。彼はこれで党難を救った。

だが、この「憎日キャンペーン」は、単なる一時的な反日ではなかった。本当は公教育とマスメディアを総動員して国家が推進した「日本悪魔化政策」だったのである。党中央の対日姿勢転換を敏感に嗅ぎ取った知識層も大挙してそれに加担したこともあり、以後、対日偏見が異常なほど拡大生産されていく。結果として中国人は、「日本人は過去の戦争をまったく反省しておらず、未だに軍国主義的な野望を捨て切れず、両岸統一を妨害している根っからの悪人だ」といった憎悪と偏見を、今日まで妄信するようになる。

恐るべきはその政策下で育った青少年である。大雑把にいえば、今の40歳未満の中国人に当たる。彼らは悪しき教育により、「われわれは日本から酷いに合わされた、しかも相手は謝罪も反省も一切してない、だからやり返す権利がある」と信じ込まされ、復讐心を植えつけられている。また、「中華民族の利益を実現するためなら他の民族をいくら犠牲にしても正当化される」と、本当に悪びれることもなく信じきっている。彼らは毛沢東が純粋培養した紅衛兵に似ている。かつて毛は青少年を扇動し、政敵に「走資派」のレッテルを貼って葬った。今ではそのレッテルが「親日的=売国」なのだ。


他方、50代くらいの中国人に訊くと、口をそろえて「学校では南京大虐殺の事は一度も教わらなかった、われわれはソ連こそが中国の仇敵だと教わった」と言う。ところが、彼らより二十年くらい下の世代になると、「日本のイメージ=南京大虐殺」なのである。中国の歴史教育なるものがいかに政治的で、その時々の権力者次第かという証左である。


これからの問題は、江沢民が育てた反日ナショナリズムによって、今や共産党自身が自縄自縛に陥っていることだ。今では、「日本に対して弱腰だ」として、共産党が民衆から批判されるケースも目立ち始めた。党中央はこの「集団の空気」に容易に逆らえなくなっている。皮肉なことに、かつて共産党が民衆の間に炊きつけた憎日という怪物が当事者にもコントロール不能になり、その民心への迎合と妥協を余儀なくされる状況に陥っているのだ。しかも、党や軍の若手も憎日教育世代である。組織内からも突き上げを食らうのだ。組織の下から突き上げをくらい、大衆から批判されるようになると、その種の「空気」のほうに政治を合わせなければならない。外交でも戦争でも「弱腰」が許されなくなってくる。軍事行動も、それまでの計算されたものから暴走に近づいていくだろう。ましてや、次の習近平政権は保守反動勢力に担ぎ上げられ、習自身も周囲に引きずられやすいタイプである。


今後、日本は、中国の政治家や軍部のほうが社会の「空気」という怪物に操られ、暴走する可能性を想定したほうがいいと思う。また、中国の政界にばかり顔を向けていないで、まったくの一般市民を対象にした対中世論工作も重要になってくる。日本の大衆文化はこの点で非常に大きな役割を果たしていると思う。これから中国が戦争に突っ走るか、内部闘争で分裂するか、未来は誰にも分からないが、激変を想定し備えておくことは決して無駄ではないと思う。




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「第一次大戦を描く歴史書『八月の砲声』から」

2012-09-29 08:34:58 | 日本

第一次大戦を描く歴史書の『八月の砲声』をもとに石井孝明さんは、今日の日本の危険的な状況を説いている。
随分参考になるので、要旨を記す。



中国、韓国、ロシアが日本の領土への不当な主張を強めている。特に中国では反日暴動によって、日系企業が襲われ、日本の権益と在留邦人の安全が脅かされている。
現在の日本は平静だ。中韓両国の旗を燃やし、関連企業を襲うこともない。デモも暴徒化しない。こうした日本の民度の高さを私は誇りに思う。しかし、おそらく中韓両国でも過激な行動をする人は一握りで、良識を持つ社会の大半の人は状況を憂いているはずだ。

今回の一連の危機で、日本、中国、韓国、いずれも双方の出方を読み誤り、状況の悪化させているようだ。私は報道以上の情報を持ち合わせていないが、特に中国、韓国の誤りは大きく危険だ。両国の政治家とも自国のナショナリズムの炎を、政治家が焚き付け、国内政治の力にしようとする、危険な行動をしている。


「自分も相手も、それぞれの真の意図を読み誤っている可能性がある。」

「戦争が始まると、誰も事態をコントロールできなくなる。」


外交・国防は有事の際には政治家、外交官などの行政官、そして軍人の専権事項だ。
だが、日本、中国、韓国、どの国の指導者も、専門家も問題だらけである。

私は領土・領海は犠牲を払っても、国は必ず保全しなければならないと考えている。一方で、その代償として武力衝突、中国での権益の侵害も考えなければならない。両国国民が、戦争を望まなくても、「状況が戦争を起こしてしまう」ということがある。そうした冷静な覚悟を持つだけでも、最悪の事態への心も準備も違ってくる。

絡み合った問題を、新しい視点から考えるために、バーバラ・タックマンという歴史家が1962年に発表した「八月の砲声」(ちくま学芸文庫)という本を紹介したい。第一世界大戦の事前準備と、最初の1カ月の戦況を描写したものだ。


私はそこから次の教訓を得た。

①誰も望まないのに、そして予想しないのに戦争は起こってしまうことがある。

「経済の結びつきが英独仏で緊密だから戦争など起こる訳がない。」
タックマンはこんな言説が欧州中に広がっていることを紹介している。ところが、それは間違いだった。

②人間が状況を動かすのではなく、状況が状況を動かした。

当時の戦争は兵士を集め編成する「動員」プロセスが必要だった。東西に敵を抱えたドイツ帝国は、動員と軍の集結、敵への攻撃を猛スピードで行う計画を立てた。ところが、その計画は皇室、また政治家が事前に関与できず、事後にも止められなかった。
政治家など人のチェックはなく、状況が状況を動かしてしまった。

