龍の声

龍の声は、天の声

「霧社事件」

2011-11-30 08:38:55 | 日本
「霧社事件」

「霧社事件①」

かつて台湾で起きた「霧社事件(むしゃじけん)」の映画『セデック・バレ』が台湾で映画化、前後篇に分けて9月に公開され大ブームになっているらしい。 
台湾政府の高官やマスコミ人は、外省人(在台中国人)といって日本による統治終了後、中国から渡ってきた人々で構成されており、よって中国寄りなので、その点が気になるところであり、今回の映画がどのような意図や動機で製作されているのかが、正直言って心配である。

この霧社事件の真相を2回にわたって掲載する。

霧社事件とは、1930年(昭和5年)10月27日に台中州能高郡霧社(現在の南投県仁愛郷)で起こった台湾原住民による日本時代後期における最大規模の抗日暴動事件である。反日を掲げる原住民高山族による日本人虐殺事件である約1500名が暴動を起こし、日本人134名を殺害。台湾総督府は軍隊を動員、高山族1000余名を殺害して11月19日鎮定した。

暴動の直接の原因といわれているのが、1930年10月7日に日本人巡査が原住民の若者を殴打した事件である。その日、巡査は同僚を伴って移動中に、村で行われていた結婚式の酒宴の場を通りかかった。巡査を宴に招き入れようとモーナ・ルダオ(霧社セデック族村落の一つマヘボ社のリーダー)の長男、タダオ・モーナが巡査の手を取ったところ、巡査は宴会の不潔を嫌うあまりステッキでタダオを叩いた。侮辱を受けたと感じたタダオは巡査を殴打した。この殴打事件について警察からの報復をおそれた人々が、特にモーナ・ルダオは警察の処罰によって地位を失うことを恐れ、暴動を画策したと言われている。

10月27日、霧社セデック族マヘボ社の頭目モーナ・ルダオを中心とした6つの社(村)の壮丁300人ほどが、まず霧社各地の駐在所を襲った後に霧社公学校の運動会を襲撃した。襲撃では日本人のみが狙われ、約140人が殺害された。(なお、現地の警察には霧社セデック族の警察官が2名おり、彼らは事件発生後にそれぞれ自殺した。彼らは日本への義理立てを示す遺書を残したが、遺書は偽造されたものであるとの見解や、実は彼らが暴動を首謀したとの見方もある)

蜂起の連絡を受けた日本軍や警察は鎮圧を開始した。日本側は10月29日には早くも霧社を奪回した。霧社セデック族側は山にこもり、霧社襲撃の際に警察から奪った武器弾薬を使って抵抗した。11月1日の戦闘では暴徒側は日本側の鎮圧に抵抗したが、指揮を取っていたモーナの次男バッサオが死んだ。11月初めにはモーナ・ルダオが失踪し、日本側は親日派セデック族を動員し、11月4日までに暴徒側部族の村落を制圧した。モーナの失踪後は長男のタダオ・モーナが蜂起勢の戦闘を指揮したが、12月8日にタダオも自殺した。12月中に鎮圧軍は現地の治安を完全に回復し、戦闘は終結した。

日本側は大砲や機関銃、航空機、毒ガス弾(ルイサイト)などの近代兵器を用いて暴動部族を制圧した。味方蕃の戦闘員たちに対しては敵蕃の首級と引き換えに懸賞金が支給された。この措置は日本統治下で禁止されていた首狩りを許可するものであり、懸賞金の対象は蜂起勢の壮丁のみならず、女性、子供まで含まれていた。この措置は同族間での凄惨な殺し合いを助長したとされる。

戦闘の中で、700人ほどの暴徒が死亡もしくは自殺、500人ほどが投降した。特にモーナのマヘボ社では壮丁の妻が戦闘のなかで全員自殺する事態となった。 一方、鎮圧側の戦死者は日本軍兵士22人、警察官6人、味方蕃21人であった。
掃討戦で戦死した日本軍人・味方蕃兵士は靖国神社に祀られている。
1931年1月、台湾総督石塚英蔵、総務長官人見次郎、警務局長石井保、台中州知事水越幸一が引責辞任した。

日本統治終了後、国民党政権下の霧社で防空壕建設が行われたが、その際に旧駐在所霧社分室の跡地から30数体の白骨死体が発見された。事件当時の当事者回想録では、この死体は霧社事件の際、日本側の投降呼びかけによって投降した蜂起部族が処刑されたものだと主張してる。この白骨死体発見が契機の1つとなり、「霧社山胞抗日起義紀念碑」が設立された。



この記事をはてなブックマークに追加

「日本女性の購買行動の特徴」

2011-11-29 08:21:55 | 日本
「日本女性の購買行動の特徴」

ニールセンジャパンが行っている「未来の女性」の日本版(日本女性の消費者行動)が発表された。
これは中々参考になったから、要旨を記載する。


日本女性の購買行動の主な特徴は、
①34歳以下は貯蓄傾向がある。
②ほとんどの商品で「価格」が最も購買に影響を与えるが、保育では「家族、友人からの勧め」が重要。
③購買の意思決定はほぼ女性が行うが、理想では男女平等に決めたいと思っている商品カテゴリーも多い。

メディア視聴行動では、
電子コミュニケーションは主に「携帯メール」と答えた女性は先進国中最多の59%である。
但し、65歳以上の女性は携帯メールと電話の両方を活用している。
タブッレトPC,スマートホンなどの利用時間は増加傾向にある。

特徴として「購買決定者が変化する可能性」と「情報量の増加」が挙げられる。

女性の購買決定への影響力では、
今後は男女両方で決定していく商品の傾向が注目される。

一方、「情報量」では8割以上の女性が、買いたいモノをネットで検索すると答えているが、以前よりタブレットPCやスマートフォンなど、より多くの情報を得ることが可能になっている。

以上のことから、企業は消費者理解のためには、女性たちがどのように情報を入手し、どのような購買行動をとるのか、その変化を把握し分析することが一層重要になる。



この記事をはてなブックマークに追加

「ランチェスター経営とは、②」

2011-11-28 06:01:22 | 日本
「ランチェスター経営とは、②」

ランチェスター法則の応用編として、
ランチェスター経営について考える。

ランチェスター経営とは、フレデリック・ランチェスターにより考案された軍事作戦における方程式の一種「ランチェスターの法則」を、マーケティング・企業経営などに応用した経営手法である。

