龍の声

龍の声は、天の声

「西行法師と吉野桜④」

2020-03-29 22:33:31 | 日本

4 芭蕉、吉野桜と初対面

芭蕉が、憧れの吉野桜の開花に出会ったのは、貞享五年(1688)春であった。この時、芭蕉は四十五歳。「野ざら し」の旅から四年後のことである。この年は、奥の細道の旅に出る一年前に当たる。この旅のことは、「笈の小文」と呼ばれる紀行文集として、後に刊行される ことになった。又この旅のきっかけであるが、芭蕉の実父の三十三回忌に当たり、亡夫を偲ぶ旅でもあった。
前年の貞享四年の旧暦十月二十五日に江戸深川を出立した芭蕉は、名古屋の熱田神宮を訪ねた後、実家にて越年をし て、二月二十八日に父の三十三回忌の法要を終えると、三月十九日に、念願の吉野桜と対面を果たすべく、故郷の伊賀を後にしたのであった。
芭蕉は、浮き立つような気持ちを「笈の小文」の中で、このように記している。
「弥生三月の半ば過ぎに、何となく心が浮き立っていた。心の中に吉野の桜のことが思い出されて、西行さんの歌が浮 かんだ。
『○吉野山こぞの枝折(しおり=枝を折って帰り道の道しるべとすること)の道かへてまだ見ぬ花の花を尋ねむ』
その歌が、どうしようもなく、私を枝折のように吉野の山へ吉野の桜へと導くのである…。」(現代語訳佐藤)
そして芭蕉は、旅で知り合った万菊丸と名乗る旅人と、

「よし野にて桜見せふぞ檜の木笠」

(解釈:ひの木の笠よ、さあ吉野に連れて行って、桜を見せてやるからな)
と、句を詠んで、吉野に向かって歩いて行ったのである。
そして吉野に向かう途中の箕面(みのお)の滝(現大阪府箕面市にある)の側の道ばたの桜をこのように詠んだ。


「桜がりきどくや日々に五里六里」

(解釈:いや我ながら桜を見ると云っては飽きもせず日々に五里や六里歩いているのだ。こうして私も風狂の道に分け入って しまったのだろうか。)

「日は花に暮れてさびしやあすならふ」

(解釈:桜の花を見ていて、時を忘れていると、もう日が暮れようととしている。しかも夕日は翌檜(あすなろ)の花の中に 沈んでしまった。今日にもっと桜を見たかったのに。寂しいことではあるが、仕方がない。また明日に桜の園を見に歩くことにしよう)

「扇にて酒くむかげやちる桜」

(解釈:戯れに幽玄を気取り扇を杯にし、花見酒を決め込んでいると、その陰で桜がはらはらと散ってくるのだ。)
この桜の連作の第二句目は、実に思わせぶりな句だ。
「笈の小文」が刊行される原文になったと思われる「笈日記」の方で、次のような言葉が句の前に添えてある。
「”明日は檜の木になろう”という古い言い伝えがあるが、昔、谷の老木が云ったということである。
『昨日は夢のように過ぎて、明日は今だに来ないでいる。ただ死ぬ前には、一献の美酒を飲むことだけが楽しみだった が、明日には、明日には、と云いながら暮らして来て、終いにとなって、賢者から怠慢のそしりを受けることになったのだ…』(現代語訳佐藤)

「さびしさや華のあたりのあすならふ」

(解釈:実に寂しいことだ。桜の近くには、翌檜(あすなろ)の花が立っている。あすなろう(明日なろう)やあすならおう (明日習おう)ではいけないのだ。今日いま出来ることを精一杯やっていなければ、明日など来る訳はない。それほど人生は短いのだ。)」
現代人は、芭蕉のことを俳聖とか言って持ち上げているが、芭蕉は、西行さんという旅の巨人を前にして、「自分は翌 檜の木だ!」と本気で思った。芭蕉でもこのようだ。だからこそ、人は誰でも、この翌檜(あすなろ)の話を教訓としなければならない。ここには我々と同じ自 らの惰性を嘆く、人間芭蕉がいる。彼は、きっと旅寝の枕を抱きながら、「こんなことをしていたら、いつまでたっても、西行さんに追いつけないぞ。もっと気 を引き締めなければ。」そう思ったに違いない。





「西行法師と吉野桜③」

2020-03-29 22:33:31 | 日本

3 吉野西行庵の芭蕉

こうして芭蕉は、桜のない初秋の旧暦9月十日頃、桜の名所の吉野に着いた。その時の吉野の印象をこのように記して いる。
「ひとりで吉野の奥を辿って行くと、実に山は深く、白い雲が峰々を覆い、谷を煙るように降る雨が谷を埋めるように 降っている。山に暮らす者達の家は山の所々に点在し、西からは木を伐採する音が東に木霊して響いて来る。寺院の鐘の音もまた人の声のようにわが心の奥を揺 さぶるのだ。昔からこの山に入りて、浮き世を忘れたる人の何と多かったことか。その多くは詩作に逃れ、歌に隠れてこの山に隠棲(いんせい=隠れ住むこと) したのである。まさに中国にあるという廬山(ろざん)という処も、吉野のような処ではなかっただろうか。
そこである僧坊に一夜を借りて

「碪打ちてわれに聞かせよ坊が妻」

(解釈:吉野の秋はしんしんと冷えてきた。こんな秋の夜には、この僧坊の妻が夜なべに衣を打つ碪(きぬた=衣を柔らかに するために打つ道具)の音を聴かせてほしいものだ。)」(現代語訳佐藤)

芭蕉は吉野に来る前、伊賀(三重県西部)の兄が住む実家によって、近年亡くなった母の菩提を弔っている。この旅そ のものが、母への追慕の旅でもあった。その意味で、この句が出来た背景には、よく云われるように新古今集(藤原雅経作)の

「○み吉野の山の秋風さ夜ふけて  ふるさと寒く衣うつなり」

(解釈:吉野の山の秋風は、夜が更けて来て、故郷を遠く離れた我が衣をいっそう強く打つことだ。)
という歌を下敷きとして、故郷への郷愁(ノスタルジー)の気持と母への追慕の情を詠ったものと考えて差し支えある まい。きっと芭蕉が幼き頃、秋口から冬にかけて、伊賀の実家では、母が夜なべ仕事で、衣を打っていたことだろう。

いよいよ、芭蕉は、奥吉野の金峰神社の近くにある西行さんの庵に向かう。
芭蕉は、内心あれやこれやと思いを巡らせながら、奥吉野に歩を進めたことあろう。そしてこのようにその印象を記してい る。
「西行さんの草深い庵の跡は、金峰神社の奥の院より右の方へ二町(一町は108mほど)ばかり入った処にあった。 柴をかる人が通う道の道ばたの険しい谷を隔てた処にあって、実に貴い感じがする。西行さんが、

「とくとくと落つる岩間の清水くみほすほどもなきすまいかな」

(解釈:我が庵のそばに、とくとくと清水を湧かせている石清水があるのだが、そこは独り身のこと、たいした炊事もするわ けでもなし、水くみをするほどもないことであるよ)

と詠んだ清水は、昔と変わらず、とくとくと音をたてながら流れ落ちている。」(現代語訳佐藤)

「露とくとく心みに浮世すすがばや」

(解釈:何ときれいなとくとくの清水だろう。この清水の露をもって、浮き世の汚さをすすいでみたいものだ)
結局、芭蕉は「野ざらし」の旅で、吉野の桜には、会えなかった。もちろんそれは初めから分かっていたことだ。しか し芭蕉は、この旅で、吉野の山に、何故西行さんが、この地に草庵を結び三年間も棲んでいたかを実感したはずだ。その理由は、この吉野の地が、桜の名所だっ たからという単純な理由からではない。ここには、都にはない雛びた風情がある。西行さんは、権謀術数に明け暮れた都の中枢にいた北面の武士というエリート 貴族であった。しかしながら、西行さんの周囲では、貴族や宮中の貴き人々が、相手の腹をさぐり合い、骨肉の争いをし、あっけなく失脚し、あるいは命までを も失って行く様を身近に見ていた。いったい若き西行さんに何があったのかは歴史の謎である。それにしてもかわいい盛りの幼き女児と妻を捨てたという現実 は、一種異様にすら感じる。結局、二十三歳の若者佐藤義清(のりきよ)は、自らの名を「西へ行くと書いて「西行」と読ませて、仏法を唱え、風雅の道に活路 を求めて、日本中を身ひとつで、それこそ命の尽きるその時まで歩き続けて亡くなったのである。

吉野の西行さんの庵に辿り着いた芭蕉は、歳を取ったとは云え、四十一歳の青二才であった。現実にこの時の、芭蕉自 身の「野ざらし紀行」を丹念に読めば納得できると思うが、吉野山の景観の表現ひとつにしても、中国の漢詩のイメージを出し切れていないように思う。厳しい ことを云うようだが、日本の山々の景観描写になっていない。またそこで作られた句も、己の世界を確立した詩人のそれではない。やはり、どこかには談林風の どこか大衆の感情に媚びたような臭さが私には感じられる。要は芭蕉が、芭蕉に成りきっていないのである。

もちろんそれでも芭蕉は、必死で西行さんに食らい付いて行こうとしている。深い感動を持って、庵の前で、あるいは 「とくとくの石清水」の前で呆然と佇んだはずだ。それで何とか、未来に通じるヒントを得たことになる。言い方を変えれば、芭蕉は、吉野で西行さんというこ の世ならぬ美しい桜花(はな)を見つけたことになる。桜花の咲かない頃の吉野に来て、石清水を句に詠んだのである。これはどうも象徴的な意味を持つように 考えられる。しかもここにある石清水は、生まれたての純粋な混じりけなのない美しいを誇っている。それは西行さんの人生が込められた歌同様に何の衒(て ら)い我欲もない。するとこの石清水こそが、芭蕉にとっては、西行さんそのものなのである。きっと、芭蕉は、この清水を口に含んだ瞬間、何かを感じたはず だ。そして一気にごくりごくりと西行さんの思いを呑み干した時、「ああこのまま西行さんの歩んだ跡を、もっと辿りたいな」と、強く思ったに相違ない。西行 さんの跡を日本中辿ることによって、日本人の風雅の道に連なれるかもしれない。漠然と芭蕉はそう思ったはずだ。それがゆくゆく、「奥のほそ道」という日本 文芸史上に残る傑作として結実してゆくことになるのである。
 












