打越通信

日記ふういろいろ

救援物資

2016-04-24 20:27:26 | 日記ふう
今日はゆっくりとしようと思ったが習慣で早く起きてしまう。
撮り溜めた録画を再生していると「Nスペ」の「巨大地震」についての録画があった。
東北地震から5年を経過し、地震専門家(科学者)たちの最先端の技術を追った番組だった。



放映は4月3日の日付になっていた。
興味深く再生してみる。
GPSにより地盤の変化をリアルタイムで観察したり、過去の地震から日本国内に無数に走る断層と過去の地震を重ね合わせる研究などを紹介されていた。
当然、今回の熊本地震が起きた布田川(ふたがわ)断層帯・日奈久(ひなぐ)断層帯もそれに含まれていた。
そして九州を取り巻く複雑な地盤のゆがみも紹介されており興味深く見た。
しかし、こんな技術が発達していても予知は難しいようである。



皮肉にも番組では
「次はどこで・・・」
で締めくくられていた。

雨が降りそうな一日だったが息子達に朝早く連絡をいれ、今日はこちら(福岡)でゆっくりする事を伝えた。
博多に引っ越してまだ一月も経っておらず、洗濯機もまだ水道との接続部品が無い、下着もとりあえずの分しか無かったのでそういった日常品の買い出しに出た。



アパートを出て博多駅に歩いていると、目の前に作業着とヘルメットを持ち重装備した人たちが歩いている。
背中のマークを見ると国土交通省の人たちだった。
ひょっとすると開通したばかりの新幹線で熊本入りするのかも知れないなどと思った。



博多駅では九州新幹線の運行状況を確認する。
一時間に一本程度で運行しているようだった。
買い物から帰り、アパートの部屋でゆっくりしていると息子の嫁からメールが入った。
「ジローさんが持ってきてくれました。沖縄からだそうです。」
沖縄は奥武島の<もずくそば くんなとぅ>のシンヤさんからの救援物資だった。
水と食料が段ボールで届いていた。
なんともありがたい事だ。

ありがとう、ございます。
感謝いたします・・・・。

復興の兆し

2016-04-23 21:57:24 | 日記ふう
入社して初めての土曜出社だった。
誰もいない事務所で何もすることはない。
外は雨が降り、窓の清掃の人がゴンドラに乗り5階の窓を拭いている。
たまに電話がかかってくるが業務の内容も何もわからないのでメモを取りそれを残すだけだ。
パソコンの画面では安倍総理が南阿蘇町に入ったという情報が流れている。
九州新幹線も9日ぶりに熊本、福岡間が営業運転に入ったという。
会社でも昨日、今日と社長をはじめ熊本に応援に出ている。
震災から一週間を過ぎ福岡も動き出した様子だ。
現地には菊水ICより山鹿、菊池、大津を抜ける道を通っているようで、渋滞もなくスムースに流れていると言っている。
現地(益城町)に行った社員の話を聞くと、それは凄いことになっているらしい。
熊本の情報をまさか福岡の社員から聞くとは思いもしなかった。
先週、熊本に帰った時は道路の渋滞でどこにも出ず家の片づけをしていたので周りの情報はほとんど見ていない。
応援に入り帰ってきた社員からは改めて熊本に対する温かい言葉をいただく。
息子夫婦とは何とか連絡をとっているが、やっと昨日水道が復旧したと聞く。
だがガス(都市ガス)はまだ復旧していないようで、近所のジローさん夫婦のお招きで夫婦そろってお風呂をいただいたと妻から聞いた。
灯油のボイラーなので我が団地でも唯一お風呂が使える。
おまけに夕食までごちそうになったようで、引っ越したばかりで不安だった嫁にとっては心強い事だったに違いない。
この場を借りて感謝したい。
ネットの情報では熊本市中心部の商店街もやっと復旧したようで、22日まで自宅待機になっていた嫁も久々に出勤したのかもしれない。
新幹線の復旧は非常にありがたいことで、今までは陸路しかなかった交通網が公共交通で行けるという明るい情報になった。
九州新幹線の開業の前日はあの東北の大震災だった事を思い出す。
季節も同じ時期、あれからちょうど5年たった事を誰もいない事務所で、背広を着てネクタイをして事務机に座り考えて過ごした。



