“神の子”も“実相”も
別次元の世界に存在している不滅の不可視の存在ですので
無なる“神の子”、無なる“実相”を観じる必要があるのですが、
その要領をつかむことが大事です。
でもこう考えるとよいのです。
例えば神想観で「生命円満完全」と観じる時、
生命は見えないでしょう。
しかし現象の自分及び環境の本体は“いのち”ですから、
「生命円満完全」と念ずる時には、
“無”なる“生命”の円満完全を観ずるしか
ないと思われます。
“生命”は見えないからです。
これと全く同様に
「神の子円満完全」「実相円満完全」という言葉を観ずる時には、
「“無なる”神の子円満完全」「“無なる”実相円満完全」を、
別に“無なる”という言葉を使わずとも、
その気持ちで観ずることが必要です。
これは大事なポイントでありまして、
神想観は「有の世界」を観ずるのでなく
「無なる実相」の円満完全を観ずるのであるからです。
別次元の世界に存在している不滅の不可視の存在ですので
無なる“神の子”、無なる“実相”を観じる必要があるのですが、
その要領をつかむことが大事です。
でもこう考えるとよいのです。
例えば神想観で「生命円満完全」と観じる時、
生命は見えないでしょう。
しかし現象の自分及び環境の本体は“いのち”ですから、
「生命円満完全」と念ずる時には、
“無”なる“生命”の円満完全を観ずるしか
ないと思われます。
“生命”は見えないからです。
これと全く同様に
「神の子円満完全」「実相円満完全」という言葉を観ずる時には、
「“無なる”神の子円満完全」「“無なる”実相円満完全」を、
別に“無なる”という言葉を使わずとも、
その気持ちで観ずることが必要です。
これは大事なポイントでありまして、
神想観は「有の世界」を観ずるのでなく
「無なる実相」の円満完全を観ずるのであるからです。
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