「西行法師と吉野桜②」

2020-03-28 22:58:38 | 日本

2 芭蕉と吉野桜

芭蕉の生涯は、西行さんの辿った道を、俳諧という新しい感性をもって巡る漂白の生涯ではなかっただろうか。
41歳(1684)になった芭蕉は、このままでは、自分の生涯が、ただの俳諧という道の宗匠(そうしょう=師匠) で終わってしまうのではという危惧を持っていたように思われる。

きっと芭蕉は、心のなかで、
「西行さんは、一生を旅と歌の道に捧げて、日本中を歩いて歩いて歌の道の奥まで分け入って果てたのだ。それに引きかけ、 この深川の庵で、日々他人の俳諧の評や、直しに明け暮れていていいのか。自分の一生とはいったいどんなものか…」
そんな風に、ジレンマを感じ自問自答したに違いない。最近では心理学者が「中年クライシス」などという言葉を生み 出して使用しているが、要は自分の生涯に対する懐疑が生じたことになる。でもそんなことは、どこでもよくあることだ。少し時が経ってしまえば、何であの 時、自分はあんなに悩んだのか、と思うようになる。厳しい言葉で言えば、「諦め」であるが、みんなそのようにして凡庸な生涯を終えて土に帰るのである。し かし芭蕉は、己というものを徹底的に見詰めた稀有な人物の一人だ。最後に芭蕉が出した答えは、漂白の道を究めるという覚悟と決意だった。これは禅の高僧た ちの悟りに近い心境だったかもしれない。この時、芭蕉には、目の前にある道が、はっきりと眼前に広がっていた。
芭蕉が四十五歳で書いた「笈の小文」(1987~1988)という紀行文の中で、そのことを、はっきりと記してい る。

「(前略)しばらく出世のことを願っていたのだが、この為にかえって自分の思うようにならず、しばらく学んでは、 己の愚をしっかりと見詰めかえそうと思ったのだが、やはりこの立身出世という雑念のために思いを果たせなかった。ついにこうして無能無芸のまま、俳諧とい うこの一筋の道に繋がっていることに気づいた。思えば、西行の和歌も、宗祇(そうぎ)の連歌も、雪舟の絵も、利休の茶も、それぞれの奥に通じている道は たったひとつである。しかも風雅(ふうが=詩歌文芸の道におけるもの)の道というものは、やはり道の思想(中国の老子や荘子が万物を創造する自然の流れに 帰れと説く思想。道家または老荘思想と云う)に従って、春夏秋冬を友とすればよいのである。そのようにすれば、見るものが花でないということはない。また 月でないものはない。(すべては風雅の心で見れば花鳥風月となるのだ。)(中略)」(現代語訳佐藤)

そして、
「旅人と我名よばれん初しぐれ」

(解釈:旅先では、ただ一言、「旅人」呼ばれたいものだね。旅に出ようと思ったらどうやら初時雨が降って来たようだ。)○時は冬吉野をこめん旅のつと
(解釈:冬の旅ですから、旅の土産には、吉野のものはありませんぞ)
と詠んでいる。

松尾芭蕉という固有名詞ではなく、「旅人」と呼ばれたいという心境というものは、少し大げさに聞こえるかも知れな いが、悟りの境地に近いものがあるように思われる。栄達の夢を捨てきれず、花の都の江戸に出てきた芭蕉だったが、いつしか自分が、突き詰めてきた道の奥に は、自分が考えもしないような深い道に連なっていることを発見した時の境地は、
「そうだ。自分には俳諧の道しかないではないか。でも今のままでは西行さんや、その他の道の達人たちが為したよう な道の奥までたどり着くことはない。名も家も宗匠という肩書きも捨て去って、旅の道で自分を生かすしか道はない」そう思ったのである。

これは少し褒めすぎかもしれないが、ブッダが、自我との苦闘の果てに、自己の内部になる私欲というものと戦って菩 提樹の下で悟りを得たことと似ている。きっと芭蕉は、ブッダのように、己を生かす道がこんなに身近な処にあったことに驚いたはずだ。
「野ざらし紀行」(1684.8~1685.2)は、決意と覚悟をもって行われた最初の紀行である。
芭蕉は、その紀行文の冒頭で、次のような実に印象的な句を残している。

「野ざらしを心に風のしむ身かな」

(解釈:野ざらしとなった旅人の骸骨のイメージが浮かぶほど、今日は風が心までしみいるような旅立ちの日であることだな あ)
そして住み慣れた深川の芭蕉庵を後にして、奥吉野にある西行庵へと向かったのである。おそらく芭蕉は、西行さんの 住まいの跡に、花を探し、西行さん自身の臭いを感じ、西行さんの跡を、俳諧という道を通して、歩いてゆくことを報告に向かったのではなかっただろうか。

芭蕉が、この旅に出かけたのは、初秋の頃(陰暦8月中旬)であるから、もちろん桜は咲いているはずもない。しかし 野ざらしを思わせるような寒々ととした風が吹いているはずはない。その意味で、この冒頭の句には、かなりの誇張が感じ取れる。芭蕉の心には、西行さんとい う満開の桜が咲いていたはずだ。だから「野ざらし」の冒頭句は、これまで考えられたような死も厭わないというような悲壮な覚悟を表す句というよりは、芭蕉 一流のユーモア心で作られた句と介すべきだ。苦しい旅になるかもしれないが、そこには憧れの西行さんやら能因法師やら、その路の先人たちが待っていてくれ る。それをユーモアで柳に風と軽く受け流す。芭蕉の句の「軽み」(かろみ)は、こんなところにも現れているのかもしれない。だから「野ざらしになっても、 私は旅に行くよ」などという大げさな解釈は、愚の骨頂であり、第一風情というものがない。芭蕉は、初めて世の中に自分の悟った真理を説く、若きブッダのよ うに、どきどきわくわくとしながらの旅だったことになる。
芭蕉は、東海道を西へ西へとどんどんと行く。箱根を越え、富士を見、大井川を渡り、西行さんが、

「年たけてまた越ゆべしと思ひきや  命なりけり小夜の中山」

(解釈:年を取りこの佐夜の中山を越えて、再び奥州へ行こうとしている私だ。ああそれもこれもこの命が保ってくれてのこ とだなあ)
と詠嘆した小夜の中山を越えた。かつて芭蕉は、この西行さんの名歌にちなんで、
「命なりわずかの笠の下涼み」

(解釈:まったく西行法師が云うように小夜の中山を越えるのは容易ではない。命あってのことだ。ましてやこの盛夏のこ と。少しばかり笠の松の下で涼んでゆくことにしようか)
という句を詠んだことがあるが、今回は、馬に乗ってこの難所を越えたのである。そして馬の背中でこんなとぼけた句 を詠む。

「道のべの木槿(むくげ)は馬に喰はれけり」

(解釈:花がかわいそうだ。何しろ乗っていた馬が、道ばたのむくげの花をパクリと喰って、そしらぬ顔で歩くのだから)
「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」

(解釈:唐の詩人の杜牧(とぼく)の詩にもあるが、馬の背に寝て、うつらうつらと夢心地で行くと、夜明けの前の月が遠く の西空に懸かっている。あのゆらゆら立ち上っているのは茶の煙かそれとも行き倒れた旅人を焼く荼毘から上る煙か…。)

第一句を読むと、この辺りにも芭蕉のユーモアとジョーク感覚が、存分に出ている。乗っていた馬が道ばたの花をパク リとやって、そしらぬ顔で歩いて行く様は、人間のようでもあり、吹き出しそうになる。また馬の持つ生命力のような逞しさも感じる。「野ざらし」と云うイ メージを冒頭で提示しながら、実は自分の足で、西行さんのように歩くのではなく、図々しくも若い芭蕉は、馬に乗ってテクテクと涼しい顔で歩いている。まる で西行さんの歌という花をパクリとやるこの馬そのものが芭蕉にも思えて来る。名句とは云えないが、芭蕉のユーモア精神がよく出た面白い句である。
第二の句は、また馬上で、あたかも真夜中に小夜の中山を越えて行くような情景を詠んでいるのだが、おそらくこれは 芭蕉の脚色だろう。それよりも、鼻ぼこ提灯を出しながら、馬の背に揺られている旅の芭蕉が連想されて長閑な感じのする句である。句の言外には、やはり、西 行の「命なりけり」の歌への追慕があり、最後に亡くなった旅人の骸(むくろ)の煙のイメージが、私には浮かぶ。それではあまりに句が、寒々しくなるので、 ここでは茶の煙としたのであろう。

まあそれにしても、今の世の現代俳句というものは、何かあまりに高尚な文学になってしまって、芭蕉も俳聖として奉 り過ぎである。そもそも俳諧は、江戸庶民の滑稽味(ユーモア感覚)から生まれた庶民の言葉遊びであった。ただの滑稽だけではない蕉風とよばれる作風を確立 したと云われる芭蕉であるが、その芭蕉の句にも、この滑稽味が含まれていることは至極当然なことだ。芭蕉は、いささか俳聖として、神格化され過ぎてしまっ ているように感じる。冒頭の「野ざらし」の解釈でも分かる通り、「野ざらし」(野に曝された骸骨)という言葉のイメージは、芭蕉一流のユーモア感覚なので ある。そうした方が余計に句に風情がでる。人生のすべてをかけて一生を風雅の道に捧げるというような解釈では、重たくて芭蕉の句の心を正しく感知すること にはならない。










