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神聖ローマ皇帝レオポルト2世皇女 マリア・クレメンティーナ

2011-06-02 21:56:53 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
弱まるハプスブルク家血族結婚の効力
レオポルト2世皇女 マリア・クレメンティーナ・フォン・エスターライヒ
両シチリア王フランチェスコ1世妃


1777~1801/在位せず

マリア・クレメンティーナは、レオポルト2世とマリア・ルドヴィカの三女です。

次女マリア・アンナはプラハのテレジアン修道院に入って39歳で亡くなっています。
        
1790年に従兄弟のカラブリア公フランチェスコ(後の1世)との婚約が決まり
代理人と挙式もしましたが、実際に結婚したのは1797年でした。
フランチェスコの母はレオポルト2世の妹マリア・カロリーナです。

マリア・クレメンティーナとフランチェスコの結婚を含む、兄のフランツ2世
(オーストリア皇帝では1世)とフランチェスコの姉マリア・テレジアの結婚、
兄トスカーナ大公フェルディナンド3世とフランチェスコの姉マリア・ルイーザの結婚をもって
オーストリア帝国のハプスブルク家とナポリ王家間の婚姻は終焉を迎えます。

どちらもナポレオンによって君主としての精彩を欠いているような状態ですからね…
ヨーロッパ各国は、旧態依然とした王制・婚姻による外交がまかりとおらない時代を
迎えようとしていたのかもしれません。

マリア・クレメンティーナの父レオポルト2世は、即位後わずか2年で亡くなりましたが
名君の誉れ高い人でした。
長生きしていたらハプスブルク家の行く末も少し違っていたかもしれないですね。
なにせフランツ2世は気が弱いから…

マリア・クレメンティーナは、二人目の子供を生んだ直後から健康を崩し
翌年亡くなりました。
肺疾患か肺炎だということです。
二人目の子供、フェルディナンド王子も2ヶ月前に亡くなっていて
その側に葬られました。

フランチェスコはその後、スペイン王カルロス4世とマリア・ルイサの王女で
従姉妹にあたるマリーア・イザベッラと再婚しました。
本当にカルロス4世の子かどうかはおいといて…と

マリア・クレメンティーナの王女カロリーナはフランス王ルイ10世王子
ベリー公シャルル・フェルディナン妃になりました。
孫にあたるアンリは、再び王政復古が成ればアンリ5世として即位できましたが
ご存知のように王政復古はなかったのでシャンボール伯として人生を終えました。

当時ヨーロッパ諸国の王や大公、君主は、フランス革命の自国への余波に続き
ナポレオンによる侵略・廃位・亡命の脅威にさらされていました。
あと100年早く生まれていたら、もう少し安泰に暮らせたかしら?
う~ん 結局は土地を獲ったり獲られたりの争いがあったので一緒かも…
戦争はいやですね、 権力が欲しい上の方の人だけでやってほしい…
最高権力者とか軍の最高司令官同士の一騎打ちなんかいいんじゃない?

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家史話』 Wikipedia英語版)

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