まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

スコットランド王ウィリアム1世王女 マーガレット

2015-10-26 22:41:25 | スコットランド王妃・王女
            肖像画がないので、中世のスコットランド貴婦人の図を…

完全に戦利品として嫁がされた三姉妹
ウィリアム1世王女 マーガレット・オブ・スコットランド
ケント伯ヒューバート・ドゥ・バラ夫人


1193~1259

マルカム3世王女メアリーから、時代が飛びますよ。

マルカム3世の次に即位したドナルド3世は、母親はだれかわかりませんが
ベソックという王女がいたもようです。
次のダンカン2世とエセルリーダには王子しかいなかったもよう。
エドガーは未婚、アレグザンダー1世は嫡子無しです。
続くデイヴィッド1世には、セシリアとホディエルナ(?)という王女がいましたが未婚。
そしてマルカム4世は未婚。

ふぅぅ、やっとウィリアム1世までやってまいりました。

ウィリアム1世とアーマンガード・オブ・ボーモントには一男三女のお子様がいます。

長女マーガレットは、28歳でケント伯ヒューバート・ドゥ・バラと結婚します。
28歳、当時としては晩婚ですし、相手はすでに4回結婚していました。

      

ウィリアム1世は、まずイングランドのヘンリ-2世と、続いてジョン王と戦っていました。
しかし結局敗れまして、王妃と次女は人質にとられてしまいました。
そして、人質解放の際、ウィリアム1世の3人の王女は、すべてイングランド貴族と
結婚するように!という条件も入っていました。
相手もイングランドから指定されました。
きっと交渉中は結婚できなかったのだと思います。

ケント伯は、当時イングランド宮廷でかなりの権力者だったようですが
マーガレットがどれくらいエラそうに振る舞えたかどうかは不明。
1259年に亡くなりました。



人質だったけど、ジョン王はやさしかったらしい…
ウィリアム1世王女 イザベラ・オブ・スコットランド
ノーフォーク伯ロジャー・ル・バイゴッド夫人


1195~没年不詳

父王ウィリアム1世は、1209年に、王妃アーマンガードと次女イザベラを人質として
イングランドに来させるようにと命じられました。

二人はイングランドに到着すると、自分の領土の権利を主張していた
エリナー・オブ・ブリタニーと共にコルフェ城に投獄されました。

でもジョン王は3人の淑女を酷い目には合わせていなかったみたい…
ローブとか時計とか、スリッパなんかを送っていたらしいです。
また、護衛付きでしたが遠乗りなんかも許されていたそうです。
ジョン王はけっこう評判が悪かったりするのですが、これはかなりポイント高いですね。

釈放されると、イザベラは条件によって14歳年下のノーフォーク伯ロジャー・バイゴッドと
結婚しました。 この結婚は不幸なものだったみたいです。
ロジャーは、王侯貴族お得意の「血族関係だから」を理由にイザベラを拒んだりした様子。
14歳年下かぁ… 二人には子供はいませんでした。

ロジャーは一応結婚を継続していたみたいですが、それは形式的なものだったみたい。
イザベラは1263年にはグローチェスターで暮らしていたんではないかと思われています。
グローチェスターはノーフォークからは離れているのよね。
没年はわかりません。

なお、三女マージョリー(1200~1244)は、同じ条件によって
ペンブローク伯ギルバート・マーシャに、後妻として嫁いでいます。

弟のアレグザンダー2世は、ジョン王の王女ジョアンと結婚しています。

戦争に負けるって、下々の人たちも大変ですが、王侯貴族にとっても辛いことよね。
特に敵方に嫁がされちゃう女性陣にしてみたら、本当にいい迷惑。
やらなきゃいいのにね…

(参考文献 森譲氏『スコットランド王国史話』 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
明日人生で2回目のファンミに行ってまいります
そんなわけで、『Sing Your Song』を猛勉強中

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« スコットランド王マルカム3世... | トップ | スコットランド王アレグザン... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

スコットランド王妃・王女」カテゴリの最新記事