「西行法師と吉野桜①」

2020-03-28 08:37:55 | 日本

佐藤弘弥さんが「西行法師と吉野桜」についてまとめた論分があった。
以下、要約し記す。


1 西行さんと吉野桜
今年もまた桜の季節が過ぎ去ろうとしている。「桜と云えば、西行さん」と言うほど西行法師は、桜の歌人として名を馳せている。
何しろ、

○願わくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃

(解釈:願いが叶うならば、何とか桜の下で春に死にたいものだ。しかも草木の萌え出ずる如月(陰暦二月)の満月の頃がい い)という辞世の歌を残しているほどだ。そんな西行さんだが、吉野山の桜について、数多くの歌を詠んでいる。新古今集には、以下の三首が採られている。

「よし野山さくらが枝に雲散りて  花おそげなる年にもあるかな」

(解釈:吉野山の桜の枝に掛かっていた雲が散ってみれば、さっきまで、桜が咲いていたように見えたが、実は咲いてはいな かったのだ。花の咲くのが遅い年であることだなあ)

○吉 野山去年(こぞ)のしをりの道かへてまだ見ぬかたの花を尋ねむ
(解釈:今年は去年尋ねた花を尋ねる道を換えてまだ見ていない辺りの花を探したいものだ)

「ながむとて花にもいたく馴れぬれば  散る別れこそ悲しかりけれ 」

(解釈:ずっと花を眺めているせいか、花に情が移ってしまい、花たちと散り分かれてゆくのが悲しく思われることだ)
西行さんは、奥吉野の金峯神社の近くに庵を結んで、三年間桜の園の中に埋もれるように暮らした。現在でも、西行さ んが棲んだ跡が西行庵として遺っているが、桜は吉野山の麓の辺りから、徐々に標高の高い方に向かって、花を咲かせてゆく。きっと西行さんは、桜の頃になる と、そわそわとまるで恋人が、庵に尋ねて来るような心地で、花の開花を待ったことだろう。西行庵が、在ったこの辺りは、桜の名所の吉野でも一番最後に、桜 が開花する場所でもある。
山家集には、こんな歌もある。

「雪と見てかげに桜の乱るれば  花の笠着る春の夜の月」

(解釈:雪が降っているのかと思ってみれば夜桜が風に吹かれて舞っているのであった。桜の彼方には、春の月が花の笠を着 ているように見えた)
日本人にとって古来、「桜」と言えば「山桜」を指した。今は何か、「ソメイヨシノ」(江戸期に豊島区の染井村の植 木職人が作ったヒガンザクラとオオシマザクラの交配種)なる新品種が、全国を早く成長するというので、持て囃されてしまっているが、まったく風情というも のがない。山桜は、吉野山の厳しい環境のなかで、豪雪と寒風に耐えながらやっと大人の木となって花を結ぶ。だからこそ吉野の桜は美しいのである。

吉野の金峯神社は、周知のように役の行者(小角)が開いた古社である。修験道の祖と言われる役の行者は、金峯山の 山上で桜木で金剛蔵王権現を彫り、一心不乱に祈りを続けると、霊験があった。そして桜は神木となり、この地方の人々は、桜の木と言えば、たとえ枯れ木一 本、信仰の対象とし、薪などにはしなかったのである。

もしかすると、西行さんは、吉野山の桜というよりも、ここに宿っている目に見えぬ祈りの華ににこそ美を見いだした のかもしれないと思う。やはり吉野の桜を何処に咲いている桜よりも西行さんが心に掛け、多くの吉野の山と桜に関する歌を詠んでいる理由は、吉野に住む人々 たちが、この山を山岳信仰の対象として、おらが山の桜を、「神の花だから大切にしなさい」と、親から子へと連綿と語り伝えて、丹精を込めて育んできたから に他ならないのである。

そもそも桜とは、勝手に山に群生し、勝手に増えて行く類の花ではない。吉野という山に対する深い信仰があり、この 祈りが、吉野山をして、桜の名所としてきたことは明らかだ。
 















「紀貫之の桜歌/古今和歌集より10首」

2020-03-27 12:29:50 | 日本


「今年より 春知りそむる 桜花  散るといふことは ならはざらなむ」

「ことならば 咲かずやはあらぬ 桜花  見る我さへに 静心なし」

「誰しかも とめて折りつる 春霞  立ち隠すらむ 山の桜を」

「桜花 咲きにけらしな あしひきの  山のかひより 見ゆる白雲」

「桜花 散りぬる風の なごりには  水なき空に 波ぞ立ちける」

「白雪の 降りしく時は み吉野の  山下風に 花ぞ散りける」

「山ざくら 霞のまより ほのかにも  見てし人こそ 恋しかりけれ」

「こえぬまは 吉野の山の さくら花  人づてのみ ききわたるかな」

「一目見し 君もや来ると 桜花  けふは待ち見て 散らば散らなむ」

「桜花 とく散りぬとも おもほえず  人の心ぞ 風も吹きあへぬ」













「川面凡児とは、⑤」

2020-03-25 18:47:45 | 日本

「恩師を訪ねて」

◎書に行き詰まって…阿部俊一先生

書というのは…やっぱり血筋引くんかな。生まれは大阪で…大正4年。父親がやはり書家で、寺西易堂という有名な書道家のお弟子さんやった。もちろん父もそ の流れをくむ達筆で、自宅にはどの部屋にも「書」が掛けられていたもんです。いわば、幼少のころからそれらを見て育った。
おまけに母親の名前が「フデ」とくれば…まぁ、できすぎたハナシに聞こえるかも知れんけど…そういう環境の中で、私も自然と書の道を歩むことになった。19歳で初めて小学校の教師になり、その後、女学校でも教鞭を取った。ところが、そうこうするうちに「書」の壁に行き詰まってしまったんやな。これ以上は 頭打ちで…もう、どうにもならないという状態。それで考えた挙句「どうも、書道は小手先の技術やない…人間そのものや」ということに気付いた。その「人 間」を作るにはどうしたらいいんか…。

これは自分にとっては大問題やった。ちょうどその頃、禊【みそぎ】というものに出会ったわけや。昭和15年…時代は満州事変から世界大戦が勃発しようとしていた矢先に、25歳の私は齢70いくつの二木謙三先生が主宰する「禊の鍛練会」に参加した。

自分の持てる肉体・筋力以外に、自己の内面に潜む力・目に見えない心の強さ…つまり今の言葉で言う「気」…を引き出す「禊」を教えてくれる、というもので、約一週間の合宿形式の講習会やった。 「禊」そのものは古事記にも記述があるように、日本に古代から伝わる日常の習俗であって、川面凡児【かわつら・ぼんじ】という哲学者によって集大成された。私はその行法を二木先生の禊会で初めて体験したわけや。

川面先生はいわゆる宗教学者で、著書はすべて漢文で記されていて、哲学的で難解であったのに対し、二木先生は医学博士やったから、その教えは非常に解りや すく実践的なものだった。食を減らし、水をかぶり、振魂【ふりたま】や鎮魂帰神など…8つの行をすることで「深遠で崇高な…言葉では言い表しがたい境地」 に達する。それこそが我々の生きる道である、ということを悟るな。

この禊会で、私は初めて合気道を間近に見ることになった。二木先生が言わはった…「わが国にはこんな素晴しい武道がある。おまえたち若者はタガが緩んでお るが、私を投げ飛ばせる者がいれば前に出てこい」そう言うて、70なんぼの爺さんが道場の真ん中に座らはったわけや。私はその時、柔道3段。 「これを無視して放ったらかしたら失礼やで…行こか?」私は友達と示し合わせて、三方から同時にバーッとかかっていった。そしたら、どないして投げられた か見当もつかない。二木先生には触れることもできず、四方八方へ投げ飛ばされた。これが、かねてより念願の「合気道」との出会いやった。


<了>













「川面凡児とは、④」

2020-03-24 17:50:25 | 日本

「偉大なる聖者 中西旭先生」  菅家 一比古


昭和21年、台北高商教授、台湾総督府国民精神研究所所長であった中西旭先生は帰国しました。その足で、京都府綾部にある大本教本部に出口王仁三郎先生を訪ねます。日本の復興のため、もう一度王仁三郎翁にお出ましいただこうと考えたからです。しかし会ってみると、もう以前の王仁三郎翁の面影は無かったと言います。

どうしたら日本を霊(魂)的に復興できるか。やがて中西翁は、川面凡児(日本神道の禊の中興の祖)先生が創立した社団法人 稜威会(みいづかい)の禊祓行に賭けます。会長に就任するとともにやがて、神社本庁の教学顧問になり、神道の哲学的理論の日本の中心的存在となります。

終戦後間もなく書かれた『神道の理論』は、マッカーサー司令部に届けられます。当時のGHQは「全ての悪の根源は神道」と決めてかかり、いかにこれを破壊するかに腐心していたのです。それに強い危機感を抱いた中西旭翁は、この本の上梓を急いだのでした。

神道を顕(あ)らしめているもの、日本を顕らしめてやまないものへの希求はやがて、古神道の世界へと若き中西翁を駆り立てて行き、禊の源流・言霊研究、磐座(いわくら)研究、神話・古文書、縄文研究へと佳境に誘っていきました。

やがて日本を代表する古神道家として海外でも知られるようになります。インドのTM瞑想で世界的に有名な大聖者マハリシ・ヨーギーは、中西先生をして「日本最高、世界最高の聖者」と言わせた程です。

弟子の一人である高名な古神道家、故小林美元氏の著書『古神道入門』は師の影響によるものです。中西旭先生が生前、ご高齢(90才頃)で語られた「古神道講座」は永遠に残された日本の珠玉の宝であり、財産でありましょう。

西洋近代主義の「見られ、聞かれ、触れられるもの」の世界の領域は、もう既に限界に達し、西洋近代合理主義は行き詰りをみせております。この古神道の世界こそ、人類が長い間待ち望んできた新文明の灯となることは間違いありません。

