龍の声

龍の声は、天の声

「楽器 ハンマー・ダルシマーってなにか?」

2014-11-30 09:38:28 | 日本

秋の秋葉原で、思いもしない楽器演奏を聴いた。民族の心を彷彿とさせる素敵な音色である。それは、「ハンマー・ダルシマー」という楽器であった。
さっそく、その楽器について調べてみた。



Dulcimer(ダルシマー)とは、台形の箱に張 られた弦を2本のばちで叩き演奏する打弦楽器で、ピアノの原形と言われている。

ルーツはペルシャのサントゥール(百本の弦の意味)で、それがイギリス、 アイルランドなどに伝わってDulcimer(ダルシマー)と呼ばれるようになった。Dulcimer(ダルシマー)は英語だが、語源はラテン語で 「美しい音色」という意味だそうである。一般的には、打弦楽器の総称としてDulcimer(ダルシマー)という言葉が使われている。例えば中国の揚琴 (ヤンチン)は、ChineseDulcimer(チャイニーズダルシマー)とも、呼ばれる。ハンガリーにはツィンバロン、ドイツ、スイスにはハックブ レットと呼ばれる打弦楽器があり、この種の楽器はそれほど珍しくないが、やはり日本国内でDulcimer(ダルシマー)を知っている人はそう多く はない。hammer dulcimer(ハンマーダルシマー)という呼び名は、おそらくアメリカで付けられたもので、アメリカにあるアパラチアン・ダルシマー、またはマウンテ ン・ダルシマーと呼ばれる、琴に似た別種の楽器と区別するため、「ばちで叩く」という意味を強調して、頭に「Hammer」を付けて呼ぶようになったと思 われる。古くからある楽器なのでルネッサンス音楽などによく使われるが、一番多く使われるのは、アメリカ東部やアパラチア山脈地帯の、アイルランド系 移民の伝統音楽である。

アイルランド本国では200年ほど前によく演奏されたという話しを聞いたが、現在では、あまり使われていない。残響が多 すぎる音や細かいメロディーを弾きづらいといった楽器の性質上、速いダンス曲が盛んな現在のアイルランドの伝統音楽には、あまりなじまないのかもしれない。

70年代のフォークリバイバルの時に、若いアイルランド系の伝 統音楽の演奏家によって盛んに使われ始め、一度は忘れ去られようとしていた遠い昔のアイルランドの楽器が、アメリカで復活したのでは、と想像している。 今では、Dulcimer(ダルシマー)は、その美しい音色から、伝統的な音楽だけでなく、ニューエイジ系やヒーリング系の音楽にまで使われるようになった。

ハンマー・ダルシマーは、日本では演奏家、愛好家の少ない楽器だが、誰にでも簡単に音を出す事が出来て、優しい曲ならば、少しの練習ですぐ弾 けるようになる、とても楽しい楽器である。まったくの独学でも演奏を覚えれる。アイルランド、イギリス、アメリカなどの民謡や、ルネッサンス音楽 を演奏するのに適した楽器だが、意外にも日本の曲にもよく合う。多くの人がこの楽器に親しんでくれたらいい。







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「ハワイにおける伝統的な浄心行 ホ・オポノポノとは、?」

2014-11-29 08:59:24 | 日本

「生命の実相」の中で説かれている浄心行とは、自己の潜在意識の奥深くに眠っている、過去に経験した怒り、恨み、等のマイナス的な心の想念を半紙に書き出し、真理の言葉(お経等)を唱えながら焼却し、心を浄化する行である。さすれば潜在意識の奥深くに眠っていたマイナスの意識が浄化されるという。

日常生活に影響を与えているのは、潜在意識が95%で、現在意識が5%であると言われている。自分が右の方向に行こうと思っても、潜在意識の思いが左方向に動いておれば、なかなか右に行くことが出来ず、寧ろ反対の左方向へと行ってしまう。これは潜在意識の影響である。よって潜在意識を浄化すれば、真っ直ぐ、すなおに右へと行くことが出来るようになる。

今回はハワイにおける伝統的な浄心行「ホ・オポノポノ」について学ぶ。



◎ホ・オポノポノとは

ホ・オポノポノとは「全責任を負う」ことを原理とするハワイに伝わる癒しの方法である。1980年代にモナ・シメオナ(1913年-1992年。1983年には本願寺ホノルル別院とハワイ州議会によって、ハワイの「人間州宝」に認定された人物) は、個人で行うための新しいホ・オポノポノを創始し、これをセルフ・アイデンティティ・ホ・オポノポノ (ホ・オポノポノによる自己同一性)と名付けた。この実践法は、自らが全責任を負う思想に則っており、モナは「ある人が人生の一切について責任を取るとは、彼が見、聞き、味わい、触れるすべてのことの責任を取ることである。そしてあらゆる経験は、彼の人生に存在するが故に、その人の責任が伴う」と教えた。また「全責任とは、万物が人間の内面からの投影として存在し、問題は外部世界の現実にあるのではなく、我々自身と共にあり、現実を変えるためには、我々はまず自らを変えねばならない」と説いた。モナによるホ・オポノポノは、14段階のプロセスを踏むことで精神をカルマの呪縛から解放することを目指す。

モナの没後、ホ・オポノポノは主に彼女の弟子であるイハレアカラ・ヒューレンによって継承され、世界各地で教えられている。ヒューレンによるホ・オポノポノは自らの記憶に向けて、

「どの記憶が問題を引き起こしているのだろうか」と問いかけた後、

「ありがとう」
「ごめんね」
「許してね」
「愛しているよ」

の言葉を繰り返すことで実践される。なおヒューレンによれば、この繰り返しは4つの言葉のうち1つの言葉を繰り返して言っても良いが、4つの言葉を1セットとして、1セットずつ繰り返すほうがより効果が大きいという。


◎クリーニングツール

「ありがとう」「ごめんね」「許してね」「愛しているよ」言葉以外の潜在意識を変換してクリーニングする。
これは思いどおりに生きられる魔法「ホ・オポノポノ」の言葉である。

こう聞くと、「宝くじが当たる」「出世する」「恋人ができる」などの願いがかなえられると思う人も多いが残念ながら、ホ・オポノポノは宝くじが当たる開運法でも、自分を高める自己啓発法でもない。

しかし、もしも今、あなたがなにか問題を抱え、人生に行き詰まりを感じているなら、ホ・オポノポノはその問題を解決できる唯一の方法である。ホ・オポノポノは、あなたが「思うように生きられない原因」を取り除く。


◎イハレアカラ・ヒュー・レン博士の日記より

・ホ・オポノポノは簡単な方法で潜在意識にある負の記憶を消去する(“クリーニング”と言う)ことで、神聖なる知性からのインスピレーションが降りてくることを可能にする。

ホ・オポノポノの方法の基本は、自分自身に「ありがとう」「ごめんなさい」「許してください」「愛しています」と言うことである。ホ・オポノポノの実践はこれら4つの言葉を言って、自分自身を浄化し続けることである。

・この方法のすごい所は、別に信じていなくても効果がある所である。
嫌な流れを断ち切る方法である。だから、ちょっと人生が嫌になったとき、何も信じれなくなったとき何でこんな目にって思ったとき、騙されたと思ってぜひ使ってみて欲しい。

・「ホ・オポノポノ」で重要なのは自分が認識する世界はすべて自分が創り出したもので、「100%自分の責任」であるということを認めることである。目の前にある問題は自分の内側にある問題なのである。


◎クリーニングのやり方はシンプル。

なにかの出来事に遭遇したら、「私の潜在意識の中のなんの記憶が原因で、このことを経験しているのだろう」と、あなたの潜在意識に話しかけて欲しい。
そして「ありがとう・愛しているよ・ありがとう・愛しているよ・ありがとう・愛しているよ」これだけを唱える。機械的にクリーニングすれば、潜在意識が原因となる記憶を見つけ出し、後は神聖なる存在が消去してくれる。

日ごろ、わたしたちはすべての行動のほとんどクリーニングせずに行っている。ところがクリーニングをすればするほど、潜在意識が大切なことをどんどん教えてくれるようになり、もっと多くのいろいろな声(インスピレーション)が聞き取れるようになる。
人生を通して、大きな自然の流れに沿うことができる。

潜在意識は、感情を通して現在意識と交流する。つまり潜在意識の声とは、現在意識が感じる感情や感覚のことである。

例えば、理不尽なことを言われてカッとなった。この怒りの感情が、潜在意識の声であり、潜在意識が見せてくれる記憶である。友達に誘われたけど、ほんとうは行きたくない。それも潜在意識の声である。日本語でいう「本音」に近いかもしれない。
ところが、たいていの現在意識は潜在意識の声を無視している。自分のやりたいようにやって、潜在意識の感情を抑えこんでしまう。こんなとき、潜在意識はとても傷つく。

ただ、間違えないで欲しいのは、潜在意識の声に応えることと、本音で生きることは違うということである。潜在意識が「これは嫌い!」と言ったからといって、「じゃあやめましょう」というは、正しいかかわり方ではない。また、いやな目に遭い、潜在意識が怒ったとして、怒りに身を任せることも間違っている。


◎基本形のホ・オポノポノのやり方

先ずは、あなたが いやだと思っていることで思い浮かぶことを挙げる。

例えば、「お金がない」ことだとする。

この場合、お金がないという考えは、あなたの潜在意識にどっぷり本当のこととして認識されているので、ここでどんなに普通の潜在意識開発をしても効果が得られない。
つまり この状態のまま「わたしはお金持ちになりつつある」と言ったところで潜在意識は反発してしまって、現実は「お金持ちにそう簡単になれるはずないよ」という感情でいっぱいなわけである。

そこでホ・オポノポノの登場である。

このお金がないという情報(過去からの潜在意識に刻まれている情報)をリセットしてしまう。ホ・オポノポノでは「クリーニング」と呼んでいる。

「お金がない」という情報に対して「ごめんね。許してね。ありがとう。愛しているよと心の中で唱える。

普通の潜在意識開発の場合は声に出していうことが大前提だが、ホ・オポノポノでは心の中で唱えるだけでよい。

「ごめんね。許してね。ありがとう。愛しているよ。」と、これを繰り返して自分の感情(情報)クリーニングしているとお金がないという潜在意識に認識されている情報がクリーニング(リセット)されてまうという現象が現れる。

不思議なことだが試してみると効果がわかる。


◎アイスブルー

「アイスブルー」と言いながら植物に触れると、痛みに対するクリーニングが行われる

ブルー・ソーラー・ウォーター - 青いガラスのボトル(焼酎やお酒、ワインなどのボトルで青いものを利用して構わない)に水を入れ、プラスチックの蓋をする(ない場合はラップと輪ゴムで蓋をする)。このボトルを太陽光に30分から1時間さらす。このブルー・ソーラー・ウォーターを飲むと「愛している」と言うのと同じ効果がある。


◎人生の目的

それは、「ほんとうの自分」になること。
「ほんとうの自分」とは、神聖なる存在が創造したその正しい形、つまり無(ゼロ)と無限である状態である。






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「国民の70%が、はてな?の解散総選挙とは、」

2014-11-28 07:52:53 | 日本

増田俊男さんの時事直言が面白い。
以下、参考までに要約し記す。


11月17日の経済成長速報を見て安倍首相は解散を決意する。「公示12月2日投票12月14日」と11月3日のテレビ番組で内閣官房参与飯島勲氏が述べた通り安倍首相は解散・総選挙を決めた。安倍首相も飯島氏も11月17日前に経済成長がマイナスになる速報値を知っていたので2015年10月予定の消費税増税(10%)を延期することを決めていた。そこで「消費税解散」にする予定であったが、与党は衆参両院で過半数を持っていることから消費税増税延期の国会決議に何の支障もない。となると「何で消費税解散なのだ」との批判が出る。そこで急遽「アベノミクス解散」に決まったのであった。

ところが、日銀短観が日本経済は緩やかに成長基調に乗っていると発表している。第3四半期のマイナス成長(年率‐1.6%)は4月消費税増税の余波と言うより企業の在庫整理が主な理由であって日本経済がリセッション(不況)に陥る兆しは全くない。また与党内にアベノミクス反対はなく、野党もアベノミクス反対で内閣不信任決議案を出そうなどの発想すらなかった。マスコミもアベノミクスに関し大した批判はなく今後を見極めようというスタンスだった。

2005年の小泉首相の「郵政解散」を引き合いに出しているが、郵政民営化はブッシュ政権からの命令的要望であり、アメリカのハゲタカに国民の貯金を奪われる(実際その通りになった)と言う危惧もあり自民党内の賛否は割れていたし、野党も真っ二つだった。だから解散総選挙で国民に信を問うに十分な理由があった。それに比べてアベノミクス解散の根拠も理由も全くない!