ランチェスター経営で重要視されているのは「小規模1位主義」と「部分1位主義」である。エリア・コンセプト・趣味・嗜好など、できる限り絞り込んだ上で、その分野におけるナンバーワンを獲得することで勝利をつかむ。業界トップ企業が利用することも出来るが、中小企業が大企業を相手にするような「小が大に勝負を挑む際」などに、特に効果を発揮する。

WEBコンサルタント水上浩一は、著書「儲かる会社 ランチェスター戦略」にて、下記のような10原則を挙げている。

①競合との差別化を考えた商品やサービスで勝負する。
②自社の経営規模でも1位になれるものを、目標として選ぶ。
③2を見つけるのに、自社の商品やサービスを細分化する。
④ターゲットとなる客層を絞り込む。
⑤顧客との距離感を縮める戦略。
⑥競争相手が少ない分野を選び、一騎打ち戦を挑む。
⑦営業力を集中投下する。1人のときは長時間労働もやむを得ない。
⑧軽装備で、できるだけお金をかけずにやる。見栄を張らない。
⑨1位になれるまで、あきらめない忍耐力を持つ。
⑩少し儲かったからといって安心せず、堅実経営を心がける。

以上、参考にされたし。


この記事をはてなブックマークに追加

「ランチェスターの法則とは、」

2011-11-27 09:18:33 | 日本
「ランチェスターの法則」

この法則は、少々難解だが、わかれば応用範囲が広く、凄くためになる。
だから、しっかり学び、噛み砕こう。


ランチェスターの法則とは1914年にフレデリック・ランチェスターによって発表されたオペレーションズ・リサーチにおける戦闘の数理モデルである。
以下、2回にわたり掲載する。

<第1法則>
いくつかの前提に基づいた場合にだけ適合する一次方程式の戦闘モデルである。ランチェスターの理論でその前提は次のように整理される。

①両軍は相互に射撃を行なうが、互いに相手の部隊の全てを有効な射程に収めている。
②両軍の部隊の戦力は兵員と武器の性能によって同様に決まっているが、両軍の部隊が発揮できる戦闘効果は異なっている。
③両軍とも相手が展開している地点の情報を持たない。したがって、射撃の効果がどれほど得られるか不明なまま戦場の全体に対して射撃を行なう。
④4両軍とも戦闘において残存する両軍の部隊は展開しているが、その部隊の配置は決して形式的に定まることはない。
⑤このような前提を踏まえれば、狭隘な地形において対峙している一対一の戦闘部隊による戦闘をモデル化したものと見做すこともできる。

このモデルはいくつかの要因を含んだ次のような方程式として示すことができる。

A0 ― At = E (B0 ― Bt) 
 
A0はA軍の初期の兵員数
Atは時間 t におけるA軍の残存する兵員数
B0はB軍の初期の兵員数
Btは時間 t におけるB軍の残存する兵員数
Eは武器性能比(Exchange Rate)=(B軍の武器性能)÷(A軍の武器性能)

(軍の戦闘力)=(武器性能)×(兵員数)

戦闘を前提として、戦闘力が優勢な方が勝利し、勝利側の損害は劣勢の戦力と等しくなる。例えば武器性能比Eが1の場合(武器性能が同じ場合)、例えばA軍5とB軍3が戦ったら、A軍が勝利して2 (=5 − 3) の兵員が残ると考えられる。


<第2法則>
二次方程式を用いた戦闘モデルを示したものであり、ランチェスターは既に述べた第1法則の前提のうち1と2については同じように導入しながらも二つの異なる前提を設けて理論を構築している。

戦闘において残存している部隊は互いにあらゆる時点で相手の部隊が配置されている地点についての情報を持つ。
戦闘における両軍の部隊の射撃は相互に相手の残存する部隊に均等に分配する。
省略した2つの前提を含む第2法則の4つの諸前提は各部隊が敵情について正確に把握し、かつ相手に対して無駄のない適切な射撃が可能であることを示している。この戦闘モデルを調べると、第1法則で示された戦果に対して興味深い相違点が認められる。

(軍の戦闘力)=(武器性能)×(兵員数)2

銃器、火砲、航空機が発達して一人が多数に対して攻撃が可能な戦闘を前提とし、双方の戦闘力を二乗した上で戦闘力が優勢な方が勝利するが、第1法則よりも兵員数の優位性が高い。

Eが1の場合、例えばA軍5とB軍3が戦ったら、実際の戦力差はA軍25対B軍9であるため、A軍が勝利し、4 (= ルート.5の2乗ー3の2乗) の兵員が残る。



この記事をはてなブックマークに追加

「世界超大恐慌目前!」

2011-11-26 11:07:30 | 日本
「世界超大恐慌目前!」

増田俊男さんは、「世界超大恐慌目前!」と題し、興味深い文章を載せている。
以下、要約する。参考にされたし!


1930年アメリカ発の大恐慌(Great Depression)を上回る規模の不況は、今回の不況が始まった2007年末まで起こったことはなかった。今回の不況は2009年6月で終わったと言うのがアメリカの公式見解だが、私は「馬鹿げている」と言い続けてきた。バブルとバブル崩壊を繰り返すことで成長を続けられるのは、バブルの頂点の金融資産からバブル崩壊によるマイナスを差し引いてプラスであることが条件である。2007年10月の頂点からバブル崩壊で失った後の資産は戦後初めてマイナス資産になった。今回の不況はバブルとバブル崩壊の連鎖ゲームから来た不況ではない。
大恐慌(Great Depression)が、世界経済の中心がロンドンからニューヨークに移行する過程で起こったように、今回の不況はニューヨークの終焉を予告している。
アメリカはTPPにいち早く関わり、アセアン・プラス6カ国にも参加してアジアの成長センターでの主導権を握ろうとし、一方中国も無関税・障壁撤廃の犠牲を顧みず積極的にアメリカに向かい合う。

すでに世界の政治は次なる世界経済センターに布石を打とうとしている。

①世界経済はその規模でヨーロッパ、北米、アジアに分かれる。
②経済の中心はヨーロッパ(ロンドン)から北米(ニューヨーク)、そして今アジアに移ろうとしている。
③アジアの「ある場所」(小冊子に明記)がセンターとなって世界経済の新秩序が形成されるまで世界経済はUncertainty(不確実・不安定)を続けるだろう。
④新秩序に向かって一番乗りは、すでに非成長時代の「失われた20年」の経験を持つ日本である。次は国境無き資本集約有機体であるアメリカである。そして最後は今後ドイツによって統一されるヨーロッパである。
⑤規模のみの成長国家、模倣国家、無責任国家の中国は日本に代表される物質的にも精神的にも質の高い先進国になり得ない。やがて経済も政治もハードランディングで、一時的であるが世界に大混乱をもたらすだろう。