福岡では21日にキッテビルが開業した。
会社の事務所からほんの近くなのだがまだ行く気はないが、帰り道そばを通って帰った。



明日、熊本に帰ろうか迷っているが、息子たちからは心配ないとの連絡も入っている。
先週末、2日続けての日帰りで、今週はちょっと疲れが出てしまった。
避難生活を余儀なくされている方々には申し訳ないが明日はゆっくりしようと思う。

震災から一週間

2016-04-21 21:05:58 | 日記ふう
会社に出ても気がかりでパソコンには仕事の画面裏にはいくつもの地震関連の画面が隠れている状態だ。
隣町というと大げさかも知れないが100kmほど離れた博多では普通の生活が営まれている。
「熊本は大丈夫でしたか?」「大変でしょう」といった言葉をかけてはもらうのだが、普通の生活をしている福岡では実感のある言葉としては聞こえない。
しょうがないとは思うが、そんなものだろう。
自宅の家では息子夫婦が不自由な生活を強いられている。
未だにガスと水道が復旧していないようでお風呂や洗濯などに不自由しているようだ。
食料品や飲料水などはスーパーにも並ぶようになりそちらの方は心配無いと言っている。
それでも震災から数日の夜はクルマで過ごしたようで疲れは出ているようだ。
息子は仕事に復帰したようだが、嫁は仕事場のビルの安全が確認出来ないため自宅待機のようで、本館の鶴屋(地場の百貨店)のほうの被害が大きく目処が立っていないと言う。
私たちの団地の皆さんも夜はクルマでの生活だったようで、避難所生活はしていないようだ。
しかし嫁のご両親はマンションの被害が気になるようで夜になると近くの避難所で夜を過ごされていると言う。
クルマの生活になると、今問題になっている<エコノミークラス症候群>とやらが気になる。
避難生活での死者がすでに10名ほど出ている。
こちらの方の心配も重要になってくる。



我が友、グッチの家も古いので今回の地震で半壊状態だという。
「今度来たらつぶれるだろう」
と言って寝泊まりはクルマかテントだと言っている。
借家なので大家が何とかしてくれそうなものだが、急に言って出来るものでもないし避難生活は長期化するのは間違いないだろう。
余震の規模と数は小さくまた少なくなって来てはいるが気象庁の見解ではまだまだ油断は出来る状態ではないと言う。
家の方も外見では判断出来ないがかなりのダメージを受けている事は間違いない。
それと同じように人も外見では元気そうに見えるが、かなりのストレスがかかっていてダメージを受けている。
今後避難生活が長期化すればそのあたりが大きな問題になる。
全国各地から温かい応援が届くなか、一部の報道機関によるオスプレイに対する偏った報道、それも地元紙という。
いくら共同通信がソースとはいえ地元紙が報道すべきではない。
非常に腹立たしい事だが、普通の神経では無いのだろう。
しかし世の中はそういう常軌を外れた人たちばかりでは無い。
今回、親戚はもとより思いがけない人々からメールや電話をいただいた。
同窓会でアドレス交換したクラスメイトだったり、昔の職場仲間だったり意外だった。
そんな温かさが身にしみる。
何をしてあげれば良いかわからないが、気持ちだけはそんな温かな気持ちでいようと思っている。