③専門家は「専門バカ」だった。

当時、軍は巨大化していた。その結果、英国以外の欧州諸国では国内で巨大な政治的な力を持った。そして軍事は専門家による領域であり、また王制が残って民主主義が未成熟でもあって、各国とも政治家が軍を管理できなかった。とくにドイツは、「統帥権の独立」、つまり軍は建前上皇帝に直属し、政治の干渉を受けない制度もつくっていた。
各国の軍人は敵と戦うということしかできない「専門バカ」が多かったのだ。

④頼りない専門家の軍人たちを、もっと頼りない政治家が止められなかった。

軍人に「戦争」という国の大権をほぼ委ねてしまう危険な制度を作ってしまう政治家は軍人よりも責任が重いだろう。しかし、政治家たちの行動は世論に立脚したものだった。

こうした失敗の連鎖が悲劇を生む。第一次世界大戦の死者は1300万人で、戦争によってドイツ、オーストリア、ロシア、オスマントルコという帝国が崩壊した。





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「元寇の歌」

2012-09-28 05:28:01 | 日本

尖閣・竹島・北方領土。
今、日本は、中国、台湾、韓国、ロシアの近隣諸国に脅かされている。
と言うか、完全になめられている。
そこで今回は、日本人とは如何なる民族であり、先輩方は如何なる生き方をしてきたのかを学ぶ。
それは、わが国存亡の危機を耐え抜き、守り抜いてきた生きた歴史「元寇(げんこう)」である。



元寇は、わが鎌倉時代の中頃に、蒙古族が支那大陸に建てた大元帝国と、その属国となった高麗国(今の韓半島)による日本への侵攻である。戦役は文永・弘安の2回行なわれ、文永の役は1274年のことであるが、これに先立って皇帝フビライから送られてきた「蒙古国書」の内容は、服属ではなく通好を要請する体裁であったが、むろん場合により武力使用をほのめかしていた。当時の蒙古はまだ南宋支援を牽制する目的と観る説もある。

鎌倉幕府の執権は北条時宗であったが、当時の外交担当は朝廷であったため、国書は鎌倉から朝廷に送られた。朝廷では永らく評定が続いたが対策は決まらず、この間、いろいろあって、結局国書を黙殺して蒙古使節らを追い返すことに決めた。いきおい武力侵攻を決めたフビライは、高句麗に命じて軍事行動を開始する。文永の役は、本質的には偵察的軍事行動だったらしく、中途半端な装備で来襲した蒙古・高麗軍は、九州武士の奮戦に逢って戦闘10日を経ずして撤退し、蒙古軍来寇の知らせが鎌倉に届いたのは、その後であった。

2度目は、1281年、神風が吹いた弘安の役である。蒙古が南宋を滅ぼした後であったから、フビライは諸事を本格的に準備して来寇した。鎌倉幕府も迎撃態勢を怠らず、長大な堰堤(えんてい)を築いて待ち受けていたので、10万の来寇軍のうち無事に帰還できたのは僅か3人だった。これはさすがに誇張であるが、「元史」がそう述べている。

筥崎宮(はこざきぐう)に参拝すると正面の楼門に「敵国降伏」と文字が浮かんでいる。元寇の際に亀山上皇が勝利を祈願し、この「敵国降伏」の四文字を金泥で認(したた)め、筥崎宮に奉納したと伝えられている。


さて、「元寇」の歌が出来るまでのエピソードを記す。

昔福岡に、湯地丈雄という人物が居た。どの地方にも居る、所謂「土地の有名人」という類の人であったのだが、明治21年のこと、そんな彼は福岡の地に、元寇を顕彰する記念碑を建立しようと思い立った。湯地は決意するや直ちに職をなげうち、元寇に題材をとった幻燈を手ずから製作して、それと共に全国を寄付を募って回った。

だが、結局当時の朝廷の権力者、亀山天皇の像を建てることで議論には決着を見たが、突然の仕様変更に、湯地の夢の実現をさらに遠のかせた。

さてそんな湯地の数少ない支援者の一人に、永井建子という男が居た。若くして陸軍軍楽隊の要職に在り、才気煥発、行動的な熱情家だった。永井は少しでも湯地の助けになればと、明治25年、「元寇」の歌を製作する。其の譜に記した署名は「人籟居士」。既に広く知られていた彼のペンネームであり、陸軍軍人の肩書きを離れて世に出る時の彼の名であった。
こうして、とある一人の憂国の士への私的な応援歌として、「元寇」は世に送り出されたのである。

歌は全国の津々浦々までに広がっていった。その盛行のされぶりたるや、「すべての軍隊、すべての家庭に、此の歌の声を聞かざるは無き」という程であったと記されている。やがて明治27年に日清戦争が始まる頃になっても流行は衰えず、戦地で日本のさる部隊が、この歌を高唱しながら数に勝る敵軍を追い払った等という話も伝わり来るに及んで、当時の国民的愛唱歌となっていった。

しかし肝心の湯地の銅像建立計画は遅々として進まず、福岡の地に亀山天皇の銅像が完成したのは明治37年のこと。実に16年が経過していた。


では、「元寇の歌」を声高らかに歌おう!


「元寇の歌」

1.(鎌倉男児)
四百余州(しひゃくよしゅう)を挙(こぞ)る十万余騎の敵
国難ここに見る弘安四年夏の頃
なんぞ怖れんわれに鎌倉男子あり
正義武断の名 一喝して世に示す


2.(多々良浜)
多々良浜辺の戎夷(えみし)そは何、蒙古勢
傲慢無礼もの 倶(とも)に天を戴かず
いでや進みて忠義に鍛えし我が腕(かいな)
ここぞ国のため 日本刀を試しみん


3.(筑紫の海)
こころ筑紫の海に浪おしわけてゆく
ますら猛夫(たけお)の身 仇(あだ)を討ち帰らずば
死して護国の鬼と誓いし箱崎の
神ぞ知ろし召す 大和魂(やまとだま)いさぎよし