中西旭先生の最後の弟子として16年間薫陶をいただいたその御恩返しを、このようなかたちで果たすことができれば、これほどの光栄はありません。

どうぞ日本全国にこのDVDが広く普及し、「日本」蘇り、「人類」蘇りへと繋がることを心よりお祈りいたしてやみません。













「川面凡児とは、③」

2020-03-23 17:41:47 | 日本

「世界皇化論の源流としての川面の国体思想」 

                        川面は、社会思想の面でも、独自の主張を唱えた。七百頁を超える大著『社会組織の根本原理』では、組合、土地配分、企業などについて独自の思想を展開している。あくまで、それらの議論は宇宙の真理に基づくものであり、西洋近代の人間観とそれに支えられた政治経済の在り方に対する根源的批判となっている。例えば、近代経済について、「在来の経済は個人経済より出発したる基礎であると共に、個人にのみ集中するを目的としたるものにして、云う換うれば利己的経済である。…利己的経済にて人間の安定するものでない。利他的経済にて安定するのである」と説いている(『全集 九巻』二百五十九頁)。

このように、理想的社会組織の在り方を提示した上で、彼は「国民は精神的にも歓喜し、肉体的にも勇躍し、心肉不二一体に活躍活動し、その国家は太陽の天に沖するが如く興隆し来り、世界万国の羨望する所となり、悉く則を我にとり、範を我に習い、独り自国を救済するのみならず、世界列国の救済し得る結果を顕す」と主張した(前掲書、二百八十八頁)。川面にとって、宇宙の真理に基づいた日本国体の真髄は、世界に及ぼすべきものであった。彼は『建国の精神』において、天皇(スメラミコト)とは「スベル(統べる)ミコト」という意味であるとし、「天皇は世界人類を統一し、世界人類は天皇に心服同化するという意味なのである」と書いている。ただし、ここでいう「統一」とは、武力による征服などでは毛頭なく、「彼より我の後を慕ひ、我の威厳を仰ぎ、我の助成、我の擁護、我の統治を求めつつ我に心服し、我に同化し来るものを、居ながらにしてこれを統一主宰する」という意味である。今泉定助が終生説いて止まなかった「世界皇化」論の源流がここにある。彼は、行を通じて到達した独自の思想を記録することに並々ならぬ決意で取り組んでいた。大正十一年頃から、余命は長くないと感じるようになり、各地の禊指導の間にも寸暇を惜しみ、著作の執筆を急いだ。同年六月十六日の日記には、「われはその神勅神命に従うて、為し得るものを為すべし。われの為し得るものは、文章著作なり。文章著述なれば、われの自由になし得るものなれば、これ神のわれに命じたまふ証明なり。今はわれこの神勅神命をかしこみ、わがなし得る限りの文章著作に従事すべきのみ。文章著述をもつて、太神大神の大御心を述べ、後世子孫に遺すべし。後世子孫中に、よくわれの遺志を継ぎ、われに代りて国家世界を救済し、唯一無比の、この人生を煥発建設するに至るべきなり」と著述活動に対する使命感が明かされている『川面凡児先生伝』三百七十八頁)。

昭和三年頃になると、周囲に死期の近いことを漏らすようになった。年末には箱根に篭り「この道を世にのこしたくおもふがに筆どりあかす谷の夜ながを」と詠んでいる。川面は、十巻に及ぶ全集にまとめられるだけの膨大な著作を遺した。翌昭和四年一月二日から六日まで、恒例の小寒禊が片瀬の浜で開催された。これが、川面最後の禊となった。同年二月六日に体調を崩し、十日には肺炎になった。十三日に危篤に陥り、一旦は小康を取り戻したものの、二十三日午後川面は六十六年の生涯を閉じた。昭和十四年二月二十三日、川面の十年祭が東京九段の軍人会館で挙行された。参列者は二千人を越え、総理大臣平沼騏一郎、文部大臣荒木貞夫、全国神職会長水野錬太郎の祭文奏上、鵜沢聡明、今泉定助による記念講演が行なわれた。同年十月には、伊勢神宮に参詣する人の禊場として「神都禊祓場」が設けられ、平沼騏一郎が会頭を務める財団法人大日本みそぎ会がその運営を担当することになったが、実質的には川面の弟子の巽健が取り仕切っていた。昭和十六年八月二日から五日間、神奈川県足柄郡の日本精神道場で、大政翼賛会主催の第一回禊が行われた。今泉定助門下の働きかけにより、採用されたのは川面の禊であった。これを機に、川面の禊は全国に広がり、今日の禊の雛型となったのである。











「川面凡児とは、②」

2020-03-21 22:23:10 | 日本

「川面凡児─禊行を復興させた古神道の大家」


◎奈良朝以来衰退した禊行を復興

「むこう一週間はいかなる異状があっても別に心配に及ばない。禊中の境遇は、他の人からは想像もできないことが多いから」明治四十二年一月十八日夜、川面凡児は神奈川県片瀬海岸で第一回の修禊を開始するに当たり、宿泊していた旅館鈴木屋の主人を呼び、こう語った。川面が弟子の奈雪鉄信とともに片瀬海岸に到着したのは、同日朝のことだった。まず海岸で禊祭を執り行い、鈴木屋の客間の床の間に祭った祭壇の前で夜中まで拝神した。翌十九日早朝、二人は起床すると、白鉢巻に、越中ふんどし、筒袖の白衣、白足袋のいでたちで海岸に出て禊行を行った。砂は凍り、海は荒れていた。日の出を拝み、怒涛の中にわけ入った。岸辺に上がると、富士嵐がヒューヒューと吹き降ろしてきた。禊行開始から四日目の二十二日夜、拝神中の奈雪に異変が起こった。『川面凡児先生伝』を著した金谷眞によると、奈雪は拝神中に突然天狗の襲来を受け、「イーエッ」と雄詰をして追い払った。その日深夜、奈雪は再び天狗の襲来に遭い、はね起きるやドタンバタンと大立ち回りを始めた。「いったい何事だ」。鈴木屋の主人夫妻が障子の外から見ると、「奈雪負けるな、それそこだ」と、川面が頻りに叫んでいる。主人は訳がわからず、恐れ慄きつつ、川面に事情を聞くと「初日に断っておいた通り、別にご心配に及ばぬ。安心しておやすみなさい」と言われ、恐る恐る引き取った。奈雪は翌二十三日朝、まさに半狂乱で修行に励み、全日程を終えた。常識的には考えられないエピソードも含んでいるが、これが歴史に残る川面の第一回の禊行の様子である。禊の起源は、『古事記』にある通り、黄泉の国から生還を果たした伊邪那岐命が、「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」の瀬で身を清めるために禊をした故事に由来する。神代以来、禊は脈々と継承されてきたとされるが、奈良朝以後、形骸化していった。それを川面は自ら復興させ、それは現在の神社神道の禊行の雛型となっている。川面が禊行を復興できた背景には、彼の神秘的体験があったと説明されているが、ある古書の存在から説明することもできる。平田篤胤の『玉襷』には、彼が京都で貴重な古書を発見したときのことが書かれている。篤胤が値を聞くと、五十金だという。高額だが是非とも手に入れたいと思った篤胤は、そのまま宿に帰り、懸命に金の工面をして店に引き返した。ところが、時すでに遅し。タッチの差で筑紫の人が買っていったという。この筑紫の人こそ、川面の祖父だったのである。その古書には、奈良朝以前の日本神道の秘事が書かれていたとされている。阪本健一が「千歳にして一人、否不世出の宝器であらう。恐らく弘法大師や伝教大師に役小角の神秘力を加え、眼を宇宙、世界に向けた偉才と云ふべきであらう」(『今泉定助先生研究全集 第一巻』日本大学今泉研究所、昭和四十四年、三百三十五頁)とまで書いた川面の神秘力は、その古書によるものでもあったのではなかろうか。いずれにせよ、川面は禊行の実践とその理論化に大きな功績を果たした。川面は、人間を直霊(宇宙の普遍的な根源の意識)、和魂(精神)、荒魂(肉体)の位階でとらえ、一切のものの中に直霊が存在し、すべてはこの直霊によって霊的に結ばれているとした。肉体は「八十万魂」と呼ばれる、無数の魂の集合体だが、それら無数の魂が主宰統一されていないと、分裂して自己我が現れてくる。禊行の主眼は、この「八十万魂」に侵入してきて、全身の統一を失わせる禍津毘を制御することにほかならない。
川面が確立した禊行を体験するため、筆者は六月六日早朝、東京都練馬区にある稜威会本部道場を訪れた。武蔵関公園に隣接する敷地は、豊かな自然に恵まれ、修行に相応しい場所だ。早速白装束に着替え、白鉢巻を締めて教典を準備、先導役の道彦から説明を受ける。水行に先立ち、道彦の先導により、祝詞をあげ、振魂、鳥船、雄健、雄詰、伊吹へと進む。

振魂は、瞑目して「大祓戸大神」と連唱しながら、玉を包むように右手を上にして掌を軽く組み合せ、連続して上下に振り動かす動作である。
鳥船とは、神代にあった船のことで、掛け声とともに船を漕ぐ運動をし、心身を鍛練する。川面と交流のあった蓮沼門三が明治三十九年に設立した社会教育団体「修養団」も、この鳥船運動を採用している。一方、海軍軍人で、慈恵医科大学の創始者として知られる高木兼寛は、川面の禊行に参加し、川面の説くところが医学的に効果のあることを確認、行事を簡素化した「艪漕ぎ運動」を案出している。
雄健は、足を開き、両手を腰に当て、道彦の発声に従って「生魂・足魂・玉留魂」と、一声ごとに気力を充実させながら唱える。言霊と呼吸法により心身と霊魂を浄化統一する所作だ。

続いて、雄詰。左足を斜前に踏み出し、左手は腰に当て、右手の親指、薬指、小指を曲げ、人差し指と中指を伸ばして天之沼矛に見立て、「イーエッ」の気合とともに斜左方に切り下ろす。この動作によって、全身の統一を失わせる禍津毘を制御する。右手を戻す際には、禍津毘を救いあげて、直霊に還元して天に返す。

伊吹は、息を吐きながら両手を拡げて差上げ、徐々に手を下げながら、大気を丹田に収めるイメージで息をゆっくり吸い込む。川面は伊吹について、「鼻より空気に通じて宇宙根本大本体神の稜威を吸ひ込み、腹内より全身の細胞内に吸ひ込みて、充満充実」させると書いている(『川面凡児全集 第六巻』二百六十一頁)。