世界は混とん状態のようだが決してそのようなことはない。「資本の意志」(金銭欲)と「力の意志」(支配欲)で判断して来た時代は終わった。
東日本大震災の報道で世界が「もったいない」、「みんなで頑張ろう」、「みんなで助け合おう」に共感した時、新しい世界が明確に見えてくるのではないか。




この記事をはてなブックマークに追加

「人間五十年とは、②」

2011-11-25 08:20:15 | 日本
「人間五十年とは、②」

謡曲、「敦盛 (幸若舞)」に出てくる「人間五十年・・」の謡いの意味の本質とは何か。
三輪佳孝さんが把握したところを要約する。



『人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり、ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか、滅せぬもののあるべきか』

そもそも、人間五十年の「人間」の読み方が大変重要である。謡曲の敦盛 (幸若舞)では、「にんげん」ではなく、「じんかん」と読んでいる。「にんげん」との読み方は、まだまだ新しい。しかし、この「にんげん」との読み方では、本来の言わんとする意味が全くわからなくなってしまう。映画やドラマに出てくる戦国武将の織田信長達や武士社会の平均寿命が50歳前後だったため、人の人生の長さを指しているように錯覚してしまう。いや、錯覚している。が、本当はそうではない。それは誤りである。
次にくる、「下天(げてん)のうちを比ぶれば」の「下天の世界」と「人間の世界」との対比がわかっていない。すなわち、下天の世界では、人間界の50年間が、何と!たったの一日の出来事である。かたや50年、方や一日。その対比を言って、「人間世界の日々の喜怒哀楽とは、誠に短い時間の流れの中での出来事であり、それは将に夢や幻の出来事みたいなものである」と言っているのである。さらに、その対比の時間の長ささえも、下天界も人間界も結局は「ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」。すなわち、この世に生まれてきた以上は、必ず滅する。但し、滅するとは、生命が滅するのではなく、肉体が滅すると言う意味である。必ず滅する肉体の映し世の世界が、この世である。しかし、この肉体世界の奥には、永遠に生きとおしの生命が流れている。この生命の世界こそが、本物の世界である。という意味である。ここが最も重要なところである。

だから、「武士道とは死ぬことなりとみつけたり」と言う葉隠(はがくれ)武士道精神や大東亜戦争時の特攻精神には、人間の本質が肉体人間ではなく、その奥にある永遠の生命の存在こそが、己の本質であるとの日本独自の精神体系として顕われている。

その深遠なる重みを、この謡曲「敦盛」の「人間五十年・・」の謡いから感じとらねばならない。


人間五十年を、「にんげん」ではなく、「じんかん」と読み、お腹の底より、朗々と吟じよう。
さすれば、己の奥底の魂に共鳴し、荘厳なる雰囲気を味わうことができ、新しい世界が顕われてくる。

では、はじめよう。


人間(じんかん)五十年~
下天(げてん)のうちを~
比ぶれば~
夢幻の如くなり~~。
ひとたび生(しょう)を得て~
滅せぬものの~
滅せぬものの~
あるべきか~




この記事をはてなブックマークに追加

「人間五十年とは、」

2011-11-24 09:22:14 | 日本
「人間五十年とは、」

「人間五十年とは、①」

今回は、謡曲、「敦盛 (幸若舞)」に出てくる「人間五十年・・」の謡いについて、2回にわたり学ぼう。

『人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり、ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか、滅せぬもののあるべきか』


(1)敦盛 (幸若舞)あらすじ

1184年(元暦元年)(平家方の呼ぶ寿永2年)治承・寿永の乱(源平合戦)の一戦である須磨の浦における「一ノ谷の戦い」で、平家軍は源氏軍に押されて敗走をはじめる。 平清盛の甥で平経盛の子、若き笛の名手でもあった武将平敦盛は、退却の際に愛用の漢竹の横笛(青葉の笛・小枝)を持ち出し忘れ、これを取りに戻ったため退却船に乗り遅れてしまう。敦盛は出船しはじめた退却船を目指し渚に馬を飛ばす。退却船も気付いて岸へ船を戻そうとするが逆風で思うように船体を寄せられない。敦盛自身も荒れた波しぶきに手こずり馬を上手く捌けずにいた。
そこに源氏方の武将熊谷直実が通りがかり、格式高い甲冑を身に着けた敦盛を目にすると、平家の有力武将であろうと踏んで一騎討ちを挑む。敦盛はこれに受けあわなかったが、直実は将同士の一騎討ちに応じなければ兵に命じて矢を放つと威迫した。多勢に無勢、一斉に矢を射られるくらいならと、敦盛は直実との一騎討ちに応じた。しかし悲しいかな実戦経験の差、百戦錬磨の直実に一騎討ちでかなうはずもなく、敦盛はほどなく捕らえられてしまう。
直実がいざ頸を討とうと組み伏せたその顔をよく見ると、元服間もない紅顔の若武者。名を尋ねて初めて、数え年16歳の平敦盛であると知る。直実の同じく16歳の子熊谷直家は、この一ノ谷合戦で討死したばかり、我が嫡男の面影を重ね合わせ、また将来ある16歳の若武者を討つのを惜しんでためらった。これを見て、組み伏せた敵武将の頸を討とうとしない直実の姿を、同道の源氏諸将が訝しみはじめ、「次郎(直実)に二心あり。次郎もろとも討ち取らむ」との声が上がり始めたため、直実はやむを得ず敦盛の頸を討ち取った。

一ノ谷合戦は源氏方の勝利に終わったが、若き敦盛を討ったことが直実の心を苦しめる。合戦後の論功行賞も芳しくなく同僚武将との所領争いも不調、翌年には屋島の戦いの触れが出され、また同じ苦しみを思う出来事が起こるのかと悩んだ直実は世の無常を感じるようになり、出家を決意して世をはかなむようになる。

謡曲「敦盛」では、直実が出家して世をはかなむ中段後半の一節に、

『思へば、この世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も、月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ

という詞章があり、織田信長がこの節を特に好んで演じたと伝えられている。

「人間(じんかん)五十年」は、人の世の意。
「化天(けてん)」は、六欲天の第五位の世化楽天で、一昼夜は人間界の800年にあたり、化天住人の定命は8,000歳とされる。
「下天(げてん)」は、六欲天の最下位の世で、一昼夜は人間界の50年に当たり、住人の定命は500歳とされる。

信長は16世紀の人物なので、「人間」を「人の世」の意味で使っていた。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」の正しい意味は、「人の世の50年の歳月は、下天の一日にしかあたらない」である。



