中区中島町の平和記念公園国際会議場南西側に建立されています。
正田篠枝さんの歌が刻まれています。
太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり
二度と起してはならぬ惨禍と、1971(昭和46)年8月6日、原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑建設委員会によって建立されています。
(裕編集の)原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑
広島ぶらり散歩「平和記念公園」編
正田篠枝さんの歌が刻まれています。
太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり
二度と起してはならぬ惨禍と、1971(昭和46)年8月6日、原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑建設委員会によって建立されています。
(裕編集の)原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑
広島ぶらり散歩「平和記念公園」編
1月18日(安芸区のわが家付近)天候 :はれ
国民学校では女学校での代用教員が多かったようです。悲しい思いを胸に秘められていたことでしょうねー。
私の先生もまだ生存していますが、息子さんが北電に勤めていていまは苦労しています。内の親父もその関係でしたが、戦争で統廃合され鉱山技師として晩年をさびしく送りました。戦争の悲劇は嫌ですねー。
国民学校。まさに日本が国を挙げて
戦争に向かっていた頃の呼称ですね。
今でも信じられない時代。それは
実体験が無く、話と写真からしか
想像できないせいです。
刻まれた碑の内容。実にいたましいものです。
さて、今朝のこちらは少し氷点下を
下回りまして、寒い朝です。
まだまだ暖房にお金のかかる季節が
続きます(苦笑)。
男が最前線に・・・女性が銃後を守るということだったのでしょうね。
建物疎開作業中の多数の学生・生徒や市民・周辺町村の住民などが動員されており野外作業であったことから原爆により多くの犠牲者をだすことになったそうです。
米軍は、より多くの人たちを殺傷するために、
休日明けの月曜日、仕事にかかる(かかっている)8時ころに原爆の投下を計画し、8月6日月曜日の8時15分に実行したのではと(わたしは)思っています。
戦争の悲劇を受けた日本ではあったのでしょうが、
周辺諸国の人たちには悲劇を与えたということは忘れてはならないことでしょうね・・・・
小学生も国民の一員として、「陸海軍、朝野、上下みな心を一にして、陛下の御教えのままに大政を翼賛しらねばならない」と教えられた時代が70年前まであったようですね。
多様性が云われるこんにち、意見の多様性も必要なことを思います。
『こうであらねば』となんでもありと推し進めようとしている現在の内閣の施策の危なっかしさを思ってしまいます。
今年は特に雪も多いようですね。
暖地であるはずのわが家でさえ灯油代がかかると女房が云っています。
円安ですが、原油が値下がりしていることが救いになっているのかもしれませんね。