打越通信

日記ふういろいろ

吉報の思い

2017-02-25 21:25:28 | 日記ふう
熊本城マラソンの日にうれしい知らせがあった。
マラソンも終わり、ある病院の玄関で迎えを待つ。
市内が混んでいるのか、交通規制のせいかなかなか迎えが来ない。
一時間ばかり待っていた時、末の妹から連絡が入った。
甥っ子のリョウに男の子が誕生したというニュースだった。
3人兄妹のすぐ下の妹、つまりその妹の初孫の誕生になる。
連絡を受けた病院は、母が担ぎ込まれた病院だった。
母は担ぎ込まれて一時間も経たないうちに亡くなった。
その同じ場所で新しい生命の誕生の知らせを受けるとは、何とも不思議な巡り合わせとしか言いようもなかった。
それだけではない。
その病院は私が担ぎ込まれた病院でもあった。
足腰が立たないままに衰弱し、脱水症状もでていて、そのまま集中治療室で1週間、一般病棟で1週間過ごした、まさに九死に一生を得た(おおげさかな)ところだった。

夕方近くになり、熊本城もすぐ近くで、マラソンを終えた人々がぞろぞろと坂を下っていた。
空は晴天だったが風は冷たかった。
母の顔を思い浮かべ、次に若くして亡くなった妹の顔を思い浮かべてみた。
二人の顔は間違いなくうっすらとした笑い顔だった。
次の次の世代が誕生したのだ。
世代は間違いなく引き継がれていく。
死に損ないのオヤジもこの時ばかりはさすがの現実に、しばらくことばを失ったのだ。

熊本城マラソンの一日

2017-02-20 21:24:57 | ジョギング
フルマラソンは9時スタートということで8時過ぎにはクルマでスタート地点近くまで送った。
すでに交通規制に入っていて、坪井橋までしかクルマは入れなかった。
一旦家に帰り家人に送ってもらおうと家の前に出たらケイのオヤジがクルマで通りかかった。
手を挙げて何も言わずにクルマに乗り込み送ってもらった。
坪井橋から交通規制がかかり、クルマのいない冷たい空気の中を市役所まで歩いた。
マラソンコースはテープが張りめぐらされていて勝手に横切ることができない。
しかたなく銀座通りの歩道橋を渡り市役所前に来た。
すでに30kmはスタートの合図が鳴っていた。
フルマラソンのスタートも鳴ったのだが、目の前の群衆は走り出すことができないようだ。



こんな数多い群衆をこのカメラでとらえるのは初めてだろう。
ハマさんは確かDグループの中にいるのだが、これでは到底探し出すことはできない。
歩道のちょっと小高い台に立ってカメラを向けると喜んでポーズととってくれる。
そのうちにダラダラと群衆は散らばっていった。
アーケードに入るとこちらにもコースが出来ていた。
商店街の人たちなんだろうか応援の数もとても多かった。



ボーイスカウトの少年たちもプラカードを持ち応援していた。



鉢巻に法被を着た集団も熱心に応援をしていた。
有名人(寛平ちゃん)も走って愛嬌をまいていたとか後で知った次第だ。
アーケードを外れて慶徳校という電停で市電に乗った。
フルマラソンは市内を走って市の南方面に向かうようで、先に熊本駅まで行ってJRで西駅に向かう。
三角線に電車がいたのでそれに乗って、新しくできた西駅に降り立った。
目的は白川にかかる西大橋が目的地だった。
山のような橋を前にランナーたちがどんな表情を見せるのか、これが目的だった。
西駅から歩いて30分くらいかかった。
左脚が痛かったが休み休み歩く。
途中、折り返し地点があり多くのランナーが愛嬌を振りまいていた。
大橋地点が行の10kmで帰りの32km地点ということになる。
ゆきの連中はすでに最後の方ですぐ後ろには回収バスが走っていた。
反対側の車線ではトップ集団がすでに帰りの最後の坂のぼりに指しかかっていた。



