龍の声

龍の声は、天の声

「ICT(情報通信技術)とは、」

2018-08-31 05:30:03 | 日本

ICT(情報通信技術)とは、PCだけでなくスマートフォンやスマートスピーカーなど、さまざまな形状のコンピュータを使った情報処理や通信技術の総称です。
よく知られる言葉に「IT(情報技術)」がありますが、ICTはITにコミュニケーションの要素を含めたものです。
実際の意味はほぼ同じですが、国際的にはITよりもICTのほうが普及しています。
今回は、ICTの基礎知識やITとの使い分け、活用例などについてご紹介します。


 ◎ICTとは?

ICTは「Information and Communication Technology(情報通信技術)」の略で、通信技術を活用したコミュニケーションを指します。情報処理だけではなく、インターネットのような通信技術を利用した産業やサービスなどの総称です。
ICTは、ITに「Communication(通信、伝達)」という言葉が入っており、ITよりも通信によるコミュニケーションの重要性を強調しています。単なる情報処理にとどまらず、ネットワーク通信を利用した情報や知識の共有を重要視しています。スマートフォンやIoTが普及し、さまざまなものがネットワークにつながって手軽に情報の伝達、共有が行える環境ならではの概念です。
 
ITとの違いと使い分け
これまではICTよりもITが主に使われてきました。では、ICTとITはどのように使い分けているのでしょうか。
 
●ITとは?
ITは「Information Technology(情報技術)」という意味で、PCのハードウェアやアプリケーション、OA機器、インターネットなどの通信技術、インフラといった、さまざまなものを含みます。コンピュータやデータ通信に関する「情報技術」を指し、2000年にIT基本法が制定された頃から日本でも広まりました。
 
●ICTとITの使い分け方
ICTとITは、ほぼ同じ意味の言葉ですが、具体的には使い分けされており、何を重視するかがポイントです。ITは、ハードウェアやソフトウェア、インフラなどコンピュータ関連の技術そのものを指す用語です。一方、ICTは情報を伝達することを重視し、医療や教育などにおける技術の活用方法、またはその方法論といったものを指します。
また、省庁によってもICTとITのどちらを使用するかが異なります。経済産業省では通信技術そのものを扱うことが多いので「IT」を用いており、総務省では情報通信産業を扱うことが多いので「ICT」を使っています。
 
●国際的にはICTのほうが定着している
日本政府は、2000年に「e-Japan」構想を打ち出し、「高度情報通信ネットワーク社会形成基本法」(通称「IT基本法」)を成立させました。当時は、ITという用語を使っていましたが、2004年に「e-Japan」構想を「u-Japan」構想に改正した頃から、ICTという用語を使っています。
なお、国際的にはICTという言葉が広まっており、日本で言うITの意味合いも含めてICTと呼ばれています。そのため日本でもITに代わってICTが広まりつつあります。
 

◎ICTの活用例
ICTはすでに身近な生活の中で活用されており、ニュースやCMでも取り上げられています。ここでは、ICTが活用されている事例をご紹介します。
 
●機器の導入だけではICTとは言えない
PCやタブレットなどの情報端末を設置し、無線LANのような接続環境を整備しただけでは、ICTを実現したとは言えません。導入するだけでなく、情報や技術をどのように活用するかが重要です。
 
●ICTの活用事例
<教育>
教育現場では、PCやタブレットなどの教材が活用されています。教員がPCやタブレットを操作して授業をより楽しく、わかりやすくするだけでなく、生徒情報の管理にもIT技術が使われています。授業で使う資料作成の簡易化も可能です。
将来的には、遠隔地や海外の学校と通信を使って交流したり、クラウドを利用して学校に来られない生徒が家で学習したりする仕組みも考えられています。
 
<高齢者見守りシステム>
介護業界では深刻な人手不足が続いていて、独り暮らしの高齢者の増加は大きな社会問題になっています。そこで、ICTを活用することで、インターネットを通じて離れた場所にいる高齢者の状況を確認できるサービスが普及しつつあります。IoT技術によって部屋や水道、家電製品などにセンサーを設置し、高齢者の安否を離れた場所にいる親族に伝えることができます。取得した情報は、ホームヘルパーやケアマネージャー、看護士、医師など、関係者の間で共有し、健康管理に役立てています。
今後は高齢者の中にもPCやタブレットなどを使いこなせる層が増えてくるので、買い物の支援や行政サービスの申し込み、遠隔健康相談システムなど、利用の幅は広がると予想されています。
 

◎政府が進めるICT
ICTはITに替わる言葉として、行政機関や公共事業などで用いられるようになってきています。国際的にはITよりもICTが普及していることから、日本でも世界基準に合わせるためです。総務省で発行している「IT政策大綱」も、2004年から名称を「ICT政策大綱」に変更しています。
政府や行政機関でも、公共事業や地域活性化など各分野でICTを活用するためのさまざまな計画が立てられています。ここでは、総務省の取り組みをご紹介します。
 
●IoT・データ活用
IoTは「Internet of Things」の略で、「モノのインターネット」という意味です。IoTにより、あらゆるモノがインターネットにつながり、データを送受信して情報を受け取ったり、遠隔地から機器を操作したり、いろいろなサービスを受けたりすることができます。インターネットにつながっているデバイスもIoTと呼びます。
例えば、外にいてもスマートウォッチでインターネットからの情報を受け取ったり、スマートスピーカーなど自宅にあるIoT家電で子供の帰宅やペットの様子を確認したり、自宅の家電を操作したりできます。
IoTの活用により、インターネット上にはIoTからの膨大なデータ(ビッグデータ)が集まります。総務省ではIoTをいろいろな分野に導入し、一定のルールのもとにデータを収集してビッグデータとして活用することを目標としています。また、それによってオフィスでの生産性や家庭生活での利便性が向上すること、これまでにない革新的なIoT機器やサービスを開発することも目指しています。
 
●地域活性化
総務省では、「一億総活躍社会」や「地方創生」を実現する手段のひとつとして「ふるさとテレワーク」を推進しています。テレワークとはオフィスではない場所、とくに遠隔地で勤務することで、柔軟な働き方を可能にするうえで効果的です。テレワークにより都市部以外の地方でも仕事をできるようにすることで、地方の人口を増やす取り組みでもあります。
ICTを活用して、地域でも都市部と同じように仕事をできるようにしたり、地方ならではの情報を発信したり、都市部に劣らない医療・介護・教育・子育て支援などのサービスを提供したりすることが期待されています。
 
●サイバーセキュリティ
ICTによって、さまざまなデバイスが常にインターネットに繋がることになります。そのため、安心・安全なネットワーク環境の実現が必要です。なかでも、インターネットバンキングやリモートワークなどでは、高いセキュリティを要求されます。インターネットを使いやすくするためにネットワークを強化するだけでなく、機密情報の保護やサイバー攻撃対策も重要になるでしょう。
 
●医療・健康・介護
超高齢社会への突入による社会保障費の増大や介護・医療現場の人手不足も、ICTを活用した対処が期待されています。ICTによって業務を効率化して人手不足を解消したり、医療の安全性を向上させたりして、高齢者が暮らしやすく健康に暮らせる社会の実現を目指しています。
 
●教育・人材
教育現場でもICTの活用が求められています。クラウドなどを活用し、地方でも都市部に劣らない教育が受けられるようなICTシステムの環境構築が進められています。入院や不登校などの事情で学校に来られない子供も在宅で教育を受けることができるようになります。
 
●防災(G空間、Lアラート、Wi-Fi)
地震などの天災から国民を守るために、Lアラート(災害情報共有システム)を活用した災害情報伝達手段の普及拡大も求められています。G空間情報(地理空間情報)を活用することで、ピンポイントで詳細な防災情報を発信できます。防災拠点など人の集まる場所での無料Wi-Fi環境の整備も進んでおり、被災者が情報を受け取りやすくしたり、素早く安否確認できるようにしたりしています。
 

◎ICTとIoTでさらにネットワークを活用する社会に

インターネットが普及したと言っても、これまではWebサイトを見たり、メールやメッセージサービスを使ったりするだけのライトユーザーが多数でした。
しかし、ICTの活用が広まるにつれて、そうした状況は変わりつつあります。
これまでのように情報を受け取るだけでなく、誰もが情報を発信し、積極的にインターネットを活用していくことになるでしょう。
そのためにはユーザーの側もICTやインターネット、セキュリティについてもある程度の知識を持つことが求められています。
 










「ロシアの宇宙精神」

2018-08-30 05:57:18 | 日本

ロシアの宇宙精神、奇書『ノースフェーラ』について学ぶ。



宇宙精神は、人間は善人となり、宇宙全体を善化する使命を帯びている。


ロシア人の精神はつくづく西洋とは異質なものと感じる。その代表はヴェルナツキイ(1863年-1944年)という地球化学の創始者の特異な思想だ。この人はソ連の代表的科学者であった。

「ロシアの宇宙精神」 
人間は進化して不死になって死者を復活させる本
作者: スヴェトラーナセミョーノヴァ,ガーチェヴァ,西中村浩
出版社/メーカー: せりか書房
 
人類は、共同で認識し、働くことによって、自分の内と外にある自然の盲目的な力を支配しなければならず、宇宙へ飛び出して、宇宙を積極的にわがものとし、変容させなければならない。
そして、かつて生きていた世代の人々すべてとともに、新しい存在の状態、すなわち不死の宇宙的状態を獲得しなければならない。
 
人間はまだまだ進化する。
人類の理性と倫理観によって発展の方向を決めていく能動進化。
宇宙に進出し自然の力を統御する。
死を克服し不死となる。
そして、死んだ人々を復活させる。
これらをすべての人と共同で認識し、経験し、働くよう呼びかけることによって、非現実的としか思えないことが現実となる。
これがロシアの宇宙精神という本にかかれている主張である。
 
この壮大としかいいようのない思想を実現するためには、まず人間は肉体組織を思い通りに創造しなければならないし、男女といった性別は超越しなきゃいけないし、植物のようにエネルギーを自前で賄えるようにならなければならないし、道徳を高めていかなければならないし、宇宙へどんどん進出していって宇宙をコントロールできるようにならなければならない。
そのためには科学の発展が必要であり、すべての人類が復活という偉業にすべての知性と労働を注ぎ込まなければならない。

宇宙精神の発露といってもいいその思想はコスモロジカルでミスティックでありながら、自然科学を基礎にしている。
 
その書物の名は『ノースフェーラ』
 
副題は「惑星現象としての科学的思考」なるタイトルからして、エキセントリックだ。
 書名は叡智圏を意味するのだ。
近代自然科学の発達を地質学的な力の発現と捉えている。生物圏は地質学的な層の一つである。
「人間は、われわれの惑星の一定の地質学的な層である生物圏(バイオスフィア)と分かちがたく結びついている」
 
また、他の地質学的層との生物圏の違いは「組織性」であると教授は考えておるようだ。
今や生物圏はジオイドより40キロ高層にも4キロ低いところにも浸透している。
叡智圏(ノースフェーラ)は生物圏の次段階なのだが、その実態は「科学的思考」そのものなのだ。つまり、科学=真理の集合体というわけであり、科学のみが人類を発展させ、その精神を拡大する叡智なのだとヴェルナツキイは言い切ってみせる。
科学者たちはその真理を拡大発展させるミッションをもつ神官たちであるとヴェルナツキイは思いなしているようだ。地球規模で共通の真理を構築が開始されたのが偉大な20世紀であるという。
 
インターネットあるいはICTはノースフェーラの亜種と見なせるのではないか。科学技術の頂点でありテクノロジーの粋を集めているし、地球全体を網の目のように覆っている。行き交う情報はパケットというデジタル化された信号だ。新しい産業や発想、人びとの行動を完全に支配している地層のようなものだ。

ICT(Information and Communications Technology)は有線・無線を問わず、地球の大気圏を被覆し、ひとつの「地層」となっている。
 
ICTは国や民族を越えて人びとを結びつけている。シェアエコノミーのように新たな所有、ブロックチェーンのような新た取引形態、通販や電子政府など多くの組織がICTによって再構成され、進化するのを我々は目撃しているところだ。
社会のあり方を大きく変容させているのはICTこそは、ノースフェーラの代表なのであろう。

基本的な発想は、ティヤール・ド・シャルダンの物質圏、生物圏、精神圏みたいな世界全体の発達とその頂点にいて神に向かう人類の運命みたいな話で、いまや人間は生物的な制約から解放されて純粋精神みたいなものに達し、それにより宇宙全体の宿命を成就する役割を担わされているのであり、それを実現することで生物の限界である死をも乗り越える!











