最近、我が家の家電のひとつが調子悪く、いつ頃購入したのだったかと、メモ帳・手帳、日記の類を読み返していたのですが、そんな中、気になるメモ書き(日付は'18. 4/22)がありました。
以前FBのお友達(Fさん)の投稿記事で、調所笑左衛門廣郷の孫娘(次男の娘)・八重さんが、「町田久成の弟・申四郎の妻」であるという(Zさんの)コメントを書き留めていたのを目にして、改めてちゃんと頭に入れておこうと思ったわけです。
ここで、町田久成の兄弟について確認です。
薩摩藩英国留学生として、町田久成の弟たちが参加しています。
【 町田久長の息子たち4兄弟は以下の通り】
当時の本名と渡英時の変名・帰国後の事も少し記してみます
(当時の年齢共に門田 明『若き薩摩の群像 サツマ・スチューデントの生涯』p.8~9参照)
(帰国後の事については、野田幸敬編『島津家臣団系図集』等参考)
長男・町田民部‥‥‥‥‥‥‥‥‥久成(ひさすみ)‥‥‥‥上野良太郎 28歳(開成所掛大目付学頭)
→ 博物館創設を提唱、明治15年3月オープンの帝国博物館初代館長、その後明治22年出家等ありますが、諸々は『関 秀夫著『博物館の誕生 ー 町田久成と東京帝室博物館 ー』(☆翌4月5日追記あり)』に。
二男・町田実積(さねつみ)‥‥‥大助・猛彦・萬‥‥‥(候補となるも渡英せず)
→ 三崎平太左衛門久謐を嗣ぎ改 三崎平太左衛門久志 室、大野多宮久甫 女
西南の役に出陣、延岡にて脱退、改 町田萬実積 石谷住 子孫不詳
☆三崎平太左衛門久謐も実は「町田監物久要三男」で実積の叔父、「室 伊集院亘久道 叔母」とあります。
三男・町田実種(さねたね)‥‥‥申四郎・右近・棟‥‥塩田権之丞 19歳
→ 明治に入り小松清廉を嗣ぎ小松右近清緝、後復家町田棟
(実種の息子・慶蔵は昭和39年、兄・久成の長男・秀麿より町田家を継承)
四男・町田実行(さねゆき)‥‥‥清蔵(清次郎?)‥‥‥…清水兼次郎 15歳
(鹿児島市の観光パンフには↑清次郎との表記も)
→ 帰国後財部氏養子(宮崎に居住)
※ 実種(申四郎)、実行(清蔵) 共に渡英の翌年(1866年)帰国。「帰国後の消息不明」と言われてきましたが、その後は以上のような事でした。実積(猛彦)さんが三崎を継いだというのはあくまでも『島津家家臣団系図集』によるもので、確認は取れていません。
そんな中で、「三男・実種=申四郎」さんの妻についての話です。
これまた『島津家家臣団系図集』で「諏訪氏本家(甚六家)一所持」を見ていた時に、「諏訪甚六=廣兼」の子・矩兼の室が「島津登久馨の娘・ヒサ」とあったり、娘が「町田棟 室」と書かれているのを見つけたのです!
「あれ?」と、ここでタイトルの「町田申四郎の妻」の話になるのですが、
親である「諏訪廣兼」の所をもう一度見てみたら、「室 伊集院隼衛久達 女」とあります。
もしかしたら、こちらが調所笑左衛門廣郷に繋がるのかな?と思ったり‥‥。
続きはまた改めて見てみる事にして、
今日はこれにて