イエス・キリストは
現象世界で日常の出来事に苦しむ弟子達に
「信」のなさについて
「汝信仰の薄き者よ」と嘆いておられる。
そして「み名を信ぜよ」と
説いて回った。
「み名」とは「神の言葉」つまりロゴスのことだ。
「神の言葉」世界は
実相世界のことである。
「万物は神のコトバ」なのが実相だ。
この事実を素直に信じ切れれば
実相が顕われるはずだ。
この実相を実相の悟りによって
パッとわかったと言う人を
何度も聞いたことがある。
でも私にはそういう体験はまだない。
でもそういう体験がないからといって、
実相がわかってない、悟ってないというのも、
少し違う気がする。
人間も、この世界もロゴスであるとはっきりわかり、
だから円満完全であることを自覚するように
だんだんになってきたならば、
そのような自覚の仕方でも
いいわけである。
頭でわかっただけでなく、
生活にその真理が生きてくるならば、
悟りが生活に生きているのだから、
それでよいのだと思う。
さらに真理を生活に生かしたいと
思うものである。
現象世界で日常の出来事に苦しむ弟子達に
「信」のなさについて
「汝信仰の薄き者よ」と嘆いておられる。
そして「み名を信ぜよ」と
説いて回った。
「み名」とは「神の言葉」つまりロゴスのことだ。
「神の言葉」世界は
実相世界のことである。
「万物は神のコトバ」なのが実相だ。
この事実を素直に信じ切れれば
実相が顕われるはずだ。
この実相を実相の悟りによって
パッとわかったと言う人を
何度も聞いたことがある。
でも私にはそういう体験はまだない。
でもそういう体験がないからといって、
実相がわかってない、悟ってないというのも、
少し違う気がする。
人間も、この世界もロゴスであるとはっきりわかり、
だから円満完全であることを自覚するように
だんだんになってきたならば、
そのような自覚の仕方でも
いいわけである。
頭でわかっただけでなく、
生活にその真理が生きてくるならば、
悟りが生活に生きているのだから、
それでよいのだと思う。
さらに真理を生活に生かしたいと
思うものである。