「がんは熱に弱い」

2018-08-29 06:17:16 | 日本

がんにも弱点があります。それは「熱に弱い」というこです。がん細胞は、約43度の温度で死にはじめます。
がん細胞は、温度が上がっても血流がほとんど増えていないことがわかります。皮膚と筋肉部分は血管拡張により、42.5度を超えて45度付近まで血流量が増え続けますが、がんの部分は血管が拡張しないため、血流が増えません。つまり、がん細胞は「熱」を逃がす仕組みが弱いのです。
がん細胞は、温まりやすく、熱に弱い性質があるといえます。


◎熱を利用した治療法

「熱に弱い」というがんの性質を利用した治療法には、すでに長い歴史があります。
「ハイパーサミア」というは、患部を42〜44度程度に30〜60分加温する治療法です。この方法は、起源をたどると1866年にさかのぼり、医師W.ブッシュ(ドイツ)の高熱による腫瘍消失報告にあります。後、1900年ごろ、アメリカでも研究成果が確認され、有効な加温方法やがんに対する温熱効果があきらかになりました。1975年第一回国際シンポジウムがワシントンで開催され、がんの新しい治療法への第一歩を踏み出したのです。
日本でも昭和59年に日本ハイパーサミア学会が設立されています。
近代的な温熱療法は、マイクロ波やラジオ波、レーザーを用いる方法もあります。しかし、いずれもがん局所の温度制御や範囲制御が難しく、思わぬ有害事象を招く場合があります。
一方で、43度程度の温熱のみでは、その後にがんが再発したり転移したりする場合もあることがわかってきました。

◎がん細胞を約60度に加熱する

アドメテックは、愛媛大学医学部、工学部による研究・実績・協力のもとに、現状の課題やリスクを可能な限り克服した治療法をみいだしました。それが「治療部位への確実な入熱」と「精密な温度制御」および「がん細胞の確実な細胞死」を可能とする装置や方法です。
それは、極微細径の加熱針をCTやエコーでガイドしながら、がんの患部へ到達させて加熱します。全身麻酔は必要ありません。
患部が大きめの場合は、複数本の針を到達させます。次に針先端部にある極微小なヒーターで、患部を一定時間約60度に温度制御します。
さらに入熱後、がん細胞が弱ったところに樹状細胞やCTLなどの免疫細胞を入れて抗原掲示させます。このことで免疫細胞が敵であるがん細胞を覚え、全身に散ったがんを攻撃します。

<特徴>
低侵襲です(患者様への負担が小さい)
経済的でかつ効果的です
焼灼範囲や温度を厳密に制御できます
外来、または短期入院で治療可能です
繰り返しの治療が可能です









「抗癌漢方薬 天仙液とは」

2018-08-28 07:02:18 | 日本

◎統合医療の秋好憲一先生から報告


天仙液は、冬虫夏草や朝鮮人参を主力とし、甘草、クコの実、等、10数種類の貴重な薬草液である。免疫力アップ、血液浄化、等々の効果が絶大で、ガン対応に超優れている。
統合医療の帯津先生は、この業界で有名である。
値段は高いかもしれないが、これを是非飲実続けてみたら良いです。


ガンになって、悪い方向に進行するか、それともよく抑えて完治するのか、すべて患者自身の治療次第で決まる。絶対に負けない!という気持ちを持って闘っていく。前向きに楽観的な見方を持っていれば、きっと明るい未来に出会える。強い意志で病魔と闘い、家族と幸せな生活の道を導く、生きる希望に満ちた日々のために頑張ろう。家族の支えや励みはかけがいのないものです。


【1】抗ガン剤と天仙液(抗癌漢方薬)を併用すると相乗効果がよく出て効く。また副作用も軽減できる。


【2】ガンと闘っていく上で大切なこと

①自分の気持ちの在り方を見つめ、静まる心身で楽観的な態度で受け止める。
②食事に気負付ける。なるべく高脂肪の食べ物を避ける。肉類を控え、魚、野菜、果物、大豆類を多く摂り、バランスの良い飲食生活を心掛ける。体質を変える。
③ストレスを溜めない。いつも明るく笑う。十分な睡眠。
④身体のトレーニング。毎日30分ほどの身体のトレーニングを無理せずに行う。









「項羽と劉邦の壮大なるドラマ、その漢の三傑 張良・韓信・蕭何について学ぶ⑥」

2018-08-27 05:54:38 | 日本

「蕭何」


蕭何(しょう か、? - 紀元前193年)は、秦末から前漢初期にかけての政治家。劉邦の天下統一を輔けた、漢の三傑の一人。


◎楚漢戦争

劉邦と同じく沛県豊の出身で、若い頃から役人をしていた。下役人であったがその仕事ぶりは真面目で能率がよく、評価されていたという。なお曹参や夏侯嬰はこの時の部下にあたる。

単父の豪族の呂公が敵討ちを避けて沛県に移ってきた。県令は歓迎する宴を開き、接待のすべてを蕭何に任せた。参加した人があまりに多すぎたため、蕭何は持参が千銭以下の者は地面に座って貰おうと考えていたところに劉邦が来て、「一万銭」と言った。これを呂公に取り次ぐと、呂公は玄関まで出向いて迎え入れた。蕭何は「劉邦は昔から大ぼら吹きだが、成し遂げたことは少ない(だからこのことも本気にされませんよう)」と言ったが、劉邦の人相を非常に評価した呂公は構わず歓待した。 このように、このころは劉邦をあまり高く評価していなかったが、後に劉邦は「豊を立つ時、蕭何だけが多く銭を包んでくれたのだ」と語っており、目をかけてはいたようである。 実際、この後に劉邦はゴロツキにも関わらず亭長に就任するが、それには蕭何の推挙があった。また蕭何は秦の圧政下にも民衆の負担が最小限になるよう心配りをしていたため、民衆からも信望されるようになっていた。

秦末の動乱期になると、反乱軍の優勢さに秦政府から派遣されていた県令が動揺、そこに曹参等と共に「秦の役員である県令では誰も従わない。劉邦を旗頭にして反乱に参加すべき」と進言。一旦は受け入れられたものの県令は気が変わって劉邦を城市に入れなかったため、沛県城でクーデターを起こし県令を殺害、劉邦を後釜の県令に迎えた。いくら人気があるとはいえ、劉邦は所詮はゴロツキ、盗賊の頭でしかない。住民にとっても一大事である反乱参加と劉邦をその旗頭にすることが、蕭何の後押しあってこそであったろうことは想像に難くないところである。

以降、劉邦陣営における内部事務の一切を取り仕切り、やがて劉邦が項梁、項羽を中心とした反秦陣営に加わり各地を転戦するようになると、その糧秣の差配を担当してこれを途絶させず、兵士を略奪に走らせることがなかった。また、劉邦が秦の都咸陽を占領した時には、他の者が宝物殿などに殺到する中、ただ一人秦の歴史書や法律、各国の人口記録などが保管されている文書殿に走り、項羽による破壊の前に全て持ち帰ることに成功した。これが漢王朝の基礎作りに役立ったと言われている。

紀元前206年、秦が滅亡し、劉邦が漢王に封建されると、蕭何は丞相に任命され、内政の一切を担当することになる。

それからまもなく夏侯嬰が韓信を推挙してきた。その才能に感じ入った蕭何も劉邦に推挙し、韓信は召し抱えられたが、与えられた役職が閑職だったために逃げ出すという事件を起こす。韓信を引き留めるため蕭何は自ら追いかけ、「今度推挙して駄目であれば、私も漢を捨てる」とまで言って説得する。そして劉邦に韓信を大将軍に就かせるよう推挙した。劉邦はその進言を受け入れ、大将軍に任命する。韓信は家柄も名声も無く、元は楚の雑兵で、漢でも単なる一兵卒だった。当然ながら最大級の大抜擢であり、このことからも劉邦の蕭何への信頼の厚さが伺える。

劉邦が軍勢を率いて関中に入ると、蕭何もこれに従い関中に入る。楚漢戦争が激化し、劉邦が戦地に出て関中を留守にすると、王太子の劉盈を補佐しながらその留守を守った。関中においてもその行政手腕は遺憾なく発揮され、関中から戦地に向けて食糧と兵士を送り、それを途絶えさせることなく劉邦を後方から支え、しかも関中の民衆を苦しめることもなく、名丞相として称えられた。紀元前202年、楚漢戦争が劉邦陣営の勝利に終わると、戦功第一には、戦地で戦い続けた将軍らを差し置いて蕭何が選ばれた。劉邦も、蕭何の送り続けた兵糧と兵士がなければ、そして根拠地である関中が安定していなければ、負け続けても何度も立て直すことはできず、最終的に勝利することもできなかったことを理解していたのである。


◎漢の相国

劉邦が皇帝となり、前漢が成立すると、蕭何は戦功第一の酇侯に封じられ、引き続き丞相として政務を担当することとなり、長年打ち続いた戦乱で荒れ果てた国土の復興に従事することとなった。紀元前196年に、呂后から韓信が謀反を企てていることを知ると、密談を重ねて策謀を用いて誘い出しこれを討った。韓信は国士無双と称された程の名将であり、慎重でもあったが、蕭何だけは信用していたために油断したのである。この功績により、臣下としては最高位の相国に任命され、「剣履上殿」「入朝不趨」「謁賛不名」等の特権を与えられた。

しかし、この頃から劉邦は蕭何にも疑惑の目を向け始めた。これについては楚漢戦争の頃からその傾向があったため、蕭何もそれを察し、戦争に参加出来る身内を全員戦場へ送りだし、謀反の気が全く無いことを示していた。しかし、劉邦は皇帝となってからは猜疑心が強くなり、また韓信を始めとする元勲達が相次いで反乱を起こしたことで、蕭何に対しても疑いの目を向けたのである。長年にわたって関中を守り、民衆からの信望が厚く、その気になればいとも簡単に関中を掌握できることも、危険視される要因になった。蕭何は部下の助言を容れて、わざと悪政を行って(田畑を買い漁り、汚く金儲けをした)自らの評判を落としたり、財産を国庫に寄付することで、一時期投獄されることはあったものの、何とか粛清を逃れることに成功した。
劉邦の死の2年後、蕭何も後を追うように亡くなり、文終侯と諡されて、子の哀侯蕭禄が後を継いだ。蕭何の家系は何度も断絶しているが、すぐに皇帝の命令で見つけ出された子孫が侯を継いでいる(後述)。

死に際して後継として曹参を指名している。のちに曹参は、政務を怠っていると非難されたとき、「高祖と蕭何の定めた法令は明瞭明白で世を治めており、変える必要がありません。我々はあまり細々とした変更をせず、それをただ守れば良いのです」と時の皇帝に述べ、皇帝もその言葉に納得している。

漢王朝において、臣下としての最高位である「相国」は一部の例外を除いて蕭何と曹参以外には与えられず、「それだけの功績のものがいない」として任ぜられることがなかった。


◎子孫

哀侯蕭禄は6年で逝去し、子がなかったので呂后は彼の弟の蕭同を継がせたが、紀元前179年に蕭同は罪を得て、爵位を奪われた。そこで、蕭何の末子の築陽侯蕭延を継がせた。定侯蕭延は2年で亡くなり、その子の煬侯蕭遺が継いだ。彼は1年で亡くなり、子がないためにその弟の蕭則が継いだ。20年後に酇侯蕭則は罪を得て、所領を没収された。

しかし、景帝は詔を下して「大功臣の蕭何の家系を断絶するのは忍びない」として、蕭則の弟蕭嘉を武陽侯として封じて再興された。彼は7年で逝去し、その子の蕭勝が継いだ。彼は武帝時代の21年で罪を得て、所領を没収された。しかし、武帝も父同様に詔を下して、蕭則の子の共侯蕭慶を酇侯に封じた。彼は3年で亡くなり、その子の蕭寿成(蕭壽成)が継いだ。10年で彼は罪を得て、所領を没収された。