ちなみに、川面は「日本神代心肉鍛錬法」において、仙法、道術、座禅などの呼吸法、臍下丹田の集気充足法が身体の健全や精神の安静を目指したものに過ぎないとし、日本神代の伊吹には、人類すべての「吉凶禍福盛衰興廃」を左右するものとして息気を解釈する視点があると強調している。
例えば、弱い呼吸の人の周囲には微弱な空気だけが充満し、その人は微弱な身体になってしまうといい、弱い呼吸を戒めている。また、声と気とは本来一体だと説いている。

振魂、鳥船、雄健、雄詰、伊吹を経て、私たちは道彦の先導で屋外に出て水行場に向かった。そして、貯められた井戸水を使って、掛け声とともに、数分間水を浴び続けた。少なくとも心身の穢れが一掃された気分だけは味わうことができた。川面によれば、全身全霊で浄化、調和、統一、神化という神事を厳修するうちに、やがて鎮魂の妙境に入る。その境地においては、直霊が覚醒し、前世、前々世、と過去へ螺旋的に遡り、創造神である天御中主太神に到達・還元する。また未来へと螺旋的に宇宙の根本本体である天御中主太神に達するという。川面は「主観客観全然一変し、有我無我を超絶したるの霊我、神我として、その和身魂の五魂五官が開き、……顕幽漸く感応道交し、初めて神と念ひ、神と語り、神と行ふことを得るの鳥居を窺ひ得たるものとなします」と書いている(『全集 第一巻』六百三十六、六百三十七頁)。

川面は禊行の復興者として名高いが、個人の救済のためだけに、行を普及させようとしたわけではない。彼には、祖神の真髄を会得せずに、個人の在り方、社会の在り方、世界の在り方を考えることはできないという信念があったのだろう。そうした川面の立場は、後に彼が設立した古典攻究会趣意書にある次の一節に明確に示されている。「祖神の真髄を会得せず、徒にこれを崇拝奉祀するはあやまれり。祖国の渕源を理解せず、徒に国家の経綸を叫ぶはあやまれり。天津日嗣の由来を解得せず、徒に忠君愛国を唱ふるはあやまりなり。……わが国神代の垂示たる古典は、宇内万邦、唯一無比の一大宝典として、世界にむかひ、大に誇りとするに足る」










「川面凡児とは、①」

2020-03-18 20:27:06 | 日本

禊の開祖、川面凡児について学ぶ

「川面 凡児(かわつら ぼんじ、1862年4月29日(文久2年4月1日) - 1929年(昭和4年)2月23日)は、日本の宗教家、神道家。禊の行法を体系化し、組織的に行なった。現在の神社神道における禊作法は、戦前に川面が行っていたものに基づいている。名は恒次(つねじ)、字は吉光。号は殿山(でんざん)。


◎略歴

豊前国(現・大分県宇佐郡両川村小坂)に、酒造業を営む家の次男として生まれる。神職をしていた父の義弟の溝口千秋に教育のため預けられる。千秋は宇佐神社に参詣する全国各地の神道家や勤王の志士と交流があり、川面はその中のひとり、豊前の儒者・恒遠翁に漢籍を学ぶ。13歳のときに近くの霊山・馬城山(まきさん)に籠り、童仙・蓮池貞澄から仙道を学ぶ。15歳のとき、入津(豊後高田市)にある 鴛海米岳(おしうみべいがく)の私塾「涵養(かんよう)舎」で皇漢、仏教、法律、経済などを学ぶ。自由民権運動に傾斜し、板垣退助を尊敬していた。
1882年(明治15年)、21歳で熊本県隈庄町に私塾「稚竜同盟谷」を開き、子供たちの教育に携わる。1885年(明治18年)には長崎市銀屋町の「行余学舎」に学び、また塾生に修身や歴史を教えもした。同年上京し、雑誌『日本政党』を創刊。政治家を目指したが、宗教家に転じ、新聞雑誌への投稿で糊口を凌ぎながら、井上哲次郎、杉浦重剛などの宗教家や思想家などと交流し、宗教学を学んだ。生活の困窮を見かねた増上寺の計らいで、雑読『仏教』の主筆となり、「蓮華宝印」のペンネームで雑誌『禅宗』などにも寄稿した。淑徳女学校で教師もした。1896年(明治29年)からは「鬼芙蓉」の名で『自由党報』にも寄稿し、これが縁で明治32年から33年まで「長野新聞」の主筆に、またそののちには和歌山県の自由党機関誌「熊野実業新聞」の主筆となる。
1906年(明治39年)に下谷区三崎町に「全神教趣大日本世界教」を旗揚げし、稜威(みいつ)会を創立、神道宣布に専念。1908年(明治41年)には機関誌『大日本世界教みいづ』を創刊、1908年(明治42年)から片瀬などで修禊を開始。1914年(大正3年)、男爵の高木兼寛を会長に、古典を通じて日本の神々を学ぶ古典考究会を設立、『古典講義録』を刊行。同会には秋山真之、八代六郎、平沼騏一郎、杉浦重剛、頭山満、筧克彦らが関わった。
1917年(大正6年)から滝行など禊の行を会員とともに各地で始める。神宮奉斎会の会長で、大正期神道界の最高長老と言われた今泉定助が支持したことで、各地の有力な神職の賛同を得て、海浜や滝水での禊行事が全国的に流行した。1921年(大正10年)には団体が社団法人として認可され、1926年(大正15年)には代表作『天照太神宮』を出版。1929年(昭和4年)正月に、片瀬で大寒禊の指導を行なったあと体調を崩し、2月末に肺炎により68歳で死去。特異な形のよく目立つ墓が多磨霊園にある。
◎死後
1939年(昭和14年)に、九段の軍人会館で十周忌が行なわれ、高山昇(前官幣大社稲荷神社宮司)、富岡宣永(東京深川八幡宮宮司)、水野錬太郎(全国神職会長)、総理大臣平沼騏一郎、文部大臣荒木貞夫らが参列した。その翌年に大政翼賛会が発足し、国民的行事に禊行を採用した。このころから政治家たちの常套句に「みそぎ」が使われるようになった。


◎著作

著書は非常に多く、主なものに『日本古典真義』『大日本神典』『天照大神宮』、『憲法宮』などがある。そのほとんどは『川面凡児全集』30巻(1939~41)に収められている。戦後は、八幡書店から全集全十巻と同CDが発行されている。


◎思想

川面の思想は、古神道の宇宙観、霊魂観と神人合一法を西洋論理を用いて解き明かそうと試みた点に特色がある。例えば、荒身魂は肉体、和身魂は意識、直霊は最高意識ととらえ、人間は最高意識が受肉した存在であるから、すべての人間はその意味で「現人神(あらひとがみ)」であると主張した。(天皇だけが現人神ではない、という主張は注目すべきである) また、天御中主(あまのみなかぬし)を中心力、高御産霊(たかみむすひ)を遠心力、神御産霊(かむみむすひ)を求心力ととらえ、この三者のはたらきによって原宇宙が生成されたと説いた。 川面は、古神道の神は、創造神ではなく、生成神であると考えている。創造神は、創造がある以上終末が訪れることを前提とした限定的な神であるが、生成神には、終末と見える現象はあったとしても、実際に終末はなく、永遠の生成発展があると考え、古事記の「天壌無窮」説を近代論理を用いて説明しようとした。 川面の主張する日本民族の神は、一神にして多神、多神にして汎神であり、一神の躍動するはたらきの現れが、多神であり、汎神であるとし、この構造をもった神を「全神」となづけ、自らの教えを一神教でも多神教でもなく、「全神教」と名付けた。この神のダイナミックな構造は、およそ二百年後には、西洋にも理解されるようになり、西洋は、多神と祖霊も祀るようになるだろうと予測している。 ただし、神は、知性で論理的に把握しただけでは足りず、体感、体認、体験しなければならないと説き、そのために禊、鳥船、雄叫び、おころび、祝詞などの一連の身体作法を体系的に行う必要があるとしている。(彼が提唱した禊は、その一連の身体作法の一部にすぎない。) なお、天皇が宮中でおこなう祭祀と行法が、本来の魂しずめと魂ふりであり、川面の祭祀と行法は、それから派生した傍流であると位置づけている。(『宇宙の大道を歩む』より抜粋)











「アジア諸民族そして人類の未来のために②」

2020-03-17 22:27:34 | 日本

③アメリカの新しいトランプ大統領は、二〇一七年、「国家安全保障戦略」で、これまでのブッシュ政権とオバマ政権で、アメリカの敵はテロリストだとしていた認識を覆し、「アメリカの敵は中共とロシアである」と明言したうえで、中共はインド・太平洋海域でアメリカにとって変わろうと目論み、他国の主権を脅かすことで勢力を拡大していると非難した。
さらに、二〇一八年十月、ペンス副大統領はハドソン研究所で、「中共は西太平洋からアメリカを追い出し、アメリカが同盟国を援助することをまさしく阻止しようとしている。しかし、彼らは失敗する」と明確に断定し、「アメリカは経済の自由化が中共を、我々との大きなパートナーシップに導くと期待したが、中共は経済的な攻撃を選択し、拡大する軍事力を勢いづかせた」と表明した。
そのうえで、「中共は他に類をみない監視国家を築いており、アメリカの技術の助けを借りてますます侵略的になり、人間の生活の事実上すべての面を支配するジョージ・オーウェル式のシステムを実施することを目指している」と認定したうえで、「歴史が証明するように、自国民を抑圧する国がそこにとどまることはありません」と中共の崩壊は歴史の必然であると断言した。
さらに、中共は、トランプ以外の別のアメリカ大統領を望んでいるとして、中共が、アメリカの民主主義に干渉しているのは間違いないと、アメリカ国民に警告を発した。
 
つまり、アメリカのトランプ政権は、中共との関係を、自由主義陣営と全体主義との衝突と認定したうえで、この認識に基づいて、中共に貿易戦争を仕掛け、ファーウェイに対する半導体の供給を規制し、三百四十億ドル分の中共製品に対する二十五%の制裁関税を発動したのだ。
 