4.(玄海灘)
天は怒りて 海は逆巻く大浪に
国に仇をなす 十余万の蒙古勢は
底の藻屑と消えて 残るは唯三人(ただみたり)
いつしか雲はれて 玄界灘 月清し




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「薩摩 島津の退き口に学ぶ」

2012-09-27 07:27:57 | 日本

産経新聞の「風の間に間に」に論説委員の皿木喜久さんが、「島津の退き口に学ぶ」と題して、いい文章を掲載している。
以下、要約する。



島津義弘は安土桃山期の武将である。薩摩国などを治めた島津家第16代当主、義久の弟だ。義久とともに「両殿」と呼ばれ、外交や軍事を相当する事実上の藩主だった。
豊臣秀吉の朝鮮出兵ではその勇猛さを恐れられた。このとき捕虜として連れてきた朝鮮の陶工たちに現在の薩摩焼の基盤を築かせるなど、産業や文化振興にも寄与した。
特に居城や居館を置いた鹿児島県姶良(あいら)地区では数々の伝説を残す。幕末の斉彬(なりあきら)と並ぶ「島津の名君」と慕われてきた。

だがその名を最もとどろかせたのは1600年、関ケ原の合戦での退却戦である。
義弘はこの戦いで国元との意思疎通を十分図れないまま、わずか1000人の手勢で西軍(石田三成方)に加わった。敗戦により退却を余儀なくされるが、各軍が後ろへ退く中、義弘軍は敵陣へと突撃した。
それも東軍の主将、徳川家康の本陣に猛然と襲いかかった。東軍方がたじろぐスキに伊勢路から甲賀、奈良を抜け堺へと退却し、海路、鹿児島に生還する。それでも激しい追討を受け、最後はわずか80人に減っていた。
「島津の退き口」として語り継がれる壮絶な戦いだった。
このことは戦後処理で威力を発揮する。義弘は帰還するや義久とともに領地の守りを固め徳川軍との決戦に備える一方、家康方と交渉に当たる。

その結果、敗軍としては異例の扱いで薩摩、大隅、日向の3州をそのまま領地として安堵された。
徳川が島津を潰そうとして攻めれば勝てる。しかし関ケ原での戦いぶりを見れば、自らも相当な犠牲は覚悟せねばならない。それが家康を躊躇(ちゅうちょ)させた。司馬遼太郎氏は『歴史を紀行する』でこう述べる。
「(島津は)類例のない勇気をすでに天下に示しており、外交が決裂すればその勇気をふたたび南日本三州の地で演じてみせるという無言の恐喝を家康に対して加えていた」
「退き口」がみごとなまで、徳川への「抑止力」となったのだ。

先の大戦の戦後処理でも、同じようなことが起きた。日本はこの戦いで未曽有の敗北を喫した。だが最後の最後まで特攻を繰り返すなど、死にものぐるいの戦いを続けた。
米国など戦勝国はそのことで極度に恐れを抱いた。憲法9条を押しつけ、筋違いながら歌舞伎やチャンバラ映画を禁止するまでして、日本人の「骨抜き」を図った。
その一方で天皇を象徴として残し、分割統治など苛酷な占領政策はとらなかった。彼らもまた、日本を必要以上に追い詰めれば、再びその「勇気」を見せつけられることを危惧したのである。
それだけではない。日本が戦後、どの国からも直接的攻撃は受けず、平和を維持できたのは日米安保条約によるところが大きい。
だが、近隣諸国の人々の脳裏にも日本人の戦いぶりが焼き付いていたことは間違いない。それが抑止力としてはたらいてきたといえる。
現代人が戦死した英霊たちに感謝しなければならない理由でもある。

しかし、竹島や尖閣諸島などをめぐる韓国や中国の横暴ぶりを見れば、そんな抑止力もすっかり薄れてしまったように見える。
国民の命と領土を守るためには、日本人がその「意志」を持っていることを内外にハッキリ示すことが必要だ。首相の靖国神社参拝などにより、あの「勇気」をもう一度思い出さねばならない。


 

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「徳川家康公遺訓 ⑤」

2012-09-26 08:37:37 | 日本

〔5〕徳川家康遺訓  「勉強なくして利益なし」徳川家康遺訓  「勉強なくして利益なし」


「己を責めて、人を責むるな。及ばざるは、過ぎたるより勝れり」

前半の言葉は、「最終的には全て自己責任。投資先や方法を選んだのは自分であり、責任を他人に求めるな」ということ。これはどの世界でも通じる。また後半は、何事もやりすぎると失敗する。少し足りない方が良い、と言う意味である。

そして後半部分を意訳すると、「あまり多くのこと、あるいは多額でやると、失敗して取り返しそうとした時に、その修復に、最初に実行した時以上のエネルギー(時間と労力)が必要になり、問題解決が難しくなる。むしろ、少し足りない方が、次のステップに入る方法を弾力的に考えられる」となる。

家康は、この言葉を秀吉の朝鮮出兵を頭に入れて出したものではないだろうか。そう考えると、人間には「分をわきまえる」事の大切さを言いたかったのではないだろうか。 <了>




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「徳川家康公遺訓 ④」

2012-09-25 09:37:45 | 日本

〔4〕徳川家康遺訓  「負けて勝つ」


「勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば、害その身に至る」


意味は、「勝つために、人の気持ちも無視し、自分の好き勝手に行動していたら、反対に自分を追い詰めることになりかねない。撤退する勇気も持たなければならない」ということ。


織田信長の失敗を反面教師にしていたと思われる家康らしい言葉だ。
武士の世界では、負けること=世界から消える、ことになるので、本来は負ける戦には出かけないものである。しかし撤退は可能だ。例えば信長暗殺の報に、間髪を置かず毛利家との和睦を結び、京都に戻った秀吉の中国大返しは、その代表的な例であろう。
ところで、家康の心の内を読むと、「一戦一戦の個別の戦い」と「最終的な天下取りへの一生の戦い」の二つに分けて考えていたに違いない。だからこそ、この言葉を遺していたと思っている。「個別の戦いには必ず勝つ」、しかし「長い戦いとなる天下取りの戦略のためには負けることも最終的には勝つための戦術」との考え方だ。

