龍の声

龍の声は、天の声

「観音経とは、」

2017-10-31 06:16:45 | 日本

広大無辺なる智慧と慈悲の威神力でもって、人々を救ってくれるのが観音さまであり、その衆生済度のはたらきを分かりやすく説く経が観音経である。この経の影響力はきわめて大きく、京都の三十三間堂の千体観音に代表される熱烈な観音信仰は、この一巻の経典によって成立したといっても過言ではないのである。

観音経は全二十八章からなる法華経の第二十五章を、独立した一つの経にしたものである。そうしたことができたのは、もともとこの経が独立した一つの経だったからであり、第二十五章は観音信仰を説く経が中国で法華経に編入されてできたものである。

それがこの経の正式名が「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」となっている理由であり、普門品(ふもんぼん)の普門は普遍の門、品は章を意味し、そして普遍の門は観音さまのお顔があらゆる方向に向いていることを意味する。それを具体的な形にしたのが十一のお顔をもつ十一面観音であり、千の手と千の眼をもつ千手千眼(せんじゅせんげん)観音なのである。

また観音さまは三十三身に変化(へんげ)して、いかなる時いかなる場所であろうとも姿をあらわし、人々を救ってくれるという。これを普門示現(ふもんじげん)のはたらきといい、三十三は無数の姿に身を変えることを意味している。

二宮尊徳翁は報徳記によると、ある行脚の僧が読みくだしの観音経を読んでいるのを聞いて、一度で観音経の奥義を悟ったという。そして貧しい人々を救うことに一生を捧げる決心をし、二宮尊徳観音となって多くの人々を救済したのである。

このようにして観音菩薩は、さまざまな姿でさまざまな場所に姿をあらわすのであり、人助けをしている人はすべて観音さまである。観音経がいちばん言いたいことは、観音菩薩とは実は私たち自身であり、すべての人は仏心を持ったかけがえのない存在だということである。それが大乗経典のいちばん言いたいことなのである。

観音経には観音さまによる救いがくり返し説かれている。観音菩薩の名を一心にとなえれば、燃えさかる火の穴へ落ちたときにはその穴は池に変わり、海で嵐に遭っても船は沈まず、高い山から落ちてもケガをせず、刀で切りつけられたら刀が砕けるなど、火難、水難、風難、剣難、などあらゆる災難から救われるとある。また財宝や子宝を授かるとか、迷いの心がなくなるとか、災難に会ったときには無畏の心をさずかる、だから観音さまは施無畏者(せむいしゃ)と呼ばれる、とか説かれている。

そのため観音経はご利益(りやく)ばかり説くお経だと思う人が多く、私も始めはそう感じていたのであるが、くり返し読んでいるとそこに深い意味が含まれていることが分かってくる。この経は二重底になっていて、書いてある通りに理解することも、深い意味に理解することもできるようになっているのである。

またあらゆる人々の、あらゆる願いを聞き届けることを悲願とする、慈悲の化身である観音さまは、高尚な願いはかなえるが、ありきたりの願いはかなえないといった差別はしない、と暗に主張しているようにも感じる。

この経が多くの宗派で読まれているのは、観音さまの救いを分かりやすく説く内容の良さとともに、難しい字がほとんど出てこない読みやすさ、音読するときの発声のしやすさ、といった長所をこの経が具えているからだと思う。

観音経の中には宝石のような言葉が散りばめられており、とくに偈(げ。詩の形式の文)の部分にはたくさん含まれている。だからこの経を理解するには、そうした言葉を手掛かりにするのが近道であるし、この経の味わいもそこにある。偈は五文字で一行、四行で一区切りになっている。これは漢詩でいえば五言絶句の形であるが、漢詩の規則である韻(いん)や平仄(ひょうそく)は調えられていない。




  みょうほうれんげきょうかんぜおんぼさつふもんぼんだいにじゅうごげ
◎『妙法蓮華経観世音菩薩普門品』 (第二十五偈)



せーそんみょうそうぐー   がーこんじゅうもんぴー
世尊妙相具          我今重問彼

ぶっしーがーいんねん   みょういーかんぜおん
佛子何因縁          名為観世音

ぐーそくみょうそうそん   げーとうむーじんにー
具足妙相尊         偈答無盡意

にょうちょうかんのんぎょう ぜんのうしょーほうしょー
汝聴観音行         善應諸方所

ぐーぜいじんにょーかい  りゃくこうふーしーぎー
弘誓深如海         歴劫不思議

じーたーせんのくぶつ    ほつだいしょうじょうがん
侍多千億佛          発大清淨願

がーいーにょーりゃくせつ もんみょうぎゅうけんしん
我為汝略説          聞名及見身

しんねんふーくーかー    のうめつしょうーくー
心念不空過          能滅諸有苦

けーしーこうがいいー    すいらくだいかーきょう
假使興害意          推落大火坑

ねんぴーかんのんりき   かーきょうへんじょうちー
念彼観音力  火坑變成池

わくひょうるーごーかい   りゅうごしょーきなん
或漂流巨海  龍魚諸鬼難

ねんぴーかんのんりき   はーろうふーのうもつ
念彼観音力  波浪不能没

わくざいしゅーみーぶー  いーにんしょーすいだー
或在須弥峯  為人所推墮

ねんぴーかんのんりき   にょーにちこくうじゅう
念彼観音力  如日虚空住

わくひーあくにんちく     だーらくこんごうせん
或被悪人逐  堕落金剛山

ねんぴーかんのんりき   ふーのうそんいちもう
念彼観音力  不能損一毛

わくちーおんぞくにょう   かくしゅうとうかがい
或値怨賊繞  各執刀加害

ねんぴーかんのんりき   げんそくきーじーしん
念彼観音力  咸即起慈心

わくそうおうなんくー    りんぎょうよくじゅうしゅう
或遭王難苦  臨刑欲寿終

ねんぴーかんのんりき   とうじんだんだんねー
念彼観音力  刀尋段段壊

わくしゅうきんかさー    しゅ-そくひーちゅうかい
或囚禁枷鎖  手足被柱械

ねんぴーかんのんりき   しゃくねんとくげーだつ
念彼観音力  釋然得解脱

じゅそーしょーどくやく    しょーよくがいしんじゃー
呪詛諸毒薬  所欲害身者

ねんぴーかんのんりき   げんじゃくおーほんにん
念彼観音力  還著於本人

わくぐーうあくらーせつ    どくりゅうしょーきとう
或遇悪羅刹  毒龍諸鬼等

ねんぴーかんのんりき    じーしつぶーかんがい
念彼観音力  時悉不敢害

にゃくあくじゅういーにょう  りーげーそうかーふー
若悪獣圍繞  利牙爪可怖

ねんぴーかんのんりき    しっそうむーへんぼう
念彼観音力  疾走無邊方

がんじゃーぎゅうふつかつ  けーどくえんかーねん
玩蛇及蝮蠍  気毒煙火燃

ねんぴーかんのんりき    じんじょうじーえーこー
念彼観音力  尋聲自回去

うんらいくーせいでん    ごうばくじゅーだいうー
雲雷皷掣電  降雹濡大雨

ねんぴーかんのんりき    おうじーとくしょうさん
念彼観音力  應時得消散

しゅうじょうひーこんやく   むーりょうくーひっしん
衆生被困厄  無量苦逼身

かんのんみょうちーりき   のうぐーせーけんくー
観音妙智力  能救世間苦

ぐーそくじんつうりき     こうしゅうちーほうべん
具足神通力  廣修智方便

じっぽうしょーこくどー    むーせつふーげんしん
十方諸國土  無刹不現身

しゅーじゅーしょーあくしゅー じーごくきーちくしょう
種種諸悪趣  地獄鬼畜生

しょうろうびょうしーくー   いーぜんしつりょうめつ
生老病死苦  以漸悉令滅

しんかんしょうじょうかん   こうだいちーえーかん
真観清淨観  廣大智慧観

ひーかんきゅうじーかん   じょうがんじょうせんごう
悲観及慈観  常願常譫仰

むーくーしょうじょうこう    えーにちはーしょーあん
無垢清淨光  慧日破諸闇

のうぶくさいふうかー    ふーみょうしょうせーけん
能伏災風火  普明照世間

ひーたいかいらいしん    じーいーみょうだいうん
悲體戒雷震  慈意妙大雲

じゅーかんろーほううー   めつじょーぼんのうえん
澍甘露法雨  滅除煩悩焔

じょうしょうきょうかんじょー ふーいーぐんじんちゅう
諍訟経官處  怖畏軍陣中

ねんぴーかんのんりき    しゅうおんしったいさん
念彼観音力  衆怨悉退散

みょうおんかんぜーおん  ぼんのんかいちょうおん
妙音観世音  梵音海潮音

しょうひーせーけんのん  ぜーこーしゅーじょうねん
勝彼世間音  是故須常念

ねんねんもつしょうぎー  かんぜーおんじょうしょう
念念勿生疑  観世音淨聖

おーくーのうしーやく     のういーさーえーこー
於苦悩死厄  能為作依怙

ぐーいっさいくーどく     じーげんじーしゅうじょう
具一切功徳  慈眼視衆生

ふくじゅーかいむーりょう   ぜーこーおうちょうらい
福聚海無量  是故應頂礼

にーじーじーじーぼーさー   そくじゅうざーきー
爾時持地菩薩  即從座起

ぜんびゃくぶつごん せーそん にゃくうーしゅうじょう
前白佛言 世尊 若有衆生

もんぜーかんぜーおんぼーさつぼん じーざいしーごう
聞是観世音菩薩品 自在之業

ふーもんじーげん   じんつうりきしゃー
普門示現  神通力者

とうちーぜーにん
當知是人

くーどくふーしょうぶっせつぜーふーもんぼんじー
功徳不少佛説是普門品時

しゅうじゅうはちまんしーせんしゅうじょう
衆中八萬四千衆生

かいほつむとうどう
皆發無等等

あーのくたーらさんみゃくさんぼーだいしん
阿耨多羅三藐三菩提心









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「日本の前進  皇紀2600年」

2017-10-30 06:08:12 | 日本

永田秀次郎著 (昭和14年10月29日 新潮社出版) 「日本の前進  皇紀2600年」に書かれた当時の日本人は実に立派な日本精神を持つ国民である。戦後のGHQ占領政策により呪縛されてきた現在の日本人に、日本の誇りを如何にとり戻すべきかの書籍である。
以下、要約する。



日本は有史以来2600年、現在の世界では最も古い国家である。しかしながら、明治維新以来、発奮して広く知識を世界に求め、青年の意気を以て努力し来った点から見れば、現在の世界では最も新しい国家である。この如くして最も古くして、且つ、最も新しき国家である事が、日本の何時までも衰うることを知らぬ弥栄(いやさか)の根本理由である。

「最も古くして最も新しき国!」この青年的気力が日本の日本たる所以である。

以上、私はわが国の弥栄なる理由を説明して、第Ⅰ、民族的理由。第2、地理的理由。第3、団結力。第4、優秀性。第5、進歩主義。第6、勤勉主義。第7、青年的気力の7項目を揚げた。私の説明は決して論理的でも無く又、もとより学術的でも無い。全く平凡なる常識である。私の説明には少しも神秘的なものを含まない。それ故、この如き説明ならば外国人にも理解せられるべきものであろうと思う。唯、我々は如何にしても外国人には理解されない一事を持っている。それはすなわちわが皇室に対する国民の感情である。

科学的分析によれば、水は水素2と酸素1の化合物である。日本の弥栄を説明して、7項目の理由を並べたのは、水素2と酸素1と並べたのと同じである。水素2と酸素1が、ただ単純に並んでいたのでは水では無い。これが化合して初めて水となるのである。従って、この2元素の科学的結合が、ここに一新物たる水を生むのであるが、私の考えるところによると、外国人は日本の弥栄の理由たる水素2と酸素1という組成分子を理解しても、その科学的結合の結果たる水を理解することが出来ないであろうと思う。

わが国の弥栄の理由たる7項目の化学的結合は、ここに外国人の想像に絶したる一新生物を産んでいるのである。それは何であるが、それは「皇室に対する感激」である。我ら日本国民は、その伝統的歴史的境遇より自然に生まれたる国民的感情として、わが皇室に対し奉り、絶対的の感激を持って生まれているのである。我らは皇室と共に生き、皇室と共に栄え、皇室の無きところに我ら無く、皇室の無きところに日本国家は無い。我ら日本民族は、幾何学上の円周の如きものである。如何に小さきものに縮小しても、その中心に皇室がある。

我らの皇室は我らの皇室である、決してよその皇室では無い、他人の皇室では無い。そしてこの皇室は我らのみの皇室であって、他の何者の皇室でもない。我らは皇室を離れては一刻といえども、その淋しさに堪えられない。我らは我が心の中に皇室を画くことによって無上の光栄と絶大の安心を覚ゆるのである。

我らは我が胸の内に皇室を抱くことによって、「白がねも、黄金も、玉も何かせむ」世の中に我らほど、心の富を味わうものは他に有り得ないと思っている。我らは父子の情を以て皇室を熱愛し、神霊に奉ずる心を以て皇室を景仰す、「海ゆかば水く屍、山ゆかば草むす屍」我らの生命は君国に捧ぐることによって最もその死に所を得たるものとする。この情熱の燃ゆる限り、我が帝国は萬代不易である。天壌無窮である。

「我が国の弥栄は、ただ皇室の稜威に由る」この「皇室」の一語によって身体の血液が電気に感じたるが如き昂奮を覚ゆる者、これを称して我らは「日本人」と言うのである。故に皇室に対し奉って、この感激を覚えないものは到底、7項目の羅列によって結論されるものではない。その科学的結合が生んだ一新生命に外ならないのである。

悠久なるかな2600年。そして弥栄に栄えて衰えることを知らぬ我が皇国。これを先祖に承けて、これを子孫に伝ふ。我らは、時あたかも世界の転換期において、この記念すべき光栄ある年時に際会す。我らの幸福は何物にも譬え難きものである。