国民の70%近くが「解散の理由が分からない」と言うのは当然である。
それは「真の理由」が隠されているからである。

消費税1年半先送りで1兆5千億円の税収減、消費税増税目当ての子育て支援延長なし、選挙目当ての派手な景気刺激策を次々発表しているので補正予算は限度額3兆円を超えることは決定的。これで麻生財務相が国際公約した2015年財政赤字半減目標(GDP比3.3%)は不可能が決定的になった。

虚偽の理由で財政健全化を犠牲にしてまでの総選挙断行の真の理由は何か。
野党内部でごたごたしているタイミングを狙って選挙をすれば与党が国会で絶対多数を得る可能性は十分ある。では一体何のための絶対多数か。

アメリカが安倍内閣に強く求めていることがある。中国の習近平主席就任(2013年)以来米中は3度の首脳会談を重ね、アジアの秩序は米中二カ国で責任を持つ方向が決定的になった。アメリカは核保有国中国と軍事抗争は出来ないので日本に対する中国の軍事行動に対して武力で対抗出来ないし、したくない。そこでアメリカが安倍内閣に強く求めているのが「自主的抑止力(核武装)と自主的防衛能力(憲法第九条の専守防衛でない)の確立である。憲法解釈変更の集団的自衛権では不十分。安倍内閣にとって国会の過半数で憲法改正が出来る体制の確立が急務なのである。安倍首相は正直に「憲法改正解散」と打って出たら総選挙で勝てないことを誰よりもよく知っていたのである。












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「知られざる木戸孝允の功績」

2014-11-27 08:21:12 | 日本

「知られざる木戸孝允の功績」について学ぶ。

五箇条の御誓文のことは知っていても、その日、同時に発表された天皇のお言葉(御宸翰)について知る者はきわめて少ないのではない。維新関連のほとんどの歴史書(「醒めた炎」を含む)にも触れられていないのだが、現在、読んでみても、実に率直で赤裸々な内容には驚かされる。この御宸翰の起草にいったい誰が関与したのか?
まずはその要旨を見てみる。


◎明治天皇のお言葉「御宸翰」訳文

『私は幼弱にして、思いがけず皇位を継ぎ、以来どのように諸外国に対処すれば祖先に忠実でいられるのか日夜思い悩んできた。

中世に朝権が衰え、武家が権力を握って以来、表向きは朝廷を尊崇しても、実は敬して遠ざけられ、万民の父母として、赤子(民)の心を知ることもできなくなった。

ただ名のみの存在となり、そのために今日、朝廷への尊崇は昔に勝っても、朝威は益々衰え、上下の隔たりは天と地のごとくである。

このような形勢で、私は何をもって天下に君臨すればよいのか。
今や朝政一新の時にあたり、万民が各々ふさわしい境遇を得なければ、それはすべて私の罪である。

私自身、骨身を惜しまず、努力を尽くし、艱難に立ち向かい、祖先の切り開いた足跡をたどり、よく国を治める努力を重ねてこそ、初めて天職を奉じて、万民の君主たる道を全うすることができよう。
 
最近になり、世界は大いに開け、各国が四方に雄飛する時にあたり、我が国だけが世界の形勢にうとく、旧習に固執して、一新の効が実を結ばないでいる。

私が御所にこもったまま安穏として過ごし、百年の憂いを忘れるならば、遂には各国の侮りを受け、祖先を辱め、万民を苦しめることになるのではないかと恐れる。

それ故に、私はここに百官諸侯と誓って祖先の御偉業を継承し、一身の艱難辛苦を問わず、自ら四方に国を治め、万民を安心させ、遂には万里の波濤を開拓し、国威を四方に行き渡らせ、天下を富岳(富士山)のごとき安寧に導くことを望んでいる。

天下万民よ、私の志を体得し、共に私見を去って、公儀を採り、私の仕事を助け、神州を安全に守って、祖先の神霊を慰められるならば、私にとってこれ以上の幸はない。』


これほど明らかに天皇の立場、思い、志を天下万民に披瀝したことは、日本史上においてなかった。まさに日本の新時代が到来し、世界に船出しようとする若き明治天皇の気概が明快に表れている。

とはいえ、この宸翰が天皇自らの手になるものでないことは明らかである。では、いったい誰が起草したのか?まず、木戸孝允に間違いないと思われる。木戸が追加した五箇条のなかの「旧来の陋習を破り~」と似たような言葉が、宸翰にも複数個所でみられる。また「富岳の安きに置く」という言葉は、木戸の版籍奉還に関する意見書にも出てくる言葉で、「国家を泰山の安に置く」という中国流の言いまわしを、富士山を意味する富岳に置き換えている。

これより前の2月28日、木戸の建議により、天皇は在京の諸侯を招見し、御誓文の前触れともいうべき親諭を下している。その内容には「天下万姓(万民)のために於いては、万里の波濤を凌ぎ、身をもって艱苦にあたり、誓って国威を海外に振張し、祖宗、先帝の神霊に応えんと欲す。汝列藩、朕が及ばざるを助け、同心協力、各その分を尽くし~」と、3月14日の宸翰と酷似した表現がみられる。いずれもその起草者が同一人物であることは、容易に想像がつく。

一般にはほとんど知られていない、木戸が天皇の行為において果した重要な役割である。


◎御宸翰・原文

朕幼弱を以て俄(にわか)に大統を紹ぎ、爾来何を以て万国に対立し、列祖に事(つか)へ奉らんやと朝夕恐懼に堪ざる也。

密かに考るに中葉朝政衰えてより、武家権を専(ほしいまま)にし、表は朝廷を推尊して実は敬して是を遠け、億兆の父母として、絶て赤子の情を知ること能ざるやふ計りなし。遂に億兆の君たるも唯名のみに成り果、其が為に今日朝廷の尊重は古へに倍せしが如くにて、朝威は倍(ますます)衰え上下相離ること霄壤(しょうじょう)の如し。かかる形勢にて何を以て天下に君臨せんや。

今般朝政一新の時に膺(あた)り、天下億兆一人も其処を得ざる時は皆朕が罪なれば、今日の事、朕自身骨を労し心志を苦め、艱難の先に立、古(いにしえ)列祖の尽させ給ひし跡を履(ふ)み、治蹟を勤めてこそ始て天職を奉じて億兆の君たる所に背かざるべし。

往昔列祖万機を親(みずか)らし、不臣のものあれば、自ら将としてこれを征し玉ひ、朝廷の政(まつりごと)、総て簡易にして如此尊重ならざるゆへ君臣相親しみて上下相愛し、徳沢天下に洽(あまね)く国威海外に輝きしなり。

然るに近来宇内大に開け、各国四方に相雄飛するの時に当り、独(ひとり)我邦のみ世界の形勢にうとく、旧習を固守し、一新の効をはからず、朕徒(いたずら)に九重中に安居し、一日の安きを偸(ぬす)み、百年の憂を忘るるときは、遂に各国の凌侮(りょうぶ)を受け、上は列聖を辱め奉り、下は億兆を苦しめん事を恐る。

故に朕ここに百官諸侯と広く相誓ひ、列祖の御偉業を継承し、一身の艱難辛苦を問ず、親ら四方を経営し、汝億兆を安撫し、遂には万里の波濤を拓開し、国威を四方に宣布し、天下を富岳の安きに置かんことを欲す。

汝億兆旧来の陋習に慣れ、尊重のみを朝廷の事となし神州の危急をしらず、朕一たび足を挙げれば非常に驚き、種々の疑惑を生じ、万口紛紜(ふんうん)として朕が志をなさざらしむる時は、是朕をして君たる道を失はしむるのみならず、従て列祖の天下を失はしむる也。

汝億兆、能々(よくよく)朕が志を体認し、相率て私見を去り、公義を採り、朕が業を助て神州を保全し、列聖の神霊を慰し奉らしめば生前の幸甚ならん。











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「宇賀神とは、」

2014-11-26 09:39:32 | 日本

上野公園 傍の不忍池(しのばうのいけ)に、寛永寺「弁天堂」がある。ここでは、弁財天の化身である「宇賀神(うがじん)」様の秘法供浴酒祈祷が、春と秋に年2回、7日間の法修がなされている。行者は期間中御身を精進して本尊と一体となり、 秘法供の祈祷1日3座、全21座厳修致する。酒欲とは羨ましい限りである。一度、見てみたいと思っているが、部外者には一切、見学が許可されていない。

では、宇賀神様とは一体如何なるご存在なのかについて、学ぶ。

宇賀神(うがじん)は、日本で中世以降信仰された神である。
神名の「宇賀」は、日本神話に登場する宇迦之御魂神(うかのみたま)に由来するものと一般的には考えられている(仏教語で「財施」を意味する「宇迦耶(うがや)」に由来するという説もある)。

その姿は、人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く形で表され、頭部も老翁や女性であったりと一様ではない。

元々は宇迦之御魂神などと同様に、穀霊神・福徳神として民間で信仰されていた神ではないかと推測されているが、両者には名前以外の共通性は乏しく、その出自は不明である。また、蛇神・龍神の化身とされることもあった。

これが比叡山・延暦寺(天台宗)の教学に取り入れられ、仏教の神(天)である弁才天と習合あるいは合体した。この合一神は、宇賀弁才天とも呼ばれ、宇賀神はしばしば弁才天の頭頂部に小さく乗る。その際、鳥居が添えられることも多い。

出自が不明で、経典では穀霊神としての性格が見られないことなどから、宇賀神は、弁才天との神仏習合の中で造作され案出された神、との説もある。

宇賀弁才天への信仰は、延暦寺に近い近江国・竹生島を中心に、安芸国・厳島、相模国・江ノ島など全国に広まった。 これらは、明治の神仏分離の際に市寸島比売命(いちきしまひめ)などを祭神とする神社となっている。鎌倉市の宇賀福神社では、宇賀神をそのまま神道の神として祀っている。