変わりはてた熊本城

2016-04-19 21:09:00 | 日記ふう
朝5時半に目が覚めた。
支度をしてすぐにクルマに乗り熊本に向かった。
途中のコンビニで食糧を調達する。
熊本のコンビニに比べ弁当やおにぎりが豊富にある(これが普通か)。
頭の中で人数を数えその分の弁当とパンやおにぎりを買った。
高速を熊本に向かって走ると今日も各地からの緊急車両や自衛隊のクルマが目に入る。
終点の植木インターではETC車と普通のクルマが分けられており、一般の料金所には西部ガスのクルマが行列を作っていた。
熊本市内では地震の後ガスの供給は止まっており、二次災害(火災)のため安全を確認しながらの復旧にあるのだろう。
それにはかなりの人海戦術が必要であり、そのために県外からの応援部隊なのだろう。



一般道は相変わらずの大渋滞になっている。
他県ナンバーのクルマも多い。
広島テレビなど他県の報道のクルマもあり迷惑な話だ。
コンビニの駐車場もどこもクルマであふれている。
自宅のトイレも使えないのでトイレを借りによってみた。



食料品、飲料水などほとんど見当たらず、棚はガラガラだった。
自宅に戻ると息子夫婦がちょうど出かけようとしていた。
昨夜はクルマの中で寝たようだ。
温泉が無料開放されているようで今からそこに行くという。
渋滞情報を教えて彼らは出て行った。
水がないと飲料だけでなく、トイレや食器の洗い物、洗濯もできない。
当然お風呂などとんでもない状況だ。
妻とあらゆるバケツやポリ袋などもって八景水谷公園に給水に行った。
水は出るものの今日の水は少し濁っていた。
一度家に戻り風呂に汲んできた水を貯めた。
再び水を汲みに出かけたが途中でひょっとしてと思い、坪井川遊水公園に行ってみることにした。



公園の蛇口をひねってみるときれいな水が出るではないか。
近くにこんな場所があったのだ。
さっそく近所の人たちに連絡を入れた。





公園も近くには全壊した家屋をあった。



ベスト電器も外壁が崩れ、窓ガラスも落ちて休業していた。
息子たちも帰ってきて家の中の整理に入った。
買ってきたテレビを組み立てNHKのニュースを流した。
上空には何台かのペリコプターの音がする。
いつもは静かな街中には緊急車両の音があちらこちらから聞こえる。
遠目から熊本城が見えた。
いつもの黒く威厳のある熊本城が、赤茶けた姿に変り果てていた。
そして突然と突き上げるような余震が来る。
しかし昨日のようなドスンと来て揺れが続くというようなことはなかった。
一瞬突き上げるような振動が来てそれで終わってしまう。
昨日とはずいぶん違うなと思いながら作業を進めた。
壊れたテレビや食器など災害ゴミと書いた紙と一緒にゴミ収集所に出した。
夕方近くになり帰り支度を始める。
隣のクルマがエンスト(バッテリ上がり)で動かなくなっていた。
グッチに連絡を入れるとすぐに来てくれ一発で解決した。
帰りの道も家を出るとすぐに大渋滞に入った。
通常は20~30分で着くはずの植木インターまでなんと2時間半もかかってしまった。
高速に入り途中のサービスエリアで食事をして、アパートに戻ったのは夜の10時を過ぎていた。
今回の災害もこれが初めでなく、これで終わりとなって欲しい。
つくづくそう思う。

熊本地震

2016-04-18 20:35:49 | 日記ふう
アパートを出る前に高速道路の状況は確認した。
福岡の都市高速も九州自動車道も完全に止まっていた。
筑紫野を目指し走っていると都市高速にクルマが見えた。
解除になったのか、と思いながらも筑紫野ICを過ぎ九州自動車道を走るクルマを見つけた。
結局、久留米から高速に乗る。
終点は熊本ICの手前の植木ICまでしかいけない。
クルマのテレビでは今回の地震の情報が流れる。
緊急地震速報も何度も流れ、そのたびに減速する。
高速を降りると一般道はもの凄い渋滞だった。
地震の影響を確かめるけど道沿いの家々に被害は見あたらない。
<もう家はダメです!>と叫んでいた嫁の声が頭の中でグルグルとまわる。
いよいよ家への坂道に出た。



