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洗わない手

2016-06-08 22:09:31 | 日記

(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<マタイによる福音書第15章>
(15・1―20)洗わない手
(1) ときに、パリサイ人と律法学者たちとが、エルサレムからイエスのもとにきて言った、
(2) 「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません」。
(3) イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。
(4) 神は言われた、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。
(5) それだのに、あなたがたは『だれでも父または母にむかって、あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です、と言えば、
(6) 父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている。
(7) 偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている。
(8) 『この民は、口さきではわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている。
(9) 人間のいましめを教として教え、
無意味にわたしを拝んでいる』」。
(10)それからイエスは群衆を呼び寄せて言われた、「聞いて悟るがよい。
(11)口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。
(12)そのとき、弟子たちが近寄ってきてイエスに言った、「パリサイ人たちが御言を聞いてつまづいたことを、ご存じですか」。
(13)イエスは答えて言われた、「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られるであろう。
(14)彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」。
(15)ペテロが答えて言った、「その譬を説明してください」。
(16)イエスは言われた、「あなたがたも、まだわからないのか。
(17)口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。
(18)しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚(けが)すのである。
(19)というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から、出てくるのであって、
(20)これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」。

(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
・清めの問題についてもイエスは新しい考えをもっておられパリサイ人の誤った考えを正された。
・1 ユダヤの偉い人たちが、エルサレムの権威ある筋から、イエスの言行を査察するためにやってきた。
・2 食事の前に手を洗うことは敬虔なユダヤ人の習慣であり、《昔の人々の言い伝え》の命ずるところである。「言い伝え」は、パリサイ人の口伝であって、モーセの律法と同様の権威が認められていた。食事の前に手を洗うことも言い伝えできびしく命じられていた習慣であった。
・3以下6節まではイエスの答えである。パリサイ人は言い伝えにとらわれ、そのため言い伝えのよって来る神の律法を破っていることを指摘された。
・4 出20・12、21・17の引用。
・5,6 このイエスの引用句は、父母を扶養する義務は、神に供え物をすることによって解除されるという口伝をたてに、当時の人々が父母に対する責任をまぬがれようとした非を指摘されたものである。この言い伝えは、神を第一とし、父母を第二とするという表面上は信仰的であり、りっぱに見えるものであった。《自分たちの言い伝えによって、神の言を無にしている》神への義務が、人間への義務を解除するかのようにみえるのは、神の戒めが、人間の戒律に変えられている結果である。このような言い伝えは、父母への義務をつくさない人間の口実にすぎない。したがって、神の言を無にしていることになる。
・7~9 イザ29・13より引用。10、11節は、ユダヤ人の清い食物と汚れた食物の戒めについて、イエスはご自身の考えを述べられている。《口にはいるもの》食物についての規定はレビ11章参照。《人を汚すことはない》たとえ洗わない手で食べる食物でも、汚れは物との関係から生じない。《口から出るもの》15・19参照。汚れは神との関係がきれるところから生じる。12・14節までは、イエスの言葉がパリサイ人をつまづかせたことを知って心配していた弟子たちに、《天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られる》(13節)と言い、心配しないようにと言われた。この言葉の意味は、パリサイ人が抜き取られるともとれ、また彼らが重んじている言い伝えが抜き取られるとも解することができる。《盲人を手引きする盲人》パウロは自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を謗る人々を盲人の手引きと呼んでいる。15以下20節までは11節の言葉の説明である。弟子たちはおりいって説明を聞かないとイエスの譬を理解することができなかった。いつもペテロがイエスとの対話者になった。《外に出て行く》(17節)からだから排泄されて便所にはいる。
・19 人間から出る《悪い思い》すなわち、悪徳が七つ例示されている。この序は十誡の順序にならっている。

私の神想観についての次の段階

2016-06-08 09:20:58 | 日記
私の
神想観についての次の段階は、
多分、
自己が霊身であることの
自覚であろう。
その日は遠くないと
私は感じている。


(参考 真理第十巻実相篇 谷口雅春著 日本教文社)
<自己を霊的自覚に高め上げること>
神想観によって、「物質的自己」の意識から「霊的自己」の意識にまで、あなたの自覚を高められよ。「霊なる不滅の自己」を心の眼をもって諦視(みつめ)られよ。その修業を毎日たゆみなく繰返すうちに、次第に、肉眼では自分自身が「肉体」のように見えてはいるが、実は肉体ではなく、「霊身」であるという意識にまで高まって来るのである。先ず、普遍的霊として、宇宙に満つる神を想念し、その「神の霊」自分に流れ入って、「自己の霊身」となることを想念し、その霊身が光明燦然として輝いている荘厳無限なる姿として瞑視せよ。やがて、「神の霊」と「自分自身」とが一体であると自覚されるときが来るのである。そして、神そのままに完全であり、神その、ままに健康であり、神そのままに調和している自己を再発見するのです。所謂「新たに生まれたる人」となるのです。(「神想観」に関しては『生命の実相』第四巻巻行篇。携帯版では第8巻参照)