戦略は見えないもの、戦術は見えるもの、と言う。従って負ける戦術があっても負ける戦略はない。長期的観点で負けるとは、強い人に従属する時に使う戦術だ。主人には負けたと他の人に見せかけ、その裏では、仕える人の弱点を見つけるとか、その部下に通じておくとか、天下取りの大勝負に自分の味方になる人、方法を作っておくような策略がそれにあたる。豊臣陣が、家康の本当の目的を深く読んでいれば、また世界は違っていたかもしれない。



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「徳川家康公遺訓 ③」

2012-09-24 05:46:30 | 日本

〔3〕家康公遺言碑

『わが命旦夕(たんせき)に迫るといへども、将軍斯(か)くおはしませば、天下のこと心安し、されども将軍の政道その理にかなわず億兆の民、艱難(かんなん)することあらんには、たれにても其の任に代らるべし、天下は一人の天下に非(あら)ず天下は天下の天下なり、たとへ他人天下の政務をとりたりとも四海安穏(しかいあんのん)にして万人その仁恵を蒙らばもとより、家康が本意にしていささかもうらみに思うことなし』元和2年(1616年)


意味
「もはや自分の命が終わりに近づいたが、将軍、秀忠が政治を立派に行っているので、天下のことは心配ない。しかし、将軍の政道が道をはずれ、多くの人々が苦しむことになれば、誰でもその座にかわるがよい。天下というものは、一人のための天下ではない。天下はすべての人のものであり、そのすべての人のために天から任されたものであった。たとえ、誰かが天下を治めようとも、四海安穏で平安に万人の幸せに通じるのなら、これは家康の望むところである」




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「徳川家康公遺訓 ②」

2012-09-23 08:40:31 | 日本

〔2〕徳川家康公遺訓
 
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し
急ぐべからず不自由を常と思えば不足なし
心に望み起らば困窮したる時を思いだすべし
堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え
勝つことばかり知りて負くることを知らざれば害その身に至る
己を責めて人を責むるな

 
徳川家康の生き様が作家山岡荘八によってクローズアップされ、一時期経営者のバイブルとも称された時期があった。それほど、さまざまな局面で判断を仰ぐ材料としての深い教えがある。また、家康は仏教の教えにも相当に造詣の深いところがあった。仏教の観点からみてもそれぞれ御仏の教えを忠実に守っているような節もあり、「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」は、まさしく御仏の教えそのものである。重荷とは煩悩であり善悪である。

徳川家康の日課念仏は、大樹寺登誉上人が家康に毎日の日課として、「念仏」を6万回唱え書くように言われ、それを実践した。このことは、久能山に伝承されおり山岡鉄舟も認めている。戦いで死んだ将兵の追善供養としての意味が「念仏日課」に含まれている。天下統一し秀忠に譲り駿河城に隠居し念仏に明け暮れた家康。念仏の6字(南無阿弥陀仏)を1日千回書くことは到底常人の成しえぬ難しい仕業であり忍耐の上に立つ家康だからこそ成し遂げたのではなかろうか。



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「徳川家康公遺訓 ①」

2012-09-22 09:35:33 | 日本

徳川家康(松平元康)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名である。江戸幕府の初代征夷大将軍。織田信長や豊臣秀吉に並ぶ三英傑の一人である。
本姓は先に藤原氏、次いで源氏を称した。家系は三河国の国人土豪・松平氏。1567年2月18日(永禄9年12月29日)に勅許を得て、徳川氏に改姓する。

今回は、徳川家康公の遺訓について、5回学ぶ。


〔1〕徳川家康公遺訓  「大将の戒め」


昨今の総理大臣や各政党の党首、或いは、会社社長、団体長、等々のヘッドの立場の者には、「今、己が大将だ!」と言う自覚が極めて薄い。
大将とは如何なるものか、徳川家康の「大将の戒め」を噛み締めて学びたい。


・大将というものは
敬われているようでその実家来に絶えず落ち度を探られているものだ。
恐れられているようで侮られ親しまれているようで疎んじられ、好かれているようで憎まれているものじゃ。

・大将というものは
絶えず勉強せねばならぬし礼儀もわきまえねばならね。
よい家来を持とうと思うなら、わが食を減らしても家来にひもじい思いをさせてはならぬ。自分ひとりでは何も出きぬ。これが三十二年間つくづく、思い知らされた家康が経験ぞ。

・家来というものは
禄でつないでならず、機嫌をとってはならず、遠ざけてはならず、近づけてはならず、
怒らせてはならず、油断させてはならぬものだ。
「ではどうすればよいので」
家来は惚れさせねばならぬものよ。

徳川家康 大将の戒め  元和2年6月




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「ACTA 偽造品の取引の防止に関する協定」

2012-09-21 08:40:27 | 日本

偽造品の取引の防止に関する協定(ACTA)あるいは模倣品・海賊版拡散防止条約は、知的財産権の保護に関する国際条約である。日本国内報道では、偽ブランド品規制条約、偽ブランド防止協定、偽造品取引防止協定、模倣した物品の取引の防止に関する協定、模倣品防止国際条約、模倣品不拡散条約、模造品取引防止協定、模造品防止協定、海賊版拡散防止条約、反偽造貿易協定などとも言われている。

偽造品やインターネット上の著作権侵害を取り締まるための国際的な法的枠組を取り決めるため、世界貿易機関(WTO)や世界知的所有権機関(WIPO)、国際連合(UN)といった既存のもののほかに新しく国際機関を設立しようというのが狙いである。

2011年10月アメリカ、オーストラリア、カナダ、韓国、シンガポール、日本、ニュージーランド、モロッコの8カ国によって署名された。2012年1月には欧州連合及び欧州連合加盟国のうち22カ国が署名し、署名の数は合計31になった。

協定は6カ国による批准の後効力が及ぶ。

日本では2012年9月6日に衆議院本会議において「偽造品の取引の防止に関する協定(ACTA)」の締結を賛成多数で承認した。すでに参議院で先に可決していたもので、日本がACTAを批准することが決まった。

批准を決めた国は日本が初めてである。

衆議院におけるACTAの審議は、国会運営が混乱する中で野党欠席のままで進められ、そのまま承認されたかたちである。国際協定の締結としては異例とも言えそうな展開になった。また、これまでも政府からの情報提供や説明が十分に行われているとは言い難く、条文の拡大解釈による規制強化への懸念も根強いようだ。