遠目だったが団地の家々が見える。
屋根もある、家そのものも無事に建っているではないか。
自宅に着き家の周りを調べてまわったが特に異常はなかった。
嫁の<もう家はダメです!>という言葉の意味がわかった、怖くて家には居られないという意味だったのだ。
息子夫婦は不在で鍵を開けて家の中に入ってみた。
スピーカーが倒れテレビが倒れている以外はちゃんと片づいていた。
家を出て団地の知人宅を何軒か訪問してみた。
<いや~!怖かった!>と皆さん口をそろえて言う。
ジローさんもヒトミちゃんも元気そうな姿にホッとした。
今日の夜中はみんなで近くの打越公園で一夜を過ごしたそうだ。
みんな眠そうで何も食べて無く(食欲が無い)余震にオロオロするだけのようだ。



水が出ていないようで妻と嫁を連れて給水所に水をもらいに行った。
高平台小学校に行ってみると校庭には数台のクルマが止まっていた。



そして体育館には避難してきた人で溢れんばかりだった。
ここでは給水はしてないようで給水所を教えてもらいそこに行ってみた。



そこには長蛇の列があり、給水車はまだ来ていなかった。
しばらくすると鹿児島のマークを付けた小型の給水車が来た。



これではとても全員には行き渡らないのはすぐにわかる。
それで八景水谷公園に行ってみた。
ここには数名の人しかいなく、持ってきたタンクやバケツ、そして給水所でもらったビニールに給水をして家に戻った。
その間も余震は続く。
余震と言うより、ドカーンと来てしばらく揺れる。
余震ではなく一つ一つがもの凄い揺れなのだ。
その後、今後の事をみんなで話し合った。
前日から言っていたように、とりあえず皆で福岡に避難することを提案した。
しかし両親がいる熊本を離れたくないという嫁の意見を聞き入れ、私たちは一旦福岡に戻ることにした。
夕方日が沈む前に自宅を跡にした。
菊水ICを目指すがこれまたもの凄い渋滞にハマってしまった。



菊水ICも込んでいた。
福岡方面からは赤色灯をつけた緊急車両(消防車や救急車)が300mくらい連なっていた。
それは騒然とした風景だった。
クルマにかかれた所属を見ると淡路や岡山、東大阪などから駆けつけて来たようだ。
高速はクルマは多いが渋滞も無い。
大宰府ICを降り、先ずは家電量販店に行きテレビと携帯用のラジオを買った。
そしてスーパーに寄り、カップ麺や缶詰などを買い込んだ。
クルマはそのままアパートの立体駐車場に入れ、なんとか部屋に戻った。
眠くてしょうがない
・・・

まさか熊本

2016-04-17 22:55:11 | 日記ふう
ブログを書いてやっと一日が終わった。
4月14日の夜9時半前の事だった。
妻が先に風呂に入りゆっくりしようとテレビをつけようかとした時だった。
ヒューヒューとケータイからかテレビからか緊急地震地震警報が鳴った。
数秒してゆっくりと、そしてだんだんと激しい揺れが起こった。
マンションの8階の揺れはまるでゆりかごに揺らされるような揺れだった。
それからテレビをつけるとNHKのニュース9をやっていた。
しばらくして地震の情報が出て、熊本が震源であること、そしてかなり強い地震である事を知った。



