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E・Uに対する対応はいずれ修正されるだろう

2016-06-26 23:59:16 | 日記
今回の英国国民投票が示したのは
あの拮抗状態における解答は
国としては
「確信はもてないんだが
E・Uは離脱したほうが、
英国は幸せになれるような気がする」
といった程度だ。
でも結果、方向は離脱へと向いてしまった。
しかしイギリス国民一人一人の潜在意識に刻まれたことは、
ほとんど半分の国民が
この問題に関して、
自分とは反対の意見を持ち、
しかも決して納得合意にいたってはいない、
という重い事実だ。
この不合意の意識は
英国人の心に
トゲの状態で残るだろう。
この大変なトゲは
くるしくてしょうがないから、
英国人はトゲ抜き(相互理解)にかかるにちがいない。
幸い、二つの政党が
イデオロギーの違いで動きが取れないといった
政党間の争いなどではなく、
E・Uへの対応のあり方一本であるのだから、
私は英国は
いずれハッキリした一本の線を
国民同士の納得によって
出してくるのではないかと
思うのである。
多分E・Uを離脱することの
著しい不利にも気づくだろう。
復帰の方向に意見が戻ることだってある。
なしではやっていけないと
わかる日も来るかも知れない。

現象も肉体も「神の言」(ロゴス)の振動である

2016-06-26 22:37:49 | 日記
この現象世界は
ロゴス(神の言)の振動である。
私自身も神の子であるから
神の言の振動です。
そのことを
分り易く書いてあるのは
次の文章です。

(参考 ヨハネ伝講義 谷口雅春著 日本教文社)
第一講より
【「言は神である」というその言葉というのは、生命のバイブレーション(振動)であります。
「太初(はじめ)に言あり」というのは、一切のものは波動が最始源のものであるということであります。「いやしくも、波動のあるところに神がある」というのが、「言は神と偕(とも)にあり」という事であります。「偕にある」というのは「別のもの」が並列してあるのかと思うと、そうではない。「言は神なりき」であって言は神とは同じものだということであります。この「言」というのは英語ではゴド(God)と濁っておりますが、神様のことであります。言葉が神様である。一切のものは言葉によって造られているのであります。「言葉は神様である」というのは、吾々は古代から神様のことを「命」と言います。美は美称(ほめことば)であります。神様とはミコトバ様だというのであります。漢字に当てはめても「ミコト」という字は命令の「命」が書いてある。】

この一切がロゴスであるという真理(キリスト)を食する(信じてしまう)ならば、実相が現れる、と新約ヨハネ伝は説いているのであります。

山の下(解説含む)

2016-06-26 20:34:49 | 日記
<マタイによる福音書第17章>
(17・14―21)山の下
(14)さて彼らが群衆のところに帰ると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて、ひざまずいて、言った、
(15)「主よ、わたしの子をあわれんでください。てんかんで苦しんでおります。何度も何度も火の中や水の中に倒れるのです。
(16)それで、その子をお弟子さんたちのところに連れてきましたが、なおしていただけませんでした」。
(17)イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢できようか。その子をここに、わたしのところに連れてきなさい。
(18)イエスがおしかりになると、悪霊はその子から出ていった。そして子はその時いやされた。
(19)それから、弟子たちがひそかにイエスのもとにきて言った、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。
(20)するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。
(21)〔しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない〕」。

(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
・高山の上でイエスの姿が変わっていたと同じ時刻に、山の下で弟子たちは、てんかんの子供の親からいやしを求められ、困っていた。ちょうどそこへおりて来られたイエスは、弟子たちと群衆の中にただよう不信仰の空気にふれて嘆息された。
・15 《主よ》イエスに対する信仰告白的な意味でなく、「先生」というくらいの意味である。《てんかん》はユダヤに多い地方病の一つであった。悪霊のしわざであると考えられていた(18節)。
・16 弟子たちは無能であったから、イエスの来ることを切望していた。マルコによる福音書では父親はイエスに「できますれば」(9・22)と言い、弟子たちの失敗で、イエスの能力を疑っている。
・17 《不信仰な、曲った時代であろう》弟子の無能力、父親の疑い、群衆の冷淡、どちらをこの場の局面を打開する明るい希望は見いだせない。その時《その子をここに、わたしのところに連れてきなさい》とイエスは言われた。この言葉の中に最後の、しかも最初の希望が展開する。
・18 《おしかりになる》病の根源と考えられていた悪霊に対して、19、20節は、信仰は病のいやしによって欠くことのできない人間の条件であることを教えられた。信仰の力のみが山を移すとは限らないが、原子力や機械力は人間の問題を解決する最後の力と権利をもっていない。《からし種》13・31参照。
・21 この節は元の本文にはなかったが、マルコから取り入れたものであろう(9・29)。マルコは祈りだけしか記してないが、マタイは「断食」を加えた。山を移す信仰は、常に上より受け取らなければならないのである。

「離脱・残留」の弁証法

2016-06-26 19:40:41 | 日記
二人に一人よりちょっと多くて、
イギリスはE・Uを離脱することになった。
英国人のみんなの希望で
離脱の方向に決まったのでなく、
約半数が残留を希望しているままで
離脱が決まってしまったのであった。
このことはまた国民投票で
復帰派が過半数をとれば
復帰が実現することにもなる。
だがとにかく
残留と離脱の正反対の考え(潜在意識)を
英国が抱えているという根本問題を
英国自身で解決しなければならないわけであり、
残留派が
自分たちの意見をおしこめて離脱にしたがうなんてことは
絶対にあり得ないのである。
英国は「残留か離脱か」という問題を
こういう方法なら良いから従おうと
心で納得できるまで、
長く考え続けていくことになろう。
離脱に納得できない約半分の残留派国民を
離脱派が納得させるという難事業が残っているが
弁証法的にいえば、
その過程で
さらに良い方向が
生まれてくるのだと思われる。