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「塙保己一の逸話、」

2014-11-25 08:33:23 | 日本

◎逸話

塙保己一(はなわ ほきいち)は、学問の神であるとされた菅原道真と身分の低い家に生まれて天下統一を成し遂げた豊臣秀吉を尊敬していたという。

すでに学者として有名だった平田篤胤、安藤野雁も、保己一の門に入った。日本外史を著した頼山陽も保己一に教えを請うた。その他、保己一の弟子は、中山信名(なかやまのぶな)、石原正明(いしはらまさあき)、屋代弘賢、松岡辰方(まつおかときかた)、長野美波留(ながのみはる)などがとくに有名な学者である。

昭和の名人と呼ばれた落語家、桂文楽がなくなる十数年前、胸をわずらったことがある。不吉なものを感じた文楽は、四代目柳家小さんの妹が「拝み家」をしていたことを思いだし、彼女のところにいって占ってもらった。すると「えらい坊さんが出ました。その坊さんは塙保己一と名乗り、文楽はまだ大丈夫だと語った」とお告げが出た。そこで文楽は、保己一の墓にいってすっかり汚れている墓をきれいにした。寺の住職に過去帳をみせてもらうと、同行していた五代目柳家小さんがその系図の最後の人を指差し、「この人は軍隊のときの自分の上官です。随分なぐられました」と語った(宇野信夫『私の出合った落語家たち』(河出文庫)より)。

『群書類従』の版木を製作させる際、なるべく20字×20行の400字詰に統一させていた。これが現在の原稿用紙の一般様式の元となっている。

和学講談所で『源氏物語』の講義をしているときに、風が吹いて、ろうそくの火が消えたことがあった。保己一はそれとは知らず講義を続けたが、弟子たちがあわてたところ、保己一が「目あきというのは不自由なものじゃ」と冗談を言ったという。

辰之助(保己一)が江戸に出るときに同行した絹商人と、同行中に「お互いに出世しよう」と励ましあい、後に、その絹商人は、根岸肥前守(ねぎしひぜんのかみ)と名乗るようになったという出世話が語り継がれている。

和学講談所は、保己一の死後も子孫に引き継がれ、明治元年6月までの75年間続いた。
『群書類従』666冊が完成したのは、保己一が74歳のときである。34歳のときに決心してから41年後となる。

保己一は『続群書類従』1885冊を編纂したが、生前は版が出来上がらず、世に出ることはなかった。しかし保己一の死から100年余りが過ぎた1922年、続群書類従完成会が設立され、『続群書類従』出版事業が始まった。続群書類従完成会は、江戸時代の出版物の復刻を手掛けていた「国書刊行会」(1905年創業。現在の「株式会社国書刊行会」(1971年10月創業)とは無関係)を前身として創業。『群書類従』・『続群書類従』・『続々群書類従』、更に『史料纂集』の刊行を行っていたが、2006年9月閉会(倒産)。閉会時の資本金は1500万円、従業員6名であった。同会の出版事業は2007年6月より八木書店に引き継がれ、続群書類従完成会発行の書籍も八木書店から発売されている。

嘉永4年(1851年)、保己一が編纂した『令義解』に女医の前例が書かれていることを根拠に女医の道が開かれ、荻野吟子が日本初の国公認の女医第一号となった。それまでは医者は男性しかなることができなかった。

1921年、昭和天皇が皇太子であったころ、ケンブリッジ大学を訪問した記念に『群書類従』を寄贈することを約束され、実弟である秩父宮が届けた。その他、『群書類従』は、ドイツの博物館、ベルギーの図書館、アメリカの大学等にも贈られた。

『群書類従』の版木は井上通泰、渋沢栄一、芳賀矢一、塙忠雄が創設した温故学会によって保存されている。1954年東京都重宝に指定された後、1957年に国の重要文化財に指定された。

ヘレン・ケラーは幼少時より「塙保己一を手本にしろ」と母親より教育されていた。昭和12年(1937年)4月26日、ケラーは渋谷の温故学会を訪れ、人生の目標であった保己一の座像や保己一の机に触れている。ケラーは「先生(保己一)の像に触れることができたことは、日本訪問における最も有意義なこと」「先生のお名前は流れる水のように永遠に伝わることでしょう」と語っている。

2000年、温故学会会館(東京都渋谷区)が登録有形文化財に登録された。














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「塙保己一の生涯」

2014-11-24 11:02:29 | 日本

『私は特別の思いをもって、埼玉にやってまいりました。それはつらく苦しい時でも、この埼玉ゆかりのハナワ・ホキイチ先生を目標に頑張ることができ、“今の私”があるからです。』

上の言葉は、世界的な偉人として讃えられている、目も見えず、耳も聞こえず、そのために話すことも困難だった女性、ヘレン・ケラーが、昭和12年(1937年) 埼玉会館で開かれた講演会で語った言葉である。

塙保己一(はなわ ほきいち)は、江戸時代後期に活躍した埼玉県本庄市出身の全盲の学者である。
現在でも『これをなくしては日本文化の歴史を理解することは困難』とまで言われる前人未到の大文献集『群書類従』を編集・出版した。

世界的偉人ヘレン・ケラーが目標とした塙保己一とはどんな人物だったのか。

塙保己一は、延享3年(1746年)に武蔵国児玉郡保木野村に生まれた。幼い頃から、大人が読んでくれた本の内容を記憶し忘れない子どもだったそうである。7歳のとき、病気がもとで失明。さらに12歳のときには心の支えだった、母を亡くし、これから先どう生きていけばよいのか途方にくれてしまう。そんなとき、江戸には「太平記読み」と呼ばれ、物語を語ることによって生計を立てている人たちがいるという話しを聞く。学問好きで、記憶力が抜群のこの少年は「自分にもできる仕事がある!」と考え、江戸に出ていくことを決心した。

15歳で江戸にでた保己一は、雨富検校という師匠の盲人一座に入門した。しかし、江戸での現実は厳しく、あんま・はりの仕事や三味線・琴の芸能関係、金貸し業ばかりで、保己一の望む学問はさせてもらえなかった。どうしても好きになれない盲人一座の修業にあけくれる生活に、保己一は絶望した。将来の夢や希望も持てなくなった保己一は、とうとう自殺未遂事件を起こしてしまう。

師匠の雨富検校は、何をさせてもものにならない、ふがいない保己一をどうしたものかと思案した。思いあぐねた末、本人が好きな学問の道に進むことを許した。それからの保己一は、水を得た魚のように、何事にも前向きに取り組み、次第にあんまの腕もあがっていった。これには、彼の学問好きを知って、上手いとは言えないあんまながらもひいきにしてくれた方の支えもあった。本を読んでもらっては、お礼にあんまをしてお返したのである。そうしているうちに次第に学者としての評判が高まってきた。保己一の盲人一座での地位が向上するにつれ、自然と協力してくれる人たちも増えていった。

安永8年(1779年)保己一34歳のとき、次のように思い立った。
「学問をしたい人はだれでも、いつでも、どこででも必要な書物が読めるようにしてあげたい。先祖から託された日本の文化を絶やすことなく、しっかりと次の世代に伝えていきたい。これこそ自分に与えられた使命だ。」 
のちに文化史上かつてない大文献集となる「群書類従」の編集・出版に着手することを決意したのである。

保己一が「群書類従」をまとめるまで、貴重な書物が大名や公家など、一部の限られた人のもとにあり、人々の目に触れることはあまりなかった。また、当時の書物は、書き写して伝えられたものだったため、本によって内容が異ったり、一部が欠けていることなどがあった。保己一はこれらの違いを丁寧に補正してまとめていった。全国に散らばっていた多くの古い記録や史料を集めて分類、整理を41年間にわたって行った。現代のように印刷技術がないこの時代にである。

保己一は、このまとめた「群書類従」を多くの人が手にできるよう、版木(木の板に文字を彫り込んだもの)に彫り、印刷できるようにした。全部で17.244枚にも及んだ。 この版木は今なお刷り立てられており、保己一がまとめた当時と同じ「群書類従」を手にすることができる。

目が見えない保己一にとって、勉強方法は人に読んでもらったものを記憶していくことだった。その上で、膨大な量の文献をまとめるのは大変な作業である。また、版木を彫らせるにも莫大な費用がかかった。 研究面でも多くの人々の協力が必要であったことは想像に難くない。そこには、彼が優れた人物であり、大変な努力家であったことはもちろん、多くの人々に多大な協力をあおげる人柄の持ち主であったことが伺える。

そしてついに文政2年(1819年)、666冊からなる「群書類従」を出版するという大事業を成し遂げた。すでに74歳となっていた。

目が見える人であっても成し遂げることは困難な大事業を完成できたのは、「後世の人たちに、日本人の宝物である古来の精神文化を絶やすことなく伝えていきたい」という熱い思いだった。どんな困難な条件のもとでも、くじけることなく一途に自分の道を進んだ。

この他にも、保己一は、日本独自の精神、特に外国からの影響を受けない日本古来の文化、日本人のこころを研究する現在の大学ともいえる学問所「和学講談所」を設立し、後継者を養成した。

そして、文政4年(1821年)2月、盲人社会の最高位である総検校につき、同年9月に天命を全うした。(享年76歳)









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「河原操子と蒙古土産」

2014-11-23 08:45:01 | 日本

◎国際的な事業に従事するには西洋人に負けぬとの自信力が必要

「かゝる国際的事業に従事する以上、西洋人に対する時卑屈にならざるだけの自信力が必要」(『蒙古土産』)

操子がシナ人の女子教育に初めて携わったのは、横浜の大同学校である。大同学校は、横浜在住のシナ人婦女子の為に設けられた学校であり、風俗習慣の全く違う外国人に教育を施す事の難しさを操子は痛感し、大変な努力によって壁を乗り越えて行った。操子は記す。「しかし、そこに到るまでには、かなりの忍耐と努力とが必要だった。風俗習慣共に著しく相違する外国人に教育を施すことであれば、日本風の普通の考えでは誤解を招く恐れがあることが少なくなかった。時には屈辱に類する様な事もあったが、すべて耐え忍んで、ひたすら職分の為に励んだ。その様な場合、これは私の務めなのだと信じることによって、忍耐も苦痛には感じないようになる事が解って嬉しかった。」

操子は、シナ人生徒との意思疎通を図る為に、放課後に北京語を学んだ。更には、この様な国際的な事業に従事するに当っては、西洋人に対して卑屈にならないだけの自信力が必要と思い、西洋語の一つ位は出来る様になろうと考え、フランス人が創設した紅蘭女学校の寄宿舎に入って夜にはフランス語の学習に精を出した。操子は「大同学校在職中に感じたのは、清国人を教育するには、悠々迫らざる寛裕の態度が必要だという事である。又一般清国人に対しては、圧抑することなく、だからといって寛大に過ぎず、中庸を得ることが、万事に成功する秘訣だという事も悟った。」と記している。