あわててケータイを取り息子と嫁に連絡を入れた。
しかし連絡は取れず、ジローさん妹や叔父などに連絡を入れるがすべてダメだった。
その後もかなり強い揺れが断続的に続き、テレビでは急遽地震に関する番組に切り替わっていた。
<マグネチュード7>とか<かなり強い地震>とかの表示に切り替わる。
画面には赤い枠で<緊急地震速報>の文字が次々に出る。
そのたびに強い揺れが続いた。
一時間くらいして嫁から連絡が入った。
どうも誰に連絡してもつながらず、私のケータイだけが繋がったようだった。
電話口では家の中のモノが散らばっている様子や、話している途中にも揺れが来ているようで
<怖いです!>といった悲鳴のような声が聞こえる。
しばらくして通話は切れたが心配で再びの連絡を待った。
こちらからも連絡を入れるがどこも繋がらなかった。
1時間ほどして再び嫁から連絡があったが何とか無事でいるようでとりあえずその日は夜明け前までそんな状態が続いた。
朝方再び連絡があり、少しは落ち着いていたようだったので、そのまま会社に出て様子を見ることにした。
定刻で会社を終わり、再び連絡を入れると余震が続いているようだが心配ないというので暗い中動くのはまずいと思いそのまま福岡にとどまった。
前日、ほとんど寝てなかったのでその日は夜の9時過ぎに布団に入った。
気がついたのはケータイの緊急地震速報だった。
しばらくすると前日とは比較にならないほどの揺れが来た。
これはまずい、と瞬間的に思った。
テレビをつけると再び熊本が震源だった。
マグネチュード7.3というとんでもない地震だ。
嫁から泣きそうな声で連絡が入った。
<もう家はダメです。今、近くの公園にいて周りはガスの臭いが立ちこめています。団地の人が次々と出てきてます>といった悲鳴に近い声だった。
夜明けを待って福岡のアパートを出て熊本に向かった。



熊本への帰り道でもクルマのテレビでは緊急地震速報が鳴りっぱなし、そのたびにクルマは揺れる。
・・・
疲れたので今日はここまで

2週間

2016-04-14 21:15:13 | 日記ふう
博多に来て2週間が過ぎようとしている。
生活の方もすっかり安定してきて一定のリズムが出てきた。
朝は8時少し前にアパートを出る。
ちょうど近くに小学校があるようで、子供達の登校と重なる。
会社は博多駅のすぐそばなのでアパートからは早足だと10分程度で着く。
事務所はビルの5階だが最近ではエレベータを使わず階段を登るようにしている。
事務所には8時ちょっと過ぎに着く。
こんなに早く出社する必要は無いのだが、慣れるまではこの方が都合は良いようだ。

事務所ではほとんどディスクワークが主になる。
仕事の引き継ぎもそこそこに、前任者からからのおみやげは社内に張られたネットワークの問題だった。
ネットワークというより、端末の数台が非常に遅いという問題だった。
ネットワークはドメインが組んであり、ちゃんとしたクラサバになっている。
ウイルスソフトもしっかりと入っていているのだが端末(Windows7)が非常に遅い。
この一週間その対応に追われてしまった。
予備の端末でインストールからやり直し、そのときそのときでチェックを入れ監視する。
ネットワークに入るなりCPUの負荷が100%近くまで跳ね上がり張り付いてしまう現象だ。
これではいくらプログラムを起動してもまともには動かない。
ネットで現状を調べながらやっと解決策が見つかり対応した。

昼食は今は宅配の弁当を頼んでいる。
ビルの中にはちょっとした軽食、うどん屋、コンビニなどがあるのだが昼になるとどこも人でいっぱいになる。
コンビニもレジの前には長蛇の列が出来るし、うどん屋も行列が出来る。
うまく席に着けたのは良いのだが、夫婦2人でやっているらしく注文してから出てくるまで長く待たされてしまう。
それで弁当となる。
昼食をとり近くの公園に向かう。
通勤をしていた頃、新幹線の中から見ていた公園だ。
大規模な水害対策にこの公園の地下には巨大な水槽が埋め込まれている。
新幹線から眺めていた頃、大規模な工事をしていたところだ。
天気の良い日はここで一休みして、午後からの仕事に向かうわけだ。
今のところ、そんな感じで日々は進んでいる。