この記事をはてなブックマークに追加

「日本そばの進化は続く②」

2011-11-23 10:02:35 | 日本
「日本そばの進化は続く②」

「そば切り」の誕生はいつ頃、誰によってなされたのか。
江戸中期の俳人だった森川許六(1656~1715)による1706年刊の俳文集『風俗文選』では、「そば切り」の発祥地が次のように伝えられている。
「蕎麦切といっぱ、もと信濃国本山宿より出て、普く国々にもてはやされける」
本山宿は中山道の宿場の1つで、今の長野県塩尻市内にある。1706年の時点では、すでに「普く国々に」広がっていたようだ。実はその起源は今も謎のままであり、どこまでさかのぼって「そば切り」の記述を見つけられるかは現代でも争点となっているのだ。

1992年には、長野県の郷土史家である関保男が、県南西部にある大桑村の定勝寺という寺で1574(天正2)年にしたためられた「定勝寺文書」の中で、「ソハキリ」(そば切り)の文字があるのを発表した。
「徳利一ツ、ソハフクロ一ツ 千淡内」「振舞ソハキリ 金永」
これは、定勝寺の仏殿修理の落成祝いとして贈られた品物と贈答者の名前だ。徳利とそば袋を「千淡内」なる人物が贈った。そして、そば切りを「金永」なる人物が確かに振る舞っていたのである。関保男によるこの発見があるまで、書物における「そば切り」の登場は、近江の多賀大社の住職だった慈性(1593~1663)が1614年(慶長19)年2月3日に「江戸の常明寺でソバキリを振る舞われた」と書いたのが最古とされていた。関の発見により40年も時代をさかのぼったことになる。

1574(天正2)年の「定勝寺文書」より以前の書物では、今のところ「そば切り」の記述は見出されていない。謎の部分もまだ多いが、そば切りは16世紀のいつ頃かに誕生したものと考えてよさそうだ。そば切り、つまり麺としてのそばが世に出てからというもの、そばに様々な変革の手が加えられていった。江戸時代に入り、17世紀から18世紀頃には、そば粉に“つなぎ”としての小麦粉を混ぜるそばの製法が打ち立てられたとされている。そば粉のみのそばは「十割」(とわり)、小麦粉2に対してそば粉8の比率のそばは「二八」(にはち)、同様に、「三七」「半々」も誕生した。さらに、そば粉10として小麦粉2の割合の「外二」なども誕生した。粉の混ぜ方が多種多様になったのは、それだけ人々がそばに興味を持つようになった証しと言えよう。

今も続く「そば屋」が開店したのも江戸時代だ。江戸の麻布永坂町では、江戸暮らしをしていた信州の行商人の清右衛門が1789(寛政元)年、「信州更科蕎麦処」なる看板を掲げた。「更科そば」は、ソバの実の中心のみを挽いた白い上品なもの。信州からの直売を売り物にし、江戸中で受けたという。

一方、雑司ヶ谷鬼子母神門前や本郷団子坂では「藪そば」が誕生した。こちらはソバの実の甘皮の色を入れた薄緑色のそばだ。

更科そばや藪そばを供すそば屋の誕生以来、大江戸中にそば屋は広がっていき、1860(万延元)年には江戸府内のそば屋は3763店を数えたという。
そばにとってのもう1つの重要な変革も、この時期に起きる。それは、飢饉をしのぐ「救荒食としてのそば」から、縁起のよい「ハレの食品としてのそば」への転換である。
晦日に食べる「晦日そば」や、大晦日に食べる「年越しそば」の習慣が庶民に定着したのは江戸時代中期と言われる。もともと、金銀細工師が、飛び散った金粉・銀粉を、そば粉を使って集めていたことから、縁起をかついで掛け金の回収前にそばを食べるようになったという。そのげんかつぎが晦日や大晦日にそばを食べるという習慣として広まったという説がある。また、引っ越しの挨拶に「そばに参りました」の意味を込めてそばを贈る習慣も江戸時代に起きたとされる。麺となったそばは江戸の人びとに愛され、縁起物になっていったのである。

9000年以上前の遺跡からソバの花粉が見つかったということからすれば、ここ400年ほどの麺としてのそばの歩みは、まだ新しい出来事と取ることもできそうだ。麺としてのそばの歴史は始まったばかりと言ったら大げさだろうか。だが、その450年の麺としてのそばの歩みの中には、小麦粉の使用や、そば屋の誕生、そしてハレの食品への転換といった、日本人とそばの関わりを考える上での大きな出来事が立て続けに起きてきたのである。

中華麺などに比べたら穏やかかもしれないが、“そばの激動期”は、現代になってもなお続いていると言える。1963(昭和38)年、日本の食品メーカーから「即席のそば」が産声を上げたのである。




この記事をはてなブックマークに追加

「日本そばの進化は続く」

2011-11-22 08:16:07 | 日本
「日本そばの進化は続く」


年の瀬の12月14日、江戸の夜風を震わせて、響くは山が流儀の陣太鼓。
ご存知、赤穂浪士の討ち入りである。
この赤穂浪士が討ち入り前に、、そばを食べ、一献上げたのである。
そばで一献かたむけるのは、誠にいい。
日本文化のよき象徴である。
今回は、そばで一献かたむけるにあって、そばの歴史と文化について学ぼう。
以下、2回にわたり掲載する。

日本そばの進化は続く①

秋から冬にかけては「そば」が旬の季節。秋の新そばが出回り、年末の「年越しそば」で最盛期を迎える。歳時記でもそばは冬の季語だ。うどん、そうめん、中華麺、洋麺と、麺類は日本人の主食の1つとなっているが、頭に「日本」が付くのは「そば」のみ。日本人の麺食文化において、そばの存在を欠かすことはできない。

そんなそばと日本人の関わり合いの歴史はどのようなものだったのだろうか。歴史を探ってみると、今から400年ほど前、日本のそばの食べ方における“大きな変革”があったことが分かる。われわれが食しているそばが、どのように今のような形になっていったか、そばの食べ方、そばの供し方、そばへの見方などを追いながら、その歴史を辿っていくことにする。その歴史の先端にあるのが現代だ。そば屋で食べる、そばを打つといった営みから発展して、そばは即席麺の世界にも広がっている。