海外に雄飛する操子にとって、この横浜での体験は自信を与えるものとなった。異文化との接触に対し、忍耐と努力で乗り越え、更には「これこそが自分の務めである」と信じ、歯を食いしばって頑張り抜いたのである。しかも、北京語だけでなくフランス語まで学ぶ操子の姿勢には、西欧列強に対等に対峙せんとの明治の日本人の志の高さを感じる。明治の女性は将に誇り高き「武士の娘」であった。

後に操子は上海から北京へと赴く船で、揺れて波しぶきが立つ甲板の上を闊歩する西洋人の姿を見て、彼らに負けてなるものかと自らも甲板上を散歩し、ある西洋婦人に挑まれて徒競走をして勝った事があった。その事を決意させたものが「海国日本の婦人が、かばかりの浪にひるみては国辱にもなりなん」との思いであった、と記している。


◎シナ人の教育に従事する以上、彼らと同じ場で生活をすべきである

「上海着後まもなく城内に住むべく決心しぬ。」(『蒙古土産』)

下田歌子女史は、大同学校で励む河原操子を頼もしく思い、上海に住む呉懐疚氏から「支那の女子教育は是非東洋人の手で行いたいので、貴国婦人の中から適良な教師を周旋して戴きたいとの依頼」があったのを受けて、河原操子にその白羽の矢を当てた。

下田女史は日本を発つ操子に「あなたは日本から行く最初の女教習ですから、しっかりやって下さらないと日本婦人の名誉に関わります」と述べた。操子は記す。

「私はあたかも日本婦人を代表して、外国に使するものの様に、又戦争に赴く勇士の様に送り出されて、こんなはずではなかったのにと思ったが、もはやどうしようもない。この上はただ自分の力の限りを尽し、斃れて後已まんのみと覚悟して、師友や近親に別れて清国の土を踏んだが、この覚悟は爾来夢の中でも忘れる事はなかった。」と。そして、ある決意を固めたのだった。

「深夜夢から覚めた時や、暁早く目が覚めた折など、最初の日本女教習として成功するにはどのようにすべきか、真に清国人に信頼されるには如何にすべきかと、小さな胸を痛めた。そして私は、上海に着いてまもなく城内に住もうと決心した。」

シナ人の不潔さは、現代でも問題となっているが、この当時の上海城内のシナ人居住区の不潔さは想像を絶するものであったという。外国人は城外に居住して通うのが通例であり、まして外国人女性が城内に住むという事は常識では考えられなかった。だが、河原操子は、城内での居住を決意したのである。

「学堂は城内にあり、生徒の過半は寄宿生である、彼女等と生活を共にする事こそ、真に彼女等の愛導者となり、同情者となる事が出来るはずだと考えた。唯一人の女性教師である私が、不潔を厭って独り城外に居住したなら、どんなに熱心に授業しても、どんなに誠心を以て訓育しても、彼女等を心の底から信頼させる事は不可能であろう。私が生徒達から信頼されない女教師になったなら、日本婦人の不名誉になる、と師友が言われた送別の言葉を思い起こすと、不潔も悪臭も気にするものかと、私は決然として城内居住の勇気を奮い起こしたのだった。」

操子は、全生活を通して子弟と交わりその絶大な信頼を得る事となる。素晴らしき女性教育家であった。


◎日本女性の私には大和魂があるのだ。気弱になっては情けない

「女なりとて我も亦、大和魂は有てるものを、かく心弱くてはかなはじ」(『蒙古土産』)

日清戦争後の三国干渉によって日本を譲歩させたロシアは、満州に軍事力を展開し、更には朝鮮半島に触手を伸ばし始めていた。それに対しわが国は、ロシアのライバル大英帝国との日英同盟締結に成功してロシアに備え、遂には日露戦争を決意するに至る。その様な中で内蒙古の地にもロシアの手が伸びて来ていた。だが、日本を訪れた事のあるカラチン王だけは日本を高く評価し、好意的であった。カラチンには日本の軍事顧問も派遣されていた。だが、日露戦争が勃発すれば武官の滞在は認められない。

その様な時、カラチン王から女子教育の為の日本人教師の派遣を求められたわが国政府は、喜んでその申し出を受けると共に、日露戦争時の情報収集、特殊作戦(シベリア鉄道爆破工作隊)支援を託するに足る一人の女性教師をカラチンに派遣する事とした。その任を任されたのが当時28歳の河原操子であった。操子は明治三十六年十二月に、内蒙古・カラチン王府教育顧問として招かれ、毓正女学堂を創設して蒙古子女の教育に当った。

内蒙古のカラチン王府は、北京の東北に位置し、万里の長城を越えて、旅程九日の奥地にあった。「喀喇沁はいづこ」と聞いても、日本人の中で殆ど知る者は居なかった。その地に操子は単身で赴くのである。カラチン王府からの迎えの者と共に、日本政府は警護と沿道の視察を兼ねて一士官と兵士を派遣してくれてはいた。

操子は父からの励ましの手紙をもらい、勇気を奮って出発した。北上するにつれ氷点下の厳寒となって来る。故郷を想い父の事を思うと心細さに涙が溢れて来る。

しかし、操子は「女であっても私には大和魂が宿っているのだ。こんなに心弱くなってはならない」と自分に鞭打ち、自分を励ました。その上、こんな事で体を壊してしまったなら、私を信じてこの様な重い任務を与えて下さった方々に申し訳が立たないと気を入れ替え強く持った。交通の要衝の地である熱河では、電信設備や街の様子などを手帳に書き付けて有事に備えた。宿は蜘蛛の巣が張り薄気味悪い部屋ばかりであった。操子は、心地よい旅であったならかえって気がくじけ弱気になっていたかもしれない。「憂き宿はうき旅の鞭撻者よなど、戯れ言ふ」とユーモアを交えて書き記している。

心細さの極みの中、操子は落ち着きを取り戻していた。


◎いざという時には自分で生命を絶つ

「人の手などにかゝりて最後を遂げんこと口惜しければ、見事自刃せん覚悟にて」(蒙古土産)

操子には、内蒙古の地の利を活かした日露戦争の支援という、もう一つの国家的な使命があった。

明治三十七年二月、日露開戦となるや、カラチンにもロシア側のスパイが多数出没し情報収集に当る様になる。それを操子は出来るだけ委しく調べて本国に報告した。奥地から来る通信は操子自ら区分けして、熱河から電報をすべきものはその手配をし、北京まで直送すべきものは特使を発した。特別任務班の入蒙の際は、秘密裏に連絡をとって任務遂行を助けた。

操子は記す。「とにかくこの地には私一人しか居ないので、女ながらも双肩に母国の安危を担っている心地がして、躊躇していては彼等(ロシア側)に機先を制せられる事もあるかも知れないと、心も心ならずに、時には王、王妃に請うて、特に飛脚を出して戴いた事もあり。自分でその大胆さに驚くほどの事も行なった。この様な重大事に関しては、微力な自分では何のお役にも立つ事は出来ないかもしれないが、至誠の祈り心を以て、日本と朝鮮との関係などを王に説明申し上げ、王様もうなずいてお聞き頂いた。」と。

周りにはロシアの手の者も多く、操子を罵り排撃せんとする者も居たが、操子は王室教育顧問の待遇の為、安易には手を出せなかった。操子はその時の覚悟の程を次の様に記している。

「そうはあっても私は、ロシアに好意を寄せる王府内の多数の人々に憎悪されているので、いついかなるどのような危難が私の身に迫るか予測も出来ない。その様な場合、他人の手にかかって最期を遂げる様な事があったら口惜しいので、その時は見事に自刃しようと覚悟し、入蒙の際に父から送られた懐剣を寸時も放さず持ち、又護身用のピストルも常に側に備えて置いた。更に、何時変事が生じても差しさわりの無い様に、常に荷物の整理をして、表裏両面の事業に心を砕いた。」と。

操子の父忠は手紙で、操子の入蒙を喜び励ますと共に、武士らしくわが娘に万一の時の覚悟を諭していた。

忠は「昔烈女木蘭は、男装して戦地へ出発した。お前も祖国の為に大切な任務を帯びて入蒙するのだから、千危万難は覚悟の前であろうが、万一の時は此懐剣を以て処決し、日本女子の名を汚すな」と書いて、一口の懐剣を贈った。その懐剣を操子は肌身離さず持っていた。


◎決死の勇士達への優しい心づくし

「生命をかけて御国の為に特別の任務を果さんとせらるゝ、雄々しくも頼もしき方々を、明日は御慰めいたさん」(蒙古土産)

ロシア軍の後方を攪乱すべくシベリア鉄道破壊の任務を帯びた「特別任務班」の中の三班は二月から三月にかけてカラチンに入り、装備を調達し最終調整して任地へと旅立って行った。その中には、後にロシアに捕われて処刑される際に、自らの所持金をロシア赤十字に寄付する事を申し出て、欧米人に感動を与えた横川省三や沖禎介も居た。彼等の最終のお世話に操子は当ったのである。

操子は、国の為に決死の覚悟で困難な任務に当ろうとしている方々の心の慰めにでもなればと思い、花瓶を飾って草花を活け、江戸土産の錦絵を掲げ、部屋の飾りを総て純然たる日本風に仕立てて彼らとの面会に臨んだ。烈士の中には恩師の子であり、旧知の脇光三も居た。死を覚悟して任に当る彼等の心中を思い、心からの無事を祈るのだった。











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「河原操子とは如何なる人物なのか?」

2014-11-22 10:43:43 | 日本

日露戦争当時、後に新聞や雑誌で「女スパイ」「女間諜」と書きたてられた女性がいた。それが河原操子という人物である。

といっても、現代映画のスパイのように格好いいアクションをするわけでもなく、お色気で情報をとるのでもない。当時のごく普通の日本女性だった。ただ素直に国を愛する心で、単身、内蒙古(現中国の内モンゴル自治区)の奥地にまで乗り込み、ロシアの動きに関する貴重な情報を送り続けたのである。

操子は松本藩の漢学者の家に生まれた。東京女子高等師範学校を中退、明治三十五(一九〇二)年、上海に渡り清国の女子教育に当たった。そして一年後の明治三十六年秋、内蒙古カラチンの王から、新設する女学校の教師をやってくれないかという話が舞い込んだ。

カラチンは北京から北東へ約三百キロにある日本の県ほどの地域で、モンゴルの王が実質支配していた。その王と王妃が親日家だったことから、日本人に教育を託することになったのである。

操子自身が日露戦後に書いた『蒙古土産』によれば、三十六年の十一月二十九日、北京の内田康哉公使に呼ばれ、カラチンでの教師と、もうひとつ思いがけない任務を依頼される。

「日露間の風雲は急迫しておりいずれ戦火を交えるだろう。そのさい、カラチンで裏面で働く女性が必要だ。その任にも服してほしい」ということだった。

カラチンは内蒙古を南北に貫く熱河大道の南端にある交通の要衝だった。その東側の満州が日露両軍の主戦場となった場合、ここを通ってロシア軍の背後に出て、鉄道を爆破するなどして撹乱するという作戦も日本にあった。

しかし、すでにロシアがその影響下に入れつつあり、その情勢を探る必要があった。

操子は臆することなく引き受けた。ところが北京からカゴに揺られ九日間もかかって着いたカラチンには、それまでいた日本の軍人は引き揚げ、日本人は一人だけという状態だった。