宣帝の時代に、詔を発して蕭何の子孫を探し出して、その子孫である釐侯蕭喜を酇侯に封じて三度再興させた。彼は3年で亡くなり、その子の質侯蕭尊が継いだ。彼は5年で亡くなり、その子の蕭章が継いだが、子がなく兄弟の蕭禹が継いだ。王莽が漢を簒奪して新を樹立すると、王莽は蕭禹を酇郷侯に改めて封じた。王莽が後漢の光武帝によって滅ぼされると、酇郷侯も断絶した。

明帝と章帝は詔を下して、蕭何を祀らせた。和帝の時代に、詔を下して、蕭何の子孫を探し当てて、見つけ出して領地を与えた。このように蕭何の子孫は前漢・後漢にまで繁栄した。
さらに、南朝の斉を建国した蕭道成は蕭何の24世の子孫、蕭道成の族子である梁を建国した蕭衍も蕭何の25世の子孫であると称していた。



<了>







「項羽と劉邦の壮大なるドラマ、その漢の三傑 張良・韓信・蕭何について学ぶ⑤」

2018-08-26 07:24:55 | 日本

<韓信②>


◎絶頂期

その頃、楚漢の戦いは広武山での長い持久戦になっており、疲れ果てた両軍は一旦和睦してそれぞれの故郷に帰ることにした。しかし劉邦はこの講和を破棄し、撤退中の楚軍に襲いかかった。韓信も加勢の要請を受けるが、これを黙殺したために劉邦は敗れる。焦った劉邦は張良の進言により、韓信に対して三斉(斉、済北、膠東)王として改めて戦後の斉王の位を約束し、再び援軍を要請した。ここに及んで韓信は30万の軍勢を率いて参戦した。これを見て諸侯も続々と漢軍に参戦する。漢軍は垓下に楚軍を追い詰め、垓下を脱出した項羽は烏江(現在の安徽省和県烏江鎮)で自決し、5年に及んだ楚漢戦争はようやく終結した(垓下の戦い)。

紀元前202年、項羽の死が確認されると、劉邦は「本来楚王となるべき義帝には御子が居ない。韓信は楚出身であり、楚の風土・風習にも馴染んでいる」として韓信を斉王から楚王へと移した。これは項羽亡き後の楚王であり、また楚には韓信の故郷があるため、名誉であり栄転であった。しかし一方で、城の数では七十余城から五十余城に減った。

故郷の淮陰に凱旋した韓信は、飯を恵んでくれた老女、自分を侮辱した若者、居候させていた亭長を探して呼び出した。まず、老女には使い切れないほどの大金を与えた。次いで、かつての若者には「あの時、お前を殺すのは容易かったが、それで名が挙がるわけでもない。我慢して股くぐりをしたから今の地位にまで登る事ができたのだ」と言い、中尉(治安維持の役)の位につけた。亭長には「世話をするなら最後までちゃんと面倒を見ろ」と戒め、わずか百銭を与えた。

◎転落

劉邦はよく韓信と諸将の品定めをしていた。後述のように韓信は劉邦によって捕縛されることになるのだが、その後、劉邦が韓信に「わしはどれくらいの将であろうか」と聞くと、韓信は「陛下はせいぜい十万の兵の将です」と答えた。劉邦が「ではお前はどうなんだ」と聞き返したところ、「私は多ければ多いほど良い(多々益々弁ず。原文は「多多益善」)でしょう」と答えた。劉邦は笑って「ではどうしてお前がわしの虜になったのだ」と言ったが、韓信は「陛下は兵を率いることができなくても、将に対して将であることができます(将に将たり)。これは天授のものであって、人力のものではありません」と答えた。

紀元前201年、同郷で旧友であった楚の将軍・鍾離眜を匿ったことで韓信は劉邦の不興を買い、また異例の大出世に嫉妬した者が「韓信に謀反の疑いあり」と讒言したため、これに弁明するため鍾離眜に自害を促した。鍾離眜は「漢王が私を血眼に探すのは私が恐ろしいからです。次は貴公の番ですぞ」と言い残し、自ら首を撥ねた。そしてその首を持参して謁見したが、謀反の疑いありと捕縛された。韓信は「狡兎死して良狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵され、敵国敗れて謀臣亡ぶ。天下が定まったので、私もまた煮られるのか?」と范蠡の言葉を引いた。劉邦は謀反の疑いについては保留して、韓信を兵権を持たない淮陰侯へと降格させた。

韓信はそれ以降、病と称して長安の屋敷でうつうつと過ごした。ある時、舞陽侯の樊噲の所に立ち寄ると、韓信を尊敬する樊噲は礼儀正しく韓信を“大王”、自らを“臣”と呼んで最大限の敬いを見せたが、韓信は「生き長らえて樊噲などと同格になっている」と自嘲した。


◎最期

歳月は流れ、陳豨が鉅鹿郡守に任命された。韓信を尊敬していた陳豨は、出立にあたり長安の韓信の屋敷に挨拶にやってきた。韓信は陳豨に、あまりの冷遇にもはや劉邦への忠誠はなく、私が天下を取るまでだと言い放ち、一計を授けた。劉邦の信頼が篤い陳豨が謀叛すれば、劉邦は必ず激怒して自ら討伐に赴き、長安は空になる。しかし鉅鹿は精兵のいる要衝であるから、容易には落ちないだろう。そしてその隙に自分が長安を掌握する。反乱の頻発に現れているように天下には不満が渦巻いているので、諸国も味方に就くだろう、というのである。

紀元前196年の春、果たして陳豨は鉅鹿で反乱を起こした。信頼する陳豨の造反に激怒した劉邦は、韓信の目論見通りに鎮圧のために親征し、都を留守にした。韓信は、この機会に長安で反乱を起こし、囚人を解放してこれを配下とし、呂后と皇太子の劉盈(のちの恵帝)を監禁して政権を奪おうと謀った。ところが、韓信に恨みを持つ下僕がこれを呂后に密告したため、計画は事前に発覚した。呂后に相談された相国の蕭何は、韓信を普通に呼び出したのでは警戒されると考え、一計を講じる。適当な者を劉邦からの使者に仕立て「陳豨が討伐された」と報告をさせ、長安中に布告を出した。たちまち噂は広まり、長安在住の諸侯は祝辞を述べる為に次々と参内した。韓信は計画が頓挫したと合点し、病気と称して自邸に引篭もっていたが、蕭何は「病身であることは知っているが、自身にかけられた疑いを晴らすためにも、親征成功の祝辞を述べに参内した方が良い」と招いた。そして韓信は何の疑いもなくおびき出され、捕らえられてしまう。事にあたっては用意周到に計画し、慎重さにも抜かりのなかった韓信だったが、自分を大いに買って引きとめ、大将軍に推挙してくれた蕭何だけは信用していたため、誘いに乗ってしまったのである。そして韓信は劉邦の帰還を待たずに長安城中の未央宮内で斬られ、死ぬ間際に「蒯通の勧めに従わなかったことが心残りだ」と言い残した。韓信の三族も処刑された。
生年は紀元前230年頃と考えられるため、享年35前後と推定できる。


◎死後

韓信の死後、陳豨の討伐を終えて帰ってきた劉邦は、最初は韓信が死んだことに悲しんだものの、韓信の最期の言葉を聞いて激怒し、蒯通を捕らえて殺そうとした。しかし蒯通が堂々と抗弁したため、命は助けて解放した。















「項羽と劉邦の壮大なるドラマ、その漢の三傑 張良・韓信・蕭何について学ぶ④」

2018-08-25 06:44:46 | 日本

「韓信①」

韓信(かん しん)は、中国秦末から前漢初期にかけての武将。劉邦の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付けた。張良・蕭何と共に漢の三傑の一人。 なお、同時代に戦国時代の韓の王族出身の、同じく韓信という名の人物がおり、劉邦によって韓王に封じられているが、こちらは韓王信と呼んで区別される。


◎生い立ち

淮陰(現在の江蘇省淮安市)の出身。貧乏で品行も悪かったために職に就けず、他人の家に上がり込んでは居候するという遊侠無頼の生活に終始していた。こんな有様であったため、淮陰の者はみな韓信を見下していた。とある亭長の家に居候していたが、嫌気がした亭長とその妻は韓信に食事を出さなくなった。いよいよ当てのなくなった韓信は、数日間何も食べないで放浪し、見かねた老女に数十日間食事を恵まれる有様であった。韓信はその老女に「必ず厚く御礼をする」と言ったが、老女は「あんたが可哀想だからしてあげただけのこと。御礼なんて望んでいない」と語ったという。

ある日のこと、韓信は町の若者に「てめえは背が高く、いつも剣を帯びてるが、実際には臆病者に違いない。その剣で俺を刺してみろ。できないなら俺の股をくぐれ」と挑発された。韓信は黙って若者の股をくぐり、周囲の者は韓信を大いに笑ったという。その韓信は、「恥は一時、志は一生。ここで奴を切り殺しても何の得もなく、それどころか仇持ちになってしまうだけだ」と冷静に判断していたのである。この出来事は「韓信の股くぐり」として知られることになる。
秦の始皇帝の没後、陳勝・呉広の乱を機に大規模な動乱が始まると、紀元前209年に韓信は項梁、次いでその甥の項羽に仕えて郎中となったが、たびたび行った進言が項羽に用いられることはなかった。


◎劉邦配下として

紀元前206年、秦の滅亡後、韓信は項羽の下から離れ、漢中に左遷された漢王劉邦の元へと移る。しかし、ここでも連敖(接待係)というつまらぬ役しかもらえなかった。

ある時罪を犯し、同僚13名と共に斬刑に処されそうになった。たまたま劉邦の重臣の夏侯嬰がいたので、「漢王は天下に大業を成すことを望まれないのか。どうして壮士を殺すような真似をするのだ」と訴え、韓信を面白く思った夏侯嬰は、韓信を劉邦に推薦した。

劉邦はとりあえず韓信を治粟都尉(兵站官)としたが、韓信に対してさほど興味は示さなかった。自らの才能を認めて欲しい韓信は、漢軍の兵站の責任者である蕭何と何度も語り合い、蕭何は韓信を異才と認めて劉邦に何度も推薦するが、劉邦はやはり受け付けなかった。

この頃の漢軍では、辺境の漢中にいることを嫌って将軍や兵士の逃亡が相次いでいた。そんな中、韓信も逃亡を図り、それを知った蕭何は劉邦に何の報告もせずにこれを慌てて追い、追いつくと「今度推挙して駄目だったら、私も漢を捨てる」とまで言って説得した。ちょうど、辺境へ押し込まれたことと故郷恋しさで脱走者が相次いでいた中であったため、劉邦は蕭何まで逃亡したかと誤解し、蕭何が韓信を連れ帰ってくると強く詰問した。蕭何は「逃げたのではなく、韓信を連れ戻しに行っていただけです」と説明したが、劉邦は「他の将軍が逃げたときは追わなかったではないか。なぜ韓信だけを引き留めるのだ」と問い詰めた。これに対して、蕭何は「韓信は国士無双(他に比類ない人物)であり、他の雑多な将軍とは違う。(劉邦が)この漢中にずっと留まるつもりならば韓信は必要ないが、漢中を出て天下を争おうと考えるのなら韓信は不可欠である」と劉邦に返した。これを聞いた劉邦は、韓信の才を信じて全軍を指揮する大将軍の地位を任せることにした。

韓信はこの厚遇に応え、劉邦に漢中の北の関中を手に入れる策を述べた。即ち、項羽は強いが、その強さは弱めやすいものである(婦人の仁、匹夫の勇:実態の伴わない女のやさしさ、取るに足らない男の勇気)。劉邦は項羽の逆を行えば天下を手に入れられる。

特に処遇についてかなり不公平であり、不満が溜まっている。進出する機会は必ず訪れる。
兵士たちは故郷に帰りたがっており、この気持ちは大きな力になる。

関中の三秦の王は20万の兵士を見殺しにした将軍たちであり、人心は離れている。その逆に劉邦は、以前咸陽で略奪を行わなかったなどの理由で人気があるため、関中はたやすく落ちる。と説いた。劉邦はこれを聞き大いに喜び、諸将もこの大抜擢に納得した。

