創造の神が創り給うた実相世界は、
完全世界である。
何しろ神の国であるからだ。
我等人間は“神の子”であるから
実相においては全て
「神の国」を与えられ済みである。
ただ与えられずみの恩徳を
いただく方法が分らないだけだ。
その方法とは
いただき済みであるという本当のことを知ればよいので、
それが真理を知るということである。
いただき済みであっても、
そのことを知らないと、
受け取りようがない。
「いただき済み」と知ったならば、
感謝で「神の子」「神の国」の完全を受けるだけである。
それが神想観で
「神の子円満完全」と念じる言葉だ。
ここでは「神」そのものだけを観じる必要がある。
神相観というのは、
神を観じる祈りである。
神想観をやらないと
残念ながら神の国は顕われないです。
「神」を観じることで「神」が顕われるのである。
(神と偕に生きる真理365章)
<既にある完全の世界の扉を叩くこと>
【神想観中に観ぜられる実在の世界は、すべては一つの神の示現であり、従って「一切の生物処(ところ)を得て争う者なき大調和の世界」である。すべてが一つの神の示現であり、肉体人間なる不完全者が工夫巧者によって。やっと築き上げた如き自力の世界ではないのである。すべてが神の示現の世界であるから、それは他力の世界であり、絶対慈悲の世界であり、ただ恩寵によって完全に生かされている世界である。随(したが)って、人間的なはからいによって、「この善」「この幸福」を求めることは不要である。ただ神の恩寵を感謝によって「叩けば」よい世界である。まことにも「叩けよ、さらば開かれん」とはよく言われたものである。「先ず神の国と神の義(ただしき)とを求めよ、その余のものは汝らに加えらるべし」とはよく言われたものである。】
人間は“神の子”だからすでに善きものは一切与えられているのである
それは人間が“神”であるからなのだ。
人間の本体は見えない“神”なのです。
「人間我」が「神我」に置き変わるために
神相観があるのです。
「神の国」が出現するのはその時です。
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