この幸福なる時代に生まれた我らの心得は如何なるべきか、それは愈々我が皇室を景仰し奉ることである。愈々、一致団結することである。愈々、勤勉なることである。愈々、進歩主義であるべきことである。格言すれば、寸時も油断すべからざることである。日本の弥栄は偶然ではない。唯、努力の結晶に外ならないのである。最も努力し、甲斐ある努力を楽しく続けて行く、これが今日における日本国民の心得でなくてはならぬ。












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「改憲か護憲か 論争の構図に変化の胎動」

2017-10-29 05:52:09 | 日本

日本経済新聞の編集委員 清水真人さんが 「改憲か護憲か 論争の構図に変化の胎動」と
題して掲載している。
以下、要約し記す。



首相の安倍晋三の続投と野党再編を残した衆院選。11月3日で公布71年を迎える憲法の改正論議も仕切り直しとなる。安倍の下での改憲に反対してきた民進党が分裂し、選挙を経て改憲を頭から否定しない勢力がむしろ増えた。多党化した分だけ論点も広がり、議論が一気に進むとは限らないが、戦後長く続いた「改憲か護憲か」の対決構図には変化の胎動がうかがえる。
 
「9条改正にできるだけ多くの賛成を得てまとめるには(戦力不保持などを定めた)2項を残さないと難しいだろう。まだ自民党内の賛成を得る段階ではないが、そのように進めたい」
 

◎首相「9条改正で文民統制明記」
 
安倍は22日夜に出演したテレビ各局の番組で、憲法9条1項、2項を残したうえ、「9条の2」などの新たな条項で自衛隊を明記する、との自らの提案の実現にこう意欲を示した。元幹事長の石破茂らが2項削除を唱えるのをよそに、7日のインターネット番組での党首討論会では、新しい条項にシビリアンコントロール(文民統制)の確保を盛り込む考えも表明した。
「防衛省と自衛隊の関係は変わらない。シビリアンコントロールをしっかりと明記していけば、よりすっきりとしたものになっていくのではないか」
 
「シビリアンコントロール」とは、国民の代表として民主的に選ばれた政治家が、軍事を統制することを意味する。
 
2012年の自民党改憲草案では、自衛隊を「国防軍」に衣替えして「首相を最高指揮官とする」と定めた。同時に「軍」は任務の遂行に際し「国会の承認その他の統制に服する」と規定した。安倍の発言は、この手の国会や内閣による自衛隊の統制の枠組みを「9条の2」などにも書き込む意向を示したものだ。
 
安倍は9条への自衛隊明記の提案を、集団的自衛権の限定容認などは変えない「現状追認」が目的だと説く。ただ、憲法学界からは、憲法の明文で自衛隊に正統性を持たせるなら、それに見合う統制の枠組みも一体で盛り込まないと「最悪の改憲提案になる」(東大教授の石川健治)との批判が根強い。シビリアンコントロールの明文化は、これを打ち消す思惑がある。
 
安倍が「改憲に前向き、建設的な議論を重視する人が多い」と秋波を送るのは、野党第2党になった希望の党だ。8日の日本記者クラブでの党首討論会。代表の小池百合子は安倍の自衛隊明記の提案に反対したうえで、こう疑問を投げかけている。
 
「防衛省という役所があって、防衛省設置法というのがある。かつ実力部隊の自衛隊の部分だけ取り出して(明記して)いくと、防衛省と自衛隊の関係が逆転してしまうのではないか」
 
現在、国家行政組織の一つとしての防衛省は、防衛省設置法で根拠づけられ、自衛隊の管理・運営などの任務を持つ。実力部隊としての自衛隊による国の防衛の任務、部隊の組織・編成や行動、首相の最高指揮監督権などは自衛隊法で定める。「自衛隊」だけを憲法に明記し、「防衛省」は法律上の組織にすぎないままだと、バランスを失する、というのが小池の論法だ。
 
憲法学者からこれに関連し、既に存在し、固有名詞である「自衛隊」を憲法の条文に書き込むのは「理論的には難しい」(九州大准教授の井上武史)との見解も出ている。統治機構の中で、憲法に明記された組織は国会(衆院、参院)、内閣、最高裁などの裁判所と会計検査院だけ。国民投票を経て自衛隊をこれらと並ぶ憲法上の組織とすれば、極めて高い正統性を持つことになる。
 
これは「現状追認」どころか、自衛隊に組織上の独立性や固有の権限を認める根拠になりかねず、井上は「違憲論を封じる手段としては過剰かもしれない」と指摘する。自衛隊の合憲化だけなら、憲法の条文では、国を防衛する「実力部隊」や「実力組織」を置くことができる、と一般名詞で書くにとどめ、具体的には「法律で設置する」としておくのが望ましいとする。
 
安倍はシビリアンコントロールも書き込むことで「防衛省と自衛隊の関係は変わらない」と防戦する。ただ、自衛隊明記は統治機構に関する他の条文にも波及しうる。例えば73条の内閣の権能。「国務の総理」「法律の誠実な執行」「外交関係の処理」などを列挙するが、「国の防衛」や「自衛隊の統制」は制定時は想定外だから、何も書いていない。このままで済ませられるかも論点だ。
 

◎「幅広い合意形成」どこまで
 
このように、改憲の論点は複雑で多岐にわたりつつある。政党も憲法学者も「改憲に賛成か反対か」「改憲派か護憲派か」と従来型のレッテルを貼るだけでは、割り切れない。安倍は23日の記者会見で、衆院選で与党で改憲発議に必要な3分の2超の議席を得たとはいえ、「与党だけでなく、野党とも幅広く合意を形成するよう努力は重ねなければならない」と強調した。
 
自民、公明両党は同日の党首会談で、新たな連立政権合意を取り交わした。改憲については「衆参両院の憲法審査会で審議を促進することにより、改憲に向けた国民的議論を深め、合意形成に努める」と明記した。
 
改憲発議には衆参両院で3分の2以上の多数が要る。衆院の新任期は4年あるが、参院は現有の「改憲勢力」が19年夏の選挙でどうなるか分からない。19年春には統一地方選挙もある。参院選が地方選と重なるのは12年に一度。自分の選挙を終えた地方議員の活動が鈍るため、自民党は07年も1995年も敗北した。「スケジュールありきではない」とする安倍だが、参院選前に発議を急ぐ動機はある。
 
「改憲勢力」と言っても、公明党は9条改正には慎重だ。発議には与党と野党第1党の合意が大前提だ、とも唱えてきた。そうなると、立憲民主党の動向がカギを握るかもしれない。野党第2党の希望も割って入る構えだが、党そのものの基盤が不安定だ。自民党では、安倍がけん引役と頼む副総裁の高村正彦と党憲法改正推進本部長の保岡興治が衆院議員を引退。推進体制の再整備も急務だ。









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「安倍首相が打つ、次の大胆な一手」

2017-10-29 05:50:23 | 日本

歳川隆雄さん現代ビジネスが「安倍首相が打つ、次の大胆な一手」について掲載している。
以下、要約し記す。



◎戦後選挙史上、唯一の「3連勝」

10月22日投開票の第48回衆院選は、安倍晋三首相(総裁)率いる自民党の大勝に終わった。安倍首相が記者会見で勝ち誇ったように、自民党戦後史で3回連続衆院過半数を制した総裁は安倍首相だけである。

1955年の保守合同、即ち55年体制確立後で言えば、池田勇人首相(総裁)と佐藤栄作首相(同)の2人だけが連続過半数を勝ち取っている。

戦後で括ると、1949年1月の第24回衆院選の吉田茂首相(当時の民主自由党総裁)と1952年10月の第25回衆院選の吉田首相(当時の自由党総裁)が過半数を獲得している。

最近で言えば、長期政権で知られた中曽根康弘首相(総裁)の1986年6月の「死んだふり解散」と小泉純一郎首相(同)の2005年8月の「郵政解散」での自民党圧勝の例があるが、それでも両氏は2回連続の衆院選過半数の勝利を手にすることはなかった。

その意味では、今般の自民党圧勝は戦後の選挙史上画期的な出来事と言っていい。安倍首相が誇るのは理解できる。

しかしながら、この快挙はすべてが安倍首相に負うものではなく、言うまでもないが、希望の党の小池百合子代表(東京都知事)の”自爆テロ”と言っていい9月29日の「さらさらない」「排除します」発言という敵失がもたらしたものである。


◎言葉を自在に操ってきた小池氏がなぜ…

1993年の日本新党からの参院選出馬・当選で非自民連立政権の細川護熙首相側近に始まり、小沢一郎新生党代表幹事(当時)主導で結成された新進党参加、その後は自由党、自民党を渡り歩き、終には小泉純一郎政権の首相補佐官、環境相に至るまで、常に時の最高権力者の傍らで「政権の広報責任者」の任にあった。

そうした政治キャリアを持つ小池氏は人一倍、政治家の言葉の持つ重さを分かっていたはずだ。「クールビズ」の例を持ち出すまでもなく、キャッチーな言葉を編み出して話題を独占してきた彼女が、なぜ「排除します」と言い切ったのか。理解に苦しむ。

パリから帰国後、希望の党両院議員総会で「私の言動で同志の皆さんに大変苦労をかけ、心ならずも多くの方々を傷つけてしまったことを謝りたい」と言ったところで後の祭りである。

希望の党と民進党の合流に当たって小池氏は自らの政治信念から民進リベラル系衆院議員を「排除する」必要があると判断したのは間違いない。

それにしても、である。

口が滑ったでは済まされない。やはり、一時は政権選択選挙である今衆院選で「安倍1強政治」打破を繰り返し唱えていたのだから、小池氏が国政に復帰して政権の座を目指す「器」ではなかったということになるのだろう。事実上、政治生命は断たれたと言っても差し支えない。


◎具体化しつつある安倍首相の「次の一手」の中身

では、肝心の安倍首相である。来年9月の自民党総裁選3選は確定的であり、早くもスイッチを憲法改正と「デフレ脱却」宣言に向けた行程表作りに切り替えている。

興味深いのは、26日に官邸で開かれた経済財政諮問会議(議長・安倍首相)を報じた『日本経済新聞』(27日付朝刊)の記事である。安倍首相が「賃上げは企業への社会的要請だ。3%の賃上げが実現するよう期待する」と語ったと、同記事のリードは始まり、以下の通り続く。

<働く人への利益分配を強化すること自体は経済にプラスだが、成果重視の働き方に変えていく中で一律の数値目標は理にかなわない。成長産業への人材移動を促す労働市場改革などもセットで進めることが欠かせない>

意味深長な表現である。要は、働き方改革の旗を掲げた賃上げと解雇は裏表にあり、来年1月召集の通常国会中盤に春闘のタイミングに合わせて「高プロ」制度を導入した労基法改正案を成立させるということである。

そして株高・円安の下で高らかに「デフレ脱却」宣言を謳った後、通常国会終盤に憲法改正法案の国会発議を図り、総裁選無投票3選を経て国民投票に諮るというものだ。

安倍首相の思惑通りに運ぶ保証はない。だが、今や「ポスト安倍」を覗う者は舞台の袖に消え去ったのもまた事実である。










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「衆院選 9条へ自衛隊明記 当選議員アンケート」

2017-10-29 05:49:33 | 日本

毎日新聞は23日、衆院選の全候補者を対象に実施したアンケートを基に、当選者分を再集計した。安倍晋三首相が提案した憲法9条への自衛隊明記に賛成する当選者は全体の54%と半数を超えたが、改憲の発議に必要な衆院の3分の2(310人)には届いていない。自民党以外の各党では賛成が5割以下にとどまる。9条改正に「反対」は全体の24%。一方、大規模災害などの緊急事態に国会議員の任期を延長する緊急事態条項は、「賛成」が全体の68%で3分の2を超えた。
 
憲法改正自体には、2014年衆院選とほぼ同じ82%が賛成。反対は13%にとどまった。自衛隊明記は自民の75%が賛成だが、12年の改憲草案で示した「国防軍の明記」も14%いる。公明党は36%が「改正反対」、32%が無回答。自衛隊明記に賛成は21%だった。
 
希望の党は自衛隊明記に賛成47%、反対39%と割れた。小池百合子代表の求心力が急低下しており、党内論議は波乱含み。日本維新の会は無回答が73%と、今後の議論を見定める空気が漂う。立憲民主党は9条改正に反対が98%で、政権との対決姿勢を強める。共産、社民両党も全員反対した。
 
緊急事態条項には自民の94%、公明の61%が賛成。希望は賛成43%・反対47%で割れており、立憲は91%、維新も82%が反対だ。共産、社民は全員が反対。参院の合区解消は全体の61%が賛成だが、自民以外には広がりを欠く。公明の82%と立憲の84%、維新も91%が反対した。
 













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「自民勝利で改憲へ前進、米国メディアはこう報道」

2017-10-29 05:47:07 | 日本

古森義久さんが「自民勝利で改憲へ前進、米国メディアはこう報道」と題して掲載している。
以下、要約し記す。


自民党の衆院選での大勝は、米国でも大々的に報じられた。
その報道を見ていると、米側のメディアや日本専門家の最大の関心は、安倍首相がこの大勝を踏まえて憲法改正をどう進めるかに向けられているようである。この点、自民党が改憲を公約に掲げながら選挙戦ではあまり前面に出さなかった姿勢とは、面白いコントラストを描いているといえるだろう。

米国では、安倍氏の勝利は米国のトランプ政権にとっても力強い支えとなり、対北朝鮮政策に反映されていくという見方も生まれている。


◎安倍首相の政治手腕を評価

「安倍首相は総選挙で圧倒的多数を確保し、憲法の改正を進めることになる」――。
ワシントン・ポスト(10月23日付)はこんな見出しの記事を大きく掲載した。この記事は、まず今回の選挙結果の意義をこう記す。「与党は圧倒的多数(スーパーマジョリティー)を獲得して、平和主義的な憲法の改正に前進することが可能になった」

同記事はまた、「この結果は安倍氏の政治的に巧みな技量を明示し、スキャンダルや支持率のブレにもかかわらず、日本の政治では持続的に強い存在であることを証明した」と安倍首相の政治手腕を評価し、大手研究機関「外交評議会」の日本研究者シーラ・スミス氏の「この圧倒的多数派獲得は安倍氏のリーダーシップへの本当の承認だ」というコメントを紹介していた。
そして同記事は、今回の選挙の結果、安倍首相にとって念願の憲法改正を実際に推進できる態勢が固まったと強調し、次のように述べていた。

「安倍氏は戦争を放棄する憲法9条を改正し、日本の軍事力に関する曖昧さを取り除くことを長い年月、求めてきた」
「保守派の多くは、憲法改正の早期実現を求める一方、有権者の多くはなお懐疑的のままである。日本の隣国の韓国と中国も、改憲は日本を再び軍国主義的にするかもしれないとして神経をとがらせている」


◎日本国民の“恐怖感”が安倍首相の主張に合致?