劉邦はこの年の8月に関中攻略に出兵、油断していた章邯を水攻めで撃破し、司馬欣・董翳も撃破した。そして関中を本拠地として、韓王の鄭昌を降して項羽との対決に臨んだ。

その頃、各地で項羽の政策に反発する諸侯による反乱が相次ぎ、項羽はその対応(特に斉)に手を焼いていた。紀元前205年、その隙を突いて、劉邦は総数56万と号する諸侯との連合軍を率いて親征し、項羽の本拠地・彭城を陥落させた。しかし連合故に統率が甘く更に油断しきっていたため、斉から引き返して来た項羽軍の3万に奇襲され大敗。劉邦は命からがら滎陽に逃走した(彭城の戦い)。韓信も敗戦した漢軍を兵をまとめて滎陽で劉邦と合流し、追撃してきた楚軍を京・索の中間周辺で迎撃。楚軍をこれ以上西進させなかった。


◎躍進

体勢を立て直した劉邦は、自らが項羽と対峙している間に韓信の別働軍が諸国を平定するという作戦を採用した。まずは、漢側に就いていたが裏切って楚へ下った西魏王の魏豹を討つことにし、劉邦は韓信に左丞相の位を授けて、副将の常山王張耳と将軍の曹参とともに討伐に送り出した。

魏軍は渡河地点を重点的に防御していた。韓信はその対岸に囮(おとり)の船を並べてそちらに敵を引き付け、その間に上流に回り込んで木の桶で作った筏(いかだ)で兵を渡らせて魏の首都・安邑(現在の山西省運城市夏県の近郊)を攻撃し、魏軍が慌てて引き返したところを討って魏豹を虜にし、魏を滅ぼした。魏豹は命は助けられたが、庶民に落とされた。

その後、北に進んで代(山西省北部)を占領し、さらに趙(河北省南部)へと進軍した。この時、韓信は河を背にした布陣を行う(背水の陣:兵法では自軍に不利とされ、自ら進んで行うものではなかった)。20万と号した趙軍を、狭隘な地形と兵たちの死力を利用して防衛し、その隙に別働隊で城砦を占拠、更に落城による動揺の隙を突いた、別働隊と本隊による挟撃で打ち破り、陳余を泜水で、趙王歇を襄国で斬った(井陘の戦い)。続いて、趙の将軍であった李左車を探し出して捕らえ、上座を用意して李左車を先生と賞し、これからのことを相談した。李左車は「『敗軍の将は兵を語ってはならず、亡国の臣は国家の存続を計ってはならない』と聞きます。私は敗軍の将、亡国の臣です」と初め自分の考えを述べることに躊躇したが、韓信は「趙が敗れたのは、先生の策を入れなかった趙王と陳余にあり、先生にあるのではありません。もし先生の策が用いられていれば、私はここに居ないでしょう」と更に賞した。これに李左車は「『智者も千慮に一失有り。愚者も千慮に一得有り』とあります」と愚者の策であると前置きした上で、「次に進むとすれば燕ですが、このままでは敗れます。兵が疲労しきっているからです。まずは趙兵の遺族を慰撫し、その返礼と十分な休息を兵に与えます。燕は趙軍を少数の兵で下した漢軍を非常に恐れており、使者を送れば降るでしょう。降らなければ、休息十分な兵を向ければよいのです」と燕を下す策を与えた。そしてその策に従い、労せずして燕(河北省北部)の臧荼を降伏させた。紀元前204年、鎮撫のために張耳を趙王として建てるように劉邦に申し出て、これを認められた。

この間、劉邦は項羽に対して不利な戦いを強いられ、韓信は兵力不足の劉邦に対して幾度も兵を送っていた。しかし、それでも苦境にあった劉邦は成皋から楚の包囲から逃がれる黄河を渡ると、夏侯嬰らとともに韓信たちがいた修武(現在の河南省焦作市修武県の西北)へ赴いた。その際、幕舎で寝ている韓信の所に忍び込んで、その指揮権を奪った。韓信は、起き出して仰天した。劉邦は張耳ら諸将を集めて、韓信を趙の相国に任じて曹参とともに斉を平定するように命じた。

ところが劉邦は、韓信を派遣した後で気が変わり、儒者の酈食其を派遣して斉と和議を結んだ。紀元前203年、韓信は斉に攻め込む直前であったが、既に斉が降ったと聞いて軍を止めようとした。この時、韓信の軍中にいた弁士蒯通は「(劉邦から)進軍停止命令は未だ出ておらず、このまま斉に攻め込むべきである。酈食其は舌だけで斉を降しており、このままでは韓信の功績は一介の儒者に過ぎない酈食其より劣る(斉は70余城を有し、韓信の落とした50余城より多い)と見られるだろう」と進言し、韓信はこの進言に従って斉に侵攻した。備えのなかった斉の城は次々と破られ、怒った斉王の田広は酈食其を釜茹でに処して高密に逃亡した。

斉は楚に救援を求め、項羽は将軍龍且と亜将周蘭に命じて20万の軍勢を派遣させた。龍且は周蘭から持久戦を進言されたが、以前の「股夫」の印象に影響され、韓信を侮って決戦を挑んだ。韓信も龍且は勇猛であるから決戦を選ぶだろうと読み、広いが浅い濰水という河が流れる場所を戦場に選んで迎え撃った。この時、韓信は決戦の前夜に濰水の上流に土嚢を落とし込んで臨時の堰を作らせ、流れを塞き止めさせていた。韓信は敗走を装って龍且軍をおびき出し、楚軍が半ば渡河した所で堰を切らせた。怒涛の如く押し寄せた奔流に龍且の20万の軍勢は押し流され、龍且は灌嬰の軍勢に討ち取られ、周蘭も曹参の捕虜となった。

斉を平定した韓信は、劉邦に対して斉の鎮撫のため斉の仮の王となりたいと申し出た。劉邦は、自分が苦しい状況にあるのに王になりたいと言ってきた韓信に身勝手であると激しく反発したが、張良と陳平に認めなければ韓信は離反し斉王を自ら名乗って独立勢力となると指摘され、一転、懐柔のために「仮の王などとは言わずに、真の王となれ」と韓信に伝え、斉王韓信を認めた。韓信は旧戦国の七雄のうち大国の斉を領有し、河北の趙、燕を支配する大王となり西楚、漢、斉の三国が鼎立する局面となった。王となった韓信に項羽も恐れを感じ始め、武渉という者を派遣した。武渉は韓信に「劉邦は見逃してやっても(鴻門の会のこと)攻めてくるような義理のない信頼できない人物でありますから、あなたにとって従わない方が良い主君です。漢と別れ、楚と共に漢に対するべきです」と説いた。韓信は項羽に冷遇されていたことを恨んでおり、一方で劉邦には大抜擢され斉王に封じられたことを恩義に思っていたため、これを即座に断った。その後、蒯通から「天下の要衝である斉の王となった今、漢、楚と天下を三分し、両者が争いに疲れた頃に貴方が出てこれをまとめれば、天下はついてくる」と天下三分の計を献策された。韓信は大いに悩んだが、謀反とは異なる「一勢力としての独立」という発想に得心が行かず、「漢王様は自らの衣を私に与え、車に同乗させてくれ、更には大将軍に任じてくれた。裏切ることはできない」と結局は劉邦への恩義を選び、これを退けた。絶望した蒯通は後難を恐れ、狂人の振りをして出奔した。












「項羽と劉邦の壮大なるドラマ、その漢の三傑 張良・韓信・蕭何について学ぶ③」

2018-08-24 06:11:18 | 日本

<張良②>


◎楚漢戦

その後、項羽は根拠地の彭城(現在の徐州市)に帰り、反秦戦争の参加者に対する論功行賞を行った。これにより劉邦は巴蜀・漢中の王となる。劉邦が巴蜀へ行くに当たり、張良は桟道を焼くように進言した。桟道とは、蜀に至る険しい山道を少しでも通り易くするために、木の板を道の横に並べたものである。とりあえずの危機は去ったものの、劉邦はまだ項羽に警戒されており、何かの口実で討伐されかねなかった。道を焼いて通行困難にすることで謀反の意思がないことを示し、同時に攻め込まれたり間者が入り込めないようにしたのである。

劉邦が巴蜀へ去った後、張良は韓王成の下へ戻る。だが、項羽は韓王成が劉邦に味方したことを不快に思い、成を手許にとどめて韓に戻らせようとしなかった。そこで張良は項羽に「漢王は桟道を焼いており、大王に逆らう意図はありません。それより斉で田栄らが背いています」との手紙を出し、項羽はこれで劉邦に対する疑いを後回しにして、直ちに田栄らの討伐に向かった。

だが結局、項羽は韓王成を韓へは返そうとせず、最後には范増の進言で彭城で韓王成を処刑した。范増はかねてから劉邦を脅威に思っており、もし劉邦が東進してくれば恩義のある韓がまず協力するだろうと見たのである。このために張良は官職を辞して、間道を通じて逃亡して、すでに東進した劉邦と再会し、劉邦は張良の進言で亡き韓王成の遺体を丁重に埋葬して、韓王成の族子の信を探し出して、これを成信侯に封じた。張良はそれまでは劉邦にとって客将であったが、以後は正式に参謀として劉邦に仕えることになった。

劉邦はその後関中を占領し、東へ出て項羽の本拠地・彭城を占領するが、項羽の軍に破られて逃亡し、滎陽(河南省滎陽市)で項羽軍に包囲された。

包囲戦の途中、儒者酈食其が「項羽はかつての六国(戦国七雄から秦を除いた)の子孫たちを殺して、その領地を奪ってしまいました。大王がその子孫を諸侯に封じれば、みな喜んで大王の臣下になるでしょう」と説き、劉邦もこれを受け容れた。その後、劉邦が食事をしている時に張良がやって来たので、酈食其の策を話した。張良は「(こんな策を実行すれば)陛下の大事は去ります」と反対し、劉邦が理由を問うと、張良は劉邦の箸をとって説明を始めた。張良は
「昔、湯王や武王が桀や紂の子孫を諸侯に封じたのは、彼らを制する力があったからです。今、大王に項羽を制する力がありますか? これが一つ目の理由です」
「武王は殷に入ると賢人商容の徳を褒め、捕えられていた箕子を釈放し、比干の墓を修築しました。大王にこのようなことができますか? これが二つ目の理由です」
「武王は財を放って困窮の者を援けました。大王にはできますか? これが三つ目の理由です」
「武王は殷を平定すると武器を捨てて戦をしないことを天下に示しました。今、大王にこれができますか? これが四つ目の理由です」
「武王は戦に使う馬を華山の麓に放ち、戦が終わったことを天下に示しました。今、大王にこれができますか? これが五つ目の理由です」
「武王は兵糧を運ぶ牛を桃林に放ち、輸送が必要ないことを天下に示しました。今、大王にそれができますか? これが六つ目の理由です」
「かつての六国の遺臣たちが大王に付き従っているのは、何か功績を挙げていつの日か恩賞の土地を貰わんがためです。もし大王が六国を復活させればみんな故郷へと帰ってそれぞれの主君に仕えるようになるでしょう。大王は誰と天下をお取りになるおつもりですか? これが七つ目の理由です」
「もし、その六国が楚に脅かされ、楚に従うようになってしまったら、大王はどうやって六国の上に立つおつもりですか? これが八つ目の理由です」
と答えた。劉邦は食べていた食事を吐き出し「豎儒(じゅじゅ=儒者を馬鹿にする言葉。酈食其のこと)に大事を潰されるところだった!」と慌てて策を取り止めた。

紀元前203年、劉邦と項羽は滎陽の北の広武山で対陣したが、食料が切れたので、和睦して互いにその根拠地へと戻ることになった。

ここで張良は陳平と共に、退却する項羽軍の後方を襲うよう劉邦に進言した。項羽とその軍は韓信と彭越の活躍もあって疲弊しているが、戻って回復すればその強さも戻ってしまう。油断している今を置いて勝機はない、と見たのである。劉邦はこれを受け入れ、韓信と彭越の2人の武将も一緒に項羽を攻めるように命令した。しかし、韓信と彭越はやって来ず、劉邦は固陵で項羽軍に敗れた。