私は、このトランプ大統領とペンス副大統領の対中認識と行動に全面的に賛同する。
従って、安倍首相が、中共の習近平主席を、国賓として我が国に招くのは、イギリスがロンドンを爆撃する準備をしているナチスのヒトラーを、国賓としてロンドンに招くのと同じだと断定し、
これは同盟国を裏切ることではないか、と断固反対するのである。
 
さて、このアメリカに貿易戦争を仕掛けられた中共は、国内の負債総額がGDPの三百%を超えており金融崩壊が何時起きても不思議ではない。しかも、二〇一八年六月には、国内で待遇改善を求めた数千人の退役軍人のデモ隊が警察と衝突して多くの負傷者を出すと、全国各地から退役軍人がデモ応援のために集まり始めたという。
共産党を支える最大の実力部隊の人民解放軍の元兵士達が警察と衝突するという事態は、習近平体制の深刻な危機である。
 

④さらに、この内憂に加えて、ペンスアメリカ副大統領の演説に共鳴したかのように、同じ六月、香港で反中共運動が勃発した。
これは中共の犯罪者引渡要請に応じて香港政府が中共に犯人を引き渡すことを定めた犯罪者引渡条例改正に反対する百万人を超える香港市民のデモである。
人口七百四十万の香港で七人に一人が参加する驚異的な反中共運動であった。
そして、この反中共運動は秋を超して年末になっても終息せず、二〇二〇年一月の台湾の総統選挙において、中共からの独立を目指す蔡英文台湾総統の圧倒的な再選に繋がった。
そして、さらに内憂は続く。
それは、台湾総統選挙と同時期に、湖北省武漢で発生した新型コロナウイルスの世界への蔓延である。
しかも、中共政府のこのウイルスに関する情報は、当初から現在に至るまで「基本的に虚偽」であった。
即ち、中共政府は、当初は「このウイルスは人間には感染しない」と発表していたが、現在は、韓国や欧州で爆発的に感染者が増加し、アメリカの疾病対策センター(CDC)が、世界的大流行が現実となりうると警告しているのに中共政府は、「ウイルスを制圧しつつある」という情報を流している。
これでは、自国民と世界の眼前で、習近平主席と共産党政権の嘘はバレており、その権威は必ず失墜する。

それにしても、台湾総統選挙の超多忙時に、中共がコロナウイルス発生場所として武漢の市場の映像を発表し、「人には感染しない」という見解を公表する遙か以前の一月初旬に、人から人への感染を前提にした完璧な防疫体制をとった台湾副総統陳建仁氏の力量に敬服する。
中共の専門家(政府ではない)が、人から人への感染を認めたのは一月二十一日だが、
台湾は、既に一月二日に、人への感染を前提にした防疫体制を強化していた。
つまり、台湾は、中共が感染源として武漢の市場の映像を世界に流した時点で、既にこの市場が感染源であるはずがないと見抜いていた。
安倍総理、この台湾の対応を知り、自ら省みて何を思う。
お里(官僚)が知れる答弁を繰り返す厚生労働大臣には、任命した者として、コラー!と一喝したらどうか。
ここにおいても、天は、我が日本に、中共の習近平のご機嫌を伺うな、台湾を見よ、と告げている。
 
話を戻して、さらに加えて、新型コロナウイルスの蔓延で生産活動が世界的な規模で縮小しており、新型ウイルス発症源の中共の急速な生産減少は中共経済に深刻な影響を与え始めている。経済が破綻すれば共産党政権は崩壊する。
従って、習近平政権は、強権を行使して強制的に膨大な工人を奴隷の如く工場に送り込んで生産再開に向かうだろう。
そして、国民の怨嗟の的になる。
従って、この度の新型ウイルスの出現は、習近平政権の崩壊に止まらず、中国共産党独裁体制の崩壊を促している。


⑤三十年前の巨大なソビエトも、瞬く間に崩壊した。
巨大な中共も崩壊するときは、瞬く間に崩壊する。
振り返れば、レーニンとスターリンのソビエトも、建国から七十二年で崩壊した。
毛沢東と習近平の中共も、今年、建国から七十二年である。
人民の自由を抑圧する文明とはほど遠い独裁体制が崩壊するのは歴史の必然である。
 
よって、今こそ、我が日本は、アメリカと連携して、「溺れる犬を撃て」という支那の言葉通り、
中共を崩壊させて人間の自由を守るための行動を決断しなければならない時だ。
 
しかるに、我が安倍内閣の対中姿勢は、未だに中共に遠慮したように、湖北省と浙江省以外の中共からの「旅行者(実は避難者)」を一日宛て一千人規模で日々受け入れており、頭目の習近平主席の国賓としての来日を未だ取り消してはいない。
 
この新型コロナウイルスの、中共からのこれ以上の国内浸透を断固として阻止するという「自ら為すべきこの一点の決断!」を回避して、ウイルスの日々の浸透を放置したまま、国内の小中学校や高校などの臨時休校と各種集会自粛要請を国民に丸投げして、「私が決断しました」と
記者会見する安倍総理の姿は、まさに笑止といわざるを得ない。
 
しかし、現安倍内閣は、東亜の解放のために戦った祖父の世代の志を裏切り、世界から、人間の自由を抑圧するおぞましい中共の延命を図る人類の敵とみなされるであろう。
日本国民は、これでいいのか!
 
安倍総理、今からでも遅くはない。
相手の本質を掴んで動かず、それに応じて明確に態度を決定し、それを実行する。
この単純明快な行動が、歴史を開くのだ。
古人も言っているではないか。
「偉大な結果をもたらす思想とは、常に単純なものだ」、と(トルストイ)。

<了>









「アジア諸民族そして人類の未来のために①」

2020-03-15 23:08:19 | 日本

西村真悟さんが「アジア諸民族そして人類の未来のために」と題して掲載している。
以下、略要約して記す。

確かに我が国は、大東亜戦争の戦闘で敗れた。
そして、我が国を占領したアメリカの対日方針を明確にした「日本国憲法体制」という戦前と戦後を切断した「戦後体制」の桎梏のなかで過ごしてきた。
しかし、実は、歴史に断絶はなく、国際情勢においては戦前と戦後は連続している。
従って、我が国は、アジアの開放という戦前の方針を現在に甦らせ、未だに人民を監視下に閉じ込め、その自由を抑圧する中共という独裁体制が膨張するのを阻止し、さらにソビエトと同じようにこれを打倒して「萬民保全の道」(五箇条の御誓文)を開くという明治維新以来の志を実現するために、前世紀の遺物である共産党と中華意識という妄想のグロテスクな混合物である中共の独裁体制を打倒することを國是として、覚悟を決めなければならない。
 
しかも、この度は、二十世紀と異なり、我が国に敵対する者は中共であり、「昨日の敵は今日の友」という言葉通り、大東亜戦争に於ける米英即ち欧米諸国は、価値観に於いて共に力を合わせることができる友邦であり、台湾国民も、香港の自由を求める多くの人々も、この自由を求める隊列に加わる。
以上のことを前提にして、これから現在の東アジアの状況と、中共の動き、そして我が国の現状と友邦特にアメリカの状況を述べていきたいが、その前に、我らがもつべき「中華人民共和国認識」つまり「中共観」を明確にしておくことが、相手に再び騙されないためにどうしても死活的に必要だ。
特に、現在の安倍内閣が、従来繰り返されてきた通り、対中共認識を誤り、習近平主席を国賓として招くという誤った国策を掲げている状況下では、特に文明論的観点からの中共の本質の把握こそが、今ここで強調しておくべき中心的な課題なのである。

①我らは、まず、中共とは「文明とは似ても似つかぬ恐怖と白煙の上に立った独裁制即ち暴力と無秩序である」と認識しなければならない。
この体制の頸城の下に、十数億人の「中国人民」とチベット、ウイグル、モンゴル、満州の諸民族が閉じ込められている。
 
このおぞましい体制の上で、二十一世紀には、共産主義そして毛沢東主義という古色蒼然たる旗を掲げても流行らないとみた故か、近頃、盛んに中共主席の習近平氏が言い出した
「中華民族は世界の諸民族のなかにそびえ立つ」とは何か。
これを日本人として確認しておかねばならない。
何故なら、先の大戦で我が国が敗ぶれた最も重要な要因は、中国民族の本質と特性に対する認識が甘く、大陸政策に失敗したからだ。
そして、戦後も、現在に至るまで同様に認識が甘い。
特に鄧小平が笑顔で日本に接近して以来、我が国は、「日中友好」の巧妙な工作に踊らされて、いや、騙されて、多額の援助を続けて中共が核弾頭ミサイル大国になるのを助け、安倍内閣は、こともあろうに主席の習近平氏を国賓として待遇しようとしているではないか。
 
振り返れば、徳川幕府は朱子学を国学としており、江戸期の儒学者には支那を聖人君主の国と憧れる者が多かったという。
また、戦後も、中国に旅行して、旧制高校で覚えた李白や杜甫の漢詩を陶酔したように吟じる情緒に身を委ねるが如き「中国大好き祖父さん」が多いと作家の故深田祐介さんが報告している。
また、NHKは、「シルクロード」の映像を、中共に媚びるが如く長期にわたって流し続けて、中共が支配するアジアの大陸に於いては、太古のロマンが現実であるかのような錯覚を日本国民に与え続けた。
 
しかし、そのなかにあって、我が国には的確な支那認識の伝統がある。
それは、江戸期の儒学者山鹿素行から明治初期の情報将校の草分けである福島安正将軍、福沢諭吉そして内田良平に至る系譜だ。福島安政は、明治十二年に支那服を纏って支那人になりすまして約五ヶ月間、上海や北京や天津から内蒙古まで偵察して「隣邦兵備略」という調査報告を書き、同時期、福沢諭吉は「脱亜論」を書いて日本の支那と朝鮮に対する認識の甘さを正そうとした。
そして内田良平は、大正の初めに、我が国が大陸に対する国策を誤らない為に、支那革命に関与した体験に基づいて中国の民族性の本質を記した「支那観」を世に出した。福沢の「脱亜論」は広く世に知られているところ、ここでは福島の「隣邦兵備略」と内田の「支那観」から、
本質を突いた箇所を紹介しておく。