「ワシントン・タイムズ」も10月23日付の長文の記事で、憲法問題を提起していた。記事の冒頭には次のような記述があった。
「安倍晋三首相の率いる与党は歴史的な勝利を収め、日本を平和主義的憲法の改正へと近づけることとなった」

ここで注釈をつけるべきは、ワシントン・ポスト、ワシントン・タイムズの両紙が日本の現憲法の描写として使った「平和主義的(パシフィスト:Pacifist)」という言葉である。この言葉は平和(Peace)とは異なる。パシフィストは「不戦」とも訳され、消極的、無抵抗という意味でもある。つまり、「自国が攻められても戦わない」という意味も込められており、米国では決して褒め言葉ではない。日本側の一部で使われる「平和憲法」というスローガンとはニュアンスも意味も違う言葉なのだ。

上記のワシントン・タイムズの記事は、以下のように日本国憲法の由来についても説明しながら、安倍首相にとって今回の総選挙が念願の改憲を成し遂げる絶好の機会となったと論評する。
「安倍氏の勝利は、核兵器の開発を進め日本を海底に沈めるという脅しをかける北朝鮮の深刻な脅威にも原因があった。日本国民の恐怖感は、憲法9条の改定を長年求めてきた安倍氏の主張にぴったりと合致したようである」

「終戦直後に米国占領軍によって与えられた憲法9条は、戦争の完全な放棄と、日本の軍事力を防衛のみに厳しく制約することをうたってきた」
「安倍首相の党とそのナショナリスト的な支持者たちは、日本の現憲法を第2次大戦での敗北の遺産であり、日本の近代工業国家としての完全な復活への障害とみなして、長い間、改正を求めてきた」

こうした記述からは、ワシントン・タイムズが日本の憲法改正は望ましいと見ている様子が感じられる。いずれにしても、今回の総選挙が日本の憲法改正につながりうるという点を重視する論評となっている。


◎トランプ政権にとっても大きな支えに

米国の報道では、日本の今回の総選挙がトランプ政権にとっても大きなプラスだとする見解も目立った。その典型が前述のワシントン・タイムズの記事である。見出しには、以下のような記述があった。
「『信頼されるトランプの同盟者』安倍晋三が、北朝鮮問題などを議題にする日米首脳会談の前に国民の信託を得る」

トランプ氏にとっての今回の衆院選の意味は、以下のように説明されていた。
「ホワイトハウスは、安倍氏の勝利を歓迎している。安倍氏はトランプ氏との間で個人的な絆を築き、北朝鮮に対するトランプ氏の、ときには攻撃的なスタンスを一貫して支持する『信頼されるトランプ大統領の同盟者』として知られるからだ」

同記事はその論拠の1つとして、ブッシュ元政権のアジア上級部長を務め、日本でも広く知られるマイケル・グリーン氏の次のようなコメントを紹介していた。
「安倍首相の総選挙での決定的な勝利は、まもなく開かれるトランプ・安倍会談をスムーズに進めさせるだろう。2021年まで政権を担当する可能性のある安倍首相の強固な政治的基盤が、トランプ大統領の対北朝鮮政策の誇示に説得力を与え、トランプ外交全般に寄与することも考えられる」

以上のように米国側、とくにトランプ政権では、日本の総選挙結果を大歓迎しているようである。










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「明治百五十年にあたり、明治の如く正々堂々と国難突破に奮い立とう!」

2017-10-28 06:00:07 | 日本

道義国家建設へ

西村真悟さんが以下の論文を掲載している。
以下、要約し記す。


慶応四年・西暦一八六八年から平成三十年・西暦二〇一八年まで百五十年だ。
即ち、明治維新から百五十年が経過した。
そこで、この百五十年間を長いとか短いとか回顧するだけではなく、太古と明治維新と現在との連続性、つまり、戦前と戦後の連続性を確認するための節目としての明治維新百五十年をとらえることが、今、必要と考える。
 
つまり、作家の司馬遼太郎氏流の、「この国」には、昭和とも現在の平成とも全く違う「明治という国家」があったと捉えるのではなく、我が国は、神代から、断絶の無い一つの連続した日本である、と捉えた上で、明治維新を見つめていきたい。
 
では、我が国を連続した一つの日本と捉える要(かなめ)は何か。
それは、天皇である。
万世一系の天皇を戴く国が日本である。
よって、天皇が天皇となられた「天照大神の天壌無窮の神勅」から、現在まで万世一系の天皇がおられる日本に断絶はないのだ。
このこと、人類の「輝かしい自由と平等のフランス革命」や「プロレタリア革命」という「偉業」に、容量の少ない頭を振り回された我が国の戦後の思想家や東京大学教授が、明治維新をフランス革命なみに捉えようとしたり、昭和二十年八月十五日の終戦の日に架空の「八月十五日クーデター」があったような嘘を教科書に書いているので、特に指摘しておきたい。
 
また、最近は、明治維新を、戊辰戦争に勝った薩摩や長州の側からみるのではなく、徳川幕府十五代将軍徳川慶喜と戊辰戦争で敗れた会津藩などの佐幕派の視点からの再評価が開始されたように見受ける。
確かにこれは重要な視点である。
しかし、勝った薩摩や長州の側から見ようと、徳川慶喜と負けた会津の側から見ようと、その中心に屹立するのは揺るぎない「天皇の明治維新」である。
そこで、薩摩・長州や会津からではなく、「天皇の明治維新」という観点から象徴的な具体的問題提起をする。

江戸を救って明治維新を明治維新たらしめた、戊辰戦争で敵味方に分かれた三人の明治天皇の忠臣、勝海舟と西郷隆盛と山岡鉄舟がいる。
 
勝と西郷と山岡は、慶応四年三月十四日、江戸無血開城という盟約を成し遂げた。
これは、世界において画期的なことであり天皇を戴く我が国でしか起こりえない盟約である。
また、異民族の殲滅を目的とする支那の孫子の兵法思想や欧州の兵法思想からも起こりえないことである。
 
この江戸無血開城は、軍事(兵法)の目的を天皇のもとにおける「和」をもたらすものとする我が国の伝統的兵法思想(これを記したのが「闘戦経」)のもとで成し遂げられた。
彼ら三人は、それぞれ幕臣と薩摩藩士であったが、ともに天皇のもとにおける「和」を目指したのだ。
これによって、彼らは、当時の世界最大の都市である江戸における勝海舟が漢詩で謳った「百万髑髏と化す」凄惨な市街戦を回避したのだ。
江戸の平穏はこれによって確保された。

江戸無血開城は、幕府軍が弱いから成った単なる世界の何処にでもある「降伏」ではない。
徳川慶喜に幕府の陸軍総裁に任命された勝海舟のもとに、フランス陸軍教官ら数名の士官が面会に来て「われわれがこれまで訓練してきた優秀な士官兵隊を率いて戦えば必ず勝つ。
われわれもこれまで教育したところを実戦で試してみる。実に愉快ではないか。」
と迫ってきた。

勝は彼らフランス軍士官を返して、直ちにフランス公使のロセスを訪れ、我が方針は恭順であると告げる。
すると公使のロセスは、不思議な面持ちで、「どうしてこのような優勢な兵力があるのに戦わないのか、戦えば必ず勝つ」と勝を説得してきた。
このロセスと別れた勝は、イギリス公使のパークスと書記官のサトーに会い、西郷との談判が決裂して戦争になった時に、徳川慶喜をイギリスに亡命させるために横浜にあるイギリス海軍の軍艦アイロンディック号を品川に回航しておいてくれと頼む。
 
そして、次に、ナポレオンに侵攻されたロシアが首都モスクワを焦土として対抗した先例に従って、江戸の大焦土作戦の準備を整えた。
つまり、勝は、火消し、博徒、鳶職、運送のそれぞれの親分衆を集め、莫大な金を握らせて、
いざとなったら火をつけて江戸を焦土にしろと命令した。
その勝が使った大金は、同じく徳川慶喜に任命された幕府の大久保会計総裁が出した。
さらに、勝は大久保会計総裁が出す金で、房総の船をことごとく借り上げて江戸に集結させ、
江戸市民が速やかに千葉や神奈川方面に退去できるようにした。
 
その上で、駿河にいる西郷に山岡鉄舟が死ぬ覚悟で会いに行くのである。
勝も死ぬ覚悟で、江戸で西郷一人を待った。
果たして、西郷も一人で勝に会いに来た。
そして、三月十四日、江戸無血開城の約が成った。
後年、勝も山岡も、この時の状況を回顧して人に語るとき、目に涙をたたえるのが常であったという。
 
このようにして、天皇の国であるという敵も味方も共にもつ日本人としての確信に支えられた相互信頼によって、江戸は無血で開城された。
その結果、内乱としての戊辰戦争の犠牲者は、最小限の約八千二百人に止まった。
これは、十年後の西南の役の犠牲者一万四千人を大幅に下回る。

また、同時代のアメリカの南北戦争の犠牲者は約八十二万人でありフランス革命の犠牲者は百万人を超える。
やはり、天皇の国において世界的に画期的なことが起こったのだ。
 
この江戸無血開城の前年の秋、徳川慶喜は政治を天皇に返還する「大政奉還」を行い、次に同年暮れに朝廷は「王政復古の大号令」を発して、神武創業の古(いにしえ)に戻ることを宣言した。
天皇が統治の表面に甦ったのだ。
そして、年が改まって、品川で江戸無血開城の約が成った同日、京都で天皇は、「五箇条の御誓文」と「億兆安撫国威宣布の宸翰」を発せられた。
 
この王政復古の大号令は、神武創業以来の我が国の連続性の確認であり、五箇条の御誓文は、新しい国家目標の誓いである。
つまり、我が国における「新しい国家」とは古への「回帰」であることが宣言されたのである。
そして、「国威宣布の宸翰」は若き明治天皇の国民への呼びかけである。
次に、この宸翰の冒頭の一文を記す。

朕幼弱を以て猝(にわ)かに大統を紹き爾来何を以て万国に対立し列祖に事へ奉らんかと
朝夕恐懼に堪えざるなり。

これが若き御年十六歳の明治天皇の、明治維新の最初に発せられた国民への呼びかけだ。
これほど、赤裸々に、これほど、正直に、真情を国民に吐露された元首が他にあろうか。









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「わが国最後の内戦、西南戦争とは~薩軍決起から田原坂、西郷自刃まで」

2017-10-27 06:21:44 | 日本

道義の人 西郷隆盛

山村竜也さん(歴史作家、時代考証者)の「わが国最後の内戦、西南戦争とは~薩軍決起から田原坂、西郷自刃まで」について要約し記す。



◎西郷隆盛と私学校党

相次ぐ士族反乱を鎮圧した内務卿・大久保利通には、最後の、そして最大の悩みがまだ残っていた。

故郷の鹿児島に帰ったままの西郷隆盛である。
西郷は、明治7年(1874)6月に鹿児島に「私学校」と称する学校をつくり、若い士族の教育にあたっていた。これは篠原国幹を長とする銃隊学校と、村田新八を長とする砲隊学校からなっていて、このことからもわかるように、かなり軍事的な色合いの強い学校であった。
ほかに、吉野山の開墾を目的とした開墾社、少年教育のための賞典学校も西郷は設立しており、これらも広い意味での私学校に含まれた。西郷自身は、開墾社での農作業に加わって汗を流すことはよくあったが、それ以外の学校での指導は自分ではほとんど行わず、すべて後進にまかせていた。

そのせいもあり、西郷の意志とは関係なく、私学校はしだいに反政府的な性格を強めていったのである。

また、鹿児島県令・大山綱良が、西郷寄りの人物であったこともあり、県内の要職を私学校の者が占めるようになった。別府晋介、辺見十郎太、野村忍介らがその例で、明治9年(1876)ごろになると、鹿児島県は政府の統治も及ばない部分が目立っていた。

その状況を、木戸孝允などは「独り独立国の如し」と慨嘆した。木戸は前述したようにここ数年体調がすぐれず、そのせいもあって政治に対する意欲さえ失っていた感があった。

しかし、大久保の場合はそういうわけにはいかなかった。明治政府の事実上の責任者として、そして西郷のかつての盟友として、鹿児島があたかも独立国の様相を呈している状況を見逃しておくことはできなかったのである。

最初に動いたのは大久保のほうだった。そのためこれを大久保の挑発行為ととることもできる。
明治9年12月下旬、中原尚雄ら薩摩出身の警察官など 23人が鹿児島に派遣された。名目は帰省ということだったが、その実は、西郷と私学校党の動向を探る任務をおびた密偵だった。
中原らが鹿児島に着いたのは、翌明治10年(1877)の1月半ば。そのことを知った私学校党は警戒したが、彼らをさらに刺激したのは1月下旬、政府の汽船が突然やってきて、鹿児島にある陸軍の火薬庫から夜間ひそかに弾薬を運び出したことだ。

保管してあった弾薬は政府のものであったから、本来はさほど問題のある行為ではなかったが、疑心暗鬼になっている私学校党は憤激した。そして1月29日夜、草牟田の火薬庫を襲撃し、大量の弾薬を奪って引き上げたのだった。