張良は劉邦に「韓信・彭越が来ないのは恩賞の約束をしていないからです」と答えた。劉邦は「彼らには十分禄は出している。韓信は斉王にしてやった」と言うも、張良は「韓信は肩書きだけで斉の地を与えたわけではありません。彭越も補給路を断つなどの活躍をしましたが、肩書きの一つでも与えましたか? それに、彼らも漢楚が争っているからこそ価値があるとわかっているので、争いが終わってしまえば自分たちはどうなるかと不安なのです」と返した。なおも納得ができない劉邦が「では、恩賞が少ないからと言って我々を見捨て、漢が滅びればどうなる? 彼らも滅びてしまうではないか。それに天下が定まらない状況で恩賞など出せるか」と問うと、張良は「彼らは漢が滅びるとは思っていません。功績と恩賞が見合っていないと思っているのです。先の戦で大王は天下の半分をお取りになりました。それは一体誰のおかげですか? 大王の『恩賞は天下が定まってから』というお考えはよく理解できますが、天下の人々には『劉邦は天下の半分を取りながら恩賞を出し惜しんでいる』としか見えません。私は大王が物を惜しんでいないのはよく存じております。しかし、天下の人々にもそう見えなければ意味がありません。だから彼らも、恥じることも悪びれることもなく動かなかったのです」と答えた。

これに劉邦も納得し、両者に対して戦後も韓信を斉王に、彭越を梁王に封じる約束をし、喜んだ両者の軍を合わせて項羽軍を垓下に包囲し、項羽を討ち取った(垓下の戦い)。


◎天下統一後

遂に項羽を滅ぼした劉邦は皇帝に即位し(高祖)、臣下に対して恩賞を分配し始めた。張良は野戦の功績は一度もなかったが、「謀を帷幄のなかにめぐらし、千里の外に勝利を決した」と高祖に言わしめ、3万戸を領地として斉の国内の好きな所に選べといわれた。しかし張良は辞退して「私はかつて陛下と初めてお会いした留をいただければ、それで充分です」と答え、留に封ぜられ、留侯となった。

高祖は功績が多大な家臣を先に褒賞し、後の者はそれから決めようとしていた。ところがあちらこちらで家臣らが密談をしているところを目撃した。高祖が張良に彼らは何を話しているのかと聞いたところ、張良は「彼らは謀反を起こす相談をしているのです」と答えた。驚いた高祖が理由を問うと、「今までに褒賞された人は、蕭何や曹参など陛下の親しい人ばかりです。天下の土地全てでも彼ら全てに与えるだけはなく、彼らも忠義などではなく恩賞を求めて仕えてきたのです。彼らは陛下に誅殺されるのではないかと恐れ、ならば謀反を起こそうかと密談しているのです」と答えた。高祖が対策を問うと、張良は「功績はあるが陛下が一番憎んでおり、それを皆が知っているのは誰ですか」と聞いた。高祖は「雍歯だ。昔に裏切られ大いに苦しませられ、殺したいほど憎い。だが功績があるから我慢している」と答えた。張良は「ならば雍歯に先に恩賞を与えれば、皆は安心しましょう」と進言し、高祖がその通りに雍歯の恩賞を発表すると、皆は「あの憎まれている雍歯ですら賞されたのだから、自分にも恩賞が下るに違いない」と安堵し、あちこちの密談はぴたりと止んだ。

洛陽を都にしようとしていた高祖に対し、劉敬(婁敬)が長安を都とするよう進言した際には、張良も洛陽の短所(周囲が開けているため、攻められやすく守り難い)と長安の利点(天険に囲まれ防衛が容易)を述べて劉敬に賛成し、長安に決定させた。


◎神仙術

張良は元々病弱であったが、体制が確立されて以後は病気と称して家に籠るようになった。その中で導引術の研究に取り組み、穀物を絶って特殊な呼吸法で体を軽くし、神仙になろうとした。

しかし、高祖の死期が近づくと、劉邦の愛妾・戚氏がその子・劉如意を皇太子にしようと画策し始める。劉邦もその気になったため、既に皇太子に立てられていた劉盈(後の恵帝)とその母・呂雉は危機感を抱いて、長兄の呂沢を留に派遣させて、張良に助言を求めてきた。張良の助言を聞いた呂沢は妹に報告した結果、高祖がたびたび招聘に失敗した高名な学者たち、東園公、甪里先生、綺里季、夏黄公 を劉盈の師として招くように助言し、これらの学者たちは劉盈の師となった。

高祖はたびたび招聘しても応じなかった彼らが劉盈の後ろに居ることに驚き、何故か聞いた。彼らは「陛下は礼を欠いており、我らは辱めを避けるため応じませんでした。ですが、皇太子殿下は徳も礼も備えており、人民も慕っているとのこと。なので参内したのです」と言った。高祖は劉盈を改めて認め、皇太子の更迭は取り止められた。
呂雉は張良に恩義を感じており、特殊な呼吸法で体を軽くしようとしていることを聞いて「人生は一回しかなく、短く儚いものなのです。なぜ留侯(張良)はご自身を苦しめられるのですか?」と述べて、張良に無理してでも食事を摂らせたので、張良は仕方なく呂雉の言うとおりに食事を摂った。

高祖の死の9年後の紀元前186年に死去し、文成侯と諡された。子の張不疑が後を継いだ。


◎末裔

死後、子の不疑が留侯の地位を継いだ。張不疑は紀元前175年に不敬罪で侯を免じられ、領地を没収された。その後、『漢書』「高恵高后文功臣表」によると、張良の玄孫の子である張千秋が、宣帝時代に賦役免除の特権を賜った。また『後漢書』「文苑伝」によると張良の後裔に文人の張超が出た。このほか、益州の人で、後漢の司空張晧、その子で広陵太守の張綱、その曾孫で蜀の車騎将軍の張翼らが張良の子孫を称している(『後漢書』張晧伝・『三国志』張翼伝)。












「項羽と劉邦の壮大なるドラマ、その漢の三傑 張良・韓信・蕭何について学ぶ②」

2018-08-23 06:26:39 | 日本

「張 良①」

張 良(ちょう りょう、? - 紀元前186年)は、秦末期から前漢初期の政治家・軍師。字は子房。諡は文成。劉邦に仕えて多くの作戦の立案をし、劉邦の覇業を大きく助けた。蕭何・韓信と共に漢の三傑とされる。劉邦より留(現在の江蘇省徐州市沛県の南東)に領地を授かったので留侯とも呼ばれる。子には嗣子の張不疑と少子の張辟彊がいる。


◎生涯

・始皇帝暗殺未遂

祖父・張開地は韓の昭侯・宣恵王・襄王の宰相を務め、父・張平は釐王・桓恵王の宰相を務めていた。『史記索隠』では、その祖先は韓の公族であり、周王室と同じ姫姓であったが、秦による賊探索から逃れるために張氏に改名したことになっている。

父の張平が死んでから20年が経った後、秦が韓を滅ぼした。その時にはまだ張良は年若く、官に就いていなかった。韓が滅びたのは紀元前230年で、普通20歳にもなれば成人であり、父が死ぬ間際に生まれた訳でなければ張良も官位に就いているはずである。しかし滅亡寸前の国なので、20歳を過ぎてなお官に就けなかったということもあり得るため、韓が滅亡した時点で20代前半とも考えられる。また、項伯よりも年下との記述がある(「項羽本紀」)。
祖国を滅ぼされた張良は復讐を誓い、全財産を売り払って復讐の資金とした。弟が死んでも、費用を惜しんで葬式を出さなかったという。

張良は同志を求めて東へ旅をし、倉海君という人物に出会い、その人物と話し合って屈強な力士を借り受け、紀元前218年頃に始皇帝が巡幸の途中で博浪沙(現在の河南省新郷市原陽県の東)を通った所を狙った。方法は重さ120斤(約30kg)という鉄槌を投げつけ、始皇帝が乗った車を潰すというものであった。しかし鉄槌は副車に当たってしまって暗殺は失敗に終わり、張良たちは逃亡した。

始皇帝は自らを暗殺しようとした者に怒り、全国に触れを回して捕らえようとした。そこで張良は偽名を使って下邳(現在の江蘇省徐州市の東の邳州市)に隠れた。


◎下邳時代の逸話

ある日、張良が橋の袂を通りかかると、汚い服を着た老人が自分の靴を橋の下に放り投げ、張良に向かって「小僧、取って来い」と言いつけた。張良は頭に来て殴りつけようかと思ったが、相手が老人なので我慢して靴を取って来た。すると老人は足を突き出して「履かせろ」と言う。張良は「この爺さんに最後まで付き合おう」と考え、跪いて老人に靴を履かせた。老人は笑って去って行ったが、その後で戻ってきて「お前に教えることがある。5日後の朝にここに来い」と言った。

5日後の朝、日が出てから張良が約束の場所に行くと、既に老人が来ていた。老人は「目上の人間と約束して遅れてくるとは何事だ」と言い「また5日後に来い」と言い残して去った。5日後、張良は日の出の前に家を出たが、既に老人は来ていた。老人は再び「5日後に来い」と言い残して去って行った。次の5日後、張良は夜中から約束の場所で待った。しばらくして老人がやって来た。老人は満足気に「おう、わしより先に来たのう。こうでなくてはならん。その謙虚さこそが大切なのだ」と言い、張良に太公望の兵法書を渡して「これを読めば王者の師となれる。13年後にお前は山の麓で黄色い石を見るだろう。それがわしである」と言い残して消え去ったという。

後年、張良はこの予言通り黄石に出会い、これを持ち帰って家宝とし、張良の死後には一緒に墓に入れられたという。

この「黄石公」との話は伝説であろうが、張良が誰か師匠に就いて兵法を学んだということは考えられる。また、太公望の兵法書というものを『六韜』だと考える向きもあるが、現存する『六韜』の成立年代は魏晋代と考えられているので、少なくとも張良が読んだ書物は、現存する『六韜』ではないと見られる。

また、この下邳での逃亡生活の時に、項羽の叔父項伯が人を殺して逃げ込んできたので、これを匿まっている。


◎劉邦の下で

陳勝・呉広の乱が起こると、張良も兵を集めて参加しようとしたが、100人ほどしか集まらなかった。その頃、陳勝の死後に楚王に擁立された楚の旧王族の景駒が留にいたので、参加しようとした途中、劉邦に出会い、これに合流したという。

張良は自らの将としての不足を自覚しており、それまでも何度か大将たちに出会っては自らの兵法を説き、自分を用いるように希望していたが、聞く耳を持つ者はいなかった。しかし劉邦は張良の言うことを素直に聞き容れ、その策を常に採用し、実戦で使ってみた。これに張良は「沛公(劉邦)はまことに天授の英傑だ」と思わず感動したという。

劉邦はその後、景駒を敗走させた項梁の下に入って一方の軍を任されるようになる。項梁は新しい旗頭として懐王(後の義帝)を立てた。そこで張良は韓の公子であった横陽君の韓成を韓王に立てるように項梁に進言した。項梁もこれを認めて成を韓王とし、張良をその申徒(『史記集解』に拠れば司徒のこと)に任命した。

その後、韓王成に従い、千人ほどの手勢を引き連れて旧韓の城を攻めて占領するが、すぐに兵力に勝る秦によって奪い返された。正面から当たる不利を悟った張良は遊撃戦に出た。そこに劉邦が兵を引き連れてやって来たので、これに合流し、旧韓の城を十数城攻め取り、韓を再興した。

その後、張良は主君の韓王成を城の一つに留めると、自らは劉邦に従って秦へ攻め上り、秦の東南の関である武関に至った。劉邦はすぐに攻めかかろうとしたが、張良は守将が商人出身であることに目をつけ、買収して関を開かせ、相手が油断したところで襲撃して守将を殺し、最小の被害で関中に入った。


◎鴻門の会

関中に入った劉邦は、秦王の子嬰の降伏を受けて秦の首都咸陽に入城した。帝都のきらびやかさに驚いた劉邦はここで楽しみたいと思い、樊噲にここを出て郊外に宿営しようと諫められても聞こうとしなかった。そこで張良は「秦が無道を行なったので、沛公は咸陽に入城できました。それなのにここで楽しもうとするのは秦と同じでしょう」と劉邦を諫め、「忠言は耳に逆らえども行いに利あり、毒薬は口に苦けれども病に利あり、と申します」と再び諌言した。劉邦はその諌言を素直に受け容れて、咸陽を出た。