日本のそばも、元をたどれば大陸伝来の食べ物となる。植物のソバの原産地は、DNA分析などから現在では中国雲南省からヒマラヤあたりにかけてという説が有力になっている。だが、日本でソバの栽培が始まった時期はかなり古くまでさかのぼれる。日本史の中でも最も古い時代区分の縄文時代にたどり着くともいう。高知県内で9000年以上前の遺跡からソバの花粉が見つかり、当時からソバが栽培されていたと考えられているのだ。さいたま市岩槻区でも3000年前の遺跡からソバの種子が見つかっている。
「蕎麦」が初めて、歴史的文献に上ったのは、797年に完成した史書『続日本紀』においてである。奈良時代前期の女帝だった元正天皇(680~748)が出した詔の中に、次のような「蕎麦」の記述がある。

ソバの実。ソバはタデ科の1年生植物。実の殻を除き、実の中に含まれている粉からそばを作る。種まきから収穫までは2~3カ月と短く、荒涼とした土地でもよく育つ。
「今年の夏は雨がなく、田からとれるものがみのらず、よろしく天下の国司をして、百姓(おおみたから)を勧課し、晩禾(ばんか)、蕎麦及び小麦を植えしめ、たくわえおき、もって救荒に備えしむべし」

日照り続きで稲の収穫が見込めない中、普通より遅く実る晩禾とよばれる稲や小麦とともに、栽培が推奨されたのが「蕎麦」だった。ソバは、日照りや冷涼な気候にも強く、また栽培する土地もさほど選ばないため、凶作の時も収穫が見込める救荒作物として位置づけられたのだ。

今、「そば」といえば、だれもが色の少しついた長細い麺の食べものを思い浮かべる。だが、少なくとも16世紀頃までは「そば」に麺としての形を見出すことはできない。そばの歴史の中で、そばは長いこと麺ではなかったのだ。

そば。麺状にしない「そばがき」に対して、切って麺状にしたものは「そば切り」とも呼ばれる。そば屋に入ると、そば粉を湯でこねて餅状にした「そばがき」や「そばもち」を食べることができる。このそば粉を練った食べ物こそ、そばの長い歴史の中では「そば」であり続けたのである。
ということは、今やどこでも見られる麺の形をしたそばは“発明品”ということになる。
麺状のそばには、包丁で切って作ることから「そば切り」という呼び方も付いているくらいだ。現代人の観点からしてそばがそばらしくなったのは、つまり、そば切りが誕生したのはいつ頃のことだろうか。



この記事をはてなブックマークに追加

「ブータン国の現状」

2011-11-21 08:03:13 | 日本
「ブータン国の現状」

今回はブータン国の現状について、川島博之さんの記事を紹介する。


ブータンは心の豊かさを示す指標である「GNH(国民総幸福量)」の増大を国是に掲げたユニークな国づくりで知られる。
山岳地帯では牧畜が行われ、谷間の地では棚田を利用したコメづくりが行われている。放牧により生産された干し肉やチーズが、盆地で栽培されたコメと交換される。長い間、そんな物々交換経済が成り立ってきた。
そんなブータンのコメ作りを飛躍的に発展させた日本人がいる。西岡京治氏(1933~92年)だ。彼は1964年にJICA(国際協力機構)の前進である海外技術協力事業団が行う援助の一環としてブータンに渡っている。彼はブータンの習慣や国情を深く理解した上で、日本の農業技術を移植した。ブータンの人々の生活に溶け込み、真摯な態度で多くの人々を指導した。現在、国際空港のあるパロの近郊に広がる棚田は、彼の指導によって作られたものである。現在の国王の父君である第4代国王は西岡氏の業績を高く評価し、民間人としては最高の爵位である「ダショー」を彼に贈った。これまでにダショーを授けられた外国人は彼一人である。西岡氏は59歳の時にブータンの地で病に倒れたが、その際、ブータンは国葬をもって彼を送った。それほどまでに現地の人々からの信頼が厚かったのである。お金を渡すだけの形骸化した国際協力が問題視されることが多い中で、西岡氏の業績は特筆に値しよう。

そんなブータンにも近代化の波が押し寄せている。
ブータンの経済発展の原動力は売電と観光だ。山岳の落差を利用した水力発電により電気を作り、それをインドに売っている。経済成長が著しいインドでは慢性的に電力が不足しているが、そのインドは自らお金を出してブータンに水力発電所を建設し、そこで作られる電力を買い取っている。この売電により得られる収入で、ブータンは国民の教育費や医療費を無料にしている。

それが可能なのは、ブータンの人口が70万人しかないためでもある。同じ山岳地帯に位置するネパールの人口が3000万人にもなることに比べると、ブータンの人口は驚異的に少ない。それは、世界でも最も高い山岳地帯に位置しているためだろう。

ブータンがGNHという概念を打ち出し、それが一見上手くいっているように見える背景には、売電収入と少ない人口がある。クウェートなど人口の少ない産油国が高い福祉水準を維持できるのと同じ理由である。

ブータン経済のもう1つの柱が観光だ。
秘境のイメージが強いことに加えて、GNHを標榜していることもあって、観光においてブータンの人気は高い。現在、観光業は売電に続く第2の産業に育っている。
国際空港には毎日ジェット機が発着し、多くの外国人が訪れている。観光客はアメリカからが最も多く、それに日本が続いている。ヨーロッパからも多い。最近では、台湾やシンガポールなど経済成長著しいアジアからの観光客も増えている。忙しい毎日を送っている人々は、ブータンに癒やしを求めるのかもしれない。
ブータンの観光にはビザが必要である。1泊について最低でも200ドル払うパッケージツアーに参加する必要がある。200ドルにはホテル代、レンタカー代、通訳代、食事代が含まれるから、それほど高いとは言えないが、それでも学生が貧乏旅行をすることはできない。それ相応のお金を払う人だけを入国させる。だから、多くの収益を上げることができる。ブータンは観光業に多額の税金をかけているが、観光業は、ブータンがGNHを掲げ、福祉社会を維持するためになくてはならないものになっている。

観光業の発展はブータンに大きな変化をもたらした。
多くの街でホテルや商店の建設ラッシュが起きている。そもそもブータンの街は谷間のそれほど広くない平地に作られている。建物の増設に適した土地は少ない。そのために、新たにホテルを建設するとなると、勢い棚田や段々畑をつぶすことになる。首都であるテンプーに行ってみると、もはや周辺に農地はない。首都に人口が集中し始めたこともあり、周辺の棚田が次々にホテルや住宅に変わっている。

棚田をつぶしてしまって、どのようにして食料を手に入れるのだろうか。その答えは輸入である。
現在、ブータンは多くの食料をインドに依存しており、既にコメの自給率は約50%に低下している。狭い山道を伝わって、インドから大量にコメが流入している。貧しい開発途上国であるブータンが、なぜ大量のコメを輸入できるのだろう。それは化学肥料の普及により、1970年頃から世界中でコメを大量に生産できるようになったためである。 
インドのコメが余り気味であるために、ブータンは安いコメを輸入することができる。ブータンの人々はコメを作るよりも、棚田をつぶしてホテルを建てた方が儲かるのである。もはやブータンは農業技術支援を欲していない?