この報告を受けた西郷は、「しまった」と口走り、「なぜ弾薬などを盗むか」と残念そうにつぶやいた。

政府所有の弾薬を私学校党が強奪したとなれば、厳しい処置が下されるのは間違いない。下手をすれば私学校は廃止、そんな口実を政府に与えたことになるのだった。
西郷の落胆をよそにいきり立つ私学校党は、2月に入ると、中原尚雄らの密偵を全員捕らえて拷問を加えた。その結果、実は自分たちは西郷暗殺の密命をおびていると、中原が自白した
これは拷問に耐えかねて発した言葉である可能性が高いから、どこまで真実であったのかはわからない。しかし、私学校党のほうでは、やはり刺客であったかと激怒し、もはや誰も止められないほどに沸騰した。

西南戦争の勃発、そして…
2月5日、私学校本部で緊急会合が開かれた。西郷の意見を聞き、私学校党として兵を挙げるかどうか、決定する重要な会合である。

議論のなかで、永山弥一郎、野村忍介らの自重論も出たが、篠原国幹、別府晋介、辺見十郎太らの主戦論が 200余人の参加者の圧倒的支持を得た。最後に桐野利秋が西郷自身の意見を求めると、西郷は、何もいうことはない、お前たちの良いと思うようにしてくれといい、
「この体はお前さあたちに差し上げもんそ」
と微笑んだ。一同はわき返り、出兵は決まったのだった。

翌日から私学校党を中心とする薩摩軍の編成が行われ、総数は1万 3000人を数えた。これを7つの大隊に分け、1大隊を 2000人とした。

そして2月14日、薩摩軍の先鋒が出陣を開始、17日には総大将の西郷も出発した。全軍がまず向かったのは熊本鎮台の置かれた熊本城で、そこを軽く突破してから、陸路東京に向けて進軍するという計画だった。

ところが 22日、薩摩軍が攻城を開始しても、熊本城は一向に破れる気配がない。司令長官・谷干城以下の鎮台兵の守りが予想外に堅固だったのだ。

薩摩軍は攻城を続けるが、そのうちに政府が6万もの征討軍を九州に送ったという情報が入る。やむなく薩摩軍は熊本城周囲に 3000の兵を残し、主力は北上を急ぐことにした。
すると27日、早くも到着した征討の政府軍が、薩摩軍と高瀬で激突した。激しい銃撃戦が展開され、両軍とも譲らぬ戦闘となったが、やがて篠原隊の銃弾が尽きて薩摩軍は退却を余儀なくされた。

緒戦で大きくつまずいた薩摩軍であったが、政府軍がそのまま一気に熊本城まで南下できたわけではない。熊本に至る途中には、要衝の田原坂があったからだ。

田原坂は、2キロほどのゆるい勾配の坂で、一の坂、二の坂、三の坂と曲がりくねっている上、道の両側が切り立った崖になっているために全体の見通しがきかなかった。政府軍が熊本に向かうには、どうしてもこの難所を越える必要があったのである。

薩摩軍は、地の利をいかして道の左右に壁塁を造り、敵を一斉射撃できる態勢をとった。この田原坂で敵を足止めできれば、包囲中の熊本城も手に入るのは確実で、戦況は大いに有利となるのだ。

3月4日、西南戦争中最大の激戦となる田原坂の戦いが始まった。初日の戦闘で薩摩軍は篠原国幹が戦死する痛手をこうむったが、降り出した雨のなか、一所懸命に政府軍と小銃で渡り合った。

政府軍の主力小銃が元込め式のスナイドル銃だったのに対して、薩摩軍は先込め式のエンフィールド銃であったから、5日以降も降り続いた雨には火薬が濡れて困らされた。
そこで薩摩軍は、銃に頼らず、抜刀して斬り込む戦法をとって、政府軍を恐れさせた。薩摩兵はほとんどの者が示現流、自顕流の剣を修行しており、その一撃必殺の斬撃は敵を震え上がらせた。

政府軍のほうでも、14日、旧会津士族が多い警視隊(警察官兵)のなかから抜刀隊を選抜して対抗した。彼らのなかには、かつて戊辰戦争で薩摩に痛い目にあったことを忘れておらず、「戊辰の復讐!」と叫びながら剣をふるった者もあった。

「雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂」とはのちに歌われた歌だが、両軍の膠着した戦いは16日間続いた。

そして3月20日、政府軍は猛攻の末についに薩摩軍を退却させ、田原坂を抜いた。戦力の劣る薩摩軍としては、むしろよく持ちこたえたというべきか。

4月15日、政府軍は熊本城に入城。薩摩軍は田原坂を撤退して以降、敗戦への道をたどっていくことになる。

熊本城を落としたあと、東京まで攻め上る予定が、結果的に九州から出ることもできずに薩摩軍は南下した。人吉から宮崎、延岡と敗走を続け、わずか 700に減ってしまった兵とともに西郷は9月1日、鹿児島に帰還した。

もはやこれまでと察した西郷は、従う者 370人とともに城山に登り、岩崎谷の洞窟にこもった。それを包囲する政府軍は、すでに5万の大軍となっていた。

政府軍の総攻撃が開始されたのは、9月24日の午前4時。砲声を耳にした西郷は、桐野、村田、別府、辺見らの幹部 40人ほどとともに洞窟を出た。そして一同、敵の銃砲弾が飛来するなかを、堂々と山を駆け下りていった。

やがて銃弾が西郷の太股と脇腹に命中し、西郷は倒れた。そして、かたわらの別府に向かい、「晋どん、もうここでよか」と告げた。

別府は、涙をふりしぼりながら腰の刀を抜き、端然と正座して手を合わせている西郷の首を落とした。享年 51。午前7時ごろのことだった。
別府のほか、桐野、村田、辺見らも西郷を追うようにして戦死をとげ、7か月にもおよぶ西南戦争はこの日、終結した。薩摩軍の戦死者約 5000人、政府軍の戦死者も 7000人近くにのぼったという。
多大な犠牲を払いながらも、わが国最後の内戦は、こうして幕を降ろしたのである。












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「征韓論&遣韓論、西郷隆盛、板垣退助らが下野」

2017-10-26 06:26:09 | 日本

道義の人 西郷隆盛

歴史街道の「征韓論&遣韓論、西郷隆盛、板垣退助らが下野」について要約する。



明治6年(1873)10月23日、征韓論に端を発する政府内の対立で、西郷隆盛、板垣退助らが下野した、明治6年の政変が起こりました。明治初期の一大政変として知られます。 

西郷隆盛が唱えたのは征韓論ではなく、遣韓論であったといわれます。そこで 今回は、西郷が太政大臣の三条実美に提出した「始末書」の内容などを中心に、取り上げてみます。

そもそも朝鮮問題がなぜ起こったのか。徳川幕府と朝鮮国は、友好的な関係を保っていました。維新後、明治元年(1868)12月、明治政府は使節を朝鮮に派遣し、徳川幕府が廃止されて、王政復古に基づく新政府が樹立されたことを伝えます。あわせて、従来通りの友好親善を求める国書を渡そうとしました。ところが朝鮮側は、国書に用いられている文字や印章が旧例と違うことなどを理由に、国書の受理を拒否します。明治政府は当惑しつつも交渉を続け、旧例と違うと朝鮮側が指摘した部分を削除するなどして、事態の収拾を図りますが、うまくいきません。

この問題の根幹には、朝鮮側の「小中華主義」と攘夷思想がありました。 歴史的に中国王朝を宗主国とする朝鮮は、大中華の文明を吸収した自分たちが、そうではない日本よりも上位に位置すると考え、さらに撃ち払うべき西洋を見習い始めた日本人を蔑んだのです。これに対し、朝鮮を非難する声も日本国内に起こりますが、政府は隠忍譲歩を続けました。ところが明治6年、釜山に江戸時代から置かれていた日本公館の門前に、「日本人は西洋の物真似をする恥ずべき人間であり、日本は無法の国」と記した文書が掲げられます。

ここに至り、政府の面々は激昂しました。 外務卿・副島種臣は「わが使節に数々の非礼と侮辱を与えた上、無法の国とまで罵倒したことは、日本への敵対行為以外の何物でもなく、わが国が戦争に訴える大義名分にすらなる」とまで断言しています。実際、閣議においても、「直ちに釜山へ出兵すべし」と板垣退助が主張すると、他のほとんどの参議も賛成しました。 ところがただ一人、これに異議を唱える参議がいました。それが西郷隆盛です。西郷はこう主張します。
「朝鮮政府の無礼は許し難いが、今直ちに出兵すると、日本は侵略を企てていると朝鮮は猜疑するであろう。日本はまだ、尽くすべき手立てをすべて尽くしたとはいえない。まず責任ある全権大使が兵を伴わずに赴き、礼を厚くし、道理と公道を以て説得にあたり、朝鮮政府の反省を促すべきではないか」

そして西郷は、その全権大使としてぜひ自分を派遣してほしいと願いました。板垣ら征韓論者も西郷の論に服し、外務卿の副島も、全権大使の役を快く西郷に譲ります。こうして同年8月17日、閣議は西郷の遣韓大使を決定し、太政大臣三条実美は明治天皇に奏上して、ご裁可を受けました。ただし派遣は、岩倉具視や大久保利通ら、欧米視察中の使節団の帰国後となります。

しかし岩倉、大久保は帰国後、内治優先を理由に、西郷の遣韓大使に真っ向から反対します。10月15日の閣議では、西郷の遣韓大使を再び決定しますが、すでにご裁可済みの案件への議論や反対は、本来はあり得ないはずのものでした。岩倉や大久保が反対した理由は内治優先というより、西郷が赴いて朝鮮で殺されれば、日本は戦争に踏み切らざるを得す、しかし国際情勢的に現状でそれは望ましくなく、また対外戦争を行なう国力も備わっていないという判断があったとされます。これに対し、西郷は自分の思いを「始末書」にまとめて、三条に提出しました。おおむね次のような内容です。

「維新以来、かの国はわが国にしばしば無礼を働き、互いの通商もうまくいかず、釜山の公館の日本人も圧迫を受けています。しかし、軍隊を派遣するのはよくありません。両国が戦うことにでもなれば、最初の趣旨(友好親善)に相反することになります。 ここは公然と一国を代表する使節を派遣するのが至当と考えます。かの国が戦争の構えで国交を拒む心底が明白にならない限り、わが国はできる限りの努力をしなければ、人事を尽くさざる悔いが残るでしょう。 暴挙の恐れがあるといって、戦いの準備をして使節を派遣するのは、礼儀に反します。ぜひ交誼を厚くするという当初の趣旨を貫徹したいものです。その上で万一、かの国が暴挙に及ぶのならば、そこではじめてかの国の非道不正を世界に訴え、罪を問うべきでしょう」

可能な限りの外交努力によって、朝鮮との交誼を実現させようという西郷の姿勢は、一般にいわれる征韓論などではないことが、ここからも明らかです。しかし、西郷の遣韓大使は実現しませんでした。病に倒れた三条の代わりに太政大臣となった岩倉が謀略によって、閣議で二度決定し、ご裁可まであった遣韓を覆したのです。この顛末に西郷は深い失望を覚え、中央政界から去り、板垣ら多数の参議も下野することになりました。おそらく西郷は、自分が出向けば朝鮮を説得できる自信があったのでしょう。もちろん出向いた結果、どうなったかはわかりませんし、岩倉や大久保たちの危惧もわからないわけでもありません。ただ西郷が失望したのは、遣韓大使が実現しなかったことよりも、阻止しようとした岩倉や大久保たちの「謀略を用いるやり方」にあったのではないか、そんな気もします。


◎「王道」と「覇道」

『文明とは道の普〈あまね〉く行はるるを賛成せる言にして、官室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず』(『南洲翁遺訓』)。

明治4年(1871)、西郷に留守政府を任せて、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らは欧米歴訪に出かけます。西郷は生涯、外国の土を踏みませんでしたが、西洋文明の本質は良く理解していました。すなわち「覇道」です。

真の文明国であるならば、後れている国に徳をもって接し、導く。それが「王道」の政治というものである。一方で武力にものを言わせてアジアを侵略し、植民地化する西欧のやり方は、己の利のために他を踏みつけにする野蛮な「覇道」でしかない、というものでした。そして、新生明治日本は「王道」を目指すべきであると考えるのです。

その考え方に沿えば、明治6年(1873)のいわゆる「征韓論(遣韓論)」で、西郷が何を目指していたかはおのずと明らかでしょう。
鎖国攘夷・排日政策をとる李氏朝鮮に対し、西郷は征韓(武力発動)など口にしていません。自分が礼を尽くし、大使となってきちんと対話すれば、その誠意は通じると信じていました。それが「王道」政治であるからです。

ところが欧米から帰国した歴訪組は、西郷の訪朝を謀略で阻止します。もし西郷が殺されでもしたら戦争は避けられず、今の日本にそんな余力はないというのが理由ですが、西郷からすれば「王道」政治の何たるかを忘れ、功利的な「覇道」に走っているように見えたかもしれません。

少し後に、明治天皇は欧化に走る政府に、日本本来の良さである和の心、仁義忠孝が蔑ろになっていないかと苦言を呈されますが、西郷と心を通わせていた明治天皇も同じ危惧を抱かれていたのでしょう。

維新後、明治政府は断髪、廃刀をはじめ欧化政策を進めますが、かたちばかりの西洋の真似をする余り、武士道に根ざす大切にすべき日本人の心を置き去りにしがちであることを、西郷は苦々しく思っていたはずです。「これが、自分たちが幕末以来目指していたあるべき政治の姿なのか」と…。

征韓論に敗れて下野した西郷は、郷里の鹿児島に戻り、後進の育成にあたります。西郷が下野した時、多くの薩摩出身者が官を辞して従おうとしますが、西郷は中央で働いた方が良いと思う者は、言い含めて東京に残しました。

そして鹿児島では、私学校で若者たちに文と武と農を教えていきます。正しい日本人の心を持った若者を育成し、将来の日本を託すに足る人材とするためでした。西郷は、あくまで日本のためになることをすべきと常に考えています。各地で起こる不平士族の叛乱に同調しないのも、当たり前のことでした。
 

◎日本人が忘れてはならない

しかし明治政府は、西郷と私学校の存在を怖がりました。そして鹿児島の弾薬庫から火薬類を秘密裏に搬出し、また状況偵察と謀略のために24名の警察官を潜入させます。これが私学校の若者たちを「姑息な手段」と激昂させ、弾薬庫襲撃につながりました。