その頃、東で秦の大軍を打ち破った項羽は、東の関である函谷関に迫っていたが、既に劉邦が関中に入り、自分を差し置いて関中の王のようにしているのを見て激怒し、函谷関を打ち破って関中へ入り、劉邦を攻め殺そうとした。

その日の夜、旧友の項伯が項羽の陣営から張良の下にやって来て「私と一緒に逃げよう」と誘った。だが張良は「私は韓王のために沛公をここまで送って来たのです。今、こういう状況だからといって逃げるのは不義です」と言って断り、項伯を劉邦に会わせた。劉邦は項伯と姻戚関係を結ぶ約束をし、項羽に対して釈明をしてもらえるよう頼み込んだ。項伯の釈明により項羽の怒りはやや収まり、項羽と劉邦は会談を行うことになった。これが鴻門の会である。鴻門の会で劉邦は命を狙われたが、張良や樊噲の働きによって危機を逃れている。











「項羽と劉邦の壮大なるドラマ、その漢の三傑 張良・韓信・蕭何について学ぶ①」

2018-08-22 05:59:37 | 日本

項羽は、楚の名門将軍の血筋。 
秦に反旗を翻した陳勝の乱に乗じて、伯父の項梁とともに秦を倒すために旗揚げします。
彼は始皇帝を見て、「いつかあいつに代わって天下を取る」と豪語するような人物でした。

劉邦は沛県の農民。怠け者ですが人望がありました。
彼は始皇帝を見て、「男と生まれたからにはああいう身分になりたい」と控えめにいうような人物でした。
劉邦も、彼を後押ししてくれる仲間達に担がれる形で、秦打倒のために挙兵します。

項梁は、秦打倒の旗頭にするため、懐王(楚王)の孫である「心」を担いで楚王とします。
秦打倒軍の名目上の大将である、楚王の元に終結した項羽と劉邦ら反乱軍は、「先に関中(現在の西安)に入った者が王である。」
という言葉を受けて、秦軍と激戦を繰り広げながら、二手に分かれて秦の都「咸陽」を目指して西進します。

項羽は、力で相手をねじ伏せ、自ら先頭に立って無敵の強さを誇りますが、鉅鹿(きょろく)の戦いでは、背水の陣をしいて兵士達を死に物狂いにさせたり、投降した秦兵20万人を虐殺したりしますが、戦う相手は秦最強の軍ばかりとぶつかり、思うように前に進めません。

劉邦は、張良ら優秀な軍師、武将らをうまく使いながら慎重にことを進め、殺戮を極力避け、地位の保全など慰撫に勤めたので行軍もスムーズに進み、項羽より先に「咸陽」に到達します。

劉邦は張良らの進言を素直に聞き、略奪や破壊を控え、秦二世皇帝を平和裏に退位させ、秦帝国は14年で幕を下ろします。

咸陽入りの先を越され激怒した項羽は、劉邦へ攻撃を計画しますが、項羽の本陣へ釈明(鴻門の会)に来た劉邦に機先を制され、危険視した項羽の軍師、范増の諫言を聞かず、范増による剣舞にかこつけての劉邦暗殺を、樊[ロ曾]の命がけの防御などで乗り切り、項羽は結局劉邦を許します。
范増は「青二才と天下の計を論じることはできぬ。」と言い捨て、やがて、項羽の下を去ります。

項羽は、遅れて咸陽に入り、殺戮破壊の限りを尽くし、阿房宮の焼き討ちや、始皇帝陵墓の盗掘を行い、秦王一族も皆殺し、項羽は秦亡き後の絶対権力者となります。

その後、諸侯への論功報酬で、旗揚げ時の旗印とした懐王を義帝とし、僻地の長沙に移す途中で殺害し、関中一番乗りの王の約束は反故にされ、劉邦は、西の外れの漢中王に封じられます。
しぶしぶ従った劉邦は、韓信らの人材を集め、張良らの助力で力を蓄え、反抗の機会をうかがいます。
韓信は劉邦に命じられて北方を攻め、行きがかり上斉王となり、半独立します。

項羽に反感を抱く英布や彭越、第三勢力として台頭著しい韓信らを味方につけた劉邦は、満を持して項羽と戦います。
鬼神のごとき項羽に負け続けますが、後方支援を充実させ計画的な戦いを繰り返す劉邦(漢)軍は、次第に、項羽のワンマン軍である楚軍を垓下(がいか)に追い詰め、楚軍の投降などの内部瓦解で、項羽に包囲している敵の中に回りに、自分の味方と思っていた楚軍の歌が聞こえた時自分の終わりを悟らせて、(四面楚歌)の状況に追い込み、ついに、烏江で項羽を討ち取ります。

その後、劉邦は漢帝国を築きますが、武勲のあった「韓信」、「英布」、「彭越」は、各所に王として封じますが、難癖をつけ、謀反を起こさせては討伐を繰り返して、劉邦の死後、権力を握った呂后らに引き継がれながら、劉一族による支配体制を確立させていきます。










「日本が見直すべき水力発電の底力」

2018-08-21 08:14:05 | 日本

日本は既存ダムの運用を見直すことで、さらに多くの純国産電力を生み出せる。川治ダム、大川ダム、宮ケ瀬ダムといった巨大ダムの建設に従事してきた元国土交通省河川局長の竹村公太郎氏(日本水フォーラム代表理事)が、日本特有の自然環境とダムの現状を踏まえて、日本がとるべきエネルギー戦略を提示する。

◎水力発電は高度経済成長のエンジンだった
 
第2次大戦で敗戦した日本は廃墟になった。第2次大戦は「石油をめぐる戦い」であった。戦後、日本は世界銀行から借金をして水力発電開発に向かった。
 
その代表が、三船敏郎と石原裕次郎が出演した映画『黒部の太陽』(1968年公開)の黒四ダム(正式名称は「黒部ダム」)発電事業だった。当時高校生だった私は、この映画を観て、ダムを造る土木技術者になろうと決めた。
 
我々の年代にとって、水力発電は最も当たり前の国産エネルギーであった。水力発電は日本の戦後の高度経済成長を支えた、文字通り“エンジン”であった。
 
しかし、50歳以下の多くの人々は水流がエネルギーということを身近に感じない。日本の高度成長を支えたのは水力発電だったことも知らない。
「水流は太陽エネルギー。ダムは太陽エネルギーの貯蔵庫」という観点から水力発電を再認識する時期に来ている。


◎ベルの予言「日本は水力発電で発展する」
 
今から1世紀以上前の明治31年(1898年)に、グラハム・ベルが来日した。ベルは電話の発明で知られているが、地質学者でもあり当時は米国地質学会の会長であった。一流の科学誌『ナショナル ジオグラフィック』の編集責任者でもあった。
ベルは、日本列島は山が多く、雨の多い気候であることに気づき「日本は豊かな水力エネルギーを保有している」「日本は水力発電で発展する」と演説している。
 
日本列島はアジアモンスーンの北限にあって、さらに海に囲まれている。世界の同じ緯度の国々は、日本のように降水量は多くない。
 
雨は太陽エネルギーである。太陽が海を照らし、海水が蒸発し、その水蒸気は上空で冷やされ雨となって陸に戻ってくる。この太陽エネルギーは無限にあり、量も膨大である。ただし、雨のエネルギーは単位面積当たりのエネルギー量は薄い。太陽光や風力など他の再生エネルギーと同じ欠点を持っている。つまり、雨のエネルギーを濃くする工夫をしないと、エネルギーとして使いものにならない。ところが日本列島の場合、「山」という地形がこの問題を解決してくれる。


◎日本列島は薄い太陽エネルギーを集める装置
 
東京23区にいくら大量の雨が降ってもエネルギーにはならない。平らな土地を水びたしにするだけである。ところが、関東の丹沢山地や奥多摩に降る雨は谷に集まり、相模川や多摩川の水となって流れ落ちてくる。山々の谷には、大量の雨が自然に集められていく。つまり、日本の山岳が単位面積当たり薄いエネルギーの雨を集め、濃い密度の水流に変えていく。しかも、山々は標高が高く、集まった水流の勢いは強い。つまり、位置エネルギーがとても大きい。
 
日本列島は平均すると68%が山地で、しかも列島の北海道から九州まで中央を脊梁山脈が走っている。太平洋側、日本海側を問わず、全ての土地が均等に川という水流のエネルギーに恵まれている。


◎ダムは太陽エネルギーの貯蔵庫
 
雨と山岳地帯は自然が日本に与えてくれた恵みだ。しかし、雨の降りかたは極端に変動する。エントロピーが大きく使い勝手の悪いエネルギーなのだ。さらに、日本の地形は急峻で、降った雨はあっという間に海に戻ってしまう。大多数の河川の雨は、日帰りで海に帰ってしまい、大きな河川でも1泊2日、せいぜい2泊3日ぐらいしか陸地にいてくれない。
 
このために、あっという間に海に戻ってしまう水を貯蔵するダムが必要となる。このダムは山岳地帯で位置エネルギーを保つことにもなる。
ダムはピラミッドをしのぐ巨大な構造物だが、極めて強固な構造物だ。その理由は3つある。1つ目は、ダムのコンクリートには鉄筋がないので、鉄が錆びて劣化することがない。2つ目は、ダムの基礎は強固な岩盤と一体化している。3つ目は、コンクリートの厚みが桁違いに厚く安全な構造となっている。
 
しかし、巨大ダムを次々と建設する時代ではない。これからは既存ダムの潜在的な水力発電能力を引き出すことが大切となってくる。


◎既存ダムの有効活用

【1】ダムの運用を変更する
 
現在ある既存ダムの潜在的な発電能力を引き出せば、発電量の30%まで可能であると試算している。そのための方策は大きく分けて3つある。
 
1つ目は、ダムの運用変更で、ダムの空き容量を利用して発電に活用すること。現在日本の多目的ダムには、夏場、水を半分程度しか貯めていない。これは、襲ってくる洪水を貯留して、下流の災害を防ぐためである。
 
多目的ダムでは「利水」(水を利用すること)と「治水」(洪水を予防すること)の2つの目的がある。
 
利水はダムに水を貯めたい、治水はダムを空にして洪水を待ちたいといった二律背反の関係にある。この両者の折衷案として、現在の多目的ダムのルールが法律で決まっている。
 
この「特定多目的ダム法」は昭和32(1957)年に成立したもので、当時はテレビもなく、台風進路の予測もできない状況であった。あれから60年経った21世紀の今、気象予測の水準は当時と全く違う。
 
通常はなるべくダムに水を貯め、水力発電の効果を高めておく。台風が接近してくれば、今はその予測は1週間前に分かる水準にある。大雨が降る数日間から事前に放流しておけば、洪水を貯め込む空容量は十分確保できる。
ダムの潜在力を活かす鍵を握っているのは「河川法」という法律だ。河川法は過去2度改正されている。今は3度目の改正を行う時で、河川法第1条を改正して「河川の水エネルギーを最大限活用する」という趣旨の文言を付け加える改正が求められる。そして、日本国家として、河川の水エネルギーを積極的に利用していくことを宣言していく。


【2】既存ダムを嵩上げする
 
2つ目は、既存ダムの嵩(かさ)上げがある。嵩上げとは、既存のダムを高くする改築のことを言う。例えば、高さが100メートルのダムがあるとすると、このダムをあと10メートル高くすれば、多くの水が貯められ、水位も10メートル上がり、発電力の増加につながる。水の位置エネルギーは、その水量と高さに比例する。高さ的にはわずか10%の違いでも、電力で考えると単純に計算しても発電量は70%も増加する。つまり、10%の嵩上げはダムをもう1つ造るのと同じことになる。しかも、この費用は同じ規模のダム工事なのに桁違いに安く済む。
 
ダム嵩上げの場合は、水没集落への補償(人々の暮らす村を丸ごと水没させてしまうため)、付帯道路や付帯鉄道の費用はすでに支払い済みとなっている。新規のダム建設はもちろん、他の発電と比較しても圧倒的に安価になる。


【3】中小水力を推進する
 
3つ目は、現在は発電に使われていないダムでも発電していくことだ。日本には発電に利用されていない多くのダムが存在している。大きなものでは、国の直轄の多目的ダムから、都道府県の多目的ダム、そして国や都道府県が管理している砂防ダム(小さな渓流などに設置される土砂災害防止のための設備)まで様々である。ダムは大きければ、発電量が多くなり効率はいいが、ダムの高さが10メートルクラスの砂防ダムでも発電は可能で、100~300kWほどの電力は簡単に得られる。中水力発電の潜在力は思いのほか大きい。将来は、砂防ダムや農業用水ダムのように、発電とは別の目的で造られた多数のダムの発電能力を積極的に活用すべきである。