ACTAをめぐっては、参加国間での交渉が秘密裏に行われ、内容が正確に伝わってこなかったこともあり、インターネット規制の強化につながる懸念も指摘されていた。
交渉段階で流出したとされる協定内容には、税関における個人のPCやiPodなどの中身チェックや、著作権侵害の申し立てを3回受けたユーザーがインターネット接続を遮断される“3ストライク法”などが含まれていたと言われており、ACTAの強い反対運動につながったようだ。

各種の問題点を列記すれば、
・仮処分に関して、権利者の言い分が正しいと判断した場合に仮処分ができたが、その判断をせずに仮処分ができる
・訴訟に関して、敗訴者が勝訴者の弁護費用を負担など、基本的人権、特に表現の自由や通信の秘密を脅かす可能性が非常に高い点である。
・ウィキリークスにより公表された条文案によれば、ネット回線を強制的に切断する権限を与える案や、国境警察によるパソコンやiPod内のファイル検閲を認める内容などが多く含まれ、著作権の非親告罪化や法定損害賠償も議論の対象となっていた。
・電子フロンティア財団(EFF)をはじめとする市民団体は、協定の交渉プロセスに市民団体や新興国、公衆を含めなかったことをポリシー・ロンダリングだと批判している。
・一般社団法人インターネットユーザー協会(MIAU)は日本主導の協定なのに管轄が明らかでないことや外務省が当初「[条文案の日本語訳の]作成予定はない」と発言していたことを指摘している。
・国境なき医師団などはジェネリック薬の供給を脅かすとして協定への懸念を表明している。

正式な条文では以上の内容は含まれていないため、最終的にACTAは“骨抜き”にされると言われている。(条文は、仮日本語訳も含めて外務省のサイトで閲覧可能)。

実際のところ、ACTAに署名していたEUだが、欧州議会で7月、圧倒的多数で批准が否決されている。条文が漠然としており、誤った解釈によって市民の自由が脅かされる運用につながる恐れがあるとして、欧州で大きな反対運動が起こったためだ。EUが承認した国際協定を欧州議会が否決するのは異例のことで、これが初めてだったという。




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「菅原道真 ②」

2012-09-20 07:45:27 | 日本

「東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」

菅原道真 拾遺和歌集

<訳>
東風が吹いたなら 妙なる香りを起こして届けてくれ、梅の花よ。
主人がいなくなったからといって、春を忘れるな。

<註>
この名歌は、道真が京都の自邸の梅を思い浮かべて、悲嘆を込めて詠んだ歌。
その梅が、道真を慕ってある一夜、大宰府天満宮まで飛んでいったという「飛梅(とびうめ)伝説」も有名である。

右大臣(今日の副総理)だった人格者・菅原道真は、藤原氏との熾烈な政権抗争に敢えなく敗れ、太宰権帥(だざいのごんのそつ、現在の福岡県副知事ぐらい)に“飛ばされ”(左遷され)憤死し、朝廷に数々の祟りをなしたと伝えられる。
大宰府天満宮は、もともとその怨霊を鎮めるために建立されたものである。
神道思想では、怨霊を恭(うやうや)しく祭ることによって、いわば負のパワーが絶対値を保ったまま、大いなる守護霊に変換されると解する。


有名な菅原道真公の歌について、美味し国代表の菅家一比古(かんけいちひこ)氏は、以下の如く評している。

東の風とは日本の風である。その風は人々や自然の温もりとやすらぎ、生命をもたらす。世界が待ち望んでやまない日本固有の風なのだ。
その風は何処から吹いてくるのだろう。潮の流れがあるからだ。滔々と流れる遥かな、悠久なる古より続くこの流れ。その源流とは一体何処にあるのだろう。それは高天原の宇宙大中心から来ているのだ。遠つ祖神(みおや)の天津神々から発せられている。
この「天津真清水(あまつましみず)」が途切れることなく流れくる。その天津真清水を受け留める美しい器こそ、天津日嗣(あまつひつぎ)天皇及び皇室なのだ。それが日本の伝統、文化、歴史、精神、魂を顕らしめてやまないのだ。その流れこそが風を生む。東風(こち)である。




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「菅原道真 ①」

2012-09-19 09:29:19 | 日本

平安時代の公家で学者、文人、政治家である菅原道真(すがわらみちざね)について、2回学ぶ。


普段天神様と呼ばれて、学問、受験合格の神さまとして親しまれている神である。受験シーズンにもなると天神様は大忙しになる。受験生はもちろん、その父兄やら関係者までが神社に押し寄せるからだ。受験戦争の社会を象徴する悲しい現象とはいえ、とにかく若い世代にまで深く浸透している神さまといったらこの神をおいて他にはいない。
道真は、代々学者の家系に生まれ、長じて学者、文人それに政治家として卓越した能力を発揮した人物であった。幼少の頃から文才に優れていたといい、18歳で律令制度の国家公務員試験の科目のひとつ「進士」の試験に合格、23歳でさらに上級の「秀才」に合格して文章(モンジョウ)博士となる。以後、その才を遺憾なく発揮して順調に出世し、醍醐天皇の時に55歳で右大臣に上り詰めた。ところが、そこで政治的な暗闘、学閥の抗争の黒い渦に巻き込まれてしまったのである。
道真の異例の出世が、権力者藤原氏の鼻につき、延喜元年(901)藤原時平の讒言によって失脚し、北九州の太宰府へと左遷されてしまったのである。都を去るとき、道真は

「東風吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」

と詠んだ。その道真の愛した梅が、あるじを慕って一夜にして京都から太宰府に飛んできたという”飛び梅”の伝説は有名である。道真は、太宰府に赴任して2年後の延喜3年に無念の思いを残しつつ亡くなった。延喜5年、門弟によってその墓所に立てられたのが太宰府天満宮である。