トップグループの中にも被り物をした選手もいるんだ。
橋を渡り切ってしばらく休憩をした。
脚が痛いし喉も渇いたのでここで相方を待つことにした。



何枚か写真を撮って熊本駅まで歩くことにした。
駅からは市電に乗ろうと思ったが、市電はこの日は運休だった。
しかたなく熊本城のゴールまで歩いた。
マラソンコースを横切ることが出来ないので橋の下を使ってコースを横切ることにした。
熊本城の上り坂まで来るとぐっと人が多くなる。
走り終えたランナーたちが崩れてしまった石垣を痛々しそうに眺める姿を見た。
二の丸広場は人であふれていた。



ゴール地点に行ってみたがとても人を探すどころではなかった。
時計を見るとそろそろゴールしそうな時間だった。
連絡がありゴールしてしばらく芝生に寝ていたそうだ。
人ごみの中に彼の疲れ切った姿を見つけた。
でも晴々した表情で無事ゴールの握手を交わした。
私の歩数計も2万歩を優に超えていた。
ちょっと寒かったが、マラソンには最高の一日だった。
私にとっても熊本の町中をこんなに歩いたのは初めてだった。
復興を目指す、熱い熊本の一日だった。

前夜祭

2017-02-19 22:07:29 | ジョギング
自宅マンションを出てハマさんのマンションに迎えに行く。
福岡ICより熊本を目指した。
抽選でやっと6回目にして当選したそうで、熊本城マラソンは初めてだと興奮気味の様子。
熊本市内に入ったのは夕方も4時過ぎだったろうか、市内中心部の辛島公園、花畑公園が受付になっており、多くの人で賑わっていた。
私も熊本城マラソンは受付から同行し、サポートに回るような事は今回が初めてになる。
震災からの復興マラソンといった意味でも今回の熊本城マラソンは大きな意味がありそうな気がしていた。
全国のランナーたちに震災の熊本を見てもらい、震災に会いながらもこの大会を成功させたいと頑張っている姿を知ってもらえる良い機会になるかも知れないと思った。
こんな機会をもらったハマさんに感謝すべきだろう。



大会6回目の今回は一万三千人の参加と聞いていた。



その数字がどういうものか、ぼんやりとした数字だけど大きな大会であることには違いない。
受付を済み、我が家に到着したのは夜も暗くなった7時前だった。
飲めない私の代わりに酒の相手をしてもらおうと、前回帰省した時に話をしていたジローさん夫婦が来てくれた。
大きなとんかつと手作りのあげ巻きを持ってきてくれた。
ハマさんとは初対面だったが、話も盛り上がり和気あいあいと時間は流れた。
10時過ぎには宴はお開きになり明日に備えることになった。
寒い夜だった。
明日朝の気温も氷点下近くまで冷え込むようなことを言っていた。

昼休み

2017-02-16 20:42:51 | 日記ふう
このところ昼休みは散歩することにした。
近くには公園が数か所あるが、どこも人が多くてのんびりとした感じではない。



ある日、学校近くにこじんまりとした公園を発見した。
公園内には様々な花や木々が植えてある。
人もそんなに多くはなくビルの谷間の小さな空間といった感じだ。
歩いて10分程度なので運動にもなる。
フラワー公園と看板にあるようにスイレンや梅、桜など今からも楽しめそうなところだ。
さくらもまだまだ小さなつぼみだけど、これからだんだんと膨らんでくるだろう。



ランタナもまだ目が覚めてい無いようで薄黒い葉っぱと色あせた花びらで寒さを過ごしたのだろう。
ベンチに座り、音楽を聴きながらそんな花たちを見て過ごす。

長崎のランタンフェスタは3度目だった。
一度目は友のグッチと2度目はバスツアーだった。
それから親父や母の介護でそれどころではなかった。
母を引き取ってから、写真を見せながら、一緒に行こうよ、と誘ってはみたが・・のるきではなかった。
そんな話をした次の月にはあの世に行ってしまった。
あれから4年になる。
つい最近の事のように思うが、早いものだ。
そんなわけで思い立ったように出かけた。
母のための写真を撮りに行った。
いつまでたっても母との別れから抜け出せずにいる。