襲撃の知らせを受けた西郷は「ちょしもた(しまった)」と叫んだといわれます。これで政府への反逆を問われても仕方がなくなり、また政府への不満を抱く鹿児島士族の面々にも火をつけてしまったからでした。

その後、桐野利秋や村田新八、永山弥一郎、篠原国幹らを中心に、政府問罪のための軍を起こすことに決しますが、西郷は以後、全く主体的に関わろうとはしません。

そのために西郷の意図が奈辺にあるのか読みづらいのですが、極端な話、もし挙兵を阻止するつもりであれば、西郷が腹を切って慰撫すれば済んだかもしれず、また本気で戦うのであれば、長崎で軍艦を奪うなり、いくらでも方法はありました。しかし、西郷は沈黙したまま、旧式の装備のまま鎮台軍が待つ難攻不落の熊本城に攻めかかるのです。

少なくとも西郷は、政府軍を破って内乱を大きくしようとは思っていなかったのでしょう。維新の際、江戸無血開城まで実現させた西郷が、内乱の無益さを知らないはずがありません。
では、勝つつもりもなく、政府軍と戦う西郷の狙いとは何であったのか…。以下は全くの想像ですが、西郷は真の日本武士の戦いぶりというもの、日本人が忘れてはならない心を、世に示そうとしたのではないでしょうか。

征韓論といい西南戦争といい、発端は政府の謀略と「覇道」的発想でした。西郷は薩摩武士の恐るべき白兵戦によって新式銃を装備した政府軍を随所で破り、その「覇道」的発想や謀略がいかに高くつくものか、そして正しい武士道の強さ、大切さというものは、決して「覇道」的な武力では沈黙させられないことを、政府高官たちの心胆を震え上がらせることによって思い出させ、日本人の目に焼き付けたかったのではないか、そんな風にも思えるのです。

半年余りの九州各地での激戦の末、9月24日の明け方、城山で股と腹部に銃弾を受けた西郷は、正座して東方に遥拝した後、別府晋介に介錯させました。享年51。

明治天皇は西南戦争終結直後、宮中の歌会で「西郷隆盛」という題を出しています。「これまでの西郷の功績は極めて大きなものである。この度の過ちでその勲功を見過ごすことがあってはならない」というご意向でした。明治天皇には、西郷の心が伝わっていたのかもしれません。












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「独立自存 道義国家とは、」

2017-10-25 06:05:56 | 日本

道義とは、国語辞書において人のふみ行うべき正しい道。道理をいいます。
また、道義心とは、道義を大切にする心。道徳心をいいます。
我国は世界に誇れる「道義国家」でした。

我国は先の大東亜戦争での敗戦後、占領軍による「日本人の骨抜き政策」や「洗脳教育」により国民意識なき国民、国家観なき政府が誕生し今日に至っています。
「歴史と伝統文化を否定すれば、その民族と国家は滅びてしまう」。このことは世界の多くの歴史が教えてくれています。

今日、「国家観なき日本人」、「志の欠如した日本人」が大量に排出されることになりました。

ですから国家観並びに国益なき会社経営が行われています。
自分の会社の眼の前の利益追求を優先しているので、中国、韓国、その他の諸外国へ、国益を無視した技術移転が行われています。

民族としての誇りを持たせるための歴史教育は大切です。歴史というのは祖先の生き様のことであり、文化であり、歴史教育とはそれを子供たちに伝えることです。愛国心と民族愛を持った教師、教科書を育成して、誇り高き日本人の再生を急がなければなりません。

子供たちに、日本民族の「いのち」を吹き込み「誇り」と「自信」を持たせることが必要です。
 日本の伝統文化を正しく伝え、青少年に夢を与えるために、私たちは、もう一度立ち上がらなければなりません。




◎「教育勅語」口語訳

私は私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現を目指して、日本の国をおはじめになったものと信じます。

そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、美事な成果をあげてまいりましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。

国民の皆さんは、子は親に孝養をつくし、兄弟、姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲むつまじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じあい、そして自分の言動をつつしみ、すべての人々に愛の手をさしのべ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格をみがき、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心をささげて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。

そして、これらのことは、善良な国民としての当然のつとめであるばかりでなく、また、私たちの祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私たち子孫の守らかければならないところであると共に、このおしえは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、父祖の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。



◎十二の徳目

①父母に孝             親や先祖を大切にしましょう
②兄弟に友             きょうだいは仲良くしましょう
③夫婦相和し            夫婦はいつも仲むつまじくしましょう
④朋友相信二ず          友だちはお互いに信じあいましょう
⑤ をす         自分の言動をつつしみましょう
⑥博愛 衆に及ぼす        広くすべての人に愛の手をさしのべましょう
⑦学を修め業を習う        勉学にはげみ職業を身につけましょう
⑧知能を啓発            知識を高め才能を伸ばしましょう
⑨を            人格の向上につとめましょう
⑩をめをく     広く世の人々や社会のためにつくしましょう
⑪をんじにう   規則に従い社会の秩序を守りましょう
⑫ にず         正しい勇気を持って世のため国のためにつくしましょう











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「100年時代の人生戦略」

2017-10-24 06:00:29 | 日本

100歳以上の人は、すでに61,000以上である。2050年までに、日本の100以上の人口は100万人を突破する見込みである。2007年に日本で生まれた子供の半分は、「107年以上」生きることが予想される。現在50歳未満の日本人は、100歳以上生きる時代、すなわと100年ライフを過ごすつもりでいた方がいい。よって誰もが変化して100年ライフに適応すると同時に、伝統的な価値観も大切にするという、バランスをうまく取らなくてなならない。

長寿化の潮流で日本が世界の先頭を走っているが、日本はそれとは別の人口動態上の試練にも直面している。日本は長寿国家であるだけではなく、著しく出生率が低い国でもあるのである。この二つの要因により、高齢者の人口が増える一方で、総人口が減りつつある。一時は約1億3,000万人に達した人口は、国連の予測によれば、2060年には、約8,700万人にまで落ち込むという(65歳以上の人口の占める割合が40%に達する)。この問題もきわめて深刻であり、迅速に対応しなくてなならない。日本政府もすでに、移民の受け入れや出生率向上のための施策を検討しはじめている。出生率の落ち込みと人口の減少は長寿化とは別に関係ないが、この問題があるために、100年ライフの恩恵を最大限に大きくすることがいっそう重要になる。人々が70代後半や80代になっても活力と生産性を失わず、長く働き続けられれば、年金問題や人口減少の弊害はだいぶ和らぐ。多くの日本人が、100年以上生きられる社会をうまく機能させるにはどうするべきかを、世界に教える立場にある。

今までの「3ステージ」の人生では、大きな移行は2回だけであった。教育から仕事へ、そして仕事から引退への2回だけである。これまでは、寿命が延びることは、老いて生きる期間が長くなることだと思われてきた。しかし、その常識が変わり、若々しく生きる期間が長くなるだろう。マルチステージ、人生のステージが増えれば移行の機会も増える。問題は、ほとんどの人が生涯で何度も移行を遂げるための能力とスキルを持っていないことである。それを乗り切っていくためには、柔軟生をもち、新しい知識を獲得し、新しい素行様式を模索し、新しい視点で世界を見て、力の所在の変化に対応し、時には古い友人を手放し、新しい人的ネットワークを築く必要がある。多くのステージを生きる時代には、投資を怠ってはならない。新しい役割に合わせて自分のアイデンティティを変えるたねの投資、新しいスキルを身に付けるための投資が必要である。質の高いアイデアと高度なスキルの持ち主のそばに身を置くことの重要性が高まってくるだろう。また、夫婦の両方に所得があるほうが家計や貯蓄の面で有利なため、二人とも職をもつ家族が植えるだろう。今、生きている我々は、長く生きることを前提に人生の計画を立てなくてはいけない。そして、未来について、はっきり言えることは、大勢のパイオニア(開拓者)が生まれてくることである。

政府にとっては、今後は法規制の枠組みを整備することが重要問題となる。その中で、最も手ごわい課題は、「健康格差」の問題と言えよう。











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「吉田松陰精神に学べ⑤」

2017-10-23 06:04:36 | 日本

◎永遠の別れ涙松

五月十六日には、門下生の岡部富太郎、福原又四郎、松浦松洞の三人が獄を訪れ、最後の別れに臨んだ。その時松陰は『人間として至誠がなければ真の人間ではない。孟子の言った〃至誠にして動かざるもの未だ、之有らず〃これが私の守礼である。どうか諸君もこの言葉を深く覚えておいてほしい』と言って別れを惜しんだ。

松陰は、倒れても倒れても起ち上がる不屈の闘志は、〃吾れは忠義を為すつもり、諸友は功業を為すつもり〃の心が深く信念として根ざしていたものと思われる。このことが、父の妹佐々木叔母や野村和作、品川弥二郎、妹たちにおくった詩からも、はっきりとくみとれる。

佐々木叔母には、『今更におどろくべくもあらぬなりかねて待ち来しこのたびの旅』とうたい、和作には『君のみは言はでも和らむわが心心のほどは筆もつくさじ』、又、弥二郎には『逢ふことは是れやかぎりの旅なるか世に限りなき恨なるらん』と詠み、妹たちへは『心あれや人の母たる人達よかからん事は武士の常』と、夫々詠んでいる。これらの詩によって、松陰の国を想う心情と温かい人柄がよくわかる。

父母とも別れ、塾生とも最後の惜別した松陰は、駕籠に乗って五月雨の降る中を萩を後にした。その時、詠んだ詩が有名な『涙松』の句である。

『帰らじと思ひさだめし旅なればひとしほぬるる涙松かな』

萩から山口に出る途中、鹿瀬ケ峠に向うところに涙松と言われた古い松の木立がある。ここを過ぎれば、もう萩は視界から遠ざかる。松陰はなつかしい故郷の萩の風情や肉親、塾生等の永久の別れに、はらはらと流れる涙に言葉もなかったのである。

筆者はなぜかこの松陰の江戸護送を考える時に菅原道真公の太宰府への流人の状況と重なってしまうのである。菅原道真公は、宇多、醍醐天皇からも信任厚く、五十六歳の時、右大臣兼右近衛大将に任ぜられ異例の昇進によって、藤原一門の嫉み烈しく、中でも藤原時平のざん言により、ついに太宰権帥に左遷のうき目となった。その時、道真公は庭の紅梅を見つめ、あの有名な『東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ』と詠み、妻子や民衆に送られながら京をあとにした。この時の道真公の心中と今の松陰の無念やるかたない心中は甲乙つけがたいものがあったろう。奇しくも、道真公も松陰もともに『学問の神様』として夫々の神社に祭祀されている。


◎江戸獄中での手記

松陰を乗せた駕籠の一行は、一ヶ月間かかって江戸に着き、幕府最高の裁判所たる評定所にて厳しい取り調べを受けた。幕府側は、安政の大獄によって、幕府に楯突いた水戸、土佐藩の他、佐久間象山、梅田雲浜、橋本左内、頼三樹三郎等の反幕府思想家に対して強烈な弾圧が施された。そのため奉行所では、松陰に対しても過激思想家として想像以上に重く罰せられた。しかし松陰は臆することなく國を思う至誠の前に堂々と自己の信念を貫いた。

松陰、三十歳の誕生日の八月四日に次のような詩を詠んでいる。

『國を許すの身敢へて親を顧はんや、安然獄に坐す亦吾が真。忽ち逢ふ父母苦労の日、復た被る西風の人を愁殺するを』

と、松陰は国に捧げた身とはいえ、故郷の父母をしのんだ詩である。既に松陰は、この頃死を覚悟したものと思われる。

松下村塾門下生の高杉晋作が江戸の獄に面会に訪ねた折、松陰は

『死は好むべきにも非ず。亦悪(にく)むべきにも非ず。道尽き心安ずる。便(すなわ)ち是死所。世に身生きて心死する者あり。身亡びて魂存する者あり。心死すれば生くるも益なし。魂存すれば亡ぶるも損なきなり。死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつまでも生くべし。』

と、松陰は淡々と生死を超えた心中を語った。さながら宗教家の死を超越した〃悟り〃の境涯である。

心の定まった松陰は郷里萩の父兄へ最後の手紙を書いている。

『平生の学問浅薄にして至誠天地を感格すること出来申さず、非常の変に立到り申候。さぞさぞ御愁傷も遊ばさるべく拝察仕り候。

親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん

さりながら去年十月六日差上げ置き候書、得と御覧遊ばされ候はば、左まで御愁傷にも及び申さずと存じ奉り候。尚又当五月出立の節心事一々申上げ置き候事に付き、今更何も思ひ残し候事御座なく候。・・・幕府正議は丸に御取用ひ之れなく、夷狄は縦横自在に御府内を跋扈致し候へども、神国未だ地に堕ち申さず、上に、聖天子あり、下に忠魂義魄充々致し候へば、天下の事も余り御力御落し之なく候様願ひ奉り候。随分御気分御大切に遊ばれ、御長寿を御保ち成さるべく候。以上』

松陰が十月二十日に書いた手紙である。

子の自分が親より先に逝くということは、どれほど親に心労を与えるか。そのはり裂けるような胸中を松陰は、

『親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん』

の名文句を切々と詠んだのである。 

現在、松陰神社の境内にその碑が建っている。


◎不滅の『留魂録』

松陰は十月二十五日から二十六日にかけて、あの有名な『留魂録』を書いた。松陰最後の訣別の記録である。

筆者はこの『留魂録』を松陰遺墨展示館で直接拝観した時、あまりの小さな帳面と字に驚いたほどである。これから推察しても、斬刑前夜、看囚人の目を盗みながら黄昏の頃、記録したものと思われる。『留魂録』の最初の出だしが、あの有名な

『身はたとひ武蔵野の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂』

の一首である。

この『留魂録』は門人達への遺書である。幕府取調べの模様、死に臨む心境、獄中同志の消息、門下生たちへの委託等書かれている。この原本は同囚沼崎吉五郎に托されたが沼崎は後三宅島へ流罪となり、明治九年頃、三宅島から帰るや、松陰門下の野村和作(当時神奈川県令)に手交した由緒あるものである。

