静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

☆ 2015.12.15  ≪ 安保法『皆で考えよう』 チラシ配布で辞任? ≫ 自民の言論テロ     政治に K Y は不要

2015-12-15 09:33:35 | トーク・ネットTalk Net
☆ 安保チラシ配布 社協4理事退任 自民が辞任要求 北海道 http://mainichi.jp/articles/20151215/k00/00m/040/142000c
・ 驚いた! 美瑛町の同協議会が8月配ったチラシは<「皆で考えよう安全保障法案 いま、世界では紛争により尊い命がうばわれています。私たちは争いのない助けあいの
  社会を目ざします」> だそうだ。   ・・・・・全文掲載されていないのが、実に惜しい。
・ 自民党美瑛支部の幹部は9月に「理事が政治的内容の意思決定に関わって問題はないのか」との質問状を社協に提出。社協は「幸せな社会の構築を皆で考えようという
  啓発活動」と回答し、会長らが「心配と混乱を招いた」と謝罪した。
・ 同支部はさらに10月、「(社協の)社会的存続をも危ぶまれる大失態を招いた今回の一連の騒動」と表現し、社協の理事3人の辞任と、会長の厳重注意を求める
  要望書を社協に届けた。その後、理事4人が退任した。

  これは言葉による恫喝/脅迫である。賛成反対どちらにも触れず「皆で考えよう」と呼びかけることが何故「政治的内容の意思決定に関わる」ことに言い換えられるのか? 
だいいち同協議会は元々意思決定に関われる存在ではない。民主主義の基本である議論を呼びかけたに過ぎない。これは、いいくるめ/すり替えを用いた脅迫でしかない。 
何故、社会的存続に言及されねばならないのだ。 3権分立からいえば、行政に携わる者が立法に意見を述べること自体、越権ではなく正当な牽制機能ではないか。

普通、テロ<Terrorism>とは物理的暴力による脅迫行為を指すが、社会福祉協議会の監督官庁でも何でもない政党がこのような質問状を出すこと自体が、既に言葉によるテロなのである。然も、自民党は政権党で、どのような実利的な脅迫/恫喝が同協議会に及ぼし得るのか一般市民には見えないながら、多分、裏で何か<人事もしくは予算で>できるからこそ、言語道断且つ破廉恥な行いができるのだろう。前も何度か触れたが、地方自治体の公共施設での集会などを自治体側からキャンセルし始めた事例が増加中である。なにか今回の美瑛町の誤った介入と似通ってはいないか?? 全国にこういう「空気」が蔓延しつつあるとすれば、とんでもなく怖い国になってゆくだろう。 それで良いわけはない。 
   <K Y=空気を読め>は民主主義の敵である。

何故、会長らが「心配と混乱を招いた」と謝罪してしまうのだ? どういう実際的な妨害や厭がらせがあるのか、判っているからこそ屈服したのだろう。ならば、どうして質問状の内容を町民に公開しない?  こういう謝罪は如何にも日本的であり、これが日本社会の曖昧模糊を助長し言論の自由を萎縮させているのだ。  政治に関することで<波風立てないこと><K Y>は、町民の為に成らず、道徳的にも善ではない。
  美瑛町民の皆さんは、今ごろ公になったことで戸惑っているかもしれないが、こういう横槍が言論の自由を脅かす小さな穴となり、無血テロだとは気づかなかったのだろうか?
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書評053-3 止 『  103歳になってわかったこと  』 篠田桃紅   玄冬社 2015.4 初版

2015-12-15 07:16:29 | 書評
◆ ”い つ 死 ん で も い い ” は 本 当 か [35頁]
   今日で7編の最後になるが、篠田氏の投げかけた反問が私の心にこびりついている。・・・・・篠田氏の言葉の趣旨は、こうである。 
* 「いつ死んでもいい」と口にするのは、やり残したことが未だ自分には有るのでは? という想いから逃げたいからだ。 誰も、もう自分はこの世で無用の存在になったと思いたくはない筈だから。そして「生きている限り、人生は未完成だと思います」という文で篠田氏はこの節を締めている。
 このメッセージは、「人生には完成形が有る筈で、そこに向かう努力を放棄するな」との叱咤・鼓舞である。疲れを知らぬ強靭な精神と、それを支える体力を持ち合わせる数少ない人にしか吐けず、実践できぬ戒めだろう。平均値を遥かに超えて生き続けられる人にして初めて、口にする資格を備えるのだろう。そのどちらも恵まれぬ多くの人々には余りにも美しい言葉であり、眩し過ぎて正対しにくい。
 一神教や阿弥陀信仰が説く「天国」「来世」「西方浄土」は抱かず、此の世を自分の能力/器の範囲で生きてゆけたらいい、と思う人間にも、053-1, 2 で取り上げた人生訓や芸術論は違和感なく腑に落ちる。 然し、この反問は、異世界に居る人でしか到達できない高みなので、肯定も否定もできない。

 然し、篠田氏は、本書の他のエッセイで、例えば<自分の心が ほどほどを決める>[91頁]とも云っている。その最後の文章は「これくらいが自分の人生にはちょうど良かったかもしれないと満足することのできる人が幸せになれるのだろうと思います」となっている。これは古来、色々な先哲が説いてきた言葉とも呼応している。論理的に細かいことをいうなら、「人生はいつまでも未完成だ」と相反する。少なくとも、<いつ死んでもいい>を誰も正面から全否定はできまい、と私はひっかかるのである。

 『やり残したことが有る未完成な人生は不幸であり、美しくない』とは言えない。仮に篠田氏が<美しい生き方><美しい終わり(死に)方>を肯定するなら、<未完成>と<幸せで美しい人生>は両立するのではないか? だから、芸術ならいざ知らず、「人生に完成はないのだから いつ死んでもいい、は嘘」は本当か? と逆に私は反問を返したくなる。  
これは、長寿は未来永劫普遍の「善」か? という問いかけとも通底している。

人生において「ほどほどに」「あるがやうに<明恵上人>」をモットーにすることは敗北か?  そりゃ違うのでは? と私の心は叫んでいる。    ≪ おわり ≫
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