ベンチに寝転んで空を見上げる。
音楽を聴きながら目を閉じる。
暖かな日差しを体中に感じ、ほんの5分ほどだが軽い眠りに入る。
これが今唯一の気分転換ってところだろうか。

ランタンたち

2017-02-12 19:25:59 | 写真投稿
夕方近くになり寒さはさらに厳しくなった。
午後6時を過ぎてもなかなか暗くならない。
浜町アーケードを「暗くなるまで待て」の指示通りにブラブラとした。
それでも寒さからは逃げられなかった。
ブラブラしながらあることに気が付いた。
長崎の女性は美人が多いということだ。
ほかの街にはない、素朴な美しさとでもいうのか、落ち着いた美しさというのか、目を引かれた。
だんだんと周りに夕暮れが落ちてきた。
中島川のほとりに行ってみた。



ちょうど蛇踊りの軍団が後方に爆竹隊を引き連れて橋の上で信号待ちをしていた。
今からアーケードを練り歩くようだ。
カメラを持った多くの人に囲まれていた。
川沿いには黄色いランタンが無数に輝いていた。



眼鏡橋あたりには鯉や干支のランタンのオブジェが輝いていた。
あちこち歩き回り脚はもうパンパンになっている。



寒さ疲れもあったのだが、暗くなるにつれ鮮やかな色彩が鮮明になっていくのを少し興奮した気持ちで見つめた。



しばし眼鏡橋あたりでベンチに座りその様子を眺めていた。
時計を見ると午後7時に近づいていた。



腰を上げ、中央公園に行ってみた。
胡弓の演奏があっていた。
ランタンの明かりに胡弓の音色があっていた。

長崎は今日も寒かった

2017-02-11 23:25:17 | 小旅行
休みの日なのにやっぱり早起きしてしまう。
コーヒーを飲みながらパソコンを開きニュースを確認する。
今日はJRの時刻表を調べメモ用紙に時刻を記録した。
それからいつものように1時間ばかり本を読んで過ごした。
妻が起きてきて朝食を作ってくれた。
朝風呂に入り、しばらく横になり寝込んでしまった。
時計を見ると11時を過ぎていた。
あわてて着替えて博多駅に向かった。
駅の地下にある格安チケット売り場で、長崎までの特急券を2枚買った。
片道2700円、2枚で5400円だった。
JRの2枚切符だと確か6300円だからそれなりに安いわけだ。
2枚切符ということは往復分ということで「何か飲みたいよ」とか「おなかがすいたよ」とか「脚が痛いよ」とか「早く帰ろうよ」とか「疲れたよ」とか、きょうは確か「寒いから嫌だよ」とか言っていた人の分は無いわけだ。
改札をくぐり「かもめ」の出るホームに行ってみた。
かなりの人が列を作って待っていた。
12時15分発の列車(これがなんと787系)だった。
乗車が始まり乗り込んでみたがなんと満席だった。
立っていくのもせっかく本も持ってきたことだし、早く行く必要もないもんね、と40分ほど後の列車を待つことにして降りてしまった。
これが後あと大変なことになるのだが。
あわてて出てきたのでジーパンに長袖シャツ、それにジャンバーとネックウォーマーといつもの格好だった。
駅のホームの寒い事、約40分の待ち時間にすっかり体が冷え込んでしまった。
おまけに今朝は積雪があるくらいの寒気だった。
ついでのおまけに朝風呂まで入ってきている。