とくにこの中で松陰は、肉体は武蔵野原に朽ち果てても、天皇国日本への燃ゆるわが胸の思いは、永久にとどめておきたい。自分はこうやって死の運命を静かに迎え得るのは、平生の学問の賜であると冷静沈着に筆を運んでいる。洵に堂々たる不動心である。そして『留魂録』の最後には、更に五首の歌を認めた。

『心なることの種々書き置きぬ思ひ残せることなかりけり』
『呼びだしの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりかるかな』
『討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払へよ』
『愚かなる吾れをも友とめづとも友とめでよ人々』
『幾たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや』
 
この五首から拝察して、松陰はもう思い残すことなく、後は呼びだしを待つのみの淡々とした諦観の境地になっていたのではなかろうか。さしずめ仏典の『大無量壽経』の如来の〃使命は己に為せり〃の気持になっていたのではないかと思われるのである。


◎武蔵野の野辺に散る

安政六年十月二十七日遂にその日は来た。今上最後の日である。

松陰は評定所から最後の呼び出しに衣服を改めて伝馬町の獄を出た。出るにあたって、

『此の程に思い定めし出立はけふきくこそ嬉しかりける』

と、一首書き留めた。松陰は死刑の恐怖や生への未練はいささかもなく、むしろ新たなる出立の今日を待ち望むかのような透徹した境地である。さらにお世話になった看守人には丁重に別れの挨拶をし、獄の部屋もきれいに片付けた。ここが松陰の〃人となり〃の言行一致の誠の姿であり、偉大さである。

この松陰と同様、後の明治の軍人乃木希典もまた自決と斬刑との違いこそあれ、死を直前にしていささかも心乱すことなく見事に散った人である。この二人はともに親類にあたり、ともに尊皇崇拝であり、限りなく国を愛し、又教育者でもあり、至誠〃忠〃に生ききった人であった。

遺書となる『留魂録』といい、乃木希典の二首 (『神あかりましぬる大君のみあとはるかにをろかみまつる』 『うつし世を神さりましし大君のみあとしたひて我はゆくなり』) の辞世他遺書の筆跡は、ともに最初から最後まで心乱れることなく安静の筆致、光風霽月(こうふうせいげつ)、砥ぎ澄まされた日本刀のような清澄にして不動心が表れている筆運びである。

筆者は、松陰の『留魂録』を萩の松陰神社境内にある松陰遺墨展示館で、乃木希典の遺書は下関市の長府町にある乃木神社境内にある乃木展示館で夫々拝観したのであるが、ともに達人の境地に到る筆運びに唯々驚嘆したほどである。

さて松陰は、十月二十七日朝、幕府の評定所において松平、久貝、石谷の三奉行から死刑を宣告された。当初流罪の刑であったが、過激な尊皇思想家を嫌う井伊大老によって死刑となったとのことである。

刑場に引かれる時、松陰は声高らかに皇国の大精神を辞世の詩として朗誦した。ここが普通の武人や軍人と違うところである。例え殺されても、最後の最後まで天皇を仰慕し、国を愛してやまない松陰魂に驚くのである。

『吾今国の為に死す、死して君親に負かず。悠々たり、天地の事、鑑照、明神に在り』

と青天白日のように澄みきった心で、武蔵野の露と消えたのである。自分は今、国のために死するが、死んでも大君や親の心持にそむくものではない。悠々に続く天地の事、わが〃忠〃の心は神のみぞ知ることゆえ、死しても心に何も残ることはない。自分が滅した後の光輝く万乗の世界を期待してやまないという、松陰の赤き心が脈々と流れている空前絶後の尊皇愛国の名歌である。

とくに、ここで注目したいことは〃悠々たり、天地の事〃という言葉の意味である。この真義は、日本の国は天地の始まりとともに肇国以来万世一系の天子さまによる国柄によって悠久不滅であるとともに、わが心も日本国と同様、この場になってもいささか恐れることなく悠々たる境地であり、この精神は永遠不滅であるという深い深い掛け言葉であると拝察されるのである。

松陰のこの美しいまでも烈しい尊皇、愛国の精神は時代が移り変わろうとも、吾々日本民族は忘れることなく永遠に残していかなくてはならない道統精神の遺産である。そして、松陰はこの日潔く散っていったのである。

世の愛国者と呼ばれる人々よ。今こそ松陰精神の何分の一でも、わが心とし、ただひたすらに『天皇国日本』実現をめざして祈り且つ行動にうつることを希うのである。真の愛国者には名もいらぬ。地位もいらぬ。ただ天皇を仰慕してやまぬ愛国熱情の松陰精神と団結心が何よりも大切である。

世に愛国者と言われる人は多い。しかし残念なことに団結心が乏しいゆえに、力が分散し脆弱である。それは似非愛国者か、遺物的愛国者にすぎない。或いは、自己の主張にこだわるあまりに自己の領域を固守して同志を批評する識別的愛国者である。もう、そういう議論した時代は過ぎたのである。

真の愛国者は道義に生き広々とした心で大同団結できる包容精神をもち、至誠を貫き、炎のごとく燃え熱き血潮で祖国日本を守らんがために決起する勇者でなければならない。

現下の日本をみるときに、真の愛国者は今こそ神国日本復活をめざし、眠れる心に松陰魂を吹き込み、心を一つにして立上る秋(とき)が〃今〃来たのである。

                 


<完>










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「吉田松陰精神に学べ④」

2017-10-22 08:02:53 | 日本

◎松下村塾

安政二年十二月、松陰は野山獄を出て、杉家に幽囚の身となった。松陰の幽囚の部屋は、四畳半の狭い一室であったが、この中に閉じこもってひたすら読書と思索の謹慎生活を送った。これが松下村塾のはしりである。


この松下村塾は、元々、松陰の叔父玉木文之進が天保十三年(一八四ニ年)に始めた塾で、松本村にあったので中国風に松下と名づけられた。松陰も幼少の頃、兄の杉梅太郎と一緒に玉木文之進より厳しい教育を受けた。二代目が、杉家の隣りに住んでいた親戚の久保五郎左衛門であった。そして松陰が三代目であるが、松下村塾といえば今では吉田松陰が教えた塾の代名詞のようになっている。それだけ、松陰は、多くの人材を育て、且つ教育指導が抜群であった。

松陰の教育方針は、『松下は陋(ろう)村といえども誓って神国の幹とならん』という信念をもって尊皇の大義を説き、熱誠にて青年の教育に全精魂を傾け人材を養成した。

しかもその教育姿勢は、指導者として高い座にて指導するのではなく自ら率先垂範し、人に応じて一対一の体当たり教育であった。その情熱と迫力は、人の心を動かさずにいられない至誠の一語につきた。しかも塾生には、

『学者になってはいかんぞ、人は実行が第一だ。国のためにお役に立てる立派な人間になることが何よりの学問である』

と、松陰は机上の知的なものだけでなく常に生きた学問をめざした。たとえば、晴天の下で田畑を耕作しながら問答形式で教えたり、師弟二人で米ツキをしながら今流のマンツーマンで教えたり、洵に理想的な教育である。

ここで松下村塾規則を紹介する。


一、両親の命必ず背くべからず。
ニ、両親へ必ず出入を告ぐべし。
三、先祖を拝し、御城にむかひ拝し、京にむかひ天朝を拝する事。
   仮令病に臥するとも怠るべからず。
四、兄はもとより年長又は位高き人には必ず順ひ敬ひ、無礼なる事なく、
   弟はいふもさらなり、品卑き年すくなき人を愛すべし。
五、塾中においてよろず応対と進退とを切に礼儀を正すべし。


この五則をみても、松陰は水戸学によって開花した天朝日本精神を教育の基とし、人は人たる道を歩むことを主眼としていた。即ち神ながらの精神であった。

松下村塾が日本で最小の学舎でありながら、わずか二年半の短き歳月の中で、かくほどまでに後世に燦然と輝き遺しえたのは、素晴らしい後継者、良き人材、日本の宝を養成したことであった。

松陰の至誠あふれる教育者としての精神は、塾生の魂を動かし感動を与えた。高杉晋作をはじめ久坂玄端、木戸孝允(桂小五郎)、前原一誠、吉田栄太郎、品川弥二郎、野村靖(和作)、山田顕義、山縣有朋、松浦松洞、増野徳民等々幕末から明治維新の大業にたずさわった超一流の人物を輩出した。

残念ながら松陰は、若くして武蔵野の露と消えたが松陰の尊皇絶忠の精神は、これらの門下生に流れ伝えられ、わが日本国においては、永遠不滅のごとく、今日まで受け継がれている。

なぜ松陰の教育指導がこれほどまでに多くの人を魅了し、且つ日本中に影響をあたえたのか。今日の混迷する日本においては、教育の貧困が大きくとりざたされているだけに洵に興味あることであり重要なことである。

それは、松陰の教育指導は、各自の適正を洞察し、個性を豊に伸ばす〃天才教育〃であり、生きがいを与える教え方であった。そして松陰は常に真剣であり、自分も一人の求道者のように多くのものを学んだ。


◎真の学問とは

松陰は、先に記したように二十一歳から二十五歳まで全国を遊歴し、当時の一流の学者から〃生の学問〃を学びとった。儒学、兵学、神道学、地理学、国学、蘭学等自分に必要なものをドンドン吸収し、それを確実に血肉とした。とくに、水戸学と山鹿素行の『中朝事実』に魅きつけられたようである。又、下田の獄にあっても、野山獄にあっても絶好の学問の場と考え、猛烈に学んだ。

松陰の二十代からの十年は、人の十倍、即ち百年に値いするほど時間をいかしたのである。松陰は朝起きてから夜寝るまで勉強を怠ることなく、松下村塾の時代は満足に布団を敷いて寝ることはなかったという。眠ければ机にうつ伏してしばらく休み、又起きて読書をし、講義をする超人ぶりであった。しかも松陰の教育は家庭を非常に大切にし、忠孝を基いとしていた。

真の学問は、理論だけの言挙げしたものではなく、敢くまでも実践学と一致したものでなくてはならないとの考えからである。それゆえに松陰は父母をことさら大切にし、妹たちをも非常に愛した。
『凡そ人のかしこきもおろかなるも、よきもあしきも、大てい父母のをしへに依ることなり。就中、男子は多くは父の教を受け、女子は多くは母のをしへを受くること、又其大がいなり・・・・』

と、松陰は家庭教育を教育の根幹においている。のちに松陰は間部詮勝老中事件の発覚により、再び野山獄の人となった時、父母に、叔父、兄に深くお詫びの書を送っている。その手紙を見ると、

『度重なるご迷惑をかけることになり、これ以上の不幸はありませぬ。しかし、今日の時勢を想うに真の国家の存亡に関わる重大な時、じっとしておるわけに参りませぬ』

と、深く肉親を思い詫びている。ここが松陰の比類なき素晴らしい〃人となり〃である。単なる革命家と本質的に異なる。烈しいまでも国を想う愛国精神に驚嘆を感ずるとともに、今日の吾等の行動を顧みる時、松陰の塾生たちにも別れの詩として次の一篇を示した。

『宝祚天壌と隆に、千秋其の貫を同じうす。如何ぞ今の世運、大道糜爛に属す。今我れ岸獄に投じ、諸友半ば難に及ぶ。世事言うべからず。此の挙施(かえ)って観るべし。東林秀明に振い、太学衰漢を持す。松下陋村と雖も、誓って神国の幹とならん』

と、塾生たちには、常に神国の幹とならんことを教化した。

ここで注目すべきことは、松陰の書き記したものは、『山河襟帯の詩』を別として、『士規七則』『講孟余話』『七生説』『二十一回猛士の説』『志』『自詒(じい)』『至誠』『詠名詩』『奉別家大兄の詩』『肖像自賛の詩』『留魂録』等は、その大半が、獄中のものか、幽囚中で記されたものである。しかも、どれもこれも、国を憂い大義を尽し、死を恐れることもない至誠のほとばしる内容である。

松下村塾は、当初八畳の一間から始まり、塾生の数が増えるにしたがって、新たに十畳半と土間一坪が増築された。それも、専門家の手をわずらわすことなく、松陰自らが陣頭に立ち、塾生たちと共同で作業しこしらえたものである。塾生の中には、大工や左官、或は、屋根葺きの心得のある者がいて、夫々材料を持ち込んで造った。いわば、松下村塾の建物は、本当の手造りである。


筆者も、松下村塾の建物を眼の当りにして、余りの小さきに驚いたほどである。本当に学問を志し、教育を為すものにとって学舎は、形や外観ではなく、指導者の姿勢と情熱と使命感が何よりも大切であることを松下村塾は、吾々に無言のうちに語っているような気がするのである。

丁度、親鸞聖人が浄土真宗を拡められた時、『たとえ、ポロ屋でも、この教えを聞いてくれる人がいれば、それでよい』と、大きな伽藍道場を建てることを戒められていたことと類似している。人材育成のための学校は、外形ではなく問題は、その中味である。松下村塾の建物を見て感ずることは、この程度の大きさならば、現代の吾々にとって、自分の住んでいる家と変りなく、〃やる気〃さえあれば、安心して自宅を解放できると思うのである。


◎人は人たる道

松陰の教育方針は、今日の日本において、一番必要なことであり、且つわが国にとって永遠不滅の精神である。否、日本のみならず、万邦に比類ない教育方針である。それは、教育にとって最も大切なことは、国体の精華を明らかにし、国のために尽す精神の培い、〃人は人たる道〃を修めるよう教え育てることが、なにより肝要だからである。

松陰の『松下村塾規則』や『士規七則』から見ても、それらの思いと精神が溢れている。又、この精神は、後の『教育勅語』に相通ずるものである。その『教育勅語』は、作成に当って、山縣有朋(松下村塾出身者)の内閣時代、文部大臣芳川顕正が就任を折、明治天皇より勅語を起草するように御沙汰があり、法制局長井上毅と協力して草案作成に努力した。又、この井上毅は、大日本帝国憲法の草案においても身命を尽した人であり、大変な水戸学の心酔者でもあった。