◎ダム湖は国産の油田

私は(1)運用変更と(2)嵩上げだけで、343億kWの電力量が増やせると試算している。これに(3)現在は発電に利用されていないダムを開発(技術的には何ら問題がなく、再生可能エネルギーの固定買取制度のおかげで、経済的にも好条件となっている)して、少なく見積もって1000kWを加えると合計で1350kWの電力量が増やせる計算になる。これに既存のものを合わせると、約2200kWとなり、日本全体の電力需要の約20%を賄うことができる。
これだけの純国産電力を安定的に得られる意味はとても大きい。仮に家庭用電力料金では、1000億kWの増加で、1kW当たりを20円とすると、年間で2兆円になる。100年で200兆円の電力が新たに生まれることになるというわけだ。
 
ダム技術者の私から見れば、ダムに貯められた雨水は石油に等しく、ダム湖は国産の油田のように思える。しかも、このエネルギーは、ダム湖に雨が貯まるほど増え、まるで魔法のように涸れることはない。
 
私は近代文明のシンボルとも言える巨大ダム(川治ダム、大川ダム、宮ヶ瀬ダム)建設に従事してきた。しかし、巨大ダムの建設には大きな犠牲が伴った。水源地域の大きな犠牲と引き換えに、洪水を防ぎ、飲み水を供給し、近代化のエンジンであった電気エネルギーを得て、日本は高度経済成長を成し遂げた。

現在の日本の繁栄は、私たちの先人、巨大ダムに沈んだ集落の多くの人々の犠牲があって成り立っている。だからこそ、この巨大遺産を無駄にすることは許されない。有効に使っていかなければ、過去に犠牲を強いた人々(生まれ育った家、学んだ学校、遊んだ小川、恋人と歩いた丘、夫婦で将来を誓った神社やお寺など全てを失った人々)や自然環境に対して申し訳が立たない。


◎官民総力を挙げて水力発電に協力を
 
水力発電の問題は、国交省(河川の管理)、経済産業省(エネルギー問題)、農水省(土地改良)、環境省(自然環境)、財務省(国有財産処理)、総務省(地方自治)など、多くの省庁が関係している。具体的な行動に移していくためには、それら関係省庁を指導する国会議員のガバナンスが絶対に必要になってくる。
この構想が日本の将来にとって、多大な恩恵をもたらす。 
水力発電は天から日本列島が授かった純国産エネルギーなのだ。

(JBpressより)










「九条錫杖経とはどういうお経でいつ唱えるのですか?」

2018-08-20 05:52:52 | 日本

川崎市の梶が谷駅近く、下作延にある身代わり不動に参拝した。その時に、「錫杖経」を読んだが、なかなか心に残る教えであった。
以下、「錫杖経」について学ぶ。



1、まず「錫杖」とは密教大辞典によると「梵に隙棄羅、喫棄羅といふ。聲杖、鳴杖又は智杖、徳杖等と訳す。その名義につき釈子要覧には、この杖を振れば錫の声あるゆえに錫杖となずくと云ひ、錫杖経に錫の字を釈して錫は軽の義なり、此の杖に依倚すれば煩悩を除き、三界を出故に錫杖と称すと。又錫は明なり、智慧の明を得るが故に錫杖と名く等、種々の説を出せり。又同経には智杖、徳杖の名義を釈して、聖智を彰顕するがゆえに智杖と名け、功徳の本を行ずるがゆえに徳杖と号すると云へり。其の形状は木杖の上端しに銅鉄等の金属にて作れる四鈷または二鈷を附し、その鈷に十二個或は六個の鐶を掛く。是を振る時音を発す。比丘十八物の一にして、行乞のとき之を振りて人家の注意を喚起せしめ或は行路にて禽獣毒類等を警しむ。後世修験者亦六鐶の錫杖を用ふ。錫杖経には錫杖を持つ威儀法に二十五事ありといへり。千手観音、延命地蔵、不空羂索菩薩等これを所持す。また縁覚の通三昧耶形なり。二鈷は真俗二諦・四鈷は苦集滅道の四諦、六鐶は六度満行、十二鐶は十二因縁、上のあ五輪は五大所成の法界塔婆を表す。
錫杖を用ふる時、唱える偈頌に二種あり。一を九条錫杖と称し、一を三条錫杖と称す。・・・三条錫杖の文は九条錫杖の最初の三条の文にして、・・・三条は三界、九条は九地にして共に迷界を表す。聲曲は諸仏説法の音聲なり、之を振り之を唱へて、三界九地の衆生を驚愕して生死を出離せしむ。・・」

2、なお「九条錫杖」の項には「・・・文段九条に分る、第一平等施会条、第二信發願条、第三六道智識条、第四三諦修習条、第五六道化生条、第六捨悪持善条、第七邪類遠離条、第八三道消滅条、第九回向発願条なり。第一条の最初『手執錫杖 当願衆生 設大施会 示如実道』の四句一偈は新訳華厳経十四浄行品に出も、他の諸句は出拠明かならず。・・・この錫杖は普通の法会には用ひず、二十一年目毎に行ふ高野山奥の院御廟葺替の落慶法要にこれを用ひしが、近来は三月二十一日高野山奥の院の通夜にもこれを用ふ。智積院にては毎年十二月十一日朝より開山堂にて通夜、興行大師陀羅尼会を修し、翌十二日講堂における午前の法要の最初に・・この九条錫杖を誦唱す。・・・」とあります。普通のお寺では護摩祈祷、大般若祈願、地鎮祭、交通安全祈願その他お払いに唱えられるようです。

3、「九条錫杖経」です

(第一平等施会条(錫杖を手に執るものは常に、十界の凡夫と聖者に法や財を施し、悟りへの道を示して、衆生を導き、この功徳を以て、仏法僧の三宝に供養するよう心がけねばならない))


◎錫杖(しゃくじょう)の功徳
 
比丘(びく)十八物(※1)の一つで、修行僧が野山を巡業する時、猛禽や毒虫などの害から逃れるため、これをゆすって音を立てながら歩いた。錫杖は常に浄手(右手)に持ち不浄手(左手)に持つことを禁止されている。街に入ってからは、家々の門前にて乞食(こつじき)するときにこれをゆすって来意を知らせた。この歩きながら使うものを錫杖、また法要中に法具として使う短いものを手錫杖といい、その音色により『錫(すず)』の字があてられた。
 巡錫に用いられる錫杖は、ほぼ等身で、杖頭部・木柄部・石突の部分に分かれる。杖頭部は仏像や五輪塔を安置し大環に小環を6個あるいは12個付ける。法要で用いる錫杖は、柄を短くしたものであるが、杖頭部が三股九環・四股十二環のものもある。当山では、錫杖は修行大師像に見られ、手錫杖は護摩祈願の中で使われている。
 錫杖は『錫杖経』に説かれるように厄災や魔を祓う法具である。仏像に於いては、千手観音・不空羂索観音・地蔵菩薩の持物として錫杖を見ることができる。また総本山長谷寺の本尊十一面観世音菩薩様の右手に錫杖が握られており、衆生救済の色を濃くしている。通常十一面観音様の右手は垂下(すいげ)して数珠を持つだけであることから、本山の観音様は長谷型観音と呼ばれている。
 

◎錫杖経に曰く

『當願衆生(とうがんしゅじょう) 十方一切(じっぽういっさい) 地獄餓鬼畜生(じごくがきちくしょう) 八難之處(はつなんししょ) 受苦衆生(じゅくしゅじょう) 聞錫杖聲(もんしゃくじょうしょう) 
速得解脱(そくとくげだつ) 惑癡二障(わくちじしょう) 百八煩悩(ひゃくはちぼんのう) 發菩提心(ほつぼだいしん) 具修萬行(ぐしゅうまんぎょう) 速證菩提(そくしょうぼだい)』
 
「十方世界 地獄界 餓鬼界 畜生界 八難の世界で苦を受ける衆生は 錫杖の音を聞いたならば 速やかに惑障(わくしょう)(※2)癡障(ちしょう)(※3)百八の煩悩から解き放たれて 菩提心(※4)を発(おこ)し あらゆる功徳を積む修行を行って速やかに悟りを得られますように 衆生のために願います」
 
錫杖は、その清らかな錫の音であらゆる衆生の厄災を祓い、悟りへと導きます。
合掌.

 
※1 比丘十八物 昔、大乗仏教の修行僧が常に身に着けていた十八種の品
※2 惑障  人を惑わすあらゆる状況
※3 癡障  悟りに対する無知の心
※4 菩提心 悟りを求める心
 










「弘法大師空海 真言密教⑦」

2018-08-10 05:41:42 | 日本

『秘密曼荼羅十住心論』

羝羊(ていよう)自性なきが故に善にうつり、愚童薫力の故に苦を厭(いと)う。
[現代語訳]
 第一異生羝羊心の段階の人も常に羝羊心のままということではなく、縁によって善心を起こして第二愚童持斎心の段階に移る。愚童持斎心の段階の人も、心の中の真如の力によって苦を嫌う気持ちが生じる。
[補足】
羝羊(ていよう)とは、欲望のまま生きている人。
異生羝羊心と愚童持斎心について、弘法大師はその著書「秘密曼陀羅十住心論」の中で人間の心を次の10段階に分けて説いている。これを十住心論という。その第一段階が異生羝羊心、第二段階が愚童持斎心であるとしている。『十住心論』の内容を簡略に示したものが、「秘蔵宝鑰」
異生羝羊心(いせいていようしん)・・・・・ 欲望、煩悩にまみれた心。.倫理以前の世界。
愚童持斎心( ぐどうじさいしん)・・・・・・・・道徳が芽生えた段階.。儒教の世界。
嬰童無畏心(ようどうむいしん)・・・・・・・・宗教心が目覚めた段階。インド哲学、老荘思想の世界。
唯蘊無我心( ゆいうんむがしん)・・・・・・己の無我を知る段階。声聞(小乗仏教)の世界。
抜業因種心( ばつごういんじゅうしん)・・・己の無知を除く段階。縁覚(小乗仏教)の世界。
他縁大乗心( たえんだいじょうしん)・・・・人の苦しみを救う(大乗仏教)の段階。法相宗の世界。
覚心不生心( かくしんふしょうしん)・・・・一切は空であるという段階。中観、三論宗(大乗仏教)の世界
一道無為心( いちどうむいしん)・・・・・・すべては真実であるという段階。天台宗(大乗仏教)の世界。
極無自性心( ごくむじしょうしん)・・・・・・・対立を超えるという段階。華厳宗(大乗仏教)の世界。
秘密荘厳心 (ひみつしょうごんしん)・・・・無限に展開する段階。真言密教(大乗仏教)の世界。

そのためにはどうすればよいのだろうか


『秘密曼荼羅十住心論』

仏教はすでに存せり、弘行人に在り。
[現代語訳]
仏の教えはすでにある。これを弘め行うのは人による。


『秘蔵宝鑰』

法は人によって弘まり、人は法を待って昇る。
[現代語訳]
仏の教えは人によって弘められ、人は仏の教えによって悟りを得ることが出来る。


『秘密曼荼羅教付法伝』

道は自ら弘まらず、弘まること必ず人による。
[現代語訳]
仏教の教えは、それだけで自然に弘まることはない。弘まるには必ず人の力に依らなければならない。


『三教指帰』

未だあらじ学ばずしてよく覚り、教に乖(そむ)いてもって自ら通ずるものは。
[現代語訳]
いまだかって、学ばないで覚りを得たり、仏の教えに背いて覚りの境地に達したものは、いない。


『般若心経秘鍵』

迷悟われに在れば発心すればすなわち到る、明暗他にあらざれば信修すれあたちまちに証す。
[現代語訳]
私たちは本来仏と同じであるのだから、迷っていたり覚ったりするのは私たちの問題である。だから悟りを求めようとする心を起こせば、覚りを得ることが出来る。煩悩がなくなったり、覆われていたりしているのは私たちの心の問題であるから一生懸命修行すればたちまちに悟ることが出来る。
[補足]
迷悟とは、迷いと悟りの意。