新しい生活

2016-04-11 20:30:14 | 日記ふう
朝9時半過ぎに一回目の荷物が軽トラで着いた。
事前に嫁から連絡が入っていたが上熊本からなのですぐ近くだった。
軽トラのロープを解き荷物を家に運び込む。
息子達がいよいよ我が家にやってくる。
嫁は
「荷物はそんなに無いですよ」
と言っていたが結局、軽トラで3回分の荷物が到着した。



庭に荷物を運び込み、あとは本人達が来ないことにはどうしようも無い。
庭から2階の部屋に運び込み、あとは本人達が家具を並べていった。



その間にホームセンターにカーテンやカーペットを買い出しに行く。
昼前にはだいたいの配置も終わり、嫁のご両親も手伝いに来られ、みんなで昼食をいただく。
料理も先方のお母さんの手料理でとても美味しくいただいた。
午後からは細々した整理に入ったようで、私はパソコンのネットワークの設定やテレビの設定などを手伝った。
無線ランも2階まで十分に届くようで、場合によっては中継器が必要かなと思っていたがそれも必要なかった。
午後も4時を過ぎ、あとは息子夫婦に任せ、ネズミの町に帰ることにした。
嫁も心配そうな顔をして見送ってくれたが、しばらく落ち着くまでは大変だと思う。
そんな心配そうな顔を励まして家を出た。
夕暮れがくれていく九州道を福岡に向かう。
何とも不思議な感覚だ。
こうして引っ越しの第二弾が終了した。
これで今回の我が家の大変化も一段落、そして新しい生活が同時に始まったワケだ。

我が家が一番

2016-04-10 07:02:07 | 日記ふう
何とか最初の一週間を無難にやり過ごした。
そんな感じだ。
朝は8過ぎにアパートを出て帰りは6時ちょっと過ぎに帰宅する。
ビルの谷間をチョロチョロと出勤しエレベータで5階に上がり仕事が始まる。
帰りもビルの谷間をチョロチョロと歩き、エレベータで8階まであがる。
「まるでネズミのような生活だね」
と妻に言うと苦笑いするが、妻にとっては台所の狭さ以外はすこぶる快適なようだ。
一週間が過ぎ、週末には早めに帰宅し早速自宅の打越を目指した。
美野島から百年橋通りを横切り、きよみ通りから日赤通りに出て筑紫野インターを目指す。
福岡市内の地理も少しは覚えて来たがまだまだナビに頼っている。
週末の夕方ともあり渋滞を心配したがあっさりと抜け九州道に乗る。
8時過ぎには植木インターを降り、途中で夕食を取り10日ぶりの自宅だった。
家の鍵を開けリビングに入ると
「広いね!」
狭い我が家も久しぶりに帰ってくるとそんな感想が漏れてしまう。
妻は早速熱帯魚の水槽を確認する。
赤ドジョウのドジとグッピー、そして先日生まれたばかりのグッピーの赤ちゃんを確認する。
長男の嫁が3日置きにえさを与えてくれていたようでみんな元気にしていた。
郵便物がテーブルの上に置いてあり確認をする。
10日ぶりの自宅に生活環境の違いをこうも実感するのだった。



翌日、庭に出てみるとしだれ桜が主人のいない間に花を咲かせていた。



花壇には野菜に芝桜が鮮やかなピンク色の花を咲かせていた。



ハナミズキも枯れ葉だった葉っぱがすっかり生え替わり生き生きとしていた。
それにしても芝生の中には雑草が生い茂っている。
一日かけて芝の雑草を取り除いた。
庭木の周りの雑草はバーナーで焼いて取り除いた。
昼からは妻と温泉に向かいゆっくりとした過ごした。
やっぱり自宅が一番良い。
誰でもそうだろうな・・・。