従って『教育勅語』の背景には、水戸学(とくに『弘道館記』)が非常に影響を及ぼしていると思われる。それは『教育勅語』渙発の明治二十三年十月三十日の前日まで、明治天皇が水戸にあって近衛機動演習統監のため御幸されていたことでも頷ける。

これらのことを考えると、松陰は、先に述べたように水戸学を尊崇していただけに、当然、松陰の『松下村塾規則』と、後の『教育勅語』の精神とは一致したものであり、日本人がいかなる時代を迎えようと、万古不易として、踏み行うべき〃道〃である。

この最も大切な〃道〃が、敗戦を境として失われてきていることが、今日の〃病める日本〃に陥落し、目を覆うような事件が続出している素因となっている。人は踏むべき〃道〃を踏み外した時、悪逆無道の世になるのである。

昔から言われるように、〃人心危うく、道心是れ微かなり〃の諺が示すように、人は人たる道を踏み行うことが、本当の平和への道であり、素晴らしい明日への社会建設にあるのである。

かつて、イギリスの有名な陶芸家バーナード・リーチ氏が万博の時に来日され、日本感想記を述べた中で、 『日本にないものはない。なんでもある。唯一つ日本がない』 と、今日の〃病める日本〃を指摘していた。この意味は、現代の日本人の精神構造を指摘しているようであり、洵に恥かしい限りである。

今日の日本は、物質中心主義に走り、政界や経済界ばかりか、もっと神聖であるべきはずの教育界までも唯物論の蔓延によって、教師と生徒が敵対関係のようになり、その結果、校内暴力、非行化は目に余る現況である。これを一掃するには、現在の唯物論的押しつけ教育を根本的に見直し、幼少の頃から、もっと〃人の型〃即ち、人は人たるべき道を教え、個性豊な天分を引出す教育に早く転換することである。

それには、徳育を主とし知識は従にし、心に潤いのある情緒豊な教育が必要である。具体的には、日本の正しい神聖性のある歴史を教え、生きた学問として神社参拝を励行し、わらべ唄を歌わせることが大切である。その意味からいっても、吉田松陰の精神に触れ学ぶことは、単に懐古主義でなく、真の日本人育成に洵に重要なことである。

松陰においては、わずか二年半の松下村塾時代が、もっとも楽しく幸福な頃であった。


◎ただひたすら尊皇崇拝

松陰は、間部老中事件の発覚により、再び四年ぶりに野山獄に幽閉された。その時に詠んだ詩が

『斯の身獄に降るも未だ心は降らず、寤寐(ごび)猶迷う皇帝の邦、聴き得たり三元鶏一唱、勤皇今日郭れか無雙ぞ』 

と、身は幽閉されてもなお益々尊皇崇拝を心に誓っている。このような松陰のあまりの憂国の烈しさに、同志や門下生ですら身の安全を思って、一人去り二人去りと、だんだん遠のいていくほどであった。とくに桂小五郎や吉田栄太郎などそうであった。松陰にとっては、友が去っていくことが獄にいる以上に辛いことであった。しまいには、音信すら全く途絶えてしまった。

安政六年五月、松陰は故郷の野山獄から江戸へ送還されることになった。五度奮起して五度敗れた松陰は、もう二度と萩へ帰ってくることはないだろうと察知していた。

松陰はこの時、父母と三人の妹たちに別れの手紙を書いた。その中で、五月十四日に妹たちに宛に書いた手紙は、今日の乱れた世において、道徳教育の面からみても、洵に素晴らしい内容である。松陰がいかに親を思い、妹等のことを案じているか、松陰の〃人となり〃が、よく文脈に現れている。

『拙者儀この度江戸表へ引かれ候由。如何なる事か趣は分り申さず候へども、いずれ五年十年に帰国出来る事も存ぜず候へども、先日委細申し置き候故別に申すに及ばず候。拙者この度たとひ一命捨て候とも、国家の御為めに相成る事に候はば本望と申すものに候。両親様へ大不孝の段は先日申した様に、その許達申し合わされ拙者代りにお尽し下さるべく候。併し両親様へ孝と申しても、その許達各々自分の家之ある事に候へば、家を捨てて実家へお力を尽される様な事は却って道にあらず候。各々その家その家を整え夫を敬い子を教へ候て、親様の肝をやかぬ様にするが第一なり。婦人は夫を敬う事父母同様にするが道なり。・・・』

と、人の道たる倫理道が記されている。松陰は、国家の救済を本意としながらも、なお家庭のことまで心配りを怠らなかった。ここが松陰素晴らしさである。








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「吉田松陰精神に学べ③」

2017-10-21 08:44:29 | 日本

◎佐久間象山との出会い

その頃、江戸にあって蘭学者であり、『海防八策』で著名な佐久間象山は、幕府に対して「西欧の科学の技術を学び国防を充実する以外日本は救われない」と、盛んに建言した。

松陰は、その象山を訪ね、日本の危機を救うにはいかにすればよいか、どのような道があるか教えを乞うた。象山は、若き行動派松陰の熱烈たる愛国精神にふれ、現下の日本を救う道は、海外に渡航して欧米の科学技術を学びその技術力をもって海防を充実することだと力説した。

当時日本は、海外渡航は国法によって堅く禁じられていた。松陰は、師の象山より、この話を聞き、折りしも嘉永六年七月に長崎に来航中のロシアの船に乗り込むことを決意し、すぐに江戸を立ち長崎に向った。〃良いと思ったら、すぐ行動、思いこんだら命がけ〃松陰には、まさにふさわしい言葉である。九月十八日に江戸を出発、東海道を歩き京都に入り、染川星巌を訪ね、天皇の時局を憂慮せられている様子を聴き強く感動した。そして皇居に額ずき皇国日本を祈った。

松陰が、その時詠んだ詩がある。筆者は、この詩を詠むたびに、松陰の尊皇絶忠の心が痛いほどわかるのである。

山河襟帯自然の城、東来日として帝京を憶わざる無し。
今朝盥漱(かんそう)して鳳闕(ほうけつ)を拝し、野人悲泣して行く能わず。
鳳闕寂寥今は古に非ず、空しく山河有りて変更なし。
聞くならく、今上聖明の徳、天を敬い民を憐む至誠に発す。
鶏鳴乃わち起きて親しく斎戒し、妖雰を掃って太平を致さんことを祈る。

と、天子様の朝夕の〃上御一人の祈り〃と恩恵に松陰は、ひれ伏したのである。

この幕末動乱期の頃、孝明天皇様は次の三首の御製にみられるごとく、非常に日本国の行末をご安じられた由である。

国安く民安かれと思ふ世にこころにかくる異国(とつくに)の船
ねがはくは朝な朝なの言の葉をあはれみうけよ神ならば神
戈とりて守れ宮人九重の御柱の桜風そよぐなり

と、どれもこれも日本の危機を憂えられ、朝夕に神に祈られている手ぶりのご日常がひしひしとわかる。

さて松陰は、京都から瀬戸内海を出て、それから船で九州の鶴崎にわたり、そこから阿蘇に出て熊本を通り、目的地長崎には十月二十七日着いた。今の時代と違って交通機関のない頃、ただひたすらに日本国を救う一念の野望に燃えて、この四十日間寝食を忘れて歩きまくったものと思われる。

ところが洵にも残念なことに松陰が長崎に到着した数日前、そのロシア船が引き揚げた後であった。それは言語に絶する衝撃であったろうと思われる。しかし、松陰は凡人ではないのである。益々海外渡航を断乎として行うことを決意するのである。松陰は、丈夫見るところあり、意を決して之を為す。
富嶽崩るるといえども、刀水(利根川)竭くといえども
亦誰れか之を移易せんや

と、その信念の強さを表わしている。


◎黒船に密航

嘉永七年三月に松陰は再び国禁を破って海外渡航を決行するのである。江戸で知り合った同郷の金子重輔とであった。この事件はあまりにも有名である。

この年、再びアメリカの黒船が伊豆の下田に来航し、条約の締結を迫った時であった。三月五日に江戸を立ち三月二十六日に決行するまで、あらゆる手立てと計画を練ったものであったが、これも運悪く米水兵に発見され失敗に終ったのであった。

ペリーの『日本遠征記』の中に、

「この事件は我々を非常に感激させた。教育ある日本人二人が、命を棄て国を掟を破ってまでも、その知識を広くしようとする燃えたつような心を示したからである。日本人は洵に学問好きで研究心の強い国民である。この計画ほど、日本国民がいかに新しいことを好む心が強いかを示しているものはない。この精神は厳しい法律と、たゆみない監視の為に抑えられてはいるが、日本の将来に、実に想像も及ばぬ世界を拓くものではなかろうか」

と、記している。大体、想像がつくであろう。


◎野山獄での生活

先日、筆者は、所用で萩の松陰神社、松下村塾へ参拝の後、そこより少し二キロ離れた萩の東方護国山東光寺南麓、団子岩の松陰の生誕地を訪ねた。東光寺の境内を登りきったところに、松陰をはじめ杉家、吉田家一族の墓がある。その隣りに下田における松陰と金子重輔の像がはるか北浦を眼下に建っている。その丁度前が松陰の誕生地である。

そこは団子岩の高台にあって、『朝日は唐人山の頂きに臨み、日は指月の西山に傾く、巴城の市は手に取るが如し』と形容された景勝地で、その高台からは、萩の平野と帯のように流れている阿武川と日本海が一望できる洵に雄大な美しい所である。筆者も、銅像の前に立って眼下を見渡せば、その雄大な美しさと心広々とした清冽さに思わず感嘆の声をあげたほどである。

松陰は、このような素晴らしい環境のもとで生れ育ったのである。そして皇国日本を夢見たのであろう。

松陰は、この下田での金子重輔との渡航事件に失敗した後、国法を破った罪として、下田平滑の獄に入れられた。その時も松陰は、番人に対して、「お前たちは、日本の国の尊い成り立ちを知っているのか。日本の国柄は欧米の国々とその成り立ちが違う。この祖国日本を守るために今こそ国民が一致協力して守らなければならぬ。私たちは国法を破ることは、洵に残念であるが、このままにしておいては日本は危ない。私は、命を捨ててもやらねばならぬ」

と、愛国熱誠の精神を語った。どこまでも国を想う自己の信念に只々感嘆するのである。

国法を犯した重罪人ということで松陰と重輔の二人は、下田から江戸の北町奉行所に送られた。途中高輪の泉岳寺を通った時、赤穂義士の忠魂と松陰自身の心中をよく表わした有名な

『かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂』

の詩を詠んでいる。

そして江戸の小伝馬町の獄での六ヶ月間の生活後、松陰と重輔は、故郷の萩の野山獄と岩倉獄へ護送され、それぞれ分れて入牢の身となった。後に金子重輔は、野望なかばにして岩倉獄中で病死した。

この年の正月(安政二年正月)野山獄で新年を迎えた。家族の者から届いた餅とお屠蘇を味わい乍ら、天下国家のことを思いめぐらした。この頃の松陰は、兄の梅太郎の深い愛念によって次々に書物が届けられてきた。『一日三巻、一年に千巻』まさに読書三昧の日課である。

 この時の一巻に孝明天皇の御製が目に止った。
 『戈とりて守れ宮人九重のみはしの桜風そよぐなり』
 この御製を目にした時、松陰は、心の底から熱いものがこみあげてきたのであった。

『天子様のご心中は、いかばかりか。今こそ武士(もののふ)は、武をとって神国日本のため九重をまもらねばならぬ』と堅く胸に誓った。その時、詠んだ返歌がこの詩である。

『九重の悩む御心思へば手にとる屠蘇も呑み得ざるなり』

と、切々と詠んでいる。即ち天子様の大御心を思えば、今夜こうして手にした一杯のお屠蘇も熱き涙で呑むことが出来ないという、ただひたすらに天皇仰慕の精神をうたった深い味わいの歌である。

又、この当時、松陰はよく夢を見、神からのお告げによって、自らのことを『二十一回猛士』と呼んでいる。

『・・・吾れ生来事に臨みて猛を為せしこと、凡そ三たびなり、而るに或は罪を獲、或は謗を取り、今は則ち獄に下りて復に為すあること能はず。而して猛の未だ遂げざるもの尚十八回あり。其の責も亦重し。・・・』と、信念を強め断食の効果もあって、まさに神がかり的になっていた。松陰の頭には、只々天子様のご安泰と国家の救済しかなかったのである。 『思うまいと思うても又思い、言うまいと思うても又言うものは天下国家の事』 これが偽ざる心境であった。

ここで松陰の驚くべき特筆は、獄の中にいても寸暇を惜しんでよく学び、そして囚人に教えたのである。野山獄は、松陰を入れて十二人、みな夫々独房であり、ここに入ったら一生世の中へ出られる見通しの立たない獄であった。それだけに入獄者は、生きがいを全く失っていた。だが松陰は、たとえどのような環境におかれても、人は人たる道を歩み、魂の向上のためには、学問を怠ってはならぬと考えた。 〃朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり〃 これが真の学問であり、人の道であると思い、松陰は囚人達に道を説いた。

主として、孟子の講義を熱っぽく真剣に説いた。これが本当の人間教育であり、伝道である。長い間、生きる屍のような囚人たちが、松陰の講義により、光明が点じられ、夫々の瞳が輝き出し、しまいには皆熱心に聴聞した。まさに囚人たちは、形の世界は獄に入りながら、心は生れ更ったのである。

後の松下村塾の一員になった富永有隣、大深虎乃充、俳句づくりの名人高須久子、河野数馬、吉村善作等々素晴らしい人材がこの獄より発掘された。人間に宿るところの無限力の開発であり、神性の啓発である。この講義の座に列する者は囚人だけにとどまらず、獄吏福川犀之助も松陰の気高い学識にふれ、すっかり松陰に魅せられ講義を傾注した。自分一人だけではなく、講義の席には弟の高橋藤之進も同席させ熱心に聞き入った。まことに驚くべき感化力であり、松陰の情熱であった。

とくに松陰は、単に孟子の学者的解説でなく、その奥にあるところの心、精神を説いた。

『心が直ければたとえ千万人の敵があろうとも突き進んで行こう。この世の中は、全て楽しいとか、苦しいとかは、心のもち方から起こる。心を明るく持てば、明るい人生がやってくる。たとえ、身は獄中にあろうとも、心の持ち方一つで価値ある人生が送られ、楽しむことができる』