「清国の一大弱点は公然たる賄賂の流行であり、これが諸悪の根源をなしている。
しかし、清国人はそれを少しも反省していない。
上は皇帝、大臣より、下は一兵卒まで官品の横領、横流しを平然と行い、贈収賄をやらない者は一人もいない。
これは清国のみならず古来より一貫して変わらない歴代支那の不治の病である。
このような国は日本がともに手を取ってゆける相手ではありえない。」(隣邦兵備略)。

「黄金万能が支那国民性の痼疾をなし、堂々たる政治家と自称するものにして、言清く行い濁る、その心事は里巷の牙婆と毫も選ぶことなきは、今猶お古の如くなり」
つまり「金銭万能が支那の国民性の持病であり、堂々たる政治家を自認する者にして、美辞麗句とは裏腹に、振る舞いは汚れ、彼らの心事が巷の守銭奴と何ら変わらないのは昔のままだ」(支那観)。
 
内田良平の、この支那の政治家に対する一文。
現在の習近平氏の容貌と振る舞いを見て書いたのかと思えるほど的確ではないか。
その上で、我々は、二十世紀の初頭に西洋人が言い始めた次の警句も覚えておくべきだ。
「ロシア人は、約束は破るためにするものだと思っている。
中国人は、そもそも約束は守らねばならないとは思っていない。」
 
即ち、中国人は、嘘をつくことは悪いことだとは思はず、騙される者が悪いのだと思っている。
現在(令和二年三月二日)、武漢発の新型コロナウイルスを、中国政府は制圧しつつあると発表しているが、韓国や欧州では感染が爆発的に増えている。
日本でも増え続けている。
従って、中国政府の発表は虚偽である(本日付け産経新聞、桜井よしこ筆「美しき勁き国へ」)。
 
さらに、中国人作家である魯迅は、「狂人日記」の末尾を、昔から支那人は人間を喰ってきた、未だ人間を喰っていないのは子供だけだと述べた上で、未だ人を食っていない「子供を救え!」と記して終えている。
魯迅の「狂人日記」のみならず、「水滸伝」や「三国志」や「十八史略」そして「論語」においても古来からの支那人の食人の習慣が記されている。
さらに現代史において、昭和十二年(一九三七年)七月二十九日の現北京市通州区で起きた中国人部隊の日本軍守備隊及び居留民二百名以上の殺害(通州事件)の時、一九六六年~七六年の文化大革命において発生した大量虐殺においても、中国人達は殺した人間の肉を食したという目撃報告がある。
日本人の想像を絶する習慣ではないか。
 
以上の通り、我が国の西方に位置するのは、「中共」という、中国民族の本質と属性の上に築かれた共産党独裁体制という巨大なグロテスクな混合物である。
そして、この本質を見誤れば、我が国は、再び国策を間違え、騙され、国民は塗炭の苦しみを受ける。
従って、この民族的特性についての警告は、強調しすぎることはない。

その上で、現在の、中共は、GDP(国内総生産)が世界第二位の経済大国にして中距離核弾頭ミサイル保有数は世界一であり、十三億の国民を七千万人の共産党員が支配し、その共産党を九人の政治局常務委員が支配し、その頂点に任期なしの習近平主席が皇帝の如く君臨している。
そして、その習近平は、二〇一八年の全人代で、「中国は引き続き、世界の統治システムや変革の建設に積極的にかかわっていく」
つまり「世界に覇権を拡大してゆく」と演説し、世界を自分が君臨する中国共産党の支配下に置くべきだとの考えを示し、今世紀半ばに世界一の軍隊を築き、建国百年の二〇四九年までに「中華民族は世界の諸民族のなかにそびえ立つ」と豪語しているが、これは、明らかに、強大な核弾頭ミサイル群の実戦配備を前提にしているのだ。
つまり、かつて中国人民解放軍の幹部は、核弾頭ミサイル群が、日本や東南アジアに向けて実戦配備されていることを前提にして、日本やアジアは人口密集地帯であるから住民絶滅の為の攻撃対象であると語った。
従って、習近平の「中華民族は世界の諸民族のなかにそびえ立つ」とは、この「核の脅迫の上にそびえ立つ」ことなのだ。
 
さて、ここまで露骨に、核弾頭ミサイルを保有する中共から、世界制覇の野望(脅迫)を述べられれば、我が日本国民は、覚悟を固める時が来た、と言わざるを得ない。

 
②その上で、二十一世紀に入った東アジアの地殻変動とも言うべき状況を把握する必要がある。
それは、先ず第一に、軍事面に於ける中共の台頭と覇権拡大である。
中共は国際連合の主要機関の一つである国際司法裁判所の判決を無視して、南シナ海の南沙諸島の島を埋め立てて三千メートルを超える滑走路や港湾施設を造成して複数の海空軍基地とミサイル基地を建設して南シナ海を「中国の海」としつつある。
そして、北の東シナ海も「中国の海」とする意図を露骨に示し、彼の言う第一次列島線から西を聖域化しつつあるとともに、我が国固有の領土である尖閣諸島周辺海域に執拗に公船を侵入させて同諸島を奪いに来ている。さらに、中共はロシアと連携して、毎年一度の割合で中露海軍の合同軍事演習を、我が国の東西南北の周辺海域で実施している。
このように中共は、明らかに西太平洋において、アメリカ海軍の勢力を排除して中共の軍事力を拡張しようとしている。
 
しかしながら、この軍事的膨張と同時に、中共に於いて「内憂外患」という言葉が現実化している。










「小泉太志命大とは、③」

2020-03-12 18:57:01 | 日本

「伊勢の生き神様*小泉太志命と阿含宗管長」


古今無双の法力を持たれている阿含宗管長の足跡をたどる時、伊勢の生き神様と呼ばれた伊雑宮の小泉太志命を抜きにしては語りえないと思われます。

これまでの阿含宗の神仏両界を銘打っての修法の裏側には、伊勢の伊雑宮(元伊勢)と深い所縁があります。

また、阿含宗管長と伊勢の生き神様*小泉太志命を結びつけた管長の著書の一冊があったことが伝えられています。

1970年初頭、阿含宗管長(当時観音慈恵会会長*真言宗大僧正)が信徒に限らず、一般の参観者も募って、密教の最極秘伝の法『念力護摩法』を全国三箇所の道場で次々に成就されました。閉鎖的な
伝統仏教の世界は言うに及ばず、日本の宗教界にも聖なる火の狼煙(のろし)が立ち上り、それによって、師の鮮烈なデビューが果たされました。

その超人的な修法を完成された後、「変身の原理―密教の神秘」、「密教超能力の秘密 ホモサピエンスからホモエクセレンスへ」、「 チャンネルをまわせ : 密教.そのアントロポロギー 」、著されたこれらの『密教』シリーズ三部作は、現世において即身成仏を達成させる密教の超人的能力がいかなるものかを一般人に開示すると同時に、その読者自身もまた超人的能力を身につけることができるという、『人を現世成仏させる変身の原理と方法』が明瞭に解き明かされた、他の追随を許さない稀有の著作群となっていました。

特に『変身の原理―密教の神秘』に至っては、密教の変身ブームを起こし、大ベストセラーにノミネートされました。プロの宗教家にしか門戸が開かれていなかった密教を、広く一般人に開放した画期的な著作といえます。管長の著作群の中では、『念力護摩法』をシッチ成就された直後に刊行され、念力で焚き上げる聖火の勢いそのままの渾身の力で書き上げられた、最も熱い一冊といえましょう。

伊勢の生き神様*小泉先生は、この『変身の原理』をご覧になられて、管長をご自分の元にお呼びになられたという経緯があったようです。



<了>









「小泉太志命大とは、②」

2020-03-10 22:22:31 | 日本

「昭和天皇と歴代政治家の国師・中化神龍師とは」

高橋五郎氏の数冊の本を拝読させて頂いた。その中で日本の日本古神道に関係する中化神龍師に関しての文章があったので、目が釘付けになった。かつて故金井先生から昭和天皇をバックで支える霊的指導者がいる。
その一人が伊雑宮の前にある伊勢三剣道場主であられる小泉太志命であると聞いたことがある。道場主は一日に真剣で3千回ほど昭和天皇のために剣の祓いの神法を実践してダークの世界から天皇を守られていたらしい。
私も若い時、友人の鈴木氏と共に伊雑宮に参拝に行ったことがあるが、三剣道場にはいかなかった。確かもう一人天皇を守護される神人がいるようでいないようで、そこのところはよく解らなかったが、高橋氏の本を読んで初めてその名前を知った。その方が神龍師であると。
神龍師は、戦後13年間にわたり天皇の指南役を務めて、自民党の複数総理大臣を約20年間指導、その間に昭和天皇と共に戦後日本の文化、経済を世界へ飛躍させた人であるという。以下高橋氏の文章をお借りし私が感じたところだけ抜粋させて頂く。

・中国の秘教集団の紅卍会やあるいは大本教教祖の出口聖師は、すでに救世主の降臨を予言していた。そのお方は昭和3年、昭和天皇が即位したその京都に産まれたのだった。天皇と神龍師のご縁は深い。京都比叡山での荒行の順番は、昭和天皇の次が神龍師だった。共に100日間の断食行をされたらしい。戦後は神龍師が師匠で天皇が弟子になるご縁を結ぶことになる。

・神龍師の誕生日は、昭和3年4月25日である。この誕生日を私(東)が理解する数霊になおすと、年は9、月は3、日は8、その傾斜は2と9であるからしてその性格は、探究心あり、純粋かつ天真爛漫であり、物事の全体像を一瞬でとらえる能力が備わっている。
かつ人生の様々な問題、様々な矛盾を明確にしてすべてを明らかにし、様々な問題を解き、それらを瞬時に理解して的確に伝えることができるという性格である。やはり数霊学からみてそういう天命を日本を支える神々から日本救済の使命を受けてこの世に誕生してきたお方であるということができる。これは、数霊の面から見た神龍師の一面だ。