『教王経開題』

悲しいかな悲しいかな三界の子、苦しいかな苦しいかな六道の客。善知識善誘の力、大導師大悲の功にあらざるよりは、何ぞよく流転の業輪を破って、常任の仏果に登らん。
[現代語訳]
なんと悲しいことであろうかこの三界に輪廻している人達よ、なんと苦しいことであろうか六道に輪廻している人達よ。良き指導者の力、大導師の大悲の功徳に依らなければどうして輪廻の輪を抜け出して悟りの位に昇ることが出来ようか。
[補足]
三界(さんがい)とは、
六道とは、


『真言付法伝』

機にあらず、時にあらざれば、聴聞し信受し流転することを得ず、必ずその時を得べし。
[現代語訳]
適切な機根(教えを聞いて)の者がいなければ、適切な時期でなければ、その教えを聴聞したり、信受したり、修行したり、弘めることは出来ない。
必ずそのような機根の人やそのような時期でなければならない。
[補足]


『念持真言理観啓白文』

覚れるを諸仏と名づけ、迷えるを衆生と名づく。衆生疑(やまいだれがつきます。おろかの意)暗にして自ら覚るに由しなし、如来加持してその帰趣を示したもう。
[現代語訳]
適切な機根の者がいなければ、適切な時期でなければ、その教えを聴聞したり、信受したり、修行したり、弘めることは出来ない。必ずそのような機根の人やそのような時期でなければならない。
[補足〕



『即身成仏義』

加持とは如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく。
[現代語訳]
加持とは仏の大いなる慈悲と衆生の信心ということである。仏の慈悲の光が、すべての人々を照らしているのを加という。そしてこの仏の光明を信ずる真言行者がそれを受け止めるのを持という。


『秘蔵宝鑰』
春の種を下ろさずんば、秋の実いかんが獲ん。
[現代語訳]
春に種をまかなければ、秋にどうしてその実を収穫できるだろうか。


『続遍照発揮性霊集補闕抄』

虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん。
[現代語訳]
この果てしない空がなくなり、衆生がだれもいなくなり、皆が覚りを得てこれ以上覚りを得るものがいなくならなければ、私の願いは尽きない。


『遍照発揮性霊集』

虚しく往いて実ちて帰る。
[現代語訳]
人々は仏教についての知識もないままに恵果和尚のもとを訪れたけれども、密教の教えをしっかりと受け継いで帰る。


『秘密曼荼羅十住心論』

小欲の想い、はじめて生じ、知足の心やや発る。
[現代語訳]
欲望を抑える心が初めて生じ、少しのものに満足する心が次第に起こる。
【補足]


『秘蔵宝鑰』

それ禿(かぶ)なる木、定んで禿なるにあらず。春に遇うときは、すなわち栄え華さく
[現代語訳]
冬に葉を落としている樹は、そのままずっと芽吹かないのではない。春になれば、一斉に芽吹いて華を咲かせる。




<了>














「弘法大師空海 真言密教⑥」

2018-08-10 05:40:18 | 日本

◎衆生の心をどのように捉えていたのか

『般若心経秘鍵』

哀れなるかな、哀れなるかな、長眠の子、苦しいかな、痛ましいかな、酔狂の人。痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲(あざわら)う。かって医王の薬を訪らわずんば、いずれのときにか大日の光を見ん。
[現代語訳]
ずうっと寝ている人は、なんて哀れなんだろう、ひどく酔っている人は、苦しいだろう、かわいそうなことだ。
ひどく酔っている人は、素面の人を笑い、煩悩に纏われている人は覚った人を馬鹿にして笑う。
勝れた医者に診察してもらわなければ、決して病気が治らないように、そのままではいつになったら大日如来の教えに接することが出来るのだろうか。
[補足]弘法大師は、「われわれは悟り(自分の心の中の仏に気づくこと、これを如実智心という)を得ればわれわれ(衆生)と仏は同じである]と教えている。


『秘蔵宝鑰』

いかんが菩提とならば、いわく実の如く自身を知るなり。
[現代語訳]
覚り(菩提)とは何かといわれたら、それは取りもなおさず、私たちの本当の心を知ることである
本当の心とは、すなわち菩提心である。


『声字実相義』

悟れるものは大覚と号し、迷えるものは衆生と名づく。
[現代語訳]
仏と私たち凡夫とは本来違いはないが、覚った人を大覚と呼び、煩悩に纏われている人を衆生という。


『秘密曼荼羅千住心論』

衆生は狂迷して本宅を知らず、三趣に沈論(論はごんべんではなくさんずい)し、四生に玲併(リョウビョウ:玲はたまへんではなくあしへん、併はにんべんではなくあしへん)す。
[現代語訳】
衆生は煩悩に執着しているので、本当は仏になることが出来ることに気づいていない。そのため六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の中で輪廻を繰り返しているのだが、一番下の地獄の苦しみを味わったり、餓鬼や畜生道に生まれ変わっている。また、六道の有情は四生(胎生・卵生・湿生・化生)といわれる生まれ方をするのだが、この四生にさまよって、なかなか仏になることが出来ない。
[補足】
三趣とは、三悪趣の略。衆生が自己の業により到る地獄道、餓鬼道、畜生道のこと。三悪道、三途と同じ意味。
沈輪とは、沈も輪も沈むの意。


『秘密曼荼羅千住心論』

心病多しといえども、その本は唯一つ、いわゆる無明これなり。
[現代語訳]
心の病気は沢山あるけれども、その原因はただ一つ、無明によって引き起こされている。


『秘蔵宝鑰』

身病を治すのには必ず三の法による、一には医人、二には方経、三には妙薬なり。
[現代語訳]
身体の病気を治すのには、必ず三つの方法がある。一つ目は医者、二つ目は正しい処方、三つ目は優れた薬である。      


『秘蔵宝鑰』

それ禿(かぶ)なる樹、定んで禿なるにあらず。春に遭うときは、すなわち栄え華さく。
[現代語訳]
冬に葉を落としている樹は、そのままずっと芽吹かないのではない。春になれば、一斉に芽吹いて華をさかせる。


『般若心経秘鍵』

それ仏法はるかにあらず、心中にしてすなわち近し、真如外にあらず、身を棄てていずくんかもとめん。
[現代語訳]
仏の教えは、どこか遠いところにあるのではない。私たちの心の中にあって、本当に身近なものである。真理は私たちの外にあるのではないから、この身を捨ててどこに求めようというのか。


『秘蔵宝鑰』

近うして見難きはわが心なり。細にして空に遍ずるはわが仏なり。
[現代語訳]
最も近くにあるのになかなか見られないのは、私の心である。細かくて虚空に遍満するのは私の仏である。


『般若心経秘鍵』

蓮を観じて自浄を知り、菓(このみ)を見て心徳を覚る。
[現代語訳]
泥の中から茎を伸ばし、その泥に汚されることなくきれいな花を咲かせる蓮を見て、私たちの心も本当は清浄であることを知り、蓮の実を見て心に仏の徳が具わっていることを覚る。


『続遍照発揮性霊集補闕抄』
もし自心を知るはすなわち仏心を知るなり。仏心を知るはすなわち衆生の心を知るなり。三心平等なりと知るはすなわち大覚と名ずく。

[現代語訳]
もし本当の自分の心を知ることが出来れば、それはすなわち仏心を知ることである。仏心を知ることが出来れば、それは衆生の心をしることに他ならない。自心と仏心と衆生心が平等であることを解ることが覚りである。

どんなきっかけでかわるのだろうか


『秘密曼荼羅十住心論』
万劫(ばんごう)の寂種、春雷に遭うて甲圻(こうさ)け、一念の善機,時雨(じう)に沐(もく)して牙を吐く。
[現代語訳]
長い間芽を出さなかった種も、春雷によって条件が整って殻が割れて芽を出すのと同じように、慈雨によってほんの少しの善心が芽を出す。
[補足】
万劫とは、永い年月の意。
時雨とは、ほどよいときに降る雨
沐して、身体などを洗う















「弘法大師空海 真言密教⑤」

2018-08-10 05:39:22 | 日本

◎六波羅蜜という菩薩行

「波羅蜜」とは、「彼岸」にいたるための実践的方法論。
「此岸(しがん)は、煩悩に悩み苦しむこと。」「彼岸は、平和で穏やかな状態」

「布施(ふせ)波羅蜜」、「持戒(じかい)波羅蜜」、「忍辱(にんにく)波羅蜜」、
「精進(しょうじん)波羅蜜」、「禅定(ぜんじょう)波羅蜜」、「智慧または般若波羅蜜」

このなかの「布施(ふせ)波羅蜜」と「忍辱(にんにく)波羅蜜」は、上記三学と「精進」とは別に、対人・対社会的な実践目標として新たに加わりました。


一、「布施(ふせ)波羅蜜」

「無欲でありたい」=「人の喜ぶのをうれしくおもう」
☆人のためでなく、自分の喜びとして生きたい。
人を愛するということは、実は「本当にその人のために、何一つできるものなどない。
命をあげることも、痛みをとってあげる事もできない。ただ、そうなることを祈るだけ。」
かもしれない。だから、できることを惜しみなく差し出すこと。それが、布施!


二、「持戒(じかい)波羅蜜」

「戒(こころざし)」。「欲」をむさぼらないこと。人の邪魔をせず、また重荷にならないこと。
釈迦『不害の説法』
「誰もが自分を可愛いと思っている。しかし、あらゆる人がそう思っていることを深く認識し他人が己を可愛がりたい気持ちを、害してはならない。」
 ☆押し付けがましい愛、独善的な愛、独占欲、名誉欲、評価欲。「なんのため」、「誰のため」。


三、「忍辱(にんにく)波羅蜜」

『西遊記』・・・孫悟空=「瞋恚」。「天」や「人」を呪い、恨む気持ちはないか?←「忍辱」
         猪八戒=「貪」。 「食欲」、「睡眠欲」、「性欲」。         ←「持戒」
         沙悟浄=「痴」。 「無思慮」、「無判別」、「無知」。        ←「精進」
 ☆責任を他に転嫁しない生き様。


四、「精進(しょうじん)波羅蜜」

 「路」でなく「道」を進もう。
 「路」は、行き止まる小さな道。「道」とは、終わりのない大きな道。
☆終わりなき終点を目指す生き方。「努力そのものを楽しむこと。」
『坐れば坐っただけの仏』道元禅師

「初発心のとき、すなわち正覚(しょうがく)を成す。」
(初めて悟りを求める心を起こしたとき、たちまち正しい悟りを成就する。」(『華厳経』)


五、「禅定(ぜんじょう)波羅蜜」

苦悩を解決するのは、なにより意識の変容を促すこと。
そのために、ある種の精神集中状態になること。「禅」、「読経」、「瞑想」。

五智・・・第五識=「マナ識」無意識の自己執着
第六識=「アーラヤ識」生まれる前から持っている習慣的行為や体験・思考がDNAによって持っている。「含蔵識」「地獄」や「餓鬼」「畜生」は、「アーラヤ識」に潜む自己の姿。自己愛。

そんな誰もが持っている「マナ識」、「アーラヤ識」を越えて、「空」になることが、「空」の認識こそが、「智慧」を生む土壌である。だからこそ人はすべて「仏」である。

「自分の中に潜むあらゆる可能性を意識化する作業が瞑想であり、そうして次々に意識化され、おとなしくなった自己の奥底に、霧が晴れ水面が見えてくるように現れるのが「清浄心」になりおおせたアーラヤ識。
      

六、「智慧または般若波羅蜜」

「空」とは、固定的実体を否定する概念。
物理学的にも心理学的にも、目前に存在する実体は、すべて永遠不滅でも永久不変でもない。

正のエントロピーの法則にしたがって、集束したものは必ず拡散する。
人の意識も、例外ではない。

五智・・・「大円鏡智」=私たちの心に残る残像は、「執着の雲」に覆われている。
鏡は、映るときだけをあるがままに映す。いつでもあらゆるものが、ありのまま映る。
「法界体性智」=宇宙の調和が、心の中で体現される。

☆本来持って生まれたはずの「智慧」が、暮らしや意識の固執によって、重くなったり汚れて、曇っていく。それを目指して磨かなくては。そうして、いつの日か、意識しないで「空」になることを信じて。