GNHを掲げるブータンは、農業より観光の方が儲かることに気がついてしまっている。
ブータンの急速な経済発展と社会の変化を見る時、開発途上国への農業技術協力について、これまでのやり方でよいのか、もう一度考え直さなければならない時期に差しかかっているのだと思う。




この記事をはてなブックマークに追加

「ブータン国王夫妻が国賓として来日」

2011-11-20 09:34:45 | 日本
「ブータン国王夫妻が国賓として来日」

ブータン国王夫妻が国賓として来日した。
そして先日(平成23年11月17日)、その国王夫妻の歓迎パーティーが東京のホテルニューオオタニにて行われた。
何と!わが輩も、王妃の関係で招待された。
以下、感想を述べる。

「先ず、ブータン国王夫妻の歓迎パーティーは素晴らしいの一言に尽きる。国王は、ご挨拶の冒頭、親しみをこめて、天皇皇后両陛下の永遠のご繁栄を祈念するとの言葉を述べられた。深い愛情と温かさを感じた。その後、国王夫妻は会場の参加者一人一人と全員に握手をされた。何と!その握手は、一時間以上にもわたった。大変な努力である。他の国家元首ではありえないこと。わが輩も、国王夫妻と握手をかわしたが、握手をかわした右手を、そのまま洗わずにとっておきたい感動を覚えた。幸い、専属カメラマンが、国王夫妻とわが輩のツウショットの写真をバッチリとってくれた。写真は、いずれ届くと思うが、大切な宝物の記念写真になるだろう。
本当に素晴らしい一日だった。
感謝!感謝!
お二人のお幸せと、ブータン国の隆昌をこころより祈念する。




この記事をはてなブックマークに追加

「日米安保破棄を真剣に検討し始めた米国③」

2011-11-19 07:02:32 | 日本
「日米安保破棄を真剣に検討し始めた米国③」

〔5〕日本への影響

これまで、日本は米国にとってかけがえのない戦略基盤であった。その理由は(1)(冷戦時代)極東ソ連軍の封じ込めの拠点、(2)インド洋や中東までも展開する米軍の基地機能の提供、(3)財政的な支援など。
しかし、今日経済的に疲弊しつつある日本は、将来、財政面でそれほど大きな貢献をすることは期待できなくなりつつある。米国は、日本はもはや「金の卵」を産まなくなるだろうと思っているに違いない。しかも、中国との距離が近すぎて、在日米軍基地は徐々に中国の弾道ミサイルなどの脅威にさらされることになるだろう。さらに、自民党政権に比べれば、民主党政権は御し難い。近い将来米国は日本の戦略的価値を「要石」などと持ち上げなくなるだろう。

その帰結として、次の通りのシナリオが考えられる。

第1のシナリオ:米国は、日米安保を維持するものの、その信頼性は空洞化する。

第2のシナリオ:米国は、一方的に日米安保を破棄する。

第3のシナリオ:米国は、日米安保条約を双務条約に改定することを迫る。

戦後、60年以上にわたり、我が国の平和と繁栄の基盤になってきた、日米安保体制が今重大な岐路に差しかかっていることを銘記すべきだろう。日本は、戦後レジームのコペルニクス的な転換の時期を迎えるかもしれない。なお、日本政府にとって喫緊の課題である海兵隊を普天間からグアムに移す計画について米国政府は、上記のような思惑から、白紙に戻し、新たな再配置の全体計画(ニュートランスフォーメーション)を策定した後に、在日米軍の再配置を改めて決めるのではないかと思われる。10月25日、野田佳彦総理と会談したレオン・E・パネッタ国防長官は、これまで通り、辺野古への移設を主張した。これは、「そもそも移設の可能性が低いことを見越して、日本政府に貸しを作る思惑」と見るべきかもしれない。

半世紀以上続いた戦後レジームをどのように変えればよいのだろうか。日本国民は、生存(安全保障)と繁栄の道、生き残りの道、について、真剣な議論をしなければならない重大な時期にあるものと思う。



この記事をはてなブックマークに追加

「日米安保破棄を真剣に検討し始めた米国②」

2011-11-19 06:59:59 | 日本
「日米安保破棄を真剣に検討し始めた米国②」

〔3〕米国・米軍にとっての新たな情勢の出現

QDR2001が策定された頃に比べ、米国・米軍の戦略環境は以下のように大きな変化を見せ始めた。

(1)日本の没落
日本が経済的に没落しつつある。今次、東日本大震災は日本の没落を加速する可能性がある。また、政治的には民主党政権が出現し、従来の自民党ほどには米国の意のままにならなくなった。米国は日本を、「太平洋の要石(Key Stone of the Pacific)」 と位置づけ重要視してきたが、今後、日本を米国戦略に活用する目算が立ちにくくなりつつある。

(2)中国の台頭と軍事的脅威の顕在化
米国の当初の対中国政策は、「ヘッジ」と「エンゲージメント」政策の二股を掛けたものだった。「ヘッジ」とは、将来、中国が米国の覇権に挑戦する時には、いつでも中国を軍事力で制圧するか、封じ込め得る体制を作ることを指す。「エンゲージメント」政策とは共産党独裁国家の中国を米国と同じスタンダードに徐々に変えるために中国と関わることで、経済・社会・人権基準などを米国なみに整合させようと努力することだ。
しかし、最近、米国は、中国が空母建造に踏み切り、米空母の投入を防ぐ対艦弾道ミサイルの開発を急ぐなど著しい軍拡に鑑み、「ヘッジ」政策に傾きつつある。

(3)米国の凋落
原因はともかくも、米国の経済は、「世界の警察官」を担うだけの余力を失いつつある。今後10年間で国防予算を最大6000億ドル削減する予定で、陸軍・海兵隊最大約20万人、海軍艦艇最大60隻、空軍戦闘機最大468機を削減するとの報道がある。