道真が太宰府で死んだ頃から、都では天変地異が続くようになり、まず道真を讒言した張本人の藤原時平が39歳で急死。疫病がはやり、日照りが続き、20年後には醍醐天皇の皇太子が死亡、次の皇太子も数年後に亡くなり、人々はすべて菅公の怨霊の祟りとして恐れた。きわめつけは、延長8年(930)に宮廷の紫宸殿に落雷があり、死傷者が多数出たことであった。これにより、道真の怨霊は雷神と結びつけられることになった。もともと教との北野の地には、農作物に雨の恵みをもたらす火雷天神という地主神が祀られていたことから、それが道真の怨霊と合体したものといわれる。そこで怨霊の怒りを鎮めるため、天暦元年(947)にこの地に北野天満宮が創祀されたのである。その後、永延元年(987)に勅祭(天皇が命じた特使による祭祀)が行われ、このときに正式に「北野天満宮大神」と称号されるようになった。

この世に怨念を残して死に、のちに現世に祟りをなす死者の霊を御霊(ゴリョウ)という。日本ではなら時代以降、この御霊が疫病などさまざまな災害をもたらすと考える風潮が盛んだった。そのため御霊を神に祀り上げて、その怒りを鎮めようとして生まれたのが御霊信仰である。道真も最初は、そうした御霊信仰のなかで神さまとしてスタートしたのである。
同時に、雷神との結びつきという点では、雷=雨=農作物の成育という信仰から、農耕神としての性格も強く持っているといえる。さらにいえば、日本の農耕信仰では、古くから北野の火雷天神のような天から降ってきた神を祀る天神社(古くから農耕民族にみられた天神信仰)が各地にあった。道真の御霊が火雷天神と合体したことによって、やがて各地の天神社の祭神も道真=天神様とされるようになったのである。

平安時代から鎌倉初期に作られた「天神縁起」には、天神様を慈悲の神、正直の神として信仰する風潮がうかがえる。そうやって怖さが薄れると人々の関心は、詩歌、学問に優れた道真の人物や業績といった面に向くようになった。道真が空海や小野道風と並び”書道の三聖”といわれて崇められるようになったのもその時期からだろう。こうしてできあがったのが、今日我々が親しんでいる天神様のイメージなのである。

特に学問、文筆の神としての信仰が一般庶民の間にも広く浸透したのは、江戸初期に寺子屋が隆盛してからのことである。江戸の寺子屋の様子を記した文献などには、子供たちが机を並べる教室に、必ず天神様の尊像が掲げられてあったことが記されている。また、正月の初天神に行う天神講の行事は父兄参観の文化祭ともいえるような寺子屋最大のイベントだったし、毎月25日の縁日には近所の天神社へお参りすることが恒例になっていた。今日の受験合格の御利益信仰の走りはこのへんに始まっているのだろう。



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「野に住む鳥は、何をわずらうか」

2012-09-18 07:29:15 | 日本

先日、埼玉県の柳田ファームを訪れた時に、柳田さんが、ふと言われた。
「野に住む鳥は、何をわずらうか」

これは、マタイによる福音書6章25-34節を引用した言葉である。
彼はキリスト教徒ではないが、この短き言葉が、わが輩の心に残った。


以下、マタイによる福音書6章25-34節を記す。

『それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。』


そして、ある牧師は言う。
「明日のことは思い悩むな。明日のことは明日、自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。私たちは大いなる恵みによって、生かされている。生かされてしまっている。そして生かされてしまっている今日の自分を、まるごと生きている一つ一つの存在こそが輝いている。空の鳥も、野の花も。そして、逆境の中でも世間的にみれば不遇の中でも、人生を投げないで、自分を引き受けて生きている。そして、その姿が、その周りに生きる人々を励ましてくれる。
私たちだって、自分では輝いているようにはとても感じられない時にさえ、『神の国と神の義を求めて』生きているなら、自分のあれやこれやの心配は神様に委ねて生きているなら、神が私たちを輝やかせてくださって、それがどこかで誰かの励ましとなる。神様がそのように用いてくださっている。」


わが輩もまた、その如く思えるのである。



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「硬貨3枚で簡単にできる易占の方法」

2012-09-17 17:26:37 | 日本

硬貨3枚で、中国5000年の易占いが簡単に出来る。
これは面白いから是非やって欲しい。
わが輩もやっているよ。すごく参考になる。



<占い方法>

①占う前に自分の問いを明確にしておく。

②3枚のコインを同時に投げ、表(日本国と記してある方)を2点、裏を3点として、その合計点を出して下さい。
(例、表・表・裏なら、2点・2点・3点で合計が7点です。)