ガチガチになった体でラッピングされた白いかもめに乗り込んだ。
しばらくは音楽を聴きながら目をつぶりそのまま寝込んでしまった。



気が付いたころには鹿島の手前で、ちょうど一週間前に見た雲仙の山々が遠浅の有明海に浮かんでいた。
長崎駅には午後3時半ころの到着だった。
改札を抜けると駅前には粉雪が舞っていた。
路面電車に乗ろうと電停に行ってみたが長い行列が出来ていた。
冷え切った体にさらに粉雪が舞う寒さ。
中華街まで歩くことにした。
腹が減ったのでとりあえず中華街で何か温かいものを食おう。



出島の横を歩き、中華街の真横の出た。
多くの人であふれんばかりだった。
人の波に押されるように中華街を漂った。
飲食店はどこもお昼の時間帯を終わり、準備中の看板がかけてある。



湊町まで来たが人が多くて身動き取れなかった。
強引に横に入り込み、人ごみから離れた。
人通りの少ない横道を思案橋に向かって歩いた。



思案橋の横道に入ってみたが人通りは少なかった。
小汚い中華料理屋が営業をやっていたので入ってみた。
長崎に来て初めて言葉をしゃべった。



言葉に出したものがちゃんと出てきたので通じたようだ。
夕暮れも迫ろうかという時間帯に、うす暗い店内のどことなく哀愁のある雰囲気のなかでいただく「特製ちゃんぽん」のうまかった事、これは忘れられない味になることだろう。

我慢が大事だ

2017-02-09 20:22:16 | 日記ふう
音をさがして随分と家電量販店に通った。
会社を出て近くにある量販店には視聴用のイヤホンが多く置いてあり、会社帰りに立ち寄っては視聴してみた。
はっきり言って好みの音はなかった。
それでも数本に目星をつけてみた。
休みの日、音に関しては私より感性が優れているであろうと思われる妻を誘って聴き比べをする。
どれもこれもあまり良い返事は帰ってこない。
クラシック(ピアノソナタ、オケ)、ジャズ(ハービーハンコックやりーりトナー)、ボーカル(セリーヌ、マライアあたり)を聴き比べる。
特にクラシックとなると雑音がどうしても気になるようで、難しい。
やはり耳の一番近いところに音源があるので特徴がすぐに出てしまうだろう。
結局、一番気に入ったのはノイズキャンセリングが付いたSONYだった。
3万円前後の値段だったが、今使っているイヤホンとそうは違わなかった。
ただ高音の伸びや鮮明さは際立っていた。
それでもすぐ横に置いてあるヘッドホーンに比べると一目瞭然(一音瞭然)、やはりイヤホンの限界なのだろうか。



ひさびさ熊本に帰り音を鳴らしてみた。
やはり違う音がする。
同じ曲なのにこんなにもイメージが違うのか、まったく違う曲に聞こえてしまう。
このシステムにもまだまだ不満はある。
もう少し厚みのある音が欲しい、などと嘆いてみてもしょうがない。



一眼レフももうそろそろ新しいのに切り替えたいのだが・・・。
何せ博多に来て毎月の赤字が止まらないでいる。
やはり家賃が大きく響いているのだ。
いやいや家賃だけではない、それにはわけがあるのだが。
年間の出費分で十分に手が出そうな額なのだが。