そうした心細さの中でも、さっそくカラチンの女子教育にとりかかるとともに、街や宮殿での動きをつぶさに観察し始めた。いざというときには「見事自刃せん覚悟」で、父親から送られてきた懐剣を身につけていた。

到着後間もない明治三十七年二月、戦争の火ぶたが切られると、カラチンには国籍を偽ったり、銀行員、毛皮商人に扮したロシアの武官らしい者が増えた。そうした動向ばかりでなく、王は親日だが重臣には親露派が多いこと、ロシアによる懐柔策が進んでいることなどを逐一 「その筋」に書簡で知らせた。

操子がその純粋な人柄から王と王妃に気に入られたことも、情報の入手や伝達を容易にした。

戦争における情報の入手は大きなテーマである。よく近代日本が経験した二つの大戦争を比較するとき、「日露戦争では情報戦で勝ち、大東亜戦争は情報に負けた」といったことが言われる。

確かに日露戦争では、早くから開戦を予想し、多くの軍人らが諜報活動に当たった。ヨーロッパでロシアの情勢を探り、擾乱のために革命勢力とも接触した明石元二郎らである。
そのことが、日本を甘くみていたロシアを破るひとつの原動力ともなった。

しかし、それは軍人とか外交官だけの功績ではなかった。中国大陸や朝鮮半島、そしてヨーロッパに点在していた民間の日本人たちが、それぞれの愛国心で情報を集めていたのである。その中には多くの女性もいた。

しかも、河原操子もそうであったように、特別の愛国教育を受けたわけではなかった。操子は昭和十八年に最初の稿に加筆した『新版 蒙古土産』の中で活動ができたことをこう書いている。

「私の愛国心が特に強かった為でもなく、日本婦人であれば誰でも国家非常時に躊躇することはなかった」。

当時の女性たちのほとんどが、操子のようにごく自然に愛国心を持ち、何らかの形で国の為になろうとしていたのである。

それなのに戦後の歴史教育の中では、与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」だけが、当時の女性の心情を代表するかのように教えられているというのは、何とも奇妙なことである。
                     








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「世界の軍事バランスを劇的に変える新技術 超短波レーザー・パルスの成功②」

2014-11-21 06:59:43 | 日本

◎核抑止力の無効化と国際政治構造の根本的な変革

高出力レーザーにより、100%に近いミサイル撃墜能力が可能になれば、その及ぼす影響は、革命的なものとなり、国際的な力関係も戦争様相も一変し、戦略レベルから戦術レベルまで極めて深刻な影響を及ぼすと見られる。

第1に核抑止機能に重大な影響を与える。各種の核ミサイルがほぼ100%撃墜可能になれば、現在の核大国が享受している、「防ぎようのない核攻撃の破壊力への恐怖により相手国の我が方にとり好ましくない行動を思いとどまらせる」という、核兵器による抑止機能はほとんど機能しなくなる。

ただし、ミサイルによらず直接相手国国土に何らかの形で核兵器を搬入するという方法は、レーザー兵器では阻止も抑止もできない。そのため、核テロ、あるいは特殊部隊などによる核兵器持ち込みなどの脅威はなくならない。

これを阻止するには、核関連物質に対するより厳格な国際管理と各国の国境管理が必要不可欠になる。
また核兵器以上に安価で破壊力があり持ち込みも容易な生物・化学兵器の価値は相対的に増大し、テロなどでより多用されることになるであろう。その結果、核、生物、化学などの大量破壊兵器を用いたテロの可能性が増大し、最大の脅威になると見られる。

一方で核ミサイルの抑止機能がなくなり、他方で核テロの脅威が残れば、大量の核兵器や関連物質を各国が保有している利点はなくなる。

そのため、核保有国も含めどの国にとっても、国際的に必要最小限の核兵器と核関連物質を共同で管理し、テロリストやある国の独裁者等が密かに核保有を進め、ある日突然保有を宣言し核恫喝を行なうという脅威を防止するという核政策、核戦略が、国益に適うことになる。

その結果、核兵器は最小限抑止の水準を維持しながら、国際的な共同管理に委任するのが最も賢明な核戦略、核政策となり、国際的にも合意に至る可能性が高まるであろう。


◎作戦戦略にも革命的影響を与える。

中国が追求しているとみられている沿岸から3000キロ以内に各種ミサイル戦力を重畳に配置し、米空母などの接近を遅延、あるいは阻止させる「A2/AD」戦略もその威力を失うことになる。日本など東アジアの米同盟国は、自立的に中国の核脅威に対し対処できる能力を持てる可能性が出てくる。


◎国際政治構造も大きく変化する。

核大国が核兵器を背景とする卓絶した軍事的威嚇力を失うことにより、核を保有する5大国が常任理事国を務める国連の安全保障理事会の体制も、核保有国をこれら5カ国に固定した現在の核不拡散条約の体制も、抜本的な変革を迫られることになるであろう。

核大国の世界の安定と秩序に対する影響力は大きく削がれる半面、世界は多極化あるいは無極化し、責任を持った秩序形成者が不在になる恐れもある。

大国の圧倒的な抑止力が機能しなくなり、かつ防御側がより強力になることから、全般的に戦争が発生しやくなり、かつ長期化するようになると予想される。

また、核時代には抑止されてきた大国間の直接の紛争や戦争も起こるようになるであろう。逆に、核を持たない国でも、レーザー兵器や無人兵器を開発し運用できる高度の技術的水準とそれを駆使できる兵員を持つ国は、軍事的にも優位に立てるようになる。


◎一変する戦争様相


戦争様相も一変する。ミサイルのみならば砲弾なども空中でレーザーにより破壊されるようになる。少なくとも大口径の長射程砲弾は、空中で破壊される可能性が高い。

小銃も威力調整が可能で確実に目標に命中できる携帯式小型レーザーに切り替わるかもしれない。そうなれば特別な訓練なしでも、目標が確認さえされれば、百発百中の射撃が可能になる。

さらに、各種の無人兵器にレーザー兵器が搭載され、空中や地表面から突然殺傷力のあるレーザーにより、生身の人間が攻撃されるという危険性も高まる。無人兵器同士のレーザーによる戦闘が戦闘の帰趨を決めることになるかもしれない。

警戒監視、捜索にも、情報伝達にも、殺傷破壊にも、レーザー兵器は自由に転換して使用できるため、戦場と兵器のシステム化が極端に進展することになるであろう。

そのため、陸海空軍という軍種区分は意味がなくなり、多くの指揮・司令センターの要員は地上または地下、一部は海中や宇宙空間からの遠隔操作により、陸海空、宇宙、サイバーなどあらゆる空間の主として無人兵器による戦闘を指揮統制することになるであろう。

レーザー兵器の発達は、全体的にはこれまでの攻撃的な破壊力の主体であった砲爆撃あるいは核兵器の威力を無力化する効果があるため、防御側に有利に作用する。またレーザー兵器の特色として、極めて精度の高い選択的な攻撃が可能になることがあるため、攻撃に伴う副次的な破壊は極端に減り、目標のみを効率的に破壊できるようになる。

そのため、戦争は制限的になり、すべてを破壊し尽くすような全面戦争は起こりにくくなるであろう。しかし半面、敵を特定しにくい、ゲリラ戦やテロは抵抗側の戦いの主要形態になる。

ゲリラ戦やテロでも、核・生物・化学兵器、サイバー攻撃、電磁パルス攻撃など、少数でも極めて大きな破壊力を行使できる手段が、防御力の欠けた一般人や都市部、主要インフラなどの弱点に対し、ますます奇襲的に多用されるようになるであろう。

そのため、平時と有事、前線と後方、交戦国と非交戦国の区分がなくなり、判然としない敵との烈しい戦闘が局所的に奇襲的かつ不連続に、世界のあちらこちらで生起するようになると見られる。

このような脅威に対処するには、レーザー兵器や無人兵器など、敵が特定できることを前提とする兵器体系だけでは十分に対応できない。最終的には人間が自ら行動し、敵を直接識別確認したうえで、交戦するかまたはレーザー兵器等を目標に誘導して制圧するという戦闘形態を踏まざるを得ない。

そのため、単独で瞬時に判断し行動でき、使命感に富み士気と規律心が高く、高度の判断力、体力、精神力、装備駆使能力を備えた精鋭の兵員がますます要求されるようになる。無人兵器が発達すればするほど、兵員の能力、資質への要求は高まることになる。

また、これまで軍事作戦の補給の重点であったミサイル・砲弾などの補給上の負担はなくなり、燃料の所要も大幅に減ることになる。

エンジンのハイブリッド化、小型無人車、電気自動車の普及、太陽光発電の利用などの要因が重なれば、さらに燃料所要は削減される。輸送手段もほとんどが無人化、自動化されるであろう。その結果、軍のロジスティックの概念と運用も革命的な変化を遂げるであろう。


◎有利な立場にある日本

高出力レーザー・システムにより、核ミサイル保有国の核脅威、核恫喝に対し、独力で効果的に対処し排除できる可能性が高まる。その結果日本は、核恫喝や他国への核抑止依存から脱却し、自主独立の国家として再生することも可能になるであろう。

レーザー兵器の発達は、日本のような周囲環海の島嶼国に二重の意味で有利に作用する。まず、防御ゾーンとして広大な海域を利用でき、直接国土に達するかなり前方からミサイル等を迎撃できる。そのため、奇襲を受ける恐れが減少し、国土戦の不利が緩和される。

また、海の障壁により、特殊部隊やテロリストによる核などの持込に対し、水際で防ぐことが、地続きの国境を持つ国よりも容易である。ただし、そのためには国境管理、離島も含めた周辺海域、領域に対する警備能力を高めなければならない。

これらの利点を生かすには、広大なEEZを資源開発拠点、防災拠点、観光、環境保護など多目的に活用しつつ、防衛警備にも使用するため、洋上メガフロート・ネットワーク・システムを国家プロジェクトとして推進する必要がある。

レーザーによる防衛システムとともに、国土を覆う警戒監視システムとして、成層圏から宇宙空間に至る、無人機と静止衛星システムを、レーザー通信網でネットワーク化し、危機時には目標物を発見阻止できる、日本列島全体を立体的に覆う、早期警戒監視システムを展開することも必要である。

このような情報・警戒監視・偵察(ISR)システムとレーザー防衛システムが連動することによって、初めて効果的な国土防衛が可能になる。また、ISRシステムとして、海上の脅威、海中からの浸透に備えるため無人と有人の潜水艦システムの展開、及び宇宙空間での警戒監視システムの展開も必要である。

これらのシステムへのエネルギー供給システムも必要になる。そのため、宇宙空間で太陽光発電を効率的に行い、その電力エネルギーを高出力レーザー、マイクロウェーブなどで送り、無人機、洋上警戒監視システムなどを駆動させるなどのシステムの開発も必要である。

これらのシステムの中枢となる有人の指揮・司令センターを、地下、海中など秘匿性と残存性に優れた場所に設けなければならない。その際には、ISRあるいはレーザー兵器システムとの指揮統制・通信・コンピューターネットワークとの連接をどう確保するかも、重大な課題になる。特に、指揮・司令センターの移動間の安全と通信を確保することが不可欠である。

