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☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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② 吉貴公後の夫人の墓、その1:月桂院殿

2022-07-05 17:49:05 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 

 前回の『吉貴公の祖父・島津綱久墓など』に続き、

カテゴリー「福昌寺跡島津家墓地」として過去に撮った画像で綴ってみます。

 

墓所の案内図にあるように、第21代・島津吉貴公の後の夫人の墓が2基あることがわかります。

その1基は吉貴公の墓の左隣にあります。

トップ画像中央の1基で、隣り合って立っているのは重豪公の後の夫人の墓です。

 

☆ここからは2008年2月29日に撮った写真をいくつか並べてみます。

継豊公墓所を背にすると、吉貴公の墓の前の通路があります。(福昌寺墓所 案内図) 

 

 第21代・島津吉貴公の墓(2008年2月29日撮影 )

 

吉貴公の墓に向かって左隣に、2基並んでいますが↓

右が「吉貴公後の夫人・月桂院殿(名越右膳恒渡の妹、お須磨)」の墓。亀趺碑(きふひ)があります。

2基のうち左は「重豪公後の夫人・慈光院殿(市田喜内貞行の女子、お登世)」の墓です。

さらに画像左に写っているのは、案内図によると「吉貴女子」の墓ですね。

 

☆追記:2022.7/6(15:21)あとになって見つけた画像、こちらの写真にも左端の「吉貴女子」の墓が写っていました(2017年6月4日撮影)

 

 慈光院殿(左)と月桂院殿の墓石が並ぶ墓所。亀趺碑も見えます。右には5年前の父がちょこっと写っています(笑)

 

 

亀趺碑越しに吉貴さまのお墓を写しました。(2008.2.29)

 

 吉貴公墓所の前の通路

 

 通路の向こう、階段を降りた奥には斉興公とお由羅様(真了院殿)の墓所があります。

  

 

 こちらは2017年6月4日撮影した島津吉貴公の墓です。2008年当時よりも綺麗になっています。

玉龍高校の生徒さん方が墓所のお掃除をされると確か聞きましたが、

お手入れしてくださったのかな?と思います。ありがたいことです

左隣↓に2基、月桂院殿(吉貴後夫人)と慈光院殿(重豪後夫人)の墓も見えます。

 

 

さてさて、吉貴公後の夫人・月桂院殿です。

前に『月桂院とは2017-05-19 カテゴリー: 名越左源太と家族 として書きましたので、ご一読いただけると嬉しいです。

画像を並べてみます。ここからは主に5年前、2017年6月4日撮影のものです。

 

残念なことに、墓石のおもて面は剝落、というか削られた?と思えるほどの損傷。

劣化・風化もあるかもしれません。

  

後ろには特に何も無いように見えました。

 

側面です。ハッキリとはわかりませんが、「桂(?)光珠姫命」と読める、かな?

 

斜め前から。かなり劣化も見られますが‥‥

 

2008年の画像↓とそう変わりはないようです。

 

亀趺碑の画像もいくつか。

 

表には梵字と「奉唱滿愛染明王咒一百万遍成就所」とあります。

(残念ながら知識なく、意味はわかりません…)

 

裏を見てみます。

 

 ←亀さんの尻尾〜

 

 

「太守継豊公御實母爲御武運長久 御‥‥」、上部がよく読めないので、2008年の画像も並べてみます。

 

上の続き、「御子孫繁栄國家安全◯民豊楽‥云々」と読めますね。

「享保萬年第十乙巳八月吉祥日」とあります。

 

調べたら1725年が「享保十年 乙巳」でした。

吉貴公が亡くなったのは延享四年(1747年)十月十日、齢七十三。

‥‥ということは、月桂院殿は吉貴公より22年も早く亡くなったのでしょうか?!

継豊様が生まれたのは元禄十四年(1701年)十二月 二十二日(江戸高輪藩邸に出生)

お須磨さま、おいくつだったのでしょうね‥‥(これって正しい解釈?)

 

(↑2008年2月29日撮影↓)背面から。中央が月桂院殿、右が慈光院殿。

 

 慈光院殿(重豪後夫人)の側面。こちらは5年前の2017年6月4日にも撮っていました。

「改號 慈心明慧姫命」と読めます。

 

 慈光院殿の墓、おもて面です。「慈光院殿佛心慧證大姉」とあります。

こちらは月桂院殿の墓と比べるとずいぶん鮮明に文字も読める状態。

吉貴公が第21代、重豪公は第25代、それぞれの室ですから年代が違うのでそれもそうかもしれませんね。

ただ!残念なことに、こんな綺麗な状態なのに、背面を見ると‥‥

落書きが刻まれていました〜 残念ですね。。(2017年6月4日撮影)

 

 

以上、吉貴公後の夫人の墓2基のうちの1基、月桂院殿の墓の画像と、

隣接する重豪公後の夫人・慈光院殿の墓、でした。

「ご覧いただきありがとうございました

 


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