と、説いた。まさに『生長の家』の光明思想そのものである。

この時の孟子の講義が松下村塾にも続けられ、『講孟余話』になったのである。吾々は、この時の松陰の教育精神からも人を育成するのは環境云々ではないことがわかる。たとえ、いかなる環境におかれても、この環境をネジ曲げるごとく、或いは、悪現象にとらわれることなく敢然と立って、その中において光明生活を送ることが出来るのだという、その証しが、松陰精神であり、吾々は、このところを大いに学ぶべきであろう。

  








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「吉田松陰精神に学べ②」

2017-10-20 06:13:22 | 日本

◎山鹿素行の『中朝事実』との出会い

吉田松陰の偉大さは、国のために殉じたことも勿論であるが、どんなに至難に出会っても自己の信念を生涯貫いたことである。

松陰は、わずか三十歳という短い生涯であったが、これほど人生を大切にし有意義に活用した人も皆無に等しい。松陰の人生は、学問と教育と救国活動に明け暮れ、本当に真剣に生き抜いた人である。殊に松陰の学問と教育ぶりは、単なる机上の知的なものでなく〃生きた学問〃を終生学び実践した。

それは、松陰が二十一歳から二十五歳にかけて九州の平戸を皮切りに熊本、江戸、会津、新潟、佐渡、弘前、青森、仙台、米沢、日光を経て再び江戸に帰り、嘉永六年二十四歳の時、再び大和路へ行き、途中安芸の宮島、四国の多度津の琴平宮、白峰山そして大阪、京都、大和、伊勢に行き、当時名たる国学者や蘭学者、神道家に会って、〃生きた学問〃を貪欲なまでに学んだことである。その距離にして、実に全国一万数千キロの遊歴行程というから驚きである。

現代と違って当時何一つ交通機関のない頃にあって、殆ど脚を頼っての遊歴である。

のちの野山獄にあって囚人を相手にした教育姿勢といい、或は、松下村塾の教育精神からみても、この全国行脚によって学んだ〃生きた学問〃が、松陰にどれだけプラスになったか計りしれない。且つ松陰がふれた凡ての人々に烈しい尊皇精神を殖えつけ、感化し明治維新への礎になったといっても過言ではない。

松陰の比類なき秀れた点は、学問にあって非常に謙虚であり、求道者にも近い誠の姿勢である。さながら、仏典の『華厳経』の中に出て来る善財童子のごとく、良き師を求め歩き、その師からまた、別の師を聞き、また訪ね遍歴した。

たとえば、萩藩の恩師村田清風から長崎の平戸には、山鹿流兵学の子孫、山鹿万助と山鹿流兵学者でもあり、陽明学者でもある葉山左内がいると教えられるとすぐに九州に訪ねた。山鹿流といえば、江戸時代の初めの頃、山鹿素行によって開かれた兵法である。

その山鹿素行は、『中朝事実』『武家事記』「配所残筆』『武教全書』等を書き著し、単なる兵学者ではない。とくに『中朝事実』は、日本こそ中朝と唱え、

「我れ等事、以前より異朝の書物をこのみ、日夜勤め候故・・・・覚えず異朝の事を諸事よろしく存じ、本朝は小国故、異朝には何事も及ばず、聖人も異朝にこそ出来り候得と存候。此の段は我れ等斗(ばかり)に限らず、古今の学者皆左様に存候て、異朝を慕ひまなび候。近比(ちかごろ)初めて存入、誤なりと存候。耳を信じて目を信ぜず、近きを棄てて遠きを取り候事、是非に及ばず、まことに学者の通病(へい)に候。詳(つまびらか)に中朝事実に之を記し候。」

と、従来の支那崇拝思想を批判し、日本中朝主義への転換を書き記している。そして

「恒に蒼海の窮り無きを観る者は、其の大なるを知らず。常に原野の畦(かぎり)無きに居る者は、その広きを識らず。是れ久しうしてなるれば也。豈唯だ海野のみならん也。愚(われ)中華文明の土(くに)に生れて、未だその美なるを知らず。」と、中朝は支那に非ず、開闢以来皇統連綿たる日本こそ中国であり、因って日本中朝であると強調した。

因みに、日露戦争で活躍した乃木希典将軍は、この『中朝事実』を座右の書とされていたそうである。これは有名な話であるが明治四十五年九月十三日、明治大帝御大葬の日のことである。周知の通り、乃木将軍は、この日、妻静子夫人とともに自刃した日でもある。乃木将軍は、西南戦争の軍旗喪失事件、又、前原一誠の『萩の乱』では、縁族互に敵味方に別れ皇室に迷惑かけた件、さらに日露戦争の際、二百三高地で攻めあぐみ、政府、軍部側より『乃木が、軍の統率として能力に欠ける。乃木を代えよう』との更迭の声等々にあっても、明治天皇より御厚情賜わり、自己の生命は大帝とともにあり、大帝甍去の後は、いさぎよく殉死しようとの熱誠より発したものであった。

その前夜、即ち十二日、学習院の院長でもあり、明治天皇の三人の御孫さんの御用係でもあった乃木将軍は、迪宮裕仁(みちみやひろひと)親王殿下(昭和天皇)に自ら写し書いた『中朝事実』をご勉強にと渡されたとのことである。

それほど、この『中朝事実』は、皇国日本を知る上において重要な書であるとの現れである。


◎水戸学を求めて (1)

松陰は、平戸に行き葉山左内、山鹿万助に会い、大きく目を開いた。松陰は、この期間に二人から百余冊の書物を借りて、読破し重要なところは書き抜いた。松陰の読書のすさまじさは、自ら記しているごとく、『一日三冊、一年に千冊読書』せよとのこと、まさに驚きである。

そして松陰の読書の仕方は、のちの松下村塾の塾生たちに教えたごとく、『書を読むには、其精力の半ばを筆記に費やすべし』『書を読んで己が感ずる所は抄録し置くべし。今年の抄は明年の愚となり、明年の録は、明後年の拙せ覚ゆべし。是知識の上達する徹なり。且抄録は詩文を作るに、古事類例比喩を索するに甚だ便利なり』と、絶えず読書をし、その要点を筆録している。さしずめ、今流で言えば、松陰は、メモ魔であり、これが人を育てるための基となったとみてよい。

平戸では、主として陽明学、日本史、海外史、地理兵学等を学んでいる。松陰が平戸滞在で一番心に残ったのは、山鹿万助より水戸学を教えられたことである。天朝を学び国学を論ずるには、水戸学を学ばなければならない。水戸学では、とくに藤田東湖、会沢正志斎、豊田天功等に会って国史を学ぶように教示されたのであった。後に、松陰二十三歳の時に水戸を訪ね水戸学の教えを乞うのである。

水戸学といえば、江戸時代の初めの頃、水戸黄門で名高い水戸光圀公(義公)によって、日本の正統史を伝えるために三十五万石の禄高のうち、約三分の一の私財を投じて『大日本史』の編纂大事業に土台からスタートしている。

なんといっても、光圀公は、徳川家康の孫に当り天下の副将軍としての立場にありながら、 『我が主君は天子也、今将軍は我が宗室也(宗室とは親類頭)、あしく了簡仕、取違え申まじき由』と藩臣に伝えたごとく、天朝主義一辺倒の人であった。茨城の水戸で起こったので水戸学と呼ばれているが、純粋な日本学と言ってもよい。

この義公からはじまり九代の斉昭公(烈公)の幕末期に水戸学がもっとも花開き充実した時であった。斉昭の時代には藤田幽谷、会沢正志斎、幽谷の子、藤田東湖、豊田天功、岡崎正忠等々の英傑が続々と誕生し、当時の全国の尊皇攘夷論者に感化したのであるが、残念ながら、それほど評価されていない。ことに、斉昭公の信任を最も厚く受けた藤田東湖は、水戸の弘道館の建学の精神をうたった。『弘道館』(東湖起草)、『正気之歌』には皇国日本の真姿や〃人は人たる道〃などが記されている。


◎水戸学を求めて (2)

『弘道館記』には、「弘道とは何ぞ。人能く道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経にして、生民の須実(しばらく)も離るべからざる者なり。・・・・・」。又、「正気之歌」は、「天地正大の気粋然として神州に鐘(あつ)まる。秀ては不二の嶽と為り巍々として千秋に聳ゆ。注いては大瀛(だいえい)の水と為り洋々として八洲を環(めぐ)る。発(ひら)いては万朶の桜と為り。衆芳ともに儔(たぐひ)し難し。・・・・」であり、皇国日本の讃歌である。

とくに松陰は、『弘道館記』の冒頭の言葉、「弘道とは何ぞ。人能く道を弘むるなり・・・」の箇所が強烈に共感となり、後の松下村塾の教育方針の「塾則」や「士規七則」にも多大の影響となったのである。

ところが、松陰が水戸に訪ねた時、夢にまで見た藤田東湖が藩主斉昭公同様幕府より謹慎中につき残念ながら直接二人が相会することなく、人を介しての意見の交換をしたのにとどまったとのことである。しかし、松陰は、『新論』の著者会沢正志斎に会って教えを乞うた。その時に七十一歳の会沢正志斎より、

『国事を論ずる者は、もっと日本の歴史を学ばなければならない。とくに古事記や日本書紀をよく勉強されたか。日本建国がよくわからないで国事を論ずることは出来ない』

と、この老翁より厳しい忠告を受けた。それまでの松陰は儒教を中心とする漢学だけで日本歴史には余り関心をもっていなかったことを大きく反省するとともに正志斎のこの時の言葉がその後の松陰の運命を大転換させる鉄槌となった。以来松陰は、江戸の小伝馬町で処刑されるまで水戸学を中心とする国史を猛烈なまでに勉強した。

又、水戸に滞在中、水戸学の大家で『大日本史』編纂に力を尽した豊田天功も訪ねた。天功も正志斎と同じく「国事に奔走するほどの者が日本の歴史に暗いようでは話にならぬ」と国史研究を強調した。この水戸学の精神が松陰の将来にどれほど影響したか、その後の行動を見れば明らかである。
 
ここで感ずることは、水戸学と山鹿素行の『中朝事実』の合作が後の松陰精神の形成に大きく関与したのではないかと拝察される。たとえば、『士規七則』の第二の「凡そ皇国に生れては、宜しく君か宇内に尊き所以を知るべし。蓋し皇朝は万葉一統にして、邦国の士夫世々禄位をつぐ。人君臣を養ひて以て祖業を続ぎたまひ臣民君に忠にして以て父志をつぐ。臣民一体、忠孝一致なるは、唯吾が国のみを然りとなす。」 この節からみても、とくに感ずるところである。


◎五人の師に学ぶ

その後、松陰は、大和滞在中において尊皇愛国の大儒者谷三山(たにさんざん)に会い、教えを乞うた。ここでも、水戸学のことが話題の中心になった。このように松陰の人間形成において水戸学が非常に重要な位置を占めている。学問の師として叔父の玉木文之進は別として、主に五人あげられる。先ず第一は、少年の頃より師と仰いだ萩藩の村田清風、平戸で教えを乞うた葉山左内、水戸の会沢正志斎、大和の谷三山、そして松代の蘭学者佐久間象山の五人である。

さて、松陰の踏まれても踏まれても起ち上がる不屈な精神力と強靭な信念は、どこから来たのか、これは現代に生きる人々にとっても非常に興味あるところであり、学ぶべきところでもある。〃艱難汝を玉にする〃という諺があるが、まさに松陰がその典型的な例である。五たびの蹶起が悉く失敗し、その度事に獄に入れられても常に光明思想を失わなかった。たとえ、どんなに計画が狂うとも益々救国精神を強め意志を強固にしていく。嘆くどころか天が自分を試しているのだと。天は大きな仕事を授けようとする時には、必ずその人に試練を与える。困難こそ成功のチャンスと奮い起たせた。それは、松陰の次の言葉によって明らかに知ることが出来る。

「神勅に相違なければ日本未だ亡びず、日本未だ亡びざれば、正気を重ねて発生の時は必ずあるなり」と、御神勅が日本国の全てであると強調している。 さらに、「諸事、神武創業初ニ原(モトズ)キ」と国家の安泰は、常に神武創業精神の回帰、即ち万世一系の統治である、と力説している。



◎燃える救国の想い

現代の社会において、政治維新を志す者や大業を願う者にとっては、松陰の常に死を覚悟のうえの不動なる信念と超人的な行動力を深く学ぶべきである。失敗しても失敗しても悔いることなく、益々信念を固め再び起ちて行動する救国精神とマコトの姿勢に只々驚嘆するのである。

たとえば、次の行動をみるがよい。

それは、黒船来航事件である。黒船事件は、嘉永六年六月(1853年)、徳川二百五十年の眠りから覚ました日本歴史はじまって以来の大事件であった。その当時の落首を詠めば、その頃の動揺が垣間見るようである。「太平の眠りを覚ます蒸気船」と、もう一首「たった四はいで夜も眠れず」である。ペリー米国極東艦隊司令長官が浦賀の海上に所狭しと、その四つの巨艦をもって大砲の音を轟かせ幕府に開国を迫った事件である。幕府は今だかって見たこともない黒い巨艦と大砲に、ド肝をぬかれ震えあがったのである。

これは、余談になるが筆者が思うに、大東亜戦争終了後、東京裁判(正式には極東国際軍事裁判)の時に戦勝国側が日本の侵略行為を一方的に決めつけた際、なぜ日本側が百年前の歴史にさかのぼってこの黒船以来の白色人種による東亜の侵略行為を訴えなかったのであろうか。歴史の観点からいって、この黒船来航は、紛れもなく日本に対しての侵略行為である。

いずれにしても、日本国は、黒船事件以来、開国派、尊皇攘夷派、佐幕派等によって四分五裂の状態になり歴史上未曾有な危機を迎えた。

その時、松陰は、浦賀でその状況を見て祖国日本をいかにして救うか、自分が起たなければ日本は亡びてしまうと思った。






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