ここでは良い音もきれいな写真も関係のない生活だしね・・・哀れなものよ。

愛犬クー

2017-02-07 22:21:59 | 愛犬(Qoo)
正月からそんなに時間が過ぎてはいないと思う。
熊本の自宅に帰るのも月に一度あるかないかだと思う。
震災からすると随分と町の様子も落ち着いては来ているが、まだまだブルーシートに覆われた家があちらこちらに見える。
一階が完全に押しつぶされたマンションもまだ手つかずの状態だったり、広く空き地になった場所もそのままの姿が見える。
熊本城も少しずつではあるが石の組み上げ作業が続いていた。
久しぶりにジローさんと道端で話し込んだ。
テラのオヤジ夫婦と一緒だった。
ジローちゃんはこの団地に入ってからの付き合いでもうかれこれ30数年来の友だ。
親の転勤で幼馴染(竹馬の友)がいないと私が彼に言たったら、今からでも竹馬の友になれるよ、と声をかけてくれた、その時からの付き合いになる。
彼に引きずられ町内会に入り、町内活動をそれはそれは一生懸命にやってきた。
おかげで町内の人たちとも顔見知りになり、だいたいの人とは知り合いになった。
団地のオヤジたちとも我が家に集まっては飲んだくれていた。
病気になり長期入院を送り、酒をやめた。
同時にそんな集まりも自然にお開きになったようで、一方私は孤独な日々を送ることになった。
自分を振り返るような日々だった。
孤独はつらいという言葉を聞くが、孤独に浸るという言葉もある。
どちらかというと後者の方で、ひとりでいる時間がとても落ち着いて好きだった。
音楽を聴き、本を読んで、晴れた日にはカメラを担いで散歩をする。
そんな気楽さが素晴らしく思えた。
今まで気が付かなかった自然の移り変わりに生きている実感を感じていた。
雲の動きや風の香、草花の息吹や生命力を目を見張るように感動してみていた。
そんな過去を思っても仕方がない。
現実の生活は再び始まった。
立ち話をしていると、我が家の前のご主人がつい最近亡くなられたと聞いた。
正月には奥さんと長々と立ち話をしたばかりだった。
品位のあるご主人だった。
歳は私たちより2回りばかり上の方だった。
我が団地も高齢化は進んでいて、あと数年すれば幽霊団地になるのではないかとの声も上がる。
同い年のジローちゃんや年下だがいつも元気なグッチ、一回り上のテラちゃんやケイのオヤジ、みんな同じように歳をとっていく。
「博多から帰ってくるまで、みんな元気でいろよ」
と言った先から時間は動いているのだからどうしようもない。
今日は愛犬クーの誕生日だった。
2009年の2月7日生まれ。
私たちと暮らしたのが5年くらいだった、亡くなってもう5年が過ぎる。
今でも彼の仕草を鮮明に思い出す。

かもめの乱舞

2017-02-06 21:04:12 | 写真投稿
夕方4時26分の九商フェリーに乗り込んだ。




夕暮れが迫る島原港をゆっくりと離岸する。




出航の汽笛とともにどこからともなく、かもめが数羽船を追うように乱舞し始める。



この時期に見られる風景だ。
だんだんと数が増え、50羽ぐらいの群れが船にまつわりつくように飛び始める。



デッキでは若い女性たちが歓声を上げ餌を与えている。
かもめも猫のような奇声をあげ餌を奪い合っている。
甲板は人の奇声とかもめの奇声が鳴り響き、異様な風景となる。
女の子は餌のポテトチップスを頭に載せて、かもめがとりに来るのを不安そうに待っている。
うまいものだ、数羽のかもめが奪い合うように彼女の頭にのったポテトを奪っていく。
餌を片手にカメラを向ける。
近すぎてピントが合わない。



おまけにフレームでとらえきれない。
レンズをマクロにセットした。
マクロでオートフォーカスというのもおかしな話なのだが、片手しか使えない。



かもめをマクロで撮るというのも初めてで連写すれば何枚かはものになるだろう。
甘い考えだった。
ほとんどがピンボケだった。
でも数枚はなんとか見れるのかな?
1時間という乗船時間も、かもめたちとの戯れであっという間だった。



