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「久遠の今」について(その3 流れているところの現象時間の中では吾々は生活をしていない)

2019-01-30 10:29:59 | 日記
「無時間の時間を久遠の今とか、絶対時間とか過去、現在、未来を超えた時間とか、永遠の今とか云うのであります」
と雅春先生は、
“実相”についてご説明下さっていますが、
なおこのことのご説明は、
まだまだ続きます。
(参考 神癒への道 谷口雅春 日本教文社)
【「本当の時間」と云うものは、常識的な過去・現在・未来を超えたところにあるのであります。即ちそれは「無」又は「無時間」とも云うべき世界で吾々は御飯を食べるのであります。御飯を食べるだけじゃないのでありまして、何をするにしても吾々は“どこで”何時しているかというと、過去とか現在とか未来とか云って、流れているところの現象時間の中では吾々は生活をしていないのであります。その過去・現在・未来のどの時間に御飯を食べようと思ってもどうしても食べられないのですから、吾々は結局現象的流れの時間を超えて、そして過去、現在、未来を超えた時間―即ち無時間時間―で吾々は食べなければならないのであります。これは御飯を食べるときの問題だけではないのでありまして吾々のいのちは何時も時間のない時間―無時間―の世界に生活しているのであります。此の無時間の時間を久遠の今とか、絶対時間とか過去、現在、未来を超えた時間とか、永遠の今とか云うのであります。此の絶対時間は吾々の「生命の本質」そのものであります。】

神想観のポイント・・・「無なる“神の子”を観ぜよ」

2019-01-30 09:51:57 | 日記
“神の子”も“実相”も
別次元の世界に存在している不滅の不可視の存在ですので
無なる“神の子”、無なる“実相”を観じる必要があるのですが、
その要領をつかむことが大事です。
でもこう考えるとよいのです。
例えば神想観で「生命円満完全」と観じる時、
生命は見えないでしょう。
しかし現象の自分及び環境の本体は“いのち”ですから、
「生命円満完全」と念ずる時には、
“無”なる“生命”の円満完全を観ずるしか
ないと思われます。
“生命”は見えないからです。
これと全く同様に
「神の子円満完全」「実相円満完全」という言葉を観ずる時には、
「“無なる”神の子円満完全」「“無なる”実相円満完全」を、
別に“無なる”という言葉を使わずとも、
その気持ちで観ずることが必要です。
これは大事なポイントでありまして、
神想観は「有の世界」を観ずるのでなく
「無なる実相」の円満完全を観ずるのであるからです。

「久遠の今」について(その2 肉眼を超えて存在するものが本当の人間)

2019-01-29 09:57:18 | 日記
私たちが「実相」とか「神の子」とか「神の理念」とかと
呼んでいるもの、
さらに『甘露の法雨』には
「神の心」と書かれているもの、
つまり第一創造の『人間なるもの』
これは無時間・無空間の世界に存在しているのです。
つまり私たちの本体は
この無時間・無空間の世界に
たった今も存在しているのです。
(参考 神癒への道 谷口雅春 日本教文社)
【イエス・キリストは『我は神の子である。永遠に死なないものである』こう云う意味を仰っております。そしてそれは単にイエス一人に限られているのではなく『われ行きて汝らに来(きた)るなり』と仰って、我々に宿るキリスト―即ち吾々の本当の生命も「神の子」であって永遠に死なないものであると云うことを示し給うたのであります。又『吾は真理なり、道なり、生命なり』というようなことを仰いましたし、又『吾はいのちの泉である。吾に汲むものは死すとも死せず』とも仰いました。ところが、普通の人は人間というものは自分を肉体だと思っておりまして、肉体がなくなったら人間はいなくなる、斯ういうように考えているのでありますけれども、イエスの教えに依りますと、(それは生長の家の教でもありますが)本当の人間というものは、目に見えないのが本当の人間である。肉眼を超えて存在するものが本当の人間だというのであります。】