③合計が奇数なら陽、偶数なら陰。
陽は実線 ― 、陰は破線 - - で表す。
こうして出した一つのものを爻(こう)と言う。

④これを6回繰り返して、下から順に重ねていき、出来たものを卦(け)と言う。
(例)  
爻は下から順に初爻・二爻・三爻・四爻・五爻・上爻と呼ぶ。

⑤できた卦のうち、上の三つの爻を上卦、下の三つの爻を下卦という。
易では爻が3つ1セットで、自然現象をもとにした性質をあらわす。

⑥その性質は天・風・火・沢・山・水・雷・地の8つです。
この8つの性質を上下組み合わせて8×8で全部で64種類の卦がある。

⑦「六十四卦解釈の早見表」で、貴方が出した卦を見つけて下さい。
そして、その卦の解釈を読んでください。


※「六十四卦解釈早見表」が、記載出来ない為、インターネットで調べプリントアウトして見てください。



※卦の解釈
1 乾為天
(けんいてん) ものごとに誠実にあたれば、必ずうまくいくでしょう。大きな飛躍のために惜しみない努力をしてください。
2 坤為地
(こんいち) 何事も控えめにして吉です。人に従い、柔順な態度で、何事にも受身の姿勢でいれば良いでしょう。
3水雷屯
(すいらいちゅん) 物事がうまく行かず思い悩む卦です。当分は苦労と努力が必要ですが、この困難は突破する事ができます。
4山水蒙
(さんすいもう) 迷い、行く先が分からない状態です。人に教示を求めましょう。前途に希望はあります。
5水天需
(すいてんじゅ) 今はまだ、その時ではありません。自分を磨き、待つ時期です。しかし、必ず成就するでしょう。
6天水訟
(てんすいしょう) 争いごとがあり、しかも不利です。ほどよいところで身を引くのが良いでしょう。深みに陥ると凶です。
7地水師
(ちすいし) 誠実さが第一です。非常な困難にあっても誠実であれば成功します。ただし、誠実さを欠けば失敗します。
8水地比
(すいちひ) 信頼できる人が現れる、心を許さなかった人と親しくなるなど、誠実な人間関係ができ助けられるでしょう。
9風天小畜
(ふうてんしょうちく)まだ時が至らず、準備期間です。邪魔が入ることもあります。努力をを重ね、精進してください。時が来れば叶います。
10 天沢履
(てんたくり) 礼儀を重んじ、あえて争わず、和を大切にすれば大胆なことをしても上手くいくでしょう。
11地天泰
(ちてんたい) 物事が上手く運び嬉しいことがあります。また上下関係も上手く行きます。ただし、楽しみが極まり油断をすると運は落ちていくでしょう。
12天地否
(てんちひ) 今は思うように事が運びません。将来のことなら希望が持てます。
13天火同人
(てんかどうじん) 大勢の人と協力してすることは必ずうまくいくでしょう。特に、上下関係の集まりではなく、皆同じ立場の仲間である場合が良いです。
14火天大有
(かてんたいゆう) 時が至り、成功も目前です。こんな時は謙虚に、天地の徳に従って行動しなければなりません。
15地山謙
(ちざんけん) 謙虚であることが、とても大切です。謙虚な人は後々必ず成功するでしょう。
16雷地豫
(らいちよ) 物事を始める時でもあり、楽しい時でもあります。この時、遊びを慎み、努力することがとても大切です。
17沢雷随
(たくらいずい) 時がこなければ本領を発揮することが出来ません。不当な立場にあるかもしれませんが、楽しい事もありますので今は力を蓄えて待ちましょう。
18山風蠱
(さんふうこ) 物事が破綻する時です。けれど決して悪くはなくその後、大改革をすることで新たな良い道が開けます。
19地沢臨
(ちたくりん) チャンスの到来です。自信を持って事にあたれば必ず成功します。
20風地観
(ふうちかん) 今は行動を起さず状況を見定め、勉強する時期で情報を集め、多方面からの検討が必要です。
21火雷噬
(からいぜいこう) トラブルや障害は公正明大な態度で正さなければなりません。うまく切り抜ければ成功し、人間的にも成長するでしょう。
22山火賁
(さんかひ) 芸術、勉学には良いでしょう。また多少身を飾るのも良いです。けれど、どれも飾る事は外面のみのため、ほどほどにしなければなりません。
23山地剥
(さんちはく) 何をしても上手くいきません。どんな苦難でも黙って耐えるより仕方がない状態です。
24地雷復
(ちらいふく) 今までの不運は去り、道が開けます。時間はかかりますが必ず成功します。
25天雷夭妄
(てんらいぶもう) 心から誠意をもって対処する時です。流れに沿って、自分の役割を誠実に果たしましょう。また、誠実さを欠いたときには失敗の危険があります。
26山天大畜
(さんてんたいちく) 大きなチャンスが目前まで来ています。けれどこのチャンスに気付いていないかもしれません。時が来たら大仕事が出来るでしょう。準備して下さい。
27山雷い
(さんらいい) 誠実に心正しくして努めれば、望むものを得られます。自分自身の中の良いものを磨いていきましょう。
28沢風大過
(たくふうたいか) 大きな責任を持たされたり、実力以上の仕事を任されて混乱しがちです。大変な時ですが、誠実で柔和、柔順な態度であれば切り抜けられるでしょう。
29坎為水
(かんいすい) 大変危険で困難な時期です。今は動かず、時を待ちましょう。誠実な態度でいれば、いつか困難の時を抜け出られます。
30離為火
(りいか) 他の人につくことで、自分を活かせます。文学・芸術、世の中を明るくすること等に良いでしょう。
31沢山咸
(たくさんかん) 物事や人物があるべき場所におさまり、自然と調和のとれた役割を果たします。婚礼を占ってこの卦を得たなら、それは天の結ぶ良縁となります。      
32雷風恒
(らいふうこう) 日常生活(昔からのならわし、夫婦生活 など)が平和に順調に続きます。
33天山遯
(てんざんとん) 物事は同じ所に留まらず変化していきます。今まで上位にあった人は退くことになり、恵まれていなかった人には運が向いてきます。
34雷天大壮
(らいてんたいそう) 運勢が非常に盛んになっています。誠実に落ち着いて進めば成就しますが、万事強すぎるため、謙虚さ、誠実さを欠くと上手くまとまりません。
35火地晋
(かちしん) 前進の時です。今までの苦難を抜け出て日の目を見られます。
36地火明夷
(ちかめいい) 実力がありながら地中に埋もれている状態です。苦しい時ですが誠実な態度を守って、時が来るのを待ってください。
37風費家人
(ふうかかじん) 家庭を大切にする時です。家の中で何か問題があるかもしれません。具体的な行動にでて改善してください。
38火沢けい
(かたくけい) 対立が起きるときで、今は大きなことはしない方が良いでしょう。けれど小さな事なら、競い合うことによって、かえって良い結果を得られます。
39水山蹇
(すいざんけん) 困難な状況で進退窮まっています。今は動かず時を待ちましょう。今は反省し、勉強する時です。
40雷水解
(らいすいかい) 今までの困難から抜け出せるでしょう。けれど決して気を緩めず進んで下さい。
41山沢損
(さんたくそん) 目先のことはマイナスでも、それが将来いきてきます。現在の多少の犠牲は吉となります。
42風雷益
(ふうらいえき) 大きな仕事ができる時です。目標達成に専念することで困難も突破出来るでしょう。
43沢天夬
(たくてんかい) 張りつめていたものが決壊する危うい時です。けれど、柔和な態度を保ち、何事も控えめに忍耐するなら、いつか希望は叶います。
44天風こう
(てんぷうこう) 物事がまとまらず悩みやすい時期です。けれど、様々な可能性も秘めていますので、今は落ち着いて自分の行く方向を見定めてください。
45沢地萃
(たくちすい) 人が集まり、良い仕事が出来るでしょう。今は倹約すべき時ではなく、大いに使って大いに利を得る時です。
46地風升
(ちふうしょう) 成功と幸せへの階段を着実に上っていく時です。目上の人の引き立てもあるでしょう。焦らず順を追って進んでいくのが大切です。
47沢水困
(たくすいこん) 何事も思うように進まず、困難な時です。しかし誠実な態度で忍耐して下さい。ここを通り抜ければ道は開かれ、人間的にも成長するでしょう。
48水風井
(すいふうせい) 必要な物は得ることができます。焦りや心配のみが凶で、静かに落ち着いていることが大切です。
49沢火革
(たくかかく) 改革の時です。思いがけない事態の好転で幸運が舞い込むでしょう。積極的に行動してチャンスをものにしてください。
50火風鼎
(かふうてい) 上昇の時です。新しいものを取り入れることによって物事は改善されていきます。
51震為雷
(しんいらい) 忙しいこと、大変なこと、焦ることなど騒動があるかもしれませんが、実際には大きな動きはありません。いつも通りに振舞うのが良いでしょう。
52艮為山
(ごんいさん) 物事が動かず、前進のない時かもしれません。そんな時は無理に動こうとせず今出来る事をして、落ち着いているのが良いでしょう。
53風山漸
(ふうざんぜん) 時間はかかりますが、確実に進歩・向上します。焦らず、物事の順を追って進んでいって下さい。
54雷沢帰妹
(らいたくきまい) 進めば良い事はなく、非常に悪い結果が待っています。一時的な欲に目がくらんで正邪の判断ができなくなっている事が多いようです。
55雷火豊
(らいかほう) 勢いがあり、今が一番良い時です。これ以上の繁栄はなく、現状を維持するためには、公正明大・誠実さを大切にせねばなりません。
56火山旅
(かざんりょ) 周囲と孤立したり、自分の居場所をなくしたりと、行き場の無い状況です。けれど自分の志を貫き、進んでいくなら、いつか落ち着く先が見つかります。
57巽為風
(そんいふう) 柔順で、控えめな態度が大切な時です。何かと迷う事も多いので人を補佐して仕事をし、目上の人を見て学ぶのが良いでしょう。
58兌為沢
(だいたく) 嬉しいことがあり気が緩みがちです。こんな時こそ誠実な態度で事に当たるのが大切で、それによって喜びをさらに大きなものへ発展させられます。
59風水渙
(ふうすいかん) 変化の時です。これまでシコリとなっていたものが消え、新しい事を始められるでしょう。けれど、今まで順調だったものも変わっていきます。
60水沢節
(すいたくせつ) 何事も節度が大切です。度を過ぎず、ほどよいところを知って進めば上手くいくでしょう。
61風沢中孚
(ふうたくちゅうふ) 今は正直で誠実であることが大切です。誠実であるなら困難を乗り越え、大きな仕事も出来るでしょう。
62雷山小過
(らいさんしょうか) 何事も下手に出て、控えめにするなら良いでしょう。小さな事、些細な事をするには良いですが、大きな事はしてはなりません。
63水火既済
(すいかきさい) 始めはとても順調ですが、油断をするとその幸運が遠ざかってしまいます。将来のことを考え、将来にそなえて蓄えを作っておくのが良いでしょう。
64火水未済
(かすいびさい) 今は非常に悪い境遇にあるかもしれません。けれど時が来れば希望は叶います。早まらず、辛抱して待ってください。


