散歩の時に見つけた!

東京都内を散策しますが、こんな所にこんなものがと再発見します。写真を添えて紹介します。

不忍池(上野恩賜公園)

2014-06-30 06:17:22 | 日記
    

弁天堂       

 上野公園の南端にある天然の池です。なんでも昔は東京湾の入江だったそうで、海岸線がだ

んだん沖になり、とりのこされたのがこの池になったといいます。周囲2キロメートル、広さ

110万平方メートル。名前の由来は笹が多く茂っていたことから、篠輪津(しのわず)が転

じて「不忍」となった説。またここで男女が忍び逢っていたからという説があります。弁財天

を祀る弁天島があり、またいろいろな石碑があります。

     魚塚

        ふぐ供養碑

 これは東京魚商協同組合の「魚塚」です。碑文なは「四海を海に囲まれた我が国では、古来

から海の幸として、また国民のたんぱく源として食生活の上に重要な役割を果たしています。

私ども水産業者は、水揚げされた水産資源に感謝して慎んで魚の霊を悼み、組合創立50周年

を機に供養のために塚を建立します」と刻んであります。またこれとは別に「ふぐ供養碑」も

あります。最近はこの池にカミツキガメ、ワニガメなどに注意などと看板があるそうですが、

何時の世にも、飼っていたペット?を棄てるケシカラン奴がいるものですね。

「ういろう」小田原名菓

2014-06-29 06:15:02 | 日記
      

 小田原土産の「ういろう」です。薬のういろうもありますが、これはお菓子です。このお菓

子は米粉、餅粉、砂糖等で造られますが、砂糖は元禄時代白砂糖が使用されるようになるまで

は、あめ、みつ、黒砂糖が使用されていたようです。  

 「ういろう」とは、もともと外郎家(ういろうけ)の姓なんです。約600年前外郎家二代

目外郎宗奇が、自らつくって客の接待に供したのがはじまりで、外郎氏の菓子というところか

ら「ういろう」と呼ぶようになったのです。もともと筑前博多から京都に招かれて朝廷に仕え

ていましたが、五代目藤右衛門が北条早雲に招かれて小田原に来て、ういろうをつくって客を

接待したといいます。これを売って商売にするのは江戸時代にはいってからといいます。

生命の言葉(東京都神社庁)

2014-06-28 14:38:22 | 日記
      

今月の生命の言葉は「おもしろき こともなき世を おもしろく 高杉晋作」とあります。

 解説によりますと、この句に、福岡の野村望東尼(のむらもとに)が続けて「すみなすもの

は 心なりけり」と加えたとされます。この世をおもしろいと感じるか、おもしろくないと感

じるかは、心の持ち方次第であるという意味ということです。なるほど。  

 高杉晋作 1839~1867年。江戸時代後期の長州藩士。幕末に長州藩の尊王攘夷の志

士として活躍。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に傾けたと解説されています。

相州小田原城(2)

2014-06-27 06:16:01 | 日記
     相模湾の眺望

       銅門

 天守閣からの眺めは相模湾が一望できる素晴らしさです。小田原漁港も賑わっていて、蒲鉾

の製産も多く土産品としては「ういろう」と蒲鉾が人気を二分しているようですよ。お城の正

面入口は東側にあって、入ると馬曲輪を経て二の丸に通じるのが銅門(あかがねもん)です。

 二の丸正面で、渡櫓門、内仕切門と土塀で周囲を囲む桝形門の構造を持ちます。ここにはそ

の名の由来となった銅板の装飾が映えます。平成9年に復現されました。  

    

 城内には歴史見聞館があります。北条五代ゾーン、江戸時代ゾーンなどがあって、それぞれ

の時代にタイムスリップしたような感覚で、小田原城や北条氏の歴史を音と映像で楽しむこと

が出来ます。一度訪ねてみたいですね。(写真・ミスター麹町)

相州小田原城

2014-06-26 06:06:00 | 日記
     アジサイが花盛り

        天守閣

 神出鬼没さんが今度は小田原城に現れましたね。この時期の小田原城はアジサイ祭りとかで

綺麗なアジサイとお城の天守閣がよいアングルですね。私達「古い人間」にとっては、豊臣秀

吉の小田原攻めが頭に残ります。説明によると、15世紀中頃に大森氏が築いた山城だったそ

うです。その後戦国大名北条氏の居城となってから、関東支配の拠点として次第に拡張され、

豊臣秀吉の小田原攻めに備えるために築城された、城下町を囲む延長9㎞に及ぶ総構えの出現

により城の規模は最大に達したといいます。  

        小田原市指定の天然記念物

 北条氏滅亡の後、徳川家康の家臣大久保氏が城主となり、寛永年間に稲葉氏が城主になるな

どしましたが、元禄16年に発生した地震により、天守閣をはじめ場内の施設はほぼ倒壊焼失

しています。その後再建され幕末に至ります。明治3年小田原城は廃城となり、次々に解体さ

れて城址は地元自治体に払下げられました。昭和35年に鉄筋コンクリートで復興され、3重

4階の天守に付櫓、渡櫓等を付しています。内部には、甲冑・刀剣・絵図・古文書など、小田

原の歴史を伝える武家文化にかかわる資料が展示されています。(写真・ミスター麹町)