☆ ブログ記事のアップの順番、久光公の墓所紹介で後先になってしまいましたが、
『島津家歴代御当主の墓(3)ー忠昌』(2022-07-11) に続き、
福昌寺跡の島津家歴代御当主の墓の続きです
奥の石塀に沿って、左から「12代・忠治」「13代・忠隆」「14代・勝久」の墓
・左奥台座の墓が「12代・忠治」の墓、右が「13代・忠隆」の墓
・島津忠治(十二大守護職)… 忠昌長男。母は大友豊前守政親の女子。天真夫人。
延徳元年(1489年)一月二十七日、出生。
永正五年(1508年)、父・忠昌の自刃により、若くして守護職を継ぐ。
※この頃領内には一向一揆が続発し、忠治はその鎮定のため身を安んずる暇も無いほどだった。
然るに、忠治は永正十二年(1515年)薩州吉田の吉田位清(のりきよ)を攻略中、八月二十五日、鹿児島に急逝した。歳27。
・島津忠隆(十三代守護職)… 忠昌二男。母は大友豊前守政親の女子。天真夫人。
明応六年(1497年)八月十四日、出生。永正十二年、兄・忠治の早逝により若くして守護職を継いだ。
翌十三年(1516年)備中蓮島の三宅国秀が琉球を襲わんと坊津へ来航したので、忠隆はこれを討って島津氏の琉球貿易の権益を守った。忠隆は薩州吉田に吉田位清を討つなど領内の平定を進めたが、領内には依然として不穏な情勢が続いていた。
永正十六年(1519年)四月十四日、歿す。歳23。
そして「14代・勝久」の墓
・島津勝久(十四大守護職)… 忠昌三男。母は大友豊前守政親の女子。天真夫人。
文亀三年(1503年)八月十八月、出生。勝久ははじめ頴娃氏を継いだが、永正十六年(1519年)兄・忠隆が早逝したので、勝久は若くして守護職を継がねばならなかった。
この頃、伊集院尾張守が隅州曽於郡(そのこおり)に、或いは新納忠武が志布志に叛するなど、領内はなお騒然としていたので、勝久はその鎮定に奔走せねばならなかった。
(中略)
天正元年(1573年)十月十五日、豊後瓜生島の沖之浜に歿す。歳71。
※ 以上、『島津歴代略記』を参考にしました。
「豊後で亡くなった勝久の墓がここにあるのは、どういうこと?遺骨は?招魂墓?」と思ったのですが、詳しいことはわかりません。
『ー 略記』を初めてじっくり読んだ時、忠昌公の子供、勝久ら兄弟のことを知ったばかりの頃は、苦労続きのこの親子、特に勝久公にはずいぶん思い入れを持ったものでした
今でも「当時は大変だったのだろうな」と思いますが、時代の流れとして、また島津氏以外のことも知ることで特別な思い入れは薄れていきましたけど(笑)
まだまだ不勉強ですが、郷土全体の歴史を捉えるのって、なかなか一筋縄ではいかないものだなぁ、という思いです。
その後、墓所へは行けていないので、またゆっくり時間をとって回ってみたいですね。
次はどこにしようかな〜
それでは、また。