以上のようなシステムを支える科学技術水準全般について、日本の水準を高度に保つことができれば、安全保障における科学技術面での優位性が確保でき、周辺国の脅威をより効果的に抑止することができる。

そのための人的資源と関連する教育、情報のインフラに、日本は比較的恵まれている。その利点を生かして、科学技術力の優位により抑止力を維持できる道を探らねばならない。

そのためには、以上のようなブレークスルーを可能にする、高出力レーザーの研究開発に国家プロジェクトとして取り組まねばならない。また、海外の技術情報を組織的に収集分析し、技術的な奇襲を受けないよう、国家レベルの技術情報の収集分析機関を設置すべきであろう。

今後技術革新はますます加速すると見られる。高出力レーザー以外にも、ナノテクノロジー、遺伝子工学、コンピューターサイエンス、ロボット技術など、将来の軍事技術と安全保障戦略に革命的変革を与える可能性のある革新的技術分野は多い。

これらの分野について、国家安全保障の観点から科学技術戦略を立て、組織的な情報分析、研究開発、運用研究に国として組織的計画的に取り組まなければ、時代の変革に対応した実効性のある安全保障の戦略も政策も編み出すことはできない。

ただし、このような革新的技術が開発されたとしても、通常それが実戦配備され戦力になるには、最低でも10年程度を要する。そのため、日本の核抑止戦力を、高出力レーザーなどのまだ実用化されていない最先端技術のみに依存するのは危険である。

特に、日本をめぐる地域的な核戦力バランスが中国優位に傾きつつある今日、当面の核抑止力維持のための実効性ある方法については、現在の弾道ミサイル防衛システムには限界があることを踏まえ、自らも最小限核抑止力を保有するなど、具体的な方策を検討すべきであろう。


<了>







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「世界の軍事バランスを劇的に変える新技術 超短波レーザー・パルスの成功①」

2014-11-20 09:14:52 | 日本

「世界の軍事バランスを劇的に変える新技術 超短波レーザー・パルスの成功」について、以下、2回にわたり記す。




SFの世界では以前から、レーザー光線が、刀になったり敵の宇宙船を撃破したりと大活躍をしている。しかしこれまでは、大気中の減衰のためレーザー光線によるエネルギーの遠距離伝達は極めて困難であり、まだまだ兵器としての実用化には程遠いものと考えられてきた。

しかし最新の技術情報によれば、ポーランドで遠距離到達も可能な極めて高出力のレーザー衝撃波を生成することを可能にする技術突破がなされた。それは将来、兵器として実戦配備されれば、空中を飛翔するミサイル、砲弾などを照射し破壊することが可能になることを意味している。

その結果戦争様相は一変し、また第2次大戦中から実用化され核兵器の運搬手段として阻止困難とみられてきた、弾道ミサイルの撃墜すら可能になるであろう。そうなれば、これまでの核大国の抑止力は意味を失い、国際秩序もまた大きく変化することになる。


◎これまでの高出力レーザー技術の水準

高出力レーザーのうち1キロワット水準のものはすでに、通信、溶接など様々の産業用の用途に幅広く使用されている。現在高出力レーザーとして、軍用で開発されているものは、1キロワット以上から100キロワット程度を目標としている。

高出力を得るための技術としては、通信用に使用されているファイバーを利用した「ファイバーレーザー」の技術がある。

さらにファイバーを束ねて、プリズムと逆の原理で様々の波長を組み合わせることにより大出力を得ようとする「スペクトラル収束」という技術も開発されている。ファイバーを多数束ねて高出力を得る場合、目標や用途に応じて出力を調整することも可能になる。

また、酸化亜鉛などの材料を使い半導体のp型とn型の間に、LEDとレーザー光により「p-n結合(junction)」を生じさせ、高エネルギーを得る「半導体レーザー」がある。この半導体レーザーにより、100キロワットの出力も達成されている。

一方、レーザー照射した目標からの反射光を分析し、目標物の化学組成を解明する技術も開発されている。

軍事用の高出力レーザーの開発は、米軍と米軍需産業を中心に行なわれており、半導体レーザーは高熱を発し大型のため、主に艦艇用に使用されている。

米海軍では、艦艇用のレーザーにより、小型舟艇の能力を喪失させあるいは無人偵察機を撃墜することに成功している。この型のレーザー兵器を搭載した艦艇の試験的な配備を2014年夏頃から開始することになっている。

米海軍では、高速艇や小型航空機を撃墜する能力を持つ15~50キロワット程度の出力の艦載型レーザー兵器の実戦配備が2017年から2022年の間に予定されている。近い将来、100キロワット級を駆逐艦に搭載し、さらに対艦巡航ミサイル、有人戦闘機も撃墜できる300キロワット級に増強することも計画されている。

小型低出力のものは車両などに搭載することもできる。米海兵隊では、無人機を発見追尾することを狙いとして、2014年に10キロワット級、2016年までに30キロワット級の車載型レーザーの試験を行なう予定になっている。米陸軍はさらに強力なレーザーをトラックに搭載する計画を進めている。

経済的な意味合いも大きい。欧米各国は国防費の削減圧力に直面しているが、高出力レーザーを目標破壊に使用した場合のコストを見積もると、発射のたびに1ドル程度のコストとなるが、再装填する必要がなく、これまでの砲弾その他のあらゆる手段よりもはるかに安価になる。

その結果、今後軍需目的の高出力レーザー市場は急成長し、米国では2020年頃には90億ドルの規模に達すると予想されている。また技術的にも数年以内にブレークスルーがなされ、研究レベルから実戦配備段階に進むものと予想されていた。

しかしながら、これまで数十年にわたり研究開発が続けられながら、高出力レーザーの実用化が進まなかった最大の原因は、大気中でレーザー光が散乱し伝達されるエネルギーが減衰することにあった。
米軍では2007年から、ボーイング747型の大型輸送機にレーザーを載せて空中発射型のレーザー(Airborne Laser: ABL)の開発を進め、2010年にはミサイルの撃墜試験にも成功した。

しかし技術的には、大気中でのレーザー光の拡散によるエネルギーの減衰と、そのときの大気や気象の状態によりレーザーが曲げられるという問題があった。

この対策として、ABLでは、まず照準補正用のレーザーを発射してから、高エネルギーのレーザーを照射するという2段階方式がとられた。しかしそれでも航空機に搭載できる規模のレーザーの威力は最大数十キロしか届かなかった。

運用面でも、発射直後の弾道ミサイルを撃墜しようとした場合、目標の近くにABLの大型機を、敵ミサイルが発射されるまで長時間滞空させておく必要があり、危険すぎるという問題が指摘された。

結局、予算不足が直接の原因となり2011年12月にABL開発計画は中止された。その後の空中発射レーザーの開発は、航空機後方から接近するミサイルに対する防御システムやビジネスクラスの小型機に搭載できる小型タレット(回転発射台)の開発を重点として進められている。

また米国では、高出力レーザーにより核融合を起こす実験も行なわれているが、レーザーの出力と温度を3倍から10倍に高める必要があり、いまだに成功の目処は立っていない。


◎今回なされたブレークスルーの概要

しかし、このようなレーザーの出力不足と大気中の拡散によるエネルギーの減衰、それに伴う到達距離の限界という問題点克服の可能性を拓く画期的な技術が、最近ポーランドの研究機関で開発された。その概要は、以下の通りである。

今年10月、ポーランド科学アカデミー・ワルシャワ大学物理学部の物理化学研究所(ICPPAS&FUW)のレーザー・センターが、約12×10-15秒という極めて短いレーザー・パルスの撮影に成功したことが報じられた。

撮影には、レーザーの照射周期と撮影周期を10分の1秒程度に同期させ、最小限の時間だけ遅れたレーザーの画像を逐次撮影するという手法が用いられた。

この手法により、逐次異なるレーザー・パルスが撮影されることになるが、物理的な運動原理は同じため、レーザー・パルスの運動に伴うすべての現象が撮影できるようになる。研究チームは、その手法を適用し、上記の超短波のレーザー・パルスがゆっくりと大気中を移動する様子を撮影することに成功した。

この超短波レーザー・パルスは1010(100億)キロワットという極めて高エネルギーである。そのため、衝突する大気中の原子が瞬時にイオン化され、このレーザー・パルスに沿って、プラズマのファイバーが形成される。

パルスの電磁場とプラズマ・ファイバーの間の複雑な相互関係をバランスさせることにより、レーザー光は大気中に分散しなくなり、逆に自ら収斂するようになる。その結果、レーザー光はこれまでの低出力のレーザーよりもはるかに遠くまで届くことになる。

さらに好都合なことに、異なる波長のレーザーが含まれるため、全体としてはこの種のレーザー光は白色になる。白色になることで、様々の波長のレーザー光を送れるため、伝達できる情報量も飛躍的に増大する。

この極めて高エネルギーのレーザーのエネルギーは、ポンプ・レーザーから増幅ビームに直接伝えられたが、数億回増幅されて、数センチ離れたところで伝達効率が30%に達した。この値は、同種の装置の中では抜きん出て高い。
このような技術の出現は、これまで最大の問題点とされてきたレーザー光の大気中での拡散という問題点が大幅に改善される技術への道が開かれたことを意味している。その与える衝撃は極めて大きい。


◎高出力レーザー兵器による各種ミサイルの無効化

まずこの種の高出力レーザーが実用化されれば、「ミサイル防衛システム(MD)」により飛来する弾道ミサイルの完全な空中撃破が可能になると予想される。

現在のMDは、迎撃ミサイルにより、超高速で飛来する弾道ミサイルを直撃して撃破するため、目標の未来位置を算定し、その方向にミサイルを誘導しなければならない。しかも核弾頭を確実に破壊するためには、弾頭部に直接命中させる必要がある。

しかし、目標となる弾道ミサイルの速度が速くなり、高度が高くなるほど、迎撃ミサイルには、短時間の加速性能と迎撃に必要な到達高度を保証する強力なエンジン、目標誘導のための急旋回を可能にする運動性能、最終的な命中部位確認のためのセンサー、未来位置を計算するためのミサイル搭載用高速コンピューターなどを備えなければならない。

そのためには、ミサイルをより大型化せざるを得なくなる。例えば、日米で共同開発が進められている「SM-3ブロックⅡ」シリーズでは、ミサイル全体の直径がこれまでの13インチから21インチに増大する。

しかしその結果、単価も上がり予算の制約から保有数は少なくなり、大型化するため艦艇などへの搭載数も限定されることになる。そのため、囮(おとり)を含めた多数のICBM(大陸間弾道弾)の撃墜能力には、限界が生じてくる。

このことは、2010年に米国防総省から出された『弾道ミサイル防衛見直し報告』でも、MDには米国のミサイル防衛はロシアや中国の大規模なミサイル攻撃に対処する能力はなく、イランや北朝鮮などの「局地的な脅威」に対処するためのものであり、戦略的安定性には影響を与えないことを強調していることからも伺われる。

高出力レーザー兵器により、大気圏内に突入した弾道ミサイルの核弾頭を数百キロの距離から照射し、そのエネルギーで破壊できるようになれば、最も速い秒速7キロ程度の大陸間弾道ミサイルの弾頭でもほぼ確実に着弾、起爆以前に破壊することが可能になる。