変化

2016-04-06 21:11:59 | 日記ふう
企業風土というのか、その会社ならではの雰囲気がある。
今までもいろいろな会社に出向き、それぞれの会社に入り込み仕事をしてきたが、やはり外部からの目でしかなかった。
まあ、1ヶ月くらいはその環境に慣れるまでは苦労する事は覚悟していたがやはり大変だ。

アパートを出るとすぐ公園があり、満開だった桜もすでに散りだしている。
会社までは歩いて15分くらいで着く。
毎日、朝早くから通勤していた頃とくらべると雲泥の差はある。
午後も定刻で仕事を切り上げ、仕事自体も楽なモノだ。
歓迎会などすでに2回ほどあり、飲めない体でもノンアルコールビールなどでつき合っている。



断片的な事柄ばかりになってしまい、いまいち内容がつかめないと思うので整理してみる。
今年に入り息子夫婦と話をしていたら、嫁が同居しても良いという話になった。
それが1月の中旬くらいだったろうか、それから妻と同居のために使っていない2階の部屋の整理に入った。
そんな中、これまで一緒に仕事をしてきた先輩から声がかかった。
定年で退職するので後任として来ないか、と言うお誘いだった。
仕事の内容としてはこれまではシステムを構築して納めるという立場から、納められる立場に変わるというだけでほとんど変わらない。
最初は勤務地が福岡という事もあったし、ここ一年ほとんど仕事から離れていた事もあり断るつもりでいた。
しかし良く考えて見れば、ここ数年ごろりと私たち夫婦の環境は変わってきた。
2年前までは親父やお袋の介護の事で熊本の地を離れられず、おまけに福岡までの通勤を強いられた訳だ。
そして去年は長期入院などもあり、仕事復帰など考えもつかない状況だった。
この一年、体も復調して来てそろそろ仕事を探そうかとしていた時だったのだ。
おまけに長男夫婦と同居という話もあるし、いきなり同居もしんどいだろうと妻とも話をした。
妻としては、福岡に住む娘の事も気になるようで、その話があったとき一番に乗ったのだ。
まあ長くても5年、出来れば1年か2年くらいなら何とかなるかも知れないと判断したわけだ。
失業手当も入院中ということで就職活動は免除だったし、ほとんど就職活動はしていなかった。
そんな中、面接も割とすんなりと行き、条件もすこぶる良いというわけでは無いが、何とか暮らせる程度は出た。
アパート探しも苦労はしたが、娘の住むアパートと同じマンションに決まった(棟は違うが行き来出来る)。
この判断が良かったのか悪かったのかはわからないが、そういう訳で今回の展開になっている。
なにものにも縛られないパラダイスのような一瞬の時間とおさらばしたわけなのだ。
覚悟はしていたが冒頭のような状況になっている。
早く環境に慣れる、それが今一番やらなければならない事なのだ。

川歩き

2016-04-03 18:19:42 | てくてく
環境の変化に精神的に落ち着かない日々を過ごしている。
気晴らしにアパートを出て那珂川に出てみた。
橋のたもとから川沿いに降りる階段がある。
降りてみると散歩によさそうな道が川沿いにある。
散歩する人、ジョギングをする人、川べりに座り込んで川面を眺める人達がいた。
その川沿いに上流を目指して歩いてみた。



川岸に専用の椅子を設け釣りをする人がいる。
その様子を見ていると、フナ釣りのようで、細い浮きを浮かべ、置き竿にしてアタリを待っているようだ。
何人もの釣り人が朝早くから釣りに勤しんでいる。



川沿いには満開になった桜が咲き、いかにも春の風景といった感じだ。
2kmくらい歩いただろうか、その先は河川工事のため行き止まりになっていた。
そこで階段を上がり一般に道に出た。
周りを見渡すと巨大なマンションが立ち並ぶ場所だった。
駅が見え、どうも竹下駅のようだ。
踏切を渡り、那珂小学校の方面に歩いてみた。
ここはその昔ユーザがあったところで、熊本からわざわざサポートで出向いた場所で懐かしい所なのだ。
客先に出向き、昼食をとっていた食堂、博多駅までのバスに乗るためのバス停などなんとも懐かしい。
那珂小学校の裏から再び川沿いに細い道があったので博多駅方面に向かって歩く。