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「スイカで体の酸化防止」

2012-09-17 07:23:59 | 日本

初秋と言いながらも、まだまだ残暑が厳しい。だが既に、スーパーの棚からは夏の象徴的食べ物である「スイカ」の姿が消えつつある。
今回は、ちょっと時期を逸したが「スイカで体の酸化防止」と題した東嶋和子さんの文章を要約する。
来年への参考にして欲しい。



夏といえばスイカ。
近ごろはカットスイカが出回り、8分の1や4分の1だけ買えるので水代わりにたいらげている。残った薄緑の果肉は漬物になる。
おかげで夏ばて知らず、ついでに悲しいかな、夏やせも知らない。
体がワインでできているとのたまった女優さんがいたが、私の夏の体はおそらくスイカでできている。私の成分、いやスイカの成分はほとんどが水分で、4~6%が果糖とブドウ糖である。素早くエネルギーに変わるので、夏の水分とエネルギー補給にはうってつけ。

スイカに群がるカブト虫のように、中年乙女にも夏ぐらいは、迷える男子が寄ってこないものかしら……。ぼやいていたら、薀蓄自慢の編集I氏がツンと鼻を高くしていった。
「スイカは水と糖分だけと思っているでしょ。実は、他の果物にはないシトルリンという成分があって抗酸化作用がかなり高いんですよ」

抗酸化と聞いては、放っておけぬ。野菜等健康食生活協議会の「野菜・果物の健康維持機能に関する研究動向」を見た。シトルリンは野生スイカが乾燥ストレスを受けたとき、強力な抗酸化成分としてDNAや酵素を保護する、とある。

また、L-シトルリンに富むスイカジュースを餌に加えて糖尿病のラットを飼育したところ、循環器系のリスク因子の低減や血糖コントロールの改善などによりメタボリックシンドロームを回復させることが示された。糖尿病患者がスイカを食べたときのグリセミック指数やインスリン反応を調べた試験でも、効果が認められている。強い抗酸化作用で知られるリコペンの含有量も一般的な生食用トマトより高く、「スイカはリコペンの重要な供給源」と、同協議会。

さらにうれしいことに、カットスイカを5℃で六日間保存しても、パイナップルやキウイに比べてビタミンC減少率が少なく、カロテノイドやポリフェノール類は減らないという。

アフリカはカラハリ砂漠生まれのスイカが日本に広まったのは江戸後期らしい。
益軒翁はこう記す。

「瓜は風涼の日、及秋月清涼の日、不可食。極暑の時、食ふべし」




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