「あしたのジョー」篇はこちら。
“マン好き”の開始はこちら。
しばらくマンガの特集を続けてきたので、新しい読者のなかには、こいつは単なるマンガオタクなんじゃ……と思われているかもしれない。誤解を解くために一応弁解しておくと、そうです。わたしはただのオタクです。文句あっか。といっても「コミケ」だの「やおい」だのといった方面に走るようなディープさは持ち合わせていないのでご安心を。え?何だ「コミケ」「やおい」ってですか?悪いことはいいません。まっとうな社会人なら知らない方がいいです。
さて、井上雄彦、岡崎京子、梶原一騎の諸作をとりあげてきた「マン好き」も、これから原律子、江口寿史、とり・みき、高野文子、小林まこと(順不同)と続く予定。
ここでマンガという媒体自身についてふれてみよう。こんなメールが来ている。
花形満といえば、彼の前髪って、右も左も同じ横顔で不思議じゃなかった?
飛雄馬の幼少期の顔には猫のような線が3本ずつ両頬にあって、いったい何だろう?殴られすぎ?なんて思っていたら、生まれた長男にも漫画で書いたら飛雄馬と同じ描き方をするであろうと思われるような線があった。さては飛雄馬の生まれ変わり?と思っていたら、とんでもなく根性のない泣き虫野郎でした。
……そうだよね、ジョーや花形の髪型って現実には存在不可能だ。それにどうしてほっぺたに三本線があると“ガキ”という表現になるのか(このような記号を漫符という)。このテの表現方法は特に日本で発達している(byまたしても漱石の孫)。
日本人は“見立てる”という能力に長けていて、そのことで逆に漫画家を甘やかし、リアルな表現技法が遅れた側面もあったわけ。でもわたしはこうも思う。右手でページをめくり、コマの流れは右から左(中国は逆)。電球マークが入れば「いいアイデアが浮かんだ!」ことで、目から瞳がなくなれば、そのキャラは静かに怒りを燃やしている……こんなルールが確立した日本でマンガの読者でいるのって、実はかなり幸せなことなんじゃないか。そしてルールをぶち破ることができるのが真の天才というもの。それが往時の手塚治虫であり、大友克洋だったわけだ。やっぱりマンガというメディアはその意味で語るに足るし、日本人としてこの大衆文化の洗礼を受けまくった世代であることに感謝。こうなったら死ぬまでジャンジャン読んだるでー。オタクジジイでけっこうざんす。
次回は予定外「ドカベン」です。