なんとも汚い川だけど、鯉や亀が住んでいた。
鯉にいたっては一体何匹いるのだろう、<うようよ>といった言葉が自然に出てくる。
そして小型の魚が群れを作って泳いでいる。
川面で飛び上がる魚もいて、たぶんボラではないのだろうか。



そんな様子を見ながら歩いていくと桜につつまれた公園に出た。
山王公園(?)だろうか、満開の桜に花見にはちょうどいい日だ。
そばをあくるオジさんに、川の名前を聞いてみた。
<御笠川>と、ちょっと戸惑いながら教えてくれた。
牛頸川(うしくびがわ)との表示もあるが、どこかで御笠川と合流したのだろう。



川沿いにはマンションが立ち並び、その中を縫うように流れている。
橋のたもとに来ると比恵の町名が目に入る。
ここまで来ると状況が分かった。
博多駅からこの橋を渡り通勤していた道なのだ。
毎日見ていた川の風景だから懐かしい。
ケータイの歩数計を見るとすでに一万歩を超えていた。
博多駅を通り抜けアパートに戻った頃はちょうど昼食時だった。
やっと家具屋からテーブルと椅子が届いており、そのテーブルで初めての食事となった。

桜満開

2016-04-02 22:53:16 | 桜前線
引っ越しの後かたづけも一段落し、少しは落ち着いてきた。
朝からアパートを出て天神方面に歩き出す。
美野島商店街を抜け那珂川を渡ると清川という隣町に出る。
川沿いには所々満開の桜の花が見える。
その那珂川のちょっと上流の清水大橋あたりには桜並木があり、満開の花が咲いている。
クルマで何回か通った時、チラリとその風景を見ていた。
しかし引っ越しのあとのあわただしい中での事だったので見とれている暇は無かった。
天神まで来ると人の行き来が激しくなってくる。
まだ商店街も開店前だが、開店の準備で忙しそうにしていた。
そんな天神の街を横切って細い路地を歩いていくと、電信柱の住所表示に赤坂の文字が出てきた。
住宅街の中を歩いていると赤坂小学校の校門の前に出た。



校門の上にも満開になった桜が綺麗に咲いていた。
それから道沿いをてくてく歩くと舞鶴公園の南入口の看板が見えた。
細い道を小高い丘を登るように歩いていくと、その昔、平和台野球場があったところだと思われる場所に出た。
野球場の姿は消え、広大な平地になっていた。
その横から福岡城があった天守閣への入り口になっていた。



城跡を思わせる石垣に満開の桜が続いている。



石段を登っていくと広場があり、すでに場所取りのブルーシートがたくさん敷いてあった。
まだ正午前なのにすでに花見を始めているグループのあり、多くの人で賑わっていた。



結婚の前撮りのカップルがいたり、外国人のグループも結構いる。
地元テレビ局もそんな花見の取材をしていた。
歩き疲れ、お城の広場のベンチに座り休憩、ケータイの歩数計を見ると6000歩だ。
自宅から熊本城までとほぼ同じ歩数だ。
気温も20度を超え、来ていたベストも脱ぎハンカチで汗を拭く。
熊本城も今日あたりが一番の見頃を迎えているのだろうな、などと考えてしまう。
一息入れて大濠公園の方に歩いていく。
歩いていると妻に声がかかる。
見知らぬ街で突然に声をかけたのは妻の友達だったようで、しばし立ち話で盛り上がっていた。
来た道をてくてく歩いてアパートの戻った。
午後からはアパートの部屋で静かな時間を過ごした。