宇土半島の山々や天草の山々が迎えてくれた。
かもめの乱舞も終わり、夕暮れの船内に到着のアナウンスが流れた。

島原を目指して

2017-02-05 20:45:00 | 小旅行
美野島のアパートを出て筑紫野鳥栖線でとりあえず佐賀に向かった。
長崎・佐世保に向かう国道34号線を横切って有明海の海べりを走る国道444号線を目指す。
まだ長崎道がなかったころ佐世保への帰り、この道に出て大川や柳川の海べりの町を通り帰省していた。
海べりの街並みは風情があり、港町独得の潮の香と夕暮れの海に浮かぶ漁船の哀愁のようなモノを感じていた頃があった。
今日はその国道を反対側に走ってみようと考えていた。
長崎本線の牛津駅付近の踏切を渡り国道444号線に合流した。
ちょうど昼になり道路わきににある食堂に入り昼食をとった。
割と交通量の多い道だった。
初めて通行する道だったがこのあたりはまだ佐賀平野が広がり、遠くまで家々が点在している。
かなり広い平地だ。
途中しばらくは長崎本線と並行して走る。
むかしお世話になったリレーつばめ(787系)の列車と何度もすれ違う。
今は長崎線で使われているようで懐かしい光景だった。
鹿島市に入り207号線に入る。
再び長崎本線と交互しながら海岸線の海べりを並行する。
有明海が広がり海苔の養殖なのだろうか海にはたくさんの棒が並んでいた。
その対岸には小高い山々が見えた。
ナビで確認すると柳川や大牟田の街のようだった。
いつもは対岸にいるのだが、今はその反対側にいることを不思議に思う。
ところどころに小さな港があり、漁船の群れが停泊している姿は圧巻だった。
太良町という少し大きな町に入る。
役場らしき近代的な建物が目に入る。
お城らしきものも目に入るがまったくのす通りだった。



しばらく走ると目の前に大きな高い山が見えてきた。
雲仙の山々だった。
くもり空にそびえる山は恐怖を覚えるような姿をしていた。
普段は熊本や天草から眺める雲仙とは全く逆方向からの眺めなので思わず車を停めて見入ってしまった。
しばらく走ると大きな堤防らしきものが目に入る。
ナビで確認すると海の真ん中に一本の道がある。
諫早湾干拓堤防道路(通称堤防道路と言うらしい) の看板が見えてきた。
何しろ初めてなので通れるかもわからない。
看板の指示に従ってクルマを進める。



巨大な堤防の水門塔が立ち並んでいた。
諫早干拓事業は農業、漁業の双方が対立する問題となり、今でも水門の開門について争われている。



これがその水門なのか?と思ったが定かでない。
湾の内側には広大な湖化した海が広がっていた。
そんな景色を眺めながら島原半島の付け根にたどり着いた。

島原の梅

2017-02-04 23:55:30 | 季節の花
ゆっくり目の目覚め。
久しぶりに熟睡の朝だった。
今日は用事があり熊本に帰ることになっているのだが、夕方まで着けばよい。
ネットを開き梅の名所を探してみた。
大宰府は先週行ったがまだまだのようで、他の梅の名所も2月中旬から3月の上旬の予想が出ていた。
調べるうちに島原城の梅が1月下旬から2月中旬と出ていた。
10時過ぎに福岡を出て佐賀平野から干拓堤防を渡り、5時間近くかかって島原に着いた。
あいにく雨がポツリと落ちるような天候でうす暗い天候だった。
クルマをお城の外に停めたのでお城までは少し歩くことになった。



お堀跡の窪みから階段をてくてくと上ると、梅の甘い匂いが漂ってきた。
階段の踊り場のようなところに白梅、紅梅が咲いていた。
まだ満開とはいかないがそこそこに咲いていた。
今日はEOS6Dに24-70mmの標準ズームに70-200mmの望遠ズームそれにフラッシュを持ってきた。
EOS5Dと比べ6Dはやはり軽い。



曇天のためフラッシュは正解だったようだが、光の当て方がむつかしい。
直接当てると梅だけが光り異様な図になってしまう。
フラッシュの角度を変えながらモニターで確認しながらひかりの加減を見る。



島原城の細長いスマートな城に梅はなかなか似合っていた。
義理の兄が近くの国見高校(サッカーで有名になった)に赴任していた頃一度来たことはあった。
しかし記憶はほとんどなかった。
高台に位置しているため島原市内が一望出来きる。



