広島市安芸津町大田にお堂を建て安置されている「太田首なし地蔵」です。
※豊田郡安芸津町時代に町の重要文化財に指定され、東広島市への編入で東広島市の重要文化財に指定されています。
『文治元(1185)年壇ノ浦の戦いで敗れた藤原景清(平景清)は、源平の戦いで死亡した一族の霊を弔うため大田宇井坂(生坂ともいう)地蔵堂を建立しました。この地蔵は当時の武士の風習として武運の占いのために、景清が石地蔵を試し切りにしたところ、」一刀のもとに首を切り落としたと言い伝えられ、首がないところから首なし地蔵とも言われています。・・・・』
平景清(たいらのかげきよ:?-1196)は、
実在したとはいえ 生涯に謎の多い人物であるため、いわゆる平家の落人として扱われる事は少ないが、各地に様々な伝説が残されているそうで、
ウィキをみるとここで取り上げた安芸国大田村などの伝承の記述はありません(ので)。
(裕編集の)大田首なし地蔵
------------11:30追記
玄関のサツキ、5月12日二輪の開花で寂しく紹介しましたが、汚名返上になりますか?
少しばかり咲き出しましたので。
※豊田郡安芸津町時代に町の重要文化財に指定され、東広島市への編入で東広島市の重要文化財に指定されています。
『文治元(1185)年壇ノ浦の戦いで敗れた藤原景清(平景清)は、源平の戦いで死亡した一族の霊を弔うため大田宇井坂(生坂ともいう)地蔵堂を建立しました。この地蔵は当時の武士の風習として武運の占いのために、景清が石地蔵を試し切りにしたところ、」一刀のもとに首を切り落としたと言い伝えられ、首がないところから首なし地蔵とも言われています。・・・・』
平景清(たいらのかげきよ:?-1196)は、
実在したとはいえ 生涯に謎の多い人物であるため、いわゆる平家の落人として扱われる事は少ないが、各地に様々な伝説が残されているそうで、
ウィキをみるとここで取り上げた安芸国大田村などの伝承の記述はありません(ので)。
(裕編集の)大田首なし地蔵
------------11:30追記
玄関のサツキ、5月12日二輪の開花で寂しく紹介しましたが、汚名返上になりますか?
少しばかり咲き出しましたので。
5月21日(安芸区のわが家付近)天候:はれ
22.1℃、53%
次々と花を咲かせてくれますね。
ここ数日の晴天で花の水遣りが大変でしょう。
明日も晴れのようですから
こちらは海藻が乾いて有り難いです。
いまの時期は、夕方前に水を撒くのですが、サツキはきょうの温かさからでしょう紹介画像よりももう少し華やかになっていました。
出来れば、チャチャとやれるといいのですが、できなくなっています。
梅雨になる前に鉢物たちがわたしの横着さを警戒していますので、
きょうも、大きくならないように剪定して雑草を抜き鉢土を掘り返して苦土石灰を混ぜ、骨粉入り油粕をやりましたが、まだまだ半分にもいっていません。
>海藻が乾いて有り難いです。
何処くらいの天日が必要かはわたしには分かりませんが、
来週は梅雨入り?のようですので間に合うといいですね。
源平の合戦のころという話の時期が古い。
こうしたものがあるあたりがさすが安芸
の国です。こちらでお地蔵さんにそんな
1000年近く前のものなんてあるかなぁ。
とにもかくにも身近にはないです。
宮島には、
平家が壇ノ浦の戦いで源氏に敗れたとき、三種の神器とともに孫の安徳天皇を抱いて海に身を投じたとされています。
二位の尼の屍は、宮島の有浦に流れついたとされています。
どういう伝承もありますので、まんざら嘘とは云いきれないとわたしは思っています。