この著作の中では、陽性症状のあまりない、
治療者と話し合えるが、過度に内省的な症例が取り上げられるが、
その様な患者さんは、土居健郎や小林隆児の取り上げるような、
「甘えられない」「甘えられなかった」生育歴で、
とにかく周囲から叩かれないようにしよう、将来のため試験で点をとって
少しでもいい学校に行こう、生きて行くために収入を得るため働こう、など
自分で何かを考えたり、選んだりする余裕がない状態できた
人たちなのではないだろうか?
自分で考える余裕さえなかったので、「運命共感的態度」な湯沢千尋氏
の前に来ると、「当たり前のことがわからない」などの、
普段から解らないことを、話す余裕が出来るのではないのだろうか?
このような「甘えられなかった」人たちにとっては、世界は
強制収容所のような物ではないだろうか?
治療者としての対処で望ましいのは、余裕を持たせる、
休む環境を設定する、甘えさせる、などだろうが、
「甘える」という言葉自体、日本語以外では「受身的対象愛」などの
表現になるので、海外の文献をみても、参考になる物は
少ないのではないだろうか?
映画「頭文字D」に出てくる主人公の父親のように、子供のころ悪かったが
その後は自営業(地方の町の豆腐屋さん)としてそれなりにやっていける、
というような余裕が社会から失われるのと並行して、
この著作に出てくるような、発達障害のような症例は増えて行っているのだろう。
畑中千紘氏の言う、社会が受け手とて機能しなくなってきたという
ところだろう。
心理臨床や精神医学が、受け手となるか、治療技術の切り売りをして
主体を無くしていくか、というのが、これからの大きな課題だろう。
治療者と話し合えるが、過度に内省的な症例が取り上げられるが、
その様な患者さんは、土居健郎や小林隆児の取り上げるような、
「甘えられない」「甘えられなかった」生育歴で、
とにかく周囲から叩かれないようにしよう、将来のため試験で点をとって
少しでもいい学校に行こう、生きて行くために収入を得るため働こう、など
自分で何かを考えたり、選んだりする余裕がない状態できた
人たちなのではないだろうか?
自分で考える余裕さえなかったので、「運命共感的態度」な湯沢千尋氏
の前に来ると、「当たり前のことがわからない」などの、
普段から解らないことを、話す余裕が出来るのではないのだろうか?
このような「甘えられなかった」人たちにとっては、世界は
強制収容所のような物ではないだろうか?
治療者としての対処で望ましいのは、余裕を持たせる、
休む環境を設定する、甘えさせる、などだろうが、
「甘える」という言葉自体、日本語以外では「受身的対象愛」などの
表現になるので、海外の文献をみても、参考になる物は
少ないのではないだろうか?
映画「頭文字D」に出てくる主人公の父親のように、子供のころ悪かったが
その後は自営業(地方の町の豆腐屋さん)としてそれなりにやっていける、
というような余裕が社会から失われるのと並行して、
この著作に出てくるような、発達障害のような症例は増えて行っているのだろう。
畑中千紘氏の言う、社会が受け手とて機能しなくなってきたという
ところだろう。
心理臨床や精神医学が、受け手となるか、治療技術の切り売りをして
主体を無くしていくか、というのが、これからの大きな課題だろう。
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