・神龍師を昭和天皇に拝謁させた方は、京都のお坊さんで今津洪嶽という禅宗のお坊さんであるらしい。知の巨人と仰がれたその方は、当時の日本仏教会の重鎮であり、宗派や教義を超えて人々から熱い尊敬を受けたと高橋氏は言う。その教えを受けた僧侶は全国で20万人を超え、終戦後もしばらくの間昭和天皇の国師役に任ぜられていたのが京都の妙興寺住職今津洪嶽師である。

・神龍師は中学3年生の時、特攻隊隊員を志願し台湾沖で攻撃を受け炎に囲まれ海中に落ち、8時間の漂流を続けて救助され台湾で養生を続けて日本に帰ったという。

・今津洪嶽師はあの世が見えるようになってから弟子の神龍師にさらなる修行を命じたらしい。それは宮中に伝わる神道行法を学べということであるという。
私(東)の解釈によるならばやはり宮中には崇神天皇時代から伝わるトヨスキイリヒメとヤマトヒメを育て導いた行法がやはり存在するということである。その中には国学院あるいは皇學館では教えない幽斎という神霊との応答の方法があると、それが本田神道に繋がっているのではないか。
・GHQの民間情報教育局(CIE)の将校の一人ジョン・ペルゼルは、日本語の漢字の表記とかな表記を禁止し、すべての日本語はローマ字で表記しなければいけないという発想に、日本の官僚も言語学者も危機感を覚えて、日本語ローマ字政策に反対した。東大の言語学者柴田武らは、全国で大規模な漢字読み書き能力調査を行い、その時の日本人が識字率97.9%に達している結果を得たらしい。
この客観的なデータをCIEに突き付け日本語ローマ字政策を阻止したという。GHQの研究テーマは日本人の精神構造の分析と日本的精神構造の解体及び衰退である。その精神構造の分析に彼らが用いた日本の古典は、今、私(東)が学んでいる旧事本記大成経であり決して古事記とか日本書紀ではない。しかもGHQが採用した物は、日本人が訳した英語版の大成経である。用意周到のGHQだ。

・一般に知る人は少ないだろうが、宮内庁のキリスト教関係者のホットな人脈は、明治新政府が誕生した当初から現在に至るまで脈々と受け継がれていると高橋氏は述べ、初代宮内庁長官田島道治をはじめ宮内庁のクリスチャンリストを挙げている。神t龍師は天皇の国師を13年間勤めながら同時に政界では佐藤内閣から7代の首相を指南したという。
24年間内閣でブレーンを務めあげ、その間にモンゴル支援、アラブ石油の確保、沖縄返還交渉、日中国交回復、北方4島返還交渉、安保条約、日韓交渉等の舞台裏で外交を指南する黒子役を果たしたという。
 さらに戦後最大と呼ばれた複数大手企業の倒産救済等々の舞台裏から解決し続け、産業界では当時の資本金百億円を超える大型企業35社の経営指導にあたり、戦後日本に奇跡の経済復興をもたらし、関西の伝記メーカー創業主の松下幸之助は神龍師の弟子として15年間帝王学と経営学を学んだという。まだまだ高橋氏の言葉を聞いて書きたいのだがきりがないのでこれで終わる。この世界も二つの世界からなり、人間の肉体も霊魂と霊魄の二十構造で成り立っている。その程度のことは古神道の行を実践すればすぐにわかることだ。
日本と云う国は、歴史の大きな曲がり角において天界から使命を持ちミコトモチを実戦する神人が表れるのが日本という国柄なのである。だからわれ我々日本人は国の成り立ちを学び顕と幽の両面の世界を知ることだ。
その時にこそ日本神道は陽明学(三島由紀夫)を超え、人々に平安と幸福をもたらすのである。このような古神道の世界に於いても、極貴重であると思われる本を書かれた高橋氏に、この場を借りて感謝申し上げたい。更に、日本の若者が、古神道に目覚める一役を兼ねる著書でもある。



「小泉太志命大とは、①」

2020-03-09 06:46:36 | 日本

小泉太志命先生について学ぶ。

平時と謂わず戦時と謂わず、“破邪顕正の天剣を以って”唯々、天皇陛下の“聖寿万歳・玉体安穏”をひと筋に祈り、日本国と皇室の安寧のための神業を貫き通し、純粋無邪の生涯を終えた稀有の神人がいる。伊勢の生き神と崇められ、霊剣で天皇を守護された小泉太志命大(おお)先生である。

かつて昭和63年に本州と四国を結ぶ瀬戸大橋が開通した。同年4月に、香川県三富市高瀬町朝日山に以前祀られていた龍王神の社が再興され、伊勢朝日山本宮として創建された神社がある。此処に生前の小泉太志命大先生の御霊魂「神武参剣大神」が奉斎された。

天照坐皇大御神を主祭神に龍王神や御鏡姫命、弘法大師、聖徳大師、そして神武参剣大神を祀る神仏混淆のこの神社を継承する女性が、私共の神職養成の講座を受講していた。偶然のことだが、彼女と同期に太志命先生の薫陶を受けた男性の受講生がいた。

彼は大阪のホテルに勤務していたが受講を修了して退職し、神職となった。現在では太志命先生の御霊魂を祀る天ノ八衢神社宮司を務めている。講座で初めに会ったときは洗練された受け答えからホテルマンの見本のように思えたが、彼の特技は居合道で、全国大会で四段位の部で優勝した剣の達人でもある。

昨年の秋、所用で大阪に行った折、彼は不案内な私を自分の車で所定の場所へ連れていってくれた。車中で太志命先生に就いていろいろと聞かせて貰った。

話しによれば太志命先生は伊勢志摩磯部・伊雑宮の森の前に「神武参剣道場」を構え、半世紀に亘り昭和天皇を霊的に庇護された。天皇に関わろうとする邪霊を剣祓えの秘儀でこれを折伏した。真剣を振るう霊術秘法である。毎日何万回と真剣を振られ、魔性の邪霊を切った時には、空を切っているのに刃こぼれが起きたという。そして昭和天皇が薨去された後、自らの神業を終えて数ヵ月後に帰幽されたとか。大喪の礼には海外から多くの人たちが訪れたが、皇室に邪念が行かぬよう鬼気迫る様相で神剣を振られたそうだ。毎日の御神業は厳しく激しかったようだ。

大阪から戻って暫くすると彼から太志命先生に就いて書かれた本が2冊送られてきた。

太志命先生が神界に逝かれて20年以上が経った。先生が社会的にどのような評価をされているのかは判らなかったが、この2冊の本は先生の功績と人柄に付いて書かれている。

1冊は日本神道の“神ながらの道”のなかで、天上の神界からの神示により皇室を守護した太志命先生の事跡を記した本である。著者は30年近く読売新聞に勤務した記者で、神界の瓊々杵尊から太志命先生に与えられた御神示・神勅を神文で載せている。

もう1冊は神界に帰られた太志命先生を偲ぶ文集である。編集は元官房長官を務められた藤波孝生氏。冒頭には、祝詞集などでよく眼にしていた神宮の祝詞を書かれていた大崎千畝禰宜の、流麗な祝詞が掲載されていた。昭和46年に内宮神楽殿で奏上された、神武参剣道場20周年記念祭の奉告祝詞である。

この文集は、太志命先生が昭和天皇直属のブレーンであった西園寺公より陛下の霊的庇護を懇願され、それに従って続けられた50年に亘る御神業の偉業を称えている。

そして藤波氏や映画製作者の角川春樹氏を始め、先生のひと言で大きく人生を好転させた人たちの、感謝の言葉が数多く綴られている。作家の半村良氏や山田風太郎氏なども先生の許に通われていたようだが、角川春樹氏は、“人間にして、既に神である方は、小泉太志命以外には、私は会ったことがない。”と述べている。俳優の夏八木勲氏は、先生との出会いで、不本意な生き方から、“一瞬にして周囲の景色が鮮やかに一変したように、のびやかで自信に満ちた自分を取り戻すことが出来たことを思い出します。”と記している。

また「学者はにごりを取り去って、覚者(かくしゃ)にならなければならない」と諭された学者も居る。角川氏と同様に先生を神そのものと崇める宗教者や事業家も居る。霊人・神人と称えられるのは、生きながらその御霊魂を祀られたことからも感悟できる。

このような無私無欲を貫き、一剣萬生・一刀萬殺の神武参剣の法則で以って諸悪の邪を祓い、草莽の陰からひたすらに日本と皇室の弥栄を祈念し、世の人々に光明を与えた人はほかに見当たらないと思う。

青森県八戸市ご出身の太志命先生は27歳だった昭和13年当時、立命館大学で教鞭を執られていた。この時、国學院大學の創設や日本大学の創始に尽力し、神宮奉斎会の会長も務めた今泉定助翁に客分の扱いを受けていたと言う。定助翁の門弟には小磯首相や笹川良一氏、児玉誉士夫氏など錚々たる人物が居る。太志命先生がこの定助翁の客分に招かれていたことは、国の行末を左右する一人と目されていたことに他ならない。

太志命先生は2・26事件に連座して約1ヵ月拘留されたが、昭和天皇は藤波元官房長官より先生の近況を幾度かお聴きになられたそうだ。先生は表舞台ではなく神武参剣道場に籠り、神剣を振るい、ひたすら天皇家と国家の安寧のための神業を尽された。このような神業に就かれて居なければ、或いは国を動かす要人になっていたのかも知れない。

権力の魔力に取り憑かれ、首相の座にしがみ付く元市民運動家に振り回されている政局は、醜態と混迷の度合いを深めている。

我われは国の未来を託す指導者の選択を間違いなく誤った。

混沌とした罹災地の中から日本は再生復活の緒に着いた。いま、世直しのための、心の支柱となる小泉太志命大先生の再臨を、人々は待ち焦がれている。