(4)イラク・アフガンからの撤退
バラク・オバマ大統領は、10月21日、イラク駐留米軍部隊を年末までに全面撤収させると発表した。また、6月には、約10万人の規模となっているアフガニスタン駐留米軍を7月より部分撤退し、2012年の夏までに計3万3000人を撤収させる計画を発表した。アフガン駐留経費はこれまでに4400億ドル(約35兆円)に達し、米財政に重い負担になっており、残りの部隊も、早晩撤退を余儀なくされるものと思われる。イラク・アフガン部隊の撤退は、米国の次なる世界戦略策定を急がせるトリガーになることは間違いないことだろう。


〔4〕新たな米軍戦略の骨格と特徴

米空軍の「U2」偵察機〔AFPBB News〕

(1)米国の基本スタンス・・パクスアメリカーナへの未練
米国は、超大国の地位から降りることを納得するだろうか。ペンタゴンや国務省などの戦略策定担当者たちは、新戦略を検討するに当たり、現実としてもはや米国がパクスアメリカーナを維持できないことを知りつつも、なお過去の栄光を完全に排除することはできないだろう。従来の手法のように、北大西洋条約機構(NATO)や日本の支援を受け、パクスアメリカーナを維持することに腐心するだろうが、やがて断念せざるを得ないだろう。米国の新戦略を策定するうえで、自国の現状の国力、超大国なのか、大国の1つに過ぎないのか、を客観的に評価・認識することが、「あるべき戦略」を決める要件なのだが。言い換えれば(1)引き続き、世界覇権の維持を目指すか、(2)世界覇権の維持を断念し、アジア覇権の維持のみを最優先目標として掲げるのか、ということだ。2014年に発表されるはずの次のQDRで、米国が自国の立場をどのように認識して、記述するのか注目される。

(2)米国の乗ずべき中国のアキレス腱
中国は、資源を海外に求めざるを得ない。しかも、ヒマラヤ、新疆ウイグル自治区やモンゴルを経由して内陸正面から物資を搬出・搬入する量は限定的で、やはり主たる貿易は海洋に依存せざるを得ない。海洋上の中国の生命線(シーレーン)は、3つある。

第1のルートは、マラッカ海峡からインド洋経由で中近東・アフリカに到るもの。
第2のルートはパプアニューギニア周辺を通過してオーストラリアや南米に到るもの。ちなみに、このルートは、大東亜戦争において、日本(帝国陸海軍)が米国とオーストラリアを分断するために実施した「SF作戦」の方向と同じである。「SF作戦」は、フィジー、サモアおよびニューカレドニアを占領することにより、南方戦線におけるオーストラリアの脅威を排除するとともに、米国(ハワイ諸島)とオーストラリアの間のシーレーンを遮断することでオーストラリアを孤立させ、同国をイギリス連邦から脱落させることを狙った作戦であった。
第3のルートは、琉球諸島正面から北米に到るもの。
第1のルートのチョークポイントはマラッカ海峡。第2のルートのそれはパプアニューギニア・マーシャル諸島・ソロモン諸島などの周辺海域。第3のルートの場合は沖縄・宮古海峡ではないだろうか。

米国としては、中国との有事に、かかるチョークポイントを制することができる体制を構築することを目指すと思われる。

(3)新たな陣立て(ニュートランスフォーメーション)をするうえでの考慮要件
中国は「Anti-Access(接近阻止)/Area-Denial(領域拒否):A2AD」という海洋戦略を掲げている。この戦略は、遠方から来る敵を防衛線内に入れさせず(接近阻止)、防衛線を突破されてもその内側で敵に自由な行動を許さない(領域拒否)というコンセプトである。さらに言えば、この防衛線内に存在する既存の米軍基地に対しては、米国の戦闘機が基地から飛び立つ前に弾道ミサイルで敵基地(在日米軍基地)の滑走路などを先制攻撃する軍事ドクトリンを新たに取り入れたと報じられた(6月20日付読売)。

このような状況で米軍が緒戦に生き残るためには、次の点が重要になる。
①中国との間合いを従来以上に離隔させ弾道ミサイルの射程外(約1850キロと推定)に出ることが望ましく、ミサイルの奇襲攻撃に対処(ミサイル迎撃ミサイルなど)できるようにする。
②広域に分散すること。
③ミサイルからの被害を局限するための抗堪化や、滑走路の被害復旧能力の強化。

(4)重視地域
上記(2)の分析のように、今後米国はオーストラリアと太平洋諸島(パプアニューギニア、マーシャル諸島、ソロモン諸島など)を従来以上に重視し、軍事的な配備を強化することだろう。特に、オーストラリアは上記の3ルートのいずれにも扼する(対処する)ことができる位置にあり、今後オーストラリアの戦略的価値は米国にとって極めて重要なものになることだろう。

(5)二重包囲網の形成
中国は、太平洋正面への進出目標線として、第1列島線(九州を起点に、沖縄、台湾、フィリピン、ボルネオ島に至るライン)および第2列島線(伊豆諸島を起点に、小笠原諸島、グアム・サイパン、パプアニューギニアに至るライン)を挙げている。米国は、今後これに対抗して、従来の日本・韓国・台湾・フィリピンのラインに加え、グアム・マーシャル諸島・ソロモン諸島・オーストラリアを連ねるもう1つの防衛ラインを設けて、中国を二重に封じ込める新たな陣立て(ニュートランスフォーメーション)を構成するものと予想する。米国が、将来、戦力の逓減具合が大幅で、中国の相対的戦力が第1列島線付近で劣勢になると認めた場合は、第1列島線の防衛を放棄し、グアム・マーシャル諸島・ソロモン諸島・オーストラリアを連ねるもう1つの防衛ラインまで後退する可能性もあろう。このことは、日本が米国の防衛線から切り捨てられることを意味する。

(6)軍事インフラ建設のための財政措置
今後は、沖縄の第3海兵遠征軍司令部、第3海兵師団など8000人をグアムに移転する際に、日本が財政負担をするような「ウマイ話」はないだろう。従って、米軍の新たな展開基地は、関係国の既存の軍事基地のほかに、民間施設(空港・港湾)を最大限活用するという方針になるだろう。




この記事をはてなブックマークに追加

「日米安保破棄を真剣に検討し始めた米国」

2011-11-17 08:22:48 | 日本
「日米安保破棄を真剣に検討し始めた米国」


米軍の再編がもたらす日本の危機にどう立ち向かうか?
福山隆さんが、クリントン国務長官論文をまとめている。
非常に重大な文章だから、以下、要約し3回にわたり掲載する。


〔1〕はじめに

ヒラリー・クリントン米国務長官が“Foreign Policy”誌(10月11日号)に「これからの世界政治はアジアで決まる。アフガニスタン、イラクでではない。米国はこれからもアクションの中心にい続けるだろう」と題する長大な論文を発表した。
その論旨は以下の通り。

