4 芭蕉、吉野桜と初対面
芭蕉が、憧れの吉野桜の開花に出会ったのは、貞享五年(1688)春であった。この時、芭蕉は四十五歳。「野ざら し」の旅から四年後のことである。この年は、奥の細道の旅に出る一年前に当たる。この旅のことは、「笈の小文」と呼ばれる紀行文集として、後に刊行される ことになった。又この旅のきっかけであるが、芭蕉の実父の三十三回忌に当たり、亡夫を偲ぶ旅でもあった。
前年の貞享四年の旧暦十月二十五日に江戸深川を出立した芭蕉は、名古屋の熱田神宮を訪ねた後、実家にて越年をし て、二月二十八日に父の三十三回忌の法要を終えると、三月十九日に、念願の吉野桜と対面を果たすべく、故郷の伊賀を後にしたのであった。
芭蕉は、浮き立つような気持ちを「笈の小文」の中で、このように記している。
「弥生三月の半ば過ぎに、何となく心が浮き立っていた。心の中に吉野の桜のことが思い出されて、西行さんの歌が浮 かんだ。
『○吉野山こぞの枝折(しおり=枝を折って帰り道の道しるべとすること)の道かへてまだ見ぬ花の花を尋ねむ』
その歌が、どうしようもなく、私を枝折のように吉野の山へ吉野の桜へと導くのである…。」(現代語訳佐藤)
そして芭蕉は、旅で知り合った万菊丸と名乗る旅人と、
「よし野にて桜見せふぞ檜の木笠」
(解釈:ひの木の笠よ、さあ吉野に連れて行って、桜を見せてやるからな)
と、句を詠んで、吉野に向かって歩いて行ったのである。
そして吉野に向かう途中の箕面(みのお)の滝(現大阪府箕面市にある)の側の道ばたの桜をこのように詠んだ。
桜
「桜がりきどくや日々に五里六里」
(解釈:いや我ながら桜を見ると云っては飽きもせず日々に五里や六里歩いているのだ。こうして私も風狂の道に分け入って しまったのだろうか。)
「日は花に暮れてさびしやあすならふ」
(解釈:桜の花を見ていて、時を忘れていると、もう日が暮れようととしている。しかも夕日は翌檜(あすなろ)の花の中に 沈んでしまった。今日にもっと桜を見たかったのに。寂しいことではあるが、仕方がない。また明日に桜の園を見に歩くことにしよう)
「扇にて酒くむかげやちる桜」
(解釈:戯れに幽玄を気取り扇を杯にし、花見酒を決め込んでいると、その陰で桜がはらはらと散ってくるのだ。)
この桜の連作の第二句目は、実に思わせぶりな句だ。
「笈の小文」が刊行される原文になったと思われる「笈日記」の方で、次のような言葉が句の前に添えてある。
「”明日は檜の木になろう”という古い言い伝えがあるが、昔、谷の老木が云ったということである。
『昨日は夢のように過ぎて、明日は今だに来ないでいる。ただ死ぬ前には、一献の美酒を飲むことだけが楽しみだった が、明日には、明日には、と云いながら暮らして来て、終いにとなって、賢者から怠慢のそしりを受けることになったのだ…』(現代語訳佐藤)
「さびしさや華のあたりのあすならふ」
(解釈:実に寂しいことだ。桜の近くには、翌檜(あすなろ)の花が立っている。あすなろう(明日なろう)やあすならおう (明日習おう)ではいけないのだ。今日いま出来ることを精一杯やっていなければ、明日など来る訳はない。それほど人生は短いのだ。)」
現代人は、芭蕉のことを俳聖とか言って持ち上げているが、芭蕉は、西行さんという旅の巨人を前にして、「自分は翌 檜の木だ!」と本気で思った。芭蕉でもこのようだ。だからこそ、人は誰でも、この翌檜(あすなろ)の話を教訓としなければならない。ここには我々と同じ自 らの惰性を嘆く、人間芭蕉がいる。彼は、きっと旅寝の枕を抱きながら、「こんなことをしていたら、いつまでたっても、西行さんに追いつけないぞ。もっと気 を引き締めなければ。」そう思ったに違いない。