gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

海の上を歩かれる

2016-06-06 23:20:59 | 日記
(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<マタイによる福音書第14章>
(14・22―36)海の上を歩かれる
(22)それからすぐ、イエスは群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった。
(23)そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
(24)ところが舟は、もうすでに陸から数丁も離れており、逆風が吹いていたために、波に悩まされていた。
(25)イエスは夜明けの4時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。
(26)弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり、叫び声をあげた。
(27)しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。
(28)するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。
(29)イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところに行った。
(30)しかし風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。
(31)イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。
(32)ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった。
(33)舟の中にいた者たちはイエスを拝して、「ほんとうに、あなたは神の子です」と言った。
(34)それから、彼らは海を渡ってゲネサレの地についた。
(35)するとその土地の人々はイエスと知って、その附近全体に人をつかわし、イエスのところに病人をみな連れてこさせた。
(36)そして彼らにイエスの上着のふさにでもさわらせてやっていただきたいとお願いした。そしてさわった者は皆いやされた。

(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
・パンの奇跡を見た群衆は、イエスを自分たちの王にしようと考えた。そのことをすばやく感知されたためであろう、人をさけてイエスは山に退かれた。祈るためである。山でひとり祈るイエスと、海上で嵐に悩まされている弟子たちが対照的に記されている。イエスは海の上を歩いて弟子たちのところへ近づかれた。
・22 《しいて弟子たちと》イエスを王にしようと考える群衆の野心に、弟子たちが巻き込まれることを恐れたためであるかもしれない。《向こう岸》ベツサイダの地。
・23 イエスは群衆の中にはいることを喜ばれたが、また群衆から出て新しい力を得るためにひとり祈ることも喜ばれた。
・24 この記事は本書が書かれたと推測される紀元60年代のキリスト教会の状況を反映するものであると思われる。すでに初代の弟子たちは死んでしまい、教会は嵐の中にただよう小舟のような有様であった。しかしこの記事は、イエスが信ずる者のところへ、助け主として必ず来られることを教え励ましている。
・25 海の上を歩いて、道を作ることは、旧約聖書によると神の能力の表徴である。《夜明けの4時ごろ》夜明け前。夜を、「夕方」「夜中」「にわとりの鳴くころ」「明け方」の4つに分けることはローマ的な時の分け方である。
・26 夜明けの薄明に、海の上を歩いて近づくイエスを見て幽霊だと思い、恐怖のあまり声を出したのは、暗黒の中でもイエスをそれと知るほど、弟子たちはまだイエスとの生活に慣れていなかったことを示す。
・27《わたしである》イエスのメシヤとしての権威はイエスが示すしるしの中にあるのでなくて、イエス自身にあるのである。28~31節は、前節のイエスの海上歩行のことに関連をもったイエスとペテロの記事である。ペテロは主の声に従って波を踏んでイエスに近づこうとしたが、彼の信仰の動揺から、おぼれかかり、イエスに助けられたというこの物語は、キリスト者の信仰生活の典型として信徒の間に語り伝えられていたものであろう。《主よ、あなたでしたか》(28節)は前節のイエスの言葉、「わたしである」に強く反響している。ペテロは奇跡を行おうとしたのでなく、イエスのもとに行こうとしたのである。
・29 ペテロの直情径行。
・30 主より目をはなしたとき、風波を見、波の上にある自分が恐ろしくなった。
・31 《信仰の薄い者よ》。水におぼれかけたからではなく、イエスを見ないで、風を見て恐れたからである。
・32 イエスがともにおられるということが平安である。34~36節はゲネサレの世に無事に上陸したのち、集って来た病人をいやされた記事である。《上着のふさにでも》(36節)9・20参照。