(1)米軍は経済力減退に伴い引き続き「世界の警察官」を全うするに足る戦力を維持することができない。従って、今後は、重点戦域を定め、一部からは思い切って撤退し、特定戦域に戦力を集中して配備する必要がある。

(2)しからば、重点的に米軍を配備する正面はどこにするか。それは中国が台頭し、米国の経済的利益も大きいアジア太平洋にほかならない。

(3)アジアにおける冷戦後の重点配備は、日本と韓国であった(合計で5万人強の米軍を配備)が、これを見直す(日本に対する戦略的期待が低下したものと思われる)。

(4)新たな配備の方向性は次の通り。
①米軍配置を地理的にもっと広げ(distributed)、抗堪性があり、政治的にも問題性の少ない(sustainable)ものとする。
②特に南アジア、インド洋での米軍プレゼンスを強化する。豪州は南アジア、インド洋をコントロールするうえで、戦略的な重要国家。
③昨今は太平洋とインド洋が軍事的にも一つながりになってきた。シンガポールは、両洋を繋ぐチョークポイントで、戦略的に重要。同国には既に沿岸防衛用艦艇を配備したし、これからは共同作戦も検討する。
④このような戦略上のニーズに、米軍の配備・行動をどう合わせていくか。現状のトランスフォーメーションを見直す必要がある。いずれにしても米軍のプレゼンスをもっと広く分布させる必要があり、そのために同盟国、パートナー国を増やしていく。


〔2〕従来のトランスフォーメーションの概要

冷戦間、米軍は、ソ連を封じ込める体制――前方展開戦略――に基づいて配置されていた。1991年のソ連崩壊後、米国はその世界戦略の見直しを迫られた。米軍の展開態勢見直し(Global Posture Review, GPR)は、海外駐留米軍の体制を根本から見直すもので、QDR2001(2001年に公表された、4年毎の国防政策見直し)において宣言されたのち、2003年11月より正式に開始された。

その基本構想は、次のようなものだ。

(1)共産圏諸国封じ込めのため、その周囲に配置した米軍兵力は時代遅れ。

(2)師団(約2万人)ではなく旅団(約4000人)を戦闘単位とし、小型軽量の部隊を急速に展開できるようにする。

(3)ITを全面的に活用し、情報収集と命中精度を飛躍的に向上させ、重い砲を減らす。

(4)テロ活動と大量破壊兵器の拡散が米国への脅威で、それへの対応に力点を置く。

この基本構想は、ソ連崩壊後の米国は相対的に突出した軍事力を保持し、世界の警察官として、全世界に関与するという前提になっていた。
ちなみに、この一環として、日本でも、(1)沖縄の第3海兵遠征軍司令部、第3海兵師団など8000人をグアムに移転、(2)在韓国の第8軍司令部を廃止する代わりに、小型(約300人)の第1軍団司令部を米ワシントン州から神奈川県の座間に移転すること、が表明された。



この記事をはてなブックマークに追加

「簡単に体温を上げる方法」

2011-11-16 08:35:58 | 日本
「簡単に体温を上げる方法」

立冬を過ぎ、そろそろ飲み物もあたたかいものが欲しくなる季節になった。夕食に鍋やシチュー、スープものという日が増える人も多い。そんな“あったかメニュー”を夜だけでなく、朝も食べるという記事が載っていた。朝は1日で最も体温が低い時間帯だ。簡単に体温を上げる方法を学ぼう。


①摂取時間へのアドバイス

起きてすぐは消化器官がまだ活発に動いていないので、目覚めてから30分~1時間以内に朝食を摂取すると体にスイッチが入るといわれている。温かいスープは胃腸を温め、短時間で体が芯から温まるので体の目覚めもよくなり、冷え性の人には特におすすめだ。
二日酔いのときには朝食を食べたくないことが多いが、温かいスープで血行をよくすることでアルコールの分解も活発になる。また肝臓の回復を促すためにも水分やビタミンなどを補給できるスープがおすすめ。


②スープだけで、一日のどのくらいの割合の野菜をとることが可能になるのか

1日に摂りたい野菜の量は350g。ミネストローネスープの場合は35%、ポトフ風のスープの場合は25%ほどを満たす。サラダではたっぷり食べて20%ほど。野菜に火を通すスープはカサが減り、野菜を多く食べることができるうえ、水溶性のビタミン類も効率よく摂ることができる。


③夜よりも朝、スープを食べることのメリット

夜よりも朝に摂る野菜やスープは、1日の活動エネルギーに使われる。これから活動を始める朝のほうが栄養素の吸収は高まる。温かいスープは安堵感が得られ、リラックス効果がある。また、消化に負担のかからない温かいスープは夜にも朝にもおすすめだ。

また逆に、ジュースやコーヒー、緑茶はカラダの熱を冷ます作用がある。冷たいものを摂ると1時間ほど直腸の温度が下がり続けるため、体温の上昇がわずかなものになる。

朝は1日で最も体温が低い時間帯だから、体を温め、栄養補給ができる温かいスープは1日の活動のウォームアップに適しているといえる。


④合わせる食材やアレンジについて

合わせる食材は体温を上げるために必要なたんぱく質とエネルギー源として炭水化物を摂ることが必要だ。
野菜たっぷりのスープにベーコン、ウインナー、卵、チーズ、鶏肉、貝類、ゆで大豆、豆腐などでたんぱく質を補い、パスタ、ご飯、芋類、パン、クラッカーなど炭水化物を合わせればバランスのよい朝食になる。
いろいろな食材を組み合わせて作るスープは体調に合わせて食材を選ぶとよい。
疲れているときには「豚肉+にんにく+レモン汁」
肌荒れが気になるときは「緑黄色野菜+鶏手羽肉+じゃがいも」
冷え性が気になるときは「しょうが+ねぎ+ごま」
便秘がちなときは「根菜+大豆+ナッツ類」

その他、体温を上げる効果のあるものは、
しょうが、カレー粉、シナモン、こしょう、唐がらし、ラー油などをプラスすれば代謝力アップに役立つ。
オリーブオイル、ごま油、バター、マヨネーズなど脂質を補うと、ビタミンA、Eなどの脂溶性ビタミンの吸収を助けるとともに、コクが出て、満足感が得られる。
オクラ、もずく、山芋などネバネバ成分を含む食材をプラスすると水溶性の食物繊維も摂れ、とろみがついて冷めにくくなる。




この記事をはてなブックマークに追加