また、地表面から30メートル以下を亜音速で飛翔する巡航ミサイルについても、上空からの監視により発見されレーザー照射を受ければ、確実に破壊されることになる。

このことは、弾道ミサイルも巡航ミサイルも、核をはじめ各種の弾頭の運搬手段として無力化されることを意味している。航空機の撃墜も同様に極めて容易になり、防空戦闘は防御側が圧倒的に有利になる。












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「中国の天地創造神話 盤古」

2014-11-19 07:27:58 | 日本

「中国の天地創造神話 盤古ばんこ)」について学ぶ。


中国の神話によると、天地が分かれる前、世界はモヤのような混沌とした状態で、“太上妙始経”によれば、仮にそれを道(タオ)と呼び、万物の根源であるとされる。

混沌の中から、やがて盤古が生まれ、その中で1万8000年の間眠っていた。
目を覚ました盤古が手足を伸ばしたので、重いものは下に、軽いものは上に昇って天地ができた。
盤古は日に9度も姿を変えながら、毎日天地と共に1丈ずつ成長を続けた。
そして1万8000年の時が過ぎ、天地がもはや広がらなくなり、背丈が9万里という大巨人となった盤古はついに死に、その身体は万物の元となった。

その身体は万物の元となり、息は風や雲、声は雷、左の目は太陽、当時右の目は月、手足と身体は山、血は河川、筋は地脈、肉は土(田畑)、髪の毛や髭は星、体毛は草や木、歯や骨は金属や石、骨髄は珠玉、汗は雨、集っていた虱は人間になったという。そして、盤古は自分の魂を一人の隠者に宿した。隠者の中で12年間過ごした盤古は、元始天尊としてこの世に誕生した。(盤古の魂は、雷公になったとも伝えられる)

盤古の子である玉帝(ギョクテイ)は天を、黄帝(コウテイ)は地を支配する。

盤古が喜べば晴れとなり、盤古が怒れば曇りになるという。
盤古の頭部と四肢の五体が、道教の聖山である五岳になったという説もある。


◎簠簋内伝での記述

簠簋内伝曰く、天は初めにはその形が無く地もまたその姿かたちを持ってはいなかった。その様子は鶏卵のように丸くひとかたまりであった(宇宙卵生説)。この天地の様態のことを「最初の伽羅卵」という。この時、計り知れない大きさの蒼々たる天が開き、広々とした地が闢いた(天地開闢)。そして、これら天地に生まれた万物を博載することの限りなさは想像すらできない。 盤牛王はその世界の原初の人であった。その身の丈は十六万八千由膳那であり、その円い顔を天となし、方形の足を地となした。そりたつ胸を猛火とし、蕩蕩たる腹を四海となした。頭は阿伽尼沱天に達し、足は金輪際の底獄に、左手は東弗婆提国に、右手は西懼荼尼国にまで届いた。顔は南閻浮提国を覆い、尻は北鬱単国を支えた。この世の万物で盤牛王から生じなかったものは一切ない。彼の左目は太陽となり、右目は月となった。その瞼を開けると世界は染明け、閉じると黄昏となった。彼が息を吐くと世界は暑くなり、吸うと寒くなった。吹き出す息は風雲となり、吐き出す声は雷霆となった。 彼が天に坐すときは「大梵天王」といい、地に坐すときは「堅牢地神」と呼ぶ。さらに迹不生であるをもって「盤牛王」、本不生であるをもって「大日如来」と称するという。 彼の本体は龍であり、彼はその龍形を広大無辺の地に潜ませている。四時の風に吹かれ、その龍形は千差万別に変化する。左に現れると青龍の川となって流れ、右に現れると白虎の園を広しめ、前に現れると満々たる水を朱雀の池に湛え、後ろに現れると玄武の山々を築いてそびえ立つという(四神相応)。 また、彼は東西南北と中央に宮を構え、八方に八つの閣を開いた。そして五宮の采女を等しく愛し、五帝竜王の子をもうけたとされる。


◎神話の中での役

盤古は天地開闢により誕生したとされるが、各盤古神話ではその天地開闢がいかにして行われたについては明確な記載がない。日本神話では伊邪那岐とイザナミによる国創りの後に各神々が生まれているが、盤古神話では彼が特に国造りをしたという記述はない。ただし、盤古の左目が太陽に、右目が月に、吐息や声が風雨や雷霆になったという要素が「古事記」や「日本書紀」において、伊邪那岐が左目を洗った時に天照大神(太陽)が、右目を洗った時にツクヨミ(月)が、鼻を洗った時に須佐之男命(雷)が生まれたと語られていることとの共通性を指摘し、これを盤古のような世界巨人型神話の痕跡と見る向きもある。ただし、5人の妻たちに五代竜王を産ませた後の彼の去就については特に述べられていない。


◎五竜帝王とその子ら

・盤古の第一の妻を伊采女といい、彼女との子供が青帝青竜王である。盤古は彼に一年の内、72日間を春として支配させた。さらに青帝青竜王に金貴女を娶らせ、10人の子を産ませた。これが十干である。

・盤古の第二の妻を陽専女といい、彼女との子供が赤帝赤龍王である。盤古は彼に一年の内、72日間を夏として支配させた。さらに赤帝赤龍王に愛昇炎女を娶らせ、12人の子を産ませた。これが十二支である。

・盤古の第三の妻を陽専女福采女といい、彼女との子供が白帝白龍王である。盤古は彼に一年の内、72日間を秋として支配させた。さらに白帝白龍王に色姓女を娶らせ、12人の子を産ませた。これが十二直である。

・盤古の第四の妻を癸采女といい、彼女との子供が黒帝黒龍王である。盤古は彼に一年の内、72日間を冬として支配させた。さらに黒帝黒龍王に上吉女を娶らせ、9人の子を産ませた。これが九相図である。

・盤古の第五の妻を金吉女といい、彼女との子供が黄帝黄龍王(他の写本では天門玉女という女神となっているものもある)である。盤古は彼(または彼女)に一年の内、72日間を土用として支配させた。さらに堅牢大神に黄帝黄龍王を娶らせ、48人の子を産ませた。これが七箇の善日以下の(ほき内伝に記載されている)歴注・節日である。もともと、黄帝黄龍王(天門玉女)と48王子は難産の末に生まれたために、自分らが支配する季節、領地をもてなかった。そのため48王子は男子に変じたり、女子に変じたりと定まるところがなかった。そこで、48王子は自分らの支配領を求め先述の四大龍王に謀反を企てた。17日間続いたこの戦によりガンジス河は血に染まったという。そこで諸神らは協議の末、四季のなかから18日づつを48王子の父(母)である黄帝黄龍王(天門玉女)に与えることに決めたという。


◎朝鮮の開闢神話

遠い昔、天と地は互いに混じり合っていたが、やがて天と地が離れると、天からは青い露が降り、地からは黒い霧が湧き出し、その露と霧が合水して万物が生じた。巨大な天皇鶏が頭をもたげ、地皇鶏が翼を広げ、人皇鶏が尾を振って、朝を告げるような鳴き声をあげると、闇は払われ、天地開闢となった。

この神話では、鶏子(とりこ)が登場せず、三皇の名を冠した鶏が登場する。従って、南方系の卵生神話ではないが、この開闢神話は、その類似性から考えて、中国から朝鮮半島に道教が伝わってからの創作だと考えられる。
また、三皇の名を冠した鶏が登場することから、鳥をトーテムとする高句麗の影響ではないかと推察する。おそらく南北朝時代に、南朝と通交していた高句麗の朝貢使が宋から持ち帰ったのだろう。


◎日本の開闢神話

・「日本書紀」冒頭部
昔、いまだ天地わかたれず、陰陽わかれざるとき、渾沌たること鶏子(とりこ)のごとく、その清く陽(あきらか)なるものは天となり、重く濁れるものは地となる。天が先ず成りて、後に地が定まる。然して後、神聖その中に生(あ)れます。

・「古事記」上巻序
混元(渾沌とした宇宙の元素)すでに凝固し、気象(宇宙の根源の気と作用の現象)いまだに効(あらは)れず。名もなく、為(わざ)もなし。誰かその形を知らむ。しかれども、乾坤(けんこん=天地)初めて分かれて、参神(宇宙に最初に出現した三神)造化(創造)の始めとなり、陰陽ここに開けて二霊(いざなぎ・いざなみ)群品(万物)の祖(おや)となりき。

・天地の初め
天地初めてひらけしとき、高天原(たかあまはら)に成りし神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ=陰陽がない神)と成りまして、身を隠したまいし。次に国稚(わか)く浮ける脂(あぶら)のごとくして、海月(くらげ)なす漂える時に成りし二柱の神も、みな独神と成りまして身を隠したまひし。五柱の神は別天神(ことあまつかみ)。

・伊邪那岐命と伊邪那美命
伊邪名美神(いざなみのかみ)は火の神を生みしによりて、ついに神避(さ)りましき。
(中略) 左の御目を洗いたまう時に成りし神の名は、天照大御神(太陽)。次に右の御目を洗いたまう時に成りし神の名は、月読命(月)。次に御鼻(みはな)を洗いたまう時に成りし神の名は、建速須佐之男命(海)。







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「『二桃三子を殺す』のうたの謂れ」

2014-11-18 07:45:06 | 日本

「二桃三子を殺す(にとうさんしをころす)」とは、計をめぐらして人を自滅させること。斉の三勇士、公孫接・田開彊・古冶子が横暴なので国を危うくすると考えた晏子が,景公に進言して三人に二個の桃を贈り、互いに争わせて自殺に追い込んだという故事に基づく。

晏嬰〈?~BC500年〉は斉の霊公・荘公・景公3代に仕えた名宰相とされ、『史記』管晏列伝では司馬遷をして「もし晏子が健在ならば、私は馬丁となって仕えてもよい、それほど慕わしく思う」と言わしめた人物である。

晏嬰は、社稷(しゃしょく)(国家)を最も貴び、民に恩恵を施した。彼は身長140センチに満たない小人であったが、立派に斉の宰相を務め、管仲(かんちゅう)と並んで「管晏(かんあん)」と並称されるほどの人物であった。何といっても彼の真骨頂はその一貫した精神であった。「社稷を主とす」これは国家を第一に考え、それに尽くそうという意味で、臣下ならば行なって当然のことである。しかしこの時代、臣下の誰もが、ましてや君主までもが国家をおきざりにして自分の利益ばかりを考えていた。

蜀史に拠れば、この歌の晏嬰評価は、司馬遷のそれとは大きく異なる。
三国志で有名な諸葛亮公明は、この歌が好きでよく口ずさんでいたという。「晏嬰って奴はずる賢くてこんなことで人を殺す陰険な野郎!」という話なのか、「桃だけで三勇士を排除した晏嬰って頭いい、すごい宰相!」という解釈なのかは不明であるが、諸葛亮はこの詩のどこが気に入っていたのだろう。曹操に故郷を蹂躙され兄と別れ、こんな歌を歌いながら畑を耕しつつ過していた亮はある日、劉備に拾われるのである。