反対側には普賢岳と眉岳がすぐ近くに鎮座していた。
遠く佐賀平野からは大きくそびえたつ険しく見えていたが近くに来てみると案外とやさしい山だった。
天草に1年半ほど暮らしたことがあり、島原半島にはちょくちょく船で渡ったことがある。
口の津という半島の先端のほうでそこから諫早や長崎、佐世保へと出かけていた。
一方、多比良港からは長洲港へ行くことが多かった。
島原は両方の中間点ということであまり来ることは少なかった。



島原の乱というと天草四郎を一番に思い出す。
天草、ロマンの島、隠れキリシタンと連想ゲームが始まる。
梅との関連はイメージ出来なかった。
しかし何らかの言い伝えのようなものはあるのだろう。
時間が気になり島原港に向かった。

生返事

2017-02-03 22:52:20 | 日記ふう
毎日がつまらない。
単純な日々が永遠と続いていくようで、退屈で息が詰まりそうになることがある。
ただ忙しいだけなら良いが、そこにいろいろと絡み事が出てきてしまう。
わずらわしさに疲れ果てることになる。
一日が終わると疲れがどっと出る。
公務員の仕事に似たにおいがするようだ。
前進もなく後退もない、日々淡々と与えらえた事をこなす。
どうも私には向いている仕事ではないように思う。
一日を終わってみれば、それなりに遊んでいるわけでもなく、心に余裕があるわけでもない。
昔の仕事からすれば非常に楽な仕事ではある。
これでお金を頂けるなんて、こんなことで良いのかと思う。
前進もなければ後退もない、おまけに緊張感もない。
いくらお金のための仕事といってもこれでは・・・。

ブログを書けばこういった内容になる。
だから書かない方が良いのかもしれない。
このままだったら時間がもったいないような気がしてしょうがない。

空を見上げると母が好きだった冬の月が出ていた。
「がんばんなっせ」
と母の月が言う。
もう少し頑張ってみるかと返事はしたものの、緊張感のない生返事だった。

如月(きさらぎ)になり

2017-02-02 05:18:51 | 日記ふう
親友のご婦人から連絡が入る。
更新が途切れているが元気にしているのか、との叱咤だった。
その言い訳でもないのだが、腰の痛みの激痛は消えた。
しかし鈍痛はまだ残っている。
しかしそれ以上に生活が少し変わりかけている。
睡眠不足による生活の変化だった。
夜の就寝は遅くても12時前後、早ければ10時前くらいに眠りに就いていた。
それが就寝時間は変わらずに、夜中に目が覚めることが多くなり、そのまま朝を迎えるようになった。
睡眠不足で少し苛立ちが出てきた。
機器(サーバー)もリブートしなければ、余分なカスがたまりストレスを感じるように、人もリセットしなければ正常な動きが出来なくなるようだ。
そういう意味で睡眠は大切なのかもしれない。
仕事を終え家に戻り、夕食をとる。
その時に眠気が襲ってくる、だが堪えて明日の事を考える。
今眠ってしまうと夜中に起きてしまい、明日の生活に支障が出てしまうと考えてしまう。
そんな悶々としていた事もあったのだが、放棄した。
眠ければ寝よう、そして目が覚めたら何か時間を潰せばいいのだ、と開き直った。
それから生活が変わった。
寝る、起きる、朝は午前3時とか4時だ。
散歩するには暗くてちょっと勇気がいる。
子供たちのため、そして何れ時間がたっぷりできたときの楽しみのために買っていた全集があった。
セット本の最後の方だった(今ではこんな全集は無いのかもしれない)、お客だった本屋さんから高額な値段で買ったものだ。
引っ越しの時、一冊だけ持ってきた。
なぜ「ヘッセ」なのかと思ったが、深い考えは無い。
それを読みだした。



生活が変わり、季節も変わりだした。
就業を終え会社の入るビルを出ると夕暮れが深かった。
今ではまだ明るい。
日が長くなりだしてきたようだ。
2月に入り残り2か月で福岡に来て1年が回ってしまう。
それがどういったものだったのか整理してみようと思っている。