◎物語の中身

公孫接・田開彊・古冶子らは景公に仕えた。勇力があり、虎を手で討ち取ることで有名であった。晏子が彼らの前を小走りで通り過ぎても、彼らは立ち上がらなかった。

晏子は公に見えて「臣はこう聞いています。明君が勇力の士を仕えさせるときには、上には君臣の義があり、下には年順のすじちみがある。内においては暴を禁じ、外においては敵を威圧する。上はその功を有し、下はその勇に服すと。ゆえにその位を尊くして、その禄を重くしているのです。

いま君は勇力の士を仕えさせ、上は君臣の義なく、下は年順のすじみちがありません。内に暴を禁じず、外には敵を威圧していません。これは国を危うくするやからです。これを去らせるべきです」と言った。

公は「三人を手で捕らえようとしてもできず、これを刺し殺そうとしてもおそらく当たらないだろう」と言った。
晏子は「彼らはみな力で攻め、それによって敵に当たるもので、年順の礼はありません。公に請います。人をやって彼らに二つの桃を送らせてください。そして『三人それぞれ自分のてがらを計った上で、二個の桃を食べよ』と言わさせてください」と言った。

公孫接は天を仰いで嘆じて「晏子は智者である。公に我らのてがらを比べさせたのだ。桃を受けなければ、勇のないことになる。今、三人いるが桃は二つである。どうして功を計って桃を食わないことがあろうか。

接は雄の鹿を討ち、また子持ちの虎を討った。接の功は桃を食べられるほどで、人にはできないことだ」と言い、桃をとって立ち上がった。

田開彊は「わしは兵を率いて軍を退けること二回であった。開彊の功は桃を食べられるほどで、人にはできないことだ」と言い、桃をとって立ち上がった。

古冶子は「わしはかつて君に従って黄河を渡った。大すっぽんが馬車のそえ馬を加えて中流の砥柱山にもぐっていったとき、冶子は泳ぐことができないので水底を行き、流れに逆らうこと100歩、 流れに従うこと9里にして大すっぽんを殺した。

左手にそえ馬を操り、右手に大すっぽんの頭をひっさげて踊り出た。渡しもりたちは皆河伯であると言い、これを見たら大すっぽんの首であった。

冶の功はまた桃を食べられるほどで、人にはできないことだ。桃を返されよ」と言い、剣を抜いて立ち上がった。

公孫接と田開彊は「わしの勇はあなたに勝らず、功はあなたに及ばない。桃を取って譲らないのは貪ることになる。ここで死なないのは勇がないことになる」と言い、ふたりは桃を返して、首を切って死んだ。
古冶子は「ふたりがここで死んで、冶がひとり生きるのは不仁である。人に恥をかかせるのに言葉をもってして、自分だけが勇士の名声を誇るの不義である。

然りと雖もふたりの功績は同等であるから、一個の桃を分けて食べたらよく、自分が一個の桃を食べればよかったのだ」と言い、またその桃を返して、頭を打ち付けて死んだ。
使者は復命して「彼らはすでに死にました」と言った。

公は死者に衣をかぶせて、これを葬るのに士礼をもってした。



◎「二桃三子を殺す」の内容


『梁甫吟』~二桃殺三士~

「景公勇士三人を養ふ、君臣の義なし、晏子諌む(第二十四)」

歩出齊城門  歩みて斉の城門を出ずれば
遥望蕩陰里  遥かに蕩陰(とういん)の里を望む
里中有三墳  里中に三墳有り
累累正相似  累累として正に相い似たり
問是誰家塚  問う是れ誰が家の墓ぞ
田彊古冶氏  田彊(でんきょう) 古冶子(こやし)なり
力能排南山  力は能く南山を排し
文能絶地紀  文は能く地紀を絶つ
一朝被讒言  一朝 讒言を被れば
二桃殺三士  二桃もて三士を殺す
誰能爲此謀  誰か能く此の謀を為す
國相齊晏子  国相 斉の晏子なり


〈訳〉
斉の都の門を出ると
はるかに蕩陰の村が見える
村の中には三つの墓
土もりあがりよく似た形の
誰の墓かと問うて見れば
田開彊・古冶子たちの墓
力は山をも押し倒し
地軸をも断ち切るほどの男たち
ある日たちまち讒言により
二つの桃が三人の男を殺した
そんな悪だくみをした奴は誰
総理大臣 斉の晏嬰










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「和名類聚抄とは、」

2014-11-17 07:14:00 | 日本

和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。
承平年間(931年~938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。

中国の分類辞典『爾雅』の影響を受けている。名詞をまず漢語で類聚し、意味により分類して項目立て、万葉仮名で日本語に対応する名詞の読み(和名・倭名)をつけた上で、漢籍(字書・韻書・博物書)を出典として多数引用しながら説明を加える体裁を取る。今日の国語辞典の他、漢和辞典や百科事典の要素を多分に含んでいるのが特徴。

当時から漢語の和訓を知るために重宝され、江戸時代の国学発生以降、平安時代以前の語彙・語音を知る資料として、また社会・風俗・制度などを知る史料として国文学・日本語学・日本史の世界で重要視されている書物である。

和名類聚抄は「倭名類聚鈔」「倭名類聚抄」とも書かれ、その表記は写本によって一定していない。一般的に「和名抄」「倭名鈔」「倭名抄」と略称される。

巻数は十巻または二十巻で、その内容に大きく異同があるため「十巻本」「二十巻本」として区別され、それぞれの系統の写本が存在する。

狩谷棭斎は、十巻本を底本としている。また、国語学者の亀田次郎は、二十巻本は後人が増補したものとしている。

なお二十巻本は古代律令制における行政区画である国・郡・郷の名称を網羅しており、この点でも基本史料となっている。

[例] 大和国葛下郡神戸郷・山直郷・高額郷・加美郷・蓼田郷・品治(保無智)郷・當麻(多以末)郷

但し、郷名に関しては誤記がないわけではなく、後世の研究によって誤記が判明した事例もある。例として、武蔵国児玉郡の黄田郷が実は草田郷の誤字だったなど。


◎構成
本書の構成は大分類である「部」と小分類の「門」より成っており、その構成は十巻本・二十巻本によってそれぞれ異なる。


◎十巻本

24部128門より成り、各部は次の順に配列されている。

天地部=天文・気象・神霊・水・土石
人倫部=人間・家族
形體部=体の各部
疾病部=病気
術藝部=武芸・武具
居處部=住居・道路
舟車部=船・車
珍寳部=金銀・玉石
布帛部=布
装束部=衣類
飮食部=食物
器皿部=器・皿
燈火部=燈火
調度部=日用品
族部=鳥
毛群部=獣一般
牛馬部=牛・馬
龍魚部=竜族、および魚類(ワニ、イルカなど含む)
龜貝部=亀類・海棲動物
蟲豸部=虫類
稻穀部=稲・穀物
菜蔬部=野菜
果蓏部=果物
草木部=草木


◎二十巻本

十巻本に比べ、部の分割・統合・付加、名称や配列の異同があり、32部249門より成っている。

天部=天文・気象
地部=土石
水部=水
歳時部=暦
鬼部=神霊
人倫部=人間
親戚部=家族
形體部=身体の各部
術藝部=武芸・武具
音樂部=音楽・楽器
軄官部=官庁・官職名
國郡部=国名・郡名・郷名
居處部=住居・道路
舩部=船
車部=車
牛馬部=牛・馬
寳貨部=金銀・玉石
香藥部=香
燈火部=燈火
布帛部=布
装束部=衣類
調度部=日用品
器皿部=器・皿
飮食部=食物
稻穀部=稲・穀類
果蓏部=果物
菜蔬部=野菜
族部=鳥類
毛群部=獣一般
鱗介部=爬虫類・両生類・魚類・海棲動物
蟲豸部=虫
草木部=草木
※「果蓏部」の「蓏」はくさかんむりに「瓜」2つ


◎諸本
本書には完本・零本(端本)も含めて、数多くの写本が存在する。
また江戸時代には版本の形でも刊行されているが、十巻本は当時写本の形で流布したためほとんど梓に上らず、二十巻本が重点的に刊行された。







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「ベーシックインカムって?」

2014-11-16 08:23:20 | 日本

年金の未来が疑われる今日このごろ、年金や生活保護にかわる社会保障制度として「ベーシックインカム」という言葉がたびたび話題になっている。ベーシックは「基本的な」とか「一定の」という意味。インカムは「収入」という意味である。つまり、だれでも一定の収入が得られる社会の仕組みのことである。

これだけではイメージしにくい。いろいろな議論があり、いろいろな条件が設定できるので、これと決まった素案があるわけではない。

例えば、赤ちゃんやお年寄り、大金を稼いでいるお金持ち、それから働いているサラリーマンや働いていないニートや主婦、学生にも、誰にでも国民一人ひとりに国が数万円を毎月支給する(成人に限るべきという意見もあり)。その代わり、年金や生活保護といった制度を廃止にする。医療保険も廃止するべきだという意見もある。財源はもちろん、働いた人が収める税金である。ほかには、相続税を100%にするという財源も議論されている。

この制度では、すべての人に毎月死ぬまで決まった数万円程度のお金(ベーシックインカム)が入ってくる。間違っても何十万円というお金ではない。だいたい4万円から10万円までの間で議論されることが多い。

数万円のお金なら、食べ物を買うお金がない人は飢えずに済み、もっとお金が欲しい人は働く。そうすることで貧困問題はある程度解決できて、労働意欲も失われないというメリットがあるとされている。

現在の社会制度は、子どもがいる家庭には何万円、年金を受け取るのは何歳以上、働けない人には生活保護で何万円などと様々な社会保障のパターンを組み合わせているから、ベーシックインカムは、かなり割り切った考え方である。実際、ここまで割り切ったほうが、「誰にいくら支払うかを管理する国や市町村の人手やムダが大きく省ける」と推進派は考えている。

パートや派遣社員が増えている。正社員もいつクビになるか分からない。そんな不安定な社会で、いつ仕事を失っても、生きていくだけの基本的な収入だけは保障される。そういう世界が描かれている。

議論の反対派からは、「財源が足りないのではないか?」「労働意欲がなくなり、働かなくなるのではないか?」「医療保険などがなくなると、かえって福祉が後退するのでは?」といった疑問の声があがっている。



◎導入めぐる世界の動き

・ブラジルは世界で唯一、ベーシックインカムを法制化している。2003年以来政権の座にある労働者党は、軍事独裁政権下で自由を求めて闘っていた人たちが中心になって結成された党で、政権についてすぐ「市民ベーシックインカム法」を制定した。ただしこれはベーシックインカムの段階的導入をうたった法律で、必要な税制改革がなされたのちに給付にいたるとされている。現段階ではボウサ・ファミリアという、所得制限付きの児童手当がその第一段階として導入されているだけである。

・導入の是非を国民投票にかけるスイスは、人口800万人ほどの比較的豊かな国である。そのスイスで一昨年から昨年にかけて、ベーシックインカムの導入を憲法の条文に書き込むよう求める署名活動が行われた。スイスでは、ある条項を憲法に盛り込むか否かをめぐって、一定期間内に約10万人の署名を集めることができれば、国民投票にかけることができる。そして昨年秋に約12万人の署名が集まり、スイス連邦議会に提出された。数年のうちにベーシックインカムが憲法に書き込まれるかどうかが国民投票にかけられる。












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